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みなさんおはようございます。 今日こうして、礼拝を共にできることを心から感謝しております。
さて、聖書のお言葉をお読みいたしますので、 神の言葉に敬意をあらす意味で、どうぞみなさんご聞きつつください。
今日は、新約聖書のマルコニュール福音書の 第2章の1節から12節をお読みいたします。
ページにしますと、新約聖書の62ページになりますね。
マルコニュール福音書
マルコニュール福音書
以上であります。どうぞ着席してください。
今日お読みしたこの聖書の歌詞は非常にユニークですね。
エス様のおられた家の屋根の大きな穴を開けて、 病人をところままエス様の前に釣り下ろしたと言うんですね。
このような珍しいケースなのでしょうか。
教官福音書、マタイ、マルコ、ルカ、どの福音書にも綴られておりますね。
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ですから今日の説教の題は、教会を突破してとしましたけれども、
うなずいていただけるかもしれませんね。
エス様は30歳になられると交渉会に入られて、
そしてあのガリレーにおいて神力には近づいた、食い改めて福音を信ぜよと大師生を語られました。
そしてガリレー後半で最初の弟子たちを召し出され、
またカペナームのペテロの街道に入って教えられ、その場にいたアクレを追い出すという働きをなされましたね。
さらにこのペテロの家に入ると、熱病で病んでいたシュートメを癒される。
そして次々と病んでいる方々を癒された。
そしてガリレー地方の街道をずっと巡回して教えられたと書いてありますね。
また同じようなこの記事のところでは、
エス様はガダラ地方のとんでもないアクレにつかれた男を解放された後、
この船でムコギシ、つまりカペナーム、エス様の働きの拠点とされた街に行かれたと書いてあります。
このエス様が入られた家、書いてありませんけれども、おそらくペテロの家ではなかったかなと思われます。
そしてその時点ではもう戸口までぎっしりと人が詰めかけて満杯状態であったというんですね。
パルシナのその家は非常に簡素で、そしてもうドアを開いたらすぐに家まで、鍵もそんなにかかっていない。
朝になったらドアを開けられて、誰でも自由に入ることができるような、
昔は日本もそうだったじゃないですかね。
今はもう鍵掛けになって物騒でね、いい時代でしたね。
今はパルシナはそうじゃないと思うんですけれども。
なぜこんなに人々がぎっしり集まったか。
それはもうエス様のあちらこちらでの働き、病が癒され悪霊を追い出されていく、
そういう不思議な現象を、噂を聞いていた人々はやむとでもいられずですね、
エス様がいると聞いて、その家に押しかけてきたんでしょう。
エス様はそこで何をされていたかというと、それは教えていたというんですね。
06:08
つまりエス様の後生涯の中心的な働き、それは教えること。
つまり神の国を告げ知らせ、そしてその神の国はいかがなものであるかということを、
人々に悟っていただくことであったんですね。
けれどもそこに来ていた群衆、人々は何を期待して来ていたのか一体。
それは教えを聞くためだったでしょうか。
神の国の深淵な真理をじっと聞こうとして、中にはそういう方もいたでしょう。
けれどもやっぱり彼らは具体的な自分たちの必要に応えていただきたいと思ってやめるものは癒しを。
心苦しいものは解放ですね。
経済的に詰まっているものは何かしらの助けをいただきたいとかですね。
関係の破れたものは何とかして分解したいとか、そういう具体的な問題があってきたんだと思うんですね。
その典型がここに登場するところの4人の男に連れられてきた、
あの中部の体の麻痺した人ではないでしょうか。
つまり彼らがどういう関係であったのか分かりません。
その4人の過去はどうであったか、その中部の男がどういうキャリアがあったのか、
なぜそうなったのかも分かりません。
でもいずれにしてもこの子では全身が麻痺したと書いてありますけれども、
別の役では中風と書いてありますね。
つまり中風というのは昔は原因が何であるか分からないから、中風とまとめていたんですね。
最近も2ヶ月くらい前だったでしょうか、私の長男が石川県で博会をしておりますけれども、
メールで祈りの要請がありました。
つまり教会の一人の姉妹が、彼女は看護師でもあり夫も看護師なんですけれども、
その彼女が脳梗塞で倒れてしまって、今必ずは脳芸科、神経芸科に入院したんだ、緊急なので祈ってほしいとありました。
