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2021-07-25 30:35

「一粒の麦は地に落ちて死ななければ」2021年7月25日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2021年7月25日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

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今日は、一粒の麦は地に落ちて死ななければという題を持って、メッセージを分かち合いたいと思います。
祭りの時に、イエルサレムに集めてきた大勢の人、その中でイオウ人もいましたように、先週オリンピックが始まりました。
全世界からアスリートたちが今集まっているところで、本当にその時の祭りの時に人々がイエルサレムに集まったように、今全世界の人が東京に集まっています。
私は開会式を見ながら、初めに聞く国の名前がたくさんありました。
昔私は140国くらいかなと思ったという、260もすごい国が増えている、今世界ですね。
私はその人々を見ながら、本当に立派な方だなと思いながら、その方たちにも福井が伝えなきゃいけないのにと思いました。
とにかく世界の人たちが集まること、これは本当に大事だなと思って、オリンピックの意義、これを本当に私たちは大切にしていかなきゃいけないと思いました。
しかし今はコロナによってみんな怯えているところです。
コロナ時期にオリンピックをやっていいのかという意見もあります。
ところが私たちはなぜコロナを怯えているんでしょうか。
もしコロナに感染されて私たち死ぬのではないかと思うんです。
私たちは使命があるんですけど、病気による死ぬことは悔しいんです。
ですから私たちは健康管理をしっかりしなければなりません。
皆さん、世の中で一番大事なのは何でしょうか。
これは自分の命です。
自分の命、自分が死んだら終わりでしょう。
ですから死にたくないということは同然のことです。
ところが聖書的に見ていますと、この世の100年が終わりではなく、死んだ後に永遠な世界があるんだと聖書を教えてください。
すなわち人間は永遠に生きる存在です。
ですから私たちはこの世から死にたくないということだけではなく、
死んだ後、次の世界で永遠の命、天国に入ることを考えなければなりません。
私たちはこの世で死にたくないということより、永遠の罰であり地獄には絶対入りたくないと思うことが大事だと思います。
今日の聖書では永遠の命、天国に入るその秘訣を教えてくださるんですけど、
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25節にこう言われます。
私が死ぬなら永遠に生きると言います。
私が死ぬなら永遠に生きる?
何が死ぬということですか?何が死ねば永遠に生きますか?
私たちが死ぬべきことは自分自身です。
なぜでしょう?
今私たちは創世紀3章以来、現在のもとにいます。
現在のもとにいる私たちがイエス・キリストを信じます。イエス・キリストを受け入れます。
そうするならイエス・キリストの命が私たちの中に入ってきます。
そんな状態は古い体の中で新しい命が入っていることです。
この新しい命は私たち自身と世の中に対して驚くほどの働きができるものであり、
私たちを永遠に生かしてくださる力です。
この命が私たちの中で働いて、私たちを祝福の存在とさせてくださるんです。
ところがこの古い体、自我がそれを邪魔するといったら、皆さんどうしたらいいのでしょうか?
新しい命が働くために古い体は死ななければいけないでしょう。
ところが私たちは死にたくないと思っていることです。
ですからこの世の中でキリスト社たちだけ、この心の中で内的な戦いがあります。
イエス様は一粒の麦が死ななければ一粒のままにいるんだけど、
死ねば多くの実を結ぶんだと言いながら、正しいキリスト社の生き方に対して教えてください。
今私たちは100年もいけないこの世の中でコロナに感染されたら死ぬのでどうしようかと、
そして注射も受けなきゃいけないし、その貿易システムをうまくやらなきゃいけないと思っているんですけど、
今日私たちはこの100年だけではなく、永遠に生きる、永遠に祝福を受ける、またたくさんの実を結ぶためにどうすればいいのか、それを一緒に考えていきたいと思います。
その秘訣は私が死ぬことです。
まず一つ目、23節です。 人の子が栄光を受ける時が来たとイエス様がお話ししました。
それはどんな意味なのか、ここで栄光とは何なのか、
中二症の20節、21節には、祭りの時にギリシャ人たちが礼拝に来たと言います。
イエルサレムに来たと言います。 異邦人なのに、イエルサレムに礼拝に来た?
