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2022-03-20 25:48

2022/03/20:あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねる

2022/03/20 聖日礼拝

尹善鎬牧師

使徒の働き -38


00:01
おはようございます。
今日の聖書箇所は、いつか別れる、離れる時が来ることは決まってますから、ずっと前から心に準備して持っていたみことばであります。
また、これは単なる別れの場面だからというより、24節のみことばは、私個人的に、日本選挙連動国会への神様からいただいた私の使命のようなみことばがここにありますね。
それを自分自身も改めて確認し、また自分がどういう勃開をしてきたのかというところ、また皆さんに今日のみことば、その通りのメッセージ、タイトル通りに皆さんを神とその恵みのみことばにゆだねたいと、そういうふうに願いまして、今日の聖書箇所を選ばせていただきました。
9年という時があっという間に過ぎました。
2013年に赴任して、すぐに柔軟種の帰都会を宣言してしまって、柔軟種の帰都会をスタートさせていただきまして、ほぼ9年になったというふうに思っております。
今まで本当にいろんな面において足らないこの牧師、牧師精神、家族を皆さんが本当に辛抱強く支えて、祈って、また応援していただいて、むしろ我が家が養われたような気がします。本当に心から感謝をいたします。
9年間、誠実礼拝、また水曜帰都会、午前午後とか、あるいは早朝とか、あるいは特別帰都会とか、金曜日の帰都会もさせてもらいましたけれども、大阪にて大体3000回くらいメッセージを取り継ぎさせていただいたなと思っております。
決して少ない数ではありませんが、本当に種の御言葉を共に、私自身も皆さんと共に学んでここまで歩んでくることができたというふうに感じて、種の御仰を崇めて感謝しております。しばらく御言葉に沿って見ていきたいと思います。
03:19
今日の場面は、パウロ使徒が3回目の連渡旅行を終えて、エルサレムに帰る直前の場面です。
エルサレムでは、パウロを捕まって、ローマに誤走しようとする、そういう計画が彼を待っているところでした。
そこで、仏会主であり使徒であり、霊の父であるパウロは、エペソから南部の100キロくらい離れているミレトスという港町で、エペソにある教会の長老たちを招きました。
そこには行けなかったんですね。彼らに来てもらいました。そして彼らに色々挨拶と、また頼み事をしているところです。
18冊からご覧ください。
彼らが集まってきた時、パウロはこう語った。
あなた方は、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、いつもどのようにあなた方と過ごしてきたか、よくご存知です。
そうでしょう。パウロは2回目、3回目連渡旅行をして、エペソに連動して、そこに教会を建てたわけですね。
そして彼らと、特にこのエペソにはですね、長く滞在して、教会を博会をしたわけです。
いつもどのようにあなた方と過ごしてきたか、よくご存知です。
私はパウロ先生に比べると、もう見えないぐらい小さなものですけれども、
私自身も、この9年間、私妻も家族も、皆さんと共に嬉しいことも悲しいこともありましたけれども、
どのように皆さんと過ごしてきたか、皆さんがよくご存知だと思いますし、覚えていらっしゃるかと思います。
本当に、一緒に連動博会をさせていただいた、皆さんの祈りと、あるいは献身と、その奉仕があってからこそ、教会が建てられていたことです。
06:16
私たちは牧師であろうが、神徒であろうが、みんな神の手に捉えられて、用いられる道具にすぎないですね。
その主によって建てられた位置というか、勤めが、神徒、牧師だけであって、みんな神に用いられる下辺であるということ。
福音のイエス・キリストの福音の承認証人であるということは、もう一緒同じことであります。
ヒト・パウロはユダヤ人たちの陰謀によって、これから大変なことになります。
結果的にはローマに送られてきて、そこで処刑されるということであります。
しかし、パウロはそこから逃げたりしないで、ローマに行って、またそこで福音を述べ伝えようと。
むしろ、今のところローマに行くのが難しいから、むしろ、もうこういうふうに罪人として捕まえられて、誤送されて、
そして、そう囚人の身になってでも福音を伝えたいという志が彼の中にあったんですね。
だから、エルサレムに行くことを、彼は恐れることなく、堂々と向かいました。
20節、21節、
駅になることは公衆の前でも、家でも余すところなく、あなた方に伝え、また教えてきました。
ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を明かしてきたのです。
