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2020-03-08 29:24

2020/03/08:わたしたちが信じて、告白すること(4)あがないを成就されたイエス

2020/03/08 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ガラテヤ人への手紙

00:01
皆さん、おはようございます。
今日も皆さん守られて、共に礼拝できることを感謝いたします。
この時期に、日本だけではなく、あらゆる国々で、
特に普段の日曜の生活はそれぞれ気をつけて、皆さんもお過ごしかと思いますけれども、
その礼拝の習慣については、それぞれ教会、あるいは一人ひとりの信仰のことがありまして、
いろんなことが起きていますね。
教団の中でも、102人一応集まっている教会は、正日礼拝も中止して、
そして、エスコーを礼拝している教団、教会も結構ありますね。
ただでも、小さな群れで礼拝するところもありますし、
あるいは、ある都会では、牧師は礼拝を守りますが、皆さんはなるべく来ないようにしてください、みたいにね。
こういう教会もあったりするんですね。
今はですね、本当に判断するのが難しくて、また何が正しくて正しくないかとか、
こういう時期に、やっぱり人は煽られやすいですし、また捌きやすいですね。
いろんなことがありますので、こういう時に私たちは動揺しないで、
また鳥なしの祈りをする一人一人でありたいと思っております。
今日もですね、雨ですし、こんな時期でも皆さんね、本当に信仰を持って集まっていただいて、
共に礼拝できますこと、本当に感謝いたします。
一言お祈りいたします。
天の父が神様、今日も様々な状況の中にありますが、
主が私たちの信仰を固くしてくださって、主の教会に集めてくださって、
主を礼拝したくて、ここに我々を導いてくださるように本当に感謝いたします。
主よ、私たちの今日の礼拝が、神の心にかなった礼拝となりますように。
主よ、賞美の中に、祈りの中に、御言葉の中に、神様ご自身を現して下さいまして、
子供たちにも大人たちにも、どうか、今日ここにおいて、
いける神様に、イエス・キリストにお会いする時となりますように。
信仰がさらにこんな時期こそ固くされて、確定されて、
ただただ、あなただけを仰ぎ見て進むことができるように、
一人一人をお守り下さいますようにお願いをいたします。
死の御手に委ねて、イエス・キリスト様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今、私たちが信じて告白することのシリーズメッセージの4回目になります。
03:02
今日はイエス・キリスト様のことですけれども、
まずその告白部分を見ていきたいと、私はお読みいたしますね。
イエス・キリストは神の独り子であり、私たちを罪から救うために人となり、
身代わりとなって十字架にかかり、ただ一度、
ご自身を完全な生贄として神に捧げ、儚いの成就されました。
今日はこの部分についてお話ししたいと思います。
まず、私たちが何を信じるかということで、イエス・キリスト様の部分なんですね。
イエス・キリスト様は神の独り子であり、私たちを救うために人となったということであり、
これを私たちは信じて告白しています。
さあ、そこで、みなさんで最もよく知られている、
ユハネの訓示章三章十六節をみんなで一緒に読みたいと思います。
子どもたちもみんなで読みましょうね。
神は実にその独り子をおあさえになったほどに、両愛された。
それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
ここにですね、正義に出るように、イエス様のことを神様の独り子と私たちに聖書は教えています。
それはですね、私たち人間のように、神様が結婚して子供を生んだという意味ではないのです。
神様とイエス様の関係、先週ね、三人一体の話をしましたけれども、
その神様とイエス様の関係というものは、
本当は私たちの人間の頭では理解できない神秘の不思議の奇妙な関係でありますね。
だから神様が神の言葉でこの神の奇妙な関係を説明しても、私たちはそれを理解することはできないはずなんです。
しかし神様は御自分を私たちに表したい、示したい、それを敬意と言いますよね。
それで、それを神様とイエス様の関係を私たち人間が最もわかりやすい、理解やすい、この身近な関係である父と子の関係で表してください。
06:03