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皆さん、ギリシャ人たちはソクラテス、アリストテレスという哲学者のように、
知恵と知識を大事にする人たちです。 その人たちが大事なことを求めて、イエルサレムまで来てみたら、
華麗な礼拝の儀式だけで、 自分たちが本当に求める、この真理ということは、見つからなかったのでしょうか。
弟子たちに頼んで、イエス様に出会いたいと願っていることです。
皆さん、その時、弟子たちの気持ちを考えてみてください。 外国人たちが、
イエルサレムまで来て、イエス様に会いたいと言うから、心から喜んでいたでしょう。
やっぱりイエス様の名声が海外まで広がっているんだなぁ。 先ほど、ヨワネの中二章、中三節を見ますと、
イエス様がイエルサレムに入場する時に、人々が、保産なぁ、保産なぁ、そうしながらイエス様を還元してくださったのに、
外国人までイエス様を求めている。 やっぱりこれからイエス様の時代が来るんだなぁ。
イエス様の時代が来るなら、私たちも何とか、私たちの人生の道が開かれるんじゃないかという、楽しみにしていたんじゃないかと思います。
ところがイエス様は、二十三節に、人の子が栄光を受ける時が来たと言います。
これは何と的外れのような答えなんでしょうか。 この意味が何でしょう。イエス様が言われるこの栄光とは何でしょうか。
これは、後にイエス様が十字架で死を通して成し遂げることをお話しすることです。
十字架を通してイエス様は何か大きな働きをされるんですけど、それは、神様が一番願われる、
人類の救いの美技が十字架によって成し遂げられる。 もう一つは、血の果てにまで福音が延べ伝えられて、
異邦人たちも救われて、全世界の人が神の国に入ることができるということを意味します。
結局、今来たこのキリシア人たち。 エルサレムに来て、儀式ばかり、儀式以外は何も見つけることができなかったんですけど、
キリシア人たちが、このイエス・キリストが成し遂げるこの十字架を理解することができたら、彼たちにどれほど大きな希望が与えられるでしょうか。
この十字架は、イエス様、神様が一番願われることで、イエス様はこの十字架を背負うこと、それを喜びとして、栄光ある働きとして思われたんです。
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イエス様の生涯を見ていますと、イエス様は一番願ったのは、神様が喜ぶことでした。
また、神様に一番栄光を与えることを願っていたので、神様が喜ばれるこの十字架を、イエス様を喜んで背負おうと思われたんです。
2つ目です。 身を結ぶための礼的な秘訣。
神の栄光に至る道は、十字架を通した復活です。
十字架を通した復活。 じゃあ、復活を味わうためには何が必要ですか。
十字架で死ぬことが必要なんです。 十字架の苦難と犠牲、
それを担わなきゃいけないんです。 しかし、私たちは栄光は欲しいんです。
素晴らしいことが欲しいんです。 しかし、苦難は嫌だ、十字架は嫌だとみんな思う。
栄光はみんな欲しがるんだけど、犠牲されること、苦難、十字架は嫌だと思っているこの人々に対して、イエス様は24節、25節にはっきり言っておく。
一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。 だが死ねば多くの実を結ぶと言います。
ここで一粒の麦の教訓を教えてください。 皆さん、この種の神秘、
種の中には命が入っています。 この命が働くのか働かないのかは、
種が死ぬのか死なないかということです。 じゃあ、この命の働きのためには種が死ななきゃいけないということ。
死ぬんだということは地に落ち、地に任されて、 種のこの皮の部分が剥がれて臭くなることを意味します。
