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2022-04-10 31:13

「イエス・キリストの苦難と栄光」2022年4月10日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2022年4月10日(日)主日礼拝のメッセージです。 牧師:アブラハム黄

イザヤ0 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。

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今日は、イエス様の苦難と栄光の対応をもって メッセージを分かち合いたいと思います。
今は四巡節の時期です。 今週は四巡節の最後の週として、イエス様の苦難ということを主に考える時期です。
今週の金曜日が大事ですね。 金曜日の夜明け
イエス様が裁判を受けられました。 皆さん、裁判を
夜明けに 裁判を受けることはありますか?
しかしイエス様は 夜明けに裁判を受けました。
そして十字架経緯に処せられることを宣告されて
朝、餅を打たれるんです。 そしてコルゴーダの丘まで
十字架の経緯が約70キロかかるそうです。 70キロの十字架を背負ってコルゴーダの丘まで
ずっとイエス様はそれを背負っていかなければいけなかった。
そして朝午前9時に十字架にかかり 午後3時にイエス様が息を引き取られたということです。
イエス様はそれほど 打ちを打たれて反殺しにさせるんです。十字架経緯の前に。
そして十字架にかかりイエス様は 息を引き取られたということですけど
そして金曜日土曜日そして日曜日の朝 イエス様が復活されました。
だから3日間 お墓の中におられたということになります。
それが2000年前今週にあったことでした。 罪がないのに
神様なのになぜイエス様はそのような十字架経緯 死刑に宣告される
この苦しみを受けるべきだったのか これを私たちが今週覚えてそれを黙想する
そしてイエス様のこのことは全て私の罪のゆえに背負っておられたから それをもって私たちはイエス様感謝する
恵みを考える そして来週イスターの礼拝を守りたいと思います。
ところがイエス様の十字架の事件を
これからBC 800年700年の間に住んでいた
イザヤという預言者が 将来イエス様が怒られて十字架経緯に亡くなれることを
今目で見たように預言をしたんです これ素晴らしいですね
03:03
そのイザヤの預言を通してイエス様の十字架の出来事がどんな意味なのか
なぜ罪がない方が十字架に書かれて亡くなれたのか その理由もすべて書かれてありますので
それを通して今日はイエス様のことを考えていきたいと思います
イザヤ53章はイエス様の苦難 またイエス様に与えられる栄光
苦難と栄光を書かれてありますので 私はこれを通して学びたいことは
信者たちはこの世では苦難があります 難しさがあります
しかし 神様は苦難に対して必ず補償してください
報いてください その時私たちは驚くほどの栄光の中に預かるようになるでしょう
ですから信者はキリスト教信仰を守るために また信仰を述べ伝えるために苦難があります
しかし将来与えられるその栄光の報いを考えながら 喜んで担っていくことが大事だということを
今日お話ししたいと思います イエス様の苦難と栄光に対して
今日はイエス様のイジャヤ53章を通して 私たちは考えていきたいと思います
まず今日は ある人の話をしたいと思います
人の悪口をすることではないのですが 私が知っているある人は
不細工な顔をしています 不細工な顔をしているということでも
なんとなく良いこともありますけど
その方は一晩見たら嫌になるほどの顔を持っています 嫌になるほどの姿を持っています
その方は体も弱くて いつも病をかけていました
また家も貧しかったです 兄弟は多いんだけど父は早く亡くなって
大工さんの働きをしながら ギリギリ生計を立てている状況でした
周りの人は彼の姿も嫌だし 貧しかったし この人に対して全てが嫌でした
その人はなぜこんな人生を過ごしていいんだろう 気に入るものはもう一つもないんじゃないか
