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2018-04-08 55:36

2018/04/08:ヨハネの福音書講解説教(23)真の自由をくださるイエス・キリスト

2018/04/08 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 8:1~11

00:02
ありがとうございます。一言お祈りします。
恵みを加え、天皇父親の神様、主の恵みを覚えて、誇りから感謝いたします。
今日もこのようにして、私たちが他のところではなく、主の宮に集まり、また、神様への礼と誠をもってささやいていくこの礼拝、
また、私たちがここに生かされていて、ここにいて、礼拝できるこの恵みも、主を誇りから感謝いたします。
神様どうぞ、この朝、この礼拝を通して、あなたの心を私たちに示して下さいますように、主よ従います。
また、その御言葉を通りに歩んでいきますので、どうか、我らを強め、また、神のものとしていよいよ引き上げて、本当に清めて下さいますように、御言葉を実践する者へと作り変えて下さいますように、お願いをいたします。
心と礼の耳を大きく開いて、主よ、神の御言葉をその通りに100%受け入れて、信じて感謝する我らの信徒として下さいますように、
イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
アーメン、感謝します。
久しぶりの、ヨハネの福祉書公開説教に戻ってきました。2月半ばぐらいに22回させていただきましたので、1ヶ月以上になりましたけれども、
今日はヨハネの福祉書第8章になります。神の自由を下さるイエス・キリストという題にして、御言葉による恵みを共にお受けしたいと思います。
普段皆さん聖書を読みになっていると思いますけれども、旧約聖書あるいは新約聖書を読みますと、本当に様々な人物が登場するんじゃないでしょうか。
その人たちと私たちは時代も違いますし、国も違いますし、たくさん違うところがたくさんあると思いますけれども、
でも、また深く考えて、それぞれの様々なストーリーを読んでいくと、あの時代の人々の様子と起きてくる様々な出来事と、
今日の私たちとそんなに違わないし、またあるところはとても似ていると、そういう感じるところがあるのではないでしょうか。
今日のストーリーは、長い間信仰を持っておられる方にはもう既にたくさん聞いておられるストーリーかもしれませんが、
03:00
今日のストーリーの中で、登場するいわゆる四つの部類の人々のことについて共に考えていきたいと思います。
そして、その中で神様が望んでおられる信仰と人生とは何なのか。
そして、私たちが何らかの故で悲しみや苦しみの中にいる時に、イエス様は果たして一体どこにおられるのだろうか。
何をしてくださるのだろうか。ということを時間のある限り一緒に学んでいきたいと思います。
さあ、発祥の一節をご覧ください。イエス様はいつもの通りオリブ山に行かれました。
オリブ山はエルサレムの丘ともう一キロも離れていないすぐ近いところであります。
そこに行かれたイエス様はいつも神にお出会いして祈っておられ、静まる時をお持ちになりました。
そして、そこに過ごされて、朝早くエルサレムの宮に入ってくださった。
いつものようにまた多くの人々がイエス様の話を聞きに集まっていて、そこにイエス様が座って彼らに教えを始められた。
他の聖書を見ると、イエス様が広いエルサレムの宮の神殿の中より広場のような庭の中に座って教えておられたということになります。
ところが、その時でした。ちょうどイエス様が多くの群衆と一緒にいる時でした。
その時に、三節ご覧ください。ちょうどその時に立法学者とパリサイ人が、今度神科学は立法学者、パリサイ人と言ったら一人ずつというふうに思いますけれども、
神戸学聖書とかを見ますと、立法学者たちとパリサイ人たちと複数となっています。だから数名ということであります。
そのたちが、会員の場で捉えられた一人の女を連れてきて、真ん中に置いてからとあります。
なぜかイエス様が多くの人々と一緒にいた。そこに会員の場で、神戸学聖書では会員をしている時にとなっています。
06:06
