今日は、「危機の家庭の為の教会の役目」という題を持ってメッセージを分かち合いたいと思います。
5月は家庭の月です。 私は5月には必ず
家庭だけのためにメッセージをするように、私は心で決めています。 なぜなら家庭ほど世の中で大事なところはないからです。
今日は5月の最後の週ですけど、本当に物足りないような気がします。
今まで私たちは、傷の5つの手どころを持って、その傷を癒さなければ家庭の幸せはできないんだということを皆さんに申し上げています。
この傷の手どころ5つは、
胎児の時の傷、成長期の傷、
父からの傷、 性的な傷、
また家計に流れる呪いなんですけど、今日はこの中で性的な傷について一緒に考えていきたいと思います。
いつも申し上げることですけど、家庭は一人の個人に対して一番幸せになるべきところなんですけど、
事実、この上の5つの傷は全て家庭から受けています。 一番幸せになるべき家庭が一番傷を与えるところになっているなら、
どうなるでしょう。 ですから家庭の幸せ、家庭の癒しが本当に大事です。
性的なこと、今日は恥ずかしいんですけど、この部分を一緒に考えていきたいと思います。
人間の性というところは非常に敏感なところです。 性をうまく使えば祝福ですけど、
それを間違えて使えばこれから災いがきます。 大事なのは性というものは
結婚関係の中で、 結婚という関係性の中だけで許されることです。
これは皆さんご存知でしょう。 世の中で武器、
重機類は誤って使うなら大変になるから、 武器の使用に対しては厳しい規制があります。
ところが性的な部分は、誤って使うならこれは重機類以上に大きな問題を起こすんですけど、
これはプライバシーということで、みんな黙っています。 恥ずかしいということで、その性の使い方も教えてくれません。
ですから、隠された状態で悪魔がどれほどたくさんの問題を呼び起こすのか、
個人と家庭、社会がダメになります。 それによってダメになることがたくさんあります。
皆さん、教会も性的な問題が発生されたら、 その教会は扉を閉めなければなりません。
私たちの教会も同じですよ。 性的な問題があったとしたら、教会は扉を閉めるんです。
これを使いません。 だから大きな問題があります。
一つの例として、 ダビデが神様から一番愛された王様でした。
ダビデはいつからダメになったんですか? ダビデが不幸に始まった理由は、
バトスセバという女との事件がありました。 ダビデが性っていうことを誤って使ったことでした。
それによってダビデの人生は衰退期に入ります。 ダビデのことによってウリアという人の家庭がダメになり、
自分自身と自分の子孫たちに大きな不幸の働きを残した、 本当に気の毒な事件でした。
皆さん、性というものは ダビデの王国を破壊するほどのパワーがあります。
特に今は最後の時と言いますけど、 最後の時の特徴についてルカの17章では、
最後はノアの時と同じであり、 ロッドの時と同じだと言います。
ノアの時の人々は欲を満たすために、自分勝手に過ごすことで、
不倫、離婚、家庭がダメになりました。 だからその時は本当に神様が滅ぼしてしまった。
ロッドが過ごしていたソドムというところは、 その欲が同性愛として発展されて、
父と母の概念が間違えた。 これは本当にダメな世界でした。
神様が一番大切に思っておられるのは、 神様が世界を動かすこの中で一番核となるところは家庭です。
家庭が誠意の誤った使い方によってダメになること、 これは神様は決して許されません。
ところがアダムが罪を犯して、またカインが罪を犯して、 この罪は拡張性があるんですよ。
アダムが一つ罪を犯したら、カインは人を殺します。 カインの子孫たちはもう想像できないほどの罪を犯して、
全世界が神なしの世界になってしまいます。
神様はこの不信仰の世界の中でイエス・キリストを贈ってくださり、 この全ての人が犯した罪を十字架で血を流して背負ってくださり、
そして罪を清くした信仰の人たちが、これから正しい家庭を取り戻すように 願いながら我慢して待っておられるところです。