そして世の中の人はその人をなかなか受け入れてくれませんでした
イジャヤス53章2節3節にこの部分を少し表現しています 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
06:01
またこの人は見るべき面影もなく 輝かしい風格も好ましい容姿もない
彼は軽蔑され人々に見捨てられ多くの痛みを負い 病を知っている
彼は私たちに顔を隠し私たちは彼を軽蔑し無視していた 皆さん世の中でこのように徹底的に嫌がれる人を見たことありますか
人々はその方をどれほど無視するかと言いますと その方が何か良いことをしたなら
なぜなら何が良いものが出るだろうかと言うんです その方がある人の病気を癒すなら
この方は多分アクリルをバールゼブルの力で癒したかもしれない
またその方が大蔡首長の家に取られて行くときに 人々が怠けだと言いながら平手で彼の手を打つほどの嫌なんです人々が
また10時間にかかる前に 茨の
冠をかぶさせて唾を吐き 嘲笑うほど
人々から徹底的に無視され軽蔑され目ながら過ごしました ところが
その人がやることを見たらすべて正しいんです その方は過ちを犯すことはありません
またすべてを他の人のためにあるんですけど素晴らしいんです 神様も愛し自分のようなかわいそうな人々を愛して哀れも心がありました
だから世の中の人々はこの方が嫌だ 私はこの方と付き合いたくないという人もいたし
その方いいことをやってるんじゃないか この方いい人だよという人もいるし
また特にリーダーたちはこの人を殺そうと思っている このような状況でした
結局この方はいじめられて裏切られて 罪がないように対応されて尋問を受けて一番怖い死刑の刑罰を受けて
半殺しになるまで鞭を打たれ そして十字架にかかり亡くなりました
世の中の人々はその人に指を指しながら 呪われた人だ
どうしてこんな不幸な人が私たちの周りにいるんだろう
皆さん もし私たちの周りに
このようにみんなの人々から嫌がれ 見捨てられている人は見たことありますか
今も世の中でこのような方たちが見つかることもたくさんあるでしょう この人はなぜ生きるんだろう
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なぜ生まれたんだろう この家庭はなぜこうするんだろうと思うのではありませんか
ところが皆さん 人生は偶然がありません
必ず理由があります なぜその人がそのような姿で生まれ
そのような環境の中で生きるしかなかったのか 人々はその理由をわからないから勝手に言います
イザヤ五十三章4節にこう言います この人は何か理由があるだろう
理由があるから自分の罪があるから自分の理由があるからこのような苦しむんだ 理由があるんだよと言い付けます
しかしイザヤ五十三章10節には 主が望まれたと言います
神様が望まれてこの人はこのような姿で生まれ このような環境で生まれそして一生涯苦しみを受けて過ごすように主が望まれたと言います
ではなぜ主がその人をそのように望まれたのでしょうか 一度しかない人生なんで悔しくありませんか
かわいそうではありませんか イザヤはそれを見たんです
そして予言したんです イザヤ五十三章5節6節です
彼が差し支から貫かれたのは私たちの背きのダメであり 彼が打ち砕かれたのは私たちのトガのダメであった
彼が受けた懲らしみによって私たちが平和が与えられ 彼が受けた傷によって私たちは癒やされた
私たちは羊の群れ道を誤りそれぞれの放課後に向かっていった その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた
なぜ彼がこのような不細工な顔で 嫌な顔でこのような貧しい環境でこのもう本当に最悪な状況の中で
生まれ育ってそしてそのような不幸な人生を過ごしたのか それは
他の人に救うために彼はわざわざ 犠牲ばっかりする人生として神様がその人を
させたということです 皆さん神様が私の人生を他の人の救い
他の人を助けるために私にいろいろな悪いことばっかり負わせられたと言ったら 皆さんどう思いますか
なぜ私ですか神様他の人はみんな幸せなんでなぜ私だけはこんな苦しい こんな不幸な人生を過ごさなきゃいけないんですか
