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2024-06-02 32:24

「再び信仰の本質を」2024年6月2日のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2024年6月2日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com
▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/

(聖書)サムエル上3:10主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」 

歴代下16:9主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる
 

メッセージ題 :再び信仰の本質を(サムエル上3:10、歴代下16:9)
*人間は限界があって、一つを重視するなら、他の一つは同じように重視できない。信仰の本質と儀式がそのようになる可能性が。今まで長い間、新年、四旬節、十字架、復活、昇天の大事さをその出来事は大事な意味を持っている。しかし儀式!本質は神を知り、神を愛すること。儀式がなければ?本質がなければ!人生の様々な問題の中で、何より先に本質、神様との関係性を…

1.それを調べる為に、サムエル3-7章を通して・・・登場人物は、エリ祭司長、エリの息子たち、サムエル。
*聖書は・・・ エリに対して?4:18 エリの子供たちは?2:12 サムエルに対して?2:26*サムエル3:1当時の状況を一言で主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもなかった?なぜでしょう?神様を求め、御声を聞こうとする人がいなかったから。*エリの息子たち?1)2:12祭司長が神に対して無関心?2)2:17主への供え物を軽んじた?祭壇の生贄を自分勝手に?3)神殿に仕える女たちと淫らな行いを?<-その話を聞いてエリの忠告、2:25子供たちは無視した、神様に対する恐れがないから・・・勝手な行動を。<-神様の繰り返される警告があっても?*そのときイスラエルとペリシテとの戦争が。負けました。負けたなら神様になぜ負けたのか祈りで聞くべき。しかし神の箱を携えていなかったからだと勝手に思い?二人の息子が神の箱を携えて参戦して大きく負けました。3万人の民も、二人の息子も、エリ祭司長も、イカボド嫁も死んだ

2.神の箱さえも、ペリシテに奪われました。それで神様とイスラエルは終わったのか?自ら栄光を守られる神様
*サムエル上5章で、神の箱をペリシテの神、ダゴン神殿に置かれた。次の日?ダゴン神の頭と両手が次の日も・・ なぜ神様はダゴンの頭と手を?考えと判断力がない、無能な偶像であることを*神様はダゴン神だけでなく、ペリシテの民にも災いと重い皮膚病を・・・神の箱を置かれる地方はどこでも、7か月間ペリシテは神の箱の故に国家的な禍で恐ろしい経験を・・・取り戻そう!―>イスラエル陣営に戻されたが、べト・シェメシュで?事件が! 恐ろしい神様、神の箱の尊厳さ!*それから20年間、怖くて神の箱には・・・その間、アビナダブの家で!霊的な指導者がいない


3.いつから、イスラエルがただしくたてられ始まったのか?
