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みなさま、おはようございます。いよいよ来週、クリスマス礼拝が近づいてまいりました。
来週はクリスマスのお話をしますけれども、今日は先週に続いて、まずこの福祉署の公開メッセージをしますけれども、
その中で、みなさんがクリスマスを待ち望むことができますように、祈りつつ、ここからお話をさせていただきます。
さて、このあたりのたとえの直前の箇所で、大使教立法学者・将老たちが、イエス様の権威はどこにあるのか、と問題にしました。
イエス様がエルサイムの神殿にやってきて、神殿の中から鳩を売る者たち、あるいは両外民の罪をひっくり返したから、
そういう権威はどこにあるのか、そういうことであります。
イエス様は、祈りの家であるはずの神殿が、人々の思いが支配する強盗の巣になってしまった。
その怒りを表されました。
その言葉とその態度は、その神殿を管理する権威を持っていた彼らにしてみれば、我慢ならなかった。
秩序を目指すようなイエス様の行動、あなたがこのようにしている権威は一体どこにあるのですか、
そう、立法学者やアイサイ人たちが、あるいは長老たちが言ったわけです。
さて、イエス様は彼らの問いにはっきりとお答えにはなりませんでした。
けれども、その問いには答えないで、あなた方が忘れているこの真理を語り出したわけです。
それが、武道園のたとえ話です。
そこでイエス様は、イスラエルを武道園と呼びました。
先週も、あるいは先々週もそうでありますけれども、イスラエルをイチエイクの木とたとえられました。
ここでは武道園、その主人がその武道園を農夫たちに貸し与えて旅に出かけました。
03:05
その感覚になったので、その主人はわけまえをもらうためにしもべたちを使わせたものです。
ところが、その農夫たちは、そのしもべを打ちたたき、あるいは恥ずかしめ、さらに殺してしまいました。
その農園の主人は何度も何度もしもべたちを打ちました。
けれども、殺されていった。
そして最後に、これではだめだと思って、自分の子供だから敬ってくれる。
わけまえを渡してくれる。
そう思って自分の子供を送ったわけです。
ところが農夫たちは、あれは後取りだから、あれを殺そうではないか。
そうするならば財産は私たちのものだ。
と言って、息子を殺してしまったわけです。
私がこの聖書を読み始めた頃、ここで一体何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。
最近はようやくその意味がわかってきました。
この農夫というのは、武道園を預かっているイスラエルの宗教的な指導者であり、
さらに突き詰めて言うならば、私たち一人一人のことである。
武道園でおいしいブドウを作って、その収穫を担うということが彼らの役割であります。
収穫のときに聖書を目指し送ったというのは、
預言者を神様が使わせたということです。
イザヤ、あるいはエレビアオ、あるいはエゼキエノ、
中約時代にはたくさんの預言者が使わされていました。
けれども、彼らはことごとく殺されていきました。
最後に送った報告というのは、イエス・ケイト様を指してくれました。
イエス様が使わされて、神様に立ち返るように福音を語りましたけれども、
そうしても宗教指導者たちや、あるいは霊的な意味で見るならば、
私たちはイエス様を殺してしまったということです。
そうならば当然、大切な子供をそのところに送りはしなかったでしょう。
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何度も何度も子供たちが殺されているにもかかわらず、
恥ずかしめられているにもかかわらず、
暴力を生まれているにもかかわらず、
そんな危険なところに息子を誰が使わせでしょうか。
分かっているのです。どうしたわけだと。
結果は案の定、残酷な虐殺でありました。
けれども実は、その計画に神様の永遠なる、
私たちの知らない、深い深い、ひどいひどい、
ご計画がありました。
旧約聖書以来予言され、定められていた、
神様の御子イエス様の十字架と復活、
