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2021-10-17 34:32

2021/10/17:創世記(34)神の恵みによって生きる

2021/10/17 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -25


00:00
みなさん、おはようございます。
今日は、久しぶりの方々もお見えになって、本当に感謝いたします。
急にちょっと寒くなりましたけれども、皆さんもお元気な姿で、一緒に集まって礼拝できることも、本当に嬉しく思います。
創世記も26章に来ています。
今日は、神の恵みによって生きる、神の恵みによって生きる、という題にして、一緒に神の御言葉による恵みをいただきたいと願っております。
今日は、遺作の話をしてですね、そこから、私たちの信仰、いや、この聖書が語る、とても重要な2つの大事なテーマというか、
真理というか、それについてお話をしたいと思いますのでね、それをぜひ皆さん、つかめて、握って、実践して、信じていきたいと、そういうふうに願っております。
まず遺作の話をですね、少し話をしていきたいと思います。
遺作はですね、
なぜか、父アブラムに似て、同じような過ちを犯してしまいました。
この26章を全部は、今日読んでいませんが、ぜひ皆さんね、お家にお帰りになって、読んでほしいんですけど、
遺作は、ゲラルという町、イスラエルの南の方ですね、
そこに移って、そこに住んでいました。
ところがですね、その町々の人々が、遺作の妻、リベカを見たら、非常に美しい女性だったんですね。
それでですね、遺作は、もしかしたら、この町の人々に自分が殺されて、妻を奪われるかもしれないと思ってですね、
遺作は、あれは私の妻です、じゃなくてね、自分の妻なのに、自分の妻は私の妹です、と言ってしまいました。
父、アブラウンも、全く同じ過ちをしたことがあるんです。
これは遺伝ではないんですが、なぜか本当に同じことがですね、父の代で息子の代で起きたんですね。
また、遺作には、こういった過ちだけではなくですね、先週も少しお話をしましたように、
03:00
遺作もリベカも、自分の息子たちを引き合いする親でした。
この引き合いは、この家庭にですね、後々、嵐を吹き込ませるもとになってしまいますね。
それだけでなく、遺作は、死の直前に子供にですね、手を置いて祝福の祈りをするわけですけれども、
遺作は、もう最後までですね、神様がヤコブを選んだのをわかっていても、餌を祝福しようとした。
そして、母親リベカもですね、もう最後の最後までヤコブを愛して、ヤコブをかばうお母さんでした。
それぞれですね、肉の思いが強い父・母でした。
このように、アブラムにも遺作にも欠けが多かった。
彼らの歩み人生には、立派で完全ですごく素晴らしいところばかりではなかったんですね。
人欠臭いところも、弱いところも、罪も過ちもいっぱいあるものでした。
ヤコブはどうでしょう。先週も少しね、聖書を読みましたけれども、
ヤコブは聴取の権利をしたものだったとしてもですね、それを手に入れるやり方は、とても清いとは言えないものでした。
彼は人を騙す術というかですね、なぜかそれが彼の身についているんですね。
それが長く続きます。
欲しい人や物なら、自分の力で何とかして、騙してでも手に入れようとする愚かさが、罪深さが、実はヤコブの人生にずっとついていました。
遺作もヤコブも、あるいは他の聖書人物を見てもですね、
アブラハムもノアも彼らにも、もちろん素晴らしいところもありますよ。
しかし彼らには過ちだらけ、醜さだらけの人であることを、その事実を私たちは否めないと思う。
06:00
みんな日々だらけの過ちだらけの人です。
ノアがハコブネを作った素晴らしい信仰の人だとしても、
アブラハムがどこに行くか知らずのまま、神様に立派に従って出て行った人だとしても、
彼らはみんな神の前には過ちの多い罪の多い人に過ぎませんし、
みんな神様の恵みなしには生きられない弱い存在ということです。
みんな神の恵みと憐れみ許しなしには生きられない遺作も。
一方で神様はどのようなお方なんでしょうか。
私たちが信じているこの神様は、罪を忌み嫌い、裁く正義の神様です。
ですからみなさん、本来ならば、神の正義で見るならば、
アブラハムやイサクやヤコブも、彼らは自分たちの罪の上に裁かれるべき者です。
祝福を受けるどころか裁かれて当然の人たちです。
なぜなら、誰も聖なる神様のその義に、清さに及ぶことはできないからです。
しかしどうですか、みなさん、神様はその裁きをですね、
アブラハムやイサクやヤコブや、彼らにみんなそれをその通りにそのままその裁きを実行なさったんですか。
