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2020-02-09 44:19

2020/02/09:神に祝福された人生の法則21(21)神の恵みによって歩む人生

2020/02/09 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの手紙第一 2:3-5

00:00
しかし、御言葉を持っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。
それによって、私たちは神のうちにいることがわかります。
改めて皆さん、おはようございます。
お祈りにお越しいらっしゃいました。
寒くなってきましたけれども、このように心も、また信仰も、体も守られて、共に礼拝できますこと、本当に感謝いたします。
それでは、周りの方とですね、挨拶の時を持ちましょうか。
はい、それでは一言を祈ります。
もし私たちが、神の命令を守るなら、それによって私たちは、神を知っていることがわかります。
神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真にはその人のうちにありません。
神様、感謝します。
あなたにお会いし、罪許され、救われた者として、また神を知り、神の御言葉を知る者として、
あなたを愛する者として、あなたを愛し、あなたの命令も愛し、それを守る者とならして下さい。
どうか我々の中に、罪の深さ、弱さがありまして、主に背きの罪を犯す時も、御言葉を知っていながらも、御言葉に従わない道を選んでしまうところがありますが、
今日も、まずあなたを愛して、ここに集まってきました。
主よ、あなたの罪を、あなたの命を、この朝、私たちに主を御与え、見出して下さいますように。
そして、主の令によって、私たちの心も、考えも価値観も人生観も、全てが新しくされますように。
03:00
どうか強めて下さいますように。神様御自身が、一人一人に悟りを、知恵を、あなたの心を示して下さいますように。お願い致します。
そして、それに応答する信仰を従順を、我々に御与え下さいますように。
神様の皆によってお祈り致します。
アーメン、アーメン、感謝します。
はい、通報、あるいは先週からのメッセージのことで、皆さんご承知だと思いますけれども、
この神に祝福される人生の法則21の教で、完結、最後になります、21回目。
そして、任意時刻はなかったなと思いました。
去年の6月9日から始めてきましたから、あるときは12月とかはしませんでしたので、半年以上かかりました。
またね、お分け下さいが、スマホでね、ちゃんとしたらすぐに聞けるように、ピコロコードを掲示板に貼って下さいましたから、また繰り返して聞いていただけたらと思っております。
このようにですね、神の御言葉を普段私たちが無駄に受けずに、真剣に皆さん心に受け止めて、そして少しずつ変化が起こり、あるいは清聖が起こる皆さんの姿を見るたびに、心から感謝しております。
今まで20回、今日でね、21回目ですが、どんな内容があったのか覚えてますか、皆さん。覚えてないですか。
あまりにも溶け込んで自分のものに全部なっているので、覚えてないですかね。
最初の1回目は信仰の法則、その次は思考、言葉、祈り、種まき、願い、そしてヘルシー・クリスチャン・ライフ、人間関係の法則、一人の法則、人生の障害物数を克服する法則、
聖書的シュアルシップの法則、神の熱心の法則、天の言葉の法則、許しの法則、神の恵みの法則、神の祝福、これからね、最後に4つのミニシリーズをね、また始めさせてあげましたね。
神の目で自分を正しく見る。私は神の子供です。先週は福井の感性をお話ししました。今日は最後になりますね。
06:02
祈りながら、神の恵みについてお話をしたいと思います。それで今日のタイトルは、神の恵みによって歩む人生。神の恵みによって歩む人生であります。
皆さん、神様を信じて、イエス様を信じて、この世に信仰生活をすること、それは何でしょうか。神様を信じるということは、神様を信頼することなんです。
そして、その方の御言葉を信じて、主の言葉を喜んで、それに従う歩みが信仰生活、信じるということじゃないでしょう。
今日の聖祖の御言葉の2章の3節だけ一緒に読みましょうかね。
もし私たちが神の命令を守るなら、それによって私たちは神を知っていることがわかりました。
ですから皆さん、神を知っているということは何でしょうか。
