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2017-03-19 35:56

2017/03/19:わたしは神の作品(3)御霊の流れを見つける(1)

2017/03/19 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 -39

00:03
おはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。
それでは、メッセージの前に隣の方々と挨拶をさせたいと思います。
お祈りしてメッセージに入りたいと思います。
お祈りいたします。
わたしを信じるものは、聖徒が言っている通りに、その人の心の奥底から行ける水の川が流れるようになる。
主よ、この朝、神様、本当に神様が下さる行ける水の川が、私たちの人生の中に、魂の中に、霊の中に流れ出るように、神様どうぞ満たして下さい。
主、御自身が一人一人にお語り下さいますように、心を開いて、神の御言葉を受け入れて、信じて、委ねて生きるものでして下さい。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は、今続いているシリーズメッセージ、「わたしは神の作品」
今日は3回目で、「水浜の流れを見つける」というメッセージであります。
今日と来週にかけて2回で、このサイトルで、「水浜の流れを見つける」というサイトルから、御言葉の恵みを共に預かりたいと思います。
今回のシリーズの説教の中で、今日と来週のメッセージが、最も中心的なメッセージになると思います。
では、先週までの2回のメッセージを復習して、ようやくしてみたいと思います。
私たちひとりとりは、神の作品として醜い存在として尊く作られた。しかし、罪のゆえにキリストの見姿を失った。
03:04
そのせっかゆがんだセルフイメージや、神様に対する間違った見方を持つようになった。
私たちひとりとりは、みんななるはずの自分がある。キリストの見姿を回復させていただこう。これが先週までのメッセージのストーリーであります。
しかし皆さん、どうしたら、この私たちがなるはずのキリストの見姿、それになれるのでしょうか。その方法は、道は、一体何でしょうか。
私たちはみんな、神様を愛しています。イエス様を愛しています。従って意向を起こしています。
ところが、そんな中で、どうしたらイエス様の神聖のように、イエス様の人格のように、身姿に近づいていけるのだろうか。
なるはずの歪んだ自分じゃなくて、なるはずの自分にならせていただけるのだろうか、といった疑問というか、そういう悩みを我々は抱えているかもしれません。
いや、みんな持っていると思うんですね。ところが、その答えを迫っていく方向が、ちょっと間違っていたりするかもしれません。
それは、だいたい持ちやすい方法は、こんなものだと思うんですね。私たちキリストの見姿を取り戻すためにやっている方法は、頑張ることです。
一生懸命に、一生懸命に頑張ることだと思っているかもしれません。
ところが皆さん、私たちがキリストの見姿を取り戻すために、神様が作られた、描いておられる、なって欲しいと神様が本当になっちゃうような自分の姿になるために、私たちがやるべきことは、神様とつながり続けることです。
まるで、イエス様が言われたように、ブドウの枝がブドウの木につながり続けていることなんです。
イエス様も、ヨハネノ福音書15章の5節に、こう言われました。ちょっと開けますか、皆さん。
新約聖書のヨハネノ福音書15章5節、新約聖書の211ページです。それではご一緒にお読みしましょうか。ヨハネノ福音書15章5節。
06:15
私はブドウの木で、あなた方は枝です。人が私に留まり、私もその人の中に留まっているなら、そういう人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は何もすることができないからです。アーメン。
皆さん、ここにですね、よくご覧ください。イエス様がブドウの木です。私たちはそれぞれの枝です。
その枝に実をたくさん、リンゴのように、ブドウのように、その実をたくさん結ぶためにはどうしたらいいですか?頑張るんですか?努力するんですか?
