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2022-04-04 29:45

「主、イエス・キリストの恵み」2022年4月3日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2022年4月3日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

ピリッポ2:5-11 互いにこのことを心がけなさい。それはキリストイエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエスキリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

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今日はシューイエスキリストの恵みの対応をもって メッセージを捧げたいと思います。
今は四巡節の時期です。 また教会は信仰について分かち合っているところであります。
皆さん、信仰に対して一番大事なのは何を信じるのか。 信仰の対象です。
私たちが信じる神様はどんな神様ですか。 三味一体の神様です。
同じキリスト教で、三味一体の神様ではなく 一神、父なる神様だけを信じる人たちがいます。
その方たちもキリスト教と言います。 これは大変間違いが多いんですね。
ですから私たちは、三味一体の神様を信じます ということが非常に大事です。
それを一番よく表現していることが、 礼拝のたびに告白する使徒信条にあります。
私は信じます、父なる神様を。 私は信じます、イエスキリストを。
私は信じます、聖霊様を。 そうしながら、その方々がどんな働きをなさったのかを 信じることを告白します。
これが大事なんです。 ですから使徒信条の深刻告白は非常に大事です。
その結果が何ですか。 使徒信条の一番最後にある永遠に生きることを信じます。
永遠の命を信じますということ。 三味一体の神様に対する正しい信仰ができるとき、
永遠の命がいただくことができます。 これが大事なんです。
私たちはこの使徒信条を通して三味一体の神様を もっともっと知りたいと思っているんですけど、
今日は第2コリント13章13節でこの御言葉を通して もっと恵みをいただきたいと思います。
じゃあ13章13節にシューイエスキリストの恵み、 神の愛、聖霊の交わりがあなた方一同と共にあるように。
皆さんこのセイクはどこかよく聞かれたんじゃないですか。 事実これが牧師先生たちが
祝祷をするときに13章13節を引用して祝祷をするんです。 ところがなぜ
神様の愛、神様は愛だということを強調しますか。 またイエスキリストの恵み、
イエスキリストは恵みだということを強調するんです。 また聖霊の交わり、
聖霊様は交わりだということを強調するのか。 これを私たちが深く理解を持たなければなりません。
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先週は愛の神様、神様は愛だということを強調します。 神様は絶対善、神様は愛です。
神様は私たちの幸せをいつも願っておられます。 私たちが幸せにならないことは神様絶対願われることではありません。
だから愛の神様、神は愛だと言いますね。 今日は恵みのイエス様、イエス様は恵みだということを私たちは分かち合いたいと思います。
これを確かにして信仰告白、信じることができますように。 恵みのイエス様、
皆さん、恵みという意味は皆さんご存知ですね。 いただくことができないものに
無償で施されることが恵みなんです。 いただく資格もないのにその方に無償で、ただで与えられること、これが恵みです。
ですから恵みを施すといったときに、私が施すためには私が味わうべき、
当たり前として私がそれを持って味わうべきものを、私が諦めなければこれを施すことができなくなるんですね。
だから施す人には必ず寄生が必要です。 代価の支払いが必要なんです。
イエス様は恵みだと言われるときには、イエス様はたくさん寄生された、
たくさん代価を支払われたことが前提であって恵みのイエス様と言うんです。
じゃあここで先週学んだことと今週のことが繋がりがあります。 愛の神様と恵みのイエス様が協力して働かれたことがあります。
これが十字架で成し遂げたことですけど、 愛の神様の切磋なる願いは全人類は救われることです。
その神様の切磋なる願いを恵みであるイエス様が成し遂げようと思って働かれたことが十字架なんです。
そのことを聖書が美しい聖書兵器を通して表現したんですけど、 三書中六節です。
神はその一人子をお与えになったほどに、 両愛された一人子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためであると書いてあります。
私たち人間が永遠の命を味わうことを願っておられる神様の身むねをイエスキリストが十字架で犠牲されてそれを成し遂げられた。
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これで救いの御業が完成されたんです。 ここに秩父なる神様とイエスキリスト、ここにまた働かれる方が聖霊様です。
三味一体の神様の謙遜と尊重とお互いに仕える全ての働きが十字架で現れたんです。
聖書には恵みのイエス様についてこう言われます。 今日朗読した聖書ですけど、
互いにこのことを心にかけなさい。それはキリストイエスにも見られるものです。
キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることを固執しようと思わず、かえって自分を無にして下辺の身分になり、人間と同じものになられました。
人間の姿で現れ、へり下って死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、中旬でした。と言います。
驚くのではありませんか? イエス様の謙遜、謙遜、規制。
そうです。神様はそのようなイエス様を大切で大切にして思われて、神様ご自身よりもっともっと高められます。
それが旧説からです。このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名に勝る名を与えた。
こうして天上の者、地上の者、地下の者がすべてイエスの皆にひちゃまずき、すべての人がイエスキリストは主であると言わせられたということです。
また、神様は裁きを神様が行わないと、イエスキリストに世の中の全世界の裁きを最後にイエス様に任せられた。
素晴らしくありませんか?