*サムエル上7章で、サムエルが登場!先ず信仰再建運動を。7:3神に立ち帰る為には偶像を捨てて心を正しく主に向けただ主のみ仕えなさい!そして、7:5、6イスラエルの初めの全国民祈祷運動を!それを聞いてペリシテが攻撃を?祈るとき、自ら戦ってくださる神様!7:10雷鳴で混乱させ?そして攻撃すると・・・ミツパからシェンまで!エベン・エゼルの神様!そして平和が・・・
#ここで大事なのは、信仰の本質の大事さ!またそれを指導する霊的な指導者の必要性!霊的な指導者と民が自己中心的な信仰を持っているとき、国が滅ぼされる状況でも神様は働かなかった。しかしサムエルのような正しい指導者が現れ、正しい御言葉を伝え、祈るとき神様は働かれ国を再建された。@神は全知全能なお方しかしいつ働くのか、いつご自身を隠すのか?信仰の本質

サマリー

信仰の本質は、神を知り神を愛することです。メッセージは、信仰の本質に焦点を合わせ、エリ最長とサムエルの対比を通して語られます。20年間のイスラエルの信仰の停滞と神様の沈黙、サムエルによる信仰の再建運動がサムエルによって語られ、神様の身分を求める信仰の人たちに向けられています。

エリ最長と息子たちの信仰生活
今日は、「再び信仰の本質を」という対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
人間は限界があって、一つを中止するなら 他の一つが下ろすかにしやすいし、
また一つのところに集中したいなら 他のところはなかなか集中できない部分があるんですね。
私たちがどこに中止しなきゃいけないし、 またどこに焦点を合わせなきゃいけないのか、
私たちの信仰には儀式と本質があります。 私たちはいつも本質にポイントを合わせて儀式をうまく取り入れなければいけない、
そのような私たちの課題があります。 私たちは長い間、信仰の大事な教示を行ってきました。
信念の教示、また資潤説の教示、また柔軟衆、またイエス様の忠実化、イエス様の復活、
また焦点、そのほうが弱かったんですけど、 このことがキリスト教で非常に大事な教示です。
大きな意味があります。 それにもかかわらず、それは儀式です。
この時私たちは儀式を集中するんじゃなくて、 いつも本質のことを考えていかなければなりません。
ですから6月はこの本質の部分をもう一力を入れて考えていきたいと思います。
信仰の本質は皆さんのご存知の通り、 神を知ること、神を愛することです。
例えば、家庭にお金がたくさんあります。
たくさん儲けました。 それで大きな家を買って、車を買って、ピアノも買って、
またお家にお客さんたちを招いてパーティーを開き、 立派な家庭としての姿を見せたんですけど、
夫婦の間の愛がない。 家庭は立派だけど、夫婦の間が良くない。
こうしたら家庭として何か問題があるそうですね。
私たちの信仰も同じです。 教会に熱心に来ます。
教会の信徒たちは外の働きを熱心にします。 教会は教事がたくさんあって、それを人を呼び集める。
だから大きな教会になりました。 しかし、
教会をよく見ていたら、その中で信徒たちは神様を愛する心がない。
イエス・キリストを愛する心がなければ、 その教会って、その大きな教事って何でしょう。
人々が集まるんだって、その教会が神様に喜ばれると思いますか。 私たちの人生、いろいろなことがあります。
いろいろな問題にかかえて、この問題によって患っているなら、 まず考えなきゃいけないことがあります。
これが、私は本質をうまくやっているのか。 私は神様を愛しているのか。
神様との親しみに問題がないのか。 これをよくよく調べなければなりません。
私たちはこの間、イエス様の十字架と復活、 また復活の信仰の素晴らしさ、勝利、信仰は勝利だといろいろ考えてみました。
ところが、神様の愛する心が今、私たちはどうなっているのか。 そこをおろすかにしているなら、
私たちの教会、私たちの信仰は、神様に対して何にもないんです。
ですから今日は、再び信仰の本質をという題を持って、 一緒に考えていきたいと思います。
