1. 東京ぶどうの木教会 メッセージ
  2. 「死んだ一粒の麦の祝福」2021..
2021-08-01 31:39

「死んだ一粒の麦の祝福」2021年8月1日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2021年8月1日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄
00:01
今日は、死んだ一粒の麦の祝福という対応を持って、メッセージを分かち合いたいと思います。
先週、一粒の麦は地に落ちて死ななければいけないということを分かち合いました。
弱音の12章、20節から28節までのことでした。
一粒の麦が死んだら、多くの実を結ぶ。死ななければ一粒のままである。
聖書は何を言いたいんですか?
ですから、一粒の麦は必ず死ななければいけないということを私たちに教えているところでしょう。
では、私たちはどうすれば死ぬことができますか?
イエス様は、結成までの祈りを通して、ルッカの24章、42節ですね。
結成までの祈りを通して、イエス様はご自身を下ろすことができました。
切実な賛同も祈られました。
私の願いではなく、主の御旨通り。
私がこの世に来たのは、主の栄光のために来ました。
ですから、私が死んで、主の栄光が現れる。この働きができますように。
そのように切実に祈られたときに、上から神様が恵みを与えてくださって、ご自身を下ろして死ぬことができました。
現在がない、自己中心性が全くないイエス様も、自分自身が死ぬことが難しかったです。
では、自己中心的な私たちは、どれほど難しいでしょう。
この働きが自分がやりたいことでできるものではありません。
神様の恵みが、私たちの中にとどまっているときにできます。
ですから、いつも私たちは、神の恵みを求め、神の恵みの中でとどまっていること、それを切実に求めていかなければならないと思います。
今日はその上、死ぬということは何でしょう。
死ぬとき、どんな驚くほどの働きが行いますか。これを一緒に考えていきたいと思います。
今、コロナの中でオリンピックをやっている日本、コロナの感染者の数がますます増えている。
本当に気の毒だという、このような状況です。
私たちの力で何ができると思いますか。
このようなとき、一粒の麦のように地に落ちて死ぬことによって、人間の限界を乗り越える、信仰の力で日本を救っていきたいと思う心でいっぱいです。
特に今日は、モーセという一人の人を明かしを通して、恵みを分かち合いたいと思います。
03:04
じゃあ、まず一つ目です。一粒の麦が死ぬということは何でしょう。
ヨハネ12章24節、はっきり言っておく、一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。
だが死ねば多くの実を結ぶということです。
イエス様がまず一粒の麦として地に落ちて死んでくださったんですけど、イエス様が死んでくださったのには理由がありました。
私たちのために、私たちに多くの利益を与えるために死んでくださったんです。
まず第一ペトロ2章24節を見ますと、私たちが罪に対して死んで、地によって生きるようにするためです、と言いました。
また第一ペトロ4章1節を見ますと、もはや私たちが人間の欲望ではなく、神の御心に従って、陸における残りの生涯を生きるようにするためだ、と言いました。
第二コリント5章15節には、生きている人たちがもはや自分自身のためで生きるのではなく、自分たちのために死んで復活をなさったイエス様のために生きることだ、ということです。
また第一ペトロ4章1節に、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようにするためにイエス様が死んでくださった、と言います。
結局イエス様が死んでくださったのは、私たちを生かして、これからは良い目的のために生きるようにするために死んでくださいました。
イエス様は私たちのために死んでくださった。では私たちはどのように、何のために死ななければいけないんですか。
イエス様は私たちは私たちのため、また神様のため、隣人のために死ななきゃいけないんですけど、そうするためには、まず私たち自分自身に対して死に、罪に対して死ぬ、この世に対して死ぬ、また悪魔に対しても死ななければなります。
このように私たちが死ぬ時、私たちの内にキリストが生きておられ、キリストと共に全世界を統治する力が与えられるんです。
また死ぬということは、死んで終わりじゃありません。これからは神様のために生きることが大事なんです。
神様のために生きる、私たちが死んで神のために生きる、これは私たちが死ぬ時、神のために生きることができるということです。
06:02
神のために生きるとは、神の御声を聞き、神様の導きを受け、神様と共に歩む、皆さんこれがうまくできるためには、私たちが死ぬことが大事です。
先週金曜日、鳥梨祈祷会でメッセージしたことを覚えていますか?