ここで、父なる神様、イエスキリスト、聖霊様の協力、この本当に道路者としての一体になることの素晴らしさ、ここに現れているんですね。
ではイエス様は具体的に、どんなことで既成され、何を成し遂げられたのか、今日ポイントはここなんです。
これをぜひ覚えていきましょう。今日はたくさんありますけど、今日は3つ、3つだけを考えていきましょう。
まずイエス様はご自分の犠牲によって、贖いを行われた。食材を行われたということです。
創造主神様の代理者である人間に不幸がありました。
不幸の原因は罪です。罪によって神様との関係がダメになり、人間同士の関係がダメになり、全世界と人間の関係が全部ダメになりました。
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イザヤ59章2節、こう言います。むしろお前たちの悪が神とお前たちの間を下手で、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けることを妨げるんだ、と言います。
神様と私たちの間に罪が妨げになっています。人と人との間に罪が妨げになっています。
人と世界、世の中の万物との間に罪が妨げになっています。
だから、罪の問題の解決なしには、神に出会うこともできなく、幸せもありえません。
では、罪を解決、罪を食材する方法がありますか。あります。
神様の律法で定められています。これがヘブライション9章22節です。
こうしてほとんどすべてのものが、律法に従って地で清められており、地を流すことなしには、罪の許しはありえない。
じゃあ、地を流したときに、私たちの罪が解決できます。
しかし、私が地を流すということは、私が死ぬということでしょう。私が死んだら、この世の中、もう何にも関係がないですね。
だから、私が死ぬんじゃなくて、私の代わりに罪がない誰かが死んで、その恵みを私たちがいただくようになります。
それは、どなたがなさいましたか。イエス・キリストが。
旧約聖書では、イエス・キリストのこの象徴である、子一児が死にました。
罪がない子一児が死んで、その食材の生贄を捧げることによって、旧約聖書はできました。
しかし、それは不完全なので、毎年毎年、たくさんの子一児が死んでいかなければいけませんでした。
しかし、新約時代には、神様から贈られた子一児であるイエス・キリストが、一変で世の中のすべての罪を背負って、死んで下さいました。
地を流して下さいました。ですから、私たちはイエス・キリストの地によって、清められ、食材、贖えが行われた。
ところが、なぜ、使徒信条では、主は聖霊によって宿り、乙女マリアから生まれと言うのか。
現在の元にある人間が、他の人の代わりに死んであげたら、これは他の人の代わりになりません。
なぜなら、自分の罪人だから、自分の罪のために自分が死んだだけです。
他の人の代わりに死ぬためには、罪がない人にならなきゃいけない。
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しかし、アダムの子孫は、罪が全部あります。どうしたらいいのでしょうか。
だから、聖霊によって身をもって、それで、少女マリアから生まれる。
その方法を、神様が持たれて、聖霊によって生まれたイエス・キリストが、世の中で唯一、女の子孫であるイエス・キリストが、
唯一、罪がない人間として、この世に生まれたんです。
皆さん、これが大事です。
そこに、聖霊様の役割、聖霊様の働きが大事なんです。
このイエス・キリスト様の忠実感の贖いによって、自分の罪が許された経験がある人、その方、
これは皆さん、この経験が、ああ、そうだ、少女マリアから身をもっていたイエス様は、罪がなかった。
私はイエス様によって、罪が許されたことを確かめることは何か知っていますか。
皆さんが、罪の許しによっていただく体験なんです。
第一要領一書九節、自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しいお方ですから、
罪を許し、あらゆる不義から私たちを清めてくださる。
