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2025-03-23 26:55

2025/03/23:恵みによって歩む

2025/03/23 聖日礼拝

加藤満牧師

マタイの福音書 20:1-16


サマリー

このエピソードでは、恵みの本質について掘り下げられ、神様の恵みが報酬ではなく賜物であることが重要なテーマとして扱われています。特に、主人と労働者の関係を通じて、恵みの定義とその意義が再確認されています。また、恵みの力を通じてどのように歩むべきかについても考察され、特に弱さの中で神の恵みを感じることや、十字架を持つことの意味が強調されています。

神様の恵みの理解
それではお祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、主の御前へと私たちをまた招いてくださって、また今日は温かな日差しも与えてくださって、心からありがとうございます。
春になってまいりました。季節の変わり目の中で、私たちの心と体と霊がまた揺れやすい時期にありますけれども、主がどうかを支えくださって、この季節をともに越えることができますようにお守りください。
あなたは私たちを心から愛し抜いてくださっています。
イエス様が十字架で流された血を、それによって私たちの罪を許し、神のことし、それだけではなく三日目に甦えられた命、永遠の命を私たちに与えてくださり、永遠なる死と結びつけられてもはや離れることのない、恵みに満ちたその命を私たちに与えてくださっていることをありがとうございます。
神様どうか、今日のこの礼拝のうちにもご臨在くださり、あなたの恵み、あなたの素晴らしさをまた知るひとときとなりますように、どうか主がお語りください、お願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることを覚えますが、どうか神様がお一人一人の命をお支えくださり、そのところにおいての恵みを与えくださいますように、お願いいたします。
あなたに委ねます。御言葉を開き、私たちを導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
今朝読んでいただいたこの歌書といいますのは、ひとつ私は思い出がありまして、新学生のとき、早天祈祷会というのが毎朝あるんですが、一章ごとに校長先生と社官の先生が御言葉を取り付いてくださる。
このマタイの二十章も語られたんですね。とても恵みにあふれた説教がなされました。
ただ、部屋に帰って、同室の後輩と共に祈ってから一日をだいたい始めるんですが、そのときに後輩に言われたんです。
加藤さん、この歌書どう思います?って言われたんです。どうってどういうこと?
僕、この歌書嫌いなんですよ。え、なんで?実は、この歌書どう読んでも不公平ですよね。
だって朝早くから働いた人が報われることは当然じゃないですか。
僕がこっちの立場だったら、一緒に一時間しか働かない人に、僕だって怒りますよ。
この歌書の意味が僕は未だによくわからないんです。
腹が立ちますってことをおっしゃられたんですね。
なるほど、と思って聞いてました。
なるほどと思ったのは、彼は牧師三代目の家庭の子でして、長男。
小さい頃から牧師になることを周りから職望されて、言い換えればプレッシャーを受けながら、彼は新学校に来たんですよ。
小さい頃から朝早くから労してくる人間の方が報われて当然なんだというのは、彼の叫びだなと思って聞いていました。
ただ、この歌書は確かに人によってはとても慰められる歌書なんですが、人によってはとても気持ち悪さが残る歌書なんですね。
それはきっとやはりこの主人の態度が不公平に見えるからです。不公平に見えるからでしょう。
この歌書は、そうですよ、神様は不公平なお方なんですよということを言いたい歌書なのでしょうか。
ただ一つ、この歌書を読んでいく上でキーワードになることは、恵みです。恵み。恵みとは何かということです。
今朝はこの歌書から、神様の恵みは何なのかということを再確認しながら、主に従う道をご一緒に覚えたいと思っております。
今日は三つのポイントでお話をしますが、一つ目のポイントは何かと言いますと、先に答えのようなことを言いますが、恵みというのは報酬ではなくて賜物であるということです。
従順の報酬を求める弟子たち
今朝の例え話、今日読んでいただきました20章の1節から16節ですが、この歌書も、マタイの福音書でいうところの天の御国の話が続いてきているわけです。
天の御国、いわば神様の恵みの御支配の中では、こう考えるんですよという話。
特にここでは主人と労働者の関係について語られていますが、これは神様と主に従う私たちの関係だと言って良いでしょう。
この主人は朝早くから武道園で働く労働者を求めるのです。
おそらく一番最初に動き出した時間は朝早くと書いてますが、おそらくこれは夜明け前ではないかと言われます。
夜明け前から人々を雇いに行った。
この人たちと主人は2節を見ますと、1日1でなりの約束をするわけですね。