そうするならその中に入っている命である芽が、 それが出てきます。
その芽が臭くなったこの殻、この皮の温かさによって、 それが成長して成長して伸びるのです。
それでその土壌の上で結局この芽が花になり、 実になっていくのです。
そしてこの一つの一粒の麦から、 その種の中から30倍60倍100倍の実を結ぶことができると言います。
皆さんそれを何年か繰り返して繰り返し繰り返しとしてみれば、 一番初めに死んだ一粒の麦からは、
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どれほどのたくさんの実が 増やされていくのでしょうか。
その増やされているこの実をどうしてどれほどの大勢の人々が、 またどれほどの多くの動物たちがそこから
糧、食料を得ることができるのでしょうか。 しかしこの種が死ななければ
死ななければ、ただ種のままで存在します。 何にもありません。
何にも寄生がないんだけど、苦労もないんだけど、実りもありません。 そしてこの種がもう死なないままで存在していくなら、ある時
鳥に食われたり、臭くなって使えなくなったりします。 考えてみてください。
種の中にある無限な洗剤力、 生命力すべてが無用になってしまうんです。
命に働きができれば、これからたくさんの人、 たくさんの動物を食べさせてあげることもできるのに
それを知らないから、そのまま存在して、 鳥に食われてしまったり、無駄になってしまったら
大きな機械損失になってしまうでしょう。 イエス様ご自身は自ら一粒の麦のように血に落ちて死んでくださいました。
イエス様はどのように死んだのか? イエス様はもともと神様でした。
神様が人間になってこの世に来られたことも、 一粒の麦が血に落ちて死んだことと同じです。
またこの世で低くなって低くなって、罪人と病者と共に 彼たちに使える生活をしたということも、一粒の麦が死んだことと同じでしょう。
最後にはイエス様は十字架で自分の身を捧げることによって、 イエス様はこの地に落ちた、完全に死んでしまった一粒の麦のようにしてくださいました。
イエス様の生涯は一言で、一粒の麦がこの地に落ちて死んだ生活の連続だったんです。
それによって全人類に救いが与えられ、永遠の命、天国が与えられ、 罪と死とサタンの勝ち抜く、復活の命が与えられたんです。
それだけではありません。イエス・キリストの十字架を通して、 聖霊様が来てくださり、教会が建てられ、地の果てにまで福音が述べされるようになり、
それで、異邦人であるキリシア人も救われて、 神の子供であり、天国のためになりました。
一粒の麦が死ねば、このようなたくさんの利益、たくさんの実りによって、 大勢の人々を助けることができるんです。
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それが永遠に、みんなが味わうことができるんです。 どれほど素晴らしいことでしょうか。
しかし、地区を中心的な私たちは、死にたくないと思うんです。 犠牲したくないと思うんです。
なぜ私だけが損にならなきゃいけないの?と言います。 自尊心が傷つけられたと言います。
また強い血が、また自尊心によって、 誰が少しでも被害を加えてあげられるなら、怒ります。
復讐しようと思います。怖いです。 そうしながら、ただ豊かに、ただ楽しく、ただ美しく、
わがままに、自分の人生を楽しんで、楽しんで、 過ごしていきたいと思います。
ある意味から見れば賢くように見えます。 羨ましく見えます。しかし、そのような人は
それで終わりです。 そのように一生懸命に過ごしてみれば、何が残りますか?
神様に対しても、この社会に対しても、 自分自らも何の有益もありません。
それで終わりではありません。 次に、神様の決算の時が来ます。
裁きを受けるようになります。 どうしたらいいんでしょうか?