彼らを滅ぼされたんでしょうか。
神様は、イサクをどのように取り扱われたかを、今日の聖書でですね、少し見てみたいと思います。
このような日々だらけ、過ちだらけのイサクですけれども、神様はまず、今日読んではいませんが、
26章の12節を一緒に見ていきましょう。
創世紀の26章12節をお読み下さい。
では聖書をご覧下さい。私がお読みしますね。
イサクは、その地に種をまき、その年に百倍の収穫を見た。主は彼を祝福されたとあります。
09:05
この話はですね、さっき言ったように、あのゲラルに行って、自分の妻リベカは私の妹ですと、もう嘘ついた。
あの事の後の話なんですよ。
そんな過ちだらけのイサクを、神様は百倍も祝福されたという、この12節がここに入っていて、そして13節を見ると、
こうしてこの人は富、ますます栄えて非常に裕福になったとあります。
皆さん、ある意味でおかしいと思いませんか。
もしですね、この記事がですね、流れ的に12節の前にですね、イサクがですね、立派な信仰を持って神様に仕えた、あるいはたくさんのものを捧げた。
多くの人々を救った、その立派な遺伝みたいなですね、偉人のみたいなストーリーが書かれた後、12、13節が来たら、ああ、なるほどね、因果関係でですね、そう、分かるかもしれませんが、なんかギャップがあるんじゃないですか、皆さん。
ギャップがあるんですよ。
前のストーリーは、人間臭いんです。見にくいんですよ。褒められるところは一切ありません。ところが、なぜなんでしょう、神様。
こんなイサクを、なぜこんなにもその周囲の人々に比べて、ますます栄えるように非常に裕福なものにならせたんでしょうか。
不思議なんですね、不思議なんです。
また、今日の24節をご覧ください。
24節、聖書をご覧くださいますか。
そこでですね、イサクがベールシェバーに登ったんです。
そしたら、神様は、アブラハムの時にも約束なさった子孫への祝福、それをですね、同じく、このイサクにも忘れず、神様は約束してくださいました。
さあ、それが24節です。私が読みしますので、ご覧くださいますね。
主はその世、彼に現れて言われた。
私はあなたの父、アブラハムの神である。恐れてはならない。
私があなたと共にいるからだ。
私はあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加える。
あなたの子もべ、アブラハムのゆえに、とありました。
これもですね、その前にペリシテイ人との井戸の争いの、まあいろいろ事件があってですね、その後に起きたことです。
12:04
神様はアブラハムに続く子孫の祝福を、この人間臭い、ひびだらけのイサクに約束してくださいました。
まあその前にですね、読んでないんですけども、この井戸の出来事が、事件が書かれているんですけどね、22節までね。
まあイサクがですね、その町の人々に井戸を掘った井戸を譲ったという話なんですね。
でもですね、それがこんなにもイエスキリストの祖先になり、その経図に名前を載せられるほど偉大なことをしたわけでもありませんしね。
神様は彼をこんなにも尊いものにしてくださらなければならないほどのわけにもならないと思うんです。
皆さん、この一連の流れから、私たちは神様についてとても大事な真理を知ることができます。
それは、ちゃんと聞いてくださいね。この話は今日のメッセージで重要な部分ですよ。
神様は、罪を裁く義の神であられるとともに、罪を許す恵みの神様です。
アメネス神なんですな。神様は、罪を裁かれる正義の清いお方です。
同時に、罪を許し憐む恵み深い神なんです。
主は、アブラハムやイサクやヤコブを憐み、彼らに対する限りない恵みを与えてくださるんですよ。
つまり、アブラハムもイサクもヤコブも他の聖書の人物、誰もみんな一緒ですけれども、
彼らはみんな神の正義から照らしてみれば、みんな罪人なんです。滅ぼされるべき罪人なんです。
しかし、そんな罪人であるにもかかわらず、彼らを憐み、祝福し、恵みを与えられる神様なんです。
だから、私はこれを、にもかかわらずの恵みと呼びたいんですね。
にもかかわらずの恵み、意味わかりますね、皆さん。
それにもかかわらず恵んでくださる神様なんです。
イサクのように、神の御心を分別できない自我の強い人、自分が愛する長男、長男、彼をですね、
15:02
肉がどれだけ好きなのかわかりませんけどね、その餌をばかり祝福しようとするイサク。
自我が強いんですよ。そんな彼。
あるいはヤコブのように、悪くはしこくで、貪欲の人。
70、80歳過ぎても、梯子に乗っている天使と格闘するほど、
あの時ヤコブは20代じゃないんですよ。私、今ちょっと忘れて、80歳過ぎてのヤコブなんですね、皆さん。
そんな彼らにもかかわらず神様は、彼らをなぜでしょうか?