現場犯になりますね。捉えられて。この女性は引っ張られて、そして多くの人々がいる広場のような庭の真ん中に立たせられました。
まるで立法学者たちとパリサイ人たちは、このような日を待ちに待っていたかのように、そういうことが起きてしまいました。
確かに名前は知りませんが、この一人の女性は殿下への余地はないんですよね。現場で捉えられてしまいましたから。
この神戸学聖書は優しい言葉で訳されていますけれども、神戸学聖書を見たら、会員の場で捉えられた一人の女を引っ張ってきてとあるんですね。
だからですね、はいどうぞ一緒に行きましょう、そんな感じじゃないでしょう。もう犯人扱いされて、まるで動物やカチキクみたいに引っ張られてきたわけなんです。
旧約の礼引きとか神撃を見ますと、この会員の罪で捉えられた人は、男女とも石打ちで殺しなさいというふうに書かれていますから。
本当にね、想像してみると、ひどい扱いをされて、ここに引っ張られてきて、そしてみんなの前でたくさんの人々が見ているうちに、そこに真ん中に立たされてしまいました。
確かにですね、罪を犯してしまいましたけれども、この女の人にとっては一生忘れられない恥を感じていたのではないでしょうか。
いやもうすでに死を経験したかのような日だと思うんですね。
ところがなぜこの女の人は会員の罪を犯したのでしょうか。あるいは会員の場で、なぜ他の人ではなく立法学者、パリサイ人に、なぜちょうど彼らに捉えられたのでしょうか。
その話はまた後で続きたいと思いますけれども、その二つの部類の立法学者たちとパリサイ人たちのことをまず考えていきたいと思います。
皆さんこの光景を一緒に想像してみたいと思いますけれども、さっきも申しましたように、イエス様がいつもようにオリブ山に行かれて、夜通し祈られて、そして朝焼け宮に登ってきたら、
09:11
多くの人々がいつものようにイエス様の話をよく耳を傾いて聞いていたところ。他の日でもなく、そしてイエス様とたった一人の聞く人じゃなくて、多くの群衆があるそこで。
しかもその広場という庭という広いところに、その日に立法学者たちとパリサイ人たちが、この会員の場で、現場で捉えた一人の女を他の場所ではなく、このイエス様の前に、群衆の前に連れてきたのはなぜなんでしょうか。
6節をご覧ください。私は読みますね。彼らはイエスを試して、まずこの言葉です。立法学者たちとパリサイ人たちはイエスを試すためでした。そしてイエスを試して何をするつもりなんでしょうか。それはイエスを告発する理由を得るためでした。
つまり、この女性の罪と恥、そして何よりイエス様を試そうとしているこの事件の裏には、まるでキツネのような狡猾な陰謀が隠されていたということで、よくよく考えてみましょう。
会員の場で、会員をしている時に、その現場で捉えられた。そこがまずちょっと怪しいんです。おかしいんです。皆さん、立法学者たちとパリサイ人は何をする人なんでしょうか。警察じゃないでしょう。人々は会員をするか、浮気をするか、監視するね。監視員ではないんですよ。
彼らは普段、立法学者たちは書記官とも言われて、聖書を原本からそのコピー本を書き写す仕事をする。そしてそれを管理したり保存したり、そういう仕事をする人であって。
パリサイ人たちは旧約の立法を研究して教える、それが彼らのお仕事なんですよ。当然、彼らがいる場所はほとんど街道で一日はそこで仕事をするわけなんですよ。ところがなぜ彼らは会員の場にいたんでしょうか。そこでその女性を捉えてきたんでしょうか。それも怪しいんです。
12:06
そしてもう一点、会員をしたならば、相手の男性もいるはずなんです。でもここには男性は捉えられてきていないんです。さっきも申しましたように、礼引きを見ますと、会員は一人でするわけじゃないですから、相手が必ずいるわけなんですね。男女を一緒に裁かなければならないんです。
ところが男性はいないんです。何かの企みがあるということがわかります。
そのためにおそらくこの女性のこの人がまるで生贄のようにされたのではないでしょうか。
ここに、今日のこのストーリーには三つの罪が書かれていると思います。まず一つは、確かにこの会員の罪を犯してしまった女性のことです。詳しくですね、書かれていないからわかりませんけれども、おそらくこの女性は身分の低い女性だったのかもしれません。