また誕生のクリスマス、やがて再現のクリスマス、
人類の救いへの計画であります。
さて、大事に私たちは今日学ぶことは、いいですか。
天使万物を作られた神様は、
その地蔵物を収めておられるだけではなくて、
私たちのために慈悲深い御双子を出す。
もしこの世界が、多くの人たちが考えているように、
何の目的もなく、あるいは電車や、あるいは船や、
車窓や船長を担って、どこかに旅をすると言うならば、
どんなにこれは心細いでしょうか。
皆さん、私たちは一体どこに向かっているのでしょうか。
そのことがわからなければ、
ただ私たちは生きて死んで、それだけで終わってしまいます。
あの一隻の船が、太平洋を航海しました。
けれどもその時に嵐にありました。
その船はですね、駒波のように揺れ動いて、
乗客は生きた心地がしません。
いつ沈没するんだろうか。
でもその中に一人の少女は、
何事もないように落ち着いて、
平地で遊んでいるわけだ。
死に残った乗客がいました。
お嬢さん、こんな荒くの中で、
波が荒れているのに、怖くないのか。
09:00
聞くわけだ。
その少女は答えました。
怖くない。
だってこの船の船長は、私のお父様だもん。
と答えました。
お父さんが船の舵を取っているならば、
大丈夫だ。
安心するんです。
さて皆さんはどこに向かって、
その人生の旅を進んでいるでしょうか。
また皆さんが今、経験しておられる困難は、
どのようなものでしょうか。
船の舵様は、私たちが子供のように、
思って可愛がっておられる。
どうぞ後からご覧ください。
いざやこの一章の二節にですね、
これは私が大きくして育てた。
ちょうど母親が子供が生まれる前から、
うぐぎはですね、おしゅめ団をいっぱい備えて、
心待ちをしているように、
神様は全宇宙無限の中で、
その父を選び、
私たち一人一人を愛して、
この地上に添えていくがさ。
さてこのところに、
葡萄園を作ったとだけあるのではなくて、
ぜひと見てください。
柿をめぐらし、
踏み場を掘り、
みはぎやぐらをさせ、
それを豪雨たちに貸して旅に出た、
と細かく語られています。
当初の葡萄園というのは、
葡萄の実そのものを摘み取って出荷をするというのではなくて、
葡萄樹を作るためのところであります。
踏み場というのは、
葡萄を踏んでしまう、
踏んでですね、
絞る場所であります。
そういう市ですから。
柿やみはぎやぐらはですね、
強盗や狼鬼たちが襲ってくるのを守るためになります。
ある人と言われている、
この葡萄園の主人は、
全てのものを備えて、
その農夫に貸し与えたわけです。
この話を聞くとですね、
ユダヤの人たちはもうピーンとすぐ分かった。
それは、
イスラエの人たちが思い起こす、
この聖書の歌詞であります。
それは、
先ほど読んでいただきました、
イザヤトの五章の一節からです。
どうぞ開いてみてください。
12:02
五章の一節から。
さあ私は歌おう。
我が愛する者のために。
その葡萄畑についての我が愛の歌。
我が愛する者は、
よく越えた山口に葡萄畑を持っていた。
彼はそこを掘り起こして石を除き、
そこに良い葡萄を植え、
その中に櫓を立て、
その中に葡萄の生み場まで埋もり、
葡萄が成るのを心待ちにしていた。
ところが、
つい葡萄ができてした。
四節。
我が葡萄畑になすべきことで、
何か私はしなかったことがあるか。
なぜ葡萄が成るのを心待ちにしていたのに、
つい葡萄ができたのか。
神様は、
イスラエルを愛して、
全てのものを整えて、
まるで葡萄へ物を二つに貸し与えるように、
あらゆることをしてくださった。
ここに、
イスラエルに対するあらゆる巡りがあるわけです。
具体的に言うならば、
イスラエルはすぐに分かりました。
彼らを、
エリプトの奴隷状態から解放し、
ご自分の民として、
シシスとミクスの流れる約束の主義、
イスラエルを導く。
その中でも、
彼らには力がなかった。
けれども、
彼らの信仰で、
ここで行くところどころ、
そこを勝ち取っていったわけであります。
イスラエルの旅を見たら、
皆さんそれはもう思い出すでしょう。
彼らは信仰に何度も何度も、
神様から離れたにもかかわらず、
神様は坊主を使わし、