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嫌です嫌ですなぜ私がそうしなきゃいけないんですかと 反抗したいでしょ
驚くのは 彼が罪がないのに人々からあざけられ
対応され裁判を受け無知を打たれ十字架経緯で殺されたのにも関わらず 彼は一言も
反抗しません自分自身を弁明しようとしません 人間だとするなら
私良そうやってませんよ罪ないんですよ なぜ私にそうするんですかと一言言うじゃないかと思うんですけど
この方は一切何にも言わないで 怠慢にそれを受け止め
そして 自分がやるべきことだと思ってそれを最後まで沈黙の中でそれを担っていくんです
苦しみの中で彼は死んでいくんです 人々は頭を振りながら嫌だ嫌だこのような人が嫌だと言うかもしれないけど
その方はそれを全部受け止めて それで担っていくんです
この方がどなたですか この方がメシアであるイエス様です
ユダヤ人たちは今もその方が嫌で受け入れてくれません 特にメシアとして生まれた方がなぜ
十字架を背負うのかと言いながら2000年に経った今も ユダヤ人たちはイエス様を受け入れません
なぜイエス様の人生は このような不幸で苦難で呪いの人生だったでしょう
なぜ悲惨に 死ななきゃいけなかったんでしょう
皆さん 私は牧師ですから
私は仙郷として日本に生きているところだから 私の家庭には
何も私はあまり言わないけど 家族の中で反発もあったり色々難しさがあります
私の父は牧師になって私たちはダメになったという子供たちの反抗もあり いろいろなこともあります
イエス様は私たちが担うこのようなことじゃなく もっともっと
世の中で喜び楽しい エンジョイする人生は全くなかった
イエス様はご自身を生まれ育て そしてもう開明的な姿から
全てが世の中から呪われたと言われるほどの不幸な人生だったんです
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なぜそうだったんでしょう 世の中の呪い 世の中の不幸
世の中の全ての悪いことをご自分が全部背負ったからです
背負ってそれを 世の中の人々を自由にさせ罪を許してあげ
幸せにするためにそれを全部自分が背負って そして自分がそれを担ってくださったんです
そして立法 呪いを罪を癒される そして罪を解決する神様の基準 法則は
これがヘブナイション9章22節 こうしてほとんど全てのものが立法に従って地で清められており
地の流すことなしには罪の許しがあり得ない じゃあその立法を守るためには罪がない自分自身だとしても
十字架で地を流して死んでいくこのことも
イエス様は沈黙の中で全部になってくださった イエス様は神の御子
もう三密体の神様の第二位の神様 神の栄光を持っておられる方だけど
世の中に来られた時には一番貧しい 一番低い身分でおられた
第2コリント8章9節 あなた方は私たちの主イエスキリストの恵みを知っています
すなわち主は豊かだったのにあなた方のために貧しくなられた それは主の豊かさによってあなた方を豊かさになるためだった
主が貧しくなった分私たちが豊かになる 皆さんここから見てますと
死道を幸せにしたり豊かにしたりしてあげるためには 誰かが犠牲をしなければなりません
イエス様は私たちの救いと癒しと豊かさと幸せのために 個人のすべてを犠牲にして私たちに与えてくださったんです
考えてみたらイエス様は本当に悔しい人生を過ごしたなと思います しかし
悔しいです私をこんなに酷い目にする人々に復讐してくださいと一言も言いませんでした
なぜそうしたのか イエス様は神様の御心をわかったんです
神様の願いを成し遂げるためには 人類の救いの御業を成し遂げるためには
私はその苦しみを全部背負っていかなきゃいけないんだとわかったんです だからイエス様は神様のために全世界の人々のために
18:03
自分はそれを全部背負って 私が担っていこう
私が全部背負っていく覚悟の上 沈黙の中ですべてを担ってくださった
それによって神様は誰でもイエスキリストの皆を信じる人は救われるよということを言われるようになった
神様のために人のためにイエス様はご自分のすべてを犠牲にしてあげた
ところがこのイエス様も苦しむ時がありました イエス様がご自分の人生の中で一番辛かったことは