それは、その方の神の命令を守ることが、神を知ることであって、神を信じることである。
知ることと御言葉を守ることは別ではないんですよね。
信じることと御言葉を守ることは別ではない。これはもう一つであるわけなんです。
だから、神を信じるということは、主を愛することであって、そしてその方の御言葉を守ることである。
特に今日は読んでいないんですが、ヨハナ・テガミ・ダイチは、神を愛するという言葉をよく豊富に語っているんじゃないでしょうか。
だから、信じるということ、信仰生活というものは、神を愛して、またそのイエス様の神の神聖に似るものへと変えられていくことであります。
ところが、この全てのことが自分の身に、自分に起こるためには、それがなされるためには、最も大事なこと、必要なことがあります。
それが、神の恵みということであります。
ところが、教会生活、信仰生活が高い方は、神の恵みですね、神の恵み、神様の恵みという言葉をたくさん使っていますが、
09:00
求職者の方と千年の真似をしたりすると、神の恵み、恵みとは何ですか。ピンとこない。よくわからないんですよ。
あるいは、皆さんもよく神様の恵みを話したり、祈ったりしますけれども、
誰かに、あるいは求職者の未信者の家族から、神様の恵みって何ですかと聞かれたら、どう答えられますか、皆さん。
もちろん、わかっているんだけれども、言葉で上手には話せないこともあるかもしれませんが、
神様を信じる信仰生活をすることによって、最も大事なことは、
自分自身が日々、神の恵みを豊かに受けて、味わって、その恵みによって生きること、神の恵みによって生きることです。
ですから、神の恵みによって生きる人が幸いな人であって、神に祝福された人であります。
神の恵みなくしては、私たちは垂れた、落ちてしまった枝に、信者という名はあったものの、なぜたりの信者になるようということもあります。
ところが大事なのは、私たち一人一人が、まず自分自身を見てみましょう。
自分自身が果たして、神の恵みを豊かに受けながら生きているのだろうかどうか、豊かにいただいているかどうか、
その神の恵みによって生きているかどうか、それが一番大事なことです。
今日は三つの話をしたいと思います。
神の恵みによって歩む人生とはどういうものなのか。
そして神様の恵みが、なぜ私たちに絶対的に必要なのか、三つの話をしたいと思います。
まず第一、私たちは神の恵みのゆえに信仰によって救われて、そして私たちの霊が生かされるようになります。
だから皆さん、全ての始まりは、最初は何から始まるかと言いますと、神様の恵みから始まるということであります。
それによって今の私たちがあるということなんですね。
12:00
この意味を正しく知るためには、神を信じる前に、神に出会う前に、その前のかつての私たちはどういうものであったのかを、まず知らなければならないと思うんですね。
ちょっと聖書を開きましょう。
新約聖書のエペソビトリの手紙、2章12節を開きましょうか。
エペソビトリの手紙、第2章12節、375ページです。
新約聖書の375ページ、エペソビトリの手紙、2章12節です。
聖書をお持ちの方は開いていただきまして、12節だけ一緒に読みたいと思います。
その頃のあなた方はキリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
皆さん、神に出会う前に私たちはどんなものですか。
キリストから離れたものでした。
この世にあって望みもなく、決定的な最後の言葉、神もない人でした。
誰が?神のない人だったんです。
それを2章の1節では、自分の罪と罪との中に死んでいたという話です。
聖書はこのように診断をしています。
あなたはかつて死んでいたものだった。
神もない人たちだった。
罪のゆえに死んでいたものでした。
何にもできないものでした。
ところがどうですか。何によって救われたんでしょうか。
2章の8節、大きな声で読みたいと思います。
2章8節、ご一緒に。
あなた方は恵みのゆえに信仰によって救われたのです。
それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
アメ、ハレルヤ。
何によって?神の恵みのゆえに信仰によって救われたんです。
神もなかった私たち、死んでいた私たち、除外されていた私たち、キリストから離れていた私たちが、
救われる何の功績もない、価値もない、力もなかった私たち、知識もなかった私たちを、
分かりにくい、不思議な神の恵みのゆえに信仰によって救われた。
15:02
それが神の恵みであります。
