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2024-04-21 31:05

「なぜ、十字架と復活なのか(所感の大事さについて)」2024年4月21日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2024年4月21日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄 
▼教会へのお問い合わせ: tokyo.vine.church@gmail.com

▼メッセージの自動文字起こしはこちら https://listen.style/p/

(聖書) ヘブライ,13というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。13.更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

▼メッセージ題 : なぜ、十字架と復活なのか(所感の大事さについて) (ヘブライ4:12,13)
*人は苦難を嫌がる、楽に過ごしたいと思う。豊かさ、幸せ、祝福、栄光、平安を求める。しかし神様は十字架の後、復活。苦難の後、栄光をお話しする。なぜそうされるのか、何でもできる方なのに。肝に銘ずる信仰の姿勢?死ななければ復活はないように、苦難がなければ栄光もない
*ルカ24章エマオに下っていた弟子たちが躓いた理由?人を伝道して教会に連れて来たのに


1.なぜ苦難の後、栄光を与えて下さるでしょう?
*神様は絶対善、すべて私たちの益の為に!十字架は?苦難、死、血の流しで清めること。復
活?勝利、命、栄光をしまされる。ここで苦難は、私たちを直し清める為! *祝福には世俗的な祝福があり、神霊な祝福があるが、どちらでも・・・マタイ7:6神聖なものを犬に与えてはいけない*貪りに満ちた、性格が悪いまま、自分勝手な人に祝福を与えるなら人が変わるだろうか?永遠に変わらないでしょう。そうするとその人は?従って、神様は器を整えてから祝福を与えて下さる誰か、早く苦難を終えたいと思うなら?神の訓練を受けて早く変われば良い。例)先生、以前は?


2.では、どのように変われば良いでしょう?
*罪を捨てて善な人になる。汚い習慣を捨てて清い人になる。高慢を捨てて謙遜な人になる。
Ⅰペトロ5:5、荒い性格、悪い性格を捨てて柔和な人になる。モーセは、民数記12:3。しかしこれは自分の努力ではできない。だから神様は荒野の訓練を!創世記のアブラムとヤコブをアブラハムとイスラエルに変えて下さった理由?小市民的な人を諸民族の先祖。妬みの塊を神の皇太子

#次元を高くして、十字架で学んだこと。自己中心的な人をー>神中心な人に変わらなければ

なぜ神様は、自己中心的な人には祝福されないのか?創3章の犯罪の結果なので、イザヤ55:6*自己中心の人は自分の目的の為に生き、自分の方法で生き、自分の熱心で生きる、自己栄光神中心的な人は神の目的の為に生き、神様の方法で生き、神様が与える資源でいき、神の栄光

→これが変わらなければ!変わらないまま祝福を与えるなら、どうなるでしょう?結局サタンに*私たちの祈りは・・・whats wrong with me?主よ、教えてください。変わりたいです、主の御旨通り

3.神様は信仰の先祖、アブラハムをどのように変えられたのか? 創世記12―>25章まで!

*初めは信仰もあり、従順もできるし、甥ロトに対する配慮も?しかし飢饉のとき、御言葉を捨て、身の危険があると妻を捨て、子供を得る為にこの世的な人本主義も?―>25年間、変える為の訓練を。そして信仰の先祖、祝福の源に!子供も与えて下さり、創世記24:1何事にも祝福された#教会の使命、新しい革袋の理由。マルコ2:22イエス様が厳しく言われること!変わらなければ

@では、どうすれば!ヘブライ4:12,13御言葉の威力で!その前で・・・私たちの姿勢。この神に対して、私たちは自分のことを申し述べなければならない!どのように?所感で!新しく悟ったこと、悔い改めること、決断すること。それを分かち合いながら謙遜にお祈りを頼むとき、聖霊様が