いや、イエス様につながっておればいいんです。つながっていたら、もうブドウも木が栄養も酸素も全てをですね、送ってくれる。そして実が成るということなんです。
イエス様に留まること、つながり続けること、そしてそのイエス様から恵みが、命が、今日読んでいただいた四年の訓書の言葉がありますと、生きる水が溢れて、イエス様から溢れて、私にそれが溢れながられてくることなんですね。
それで私たちは生かされて実をたくさん結ぶ、花咲く人生になる、キリストの御姿に近づいて、なるはずの自分になれるということなんです。
以前ですね、福岡におるときに、そこのヨホタポーロ先生と何人かの神道のリーダーさんとですね、アメリカのLAにあるソドルバクチャーチという、
リク・オーレンという有名な先生が墓地をしている教会に視察にですね、行ったことがあります。
そこでいろんなグループやいろんな働きをしている牧師とか神道のリーダーとかですね、たくさんの人と会って、インタビューみたいに質問をしたりですね、
教えてもらったりすることがほとんどのスケジュールでしたけれども、そんな中でですね、日本にも日本語の訳で本が出ているリカバリという本があるんです。
その向こうの教会が長い間やっているいわゆるカウンセリングのプログラムでしてですね、十二ステップともいいますけれども、
いろんな依存症とか、あるいは他の夫婦関係やさまざまな人間関係、トラブルで悩んで揉めている方々のその癒しのために、
09:12
回復のためのグループがあるんですね。そのグループのミニストリーが周回が終わった後ですね、広いテントがあるところで、
夕食がちょうど当たったので食事ですながら、そこのスタッフの牧師先生夫妻に会ってですね、いろいろ話をあっている中で、そのお訳しをお聞きしました。
サトルバックチャーチのリク・オレン先生はですね、とても素晴らしいアメリカでも世界でも有名な指折りの中の一人の先生なんですね。
メッセージもとても素晴らしい。この先生は人格もそれからリーダースもとても優れた先生なんですね。
もうその教会の副牧師だったんですね。そのリカバリのスタッフが私たちが会った副牧師でした。
ところがですね、そのスタッフのリカバリの副牧師先生の名前は忘れたんですけど、とても真面目そうに見えたんですね。
ところがですね、なぜかですね、昔の話ですよ。奥様からいつもですね、リク・オレン先生にしょっちゅう比べられたそうなんですね。
それでですね、その奥様からあなたはリック先生のようにあんまり祈ってないねとか、あなたはリック先生のようにメッセージがなかなかねえもうとか言われて、
あなたの指差しとしてちょっと問題がないな、リク・オレン先生にちょっと学んだらどうとか。
またリック先生のように過程的でもないとか、いろんなことですね、比べられたそうなんですね。
その副牧師先生はとても真面目な先生だから、その先生はもういい牧師になろう、もういいリーダーになろう、
もうリック先生のようになろう、あるいは妻のためにでもいい牧師になるために、ものすごく頑張って頑張って頑張っていたそうなんですね。
よい説教者になるために、よいリーダーになるために、とても頑張って頑張っていても、その奥様からはあなたは足りないね、足りないねと言われて、
結果的にその先生はバーンアウトして、もう働きができなくなってしまって、休職をしないとかいないとか、そこまでいったそうなんですね。
ところがその事実を知るようになったリック先生から、その牧師も奥様もカウンセリングを受けて、2年ぐらい安息をとって、
そしてその先生も奥様も回復できて、牧界に復帰できて、それでリカバルの働きをするようになった。
12:04
自分が癒されて、また同じく悩んでいる人のために奉仕できるように回復されていて、そのときに引退を受けて、
即日ながら引退を受けるときに、その先生も奥様も一緒でしたけれども、あのときにその奥様からこういうふうに言われました。
自分が昔どれだけ間違っていたんだろうかと。いつもリック先生と夫を比べてしまって、とても悪いことをしてしまった。
それでその奥様が同じだけのように言いました。私は夫のことをとても誇らしく思っていますよ。
そういうふうに笑っておられまして、僕にとっても笑っていた姿が今も思い浮かぶわけなんですね。
皆さん、イエス様は私たちが同期からなるはずのキリストの御姿になるために助けてくださるのでしょうか。
それに対する答えが、今日のヨハネノ勲章の御言葉であります。
私が今日のヨハネノ勲章7章37と38節をお読みします。
さて祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って大声で言われました。
誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。
私を信じるものは、聖人が言っている通りに、その人の心の奥底から行ける水の川が流れ出るようになる。
皆さん、これは誰が約束してくださった言葉ですか。イエス様が約束してくださった。
渇いていますか。様々なもので皆さん渇いているでしょうか。
そしたら、私を信じるものはあります。
私を信じるものが、聖人が言っている通りに、その人の心の奥底から、魂の奥深いところから行ける水が川が流れ出るようになる。
生かされるよ、という言葉であります。
答えは、イエスを信じること。イエス様に異なることを繋がり続けていることです。
イエス様は、私たちの非常に深い部分に、心の奥底という言葉があります。
そこに、行ける水の川というものは、詳しくは来週に話したいと思いますが、
命なんですね、これは。命。あるいは、一般的な言葉で言うならば、活力。
15:05
生き生きとなるはずの、自分らしく歩んでいける命、力を、主が、イエス様がお与えになる、という言葉です。
ところが皆さん、もっと大事なお話があります。
この命というものは、私たちが自分で生み出せるものではないです。
自分でそれを作れるものではないです。これが大事です。
それをどうしたらいいですか?