なぜ私が救われたのか、なぜ私が召されたのか、その理由を知っている方いますか。
ないんです。分からない。分かりません。
だから御承知でしょうか。自分が偉いから救われた人は誰もいないんです。
例えば、我が家は三代のクリスタンだから私は救われた。そんな人はいない。
私は熱心だから私は救われた。そんな人もいない。
私は腹持ちだから私は救われた。そんな人もいない。誰もいない。どうですか。
神の恵みのゆえに信仰によって、だからどうでしょう。
神様を信じながら、信仰生活をしながら、この恵みを知っている、
自分の神に出会う前後がどういうものになったのか知っている人は、
神の前にあって、あるいは巨大姉妹の前にあって、誇るものは何にもないんです。
なぜでしょうか。自分の罪のゆえに死んでいたものであって、
神の敵だった私が、ただ神様の計り知れない恵みと選びと哀れみによって、
その恵みを知っている者は、だから主の前に、教会の前に、いつも謙遜であり、
頭を上げることができないんです。
かつては神の敵だったから、私が皆さんが。
シトパールが第二コリントにこういう言葉を言いました。
神の恵みを無駄に受けないようにして下さい。
今日この言葉を覚えていただけたらいいですか。
神の恵みを無駄に受けないようにして下さい。
皆さん、神に尽くされると、私は神の恵みによって生かされている人なんだ、
という人は、だからいつも神の前に、教会の前に、人の前にやって、いつも謙遜であります。
誇る者は何もないんです。
自分がいくら金持ちであっても、三代、四代、五代のクリスチャンであっても、
家族がいくらノーベル賞を受賞した偉い人であっても、誇る者は何もない。
皆さん、普段何を誇っていますか。
大体今まで、7年、8年、皆さんの信仰生活をして、
18:03
大体皆さんが何を誇っているかわかってきましたね。
何を誇っているのか。
まあ、もちろん、また逆に、私とかハンナが何を誇っているか皆さんにも分かれられているかもしれませんけどね。
イエース・キリストを他にはないです。
イエース・キリストを他に誇るものはない。
人を誇る者、神を誇る者が、神の恵みを無駄に受けない人であります。
しかし、神の恵みを受けて救われているにも変わらず、
自分を誇る、能力を誇る、人を誇るならば、
それはまさに神の恵みを無駄に受けてしまうことに。
覚えてください。
私はただ、恵みのゆえに信仰によって救う。
2番目。
神の恵みのゆえに救われたこと。
そこで、神の恵みの大事な働きがあるんです。
それは、よく聞いてくださいね。大事ですよ。
罪を覆って許すことであります。
不動式みたいなもので、覆いられますね。
覆って許すことであります。
さっそく整説を読みましょう。
旧約聖書の四篇の三十二篇に、ちょうど大事なその御言葉が出てきます。
旧約聖書四篇三十二篇一節ですね。
旧約聖書の九百三十四ページです。
九百三十四ページ。
よろしいですか。
九百三十四ページの四篇の三十二篇の一節。
一緒に読みますね。
幸いなことよ、その背きを許され、罪を覆われた人は。
さあ、一節だけでいいです。
二節も同じニュアンスですけれども、ここに埋めてきますね。
誰が幸いな人でしょうか。
なぜ私たちは幸いな人なんでしょうか。
我々の偽りの罪が許されたから、罪を覆われたから、私はキリストにあって幸いな人であります。
この一節をですね、後後約聖書はこのように訳しています。
そこのほかちょっと意味を、覆うという意味をもっと活かしていく方法をしているんじゃないかな、私は個人的に思いますが、
21:00
こういう風にですね、訳されています。
聞いていてください。
後後約聖書32編の一節。
そのとかが許され、その罪が覆い消される者は幸いである。
もう一度読みますね。
そのとかが許され、その罪が覆い消される者は幸いである。
ここにね、後後約聖書は、ただ覆う意味じゃなくて、覆い消す、消すという意味を、
実は本当にこの覆うという意味をよく翻訳した部分じゃないかなと私は思いますが、
だから皆さんどうですか。
神の恵みは、私たちの罪を、そむきを、とかを覆ってくださる。覆い消してくださるんです。
いいですか皆さん。
私たちが犯した全ての罪を、神ご自身がキリストの十字架の父よによって、それを通して覆ってくださる。覆って消してくださる。覆い隠してくださる。
だから我々は幸いな人であります。
皆さん大事な話があります。
神の恵みは覆うことです。覆い消す、覆い隠すことなんです。
しかし悪魔は、ササンは、この世はどうですか。