イエス様は来られて2000年が経ったんですけど、相変わらず 信じているという家庭さえも、この家庭の中が神の国になっていない。
この状態が本当に本当に悔しい状態です。
私が大学生の時に、ある宣教団体から信仰の訓練を受けました。
その団体がアメリカに宣教師を派遣しました。 アメリカの大学に行って、アメリカの若者たちに
青少年勉強会を起こしたら、その若者たちの悩みがありました。
それが何かと言いますと、ブロックンファミリー。
父母がダメになっている、家庭が今破壊されている家庭がたくさんあった。
父母が不倫、離婚、再婚、それによって子どもたちが非常に悩んでいる。
皆さん、アメリカではね、私はよくわかりませんけど、父親のガールフレンド。
女の友達。父親の女の友達がいたらいいんですか。これダメでしょ。
母親のボーイフランド。これが許される世界だ。
はじめに宣教師たちが言って、ブロックンファミリーという話だけでも頭が痛いのに、
父親の女のガールフレンドがいて、お母さんの中以外に母親のボーイフランドがいるということは、
文化の衝撃で理解ができなかったということ。どう助けるべきかわからなかった。
しかし今は皆さんどんな文化のショックがあるんですか。
今の世界の中では、私の娘の配偶者が男性じゃなくて女性。
私の息子の配偶者が男性。
これはめちゃくちゃ理解できない世界が今広がっています。
事実ノアの時代はゴーズインによって滅ぼされ、ソドモの時代はイオウの炎によって滅ぼされたんですけど。
今の私たちの世界は神様のこの裁き、審判があるんですか。
今はありません。なぜないんでしょう。
旧約聖書と違い、新約聖書は恵みの時代と言います。
イエス様がこの世に来られたのは、救うために来られて、裁くために来られてではないんです。
いつから裁きが始まるのか。イエス様が再臨なさったら裁きが始まる。
イエス様が再臨なせるまでは恵みの時代です。
ですからどんな悪いこと、どんな罪があるんだとしても、恵みの中で悔い改めて戻ってくることを神様は待っておられる。
待っておられる時期が今です。これが恵みの時期です。
この恵みの時期に私たちがうまくやらなければなりません。
それは恵みが消えたとしたら、裁きが始まったとしたらチャンスはありません。
そのことを今日少し申し上げたいんですけど、今日読んでくださったヨワネ8章1節から12節は、
戒の現場で捕まえた女ということです。
ヨワネ8章の始めはこのように始まります。
イエス様は夜通し、油山に行かれて祈っておられ、夜明けに神殿に入られました。
神殿にはイエス様を待っている人たちがたくさんいました。
だからイエス様はもう夜明けからその人々を教えられた。
イエス様は夜通し祈って神殿で教えられる。
そのところで宗教主導者たちは夜通し、
戒の現場で捕まえた女を連れてきて、それでイエス様のところに連れてきた。
皆さん、イスラエルは立法の国です。
戒の罪を犯したら死刑です。
また今日の聖書10節の新教導訳で見ますと、イエス様はその女に夫人をと言います。
夫人ということは家庭を持っており、家庭主婦でしょう。
どうして家庭主婦、家庭を持っている主婦が戒の罪を犯したんでしょう。
またその人たちをよく教えるべき宗教主導者たちは、教えることではなく、
イエス様を訴える功績を得るために戒音をしている人を探している夜通し、
そこに運悪くこの女が捕まえたんです。
その女をイエス様のところに連れてきたら、世の中の人々はもう怒ります。
その女は一生死で殺せ、殺せと言います。
その人の間に戒音を犯した女が人の間に引き連れて来られています。
その女の羞恥心、恐怖感、それが罪を犯した人の苦しみでしょう。
彼らはイエス様のところに来てからはこう言います。
先生、この女は貫通をしているところに捕まりました。
こういう女は一生死で打ち殺せと坊主は立法の中で命じています。
ところがあなたはどうお考えになりますかと言います。
結局この質問をするためにこの女を見つけて連れてきたんです。