そして実際にその通りであるということであります。
たとえば、お父さんと息子、あるいはお父さんと娘の関係は、この神様とイエス様の関係は最も素晴らしくて最も完全な関係であります。
私も今、父で娘も息子もいたりしますけれども、人間の父と子どもの関係は、いい場合もありますけれども、よくない場合もあったりしますね。
完璧、完全までとは言えないかもしれません。
神様とイエス様の関係、それは父と子の関係であります。
その関係はどうでしょうか。どんな関係なんでしょうか。遠くも近くもない関係なんでしょうか。
あるいは、愛していてもないし、憎んでもないような関係でしょうか。そういう関係ではないですよね。
神様と一人号なるイエス様の関係は、もう完全な愛の関係であります。
そして、この愛の関係は、全てを渡しても惜しまない関係である。
命を渡すことのできる関係である。
そしてそこには、もう完全な愛の関係、完全な一致の関係が、神とイエス様の関係を、聖父は片手にイエス様のことを一人号と教えている。
そして、私たちはそれを信じています。
そしてその次に、イエス様が私たちを救うために、人となられたということを、私たちは信じて告白します。
これはね、先ほどの人信条にも出てきました。
人信条はこうなっていますね。
私はその一人号、私たちの主イエスキリストを信じます。
主は聖霊によって宿り、ここでの主はイエス様のことですね。
主は聖霊によって宿り、乙女マリアより生まれ、つまり神様が人となったということです。
私から見れば、人間から見れば、これは難しいことです。奇跡がありますよね。
そんなことがあるのかとね、信じられない方もいるかもしれません。
09:03
しかし、言葉を持って天地創造をなさった神様にとって、神なるイエス様が人となられることは、奇跡でも何物でもない。
いくらでもお出来になることであることを、私たちは信仰を持って信じるということであります。
ところが、大事なことがあります。
なぜイエス様が人間、人とならなくてはならなかったのでしょうか。
その理由は何でしょうか。
イエス様が、神なるイエス様が人として、あの二千年前のイシュライルのベチュレム、
予選王の息子として生まれた目的は何でしょうか。
その真理を理解するために、今日はまず罪と、その罪の結果、そして救い、
そして救いの意義と似ているあがないという言葉を少しできるだけわかりやすくお話ししたいと思います。
聖書は罪に対してこのように言っています。
アダムからアダム以来、全ての人々は罪人である。
そして、罪の報酬は死である。
つまり、罪の代価は死。
その死は永遠の死である。
罪の代価は呪いである。
だから、罪人は全て、罪とその結果の死、呪いの下にいると言っています。
これを聖書はこのように言っています。
エフェスト・ビートリの手紙2章1節。
私が読みます。
あなた方は自分の罪、代価と罪との中に死んでいたものである。
ですから、私たちは何を信じますかというと、
人は罪の中に死んでいたものである。
イエス・キリストに出会うまで神様を信じる前の人間の状態は、
罪の報酬である、罪とその結果である死の支配の中にいたとなります。
そして、今日のガラケアの3の10・3節には、またこのように言っています。
私は読みますね。
なぜなら、死にかけられるものは全て呪われたものである。
この死にかけられるものは罪人を指しますね。
12:02
皆呪われたものであると言う。
一般的にもね、悪事をしたら罰金が課せられたり、懲役が課されたりするわけで、
神様は完全な正義公義の方でありますから、罪を嫌われる方でありますし、
神様は完全な聖なる方だから、この罪に対して裁きをしなければならない。
審判をなさる方であります。
適当にしたまえふりをする方ではない。
必ず罪と、その罪に対する結果に対して公義をもって裁く方であります。
しかし、同時に神様はどうですか。愛の神様であります。
許しの神様であって、憐れみの神様である。
この神様の正義、公義と神の愛はそれぞれ、もう完全なものであります。
100%、100%、それで100%になる。
ところが神様は、我々人の罪を審判しなければならない。
同時に神様は愛の神だから救いたいんです。
もう裁いて全部滅ぼしてしまうのではなくて、裁きをしなければならない。
しかし救いたい。
死んだ状態から救いたい。そこから脱出させたいという神様の愛と公義が中で働いているわけなんです。
この両方を同時に満たすための神様の方法が何でしょうか。
異変様と異変様の死というものであります。