それを人の過ちを、罪を、ね、ミスったことを、何と言います。暴くんですよね。
暴露するんです。バラします。
全く違いますよね。
皆さん、誰が正しい神様、聖霊、清い神の御前に近づくことができるのでしょうか。
このままでは誰も近づくことができないんですよね。
我々の罪や恥や、その罪による恥のゆえに、神の前に、ね、聖なる方だから近づくことができないんですよ。
バレるんですね。
真っ白な画用紙にですね、皆さん、マスクで線をつけてみてください。
もうすぐわかりますよね。真っ白だから。同じなんです。
ところが、神の前に近づくことができるように、
イエス様が十字架で代わりに死んでくださった、その必要な死の恵みのゆえに、
キリストの清い衣で、私たちの罪とその咎とその恥を覆い消してくださった。
だから私たちはこのように、神の前に近づくことができ、礼拝することができるということであります。
だからどうでしょうか、皆さん。この恵みを知る者は、
24:02
ああ、こんな私の背きの罪が許された、覆われた、覆い消していただきました。
その恵みを知っている人、味わっている人はどうでしょうか。
その歩みが、その信仰が、人生が変えられるんです。清められるんです。
なぜでしょうか。もうその人のうちに神の恵みを味わっている、使っている、もう溢れているから、
その恵みのゆえに、その人の信仰の歩みが、人生が、価値観が変えられていく。
清められていくんです。神に見るものへと変えられていくんです。
皆さん、海外旅行に行かれたことあるでしょう。
だいたいそこの国の空港に着いたら、そこの国の特有のユニークな匂いがするみたいなんですね。
だから、例えば日本に来たら醤油と味噌の匂いがしたり、韓国に行ったらキムチとニンニクの匂いがしたり、
中国に私もかなり前ですけれどね、今は行けないんですけれども、2000年だったのかな。
上海にね、それこそあの時に私は武漢に行ったことがありますけれどね、今の武漢ですよね。
私の恩師のような先生がそこにおられますけれども、説明してですね。
中国に行ったら中国のユニークな匂いがするわけなんです。ちょっと似ていると思うんですね。
皆さん、私たちが神の恵みに満たされていれば、その人々が教会に集まっていればどうですか。
神の恵みの香りがするわけです。
その人々が集まっている教会に行けば、その教会に行けば神の恵みの香りで一杯になるわけなんです。
大事なのは、だから一人、あなた、私なんです。
私は神の恵みに満たしていれば、私は神の恵みに満たされてその香りを放っている人であれば、
その人が二人、三人、五人、十人いれば、その教会には、その群れは、あるいは家庭に神の恵みの香りに一杯になるんじゃないでしょうか。
大事なのは、この二番、神の恵みを知ることにあって大事なことは、神の恵みを覆い隠して覆い消してくださることなんです。
正素に、覆うということのちょうどいい実例が出てくるんですね。
ノアの息子たちの話なんです。知っている方もいられるかもしれませんが。
ノアという人の息子が三人いました。
セム・ハム・ヤベテ。
ハムの会社の名前じゃないですよ。
27:02
セム・ハム・ヤベテ。
息子が三人。私みたいに。
ところが、ノアが、この花は箱舟の洪水の後の花になるんですね。
それで酒を作って、何故かノアが飲みすぎて酔っ払って、裸で寝ていた。
失態をしてしまった。
それを大昔から天幕でしょう。
ハムがそれをたまたま見てしまった。
そしたらハムはそれを他の教材たちに言いふらしてしまった。
あの親父が酒を酔っ払って、言いふらしてしまった。
しかしセム・ハム・ヤベテはそれを分かって、着物を持って、
しかも真正面にいたら丸が見えるから、どうしましたか。
後ろにいて、それで息子の端を覆ってあげたんです。
この時の覆った言葉が、さっき言いました。
神の恵みが私たちを覆われた。
あのふけの32編の、罪を覆われた人の覆うという言葉が、
ヘブライオンでカーカーと言いますが、まったく同じ言葉です。
その間に自分は悪いことをしたかもしれない。
あるいは、たまたまそうなったのかもしれない。
セムとヤベテは、神の恵みが何なのか分かっている人です。
ああ、神の恵みは、我々のどんな実態や恥があっても、
それを覆ってくださるんだな、と。
それで自分が今、もう生かされているんだな、と分かっているから、
それをどうしますか。覆ってあげました。
これが皆さん、神の恵みを知る人、味わっているんです。
でもハムは、うわあ、いいフラッシュでした。
その結果は、恐ろしい結果になったんですね。
セムとヤベテは、その父から救福されました。