あるいは余神を使わし、
そしてやがて多くの人たちを使わし、
ダビデを使わし、
サメルを使わし、
何とか自分のもとに立ち帰るように、
いろんなものを備えてくれました。
でも、
神様が期待しておられた、
良い武道ではなくて、
つい武道だった、
そう言うわけです。
皆さん、
武道園は、
全て主人が整えて、
農夫たちに与えられました。
わかったその命もそうです。
人生も神様が作り、
授けてくださったものなのです。
自分の命を作り出す人は誰もいません。
15:00
どこで生まれ、
どのような環境の中で、
男か女かもわからない。
どんな体力があるのか、
能力を持っているのか、
様物もあるのか、
いつの時代で、
あるいはどのような時代に生まれるのか。
自分の意志で生まれてきた人は一人もいます。
それは全て、
神様が整えてくださったものです。
神様が整えてくださったものを、
基本的なその条件の下で、
それを喜んで歩むものであります。
それが私たちの人生で、
その人生で、
神様から与えられた、
その武道園という人生で、
少しでも良い身を結ぶように、
そう神様は出来ます。
だって第一番目に、
神様は収穫になったので、
武道園の収穫の一部分を受け取るために、
農家たちのところにしもめを使わせた。
皆さんここを読んで、
何かしら神様から、
神様は私たちから、
絞り取ろうとしているのだろうか。
でも見るならば、
神様は私たちの人生で、
収穫を受け取ろうとしておられる。
私たちに命を与え、
それぞれの賜物や環境を与え、
武道園を建ててくださった神様に、
支払わなければなりません。
それぞれのタラントが違います。
1タラントもあれば、5タラントもあれば、
10タラントもある。
環境も違う。
でもそこで支払わなければならない。
それは、
神主がですね、
御作民から年号を取り立てるようなものではありません。
この話においてもですね、
主人は農夫たちから、
その収穫のものを奪おうとしているんじゃない。
そして奪って、
自分の利益をあげようとしているんじゃない。
むしろ農夫たちのために、
武道園を作り、
垣をめぐらし、
あるいは宮城あぐらを建て、
武道の絞るところも作り、
彼らが安心して働いて収穫をあげるように、
何もかも備えられます。
そのように配慮されている。
ここで皆さん、
考えてください。
この主人が求めている取り分とは何でしょうか。
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収穫の一部分とは何でしょうか。
これが一番大切なんです。
それは、
農夫たちが、
この武道園は、
主人のものであります。
主人が作り、
整えてくれたものであることを認め、
感謝して、
主人との間に、
良い交わりを持って生きることであります。
私たちは神様に感謝して、
そして喜んで生きることを、
神様は願っておられます。
ウェストミンスター教義武道の中に、
人が生きる目的は何ですかという質問があります。
その答えは、
神の栄光をあらわし、
永遠に神を喜ぶことである。
永遠に神を喜ぶということは、
エンジョイするという意味であり、
永遠に神様を楽しんでいられるようにという意味がここにあります。
皆さん、
神様を喜び、
深く交わり、
そして楽しむことごと、
人の生きる目的があると表現されます。
主人はそういう思いを、
何度教師されても繰り返し繰り返し、
シモベたちを使わせます。
旧約聖書を深く読んでみてください。
そのシモベたちは、
メッセージはたった一つです。
神様に立ち帰りなさい。
神様に立ち帰りなさい。
そして主人は、
愛する子供でも子供までも使わせたことをここに示して、
これで何度も教師されて、
旧約を見たらわかりますよね。
旧約聖書を見たら。
シモベを何にも殺されているところに、
大切な息子を送るなどということはあり得ないわけです。
主人が引き返してもなおも、
その人との人間的な交わりを回復するために、
21:02
あなた方は神様に立ち帰りなさい。
あなた方は神様に立ち帰りなさい。
そういうことを心から願っているわけです。
皆さん何度も言いますが、
神様が私たちに求めておられる取り分は、