00:00
今日は、なぜ十字架と復活なのかという大事さに対応をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
人間は誰も同じです。 苦難は嫌がります。
楽に過ごしたいと思います。 豊かな生活、
幸せ、祝福、
平安を望みます。 しかし神様は、
十字架の後復活だと言います。 苦難を通して栄光をお話しします。
なぜでしょう。神様は何でもできるお方。 できないことはないでしょう。
人々が嫌がる苦難、 十字架なし、
復活、また栄光を与えてくださらなければいけませんか。
ところが、 信仰生活、信仰に一番大事な心を構え、
死ななければ復活はない。 苦難がなければ栄光はないということです。
先週、閻魔王に下っていく二人の弟子、 またユダヤ人たちが錯覚した部分がこれなんです。
彼らはキリストに対して、 イスラエルを解放してくださる方だと、
そしてキリストに対して望みをかけていたと言います。 しかし、キリストイエスは、
交渉外の時、ずっと苦難を受けられ、 結局十字架で死んでしまったんです。
それは理解ができなくて、弟子たちの中で二人は、 閻魔王に下って、
私はこれからも信仰をやめる。 私はふるさとに戻る。
そして閻魔王に下って行った。 閻魔王に下って行く途中も、
なぜキリストが十字架で死んだのか。
なぜキリストに私は望みをかけていたのに、 キリストは何にもしないで死んでしまった。
これが理解できない。
キリストなら、メシアなら、ローマを倒して、 イスラエルを解放するべきではなかったのか。
もしそうしたなら、イスラエル全部が キリストを信じたのに違いがないでしょう。
だから失望しかない。
えー、3年間私たちの無駄な時間を過ごしたと言ったんです。
もし皆さんが、ある人を転倒したいと思って、 ずっとクロクロしながら、ある方を教会に連れてきました。
教会に連れてきたのに、神様が望んでいる祝福をくださらない。
03:01
まだ牧師の厳しいメッセージばかり。
またいくら教会に通って行っても、何にもない。 何にも神様をくださらない。
だったらどう思いますか?
信じても何にもないんじゃないか。
そして教会から離れてしまう場合があるでしょう。
しかし聖書は徹底的に言われること。
十字架の後に復活した。
苦難を通して栄光に至るんだということです。
これは難しいところですけど、なぜそうなのか。
それを今日一緒に考えていきたいと思います。
なぜ苦難を通して栄光を与えてくださるんでしょう?
神様が人をいじめるのは趣味ですか?
いいえ、これは悪魔の趣味です。
神様は絶対善です。
神様は私たちの益のために全ての働きをされます。
皆さん、十字架の意味は苦難、死、
また血を流して罪を清めるという意味があります。
復活は勝利、命、栄光を意味します。
ここで苦難の目的は、私たちを殺すためではありません。
私たちはダメにする目的ではなく、私たちを治すためです。
私たちを清くするために苦難があるということを理解してください。
神様は私たちを清くしておいて祝福してください。
ところが祝福ということは、この世的な祝福があります。
お金持ちになり、成功する、出世する、世の中でうまく生きる、
これは世俗的な祝福があります。
また神様を下さる永遠な心霊な祝福があります。
いずれも聖書は、また七章六節にこう言います。
神聖なものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。
祝福を、ただ祝福を勝手にしてはいけないということがあります。
もし私たちを治さないまま祝福してあげたらどうなるでしょう。
むさぼりに満ちている人、性格が悪い人、自分勝手に過ごす人、
その人に祝福してあげたら、その人どうなると思いますか。
多分その人は永遠に変わらないと思います。
結局その人はどうなりますか。
自分の欲望のままに過ごしていて、この世の中で悲惨な人になり、
神様には絶対歓迎されない人になるでしょう。
ですから神様は器を作っておいて祝福してください。
06:04
そうした時に、まことの祝福になるでしょう。
ですから私たちが苦難を早く終えたい、訓練とか受けたくないと思ったら皆さん、
誠実に神様の訓練に参加して、間違えたことを早く認めて、
早く早く直せばいいんです。変わればいいんです。
それが訓練の目的だから。
そして早く清い人、正しい信仰の器になれれば、
それからは神様がいくらでも祝福してください。