1でなりというのは、その1日分の労働賃ですから、どうでしょうかね。今でいうと1万円ぐらいになるんでしょうかね。
ただ武道園の収穫には朝の人だけでは足りなかったようで、主人はその後も午前9時であったり12時であったり、午後の3時、そして午後5時にも労働者を探し求めるわけです。
後の文脈から見るならば、おそらく収穫の作業が終わったのは夜の6時頃ではないでしょうか。
ここでまさに驚くことが起き始めるのです。8節ですね。
夕方になったので、武道園の主人は監督に言った労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさいというのです。
まずここで一つ驚きです。主人は最後に来た者たちから支払いを始めなさいという、これ当時でもおかしなことです。
でも最高日にいる人たちからまず支払いを始めなさいということをこの主人は言うのです。
そしてこの5時から来た人たち、9節にもありますが、5時頃に雇われた者たちが来て、それぞれ1でなりずつ受け取ったというのですね。
1でなりというのは1日の給与です。ただ後の話も見ますけれども、5時から来た人は1時間しか働いていないのですね。
おそらく労働者たちは大騒ぎしたことでしょう。ああ、なんて気前のいい主人なんだと。1時間しか働かない人に1でなりも与えてくれるんだったら、
後の時間、長い時間働いた私たちはもっと多くの報酬が得られるはずだと思ったでしょう。しかし彼らに渡されたのは同じ1でなりであったわけですね。
彼らは即座に不満を言います。12節に書かれています。
最後に来たこの者たちが働いたのは1時間だけです。それなのにあなたは1日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと同じように扱われましたというのです。
弱向け前から働いていた私たち、10時間くらい働いていた私たちと、1時間しか働いていない彼とが同じように扱われることは不公平だと訴えているわけですよね。
彼らの言うことは実にもっともなんですよ。ごもっとも。ただ、主人はそれにどう答えていくのか。なんで主人はそういうことをしたのでしょうか。
13節から15節を見ますとこういうことが主人が言い返しますね。
しかし主人はその一人に答えた。
友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と1でなりで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にもあなたと同じだけ与えたいのです。
自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも私が気前がいいのであなたはねたんでいるのですかと主人は答えるのですね。
主人はちゃんとした人で、一個一個確認をしていきます。
まず一つは、いやいや文句を言いますけども、あなたたちと私がした契約はそもそも1日1でなりですよねと。
だから労働の報酬としてはもう十分なものを払いました。文句を言われる筋合いはない。
ただ、労働時間が少ない、1時間しか働かない人々に1でなりを支払ってというのは、この最後の人にもあなたと同じだけ与えたいというこれは主人の気持ちなんです。
最後の人に1でなりを支払ったのは主人の気持ちですからこれは報酬というよりかはプレゼントに近いんですよ。
プレゼントなんです。ここにこの主人と労働者の1でなりに対する理解の違いが明らかに出てまいります。
労働者は1でなりを労働の報酬としてみなしました。だから1時間しか働いていない人に1でなりを与えるんだったら、もっと働いた私たちにはもっと十分な報酬がある。なぜなら働いた時間が根拠になるからですよ。報酬とするならね。
でも、どれだけ長く主人に使えたかが報酬の基準ではなくて、主人が考えるのは、1でなりというのは主人からすれば報酬である以上にプレゼントなんですよ。プレゼントです。
基準は労働時間に置いてるんじゃないんです。基準は主人の気持ちです。私が与えたいから与えたんだということですね。基準は与えたいという、そう思う気前のいい主人の気持ちに根拠が置かれています。
さて、この話からイエス様は、そして神様は何が言いたいのでしょうか。これは1でなりという言葉を恵みという言葉に言い換えたらわかりやすいかもしれません。
それは恵みというのは、神様が自分に従う人たちに払う報酬ではない。恵みというのは神様からのプレゼントです。賜物です。
よく恵みという言葉をこう説明されますね。恵みというのは、受けるに値しないものへ一方的に与えられる神様からのプレゼント。そのように説明をされます。神様からの何かの恵みをいただくという時に、実は私たちのうちに受ける根拠というのは置かれてないんです。
私たちが何をした。私たちがこれだけのことを働きました。だから恵んでください。そもそも理解が間違っています。恵みというのは気前のいい、まさにこれは原文では質がいいという言葉ですが、神様のご人格に根拠があります。恵みというのは神様のご人格に根拠があります。恵み深い神様だから私たちは恵みを受ける。