一部分の収穫というのは、
私たちとの交わりのことです。
第3番目が、神様に対する人間の罪になります。
その等は収穫の一部分を払わないからというのは、
しか日本一流ではないと敵対したわけです。
主人に対して反応しました。
皆さん、罪とは意識的に、声的に、
うっかりではないです。
神様に敵対ということです。
神様が何を望んでいるのかということを知りながらも、
自分勝手に振る舞うことではないです。
この僕たちは、自分たちのところに来た主人から
使わされたしもべであることを知って、
袋抱きにし、傷を負わせ、追い出してしまいました。
また殺してしまいました。
さて、本日も神様から使わされたものを追い出していないでしょうか。
これが人間なんです。
どんなに皆さんの近くにある可愛らしい赤ちゃんであったとしても、
あるいは人生経験を進んできた高齢化があったとしても、
神様への反逆がある。
だからたまにですね、この大切人や立法学者たちのように、
イエス様を殺そうとしなくても、
自分の人生や生活からイエス様を追い出していく。
自分の心の中から、生活の中から神様を追い出していく。
また御言文を投げ捨てて、
教会との関わりも意図的に避けず、
神様の座に自分がついて、
自分中心の世界を築くことである。
皆さんなぜイエス様は十字架につけられたのでしょうか。
それは人間の罪の具体的に示されたからです。
ですからイスラエの主導者たちは、しかも民衆たちはですね、
24:03
イエス様を十字架につけろ、イエス様を十字架につけろと、
その覗け覗けと言っています。
さてこの12章の後半になればですね、
復活について、復活について、
今すぐでもこうでもない、ああでもないということが書かれています。
これはまた後ほど、クリスマスが終わった後にお話をしますけれども、
日ごろ懸念の中、本当に日ごろですね、
この仲が悪かったヘロデトもパリサエリトも里会人たちも、
イエス様を落とし入れようと協力した。
日ごろ悩みの中が悪いんです。
これはどういうことなのか。
それはですね、皆さん、人間というのは、
正しいものや強いものが嫌いなんです。
すなわちイエス様が煙たい。
それは、実は私たち自身が。
この2000年前の出来事であっても、
私たちの魂と通じるものが生まれ変わっていない魂はですね、
神様を仕掛ける。
そして自分の思うまま、気の動くまま歩きたいんです。
ですから、神様という清いお方が大嫌いで煙たいわけです。
でもいつかは、神様の前に自分の人生を生産しなければならない。
神様が与えられた人生を、そしてその仕事をどのように働いてきたか、
神様に報告する時が来ます。
世辞はその2回。
誰でも、死んだ後は神様の前に立ちますけれども、
生きているうちにも、あなたはもう裁かれていると言ってしまう。
生きている時の裁きとは何でしょう。
私たちは住み取りの病気に因果がかかってしまって、
偽人はいない、人にもいない、
すべてのものが迷い出て無礼なものになったと言っています。
神様から離れている様子にですね、
何か先説的な希望が満ちて明るいはずはありません。
この世界もコロナ禍の中で本当に萎縮してしまいました。
人と交わらないように、将来何が起こるのかも分からない。
将来が何が起こるか分からないから、
みんな一生懸命将来のために助手句をしたし、
27:01
この世界も、皆さんの心も、
確かな希望はなくて、
心の中に神の平安と安息があるはずはありません。
でも、第四番目、神様の救いです。
第四番目は神様です。
救われている者には、希望があるんです。
この希望です。
神様が私を愛して、神様の御事を送ってくださって、
信じることによって、永遠の命を与えてくださりました。
たとえどんなにこの世の中の外側が暗黒に包まれていても、
私たちの信じる神様が生きてもらえる。
そして神様は、私にとって一番良いことをしてくださる天のお父様だ。
そういう思いが、あるいはその御言葉が、私の魂と本当につながっている。
たとえどんなに世の中が暗くなろうとしても、
私たちは負けることはありません。
またそれだけではない、この世の中ではなくて、
私たちの心の中にあるこの暗黒さえも、