それを悟らせてくださるために、イエス様は、 マタイの25章のダラントンの例を通して教えてください。
コダラントン、ニダラントンをもらった人は、 また、イチダラントンをもらった人はいました。
コダラントン、ニダラントンをもらった人は、外に出て、 コダラントン、ニダラントンを残しました。
それは、自分が一粒の麦のように地に落ちて、死んで、 それから、またコダラントン、ニダラントンをもうけたということです。
しかし、イチダラントンをもらった人は、 死なない一粒の麦のように、受けたダラントンを隠しておいた。
何にもしていませんでした。 何にもしていないということは、神様が願われることは何にもしていないで、
自分が願うことばかりして人生を過ごしたということです。 そして、みんなが神の裁判、神の裁きの座に進んでいっていきました。
その時、与えられた判決は何ですか。 マタイの25章、26節から見ますと、
主人は答えた、怠け者の悪い下辺だ。 このダラントンをこの人から取り上げて、
中ダラントンを持っている者に与えよう。 そして、この役に立たない、機械損失ばかりしたこの下辺を暗闇に追い出せ、
そこで泣き喚いて、剥ぎしりをするであろうと言います。 神様が私たちにくださったこの命は、
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一粒の麦の中にある命のように、 無限な潜在力と無限な生命力があります。
皆さん、私たちの中に、イエス・キリストを信じる私たちの中にあるこの命は、
無限な潜在力、無限な生命力があります。
これを命を、身を結ぶために、 私たちは今、よく死んでいるところでありますか。
絶対死にたくないと思って、今反発していますか。 じゃあ、では三つ目です。どうすれば私たちがよく死んで、
豊かな身を結ぶことができましょうか。 26世紀にイエス様がこう言います。
私に使えようとする者は、私に従え。 そうすれば、私のいるところに、私に使える者もいることになる。
私に使える者がいれば、父はその人を大切にしてくださろうと言います。 一言で言えば、私に従えということです。
私が生きたいところで、私が生きたいまま生きることではなく、 私たちの傍観である、牧者であるイエス様に従って生きることを、
そうです。 じゃあ、皆さんどうすればイエス様に従うことができますか。
私たちがいつも申し上げる、 親しみ、
PLOの生活です。 神様との親しみの中で、御声を聞き従うこと、これが私に従えという言葉です。
そうするなら、羊である私たちは、少しも足りないことがないように、 牧者であるイエス様が全てを満たしてくださいます。
しかし、私たちはイエス様について行かないで、 私たちの肉の欲に、肉の欲についていきます。
そうするなら、 その当時自分自身は満足かもしれないけど、
永遠の神様の観点から見ますと、ダメです。
この世の100年は楽しく、楽に過ごしたかもしれないけど、 人生は永遠なんで、その後は滅亡です。
ですから私たちは、死にたくない自分自身を打ち叩いて、 神の御言葉にイエス様に従うために、死ななければなりません。
では、私たちはどうすれば死ぬことができますか?
イエス様は模範を見せてくださいました。27節、28節です。 これは、他の聖書では、決戦までの祈りと言います。
さあ、そこでイエス様は何を祈られたのか? ルッカの22章42節には、
21:00
父よ、御心なら、この杯を私から取り除けてください。 この杯ということは、十字架にかけて死ぬことです。
その杯を取り除けてください。 しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってくださいと言います。
それをイエス様は、3度も同じような祈りを通して、自分自身を下ろすことができ、 神様から十字架を背負う力を上からいただきました。
ヨワネの福音書では、この決戦までの祈りをこのように表現しています。
私の願いではなく、主の御胸通り、私がこの世に来たのは、神の栄光のためです。
その御胸が成し遂げられるようにしてくださいと言いました。 切磋なる祈りを神様が受け入れてくださって、
なお力も与えてくださいました。 それでイエス様は十字架を背負っておられたんです。
人間は本性的に十字架を避けたいと思っています。 しかし、避けたいという自分自身を殺して、神の御胸に服従してくださるように、
3度も切磋に祈った時、イエス様は上から神秘な力をいただいて、十字架を背負うことができたのです。
私たちもこのメッセージを聞いたり、聖書を勉強したり、神の御胸は知っています。
知っているくらいで留まることではなく、その御胸通り服従して従うことができるように、私たちも上から力をいただかなければなりません。
それは、切磋真伝の祈りのような切磋なる祈りを通して可能です。
パリ西人たちは知識的には知っていました。しかし、できませんでした。なぜなら、担う力は彼たちはないからです。
彼たちはたくさん祈りました。儀式的に、習慣的に立派な祈りをしましたけど、神の御心に従いたいという真心の祈りはありませんでした。