マタイの中山集、中山説に、 見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないから、という表現が度々聖書に現れています。
知っていると言っているのに、知っていることではない。
信じるって、信じていると言っているのに、 信じているんじゃない。
どんな話ですか。 知っていると言ったら、今のように生かされないでしょう。
信じると、本当に信じると言ったら、今のようにいかないでしょう。 何か、頭で信じていること、知っていることと、
実際の生活が、もうかけ離れているということを、 聖書が言っていることです。
神様、よく知っている。 神様、よく信じている。 だから、教会で色々な職務まで担っているんですけど、
その人の働きを見ていますと、 神様は全然、願っていないことばっかりやっている。
これだったら、この信仰、問題あるでしょう。
今日、私たちは、神様が喜ばれることを、 よく知っていかなきゃいけない。
本質的なことを、よくやっていきたいと思います。 それを調べるために、今日は、サムエル城の3章から7章までを通して、
メッセージを分かち合いたいと思います。 サムエル城の初めのところの登場人物は、
エリ最首相。 また、エリの2人の息子、最首相。 また、サムエルが登場します。
聖書は、エリ最首相と、エリの2人の息子。 また、サムエルは全然違う信仰生活をやっていたと、
それを聖書に、わざわざ書いてあります。
サムエル城の初めの部分に現れるエリ最首相は、 昔は立派な最首相だったかもしれませんけど、
今は、神様との関係性があまり良くない。 神の見こえを聞いていない。
だから、神様に用いられない存在でした。 私はたびたび、
私は今、牧会20年くらいしていないのに、 エリ最長になってしまったんじゃないか、
ということが、私たちのいつもの悩みです。 だから、もう一度、エリ最長みたいになってはいけないよ、
いけないよ、と思いながら、私自身を責めているところでありますけど、 エリ最首相は、事実、神様から、もう、
見捨てられている状態。 エリ最長の二人の息子に対しては、聖書を明らかにしています。
サムエル城の2章12節。 エリの息子は、ならず者で、主を知ろうとしなかった。
最長は、神様を知ろうとしない。 神様に関心がない。
こんな最長もいるんでしょうか。 反面、サムエルに対しては、
サムエル城の2章26節。 一方、少年サムエルは、すくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれるものになったと言います。
この雰囲気、大抵はご存知でしょうね。 サムエル城の3章1節に、こう書いてあります。
その頃、主の言葉が望むことは少なく、 幻が示されることも稀ってあった。
じゃあ、当時、主の言葉が望むこともなく、幻もなかった。 なぜないんでしょう。
誰も神様に対して関心を持っていない。 誰も神の声、神様に対して聞こうともしない。
皆さん、誰も自分の神様の声を聞こうとしないのに、 神様はわざわざお話ししますか。
エリの2人の息子は、父に引きついて、 最初の役割をしましたけど、
神様に関心がない礼拝
彼たちはどのような最初の役割をしていたのか、 聖書は詳しく書いています。
まず、彼らは最初でありながら、神様に対して関心がなかった。 牧師でありながら、神様に対して関心がない。
神を知ろうともしない。
2番目、彼らが、民たちは礼拝のために生贄を持って、 それで焼き尽くす捧げ物として、神様に礼拝をするんですね。
彼たちは礼拝には関心がなく、 持ってきた生贄、お肉とか捧げ物に関心があって、
捧げる前に、生のお肉を私にくれ。 それを私は、あと食べますから。
お肉ばっかり求めてきたと言います。
だから聖書は、種の備え物を彼らは軽んじっていたと、 聖書は書いてある。
また1番問題は、神殿に仕える女祭司達と、
エリの子供達、祭司長は、 乱なことをたくさん行ったと言います。
そのような祭司長によって、イスラエルが運営されていること、 それが噂で色々聞こえて、エリがそれを聞きました。
だから、息子達よ、そんなことやってはいけないよ、としてたのに、 彼らは父の声に耳を貸そうとしなかったと言います。