たびたび私が聞く話があります。
先生、以前の教会では非常に高慢だったんですけど、
この教会に来てからはあまりそうではなくて良かったです。
たまにここから聞く話です。
私が昔高慢だったんですか?私知りませんでした。
全然、皆さん、自分自身が自分自身を見る人は誰もいません。
本当に私そうだったんですか?知らなかったんです。
自分自身がどんな存在なのか誰も知らない。
神様はちょっと見ている。他の人は見るんです。
神様は私たちは全てを見ておられるから、
それを直さなければ神様は私には祝福してくださらないんです。
肝に銘じるべき言葉があります。第一ペトロコショコセチです。
神は高慢な人を敵とし、謙遜な人には恵みを与えてくださる。
高慢になっても自分はよくわからない。
しかし祈りながら主よ、何か何かお願いしますと。
神様それを与えていいですか?悩みますね。
神様が祝福しても問題ないような器になってから、
神様はいくらでも与えてくださいます。
ではどのように変わればいいでしょう?
まず罪を捨てること。神様は罪が大嫌い。
罪はサタンが攻撃して、罪を犯す人のところにはサタンが働きます。
だから神様は罪を捨てなさい、捨てなさい。
罪を捨てて清くなる、これは当たり前でしょう。
高慢を捨てて謙遜になる、これは非常に大事です。
荒い性格、悪い性格を捨ててニューアーな人になる。
皆さん、荒い性格を捨ててニューアーな人になること、自分が努力してできますか?
絶対できません。
この世の価値観を捨てて、神の国の価値観を持つ。
これは非常に大事なんですけど、この世の価値観を持っているのかもよく分かっていないんじゃないませんか。
モーセはすごく荒い性格を持っていました。
09:03
彼はもう人を一パンチ、人を死んでしまうほどの力のある人でした。
荒い性格、人殺しでした。
彼が40年間あるので、ずっと訓練を受けながら、
民数記中二章三節、こう言います。
モーセという人はこの地上の誰にも勝って謙遜であった、ニューアーであったと言います。
そうです。謙遜、ニューアーは自分が努力してできるものではありません。
訓練を通してできるものです。
ですから神様は私たちに、あれの訓練、また苦難を与えてください。
苦難なしでまともな器になった人はいません。
創世紀有名なアブラム、ヤクブ。
アブラムの意味をご存知ですか?
アブラムは諸市民的な人、器がちっちゃい人です。
ヤクブという人の名前は寝たみの塊です。
そのまま祝福してはどうなるんでしょう?
ですから神様がその器を変えてくださるために、まず名前を変えてくださったんです。
アブラハムはGreat Father、偉大な父、庶民族の父。
またヤクブはイスラエルと変えてください。
イスラエルは神の皇太子です。
素晴らしい人格を持っている人として変えてくださって、それから祝福してくださるんです。
ですから私たちのご自分の今どんな状態か皆さんご存知でしょう。
それを直さなきゃいけないと思ったら神様に、正直に私はこんな人です。
この世に変わりたいです。
お祈りをお願いします。
ぜひ祈っていかなきゃいけません。
またレベルを高くして、皆さん覚えてますか?
十字架の福音で学んだこと。
神様は自己中心的な信仰を神中心的な信仰に変わらなきゃいけないと言います。
神様は自己中心的な人には祝福してくださいません。
いくら祈るんだとしても。
自己中心性ということは、
創世紀3章で全悪の知識の木の実を食べて人がぐるっと変わったんです。
現在のゆえに変わった人間の本性、これが自己中心性です。
そのままではできません。
ですから、
イザヤ53章6節
イエス様はなぜ十字架で死んでくださったのか。
私たちの自己中心性のゆえに十字架で死んでくださったんです。
12:01
創世紀3章以来、
アダムの主尊である全ての人は自己中心性を持っています。
自分の目的のために生き、
自分の方法で生き、
自分の力で生きます。
また自分の観点、自分の考えを持って判断します。
結局、自己栄光、自分の栄光のために生きます。
これは全て罪です。
神中心的に過ごすためには、
神様の目的のために、
神の方法で、神様の資源で、神の観点で変わらなければいけません。
ではまず、なぜ生きるんですか?
神様の目的、神の栄光のために生きます。
この目的が変わらないといけません。
ご利益信仰、自分の栄光から神を愛しろ。
神様の栄光のために生きろ。
大食うりんと十章31節5言います。