憐れんでくださった、祝福してくださった、許してくださった、恵んでくださったということを忘れてはいけません、皆さん。
訳はわからない。不思議としか言いようがありません。
神様はどうしてこんなにも彼らを、かえりみてくださり、恵んでくださり、許してくださるのでしょうか。
わかりません。ただ、感謝して感謝して賛美するだけです。
最近私が呼んでいるアメリカのティモシ・ケイラという著名な先生がおられましてですね、
日本ではなかなか知られていないのですが、
その先生がたくさんの本を書いて、幸いに韓国の本では30冊ほど翻訳されていますが、
その中にちょうど今日のメッセージの内容にぴったりする文章がありました。
聞いていてくださいね。
人が神様にまことに出会い、神と自分とについて悟るならば、必ずこのように告白するようになる。
私は私が思ったことよりもっとひどい罪人であり、とがの多い罪人である。
私は自分がですね、私は私が思ったよりもっとひどい罪人だということ。
この続きありますよ。
にもかかわらず、私は私が望んだことよりもっと豊かな神の愛を受け、神に受けられている。
どうですか皆さん、この2つがありますね。
私は私が思っているよりもっとひどい罪人であることが、神の前に行けばわかる、悟るんですね。
そしてもう一つ悟るんですね。私が欲しがる望んでいることよりもっと豊かな神の愛を実は受けて、神に受けられているんだ。
18:12
この両方、神の前に行って、神に出会った人は悟るという話。
皆さんどうですか、その両方を悟って、感じて、感謝していますか。
私たちはアブラハム・イサク・ヤコブ・ヨシフ・ダビデ、聖書の人物を通して何かの教訓を学ぶことができました。
それもとても大事だと思うんですけれども。
しかし何かの模範的なことばかり学ぶとしたら、それだけでしたら、もう聖書は世の教科書や教養書、自己啓発書と違いがないと思うんですね。
私たちはアブラハム・イサク・ヤコブのような汚れの多い人、神の義に及ぶことのできない罪人、
そんな彼らを憐れみ、許し、恵んでくださる神様に出会わなければなりません。
そして究極的には、私たちの精神も霊も感心も焦点もすべて、神様に向けられなければならないんです。
アブラハムとかヤコブとか、その人物じゃなくて、その背後に、その上で働いておられる神様に行かなければならないんです。
そしてその神様を褒めたたえるということです。
さあ、では、彼らだけなんでしょうか。
アブラハム・イサク・ヤコブだけが罪人なのに、にもかかわらず恵まれている人なんでしょうか。
私たちは大丈夫なんでしょうか。十分に神様の愛を受けるべき素晴らしさをみんな持ち合わせているんでしょうか。
過ちも欠点も人間臭さも醜さも罪も一切ないものなんでしょうか。
神様が私たちを救わなければならない、恵まなきゃいけない、恵みを与えなければならない、それほどの何かを私たちは持っているんですか。
私たちはね、みんな人間臭いところがあるんです。
罪深いところがあるんです。
化粧をきれいにして顔のシミを隠すことはできるかもしれませんが、その心の中に潜んでいる罪を化粧で隠すことはできません。
21:04
さっきのティモシケイラ先生が言ったように、実は私たちは自分が思っていることよりはるかに醜い、ひどい罪人なんです。
とか、多いものなんです。神様に出会った人なら、福縁に出会った人なら、これを必ず悟るようになります。
なぜ人がたかぶるようになるか、なぜ神様はそんなことをするのかとつまずいたり、あるいは人をさばいたり、傲慢になるかといったりですね、
神の光に照らされて自分の実態を実は悟っていないからでしょう。
私たちの中には、自分が思っているものよりもっとひどい偽りや、抽象や、背きや、妬み、怒り、たかぶり、陰謀などの臭いところが多いものです。
そう思いませんか、皆さん。皆さんはそう思わないかもしれませんが、私はそう思います。