脳梗塞というとそれは脳の血管に詰まる血栓だとか梗塞とか言いますけれども、
それによって言語麻痺とか、あるいは体の一部が麻痺するとかですね、
考え方がまとまらなくなってしまうとか、いろいろ症状が起こるわけですね。
私たちはですね、ですから後遺症が残らないように1ヶ月くらい入院するということでありました。
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この麻痺してしまった友人でしょう、何とかならないだろうか。
医者も薬もどうにもならない。
そうだ、イエス様ならば治していただけるんじゃないかと思って、
彼らが遺産で来たのではなかろうかと思うんですね。
けれども来てみたら予約席は満席でですね、
もう玄関、立室の余地もなく入ることができない。
ではそれで彼らは諦めて過ごすことを変えていったかというと、
そうでもなくて、何を思ったか、
その階段を上ってですね、上って、そして屋根に穴を開けて、
そしてそこから病人を吊り下ろすという行動に出たわけですね。
ですから彼らの要求ははっきりしてますね。
この中部を癒してほしい。
でもそれに対してイエス様がどう対処されたかというと、
その中部に向かって、
こよ、あなたの罪は許されたと言われたんですね。
これは皆さん、この中部にしてもその4人の男たちにしても、
自分たちの希望、自分たちの要求、願いと噛み合ってない。
すれ違ってしまっているんじゃないか。
でもその時に敏感に強く反応を示したのが、
そこに言わせた立法学者たちでしたね。
立法学者たちはこのイエスの発言を耳にした時に、
これはとんでもないことだと反応したんです。
彼らはなぜそこにいたんだろうか。
おそらくエルサレムのサンヘイドリン議会、
つまりこの宗教的な異端者を取り締まるような機関でもある。
つまり日清妖言者みたいなのが現れたならば、取り締まらなければいかない。
そういう機関からおそらく発言されて、
何やら怪しいことを始めたと思われるこのガリラヤの
あのイエスというやつをちょっと監視せよと言われて、
そこにいたんじゃないだろうか。
ですから彼らは何かを願いごとがあってきたわけじゃなくて、
このイエスの動作、なりふりを見て判断し、
そして報告しなければならない。
そして彼が聞いているその時に、
この宗教に向かって、
子よ、あなたの罪は許されました、と言った。
それを聞いた時に、彼はどう言いましたか。
こう書いてありますね。
そこに立法学者が数人座っていて、心の中で考えた。
この人はなぜあんなことを言うのか。
神を冒涜している。
罪を許すことができるのは神お一人だ。
つまりこれは神冒涜の死罪に値するような犯罪行為じゃないか。
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彼らが強調しているのは、この人はですからね、この人は。
つまり人間が人間の分際で、
この神のみができることをするとは、
一見行為ではないか。
それはある意味で正しいわけですね。
つまり神は神であって人ではない。
人間は人間であって神ではない。
つまり神と人間との間には、
絶対に超えることのできない境界線があるわけですね。
神は創造者であり、全能であり、永遠である。
人間は作られたものであり、有限であり、そして滅びゆくものである。
ですからその人間が神になりかわって、
こういう発言をすること自体が、これはけしからん。
S様はそれをどうしてわかったんでしょうか。
心の中でそう思っただけなんですから、
S様はそれでもわかったんですね。
では、そう思われた、判断されたイエスとは一体誰なのか。
英国の有名な思想家でもあり作家でもある方はですね、
このイエスはこういうことはできないだろうか。
彼は狂人か。
つまり鬼畜か、それともペテンシか。
さもなくば本当に救い主か。
そのどれかでしかないだろう。
彼は鬼畜だったんですか。
ですから、ああ、お前の罪は許されたと言ったんでしょうか。
それともこしたんたんと利益を狙って騙そうとしたペテンシって詐欺師で
人々をちょろまかしてこういう発言をしたんでしょうか。
それとも本当にメシや救い主なんでしょうか。
その決め手は、皆さんこのイエス様の言われた次の言葉にありますね。
発説を見てください。
イエスは彼らが考えていることをご自分の例ですぐに見抜いて言われた。
なぜそんな考えを心に抱くのか。
この人にあなたの罪は許されたというのと、
起きて床を担いで歩けというのと、どちらが優しいか。
次です。
人の子が地上で罪を許す権利を持っていることを知らせよ。