だからあなた方は食べるのにしろ、
飲むのにしろ、
何をするのにしても、
全て神の栄光を表すためにしなさい。
私はなぜ生きるのか?
神の栄光を表すために。
神様の栄光のために。
皆さん、このように人が変わったら、目的が変わったら、
全てが変わります。
金持ちになって幸せになりたいとか、
自己中心的な目的じゃなくて、
神の栄光のために生きろと言ったら、
もう皆さん、神様からの全てが変わっていきます。
2番目、生活の方法が変わらない。
人本主義、自分の考え、自分の感情、道理ではなく、
御言葉に従って、
精霊様に従って生きる人生。
また、委ねる資源が変わらない。
今まで自分の力で、自分の熱心で生きるんじゃなくて、
ただ恵み、ただ信仰、ただ精霊によって生きる。
もう自分から出るのか、上から来るのか、
力が全く変わります。
また観点です。
自分の判断、自分の考えではなく、
神様の御声を聞いて、考えて、判断する。
それが大事です。
イエス様は徹底的に、神様中心的に過ごしました。
私たちは簡単に罪を犯すことは何かと言いますと、
人を勝手に判断することです。
皆さん、人を判断するのは罪だということをご存知ですか。
これを変えられない限り、
皆さんはこれから人間関係的にはすごく大きな難しさが来るでしょう。
イエス様はどうされたのか、
ヨハネ8章15節と16節を見ますと、
イエス様はある人を見るとき、自分の考えで、
ああ、この人はいい人、悪い人と言わなかった。
その人に対して神様に聞くんです。
15:01
神様、その人はどんな人ですか。
神様からその人がこんな人だと教えてくださったら、
神の判断でこの人を判断する。
これが正しいんです。
そこから変えなきゃいけない。変わらなきゃいけない。
変わることの大事さについて、
私が昔、申し上げた例を挙げてみましょう。
韓国のスウルの近郊に農水産物市町があります。
そこで大勢の人がここにいて商売をしているところなんですけど、
昔々の話です。
ある人がそこで商売をし始めた。
はじめはお金もないでしょう。難しいでしょう。
その時は夫婦が力強く、お互いに力を合わせて、
頑張ろう、私たちも何か店をしっかりして、
何とか商売してみようとして、
夫婦の間がすごくよく熱心に過ごした人がいました。
しかしそこで商売をしたら、
あ、儲けるんですね。お金が入ってきます。
だんだんだんだん金持ちになっていきます。
だったら、ご主人がさっと人が変わった。
まず、乗っている車が乗用車として変わって、
それから飲むお酒が、ミスキーとかなんとか豪華なお酒を飲み始めて、
それからある女性から電話が来たりして、
結局その人が不倫をして、
そして結局離婚してしまいました。
家庭がダメになり、子どもたちも非常に難しい状況になったということで。
皆さん、器が変わらないところでお金が入ってきた。
器が変わってからお金が入ってきたら、
そのお金によって家庭がもっと幸せになったはずなのに、
お金を受け入れる器ができてないままお金が入ってきたら、
それによって人がクロッと変わって、
家庭がダメになり、子どもたちがダメになったということです。
このように、お金が入ってきてからダメになったケースがどれほど大きいか分けません。
ですから神様は私たちのことを変えてくださってから、
祝福を与えてくださるんだということです。
私たちが神様が望むところで立派な器になれれば、
神様は私たちを祝福してあげたいんです。
愛してるから何でもあげたいんです。
いくらでも神様の素晴らしい、また心霊な祝福をたくさん与えてくださるでしょう。
そのために神様は私たちに変わりなさい、変わりなさいと言ってくれます。
そしていつも変わっていくのか見ておられます。
それでまた相変わらず自分の方法で小駒になって、
自分に勝手に何か人を判断しながら悪いことをするなら、
18:02
その人の働きがますますうまくできない、
難しくなる場合があります。
神様には適当にがあります。徹底的に。
変わったらいくらでも祝福してください。
あるとき皆さん、私たちの家族、また周りの方が非常に難しさがあるなら、
皆さん心痛いでしょう。
また皆さん苦難があるとか、お仕事がうまくできないとき、いろいろ難しさがあるでしょう。
そのとき勝手に恨みを持つことではなく、
神様に祈ってみてください。
神様、私に何が問題ですか?
何が私に今、神様の見舞いでうまく間違えたことがあるんですか?