また貧しい人だったのかもしれません。記録によりますと、家様の当時も貧しい女性は政権のために、お金のために賠償をしたという記録が実際にあるわけなんですね。
新聞も身分も低い、お金もない、誰も自分を守ってくれる、かばしてくれる人が周りにもいない。そして会員をしたわけですから、いじれにしても何らかのゆえでこの女性はいわゆる自由奔放だったのかもしれません。
あるいは性的な欲望がとても強かったかもしれません。ところが皆さんどうでしょうか。この女性は運が悪いというのではなくてですね、自分の罪その現場で捉えられてしまいました。そしてまるでですね、裸にされたかのように多くの人々の前に立たされてしまいました。確かに彼女には罪があるわけなんですね。
15:16
ところが皆さん、私たちのことはどうなんでしょうか。
もしも私たちの生活全ての1日24時間全てが神の前に、神の御言葉の前に裸にされるならば、私たちは完全に100%儀のある人と正しい人と全く清い人と言い張ることができるのでしょうか。
以前ですね、ある先生の洋派の訓書のこのどころの説教を聞いたことがありますけれども、その先生はこういうふうに言いました。
今日のことで、この女性のように罪がばれた人は刑務所にいる。しかし罪がばれていない人は罪のない顔をして街に歩いているだけだ。
罪認めない人は1人もいない。罪を犯していない人は1人もいない。ただ自分の罪がばれた人、まだばれていない人がいるだけだという話を説教で聞いたことがあります。
皆さんいかがなんでしょうか。ある意味ですね、私たちはこの簡易の場で問われられた1人の女性、これを読んでいるうちに、私たちは頭を上げるほど知りほど罪のないとそういうふうに言えるのでしょうか。
多分言えないんじゃないかなと思いますね。まず自分自身から。
皆さん、私たちの周りには本当に強くて激しくて甘い罪の誘惑がたくさんあるんです。ある意味で私たちはもう本当にですね、そこからその誘惑にいつも勝っているとは言えないんじゃないでしょう。
2番目、この立法学者そしてパリ裁人たちの罪がここにあります。1人2人じゃないです。多分ですね、数名です。彼らの罪は何でしょうか。
自分たちの今の身分や自分たちが得ている権力、名誉、お金、富、そういった政治的な目的を守るためならば、もう手段を選ばない。何でもする。自分たちの目的のためなら。イエス様を告発して潰してしまう。
18:23
自分たちのその企みのためならばですね、この1人の図星も道具として使ってしまう。そして捨ててしまう。ここには本当にもう狡猾で悪い罪がここにあるんですね。
また高慢な罪でも、なぜなら自分たちはもっと大きな罪をね、ひとり罪を犯しているのに自分たちの罪については気づいていない。わかっていない。そしてこのイエスを告発しようとする。
勧誘したこの女性をですね、罪人扱いをする。罪の多い者たちが人々を裁いている罪。自分の罪をわかっていない罪。罪人なのに擬人不利をしている罪。何より神なるイエスキリストを裁いている罪。
これはまさにですね、サダンの罪でもあり。私たちはいかがでしょうか。時には私たちもしばしばこの人々のようにですね、罪のない顔をして人を時には裁いたり、非難したり、悪口をしたり、試したりしていたことはないでしょうか。
実は記憶ないのに擬人不利をしていたことはないでしょうか。あるいは本当にテレビとか新聞とか周りを見て本当に重たい罪を犯した人々はものすごく非難しながら、私たちは嘘みたいな小さな罪は大したものとして感じていないこともあるのではないでしょうか。
皆さん、神の前に、神の御言葉の前に、聖霊様の前に重大な罪も罪であって、たった小さな嘘も罪で。
21:00
一箇所ですね、聖書を開きたいと思います。第一テサロニケ五章二十二節です。一緒に開きましょう。第一テサロニケ五章二十二節です。私の聖書では四百一ページです。
それでは一緒に読みたいと思います。短いですけれども二十二節だけです。悪はどんな悪でも避けなさい。皆さん、悪はどんな悪でも避けなさいと。重大な悪も避けるべきでしょう。
しかし普段何気なく犯している小さな罪も悪も私たちは避けなければならない。そしてまた何より私たちは自分自身の罪のことを悟って気づいていなければならないんですね。