神のしもべ、神の預言者、ヨナが神様の命令に不従順しました。それも意図的に不従順したんです。
どうしてヨナはこんな悪いことをしたんですか?
自分の心の中の傷、また自分の考えのゆえにそうだったということを一生にわかっちゃいました。
そうしたら、自分自身を下ろさなければ、自分自身が知らなければ、神の御言葉に誠に従順することは不可能です。
ある時、私たちの教会は死ぬ犬の訓練ということを行いました。
皆さん、死ぬ犬の訓練というのはどんな意味ですか?
死んだ犬は足で蹴ってもゲゲンと言いません。
死んだら何にも叫びません。
死んだ犬は反応しないということです。
私たちはつまらないことにだいぶ反応してしまうんですね。
周りの人が何と言ったら、ああ、こうして私を無視するのかと言いながら、いろいろ反応してしまいます。
また、皆さんの家族の中で子供、旦那さんとか妻とか、何と言った時に自尊心がこうだと言いながら、反応してしまうから喧嘩になってしまう場合があるんですね。
死ぬ犬の訓練はつまらないこと、無駄なことに反応しないということを意味します。
その代わりに、神様には敏感に反応することを意味します。
神様に対して神の御声を聞く、神様を下さる霊感、直感、また精密な種の御声に反応し、特に神の御言葉、霊魔の御言葉に従順すること、これが神様のために反応することであり、神のために生きることです。
これは私たちが自分自身とこの世と人々に対してよく死ぬなら、神に対してよく生きることができるんです。
また、私たちが神の御声に敏感に反応できない理由は、この世的に非常に忙しいということです。
この世の中の声がたくさん聞こえるので、神様の精密な御声が聞こえない場合があります。
今日は私たちが一粒の麦として、この地に落ちて死ぬとき、たくさんの実を結ぶことができるということで、そのために私自身に対して、この世に対して、罪に対して死んで、神様に対して生きて、たくさんの実を結ぶことができればと思います。
09:11
2つ目です。この世に自分自身に対して徹底的に死んだ人がいました。この人が孟瀬でした。
孟瀬はこの自分に対してだけではなく、この世に対しても徹底的に死んだ人でした。
皆さん、孟瀬ということは40、40、40、これを覚えていますか。
これは孟瀬の生涯を40歳まで、この次40歳の80歳まで、この次40年120歳まで、孟瀬の生涯を区分するなら、この40、40、40で区分できるということです。
孟瀬は険しい人生を過ごしました。彼は生まれながら死ななければいけない運命を持っていました。
なぜなら、エジプトのパラオという王が、イスラエル人たちの男の子が生まれたら、全部殺しなさいという王の勅令が出ていたからです。
男の子として生まれたから、彼は生まれながら死ななきゃいけない運命でした。
ところが、母親は自分を生かすためにパピリスの箱の中で入れて、川に流されていたんですけど、それをパラオの王の娘が発見し、自分の赤ちゃんとして育てるようになります。
死ぬ運命の赤ちゃんが宮廷の王子として育てられるようになった。これが神様のせちりではないでしょうか。
エジプトの帝王学を王子として学んだ彼。43になったとき、彼はイスラエル人の聖徳アイデンティティを持っているものでしたから、自分の民を救うために彼は立ち上がりました。
そして結局彼は人殺しになって逃げていきます。アラノに逃げていって、ミディアン部族の姉妹と結婚して、そこで住むようになります。40年間。
それで83になったとき、神様から召されます。その時神様は彼に使命を与えてくださいます。
エジプトに行って私の民を救いなさい。皆さんこれはどれほど難しい命令でしょうか。その時彼は神様にこう言います。
シチュエジプト44章の10節と13節。
ああ主よ、全く私は口が重く舌が重いものです。ああ主よ、どうぞ誰か他の人を見つけて使わせてください。
12:01
彼は神様に対して自分は全く何にもできない人間だから、私の代わりに他の人を見つけてその人を使わせてください。私はダメですということです。
以前自分の力で自分の民を救いたいその偉いモーゼはもう完全に死んでしまって、彼は何にもできない人になってしまいました。
そのようになるまで40歳から80歳まで彼は荒野で羊を飼って羊飼いとして過ごしてきたんです。
徹底的に死んだ自分自身に対してこの世に対して全てに対して無能力無儀力私は何にもできないというモーゼ。