しかし、父のあの恥を知ったよね、
もういいフラッシュしたハムは、呪いを宣言されてしまった。
それはそこに大事なことは、神の覆ってくださる恵みを知っているか知らないか、
そしてそれによってどういうふうに行っているか、
それによって人生が分かれてしまう。
皆さん覚えていてください。
私たちは、神の恵み、覆いという恵みのゆえに、
30:05
罪が、とかが、背向きが許されて覆われたもの。
そうすれば、それだけもうどういうふうに生きるべきでしょうか。
私たちも、あのセムヤベテのように覆ってあげる。
覆って隠す。覆い消す。
それが神の恵みなんです。
もう一度繰り返しますが、
神の恵みが私たちの恥や罪を覆い消してくださったから、
私たちは大胆に神の御座に近づくことができるんです。
そうですよね。三番目。
ところが、神の恵みは覆ってくださるだけで終わりじゃないんです。
その恵みがもたらす大事なこともあります。
それは、神の恵みは私たちに、
神様に従う心と従うことができる力を与えます。
いいですか。
神の恵みは、私たちが神に、神の御言葉に、
ああ、従いたい、従おうとする心を与えてください。
同時に、心だけではなく、従うことができる力も与えてくださるんです。
それが神の恵みなんです。
だから今日読んでくださったエペソの御言葉に、
ありましたよね。
エペソじゃなくて、ヨハネの手紙にね。
そこをもう一度ですね、
今日の御言葉をもう一度、
さっき三節読みましたから、
四節と五節一緒に読みたいと思います。
ヨハネの手紙第一、二章の四節と五節。
もう一度読みますね。
四節、五節読みましょう。
神を知っていると言いながら、
その命令を守らない者は偽り者であり、
真理はその人のうちにありません。
しかし御言葉を守っている者なら、
その人のうちには確かに神の愛が全うされているのです。
それによって私たちが神のうちにいることがわかります。
どうですか皆さん。
だからね、神の愛が全うされている人は何をするんですか。
御言葉を守るんです。
33:00
つまり神に従います。
ところがヨハネは意外と厳しく語っているでしょう。
神を知っていると言いながら、
私たちかもしれませんよ。
知っていますよ。これぐらい知っていますよ。
あの人にこの人に神の言葉を語っている私みたいな、
僕みたいな、あるいはよく知っている信者とすれば、
言っていること、知っていること、
言うことはいいかもしれませんね。
ところが自分が言うことと、
自分はその命令を守っていないならば、
その人はどうですか。
偽りのものである。
真意がその人のうちにない。
これは深刻なことなんですよね。皆さん。
だから神の恵みは覆ってくださるだけではなく、
その恵みを知っている人、
味わっている人、
それが本当にどういう力なのか知っている人はどうですか。
神の言葉に神に従う心が与えられる。
それができる力も神様がくださるということになります。
だから皆さん、神の恵みはただ覆っておしまいじゃないんですよ。
覆われて、その恵みが私たちに従う心も起こしてくださる。
それが従うことができる、従順できる力も恵みが与えてくださる。
だから皆さん、ああ恵まれた。
本当に恵まれた人だなと、どうやってわかりますか。
その人が罪に勝つ力を持っている。
清められている。
イエス様の精霊の神聖につつ変えられている。
なぜでしょうか。
御言葉を守るから。
神様に従うから。
恵みは必ず従う心と必ず従うことができる力もくださるんですね。
神の恵みは。
だから恵まれた人は必ず従います。
その人に従順が現れる。
だから恵まれた人はどんどんどんどん清められるんです。
どんどんどんどんイエス様の神聖に変えられていくんですよ。
この人が真理の内にいる人であって神様を信じる人であります。
大切です。
信仰生活、教会生活はただ教会の生き生きするだけではないんですよ。
知的、知識が知識を増やすだけではないんです。
正所で信じるということは、イエス様の存在を認めるだけではなく、
36:01
その方の御言葉に従うことです。
従順がそこにあるんです。
信じるイコール従う。
信仰イコール従順。
いいですか、みなさん。
もう一回書きましょう。
ヘブル人への手紙五章九節です。
ヘブル人への手紙五章九節。
新約聖書の429ページ。
いいですか、一緒に読みますね。
五章九節。
完全な者とされ、彼に従う全ての人々に対して、
常しえの救いを与える者となり。
イエス様の話なんです。
彼に従う全ての人々に対して、
常しえの救いを与える者がイエス様であります。