もう一箇所聖書を開きましょうか。マタイノ君書七章に行きましょう。マタイノ君書七章一節から五節です。新約聖書マタイノ君書第七章一節から五節。私の聖書では十一ページです。
一節から五節ですけれどもしばらく私は読みしますのでご覧ください。裁いてはいけません。裁かれないためです。あなた方が裁くとおりにあなた方も裁かれ、あなた方が計るとおりにあなた方も計られるからです。
またまずあなたは兄弟の目の中の塵に目をつけるが、自分の目の中の針には気がつかないのですか。四節兄弟に向かってあなたの目の塵を取らせてください。などとどうして言うのですか。
皆さん自分の目には針があるではありませんか。五節と一緒に義善者よまず自分の目から針を取り除けなさい。そうすればはっきり見えて兄弟の目からも塵を取り除くことができます。
皆さん私たちは立法学者、パリサイ人のようではなく、このイエス様の御言葉通りにまず自分自身の目にある針を取り除けなければならない。これは一節に書かれているように裁いてはいけません。それが大全体であります。
24:27
あぜなら裁くという行為は、自分がこの審判台に立って人を裁くということであるか。根本的に私たちは罪を罪として悟る霊の目が自分から開かれなければならない。
人のせいにする必要がないでしょう。自分も実は清くないのに誰を非難できるのでしょうか。誰を裁くことができるのでしょうか。誰のことを悪口できるのでしょうか。それができる資格を持っている人は神他にはありません。
清めというものは自分から始まらなければならない。目の中に針のような我々の心の中に偽りであろうが、嘘であろうが、憎しみであろうが、騙しであろうが、怒りであろうが、悪口であろうが、あるいは苛らなことであろうが、神に捧げるべきことを自分が取る罪であろうが、
さっきの御言葉のように、どんな悪でも取ってはいけない。三つ目の罪は、本文に戻りまして、この肝炎をした女性を非難して石打ちしようとした群衆たちの罪です。
彼らは、イエス様のお話を聞きに来ていた人々なんですね。ところが、立法学者カリー・サイ・ビトダツキによって引っ張られてきた女性を見て、たぶん彼らは皆怒りを感じたことでしょう。
そして、どこかで石を取って、石打ちしようとして、皆幸運していたのが、それがわかる。なぜ、こういう行動、アクションを取ることができるのでしょうか。取ったのでしょうか。自分たちは、清いと思っているからです。石打ちしてもいいと思っているから、そういうふうにしたんじゃないでしょうか。
27:01
また、肝炎をした女性は、石打ちで殺されるべきだと思っていることなんですね。まるで、今日もそういう人々が、どの国にも社会にありますけれども、自分たちは本当に、この神聖な法律を、何かの立法を守る、いわゆる守護者だと一緒に言い張る人がたくさんいるわけです。
今日の御言葉の行間を読みますと、彼らには抗議、それによる怒りが沸いて、沸騰しているような彼らを興奮していました。そうだ、もう殺すべきだ、殺すべきだと、いたのではないでしょうか。
もちろん、この女性が悪い罪を犯したことは事実です。彼女に罪がないというわけではありません。弁解の余地はないのです。避けられません。
ところが、もしも私たちがその現場でいたならば、石を投げられる、そういう資格が我々にあるのでしょうか。それほど強いのでしょうか、私たちは。
ところが皆さん、実際に目に見える石は投げつけてはいないのでしょうけれども、実は私たちは普段見えない石をたくさん投げつけているかもしれない。
例えばですよ、テレビを見ながらいろんな人々に心から口で言葉で石を投げている。あの人が誰々が悪い、誰々が悪い、石を投げています。
あるいは今の人々はスマホのSNSでいろんな非難をする、不満を言いふらしている。あるいは隣の人々が誰々さんのことを悪口をする。お茶しながら、あの人はあれが悪い、この人はこれが悪い、悪口をする。石を投げているんです、私たち。
あるいはどうでしょうか、クリチャンでありながらも、この教会はこれが悪い、あの教会はあれが悪い、この牧師はこれが悪い、ある牧師はあれが悪い、この人はこれが悪い、この人はこれが悪いと悪口をする。石を投げているんですよ、実は。