その光によって暗闇が追い出されて、私たちは不動の者になる。
これが希望です。
それがクリスタルの希望でしょう。
その希望を、私たちは家族や周りの人たちに伝えていく。
いや、その世に生きていく。
そして9節には、武道園の主人はどうするでしょうか。
やってきて、毛布たちを殺し、武道園の他の人たちに与えるでしょう。
この毛布たちは、下部や主人の息子たちも殺して、主人の語りかけに途切ろうしました。
このことによって、理大の口は、紀元70年、
老馬帝国によって、エルサレムは患難苦し、
そしてユダヤ人の使徒たちは殺され、ユダヤ人は全世界に散らばってまいりました。
それでは、現在に生きる私たちはどうなるでしょうか。
神様の子を忘れて、自分が主人になって生きている私たちはどうなるでしょうか。
裁きは、愛する人々に下された。
武道園の主人は、一人の息子の命を犠牲にすることで、罪の暴らいを成していく。
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しかも、毛布たちは、自分の思いを実現しようとして、一人息子を殺しました。
つまり、罪人の手によって行われたイエスタムの殺害によって、神様はその罪人を許して、
息子が殺されることを承知で愛する一人のイエスタムを贈って、
主治家の死は人間の罪の庭にあるとともに、神様の恵みが現れている。
出来事は、神様によって教えていただかなければ分からない奥義だ。
現在において私たちは裁かれないで、一人のイエスタムが裁かれた。
さて、さらに聖書を読みますよ。
この10節のところであります。
あなた方は次の聖書の言葉を読んだことがないのです。
家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となる。
これはすがなさったこと、私たちの目には不思議なことだものです。
家を建てる者、建築家は、これは使い物にならないと言って、
自分にとって要らない石は捨てます。
将来のことでありますから、日本の木造建築ではなくて、石で家を作ります。
その作るものが、自分で見て、これは要らないものだ、要らない石だというものが捨てられた石。
その捨てられた石が、この罪の親石、金目の石となる。
何が言いたいのか。
捨てられた源氏様が救いの大物となった家というのは、祈りの家、神の家。
天宣宗のメッセージ傾向をもう一度読み返してください。
ずっとこれがつながっていくわけです。
家を建てる者は、神殿で権威を持って一人と主導していた
大師匠、律法学者、愛妻、人たちがいる。
そして捨てられた石というのは、イエス様ご自身がいる。
神の家を建てようとしている人たちは、イエス様を不要だと思って捨ててしまいました。
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十字架に捨ててしまいました。
そのイエス様が、罪の親石、金目の石となった。
その救いの石が大物となって、やがて新しく神の家、祈りの家、
キリストの体である教会が建てられる。
教会が建てられているだけではなくて、そのイエス様が私の心の中に住んでくださる上に、
私が神になっている。
ここに神様の宮座が示されている。
ですから神様の宮座はここに書いてあるように、
私たちの目には不思議なことだと記されている。
同じこの一連の様々な例え話やイエス様の出来事は、
神様の具合は私たちの常識を遥かに超えている。
イエス様を信じるものとされる。
主の体がある教会に加えられる。
加えられるだけではなくて、ストーリーを見るならば、
私自身が神の家になっている。
私たちがイエス様を不要としていて、捨てたということによって実現していく。
イエス様がこのように来てくださったクリスマスには、
このような何があることを私たちは心おどないをしながら、
いよいよ神様に感謝し、
そして何よりも、
そのある日が願っているように、
その神様との関係を掴めていきませんでしょうか。
これが一番神様が喜んでおられる、
私たちがすべきクリスマスになります。
そういう思いを持ちながら、
来週のクリスマスを迎えていきたい。
お祈りいたします。