本当に彼らは、神様がどんな子だか知らなかったし、 神様に対する恐れを敬うことは全くなかった。
神を恐れないから、神殿で自分たちは、 自分が神のように勝手に振る舞えていった。
神様、こうしてはいけないと思って、 下辺達を通して警告されるんです。
サムエル上の2章30節、 それゆえイスラエルの神主は言われる。
私は確かに、あなたの家とあなたの先祖の家は、 独自に私の前に歩みと約束したが、今は決してそうではさらない。
私を重んじる者を私が重んじ、 私をあなたの者を私は軽んじる、と言う。
それで少年のサムエルを通して、 一番サムエルに初めにくださった神の見こえは、
エリー最長の家の懲戒、裁きでした。
エリー最長の家はこれからどうなるのか、 ということを少年サムエルに教えてくださった。
このような状態です。
エリーも、全ての息子をどのように上手い立派な最長にしてあげたい、 ということを諦めちゃった。
戦争における神の保護
エリーも諦めちゃって、エリー2人の人は成らず者になって、 イスラエル国は一体どうなるんでしょう。
この時、イスラエルとペリシティの間に戦争が起こりました。
もうこれは当たり前としてイスラエルは負けました。
皆さん、戦争に負けたとするなら、 イスラエル民が何千人死んでしまって、
そのような問題だったら、 私だったらリーダーだったらどうするべきですか。
死の前にひざまずいて、死をなぜ負けたんでしょう。 何が原因でしょうかと聞くべきでしょう。
彼は神様に問いと思いませんでした。 聞こうと思いませんでした。
ただ、神様の契約の箱を携えていくべきだったのに、 それを持っていかなかったから負けた。
じゃあ、これから神の契約の箱を携えていくなら、 私は勝利するだろうと思う。
彼らは徹底的に、形式的、形式的な発想です。
ですから、エリーの2人の最初は、 その契約の箱を片に携えて、それで戦争に出ました。
じゃあ、そうしたら戦争に勝ちますか。 いいえ、大敗をしました。
その結果、戦争でイスラエル民は3万人が死んで、 神の契約の箱を奪われてしまい、
エリーの2人の息子さえも戦争で死んでしまいました。 神様がドムにおられないので、
神の契約の箱を携えていくんだって、 戦争に勝ちますか。
何の意味もありません。 結局、フェリステの戦争で2人の息子が死に、
神の契約の箱を奪われたという話を聞いて、 エリーは仰向けで落ちて、
首が折って死んでしまった。 その時、孫が生まれたんですけど、その嫁が
イガボットと言いながら、嫁も死んだ。 イガボットという意味は、神の栄光がイスラエルを剥がれてしまった。
エリー最初が率いるイスラエル。 神の民なのに、なぜ神様が保護してくれないで、
最初の家族みんな死んで、神の契約の箱も奪われ、 3万人のイスラエルの民が戦争で死ぬ。
こんな悲惨な結果を迎えるようになったんでしょうか。 その原因は何でしょうか。
また、神の契約の箱を奪われちゃったから、 神様はコリンジャイがもうこれからためになるんでしょうか。
いいえ、これから神様は、 誰も自分をために働いてくださらない。
ペリシテの勝利とダコンの神殿
その時に、神様は神自ら、 神の栄光を守られる神様。
神様は人間がもうどうすることもできない、 不可抗力できない神様です。
サメルジョーの5章に見ていますと、 ペリシテの人々は戦争に勝ちました。
神の契約の箱も奪いました。 その神、イスラエルの神を私たちが奪った。
それで、ペリシテの神の名前が、 ダコンという神がいるんですけど、
ダコンの神の神殿に、 エオバの神様の契約の箱がそこに置かれた。
その意味は、見てみろ、 イスラエルの神はダコンの神に負けた、
ということを全世界に示される、 そのようなことでした。
しかし、次の日の朝起きてみれば、 ペリシテの神、ダコンの頭と両手が切られて、
そこに寝転がっていました。倒れていました。
おかしいなと思いながら、それを元に戻して、 次の日を見てみますと、
また、ダコンの頭と両手が切られて、 パタンと倒れていました。
なぜ神様がダコンの頭を切っちゃったんでしょう?