でもね、それを一人で考えているくらいじゃなくて、他の人々と悪を分かち合っている。ある出会者にこういうふうに言いました。それはまるで毒を他の人の魂に注射することと同じ罪である。
皆さん、どうでしょうか。私は本当に悔い改めなければならないです。どれだけ多くの石を投げつけてきたのでしょうか。私がこの唇で、この言葉でですね、投げた石をもし集めてくるならば、人生、私48年、皆さん60年、70年でしょうか。
30:27
どれくらい石がたくさん投げつけられたかもしれない。本当に皆さん、まず私たちは自分の心、この唇から清められて、清められていかなければ。
最後に見てみたいのは、イエス・キリストです。本文に戻ります。イエス様はこの三つの部類の人々のその中におられました。
会員の罪を犯した女性、イエス様の前にいます。彼女を連れてきた家畜みたいにですね、引っ張って連れてきた狡猾な狐みたいな立法学者、パリサイ人たちがイエス様の前にいます。
そしてね、周りを、彼らを、イエス様と彼女、そしてその立法学者、パリサイ人で囲んでいる群衆がいます。イエス様は自分の目の前に本当に怖くて怖くて震えているこの女性を見て、どう反応したんでしょうか。
今日の御言葉の6節をご覧下さい。私がお読みします。
イエス様はすでに全てのことを見抜いておられた。この会員の罪をした女性のことも知っておられ、そして彼女を連れて引っ張ってきた彼らの罪も見抜いておられる。そしてまるですね、正義の人々のように興奮している群衆の罪もイエス様は知って、もうね、見抜いておられました。
ところがイエス様は身をかがめて何かを書いておられました。ある日はですね、イエス様は何を書いたんでしょうか。すでに気になって気になってどうしようもないんですけど、知らなくていいんです。聖書に書かれていないから、わかりません。正解はわかりません。ただイエス様は沈黙されました。
33:10
ところが沈黙していたらですね、多分ですね、パリスタ人たちは焦っていたでしょう。イエス様をね、こうね、引っ掛けみたいに罠みたいにしてですね、引っ掛かるようにするとイエス様の反応が自分たちの思った通りにならないから焦ってですね、それでもう問い続けていたわけなんですよ。
ならさずに。けれども彼らは、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。さあその次の歌詞を一緒に読みましょうか。
三杯、あなた方のうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい。もう一度読みますね。あなた方のうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい。とイエス様がたった一言言われました。
皆さん、このイエス様のたったこの一言は、神の言葉であって、神の権威を持っているイエス・キリストの言葉でありました。ここで二つの事実を知ることができます。
まずイエス様は決してこの女性にあなたには罪がありませんとおっしゃっていません。あと十一節十二節読んでわかったように、罪は許してくださいましたけれども、彼女に罪がないとは言っておられます。
そして、まだ諸機関や立法学者たち、パリ裁人が突っ込んできている、孟子の立法も間違っていない、それも正しいと否定しておられないんですね。ところがイエス様は、神の知恵を持って神の言葉を語りました。
あなた方のうちで罪のない者が最初に石を投げなさいと。そしてイエス様はたったこの一言で語った後、八節を見たら、そしてイエスはもう一度身をはかがめて地面にかかり、そしてその後何が起こったんでしょうか。
すごいことが起きました。九節一緒に見ますね、九節。三、彼らはそれを聞くと、年長者たちからはじめて一人一人出ていき、イエスが一人残された。女はそのままそこにいた。
みなさん何が起こったんでしょうか。彼女を引っ張ってきたパリ裁人、立法学者たちもみんな去ってしまいました。石を投げつけようとしていた群衆も年長者から一人一人全部横の人の顔を見ながら去っていきました。イエス様とあの女の人、たった二人がそこに残りました。
36:17
すごいことが起きました。ちょっと前まで立法学者たち、パリ裁人たちはイエスを捕らえようと試して告発する気満々でした。