むしろ私たちは祈り主に従うことによって恵みを受け取るのではなくて、主の十分な恵みによって持ち運ばれているから私たちは従い祈る。逆転していないかなということを私自身も思わされます。
なんでこんな話をイエス様はされたのでしょうか。二つ目のポイントに入っていきます。二つ目のポイントそれは、従順の報酬を求めた弟子たちがこの時にいたからです。ちょっとこの前後の箇所を見ますけれども、なんでイエス様がこういう話をしたのかというと、前後が関係しています。
先回19章のところで、16節からの止める青年の話を見ました。イエス様に従っていく上で、彼は自分の富を手放す。握らずに手放してということが幸いだって話をしましたが、それを手放せずに彼は去っていきました。
しかし19章の27節でペテロが言うのです。19章の27節、ペテロはイエスに言った。
ご覧ください。私たちはすべてを捨ててあなたに従ってきました。それで私たちは何を頂けるのでしょうかとペテロは言い始めるんですね。彼とは違って、私はすべてを手放して従いました。
それに対してイエス様は、ペテロが受けるべき報いの話を28節、30節にされていきます。永遠の命、永遠なる神様と共に結ばれ、この世界を治めるという、尊い使命について語られます。
しかしペテロからすればきっと、もっとわかりやすい報いを求めていたのでしょう。それはこの20章のさっきの話の後の箇所にも出てくるヤコブの母親もそうなんですね。
20節から21節というところにも、この後のところにもゼベダイの息子たちの母、ヤコブとヨハネのお母さんがイエス様のところに来て言うのです。
20章の21節をお読みしますと、イエスが彼女に、何を願うのですかと言われると彼女は言った。私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるようにおことばをくださいと。
共通することは、早い時から私たちはすべてを捨ててあなたに従ってきました。私たちは夜明け前からあなたと働きました。だから他の人々よりも豊かな報酬は約束されていますよねということです。
弟子たちの心の中にそういう思いが生まれてきたのです。早いうちから私は仕えてきたでしょう。だからそれだけの報酬をイエス様、あなたは約束されていますよね。でもイエス様はこの20章の1節から16節の言葉を通して、その彼らの考えを修正しようとされるのです。
神の恵みというのは、あなた方が従順にしあってきたこと、あなた方が祈ってきた報酬ではない。神の恵みというのは、神御自身の気前の良さ、神御自身の恵み深さゆえに、一方的にあなたに注がれているんだということです。
これは今も私たちは同じです。だから私たちは主の恵みがある。当然、私たちは恵みをもっと恵まれたいと思って祈り主に従っていくということを理解いたします。
恵みの豊かさを知る機会
確かに、聖会に行こうだとか、聖夜聖会に行こうだとか、蒼天水王の祈祷会に出よう、聖書を読み、祈ろう。大事なんです。これは本当に大事です。それはでも、主が私たちに注いでくださっている恵みの豊かさを知るための貴重な機会です。
エスレオは恵みの手段とそのことを言いましたが、そういう機会を通して私たちは、神様が私たちに今どれほど恵んでくださっているのか、どれほど私たちを愛してくださっているのか、その豊かさを知るために私たちは聖書を読む。祈る。豊かさを得るためではない。豊かさを知るために。
後にパオロがこういうことを言いましたね。皆さんよくご存知なのでお開きにならなくてもいいですが、第二コリントの十二章の九節というところに有名な言葉があります。第二コリントの十二章の九節というところをお読みしますと、こういう言葉です。
しかし主は、私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからであると言われました。ですから私はキリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょうと言いますね。
弱くなったから恵みが増えたとかそういう話じゃない。十分に神様はパオロを愛し、豊かな恵みを注いできた。弱さを知った時にそのことに気づいたという。それは私たちも経験があるでしょう。弱い時こそ私たちは神様がこれまで、そして今もどれほど私のことを愛し、私を支えてくださっているかということの豊かさを知るんですね。
神様の恵みは十分なんです。時に私たちが罪に陥り続けるなら、なおも神様は警告を与え、悔い改めへと導かれますね。恵みですよ、これは。
私たちが弱り、主へ祈れなくなる時があります。でもなおも主は十分な恵みを持って私たちを支えていてくださいます。不条理の中で怒りが止められなくなります。けれどもその傍らの中で主は覆われる。
先の人も後の人も全て主に身を避ける人は同じだけ与えたいと言われる神様の気前の良さに覆われながら、私たちはそこで支えられながら生きていくんですね。さて三つ目のポイントです。では私たちはここからまさに恵みを受けながらどこに歩んでいくのでしょうか。