それは、ダコンの神は何の考えも、判断力もない、 偶像に過ぎないということを見せてくださった。
また、両手を切られて、倒れているという意味は、
この手で何かできる能力は全くない、偶像に過ぎない。
それを神様が示してくださったということでしょう。
ダコンの神は、エオバの神様によって、 徹底的にダメになりました。
ところが、神様は、ペリシテの神、 ダコンだけを討たれたんじゃなくて、
ペリシテの民を討たれるんですけど、
神の契約の箱を奪って、持ってきたその日から、
ペリシテの民の間に、ひどい腫れ者が出てしまった。
疫病が出てしまった。
重い皮膚病が民の間に、それで蔓延していくんです。
ああ、なぜなんだろう、と思いました。
だけど、この治療じゃなくて、他の治療に、 その神の契約の箱をそこに移しましょう。
他の治療に持っていったら、またその治療も疫病が回り、
重い皮膚病、また人々が腫れ者で耐えられなくなった。
また他の治療、また他の治療、 同じような現象が起こりました。
だから、ペリシテの民は、
エオバの神によって、私たちはもう生きられなくなった。
だから、自分たちはもうダメだ、と。
7ヶ月間、ペリシテの国全体的に、 災いによって苦しめられました。
だから、ペリシテの国民が、
このことをどうしたらいいんだろう、 悩みながら会議をしました。
皆さん、主の契約の箱を、
ペリシテの人々に奪われる時も、
神様は何の力もない、
神様はただ眠っているような存在のように見えました。
しかし、生きておられる神様は、
タコンとペリシテの民を打たれながら、
自ら神様の存在、神の栄光を表したのです。
サムエルによる信仰の再建運動
サメル城の6床にペリシテの民たちは、
この契約の箱を耐えきれないので、
これをイスラエルに取り戻してしまおう、 戻してしまおうと、
会議をした結果、馬が引く馬車にそれを乗せて、
イスラエル地営に取り戻しました。
イスラエルが何もしていないのに、
神の契約の箱がイスラエル地営に取り戻されたのです。
イスラエル地営のベッセメスに来たのですが、
ベッセメスの人は、
この神の契約の箱の中に一体何が入っているのかと思いながら、
蓋を開けてそれを見ていたのです。
それを見た人、その人が、
聖書には5万人とか70万人、 その場で死んでしまったと書いてあるのですが、
とにかく大勢の人、それを見た人は、 その日、全部死んでしまったのです。
神様はこのように、ペリシテであれ、イスラエルであれ、
神様に対する恐れうやまう心なし、
無闇に行う人々に、厳しい神様であることを、 自ら示してくださいます。
では、皆さん、このような質問があるのではありませんか。
神のご臨在がこんなに強いなら、
初めからペリシテのところで戦争に勝ってくれればいいし、
また、契約の箱が奪われないようにしてくれればよかったのに、
なぜ神様はその時は何もしていなかったのだろうか、疑問がありますね。
とにかく、その事件があってから20年間、
イスラエル民さえも、神の契約の箱が怖くて怖くて、 誰も近づかなかった。
だったら、この神の契約の箱はどうしたのか。
7章1節を見ますと、
アヒナダプの息子エルアザールを性別して、 主の契約の箱を守られたという。
この20年間、民たちは、これは怖いもの、怖いものと思いながら、
神様に対して近づく人は誰もいない。
ただただ、怖い思いを持って、信仰ありかないか思わない状態で、
ただただ生きてきたということです。
なぜそのようになってしまったのか、
誰か教えてくれる霊的なリーダーがいなかったか。
いつからイスラエルが正しく建てられたのか。
サムエル・ジョーの7章に、いよいよサムエルが聖人になって登場します。
そして、神の国イスラエルを正しく建て直そうと思いました。
それで、イスラエルピッドたちの信仰の再建運動を行うのですが、
7章3節にこう書いてあります。
サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。
あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、
あなたたちの中から異形の神々のアシュトレットを取り除き、
偶像を取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ使いなさい。
そうすれば主はあなたたちをペリシトの手から救い出してくださると言います。
このように神様に対して正しい信仰の道をサムエルが教えるから、
民たちは偶像を捨てて神様だけを拝むように誓います。
とにかく民たちに対しては、この信仰生活はこうしなければいけない。
このような礼的なリーダーが教える人は必要です。
この民たちが従ってくれる、これを見て力を受けたサムエルはこう言います。
7章5節です。サムエルは命じた。
イスラエルを全員三つ場に集めなさい。
あなたたちのために主に祈ります。
ここでイスラエルが誕生して初めに全国民の祈りの運動が行われました。
7章6節にこう言います。
人々は三つ場に集まると水を汲み上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、
そのところで私たちは主に罪を犯しましたと断食しながら、悔い改めながら祈ったと言います。
ところがイスラエルが集まって祈っているという話を聞いて、敵であるペリシテはまた攻撃にしてきます。
驚いたイスラエル。神様祈るために戦争準備ができませんですと神様に祈ったら、
ここで神様は自ら戦ってくださるんです。
7章10節にはこう書いてあります。
主がこの日ペリシテ軍の上に激しく雷鳴を轟かせ、彼らを混乱に陥れたので、
彼らはイスラエルの前に打ちまかれたと言います。
それによってイスラエルは水から精に至るまで地域を占領するようになったんですけど、
その時出た言葉がエベンエゼルという言葉です。
エベンエゼルの神様。神様は私たちをここまで助けてくださったと言います。
そしてサムエルが統治するその時はイスラエルには平和があったと書いてあります。
これが3章から7章までの記事ですけど、ここまで読みながら何がわかりますか?