彼らはこの人はと言いました。
しかしイエス様は自分のことを指して人の子はと言われたんです。
同じ人が使われていますけれども、決定的な違いがあります。
このイエス様が使われた人の子、これはマルコによる福音書では
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ここで初めて出てくる表現なんですけれども、
これは旧約聖書のダニエル書の7章の12節に登場するところの
メシやの称号なんです。
聖書の中では旧約聖書から新約聖書に至りますまで
人の子と言う時に、あの人も人の子よと、そういう意味じゃないんですね。
聖書の中では人の子とは、これはメシやの称号、
キリストと同じ意味なんですね。
つまりイエス様とは誰か、それは人なんですけれども、
しかし神となられた、神が人となられたお方であるということですね。
イエス様はこれを、もう前も話しましたね、
12歳の時に両親に連れられてエルサウェーミンにミヤモーデをした時に
ご自分が神の子であるという自覚を持っていらっしゃったんだということを話しましたね。
そしてイエス様がヨルダン川でバプテスマの言われから洗礼を受ける時に
天が開かれて、そして天から声があった
あなたは私の愛する子である、そのような認証を受けていらっしゃいますね。
あるいはヘンボウ山で突然イエス様が輝いた時に
やはり天からお声があって、これは私の愛する子であるという認証がありました。
イエス様はそのような自覚をはっきりと持っていらっしゃった。
つまりイエスは神の第二神格である、神ご自身であるけれども
天の父から使わされたメシアとして乙女マリアから生まれ
そして人類の救いのために、あの十字架に命を捨てて
そして贖いの業をもたらす、罪の許しをもたらすために来られたお方であるということですね。
昨日私はですね、ちょっと興味があって
衆議院選挙のいろんな情報が流れておりますけれども
参議院議員で青山茂晴という方がいらっしゃいますけれども
もう73歳なんですけれども彼は何を思い立ったか
参議院議員をばっさり辞任して、そして衆議院に蔵返して
そして兵庫八区、天瀬から立候補して打って出たんですね。
私もどうなっているかと思って興味あって見たんですけれども
彼は土曜日に午後3時に該当演説をした、その録画があったのでそれを見ておりました。
彼は非常に雄弁家でもって白白ですね。
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昔新聞記者だったこともあって大した人物なんですけれども
彼はですね、何と言ったかと言いますと
昨日私はどこに行ったかわかりますか?
昨日私は幼稚園に行ってきました。
私が幼稚園のせいになったんじゃありませんと言いながらですね
何で行ったのか、そして行った幼稚園も改革派の教会の幼稚園だった。
なぜかというと、実は私の母親はクリシャンなんでという話。
お、これは面白いなと思って聞いておいたんですね。
そして私の母はクリシャンだった。
そして私の父は創造主の仏教徒だった。
だから家の中はいつも宗教戦争だったという話になって
でもその小さい時から父が仏教徒、母はクリシャンなんで
私は聖書を読み仏陀も読んだ。
そしていつも両親は人のために生きなさい、人のために生きなさいと
小さい頃から教えられていたんだ。
だから幼児教育は非常に大切なんですよ。
ですからそこで働く法母さんや幼稚園の先生たちの給料があまりにも低いんで
これは何とかしなきゃいけない、そういう話をされていたんですけども
その彼がですね、実は自分の母はクリシャンなんですから
聖書も読んでいたんで、いつだったかパレスチナ戦争があった時に
イスラエルに旅行に行ったんですよ。
そして文部教会にも行きました。
そしてキリストの葬られた墓にも行ったんです。
そして私はそこで石像の後ろとのある横穴式の腹穴を見た時に
つくずを見た時に
本当にこれはキリストは間違いなく復活されたんだと確信したんです。
でも彼は自分はクリシャンじゃないと言うんですよ。
それでですね、彼は日本に帰って母親を訪ねた時に
お母さん、俺はキリストの文部の教会に行きさせて墓に行ったけども
そこでつくずくキリストは本当に蘇ったと、本当にそう思ったよと言ったら
お母さんがですね、そんな馬鹿なことあるわけないでしょう。
死んだ人がどうして復活するの。
それで、俺おふくろは本当にクリシャンか笑った。
そういう私にもゲレゲレ笑ったんですけどもね。
でも皆さん本当にイエス様は蘇ったんですよ。