神様はこのモーゼを待っていたんです。
神様エジプトで神の民イスラエルは苦しんでいるのにこの80年間をモーゼが死ぬまで待っていたということが大事です。
モーゼが死んだふりにしたことではありません。彼は本当に死んだったんです。完全に無能力無儀力だったんです。
彼は自分自身が何ができるとは全く思わなかった。
カラディア6章7節、思い違いをしてはいけない。神は人から侮られることはありません。
神様を騙すことはできません。
神様はモーゼが死んだふりにしたことではなく、彼が完全に死んだことを確認して彼を使わせてくださいます。
なぜそのようにされたのでしょうか。
これから行われる主張エジプトの働き、これから神山で導くこの全ての神の働きにはモーゼという人間の考え、人間の思い、人間の主張が入っていたら絶対できないからです。
神様の完全な計画と身群、神様の完全な力、それによってのみ成し遂げられるからです。
人間の何一つも含まれていない、神様が命じられたら100%従順できる、そのような信仰を通してだけ成し遂げられる働きだからです。
このように自分自身に対して完全に死んだ、神様に対しては完全に生きたモーゼを送ってくださるこの時まで80年間、エジプトにいるイスラル人たちも苦しんでいたし、神様もずっと待っていたんです。
それで80歳から120歳まで本当に驚くほどの奇跡の中で素晴らしい宮座ができたんですけど、その中で考えられる何項目のことを申し上げましょう。
15:12
まず、システム7章1節には、主はモーゼに言われた。見よ、私はあなたをパラオに対して神様のような存在にならせてあげる。
パラオの前でモーゼがパラオが見るのに神様のようになるように、神様にならせてくださる。
それはどのようにできますか?
モーゼ自身が完全に亡くなって、神の御言葉を100%体現することができれば、またそこに対する証拠が表していくことができれば、パラオがモーゼを見るのにパラオが神様を見るような状況になってしまいます。
モーゼの一言が神様が言われるようなこの権威を表すことができるとき、モーゼがパラオの前で神様のような存在になること。
それはどうしてできるのか。モーゼが一粒の麦のように完全に死ぬなら、そのようになります。
その後、主人の様々な状況の中で神様の奇跡的な働きが現れますけど、それは神の奇跡は人間の方法と人間の意図が入っていたらできません。
神様だけが100%働くときできるんです。
巨大な海、豪海の前で200万人の民がこの川を渡ろうとしています。
だったらモーゼはどうすればできますか。
じゃあこれから船を作りましょう。
そして船を作り始めたら200万人を運ぶこの船、どうすればできますか。
しかし神様はモーゼに海に向かって杖を手を伸ばしなさいと言いました。
その時モーゼが神様そんなことでできますか。
船を作らなければいけないんじゃありませんか。
自己主張して神様に逆らったと思いましょう。
そしたら何ができたと思いますか。
モーゼは自分の考えを全部下ろしたので神様の御言葉に100%従順しました。
そしたら神様は風を生かして風で海を分けられたんです。
風で海を分ける、これは神様だけできる働きです。
その時モーゼは何をしたんですか。
杖を持っている手を伸ばしただけだったんです。
ところが出てきた後、追いかけてくるエジプトの軍隊はどうしますか。
18:04
全ての人は慌てながらどうしようどうしようと言いました。
モーゼはどうしたんですか。
神様が杖を持っている手をもう一度伸ばしなさいと言いました。
そしたら水が元通り戻ってきました。
人間的なやり方、それで追いかけてくるエジプト軍隊と戦おうとするならどうだったと思いますか。
モーゼはただ自分の考えを下ろしておいて神様だけ見上げて神様に従っていく時、神様が願われる働きができたんです。
それからアラノで200万人を食べる問題、飲む問題、またサソリと炎の蛇があるアラノの火の柱、蜘蛛の柱で導かれること、
また神様が願われるイスラエル民の神の民になるために立法を与えてくださること、礼拝を守るために誠意膜を与えてくださること、
神様の身分を一つ一つ成し遂げるのに、なぜ神様はこうするんですか、なぜ神様はこれをしなければいけないんですか、
いちいちモーゼが神様にいろいろ疑問を思い始めたら、これは全くできるはずがないことです。