皆さんもご存知のようにイエス様を殺しましょうと言ったら、
イスラエルは人を殺す権利がない、諸公民地だからローマが持っている。
だから人を殺しましょうと言ったらローマに反することになります。
またこの女は殺してはいけません。愛を持って許しましょうと言ったら今軍書が起こっています。
石打ちで殺そうとしているのでイエス様を殺すんじゃありませんか。
じゃあこのようにしてもあのようにしてもイエス様は非常に困っている状況。
その時イエス様には知恵の賜物と言いましょうかね。
素晴らしい教えを下さるんですけど、7節見ますと、
あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまずこの女に石を投げなさいと言います。
この世の中で罪を犯したことがない人がいますか。
またイエス様はそのすべての人を罪をしているような気がします。
だからみんなが逃げてしまいます。
この時世の中で罪がない唯一のお方、人を裁くことができる唯一のお方であるイエス様はこう言います。
私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならないよと言います。
イエス様は初めからこの人を、この女を罪に定めようとする考えはありませんでした。
イエス様はその婦人と家庭を生かそうと思いました。
人々は避難して殺そうとするんですけど、イエス様はその人を助けてその人を生かそうとするんです。
人々の考えとイエス様の考えはこんなに違います。
私はこの後のことをちょっと考えてみました。
この女はイエス様を許され、世の中でこの女を裁く人がいなくなりました。
だったら彼女はどこに行きますか。家庭に戻るべきでしょう。
この女は家庭に戻ってこれから大丈夫ですか。
この旦那さんはこの女を受け入れてくださったのでしょうか。
また子どもたちはそのお母さんを受け入れてくださるのでしょうか。
もし私たちはこの世に罪を犯した人が教会に来るなら、皆さん、教会でその方を許しますか。
皆さん自身はその人と恋をかけながら親しく話ができる、そのような気持ちありますか。
ここで考えるべきことがあります。教会って何でしょう。
教会は聖者の集まりですか、罪人の集まりですか。
教会は罪がない人ばかり来るところですか、罪ある人が来るところですか。
教会は許された罪人たちの集まりです。
教会は罪人が来て悔い改めて、これからはイエス様は御言葉に従って生きることを決心した人たちの集まりです。
教会は聖者たちの集まりではありません。
だから教会は罪人の集まりだから、教会である人ある人、いちいちいち
あなたはこれでダメ、あなたはこれでダメと言おうとしたら、きりがないでしょう。
教会は罪人の集まり、しかし許された罪人の集まりだから、また自分自身も許された罪人だから、
他の人をさばえたり避難したり、そのようなことは教会であってはなりません。
ここで、傷の一つの手どころを考えながら、なぜその婦人は下院の罪を犯してしまったんでしょう。
たぶん子供の時から性的な傷があったんじゃないか、性的な弱さを持っていったんじゃないかと思います。
また下院に流れるその弱さもあったんでしょう。
その弱さが罪に重ねて、彼女は仕方なく罪に引き連れていっている罪の奴隷だったんです。
これから彼女はイエス様にあって、罪を許してもらって新たになったものですから、
これから大事なのは、私たちがイエス様を許したその人を見る目が変わらなきゃいけない。
イエス様を許して大丈夫と言っているのに、私たちは大丈夫じゃないよと言って避難しちゃったら、これが大きな問題になるんですね。
韓国で、昔私はすごく尊敬したチョン・ビョン・ウッ博士という方がいます。
韓国のサミル博士協会という大きな博士協会で働いている博士先生ですけど、その方が性的な問題で
博士協会という社会に大きな波紋を投げかけ、今はもうまた博士として静かに部会されている方ですけど、
その方が昔、貧しい人、問題がある人、精神的な病を持っている人たちをたくさん支えて助けたとする。