その群衆も石を投げつけようとして、よいどんだけ待っている人々でした。ところが、イエス様の言葉が語られたら、神の言葉が語られたら、みんな自分たちがどれだけひどい罪人であるのかわかりました。そこにはいられない。自分たちの罪がもう悟らされたわけなんですよね。
だから、石を投げられ、みんな去っていきました。この旧説にですね、神科学聖書には書かれていないんですけれども、古古学聖書と他の聖書には、彼らは良心を、心ね、良心を責められてという言葉が書かれて、みんな良心を責められました。
あ、そうだ、私も、そしたらこの前、罪を犯しただろうと、みんな良心を責められて、過剰を感じて、みんな去っていきました。不思議なことが起きたんじゃないでしょうか。ある意味で、この立法不詫された者は、緻密なプランを組んでですね、企んでですね、来たのに、みんな去っていきました。
イエスを告発しようと、試そうとした人々も去っていきました。消えました。この女性をですね、サバコゾシラ、群衆も、みんな消えました。みなさん、どうしてこんな凄いことが起きたんでしょうか。
まず第一は、神の御言葉の力である。罪のあなた方のうちで、罪のない者が、最初に彼女に意思を投げなさい。たった一言葉でした。みなさん、この言葉はイエス様の御言葉だから、神の御言葉だから、また神の御言葉には力があるから、そこから奇跡が起きました。
ここから真の自由が始まりました。みなさん、神の御言葉に力があることを信じますか、みなさん。神の御言葉に力があります。神の御言葉に力があります。
だから、いつも自分の魂に日々神の御言葉で満たしていただく人は、本当にいつも神の力をいただいている人であって、その人こそ幸せな人であります。神の御言葉にはどんな力があるんでしょうか。一箇所、清楚を開きたいと思います。
39:11
思い浮かぶ方もいられるかもしれませんが、ヘブル人への手紙4章12節に行きましょう。ヘブル人への手紙4章12節。私の聖書では428ページです。ヘブル人への手紙4章12節。一緒に見ますね。
神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも察し通し、心のいろいろな考えや諮り事を判別することができます。アーメン。
もう一度読みますね。この御言葉も暗書してほしいんですね。神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも察し通し、心のいろいろな考えや諮り事を判別することができます。
神の言葉は生きていて力があり、両刃の剣よりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも察し通し、心のいろいろな考えや諮り事を判別することができます。
人間の言葉と神の言葉は違いますね。イエス様、たった一言語れた時に、あの怒っていて高音していた彼ら、そしてとても狡猾な彼らも一瞬にして消えてしまいました。
罪と悪が一瞬にして消えてしまいました。
神の言葉に力があります。皆さん、神の御言葉を持って宣言してください。自分自身に宣言してください。周りに宣言してください。我らを苦しみようとする悪霊に対しても、悟りに対しても、神の御言葉を持って宣言してください。神の御言葉に力があります。
もう一つ、なぜこんな不思議なことが起こったのでしょうか。それはイエス様の神的権威があるから。それは当然ですね。イエス様は神なんですから。誰も犯すことができない神様の神的権威をイエス様から、そこにいた人はみんな感じました。恐れました。
あなた方の血で罪のない者が、最初に石を、彼女に石を投げなさいと。この言葉を聞いた時にみんな神を見たんでしょう。神の権威を感じたんでしょう。だからその権威の前で誰も対抗できない。イエス様の顔さえもうね、見ることができない。恐れで恐れでみんな逃げてしまいました。
42:24
これはただの恐怖とは違いますね。神を見た者が感じる恐れ。かしこむこと。
旧約聖書を見ますと、モーセが市内に行って、四十人ってそこにいるでしょう。そして神の光景を見て、実界と立法が与えられて、そして山から降りてくるんですね。イスラエルの人々がいるところに。
来た時にモーセは自分の顔にタオルで応援をしたわけなんです。モーセはあの山で神を見た、神の光栄光を見た。それが彼に照らされたわけなんです。