皆さん、罪が清められた時の皆さん、この喜びと、この時、天国を味わうような、この素晴らしいこと、
喜と平和と喜びが満ちあうれる、このことを体験したことありますか。
また、マルコ二書五節に、中部の人にイエス様が、なんて言うんですか。
こよ、あなたの罪が許されると言う。
罪が許されたことによって、中部の病気が癒されたんです。
その日、徒歩に担いでイエス様のところに来たんですけど、帰る時は、徒歩にグルグルと、それを手で持って歩いて帰っていました。
病気が癒されたという体験、皆さんこれが大事なんです。
この体験がなければ、私たちがどのようにイエス様が主であると、イエス様は罪がなかったと、これを認められるのでしょうか。
私はこれが非常に大事だと思います。
食材の毒に与えられる、新たに生まれる体験、天国を味わう体験、
病気が癒される体験、これがキリスト社としてのご自分が持っている、これが証なんです。
これを持っていますか、ということを、私は皆さんにお話しているところです。
しかし、イエス様の十字架によって与えられる、この贖い、食材は、神様の秘められた知恵だったんです。
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創世紀3章5節に、女の子孫がと言った時から、イエス・キリストによる人類の救いの計画を、神様はすでに創世紀から持っていました、ということを私たちに教えてくださいます。
またイエス様は、ご自分の規制によって和解させてくださいます。
この際、1章20節に、その十字架の地によって平和を立て、地にあるものであり、天にあるものであり、万物のただ御子によってご自分と和解させられたと言います。
イエス様が十字架で地を流すことによって、私たちの罪だけを許すのではなくて、罪によってダメになった全ての関係を取り戻してください。
神様との関係、人との関係、天地万物との関係です。
そして私たちに強調されます。ヘブライン書12章14節、全ての人との平和を、また、正義なる生活を追い求めなさい。
正義なる生活抜きには、誰も死を見ることができない。
全ての人との和解、平和、それなければ、また、清い生活がなければ、誰も神様を見ることができない。
皆さん、これを私たちに強調します。
3番目、イエス・キリストは自分の犠牲によって、私たちを豊かにさせてください。
もともとイエス様は神様で、第二位の神様で、全ての福き栄いが、また、栄光に満ちあうれるお方です。
知恵と知識の豊かさ、尊い人格の素晴らしさ、賢能は無限な力を持っていらっしゃるお方です。
しかし、イエス様はこの世に来られた時には、その賢能、この素晴らしさを、自分のためには一つも使わなかった。
なぜ、この全てを人間に与えるためでした。
これが第2コリント8章9節です。
あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。
すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなりました。
それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためでした。
この世の中に来た時には、イエス様は大工さんをやりました。
積み人扱いされました。
イエス様のお友達は、貧しい人、積み人、病者、病を持っている人々ばかりでした。
そして、最後の時は、十字架にかけられて悲惨な死を経験されました。
こじぼんは、豊かさを一つも味わうことはありませんでした。
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なぜなら、これを全て子供に与えるためです。
皆さん、私たち、親になったらわかりますね。
私はお金をあっさり使いません。
なぜ、使わないのか。
何とか何とか残して、子供に与えたいということは、親の気持ちじゃありませんか。
イエス様はそうなんです。
全てを持っておられるんですけど、自分のためには一つも使わない。
なぜなら、世の中の私たちに全て与えるためでした。
そして、惜しめなくそれを与えてくださいました。
ここでイエス様を見る時には、いつも、