教えてください。直したいです。
私も神の見舞いで通りに行きたいです。教えてください。
神様が一番好きな祈りがあるそうです。
これ英語である先生に、
What's wrong with me?
神様、私に何が間違いですか?何が間違えたんですか?教えてください。
いくらでも私、変えたいと思います。
分からないから今のままですけど、教えてくださったら変わります。
助けてください。
この祈りをするなら、神様は非常に喜ばれると思うでしょう。
そして道を示してくださるでしょう。
新しい力を与えてくださるでしょう。
神様は私たちを治しておいて、祝福されるということです。
では神様が信仰の先祖アブラモをどのように変えてくださったのか。
これが創世紀12章から創世紀25章まで長い聖書を通して教えてくださいます。
信仰の先祖アブラモをどのように取り扱ったのか。
これは事実、私たちを神様がどのように取り扱うのかということと関係があります。
神様が私をどう訓練されるかを、アブラモ通して、聖書を通して読めば分かります。
はじめアブラモは神様から、生まれ公教、父の家を離れ、私が示しに行けなさい。
私はあなたを大いなる国民、名を高める。
あなたを祝福の源になるようにと約束しました。
そしてアブラモは、じゃーと見事に従って、訳も分からない神輪まで行ったということです。
はじめアブラモを見たら、神様に対する信仰もあり、従順もうまくできるし、
オイロットも連れて行くんですね。
オイロットにいろいろなことを与えることを見たら、人間的な配慮もあり、いい人のように見えました。
しかし、その地方に貴賓が来た。人生の中で難しさがたーっと与えました。
そうしたら人がぐるっと変わったんです。
貴賓が来て、なんか貧しい環境になれば、彼は我慢できない。
21:06
皆さん信仰良さそうに見えても、環境が少し変わって少し貧しくなっていれば、
貧しいことは我慢できない。私は貧しいことはできない。
彼は見事に捨てて、エジプトに行ってしまいました。
環境を変えてみたら、人の本性がパッと出てきます。
また、自分が危ない、エジプトに行って危ないと思ったら、妻を妹だと思ってパラオに与えてしまいます。
妻を売ってしまうような、こんな悪い人です。
また子供を得るために、世の中のやり方、神の信仰を持って神様の時を待つんじゃなくて、
世の中のやり方で他の女を通して子供を得るイスマイルを生んでしまいました。
彼は信仰が良さそうに見えても、環境が悪くないから、いくらでも悪いことをする人でした。
また、彼は小市民的に、アブラムという名前の意味が良い父です。
彼は大きなことも考えありません。
器が小さくて、小さな幸せで満足していきます、というような人でした。
そのような人をもって、信仰の先祖として、祝福の源として、イスラエルの父としてできますか?
だから神様がその人を訓練して、約束した子供をくださるまで25年間訓練し続けました。
それで、信仰の先祖としてのふさわしい器を作っておいて、子供を与えてくださり、
そしてアブラムがやるすべての働きに祝福してくださるんです。
器を変えないまま祝福してくださったら、アブラムの内面性が変わったと思いますか?
アブラムが変わらなければ、生まれる息子は一切変わらないでしょう。
また、そこからできるイスラエルの民族時代が、難しさがあったらいくらでも御言葉を捨てる、信仰を捨てる、
いくらでも神法修行を行う、そのような民族になったら、神の民としてふさわしくないんです。
ですから神様は、まずアブラムを変えてくださって、そこで一策を与え、約束を与え、
そしてイスラエルの民族を救ってくださったということを考えればいいでしょう。
私たちの教会がいつも使命として、今ビジョンとして持っていることは、
新しいカウブクロの教会です。
新しいカウブクロの器を作らなければ、神様は祝福してくださいません。
マルコン2章22節、こう言っています。
24:01
また、誰も新しい葡萄酒を古いカウブクロに入れたりはしない。
そんなことをすれば、葡萄酒がカウブクロを破り、
葡萄酒もカウブクロもためになる。
新しい葡萄酒は、新しいカウブクロに入れるものだ。
新しい葡萄酒は、新しいカウブクロに入れなければいけない。
そうじゃなければ、葡萄酒もためになり、カウブクロを破られて使えなくなるんだ。
必ずそうしなきゃいけない。
イエス様はどれほど強く言われるのでしょう。
だからイエス様は、変わらなければ祝福してくださらないと言っています。