ところがそのモーセの顔からのあの光が輝くて輝く神の臨在権威を感じたから、あのイスラエルの人々はモーセの顔を見ることができなかったくらいでした。タオルで応援をしたなのに、顔の一部しか見れないのに、神様がモーセに権威をさせてくださった。
だからモーセに逆らう者たちは神に逆らう者と同じでしたから、一日数万人が命を失った、ああいう事件も起きたんじゃないでしょうか。私はですね、正直な気持ちとして、仏会者として申しますと、仏会者がイエス様くらいじゃなくても、モーセくらいでも神の権威で満ちているならば、
神の威厳と栄光の百万分の一くらい持っているならば、皆さんがこのメッセージを聞いているうちに、あるいは私と話をしているうちに、私を見るうちにイエスを見ることと同じであるのに。
イエス様とまるで話をしているように感じているのに、と思うんですね。
それは自分が権威意識を持つこととは全く違いますね。神様が仏会者に神的権威をさせてください。そう思う時に、自分はどうなんだろうなと思いましたね。
45:13
モーセくらいの、あるいは私が本当にね、お手本のようにしている一羽織のような神からの権威があるんだろうか。御言葉の権威があるんだろうか。
イエス様に祈ってほしいほど、牧師に祈ってほしい。私と出会って、イエス様に出会ったかのような、そういうところがあるんだろうか、と考えさせられましたね。
そういった意味としては、全ての問題は私にあるんだな、と実感させていただきました。
さて、このようにして、この女性にあった罪、恥、侮辱、心の傷、あるいは恐怖、すべてがね、一緒にしてイエス様の御言葉によって消えてしまいました。
罪に定めようとした彼らの怒り、告発、その審判所のようなすべては、一緒にしてひっくり返されるように変わってしまいました。
皆さん、身がわくは、私の人生にも、イエス・キリストの御言葉によって、イエス様が介入してくださって、すべてが、過去のすべてのものがですね、
今日のこの、ヨハネノクリスト第八章の御言葉のような、新しい反転と言いましょうか、新しいこういう恵みが、奇跡が起こってほしいんですね。
そういうふうに、切に願っております。
こういう祝福が、我々に貼っていただきたい。
過去の穢れ、痛み、失敗、罪、あるいはその罪のゆえにも、死にたいほど苦しい気持ちが、もしもあるんでしょうか。
あるいは、いまだに、昔の何かの悪いことをして、その本当にそれをもう自分の人生に消したいと、そういう思いがもしもあるんでしょうか。
皆さん、そういうことがもしもあるならば、あるいは今も、いまだに心の中にそういうことがあるならば、
今日のこの女性に起きたこととかのようにですね、イエス様の御言葉が語られるならば、宣言されるならば、すべては消えてしまいます。
変えられます。まことの自由が与えられる。まことの回復が与えられる。それを信じてください。
イエス様は、罪を犯したことは確かにそうですけれども、どうしたらいいのかわからない。
48:06
あの女性がいる、そこにイエス様はそこに一緒にいて下さりました。
イエス様が一緒にいて下さって、イエス様が御言葉を語って下さるならば、介入して下さるならば、
恥が変わって平安になります。恐怖が変わって安息に変わります。死が変わって命に変わります。
鎖が変わって、真の自由になります。
自分の力によるんじゃない。誰かの人の力による。イエス・キリストの御言葉と力によるものであります。
だからイエス様が言われましたね。私は命である。
今日のこの8章のこのストーリーこそ、命のストーリーじゃないでしょう。
続きますと、そしてですね、みんな行ってしまいました。
そしてイエス様は、10節、11節を見ますと、イエスは身を起こして、その女に言われた。
夫人よ、あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。と聞きました。
イエス様はしないわけではありませんね。もう見てるからわかるんだけれども、彼女にそれを確かめてほしかったですね。
11節、一緒に読みたいと思います。11節、3回。
彼女は言った。誰もいません。そこでイエスは言われた。
あなたを罪に定めない。生きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。アーメン。