イサク、ヤコブを見れば、その中に彼らより、いや、アブラウム、イサク、ヤコブは自分と比べたら、彼らははるかにましない人であって、自分はもっとひどい罪の多いものであると、それに気づきます。
そして実はですね、この気づきのある人は幸いな人です。
なぜでしょうか。自分自身の惨めさや罪深さを神の前に認めた瞬間から、その人の心は、例は、低くされて謙虚な人に変えられて、神の恵みを求める道しかないと、
そして、神の恵みにより頼むしかないと、そして、その人生に道を歩むからなのです。
だから、神様しかないんです。
そしてそこで、私は、昨日も今日も明日も、神様の恵みのゆえに、自分が生かされているんだと。
神様の守りのゆえに、今日もこの生命が、命があるんだと。
今日も神様が、2021年10月17日、今朝、皆さん、今朝何時、皆さん、何時起きられたんですか。
24:06
5時、6時、7時、それぞれだと思うんですけど、私は今日は4時半ごろ目が覚めたんですけどね。
もしですね、今日、皆さんの、私たちの目が覚めなかったら、すいませんが、終わりですね。終わりなんですよ。
自分で自分の目を開けた人いますか。いませんよ。
自分で自分の心臓や肺を動かせて呼吸をしている人は誰もいない。
神様が、今朝も私たちの心臓を一生懸命、神様は忙しいんですよ。
もう全部の心臓を動かせておられる。肺を動かせておられる。細胞を動かして。そしてもうみんなの目をですね、それぞれ、その時間にですね、開けさせておられる。
それで、今日私たちは生きて、ここに今、努っているわけなんですよ。
神の恵みによって生かされて、守られて、生きているんです。
だからその恵みをわかっている人は、もうですね、そうしなさいと言われることなくても、謙遜に謙遜に神の恵みしかありませんと生きるようになります。
なぜ私たちは恵まれているんでしょうか。なぜ救われたんでしょうか。なぜ神によって支えられているんでしょうか。
私たちに何かの素晴らしい遺産が、善行が、奉仕があるからでしょうか。
いや、ありません。あったとしてもですね、神のもう完全さには、もう及ぶことができないからなんですよ。
だから皆さん、私たちは神様の恵みによって生きる人たちなんです。
この神様を心から褒めたたえて、いつもいつも感謝していこうではないでしょうか。
ところが皆さん、ここでですね、神様の恵みに感謝感謝、そこで終わってはいけません。
その神様の恵みによって生きる者としてでは、どのように歩んだらいいのか。
神様へのその恵みに対する応答が求められるんですよ。
ここで聖書の重要な真について、短く話をしたいと思います。
大きな2つがですね、実は聖書どこにも両方がバランスよく強調されて語られています。
ところが私たちは、前者だけを強調したくなる稽古が我々にあります。
27:08
何なのか今から話をしますね。
まず1つ目は、聖書はですね、一方的な神の恵みと、そしてその恵みによって私たちは恵まれているんだ。
罪許されているんだということが、聖書、荘石から目白くまでずっとそれが書かれているんですね。
もう1つ、2つ目は、同時に同時にですよ、等しくですよ、同じくですね、その恵みに対する私たちの応答が求められています。
この2つの方が、実は聖書にバランスよく、とても両方とも強調されて語られています。
聖書を見てみましょう。もう全部ね、聞いたことできませんが、まずエペソピートの手紙2章8節、前の字幕をご覧ください。
私は読みますね。
この神様の恵みですね、この恵みのゆえに、あなた方は信仰によって救われているんです。
それは、あなた方から出たことではなく、神の賜物です。
この歌詞は、とても代表的な神の恵みを言う歌詞です。
我々はね、恵みによって救われたんです。一方的な神の恵みによってね、救われた、神の恵みに感謝、感謝、それでいいんです、正しいです。
ところが、聖書はこの話ばかりじゃないんですよ、みなさん。