ここで信仰の本質の大事さ。
またそれを教えるべき霊的なリーダーの必要性です。
イスラエル民が形式的、習慣的な信仰生活し、信仰生活する目的が、
自分がうまく食べて生きて、うまく過ごすために自己中心的な信仰生活する時は、
国が滅ぼされる状況になったのにもかかわらず神様は何もしていなかった。
そうです。自己中心的な信仰。神様に対しては関心がない。
ただ神様は自分のうまく生きるための豊かな生活のために手段として用いる時には、
神様がイスラエルに対してイスラエルがダメに滅ぼされる状況になっていたとしても、
神様は何もしていなかった。
しかしサムエルのような神中心的な下辺が祈りながら御言葉を伝え、
そして神様を呼び求める時、神様は来られて働かれ、国を建て直し、
全知全能の神の栄光を全世界に示された。
皆さん、もともと神様は素晴らしい方です。
栄光を受けるべき全知全能、絶対全能、不可抗力的な神様です。
しかしその神様がいつご自身をまともに表されてくださるのか、
これは神様を正しく知り、愛し、信じる下辺が現れる時です。
天書三書七書五位まごとに主なる神は、
その定められたことを下辺などの預言者に示さずには何事もされない。
神様は人を通して働こうと決められた。
この人がどうするかによって神は栄光を表す場合もあるし、
神様はもう何もしていない、眠っている状態になる可能性がある。
沈黙する時もあるということです。
大事なのはどんな時神様は沈黙され、どんな時神様は裸れるのか、
これは真ん中で立っている、伝える下辺の働きによることだと。
サムエルのように神様を正しく知り、神様を愛し、
神様だけをイスラル人に伝える、神の道を伝える下辺が現れる時、
神様はご自身を豊かに現されてくださった。
この下辺がやっているこの言葉、サムエル帳の三書中節、
道場お話しください、下辺は聞いております。
皆さんこの御言葉はこの姿勢、今どんな時代であれ道場お話しください、
下辺は聞いております。聞いたら私はその通りやります。
このような下辺が主の前に立って主を崇め、
主の前で見声を聞こうとする姿勢を持っている下辺がいるなら、
神様はいくらでも働いてください。
しかし、残念ながらエリ・サイチョとその二人の息子、
彼たちはサイチョです。神の前で聞くべき姿勢、
立場にいたのにもかかわらず、彼らは聞く耳がなかった。
だから神様はその時代の神の計画を何にも示してくださらなかったし、
神の働きは全くしてくださらなかった。
その時神様が心に燃えて、サムエルはまだ幼い時、
サムエル同士での信仰の本質
サクちゃんよりは大きい、今私たちに見たらアユミちゃんみたいになったでしょうか。
アユミちゃんに対して、アユミちゃん、アユミちゃんと4回もサムエル、サムエル、サムエル、
サムエルを誰が呼んでいるのかわからないからエリ・サイチョに言って、
私はお呼びになるんでしょうか、いやいや私は呼んでいない、
それを4回も繰り返しながらサムエルに神様のこの心の中にある全てを打ち明けてくださった。
歴代芸能中6章9節、主は世界中至るところに見渡され、
ご自分と心をひとつにするものを力つけようと探しておられる。
神様は今も、私たちは全身全力で神様を持っている人たちを探しておられます。
世の中で人々もこう言います、今は終わりの時期だと言います。
皆さん、終わりの時期であるなら、神様はこの世に対して働かれることはどれほどたくさんあるでしょう。