誰もいません。死は誰もありません。恐怖も恥も怒りも全てありませんという意味なんでしょう。
多分ですね、これは想像ですけれども、彼女はですね、ずっと目をつぶっていたかもしれません。
石がいつ飛んでくるかもしれない。もう目をつぶって震えて震えていたんじゃないでしょうか。
でも何かの足音は聞こえる。どうなんだろう。自分のところにもう近づいてやってくるんじゃないかと思っていたかもしれない。
ところがその後何の音も聞こえない。
イエス様がね、誰がいますかってね、目をゆっくり開けてみたら、誰もいない。誰もいなくなる。
おそらくですね、そこまであった恐怖の味が少し和げられてですね、死から命へ移されている、そういう気持ちだったかもしれません。
ほっとしていたかもしれません。あるいはこの最後のイエス様のお言葉。
51:05
私もあなたを罪に定めない。生きなさい。
英語を見たらですね、自分のあなたの道を生きなさいという言葉があります。
今からは決して罪を犯してはなり、イエス・キリストに出会った人生はこのように変えられるのです。
またイエスは御言葉であり命であるから、恐れも恐怖も死も不安もすべて変えられてしまって、平安になり命になり希望になりました。
ハレルヤ、これが皆さんイエス・キリストを信じる信仰なんです。
信仰は知識でありません。勉強でありません。イエス・キリストに出会って変えられることであります。
死が命に、恐怖が喜びに変えられることであります。
イエス様は最後に彼女にはっきりと言われました。
私もあなたを罪に定めない。そして今からは決して罪を犯してはなりません。
ただ許してあげたわけではないんですよね。罪を犯してはなりません。
私はあなたを罪に定めない。
皆さん、これが福音なんです。
ローマ書8章1節を見たらこういう言葉があります。
今はイエス・キリストにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜならイエス・キリストにある命の御霊の原理が、罪と死の原理からあなた方を解放したからです。
イエス・キリストにある者には、罪に定められることは決してありません。
あなたを解放したんです。解放したんです。
イエス様は解放してくださったのに、私たちは自分の罪を、何かを、鎖を、自分が自分でそれを集めて集めているんじゃないでしょう。
すいませんが隣の方に言いましょう。あなたは解放されました。
はい、どうぞ。あなたは解放されました。あなたは解放されました。
イエス・キリストにある者が罪に定められることは決してありません。
これが福音なんですよ。だから自由があるんです。
この女性から悲劇は終わりました。悲劇が終わって、新悲劇が始まったかもしれません。
悲劇が終わって、至福がやってきました。
イエスとシリオとは何でしょうか。イエス様に出会って、人生のどうしようもない悲劇が終わって、至福が事故に訪れてくることであります。
54:03
最後にこの女性に対するイエス様の態度は何でしょうか。
それは、罪を犯しましたけれども、そういうどうしようもなかった彼女の弱さをイエス様は知っておられました。
そして彼女を憐んでくださいました。
罪を許してくださいました。彼女に希望を与えてくださいました。
あなたの道を歩みなさい。自由を与えてくださいました。
そして最後に罪を犯してはいけませんと、愛のアドバイスを惜しまなかった。
皆さん、この方こそイエスケリストです。
この方こそ、私たちが信じるイエスケリストです。
イエス様は、私たちが苦しみの中にいる時に、どうしようもない時に一緒にいてくださる。
そしてイエスケリストによる誠の自由を与えてくださる神様であります。
皆さん、もはや不幸だった過去のことに縛られて生きる必要はありません。
奴隷になってはいけません。
彼女が言いました、誰もいません、誰もありませんというように、不幸な過去はありません。
みよう全てが新しくなりました。御言葉を宣言しているのです。
この主曲が、この真句が我々に満ち溢れますように、イエス様の皆によってお祈りします。
お祈りしましょう。
55:36

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