乙女マリアが生まれこんなこと人間は信じられない。
そうでしょ。
そして死んだのに蘇った。
そんなことは普通考えられない。
でもそれが起こったんですよ。
なぜですか。
それは神が人となれた。
人にはできないが神にはできる。
神は人間、人類の救済のために、
罪の許しを得させるために究極の手段として
ご自身が人となり、そしてご自身が十字架で罪の犠牲となるために
皆さん、命を捨てられたんです。
そして復活して生きていらっしゃるから
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私たちの救いは間違いないんです。
確かなんです。
ですから皆さん、あの2千年前に
こよ、あなたの罪は許されました。
それは第一義的には彼に語られたんですけれども
それは時間を超えて、きょうですね
あなたの罪は許されました。
あなたの罪は許されています。
あなたの罪は許されています。
そしてその根拠はこの十字架にエス様が犠牲となって
神の子質として命を捨ててくださったので
あなたの罪は許された。
それは正真正銘、本当に有効なんです。
それによって私たちは本来の人間性を取り戻して
神様と和解し、神と交わり
神の栄光のために生きる
そういう人生と私たちは作り変えられたんじゃありませんか。
そのことを覚えて今朝ですね
神様に感謝いたしましょう。
ところでエス様はどうしてこの宙のところに
あなたの罪は許されたと言われたんでしょうか。
唐突に。
あの4人の男たちはぜひこの男を病人を癒してほしい
そういう気持ちで連れてきた。
その宙に対して何故連れてきたんですか。
それはただ一つですね。
これ大事なことですね。
それはエス様がこの4人の男たちの信仰を見てと言われたんです。
これ見てください。
エスは彼らの信仰を見てその病人に
この病人の信仰ではなくて
この連れてきた4人の信仰を見て
皆さん聖書の中にはヘーブル書11章に書いてありますね。
信仰がなくては神に喜ばれることはできない。
なぜならば神に来るものは神が存在することと
求めるものに神が報いてくださることと
必ず信じなければならないからである。
つまりそういう信仰をエス様は
あの4人の男の中に見て取ったんですね。
皆さん信仰って見えますか。見えますか。
信仰それは心の作用、精神の作用であり霊魂の作用ですね。
誰も外から見ることはできませんね。
見た瞬間にああ信仰深いなって
私はそう言えませんよね。
そういう信心深い顔をしている人もいますけれども
私なんか牧師だからね
なるべくそういう顔をしないといけないと思うんだけど
でもそんな顔つきや表情や動作でもって
分かるわけじゃない。
24:00
どうしてエス様が
分かったか。
それは皆さん彼らの突拍子もない行動ですよ。
連れてくることまでいいけれども
入れないと分かったならば階段をよじ登って
屋根を引っ張らして
皆さん向こうの屋根は平らで簡素な造りで
針にたるきを並べて
そして粘土で詰めて
その上を泥でかぶしたようなものです。
ですから簡単に壊せるし
また直すこともできるわけです。
でもいい迷惑ですよねその持ち主は
ペトロかな
頭きたかもしれないね
人の家を勝手に壊しやがって
ですからそれは社会的な常識から言うならば
一線を越えた境界を越えた
つまり人の持ち物に触れちゃいかんですよね
でもその一線を越えて
そして引っ張らして
この病人を釣り下ろすその動作を見たときに
エス様は彼らの進行を見たんです。
つまり言葉から言うならばそれは
人の進行によって他の人が救われるということなんです。
この中部が進行があったので癒されたのではなくて
この4人の男たちに進行があったので
この中部が許され救われたということですね。
私たちは聖書を通して
救われるということは個人的なことであって
その人自身の進行によるということは
原則であることは知ってますよね
有名なロマ書の10章にパブラがこう言いましたね
実に人は心で信じて義とされ
口で告白して救われるのです。
そうですよね。
みんな自分で信じて自分で告白して
洗礼を受けて救いが確かなものにされるわけですね。
けれどももう一つの真理は
これは他人の進行によって別の方が救われる
そういうことがあり得るということなんですね。
つまりこの中部の場合には
自分でイエス様のところに行こうと願っても
歩くこともできない、動くこともできない
しゃべることもできない
その時に必要だったのは
この4人の別の人の進行だったんです。
それと同じことが
まず私たちの周りにも数多くいらっしゃるんですよ。
精神的に編んでいて考える思考能力がない