だから信仰は従順ですね。
神に神の御言葉。
みなさん、聖書の人物、アブラームとか、あるいはヨシエフとか、あるいはラビレとか、
よく見たら、彼らが完璧ではなかったんですよね。
時には罪を犯したり、しべたりこけたり、そんな時があったんですよ。
ところが、彼らはどんどん、どんどん、どんどん、神に従う者に変えられていくんじゃないでしょうか。
例えば、新薬聖書のペテルはどうでしょう。
みなさん、一番わかりやすいですから。
ペテルはただの良子でしたね。
私に従いなさい。
でもね、家も網も、自分の職業も全部捨てて、イエス様に従っていきましたが、
3年のいるうちに、何度もつまずいて、何度もミスばっかりしてしまったペテルだったんですね。
また、イエス様が従事官に書かれる前の審判のあの時にも、
イエス様は知りません、知りません、3度も否定した彼でした。
でも、彼は神の恵みに使っている者でしたから、この恵みを知っている者だったから、
その失敗もあって、罪もありましたけれども、そこから立ち直って、いよいよ変えられて、
人の働きに出てくるペテルは、本当に素晴らしい人物に変えられていきました。
そして、その後は聖書は記録はないですが、
39:06
キリスト教の100年、200年の聖書でいない他の文書によれば、
キリストパウルはローマで、自分はイエス様のように真っ直ぐで処刑されるわけにはいかない、
逆さまにしてくれと、伝書によれば逆さまで十字架系で殉居したという記録があったりするんです。
変えられるんです。恵まれた人は必ず変えられるんです。
だからちょっと厳しく言いましょうか。変えられていない。
人生が、その信仰の持ち方がイエス様に、もう30年50年経っても変えられていないならば、そこに何かの問題があるわけなんです。
恵みを知れないか、恵まれていないか、あるいはそもそも最初から救われていないか。
恵みは従順とそれができる力も与えてくださるし、神の恵みは清くしてくださるんだから、
必ず清めが、神聖が、恵みが。
皆さん、リンゴの日からは何がなりますか。リンゴは何でしょう。
イシジクの日からはイシジクがなります。
リンゴの日から柿が成ること見たことありますか。ないでしょう。
リンゴの日からイチゴが成ることもないんですよね。
恵みは必ず従順と清めを生みます。
ならせます。
だから、リンゴの日がリンゴを結ぶことが当然であるかのように、神の恵みによる信仰は必ずそれにふさわしい従順とその行いを生み、もたれします。
さっき、神の恵みを無駄に受けないようにしてくださいという話をしていました。
神の恵みを覚えるときに、私たちが注意してほしいことがあります。
それは、神の恵みは、私たちが従わなくても、汚れた人質を歩んでいても、何もしなくても、神様はもう全て無条件に白紙にして、白紙にして、仰って、仰って、仰って、仰ってくださるんだ。
それは誤解に過ぎます。
変化が何もないならば、「覆われた。ああ、よかった。覆われた。ああ、よかった。」
それを繰り返してばかりしていれば、それこそ、神の恵みを十字架の地平とあの地を無駄に受けてしまうことであります。
これを、ある本では、神の恵みを安価なものにしないようにしてください。
42:08
神の恵みを、あのイエス様の十字架の地平を安価なものにしてしまう。ゴミにしてしまう。
皆さん、あなたたちが、教会が神の恵みを無駄に受けてしまうならば、個人にも、教会にも、神の死も、精霊の働きも、信者の力も、なくなるでしょう。
結論をもらしたいと思います。
神の恵みは、あなたたちの罪を覆ってくださるだけではなく、神に、それから神の御言葉に従う心も与えてください。
その従うことができる、守ることができる力も与えてください。
だから、神に恵まれている人は、行けば行くほど、神の御言葉を守る、主を愛する、従う、その品性がイエス様のように変えられる。
それが、恵みの法則です。
これが、神に祝された人生の法則であります。
願わくは、神の恵みを無駄にしないようにしてください。
そして、恵みのゆえに生かされる私たちでありたい。
覆ってくださる、その恵みを知っている人ならば、覆われた者として私たちも、せむやべてのように覆ってあげましょう。
それが、恵みを知っている人です。
そして、その恵みのゆえに、従順の心と従順の力をいただきまして、この世に、悪に打ち勝つ、表裏する者とならせていただきましょう。
お祈りいたします。
44:19

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