切磋真伝のような切磋なる心で、主の御心に従いたいという、私を神様に捧げますという切磋なる心はありませんでした。
だから、上からの力を背負うことはできませんでした。真心の祈りには神様が共にいてください。
力を与えてください。だから結局、一粒の麦がこの地に落ちて死ぬのか死なないのかは、切磋なる切磋真伝の祈りがあるのかないのかに関わっています。
真実なイエス様の祈りには、神様の認め、支えがありました。
24:00
28節、本当に素晴らしい聖書ですね。
父よ、皆の栄光を表してください。すると、天から声が聞こえた。
私はすでに栄光を表した。再び栄光を表そう。
神の栄光が表されるということは、神様の神秘な力をいただいて、その働きを私たちにやらせてくださるという意味なんです。
そうです。イエス様は神様が肉になった時、聖肉神の時に、神様が栄光を受けられ、神の栄光を表してくださいました。
また人類のための十字架の時に、神様が栄光を受けられ、栄光を表してくださったんです。
神の栄光が表される、神の素晴らしい力が表される時、私たちはその働きができるんです。
人間の第一の目的は、神の栄光のためであるので、これ以上の誇りはないでしょう。
私たちも、私たちの家におられるイエス様の命によって、主の栄光を表す人生になるために、私たちに必要なのは、
それを妨げる私たちの古い身体、自我、自尊心、この世で楽に過ごしたいという、自分の欲望の願い、それを打ち叩いて、殺して、
私の中にあるイエス様の命が働くことができるようにしていかなければなりません。
最後になりますけど、私たちに実りがない理由は、私たちの知識、努力、熱心が足りないからではありません。
私たちの古い身体が死なないからです。ところが、私たちは死にたくないと思うんです。
自分を守ろうとする本能があります。私たちのこの自分を守ろうとする、古い身体を守ろうとする本能があるので、
それをうまく死ぬためには、結成までの祈りが必要なんです。それをどうして、上からの恵み、上からの力を、神の栄光を受けなければなりません。
その主の恵みによって、死ぬこともできるし、主の御胸に従うことができるんです。
私たちが主が与えてくださる力によって、一粒の麦のように死ぬ時、やっとカラディア二章二十節が完成されます。
私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。
キリストが私のうちに生きておられるのです、という言葉、御言葉が成し遂げられます。
私が生きるなら力ありません。弱い存在しかないんです。
27:01
しかし、私のうちにキリストが生きている。キリストは万王の王、万主の主、全知全能の絶対主なんです。
絶対主、イエス様がおられるなら、どれほど力があるでしょうか。
罪、悪魔、世の中の誘惑、呪いは近づくことができません。
私たちは勝利、輝かしい勝利が与えられるんです。キリスト社はこのように生かなければなりません。
キリスト社の生き方はこんな生き方なんです。コロナによって私の体がダメになるんじゃないか、心配だらけじゃなくて、
御言葉の精霊によって、祈りによって、私たちの古い体、自我が死んで、
私たちの中にあるイエス・キリストの命、この素晴らしい命が働くことによって、
30倍、60倍、100倍の美を結び、豊かな人生になる私たちになりましょう。
私が死ぬなら、私が死ぬことは何ですか。昔の自我、自尊心、自分の考え、自分の観点、
自分が何かやりたい、やりたいと思っている自分自身が死ぬなら、私の家におられる神の命が働いて、
自分自身が豊かになり、 自分の家庭も豊かになります。
自分の職場も豊かになります。 業界も豊かになります。
今、東京に集まっている世界のアスリートたちは、勝利のために今戦っています。
金メダルを取りたいと戦っています。 私たちは何を戦えばいいですか。私の家にいる、
古い自分自身、自分の自我、何とか自分の自尊心、偉そうな自尊心と戦って、
それを殺しましょう。 そして、その時に私の家にあるイエス・キリストの命が働きます。
その命によって、永遠に豊かな身を結ぶことができるんです。
オリンピックの勝利で頑張っているアスリートたち、同じように、私たちも私の家のこの戦いに勝利して、
豊かな人生になりましょう。 お祈りいたします。
神様、聖書で祭りの時、イエルサレムに大勢の人々、また、違法人たちが集まったように、今、東京に全世界の人たちが集まっています。
彼らたちはメダルを取るために戦っているんですけど、私たちは、私の家にある命が働くために、
30:02
この古い自分の体が、自分の自尊心が、自我が死ぬように戦う、私たちにならせてください。
金メダルを取るこの人のように、私たちは神様から与えてくださる、永遠の命、豊かな生活、
神の祝福を取ることができるように、私たちを祝福してください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。 アーメン、アーメン、ありがとうございます。
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