身体に障害があって教会に来たくても
27:01
霊園に来ることはできない
目が悪くて聖書を読むこともできない
耳が悪くて説教を聞くこともできない
皆さんそういう方々が多数あるのです。
彼らに必要なことは
健康で信仰のある方が変わって
その方のために報酬をすることではないでしょうか。
そういうことがたくさん求められているのではないでしょうかね。
子供にも適応することはできるでしょう。
私たちは子供というのはまだ幼稚でもって
何もまともに考えることはできない
神様なんかわからないと思うかもしれない
ところがS様は幼い子供が私の元に来ることを
とどめてはいけないと言われましたね。
私は北海道にいた時に
スウェーデンの宣教師の話を思い出すんですよ。
不審宣教師でしたけれども
彼女は言いました
ヘルベル先生ですけれども
私は2歳の時に
もう自分が宣教師になることは分かってましたというんですよ。
いいですか皆さん。2歳ですよ。
もうその時に自分が宣教師になることは分かっていて
そして本当に日本に来たんですよね。
ですから子供といってバカにすることはいけないですね。
そのような子供たちに対して
信仰のある大人がお世話をする。
今はキズバイバイもそうですね。
教会学校もそうですね。
幼稚園もそうですね。
保育所もそうですね。
それを幼い時に
信仰のある人たちの手当によって
救われる子供たちが
起こされるということを覚えておこうじゃありませんか。
もう一つ私は適応したい真理がありますけれども
それは結婚している夫婦で一人がクリスチャンで
一人がクリスチャンじゃないケース。
その場合に信じている配偶者によって
信じていない配偶者が
救いの恵みに預かるんだということなんです。
そんなこと聞いたことないと思いますか。
パウロがそう言ってますよ。
ごめんなさい。
コリント第一の手紙の7章302ページ。
パウロがこういった歌詞をあるんですね。
13節ですね。
またある女に信者でない夫がいて
夫が一緒に暮らすことを望んでいる場合も
離縁してはいけません。
信者でない夫は妻によって聖なるものとされ
また信者でない妻は
夫によって聖なるものとされているからです。
そうでなければ
30:00
あなた方の子供は穢れていることになりますが
実際には聖なるものです。
昔この初代教会にも
いろんな質問がパウロに寄せられたんでしょう。
つまり結婚している
しかし妻がクリスチャンである場合に
しかし夫がクリスチャンじゃない
そういう場合にはどうしたらいいんだろうか。
皆さん聖書はっきりと
妻がクリスチャンであるならば
信仰があるならば
その妻の信仰の家に
夫は聖なるものとされている。
逆に夫がクリスチャンであり
穢れているならば
その夫の信仰の家に
妻が聖なるものとされている。
この聖なるものというのは
これは救いと同義語なんです。
聖とは性別である神によって
分けられるということですね。
ですからネオワクはそのような場合に
その配偶者の信仰は今はないけれども
主体的に自分から進んで
信仰を告白する
そういうことになることを
祈り求めるべきだと思うんですね。
私はそういうケースを2つ知っておりますよ。
末等にいた時も
私の前任者の時代に
ヨッサムは死んだという
トラックドライバーがいました。
私が赴任した時には
彼はもう病気で寝たきりでしたね。
奥さんはクリスチャンじゃない。
何回か私が訪問したことがありましたけど
やがてその夫が死んだんですね。
私たち何の連絡もなしに
葬儀が行われて
それは仏式で行われてしまいました。
けれども不思議なことに
その葬儀が終わってから何週間後のうちに
その奥さんが教会に来るようになり
そして信仰を告白し
洗礼を受けて
ずっと一緒だったんだ。
覚えてるよね。
二木さんという方なんですけれども
もう亡くなられました。
私は不思議な経験だと思うんですね。
ご主人が先に救われたんです。
彼女は教会に来ることもありませんでした。
けれども夫が死んだ後に教会に来たんです。
またある私が別の教会で奉仕をした時に
私が説教した後に
一人の男性が前の方に出てきて
おいおい泣き始めました。
そして彼は曰く
私の妻は死んだのです。
私の妻は自分のために何回も祈ってくれて
そして教会に行こうと言ってくれたけれども
私はかたくなに拒んでいました。
でもその妻は死にました。
それから彼は帰られたんですよ。
それから教会に来るようになったんですよ。
そして私は説教した後に
彼は前に来ておいおい泣いてました。
なんで私はまだ妻が生きている時に
教会に行かなかったんだろう。