罪人は人間ですから、そして罪の報酬は死と言いましたね。呪いと言いました。
だからその死の状態、つまり悪魔沙汰の奴隷となった人間をそこから救うために、その罪の報酬という死という代価を誰かが払わなければならないんです。
例えばこのボールペンを10年前に買ったボールペンだと思いますが、これを買うためにはお金を払わなければならないんですよね。自分のものにするために。
15:02
神様が元々私たちは神のものだったんですね。トアもノアもヒトも我々はみんな神のものなんです。
しかしそもそも神のものだったのに、神を知らないで信じないで沙汰のものになっていく。
その沙汰の手から私たちを救うためには、死と呪いを代価として払わなければならないんです。しかし私たちはそれをすることはできない。
そして神様、イエス様をこの地上に、そしてイエス様が完全な人間としてお生まれになって、そしてただ一度全ての人類のために、今までの人類、これからの人類のために十字架で
私たちが受けるべき呪いと、その罪の刑罰の死をイエス様が代わりにそれを負ってくださって、受けてくださって、その罪の報酬の死と呪いをイエス様が代わりに払ってくださったんです。
だからその死というもの、呪いというものは、もともとは誰が負うべきものでしたか?私か皆さんか。死ぬべき私たち。呪われるものだったんです。
しかし神様は愛の神様なんだから、その死から呪いから、裁くから私たちを救うために、一人後イエス様を十字架にかけてしまわれたということです。私たちはこれを信じるわけです。
このように言って、イエス様の罪を、そしてその結果を裁く抗議、そして救いたい愛、この両方が満たされたということであります。
ここで、あがないを成就されたということで、あがなう、あがない、漢字も難しいですが、あがなうという聖書の言葉は、かぎとるという意味です。
この言い回しは、特に聖書の意味としては、奴隷の自由を買うときに使われる言葉です。簡単に、代価を払うことです。
イエス様は、私たちが罪とその結果から解放されるために、代価を支払われます。どんな代価ですか。十字架の死ということです。呪いということです。
18:07
私たちの命と引き換えに、イエス様が死んでください。だから、聖書は特に、このあがないの話をするときには、あがないは、ただイエス様の指示によってのみ、これが直れるということが、正義であります。
真面目でしょうか。死というものは、地球というものは、命を取り戻すわけです。私たちは、罪の奴隷でありました。罪と代価と罪によって死んでいたものでした。永遠に神様から切り離されることを宣告されたものでした。
しかし、神様は、私たちをこのまま法庭に置くわけはなく見たい。許したい。そして、イエス様が代価を払って、私たちを儚って、買い取って、買い戻して、もともと神様のものなのだからです。
ここで大事な話があります。神様が私たちを罪とその結果の刑罰である死と呪いから救うために、イエス様が地上に生まれになって、十字架で死なれたこと、それは既になされた事実であり、神の恵みの業であります。
それは既にある事実であり、真理であります。ところが、私たちが救われることは、この深くが結びつかなくならないのです。
つまり、イエス様が神の一人子である事実、イエス様が十字架で私のために身代わりとなって死んでくださったこと、そのイエス様を信じる者が全ての罪が許されること、それはここにある事実であります。
私はここにいる。
その真理と私が、この真理が私のものになるためにまでは実は別なんです、その真理と。
どうしたらこの救ってくださる、償ってくださるこの恵みが自分のものになるのでしょうか。どのようにして預かることができるのでしょうか。
イエス様、神様を信じなくても償われるのでしょうか。救われるのでしょうか。そんなことはありません。
21:01
あるいは、亡くなった家族のために一生懸命に祈ったら、死んでいなかった人がどこか地獄か地帯にいて、一生懸命に祈ったから世がここに行けるのでしょうか。そんなことはありません。
聖書はこのように言っています。ローマとユスとキューです。一緒に読みますね。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを死と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。皆さん、聖書ははっきりと私たちに宣言しています。
このイエス様が神の一人子であり、すべての罪を許すために十字架で死んでくださって三日目に甦えられた、そのイエス様を信じる者はすべて罪を許されることが自分のものになるために、その恵みに預かるためにはどうしたらいいのか。