そうでしょ。
さあ、次の歌詞を見てみましょう。
ローマピトーの手紙8章13節。
もし肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬことになります。
しかし、もし見た目によって身体の行いを殺すなら、あなた方は生きます。
つまり、簡単に言って、見た目によって身体の行いを殺しなさいと、聖書は語っているんです。
これは、私たちの応答の部分です。
さっきのペーソン28節が、神の恵みの部分と言ったら、これは私たちの応答の部分、つまり、神の恵みと私たちの応答。
この両方が、聖書の教える大事な真理なんです。
この話は大事な話ですよ、みなさん。
聖書は、両方ともバランスよく語って教えているんです。
そして、だから私たちは、両方ともバランスよく受け入れて信じて行うことが重要です。
でも、私たちは、神の恵みによって罪を許されて恵まれていることを信じて感謝しましょう。
30:08
これは変わりありません。
本当にそうなんです。
同時に、だから身体の行いを殺して、清く歩まなければなりません。
恵みと応答なんです。
まるで車の車輪のように、一緒に回るわけなんです。
例えば皆さん、車のタイヤが右はでっかくて、左は小さかったらこう回るでしょう。
あるいはパタンと倒れるか。
同じなんですよ。
例えば、さっきのエペソン28節のように、恵み、恵み、恵み、恵み、恵みだけ強調したら、
清い行いはなかなか取れません。
神の前にいつだって幼稚な子供でも人生終わってしまいます。
いや、もう仕方がありませんよ。
何でも神様は許してくださるから仕方がありませんよ。
もう所詮人間だから、そんな言い訳ばっかりする人生になります。
逆に行いだけ強調したら、とても義務的な、立法的に
しなくちゃ、しなくちゃ、しなくちゃ、しなくちゃ、
あるいは人を裁き、自分を裁くクリスタルになってしまいます。
応答というものは、今日の礼拝も応答というものですけれども、どうですか皆さん。
神様のこの限りなき恵み、今朝も命を許してくださった恵み、
救ってくださった恵みを、それに本当に心から感謝して踊りたくて賛美したくて、
そのもう恵みが、感謝がもう噴水のように溢れ出て、
それで私たちはここに集まって喜んで礼拝するわけなんです。
いいですか皆さん。だから神の恵みを信じてください。
その恵みによって私たちは選ばれて、救われて、守られて、生かされています。
それはその恵みはずっと続きます。神の約束ですから。
しかし、その恵みに私たちは応答しなければならない。
御霊に従って助けていただいて、罪、憎の罪を殺さなければならない。
罪の誘惑と戦い続けていかなければならない。
自分は自分が思ったより遥かに醜い罪人であることを認め、
悔やれた目、知欲、密用、恵みによって、御霊によって歩まなければならないんです。
33:01
この両方が大事なんです。結論を申したいと思います。
神の恵みによって生きるとは、私は私が望んだものより遥かに大きな恵みをいただいていると。
そして、完全に神様に受け入れられていることを信じて、感謝して、安心して、喜んで生きることです。
そこには不安は一切ありません。皆さんご安心ください。
神の恵みはずっと続きます。
同時に、私たちは恵まれている生徒ですから、
しかし、この地上にいる限り、肉にあって生きている限りは、罪との戦いが続くわけなんです。
そして、天に行くまで罪と戦い続けなければならないし、御霊に助けられて肉の罪を殺さなければならないんです。
例外、大丈夫な人は誰もいません。
どうか皆さん、神の恵みによって日々喜んで安心して歩んでください。
また、身霊に助けられて日々罪と戦って清く清く歩んでまいりましょう。お祈りします。
34:32

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