すべての過程の中でモーゼは完全に死にました。
モーゼは自分の考えを全部下ろして、なぜこれをしなければいけないんですかと質問することではなく、
神様の命令通りすべてを従順しました。
これを通して神様はイスラエル民に神様が行いたいと思うすべてが成し遂げられました。
神様のお考えがモーゼを通してイスラエル民にこんなに完全に成せられた時がなかったほど、それができました。
皆さんこの過程の中でモーゼは自分の考え、私はこう思うとか、私はこうしたいと思いますとか、これを一切ありませんでした。
神様の御言葉その通り行ったからモーゼイコロ神様でした。
皆さん私たちの信仰生活、まさにこのように行わなければなりません。
私たちが自分自身が完全に下ろされ死んで、上から神様の御声を聞き従う私たちになられたら、
今私たちの教会を通して日本に対して神様の御胸が完全に成し遂げられるでしょう。
それができない理由は何ですか。私たちが死んでいません。
神様の御声を聞きながらなぜこうしなければいけないんですか。
私はできません。他の人を使ってくださいとか、いろいろ自分のことを神様に申し上げることです。
21:07
また神の御声を聞く耳、従う心がないからです。
私たちはモーゼのようにやっていきましょう。
聖書、ヘブラリー書、3章、5節から6節。
さて、モーゼは使える者として神の家全体の中で忠実でしたが、
キリストは御子として神の家を忠実に治められたという言葉があります。
そうです。モーゼがやったように、イエス様も自分自身が完全に下ろして
神の家、神の民の上で奉仕する働きをされました。
イエス様はこの世に来られた時には、私たちと同じような人間の姿だったんですけど、
イエス様は御自身、自分自身の存在が全くない存在でした。
その時イエス様は御のように告白します。
ヨワネ、14章、9節、10節です。
イエスは言われた、ピリポ、こんなに長い間一緒にいたのに、またわかってないのか。
私を見た人は父を見た。
私が父の家におり、父が私の家におられることを信じないのか。
私が語る言葉は、私が言う言葉じゃありません。
私の家におられる神様が語る言葉を、私は口を通して語るんだと。
ヨワネ、5章、19節には、子は父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。
父がなさることは何でも、子もその通りにすると言いました。
ヨワネ、10章、30節には、私と父は一つであるという言葉まで教えてくださりました。
イエス様は自分自身を表すことではなく、自分の主張を言うのではなく、神様だけを表し、神様の御言葉に100%中心しました。
一粒の麦が地に落ちて死ぬなら、その意味は、それはイエス様の十字架を言うことなんですけど、
イエス様の生涯全体がそうだったと言います。
その時、イエス様を通して、神様の御胸が100%成し遂げることができました。
私たちも、私たちを通して、日本に神の御胸が完全に現れるように、
神様が日本に対して働きたいと思っているそのことが完全に成し遂げられるように、
私たちも一粒の麦が死ぬ、そしてたくさんの実を結ぶ教会、私たちになりたいと思います。
24:02
3番目です。このように、自分自身を完全に死んで、その人たちを神様は徹底的に助けてくださって、保護してくださいます。
民粹中2章では、モーセの妻ジボラが死んだ後、モーセが他の女性と結婚しました。
しかし、この女性はグッズの女性でした。
その時、モーセの姉ミリアムは反発します。それでモーセに逆らいます。
違法人となぜ結婚するのかということでしょう。違法人ですけど、彼女は信じていました。
だから信仰ある人なんですけど、この姉ミリアムは反発したんですね。
その時、神様はどうしたんですか。民粹中2章8節から10節を見ますと、
ミリアムに重い不不防をかかるようにして、モーセに逆らった彼女を裁かれます。
そして彼女はモーセに逆らうことをやめたんですね。
民粹中6章には同じレビィ部族の中で、コラという部族とタダンという群れがいました。
この人たちがモーセに反逆するんですけど、その中で直長250人も合わせてモーセのリーダーシップに反発します。
彼たちの言う言葉はこれなんです。私たちもリーダーだ。モーセ、あなただけがリーダーなのか。
私も神の栄光を見て、神様に持ち入れられるリーダーなんだ。あなただけ、この偉そうなことをやめなさいということです。