ところが、協会が熱心に助けてその状態が良くなっていったら、みんなその協会が出てしまった。
協会がその人、問題がある人をよくよく助けて、そして祈って、いろいろとやったでしょう。
だって状態が良くなったら、その人は協会から出てしまった。なぜでしょう。
その方は、協会の人が自分の昔の過去、昔の不幸だった過去を知っていることを嫌だと。
また、人々は自分の話を裏で、いろいろ後ろで加減口を出すこと、それが嫌だったんです。
だから、その協会で癒してもらったんですけど、その協会に続けているのはできない。
だから、その協会から出てしまった。
しかし、協会の立場から見てますと、一人を助けるために精一杯頑張ったのに助けてあげたら出てしまったといったら、
協会は悔しい思いがあるんじゃありませんか。
いろいろな人を助けるのに、私たちがうまくやらなきゃいけない。
また、人を陰口、裏で何とか悪いことをすることをやめなきゃいけないかということを、いろいろ学びますけど。
ところが驚くのは、イエス様についていたほとんどの人は、その当時、その世の中で問題ある人ばかりでした。
特にマクターラ・マリアという、七つの霊に取り憑かれた女を見ました。
イエス様は彼女を癒してくださったんですけど、その女はイエス様のお墓までついていくんじゃありませんか。
イエス様は彼女をどのように使えたのか、だから最後までイエス様に離れないで、ついていく姉妹になったんでしょう。
私たちはこの部分をよくよく学ばなければなりません。
これからまた、もし人生をやり直しするために教会に来られるなら、私たちはこの昔問題がある人がイエス様によって癒され、
そして教会に来られたとしたら、その教会をどのように助けなきゃいけないのか、それを私たちがよく考えていかなければなりません。
イエス様はこう言われます。中二節です。
私は世の光である。私に従う者は闇の中に歩かず、命の光を持つ。
ここに答えがあります。
これを参考にして、もしこのような問題で苦しんでいる人がいたら、私たちはこのように助けていきたいと思います。
まず、問題を持っている方を私たちは温かく迎えていかなければなりません。
その人に対して影でいろいろな話をしたり、判断したり、罪を定めてはいけません。
私たちも弱いから、いくらでも罪を犯すことを分かって、私には厳しく、また相手に対しては本当に配慮をもって接していかなければなりません。
イエス様を罪に定めないのに、なぜ私たちが非難したり、罪を定めたりしますか。
真とお互いには、そんなことは絶対あってはいけません。
昔々の私たちを考えたら、皆さん、私たちが他の人を責める資格があるんですか。
まず、私たちはお互いに資格はありません。
また、イエス様は許された方ですから、私たちはみんな同じ気持ち、同じ立場を持って、その方たちを受け入れなければなりません。
受け入れてからは、私たちは温かく見守っていかなければなりません。
先生的な家庭として、イエス様の光の中で生きる家庭の幸せの姿を見せてあげなければなりません。
私は世の光である。私に従う者は暗闇の中に歩かず、命の光を持つ。
命の光を持っていることを示して、見せてあげる人は私たちしかありません。
だから、その方たちが教会に来たら、私たちはその方に文句をしないで、
イエス様についていく、光の中に生きている姿をその方に見せてあげることです。
そして、弱さを持っている家庭のために、取りなしの祈りをしてあげることが大事です。
そのようにするなら、弱さを持っていて、罪に引き連れていかれた人も、
いくらでもイエス様の命の光によって、幸せな家庭を取り戻すことができるでしょう。
もし、ある人が、この人の過去はこんな人だった、この人は昔こんな悪いことをしていたよということを言い始めたら、
その人はまた教会から離れてしまうでしょう。
そうしてはいけません。
一人の失われた羊を哀れに思われたイエス様のように、
私たちも一人の命を大切にしていく教会になりたいと思います。
皆さん、世の中には罪がない人はいません。