「ああ、イエス様は恵みだ。恵みのイエス様。」と言うんです。
子供たちが母親を見る時に、
いつも母親の限りがない恵みということを、子供たちが歌うんですね。
同じなんです。
じゃあ、ここに、
健在がない人としてのイエス様。
皆さん、健在がない人としてのイエス様は、どのように思われますか。
私たちは表違うし、裏が違います。
本音があり、建前があります。
私たちみんなそうです。
二つの心を持っています。
人に見せてあげる心があり、見せてあげない心があります。
しかし、イエス様は、表裏違いがありません。
一つの心しかないんです。
イエス様は、ただ神を愛し、ただ私たちを愛し、
私たちの罪、病、呪いを、全部、子供が背負ってくださる、
ただ一つの心しかないです。
ですから、イザヤ・コズ・サンショ・ロク・コセツ・ロクセ。
彼が打ち砕かれたのは、差し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、私たちの戸場のためであった。
彼が受けた懲らしみによって、私たちが平和が与えられ、
彼が受けた傷によって、私たちは癒やされた。
私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
その私たちの罪を全て、主は彼に負わせられたと言います。
ただ神様を愛して、神の身むねを成し遂げたい。
ただ私たちを憐れんで、私たちは罪から救いたい。
その憐れむ心だけ、イエス様を持っていました。
そのイエス様の犠牲によって、
救いと癒やしと回復が受ける資格がない私たちに与えられました。
これが恵みなんです。
皆さんイエス様の恵みによって、私たちは食材と和解と豊かさが与えられました。
昨日、私は川口である姉妹に出会いました。
皆様ご存知の姉妹です。
最近、乳がんにかけられました。
21:02
本当に辛い思いをして、私に先生祈ってくださいと言いました。
私が今日先生に出会ったのが、神様の導きじゃないかと思いました。
それで私に祈りを頼むんですね。
祈ります。約束しました。
しかし私は何をもって祈りますか。
牧師の油注ぎがあると私は信じています。
しかし牧師の資格で人を癒しますか。
できません。
私はイエス様の恵みで人を助けるんです。
イエス様の恵みは何ですか。
食材と和解とイエス様の豊かさに満たさる。
まず牧師自身が今罪が許されているのか。
これを改めなければいけないんですよ。
また牧師自身が神様との関係。
人との関係がうまくできているのか。
和解を恵みを主からいただかなきゃいけない。
また牧師自身が祈って主から癒しの油注ぎ。
千円の十万を満たされなければいけないんですよ。
牧師が自分の力で人を癒すことはありません。
だから私がまず神様との罪を改めて。
神様との関係、人との関係を整えて。
親からの豊かな油注ぎ、罪の許し。
また癒しの力、精霊十万の力をいただいて。
それでその姉妹のために祈るんです。
その時イエス様の恵みがその姉妹に点火されて人を癒すんです。
だから私たちの働き人たちは
いつもイエス様の恵みによって満たされていかなければ
人を助ける資格がないんです。
皆さんそれが準備していくことが
働き人が毎朝毎朝行われるべきことだということを
ぜひとも考えていただきたいと思います。
このような恵みをいただいた者として私たちは何をすればいいですか。
資格がない私たち。
しかし神の恵みをいただくようになったといったら
まず感謝でしょう。
イエス様の皆を崇め、皆を叩きながら、褒めを叩きながら
そして私たちは神様に祈る。
我を思う救いし、このような豊かなイエス様の恵み。
感謝します、感謝します。
これが恋愛じゃありませんか。
これが賛美じゃありませんか。
大事なのはまずこの感謝の心を持って
いつも神様に恋愛する。
これが基本の基本です。
また私たちが報いる意味で
父なる神様が一番願っているのは人を助けることでしょう。
救うことでしょう、癒すことでしょう。
イエス様が切に求めたその働きを私たちもやります。
24:02
そのためにどんな犠牲でも支払いますということは
恵みをいただいた人としての当たり前の答えです。
当たり前の答えです。