神様が働き人を探しておられるのに、みんなエリ・サイチョのようで、
みんなエリの二人の息子のようだとするなら、神様はどれほど気の毒だと思われるでしょう。
年取ってから耳が鈍くて聞こえないよ。
また、太ってしまって体が動けない。
またある人は祭壇に捧げるこの捧げ物に関心があって、
それをどのように私が何かいただくことができるか、そればっかり考える。
また、教会の姉妹たちを誘惑して、未だらのことばっかり考えている、このような宗教人たちがいるなら、
神様はこの時代に対してどうすればいいのでしょうか。
気の毒だ、気の毒だと思われないでしょうか。
しかし、サムエルのように、私は決して祈りを休む罪を犯さない。
また、神の道をいつも民たちに示してあげたい。
サムエル条中二章二十三節。
このような人たちがいるなら、神様はその人を通してどれほどたくさん働いてくださるでしょう。
神様は今、神を求める人を探しておられます。
神の道を正しく伝える人を探しておられます。
私はこのメッセージを準備しながら、私たちの教会の教師の皆さん、神様は皆さんをどれほど愛しておられるでしょう。
子どもたちに神の御言葉を、神の道を何とかうまく伝えようとして、
一週間ずっと研究しながら、日曜日の朝、子どもたちにメッセージを伝える皆さん、祝福があります。幸いです。
本当に神様を愛し、民を愛する信仰の本質を求めるサムエル同士で、
神様は御言葉一言も地に落ちることはないように、神様は全て働いてくださいました。
私たちの神様は素晴らしいお方です。私たちの想像を超えて働くお方です。
神様には不可能がありません。しかし大事なのは、その神様を誰がどのように使えるかによって、
神様は積極的に働くこともできるし、ご自身を隠され沈黙することもできます。
そうでしょう、皆さん。私は怒っています。私が気持ち悪い時は、私は絶対言いません。
しかし、ああ、この人、好きだ好きだと思っている人がいたら、何とか言いたくて言いたくてたまらないんじゃありませんか。
神様の身分を求める人々
神様は人格大です。神様で私たちは同じような人格を持っている。
神様を喜ばせる方がいるなら、そこには何とか神様の身分を全部教えてくださるでしょう。
だから私たちが今やるべきことがあります。私たちの教会に対しては、神様は絶対沈黙されないように、
神様はいつでも神の身分を教えてくださり、神の道を教えてくださるように、私たちは神様を喜ばせる人になりましょう。
それをどうすればいいのか。信仰の本質、
神を知ること、神を愛すること、そこに集中して求める人がいるなら、神様はそこに神の身分を全部教えてくださる。
最後の時に私たちを一番うまく使ってくださるでしょう。そのような教会、そのような私たちになりましょう。
お祈りいたします。
愛する父なる神様、5月家庭の月を通しては、各家庭に恵みを与えてくださったことを感謝します。
6月は信仰の本質を求めながら、聖霊様が働かれる家庭と、新しい川袋の教会になりたいと思います。
主を聞いてください。そして私たちに神様のご自分の身分を教えてください。
神の御声を聞かせてください。私たちを導いてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。アーメン、アーメン。
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