そしてその時、モーセは神の前に飛猟して、神様の働きを求めた時、
神様は民粹中6章32節から33節には、このコラとタダンの群れを、まだ250人の直長たちを集めておいて、何をされるのか。
地震ですかね。地は口を開き、彼たちは全部飲み込んでしまったということです。
そのように彼たちは裁き、モーセの立場、モーセのリーダーシップを神様は応援してくださいます。
なぜ神様はこのようになさるんですか。神様が被害されるんですか。そうではありません。
このように神様に自分自身を信じて、神様にまともに、完全に従う者がいないということです。
ですから、神様に完全に従ってくれる、このモーセを神様が保護してください。特別に保護してください。
神様がアブラムを見されるときにこう言います。創世紀中2章3節。
あなたを祝福する人は私を祝福し、あなたを呪う者は私は呪う。地上の私力は全てあなたによって祝福に入る。
27:05
そしてアブラムが過ちを犯すたびに、神様がアブラムを助けてくださいます。
エジプトのパラオの王の前で、自分の妻を妹だと言いました。だからパラオが妹だから彼は私を受け入れましょうと言ったんです。
またペリシテのアマリック王の前でも同じことをやりました。アブラムの過ちはいつも妻の問題だったんです。
妻が美しいから、妻の美しさによって自分が危ないとき、自分の妻を妹だという騙すことですね。情けない人です。
ところがそのようなアブラムを神様はなぜ助けてくださいますか。
アブラムのようにまともに神様に信じて従う者がいないからです。
神の国のために、キリストの福音のために、彼の過ちを十字架の地上で覆ってくださり、彼を使わせてくださるんです。
皆さん、神様にまともに従う、自分自身を振り下ろして神様に従って生きる人は、神様が守ってくださいます。
以前の教会で神様は私に、あなたをモーゼのようにやりなさいと言いました。
自分自身が死んだモーゼ。モーゼがどうしたんですか。
人々が自分に反発してくるときに、彼たちと戦いませんでした。
何が問題があったら、彼はモーゼは神様の前に行って、ひざまずいて神様に祈ることだけだったんです。
神様の判断、どのように判断されるかを待って、神様の処分を待つ、これが死んだ人の姿勢です。
私たちもこれからいろいろなことがあると思います。
そのときにいちいち逆らったり、いちいち喧嘩したり、いちいち何とか文句をしたり、反発しようと思わないで、
神様の前に行って、ひれ伏して、神様に自分の全てを打ち上げながら、神様の判断、神様の処分を待ち望む、これが死んだ人の姿勢です。
私たちもこのようにやりましょう。
結論を申し上げます。私たちも死に落ちて死ぬ一粒の麦になりたいです。
第二手もて2章11節12節、私たちはキリストと共に死んだなら、キリストと共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになろうと言いました。
私たちが死ぬなら、私たちはキリストと共に生きる、この働きができる。
このために私たちはこうしましょう。
私たちの目的、方法、考え、私たちの観点を全部下ろしておいて、神様の観点で、神様の目的を、神様の方法で、神の資源に完全に委ねていきましょう。
30:13
そうするなら、神様は私たちを猛瀬のように、今のこの日本の難しい状況の中に置かれている日本のために、私たちを使わせてくださるでしょう。
是非とも、このオリンピックを行っている日本、感染者がますます増えている日本、人間の力ではできません。
神様の不思議な力、信仰の力で、この日本のこの難しさ、苦しみを乗り越えていく、その働きに用いられる私たちになりたいと思います。
もっともっと日本のために取り直し祈りをやっていきましょう。
日本のために役に立つ業界、役に立つ私たちになりましょう。
お祈りいたします。
神様、前例がないほど、コロナによって非常事態宣言が出されている中で、オリンピックを今行っています。
どうか神様の不思議な力によって、日本を守ってくださり、世界から集まってきたアスリートたちを守ってくださり、
本当に日本のために、モーゼのように用いられる私たちにならせてください。
今の難しい日本を救ってください。
イエス様の源を通してお祈りいたします。
アーメン。アーメン。
31:39

コメント

スクロール