人々から受ける非難 無知 十字架の苦難でもありませんでした
イエス様が一番難しかったのは神様との関係が断ち切られた時
神様がイエス様を見捨てられた時
エリエリラマサバクタニ 我が父よ我が父よなぜ私を見捨てられるんでしょうか
どんな辛い辛さよりは神様との関係がためになったことが一番辛いと思います
じゃあなぜためになったんですか 誰か犠牲しなきゃいけないのに神様は美子イエス様を犠牲にすることを決めたから
イエス様がこのような苦難 迫害 無知 打たれ 十字架で殺される そのこの辛い辛い刑罰を受けること
神様はそれを許された 引き渡された
イエス様も神様から引きされることは辛かったし 神様もイエス様の苦難を見なきゃいけないこの苦しみ
どれほど辛かったでしょう 皆さん
皆さんの子供が 刑罰を受けるんだとしたらそれを見ている親の気持ちは堂々なんでしょう
だから パッションオブクラストという映画ではイエス様が十字刑を受ける時に
天から涙が落ちる場面があったでしょう イエス様も辛かったんですけど神様も辛かった
イエス様と神様の犠牲によって 全世界の人々を救うようになった
しかし世の中の人々は自分の罪のためにイエス様が殺されて亡くなられるのに
ああこの人は自分の罪のため何か訳があるでしょうと言いながら 偉そうな話ばっかりするんですけど
それにお前のために私が死ぬんだよということを言わないで 沈黙してそれを受け取って
21:03
これが イエス様の奥深い見心ではないかと
私は軽すぎる 自分も全く分かってないのになぜこの人はこうなんだろうこの人はこうなんだと言うんですけど
事実その人は私のために 苦労になってたしいろいろな損を犠牲を担っていたかもしれない
それで感謝はできないかもしれないけど 悪口とか非難をしてはいけないでしょう
イエス様は世の中のすべての人々から非難を受けながらも 世の中のすべての人々のために
自分の命自分のすべてを犠牲にしてくださった
このすべてを担ってくださったイエス様の見心は ただ神様を愛して神様の切なる願いを叶えてあげたい
また世の中の人々を愛して世の中の人々の一番辛い問題を解決してあげたいという 哀れむ心だけだった
神様に対する愛 隣人に対する哀れむ心
これがイエス様の見心だった このようにイエス様は自分自身を完全に犠牲にして
すべての人のために 死んでくださった
じゃあ皆さん一番大事なこと マルコ9章35節
一番先になりたい人はすべての人の後になり すべての人に仕えなければならない
これが私たちにも当てはまるでしょう 教会でも皆さんのために誰かが犠牲にならなければ
私たちには 問題解決病気が癒され幸せにならないんだ
だから私たちはある人のために自分自身が痛いように取り出しの祈りをしてあげたい その人のために助けてあげたい愛してあげたい
なんとかする そのある方の犠牲がなければ私たちには幸せにならないでしょう
イエス様はそのような謀反を私たちに見せてくださいました じゃあ3番目です
しかし神の御業は苦難だけで悪者ではありません 神様は必ず報いて下さい
神様イエス様はどのようにされるか イザヤショーは告白しています イザヤコズ3章10節から12節までですけど
神様はこのようなすべての人のために犠牲されたイエス様を 死の死んだままに置いておかなかった
よみがえらせてくださいました そして神の身むねが成就されることはよみがえられたイエス様は自分の目で見ることができたんです
24:09
イエス様は犠牲によって世の中のすべての人々が救われることを目で見るようになって 世の中の人々が喜ばれることを見てイエス様が
ああよくやった私の地犠牲が良かったという またイエス様の犠牲によって神様も
信者は死なないよう復活されるよう 永遠の栄光の中で預かるようになるよということを見せてくださった
一番大事なのは自分がやったことに対するすべての人の幸せをイエス様は自分の目で見る ことができそれをもってイエス様が喜ぶことができた
これが事実親の心じゃありませんか 親は子どもたちのために犠牲します子どもたちが喜びます
そしたら親は自分は何もしなくてもしてあげてあげてくれなくても 子どもの幸せを見て親はなんとなく幸せになるような