悔いて悔いて悔やまれるというんですよ。
33:03
私はそれを通して
この奥さんの信仰のように彼は
性別されていたんだ。
そして神様のときにかなって
そして救いの恵みを預かった。
そういうケースは見ております。
ですから皆さん
そういう場合には感謝しましょう。
神はあなたの配慮者を
結婚の日に生徒を認めて
その目で見ていらっしゃり
数えておられたということを
感謝しましょうじゃありませんか。
そしてこれは皆さん
私たちの教会の取りなしの祈りに
適応できるでしょう。
教会では水曜日の度ごとに
私たちはたくさんの祈りの課題
名前を挙げて祈ります。
なぜですか。
それは自分から進んで
教会に行こうともしない
信じようともしない
多くの人々のために
私たちが信仰を持って
神様を救うことがおできになると
信じて祈るから
その人はその信仰の上に
救いの恵みに預かる可能性があるということですね。
ですから私たちは
本当に忍耐強く
取りなしの祈りをすることに
したいとそう思うんですね。
先週の水曜日の祈祷会で
小倉氏が山崎兄弟が奨励で
米伝の6章の37節から
説教をしてくださいましたけれども
そこでは
エス様が言われた言葉ですね
父が私にお与えになる人はみな
私のもとに来る
私のもとに来る人を
私は決して追い出さないと言われた
そこから福音宣教の主権は
神様にあるんだ
つまり私たちがどうこうしたかといって
人を救われるわけではない
神様の主権にあるんだ
それは一面の真理ですね
しかし神は福音宣教を
我々に委ね
そして私たちの取りなしの祈りを通して
救いに導こうとして
お出でになるということを
覚えようじゃありませんか
どんな人でもその可能性があるんですね
私たちが祈って
命を与えなければなりません
祈ることによって
神はその人を
見据わしてくださるということを
覚えて祈っていきたいと思うんですね
ちなみにこの場面で
結果はどうなりましたか
異想外な展開ですね
彼らは癒しを求めてやってまいりました
でもイエス様が言われたのが
今夜あなたの罪は許されたでしたね
そしてそれを咎めた
立法学者たちは報えました
けれどもそれに対して
イエス様はどう対処されましたか
見てください
先ほども読みましたけれども
36:02
9節ですね
この人にあなたの罪は許されたというのと
起きて床を担いで歩けというのと
どちらが優しいかと問いかけをされたんです
クエスチョンですね
どちらが優しいか
なんでイエス様はこのような問いかけをしたか
それは一つには立法学者たちの
過ちを明らかにするためでしたね
つまり立法学者たちは
尊重そからの人間が
神様になり代わって人の罪は許された
あなたの罪は許されたということは
言語道断な
神冒涜の罪に値するぞと言っている
つまり人間なのに
神であるかのように
罪は許されたという
そんな口で言うことは
誰でも言うことはできるじゃないか
そんなことは優しいことじゃないか
お前見てみろ
この自分の目の前にいるところの
この手の麻痺した
足の麻痺した
口の麻痺した
この人が治るかどうか
そっちのほうがはるかに難しいじゃないか
お前はペテンシだ
人間様なのにそんなとんでもないことを言う
でもイエス様は
どちらが優しいかと言われたとき
皆さんイエス様は
どっちが優しいか答えを出していませんね
皆さん誰だと
どっちだと思いますか
つまり
あなたの罪は許されたと言うのと
立って床を取り上げて歩けと言うと
どっちが優しいか
これ皆さんに
今晩一晩中考えてください
どうなんでしょう
イエス様の立場からお答えすると
皆さん
床を取り上げて歩け
このほうが優しいんです
あなたの罪は許された
それは神だけが
しかもこの十字架のとてつもない犠牲を払って
代価を払って実現する
それは
それは人間的に考えれば
至難の技ですね
でも神は神であるからあいうえに
この犠牲の行為をなされた
神はその一人を頼むほどにこの世を愛された
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく
永遠の命を得るためである
つまりとてつもない犠牲を伴うところ
この罪の許しは
これは神様だからできることであって
人にはできないんです
でもイエス様には
その意味では
皆さん
その場で
床を立って
立って歩け
そして癒されることは
39:01
いとも簡単なんですよ
驚くべきことじゃありませんか
ですから皆さん私たちは
教会では
病気のために祈るんです
祈ることが許されているんです
昔事ではないんですね
イエス様は信じる者に
癒しをもたらしてください
ですから