イエス様からいただくものです。イエス様から与えられるものです。
それは、神の霊、御霊、すなわち聖霊様のことなんです。
主役聖徒を辺りのポイントから、与えられるポイントまで開いてみたら、
どの書物にも、御霊を通して、聖霊様を通して、イエス様が立った時点で立っている、驚くべき命の様子を見ることができます。
例えば、人の働き一挙八節。
御霊があなた方の上に臨まれる時、あなた方は力を受けます。
第一ペペロ一の八。
あなた方は御霊と見たことはないけれども、愛しており御言葉に尽くすことのできない栄えに満ちた喜びに踊っています。
また、マサイの福音書十一挙二十九節。
あなた方も私の区引きを追って、私から学びなさい。
そうすれば、魂に安らぎが来ます。
皆さん、この御言葉は、今日も三十七節、三十八節、今読み始めた御言葉は、皆さん自分自身に当てはまっているのでしょうか。
皆さんに今起きていることなんでしょうか。
心の奥底から生きる水の川が流れているのでしょうか、皆さん。
あるいは、枯れているのでしょうか。
溢れて溢れて、生きる水で溢れていて、本当に言葉には尽くすことのできない喜びに致されているのでしょうか。
あるいは、溢れているから、皆さんとあなたと出会ったら、その出会った人も潤される、満たされるというコンディションなんですよ。
たまに、ある人に、この前も冒険に行って、いろんな先生方にお会いして話をしたが、
18:06
話をしているうちに、自分が広く潤されて満たされる、感化される、そういう方々もおられる反面、
話し合っていて、すべて吸い込まれてしまって、吸い込まれて、この方が潤されたらいいんですよ。
私のものが全部そっちに行って、この人が満たされたらいいんだけれども、
もう1時間、2時間話し合っていて、もう疲れて疲れて、もう帰りたいわって、そう思う人もいるんですね。
皆さんはいかがでしょうか。
皆さんに出会ったら、誰かが皆さんに出会ったら、本当に潤されるんでしょうか、相手の人が。
あるいは、相手の人が疲れているのでしょうか。
大事なのは、神様から溢れて流れてくる神の恵み、命。
神様と言っていいでしょう。
それが、生きる水の川が、心の奥深くから、もうポンポンポンとですね、もう湧いてきて、流れ出る、そういう信仰生活、人生を皆さん、ありたいんですよね。
私はこのように思います。
人々は多くの場合、
イエス様を信じるときの最初の場合はですね、イエス様の御言葉に、あるいはイエス様の人格に、心が動かされる、感心する。
それで、そのイエス様の約束の御言葉、あるいは祝福にですね、あるいは希望にですね、本当に圧倒される。
そしてイエス様を受け入れる。
そしてその受け入れた後はですね、しばらくの間ですね、あるいは夫婦が結婚したらしばらく、3ヶ月くらいは、ハーネムンの状態でですね、何をしてもですね、
うれしい、そういう状態みたいに、霊的ハーネムンの状態になるかもしれない。
神の愛に満たされて、もう精神に引き付けられてですね、他の人たちに自分の信仰についても話したくなる。喜んで礼拝する。
そして悪いことを徐々に止めていく。変化が生まれてくる。
ところがですね、時間が突にすれて、何か前進しているような感覚が鈍くなってしまう。
溢れ出るようなところじゃなくて、枯れているような自分が見えてくる。
いつも感謝して、いつも喜んでいる自分じゃなくて、時にはもう怒っている、むかついている自分、落ち込んでいる自分の様子が自分で見える。
21:12
いろんなことでですね、心配している自分が見えるという様子が、皆さん実は私たちの様子ではないでしょうか。
ところが皆さん、神様が私だけのために持っておられる計画は、三個のバージョンの私たちそれぞれ一人一人になることなんです。
ところが今の現時点では、二つのバージョンの自分があるんです。
ちょっとね、ピピキを一つお見せしたいと思います。
この絵ですから、こういう風に例えることができるんじゃないかなと思います。
現在の右の下に現在の自分があるんです。ところが左の上に神様が愛しておられる自分があるんです。
それがなるはずの自分です。キリストのいい姿なんです。
ところがその間に溝がある。水面の上にできた溝がある。
だからこの現在の私が神様を愛しておられる私に移されるために、変えられるためには何が必要でしょうか。
神の恵みが必要なんです。
この溝を渡ることも自分ではできない。あるいは埋めることも自分ではできない。