父の心 これがイエス様が私たちのためになってくださった心ではないかと思います
聖書はこのお方イエスキリストに対する ヒースストーリー
じゃあイエス様のヒースストーリーは必ず最後は ヘッピーエンディングとして終わることです
そしてイエス様に出会った人は誰でも そのイエス様その人の人生を
ヘッピーエンディングとして変えてくださいます なぜならイエス様がその人の人が幸せになるように
すべての代価をすべてを支払ってくださったからです 聖書は私たちにイエスキリストに出会ったすべての人は
最後最後はヘッピーエンディングですよ ということを教えるために書かれたと考えていいでしょう
永遠な祝福永遠な幸せ 信者は必ず永遠に祝福され永遠に幸せになるよということ
それがすべてイエスキリストの十字架のおかげで私たちに与えられるよということです じゃあ皆さん不安ですか心配ですか
心配しないでください不安を持たないでください 皆さんはヘッピーエンディングです
私たちの子供たちみんな最後にヘッピーエンディングです すべてヘッピーエンディングとして終わるもんだから心配なさらないでください
アメン 結論を申し上げますこの世の中で信仰を守るのには難しさがあります
また福音を伝える生活他の人に使える生活には犠牲がなければ絶対できません 命を救うためには私が死ななければいけないかもしれません
27:03
しかし首都福音のために犠牲するすべての献身には驚くほどの
神様の報いがあります これは永遠の命ということです
永遠の命は生きている間に働き私たちはその力で生き あと死んだら永遠の命をもって天国に行って最後まで
永遠に永遠に祝福の中で幸せの中で過ごすようになります じゃあここで皆さんに質問
教会学校の私メッセージ一番素晴らしいなと思っての メッセージの後に必ずクイズしますね
これがいいなと思いました じゃあ皆さんにクイズです
誰が復活を経験することができますか
何でしょう 誰が復活を経験することができますか
それは 十字架を背負う人が
復活を経験することができます 十字架を背負わない人は復活もありません何にもありません
キリスト社たちは誰かのために十字架を背負っていく そうするなら私がその人の十字架を背負っていくなら
その人も救われ生かされます また私も
永遠な復活の喜びを味わうことができます だからキリスト教は私の犠牲によってみんなが生きるんです
みんなが幸せに生きるんです 私が犠牲すれば私が十字架を背負えばみんなが幸せになります
誰が先にやりますか 背負った人が先にやればいいんです
家族の中で一人の人が犠牲になれば家族みんなが幸せになります 教会も同じです
イエス様の十字架を背負った人が自分が犠牲すればみんなが幸せになります
また日本の方々のために私たちが誰かのために 犠牲することも喜んでやっていきましょう
その方も生かされるし神様の祝福されて私たちみんなが 復活の命と復活の栄光が私たちに与えるものですから
ぜひともイエス様から見習って私たちが十字架を背負うことが 素晴らしいことだと考えながらぜひとも今週イエス様がなさったことを感謝し
私もイエス様のようにみんなのために何か犠牲をしあらって 助けていきたいと思っているこの心で満たされますように
お祈りいたします 主よ子潤節の最後の期間今日はイエス様の献身
犠牲 本当にイエス様は十字架を背負ってくださったことの素晴らしさを考えていました
30:03
イエス様は神様を愛し神様の切なる願いを叶えてあげたいと思ったし 民たちを憐れんでくださって全ての民を助けていきたいと思っている
その心だけで 十字架を背負って世の中で一度しかない人生を苦難
全ての人の犠牲で自分の人生を過ごしました 本当にこの人生は祝福の人生で神様がイエス様一番大きく祝福され
高くあげられたように 私たちが主のために生きるなら主が私たちを一番素晴らしい人生としてしてくださることを信じます
イエス様の十字架のこの犠牲 苦難を私たちは見習って私たちもある方たちのために犠牲をしあらうことができるような
私たちの教会になりますように助けてください イエス様の皆を通してお祈りいたします
アーメン
31:13

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