イエス様を死と告白すること、心から神はイエスを死者の中からよみがえらせたことを信じることによって信仰のみなんです。
他の方法はないんです。だからある意味でですね、深い話しないで聴いてほしいんですけれども、信仰なしに百年教会で法師を百年したとしても、その人は法師が人を作ってくれるわけではないんです。
ただ信仰、法師というものは信仰あるものが感謝して察していることが法師である。
あるいは教会に百億円献金したとしても、その人が信仰がないならば、一兆円ふざけても、あるいは信仰がないのに十代、千代、百代、クリーサー掛けで生まれた人だとしても、その本人が神様を本当に信じないならば、その人は救われないんです。
私たちがこの家様の救いの恵みに預かる道、方法はイエス・キリストのみ、そしてその方を信じる神とのみなんです。他にはない。
だから私たちはイエス・キリストは神の一人子であり、私たちを救うために人となり、身代わりとなって十代にかかり、また一度、御自身を完全な生贄として神に捧げ、贖いを成就されましたと信じて告白する。
24:01
ところが、人口の話をしましたけれども、これまたさらに掘り下げて話をします。
皆さんはどうでしょうか。どのようにして神様が唯一の神であること、イエス様は神の一人子であること、その十代の恵みの許し、信じる者は救われることをどのようにして信じるようになったのでしょう。
皆さんの努力のためでしょうか。皆さんの奉仕のためでしょうか。あるいは教会に通った年数のためなんでしょうか。あるいは皆さんの良い行いのためなんでしょうか。
全部違います。人が救われるのは信仰であること、もう一度話をしたいと思います。
そこで、エフェクト記者の世間に印象、発説、中説を見ていきましょう。一緒に読みたいと思います。大事なカフレッシュから読みますね。
あなた方は恵みの許し、信仰によって救われたのです。それは自分自身から、神からの賜物です。
行いによるのではありません。誰も起こることのないためです。
皆さん、もう一度言いますね。私たちが救われること、罪許されること、神の子供になること、永遠の命を与えられることは、まずここにある大事な言葉がありますね。
恵みのゆえに、つまり神からの賜物なんです。皆さんが救われて、今日ここで一生一生礼拝できていることは、神様の恵みの意思です。
神様からの一方的な賜物なんです。だから、どのようにして私は神様を信じるようになったのか、皆さんを信じるようになったのか、いくら考えても不思議なんです。
その信仰というものを信じるようになった、あの信仰というものも私から出たものではないんです。
自分自身から出たことではないんです。その信仰さえも神様から与えられた賜物なんです。これがキリスト教の福祉であります。
だから皆さん、救いは最初から最後まで、どこからどこまでも全部神様がなかったことであります。
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世の中ではお金で買えるものはたくさんあります。お金さえあれば、何千万円の車も買えますし、何億円の家も買えますし、何でも買えますよ、お金さえあれば。
あるいは、努力すればできるものも世の中にはたくさんありますよね。しかし、神様を唯一の神様として信じること、イエス様が救いにしてあること、
その方を信じる者は罪許され神の子供とされることを、その真理を信じるようになったという、この自分から信仰があったということも神様からの賜物であります。
神様がくださったから、私たちの中に信仰ができたということであります。
だからある意味で、自分に信仰があったということじゃなくて、もう神の信仰の恵みに預かったと言ったらいいんじゃないかなと思います。
誰も頑張って努力して、良い行いをして、信じて救われた者はいない。
私たちが救われたのは、ただ神の恵みである、愛の神様でありますから、私たちを滅ぼすわけにはいかない。
一人のイエス様を惜しみなく、そこには神の、私たちには測りしない大きな神の痛みがあるでしょう。
愛があるんです。そして私たちを愛する神の愛があるわけなんですね。
それで、その救いの恵みに預かっている。
今日も、この神様の素晴らしい救いと、憐れみを賛美して、信じて、告白して進んでまいりましょう。お祈りいたします。
29:24

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