ところが私はこう思うんです。この溝を自分で埋めるために一生懸命にいろんなことをやってみる。
これもやってみる。あれもやってみる。がんばってみる。あれもやってみる。
でも決してそれは埋められない。
しかし神の恵みさえあれば、神様様に満たされていける水の川が流れ出るようになれば、
私たちは神様が愛しておられるなるはずの自分、素晴らしい自分、生き生きとして生きる自分に変えられるんです。
それが神の恵みではないでしょうか。
これが私たちは実はやっています。
一生懸命にがんばってもがんばっても、がんばった、あげた、わかったのはだめだということを気づくかもしれない。
24:02
もちろん何をしても人間の努力ではあの溝を埋めることはできない。
渡ることはできないからなんです。
これは私たちが救われた救いと照らし合わせて考えてみたらすぐ分かってくるはずです。
皆さん、私たちが救われたのは何によって救われたのでしょうか。
がんばったから救われた方、一生懸命に50年間がんばってそれで救われたと思う方、われわれなんです。
私たちが救われたのは、ただ神様の恵みによるものなんです。
努力したから、がんばったから、いい行いをたくさん行ったから救われたのではありません。
神の愛と許しを良い行いに、努力によって獲得できるものではないんですね。
それはただ神の恵みによって許されたんですよ。
いくら人間が自分自身を清くしても、清く生きようとしても、神の義に至ることはできないんですよ。
だから努力して私たちは神の義に至ることはできない。許してもらえない。
だから救われたのは、ただ神の恵みに、哀れみによるものなんですね。
同じく、私たちが変えられていくことも、行いによってではなく、努力によってではなく、神の恵みによってそれがなされるのです。
神の約束によってそれが確かなものとされるのです。
救いにも、私たちがキリストの御姿に変えられていく、そこにも人間の努力や行いは入られる余地はないんです。
だから私たちがより頼むべき方は、神様お一人である。
そしてその方の恵みをいただくこと。
イエス・キリストにつながり続けていること。
とどまっていること。
そして、生きる水を神様から、神様様から、それを与えていただく。
私たちが今は、歪んだ自分から、キリストの御姿へ説得するためには、神様の恵みによる道しかありません。
ここで一か所、説得したいと思います。
エペソビトへの手紙、2章。
エペソビトへの新約聖書。
27:05
エペソビトへの手紙、2章。
全部読んだら、今ちょっと長いですので、まず後説を一緒に読みたいと思います。
まずは後説、一緒に。
大火の中に死んでいたこの私たちを、キリストと共に生かし、あなた方が救われたのは、ただ恵みによるのです。
アーメン。
ここに明確に書かれているでしょう、皆さん。
あなた方が救われたのは、ただ何によるんですか。恵みによるのです。
行いによるのではありません。
頑張りに努力によるのではありません。
良い行いによるものではありません。
救われたのは、ただ恵みによるのです。
それをパウロ先生が、この2章に何回も繰り返して話しているんです。
それまた、後説を一緒に読みたいと思います。
後説。
あなた方は恵みのゆえに信仰によって救われたのです。
それは自分自身から出たことではなく、神の賜物です。
ここにもありますね。
恵みのゆえに信仰によって救われたのです。
それはその恵みも信仰も、自分自身から出たことではないんですね。
どこから来たんですか。
神様から来たのです。
神様の賜物は、上の方が下の方にあたせることなんですね。
恵みも。
だから、私たちがこの恵みによって救われたのと同じく、
キリストの身姿に変えられていくこと、そして本来の自分になって生き生きとする、
神の英語が神の忍者に満たされていること、
罪から剥がれていくこと、どんな壁も爪も突破できる、
神の力によって生き生きと歩んでいける力は、
どこから来るんですか。
神様から来る。
神の恵みによるものであります。
続いて、2通の9節を私がお読みしたいと思います。
行いによるのではありません。
誰も誇ることもないためです。
10節。
私たちは神の作員であって、
良い行いをするためにキリスト、イエスにあって作られたのです。
良い行いによって救われるのではなく、
良い行いは救われたものが結果的にするものなんですね。
神は私たちが良い行いに歩むように、
その良い行いをあらかじめ備えてくださったのです。