しかし皆さん、私たちは神様の恵みをいただいて
私を使ってください。
私もイエス様のように働きたいです。
皆さん、この働きの上には限りがない報いがあるんです。
私たちはただ恵みをいただいて感謝して
私自身を捧げて何でもやりたいと思うんですけど
神様は私たちが行うその働きの返しとして
報いとしてこの世だけではなく
天国で永遠に永遠に祝してくださいます。
これがどれほど感謝でしょうか。
ですから皆さん、私たちは
このイエス様の恵みをいただくことが大事なんです。
イエス様からいただいた恵みは
もっと大きな恵みを受けるように導いてくださいます。
ですから私たちは恵みを受けることが大事なんです。
使徒ヨハネがこう言います。ヨハネ1章16節に
私たちはみんなこの方の満ちあふれる豊かさの中から
恵みの上にさらに恵みをいただいた。
恵みは一回受けて終わりではありません。
恵みの上に恵み、この上にまた恵み
この上にまたまた恵みをいただいて
私たちが恵みよって満たされて
終末になることは神様が願われることなんです。
じゃあこの恵みをどのように受け取りますか。
ヘブライ賞4章16節にはこう書いてあります。
だから恵みを受け、憐れみを受け、
恵みに預かって慈悲にかなった助けをいただくために
大胆に恵みの者に近づこうべきではありませんかと言います。
恵みの者に近づく方法は何ですか。
これが礼拝なんです。
礼拝で恵みの者に近づくんです。
とりなし祈りの者、その時間で神の恵みの者に近づくんです。
また賛美をしながら神の恵みの者に近づくんです。
そしてそれを通して恵みを豊かにいただくんです。
恵みをいただいたらもっともっと主に近づいていきたい。
そしてもっともっと大きな恵みをいただきます。
そして恵みの深い海の中で私たちは入るようになります。
皆さん、神の恵みは太平洋の海よりもっともっと深いところがあります。
神の恵みは限りがないんです。
神様はこの限りがない恵みを私たちに
イエス・キリストを通して全て与えることを願っておられるんです。
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じゃあ結論を申し上げます。
なぜイエス様を恵みのイエス様だというのか理解ができたのでしょうか。
いただく資格がない私たちにご自分の全てを与えるために
栄光に満ちあわれたイエス様がこの世に来られて
十字架で死ぬまで犠牲されたようにされました。
そのイエス様の犠牲と大化の支払いによって
私たちがイエス様の全てをいただくようになりました。
イエス様の恵みによって救われ、癒され、生かされ
イエス様の恵みによって神の子供になり天国の民になり
キリストの神父になる祝福まで与える。
これは全て恵みです。
だからこの恵みを持っている人は今日私は死んでも天国に行く
天国の希望に満ちあわれるようになる。
またイエスキリストの恵みがある人は
悪魔を出て行けという力が豊かに豊かにある。
そして勝利、勝ち抜く力がいつもあります。
この全てがイエス様の恵みによることです。
このイエス様の恵みを考えながらいつも感謝しながら
勝利する私たちになりましょう。
使徒信者私はその一人こ私たちの主イエスキリストを信じます。
主は精霊によって宿り乙女マリアから生まれ
これを唱えるたびに今日の内容を覚えて感謝を込めて
力豊かな力を持って私たちが大胆に
信仰告白をできる私たちになりますようにお祈りいたします。
主を感謝します。
使徒信者本当に父なる神様子なるイエス様精霊様が何をされたのか
それを信仰告白するたびに神の愛が私たち豊かになり
イエスキリストの恵みが私たちを上に豊かに望んで
食材と若いとイエス様の豊かさを全て味わう私たちにならせてください。
この力をいただいたものとしてイエス様が一番願われる人を助け救い
この日本を助ける日本を救う全世界の働き人になりますように
私たちを使ってください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメンアーメン
29:45

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