変わらなきゃいけません。
だったら私たちは、十字架の福音も学びました。
私たちも、傲慢な人じゃなくて謙遜な人、罪がある人じゃなくて良い人、
性格が荒い人じゃなくて優和な人、分かります。
それをどうしてそれができるのか、変わることができるのか、
今日はその秘訣を一つだけ考えていきましょう。
それがヘブライ書4章12節13節に書かれてあります。
さらげ出されているのです。
この神に対して私たちは、自分のことを申し述べなければなりません。
大事なのは、見言葉の威力です。
見言葉は私たちの精神と霊と関節と骨髄、心の思い、心の考えを全て変えることができるパワーがあります。
私たちの体の精神的な部分、筋肉、すべて、隅々まで、見言葉は私たちを変えることができます。パワーがあります。
ところがどんな時、変えることができるのか、
見言葉を受け入れて、私の心から素直に告白する時、
素直に自分自身が、私はこんな人間です。私を助けてくださいという告白をする時、
見言葉が入っていて、それを変えてくださるんです。
ここで大事なのは、この神に対して私たちは自分のことを申し述べなければならない。
自分のことを告白することが大事なんです。
27:01
それが私たちの教会では、召喚を発表するということです。
今日、メッセージを聞きました。メッセージを聞いたら、何かを悟ることがあるでしょう。
じゃあ、メッセージを聞いて、神様の見言葉を聞いて、自分から悟ったこと、
また聞いてみたら、ああ、間違えた。悔いを改めること、またこれから私はこう生きたいと決断すること、
これを神様の前で申し述べなければいけない。発表する。正直に申し上げるということです。
こうするなら、精霊様が働いて、私の間違えた部分、うまくできなかった部分、汚い部分を全て一つ一つ直してくださるのに、
神の見言葉は生きており、力を博し、どんなモロハの剣よりも鋭く私たちを直してくださるのです。
私たちがそのように、私自身が神の前で精霊様が直してくだされば、清くなったその器には、神様が祝福、神霊の永遠の祝福を思い存分与えています。
私たちがそれをどんな祝福ですか?いいや、神様は私たちのすべての必要を満たしてくださる。
私たちの器が先ほどある人のように、お金が減っていったら人がぐるっと変わって、傲慢になったら堕落の道を走っていくような、それを変わらない限りくださらない。
与えてもいくらでも主のために、隣人のために愛を示す、そのような働きができる人だったら、いくらでもくださいます。
その人の変わるのか、変わったのないのか、判断は神様が知恵にも分かっております。
ですから私たちは、見言葉をいただいたときに、私自身はこんな人です、私はこんなものですと告白して、精霊様を助けてください。
見言葉を通して私をすべて変えてください、正直に告白する。この場、この集まり、それが大事なんです。
そのために今日皆さんに、出会いの後約20分くらい、同じような悩み、同じような関心を持っている方たちが集まって、
そこで、見言葉に対する正直、私たちの心を申し上げる、その場を作りましょうと、私は今日申し上げました。
じゃあ今日は、なぜ十字架と復活なのか? 死ななければ復活はありません。死んだら復活します。
また神様は苦難を通して、治しておいて、器を作っておいて、祝福します。
その祝福は、永遠に心霊な祝福を与えてください。 だから私たちが努力して何かやらなきゃと思うよりは、まず自分を変えることです。
30:03
自分を変えることです。 そのように私たちの集まり、今日私たちはこれから始まりますけど、小さな集まり、身近な時間でも
自分のためによくよく使ってください。 そして神様が思い順番に祝福される、そのような器を私たち教会に作っていきましょう。
お祈り出します。 主よ、私たちは4月から、主の見言葉にもっと忠実にするために、聖書の学びと神徒たちの交わりを行いたいと思います。
聖霊様、私たちの間に悟りをもっともっと与えてください。 そしてイエス様、私たちを救うために、癒すために、祝福するために与えてくださった
忠実家と忠実家の福音と復活者の福音を正しく悟って、まず私たちが変わって、それを述べ伝える私たちにならせてください。
イエス様の皆を同意してお祈りいたします。 アーメン、アーメン。
31:05

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