ヤコブがね
教会に進めてるでしょ
ヤコブ書の5章の
13節
あなた方の中に苦しんでいる人があれば
祈りなさい
喜んでいる人があれば
賛美の歌を歌いなさい
あなた方の中に病気の人があれば
教会の長老たちを招き
主の名によってオリーブ油に祈ってもらいなさい
信仰による祈りは
弱っている人を救い
主はその人を起き上がらせてくださいます
その人が罪を犯しているのであれば
主は許してくださいますと書いてあります
ですから皆さん
遠慮なくね
病気の時には
電話をください
たどり着いてください
そして祈ってくださいと
申し込んで結構なんですよ
ここは病院ではありませんなんてことは言いませんから
教会の長老たちを
この場合
皆さん役員もそうですよ
覚悟してくださいね
4人の役員の方
あなた方は長老です
ですから壊れたならば
オリーブ油を塗って
私は今日準備してるんですね
オリーブ油をね
オリーブはこれは精霊のシンボルなんです
つまり精霊が神の癒しをなされる
その象徴がオリーブ油なんですね
これを塗ったからといって
物理的に癒されるわけじゃない
これは象徴的なもんですね
でも神は今も
イエス様の名によって
祈る時に病んでいる人を癒してください
ということを意味しています
けれどもここで
はっきり言っておかなければならないことは
癒しはこれは絶対的なもの
決定的なものではないということですね
しかもその原因は様々であって
ある場合には
神様がそうあることを
良しとされる場合もあるんですよね
いいですか
パウロがそうでしたね
肉体にトゲがあった
苦しめられている時に
パウロは3回もイエス様に祈ったけれども
癒されなかった
パウロの時さえも癒されなかった
パウロが手を振ると癒される
前掛けに触ったら癒される
ペトロなんかは自分の影を踏んだ人が癒されたと書いてありますよね
ですから癒しは当たり前だったんです
でもそういうパウロ自身が癒されませんでした
イエス様の答えは
私の恵みはあなたに対して十分である
力は弱さの中に完全に現れるということはお答えだったんですね
42:02
彼は減り下るために
必要な処置であったということですね
ですから癒しを絶対的に考えないようにしましょう
しかし癒しは恵みであり祝福であり
神は御心のままに癒してくださいということを覚えましょう
そしてもう一つだけここで注意したいことは
イエス様はこのマルコニュール福音書の中で
あなたの罪は許されたと言われた時に
これ言語でもっては複数形なんですね
そしてヤコブ社の先ほどの場所でも
病んでる人は祈ってもらいなさい
その罪も許されるであろう
そのハマルティアということはもう複数形なんです
ということはここに考えられることは
示唆されていることは
その病気と罪が関連があるということなんです
その病の原因が犯した罪にあったということが
示唆されているんですね
パウロが福音書館の中で
罪に言及するというのは絶えず単数なんです
それは人類としてアダム以来の現在を意味しているんですね
しかし個々の人が犯す罪によって
病気が起こることがあるということが示唆されています
しかしそのと同時に
全ての病気が罪が原因だということは言っているわけではないですね
病気の原因は本当に事故があり
薬物によりあるいは人の言葉により
あるいは感情の起伏により
様々な症状が現れるわけで
ですから一つ一つに対処しなければならないということですね
そういうことを踏まえた上で
しかし私たちは健康のために
神は健康であることを望んでおられます
もう私なんか老化現象で
しょっちゅう腰が痛くなってですね
足はガクガクですよ
でも私はリハビリをしながら
なんとか持ちこたえて
うんとこうんとこやってるんですけども
神様の祝福があれば報酬をさせていただきたいと思います
でも感謝しましょう
この癒しの祝福が与えられているということですね
イエス様は何もはして
罪の許しのために十字架にかかるべく
命を捨てられました
私たちの罪は許されて
神と和解になっていることを感謝いたしましょう
そして私たち信仰ある者が障害がある
自分で進んで対処することのできない方のために
取りなしの祈りをする
奉仕の働きをする
45:00
そういう技のためにですね
あの4人の男たちのように
時には突拍子もない屋根を打ちこまして
そういう行為に出ることがあるかもしれない
でも死はその信仰を見て技をなしてください
そして積極的に健康のために
病のために祈ることにいたしましょう
私たちはそのような祝福を
キリストにあって恵みによって与えられていることを
感謝しようじゃありませんか