これが聖徒が教えている意味になります。
30:01
ですから皆さん、
私たちがキリストの素晴らしい輝く光輝くその御姿へ
聖徒するためには、
神の恵みによる道しかありません。
ただ神の恵みによって帰られ、
ただ神の恵みによって聖徒し、
ただ神の恵みによって花咲く人生になるのです。
喜びによるものではありません。
非核によるものではありません。
悲しみによるものでもありません。
頑張りによるものでもありません。
あるいは余儀子も不利をするしたからといった
それができるものではありません。
あるいは自分をいくら深くしてもですね、
それによって良いものになれるのではありません。
ですから私たちは何があっても、
神様から離れては、
神の恵みから離れては、
なるはずの自分にはなれません。
キリストの皆さまには
到達することができないということであります。
自分で自分を変えるということは、
まるで自分で自分を救うことができないのと同じなんです。
皆さん、神様の素晴らしいプランは、
私たちが神の恵みによって
救われるだけではないんですよね。
救われてですね、その後ほたらかしではないんです。
救われて何をするためなのか、
神の形を変えゆくして、
そして恵みに満ちて、
生き生きとした幸せに生きるためなんです。
そして多くの人々を巣にこぐ、
溢れ流して、恵みを溢れ流して、
また周りの人々が生かされて、
恵まれて救われるために、
私たちを先に救ってくださった。
それも全ては、神の恵みによってできるんです。
いくら経験がたくさんあっても、
いい仕事を持っていても、
お金があっても、できるものではありません。
だから私はですね、
まず神の恵みに預かることに、
励まなければならないんです。
それは礼拝でしょう。
それは御言葉でしょう。
それは祈りでしょう。
あるいはまずありでしょう。
あるいは奉仕でしょう。
様々な場面にあって、
そこでですね、
神の恵みに預かることに、
励むことです。
神様のプランは、
私たちが日々の生活の中で、
神様の恵みによって与えられる。
神の恵みによって導かれる。
神の恵みによって守られる。
神の恵みによって力づけられることを、
33:03
人は願っておられ、
それを生きてくださるんですね。
だから、恵みのただ中に生きること、
それは御霊の流れに乗ることです。
御霊の流れに乗ること。
自分で頑張るんじゃない。
御霊の流れに、波に乗ることなんですね。
流れに乗ること。
このお話だけ言って終わりたいと思いますが、
皆さん、ビーチでサーフィンをしたことありますか。
私は来たことはありませんが、
見たことはありますけれども、
素人は波になかなか乗れないが、
あるいは、乗ってもなかなか前に進むことができないんですね。
あるいは、僕も御霊も頑張るわけです。
しかし、プロの人は違うんですね。
もう軽く波に乗るんです。
そして、何もしていないようなんだけれども、
ものすごいスピードで進むんですよね、斜めに。
とても綺麗に進むんです。
波に乗ることです。
ボードの上で走らなくていいんです。
ジャンプしなくていいんです。
こう走れば、開かなくていいんです。
波に乗れば、波が自分を運んでくるんです。
精霊の流れに乗ることなんです。
皆様は、精霊様の御霊の流れに乗っていますか?
あるいは、自分でもがいて、自分で頑張っているんですよ。
信仰生活が喜びに満たされる、恵みに満たされる、
生き生きとして信仰生活ができる、
必須は御霊様の流れに乗ることです。
御霊様が自分を変えてくださること、
制御してくださることを信じて、
身体も精神も心もすべてをいだね切ることです。
いだね切ることです。
それは今日の御言葉にある、
生ける水の川が流れ出るようになることです。
それを御霊様がしてくださるということであります。
メッセージを述べたいと思います。
自分で自分を変えることはできません。
あるいは値段でも比べても比べられても、
自分を変えることはできません。
ただただ神の恵みによって救われたように、
ただただ神の恵みによって変えられるのです。
それは御霊様の流れを見つけて、
その流れに乗ることです。
その御霊様に心も身体もすべてをいだね切ることです。
続きは来月に行きたいと思います。
お祈りします。
35:56

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