三つ目のポイントそれは、恵みは賜物であって、私たちの従順の先にあるのは十字架だということです。そのような恵みによって支えられながら歩んでいく私たちの先には一体何があるのでしょう。それは十字架です。
先ほどちょっと先に進んで申し訳ないんですが、20章の20節から28節というところには、ヤコブとヨハネのお母さんとのイエス様の対話が出てきますけれども、ヤコブとヨハネのお母さんがイエス様に報酬を求めた時にイエス様はこう言われました。22節をお読みしますとこういう言葉ですね。
イエスは答えられた。あなた方は自分が何を求めているのかわかっていません。私が飲もうとしている杯を飲むことができますか。彼らはできますと言った。
杯とは何であるのか、これは皆さんよくご存知でしょう。十字架に向かう柔軟ですね。弟子の多くはこの世界の王様のような報いを求めました。右大臣、左大臣、偉くさせてください。人を支配する、コントロールする力を私にください。
でもイエス様は、そうではない。この世界の王兵な支配者のようにイエス様が王級で王として着座することを考えるならば、イエス様はそういう王座に座ることができたでしょう。
しかしイエス様の進まれる場所は王級の王座ではありません。ホルゴダの丘の十字架がイエス様が着座される王座でした。
この世の王のように力を振るい偉くなることを求め、暴力によって人々を支配するなら、王級の王座には座れるでしょう。
しかし真っ事の王であるイエス様は、力あるお方なのに力を捨て、偉くなるよりも使えることを選び、暴力よりも愛することを選び、支配するよりも分かち合うことを選び、この世界を新たなご自身の支配によって変えようとされた。
それが28節までに書いてあることですね。 その結果、この世界はどうしたか、イエスキリストは邪魔だと言って十字架にかけたのです。
この19章20章に共通して続く一つの言葉があります。 それは今日読んでいただいた箇所にもありますが、「後のものが先になり、先のものが後になる」という言葉です。
これは19章の30節にもありますし、20章の27節にも同じような意図で語られています。
先のものというのは、この文脈で言うならば、テテロをはじめ、すべてを捨ててしたがったと自認する弟子たちのことでしょう。
一方、後のものというのは、最近救われたイエス様の弟子たちでしょう。 この教会で言えばテルさんでしょうかね。
神様は、後に救われた者たちを大事にされるお方だというのも、この箇所ではっきりと書いてますね。
でもじゃあ、先に救われた者である人たちの使命は一体何なんでしょうか。 20章の27節からお読みしますと、こういうことが書いてますね。
あなた方の間で先頭に立ちたいと思う者は、皆の下辺になりなさい。 人の子が使えられるためではなく、使えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのと同じようにしなさい。
イエス様がペテロ、そしてヤコブとヨハネのお母さんにつけたように、同じようにしなさい。
先に召された者たちにある使命は、同じように、キリストと同じようにしなさい。
つくのは王座の右大臣、左大臣ではない。十字架の右左ですよ。
でもこれは誤解のないように申し上げます。十字架に従えというのは死ねという話じゃないんです。何度も言います。
十字架を仰ってだとか十字架に向かえというのは死ねという話じゃない。死ねじゃない。
十字架というのは結果です。でも十字架に向かわれたこれはイエスキリストと同じように生きなさいという招きです。生きなさい。
皆に仕える者、しもべになりなさい。使えられるためではなく、使えるため、自分の命を与えるために生きなさいです。生きなさい。
ただ私たちは知っています。そのような十字架の道、キリストの道筋を私たちも追っていく歩みの最中に、キリストを死から蘇らせた神の力が、あの復活の力が、無から有を起こすあの力が、私たちの内に現れていく。
今朝私たちは覚えたいと思います。主の恵みは十分です。何度も申し上げます。私たちに注がれて主の恵みは十分です。
恵みによって、恵みの中で、そして私たちはそれぞれの十字架を担いながら歩みなさいというふうに招かれる。時にそれは、追いたくないものを無理やり追わされることがあるかもしれません。選んで追ったという十字架もあるかもしれません。
でも、その道筋に主の恵みに支えられて歩んでいきなさいと私たちは招かれる。あなたに対する主の恵みは決して無くならないのだからと。楽じゃない、楽じゃない、楽じゃないけれども倒れきりもしないんです。
私たちはその歩みの中で、私自身が砕かれながらイエス様が私の中に形作られていくのではないでしょうか。誰に対しても一でなり、誰に対しても一でなり、しかしそれは十分な楽だということです。十分な楽、十分な恵みを備えて与えてくださる気前の良い神様、恵み深い神様に支えられながら、
私たちはそれぞれの十字架の道、復活の力を知る道を進ませていただきたいと思うのです。一言も祈りをしてメッセージを終わります。
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