新約聖書の中で13巻も書くほど素晴らしいパオロ先生。
その使徒パオルは、彼らの信仰のために、礼のために、駅になることであれば、
パオルは、はばたることなく、躊躇せずに、大胆に語りました。
持ち打たれ、死んだと思って捨てられるほど、それでも福音を語りました。
09:09
私自身、そこまでは及ぶことはできないと思いますけれども、
昨日の夜、このメッセージを準備しながら、9年間、自分は果たして何をしてきたんだろうと思いました。
大したことはなしていないかもしれない。大きなことをなしていないかもしれない。
しかし、神の前に、私は恥ずかしいと思わない部分は一つあります。
それは、妥協せずに、人を恐れずに、好みがあろうがなかろうが、神の御言葉をそのまま語り続けてきました。
まさにパオルが21節で言っているように、神に対する悔い改めを、
私は9年間語り続け、叫び続けてきました。
それによって、本当に私にはわかりません。神様はわかるでしょう。
本当にその御言葉によって、心から神に対して、悔い改めてこられた方もおられるでしょう。
また、私たちの主イエスに対する信仰を語り続けてきました。
神第一、信仰第一、それしか語っていないのに、9年も過ぎましたね。
どうか、私は妻や私の家族のことは忘れていいです。いや、忘れてください。
しかし、神に対する悔い改め、主イエスに対する信仰を覚えてください。
神がなかったことを覚えてください。
そして、主の皆を崇めてください。主を賛美してください。
パオルは、彼の前に鎖と苦しみが私を待っていると、23節に言っています。
そして24節に、けれども、私が自分の走るべき道のりを走りつくし、
主イエスから受けた神の恵みの福音を明かしする任務を全うできるなら、
自分の命は少しも惜しいとは思いません。
まさにそこまでは及ぶことができないかもしれませんが、
12:01
神の恵みの福音を明かしてきたと。
任務を全うできたかは分かりませんが、
神の恵みの福音を明かしして、教えて、導いて、述べ伝えてここまで来れました。
そしてパオルは25節に、今私には当たっています。
御国を述べ伝えて、あなた方の間を巡回した私の顔を、あなた方は誰も二度と見ることがないでしょう。
パオルとエペスの彼らはこの言葉通りに、
パオルは二度とエペスとかピリポとかコロサイとかそこら辺の教会に訪ねることはできませんでした。
エルサレムに帰って、捕まって、ローマに送られて、
そしてそこで何とか福音を述べ伝えて、そしてそこで準拠。
これが私と皆さんの間に同じく起こるかどうか、それは私には分かりません。
そして26節ですから、今日この日あなた方に宣言します。
私は誰の地に対しても責任がありません。
どういう意味かと言いますと、パオルは悔い改めと信仰を、福音を、キリストの十字架を語りましたね。
そしてそれによって信じたならば救われるでしょう。
悔い改めならば清められるでしょう。
しかしいくらパオルが語っても、この偉大な先生が語っても、それを受け入れない人であれば、
その日の、その人にかかる裁きに対する責任はパオルにはないということですね。
そういう意味です。
言いづらい部分でもありますが、私もそういうふうに言わせていただきたいと願います。
神の福音を語ってきました。悔い改めを語ってきました。
福音によって生きる人生が何であるか、本当の信仰が何であるか、教え、導いてここまできました。
それを受け入れ、悟り、悔い改め、清められた方々は、さゆわりな信徒でしょう。
そうでない、拒む。
そしたら、その方々に対する裁きの責任は私にはありません。
15:08
二十七です。私は神の御結局のすべてを余すところなく、あなた方に知らせたからです。
もちろん、余すどころなく語ったかと聞かれると、そうでないかもしれませんが、
しかし、語らなければならない部分は十分語ってきました。
そういうふうに考えております。
どうか、今まで宗徒自身が神様が私として皆さんに語った御言葉、
本当の信仰、クリスチャンとして生きることが何であるか、
信仰は何であるか、礼拝は何であるか、クリスチャンとして生きることが何であるかを、
ぜひ思い起こしていただきたいです。
そして、真理に立って、信仰に立って歩んでいただきたいです。
二十八節。あなた方は自分自身と群れの全体に気を配りなさい。
神がご自分の地をもって買い取られた神の教会を僕させるために、
精霊はあなた方を群れの監督にお立てになったのに。
一世紀、二世紀は長老、監督、使徒、それがあまり区分ができていない時代でした。
だから長老は監督であったり、あるいはヨハネのような使徒も監督と言われたりした時代でありました。
どうか、まず主が立ててくださった役員の皆さんにお願いします。
愛をもって真理に立って、皆さんまず自分自身の信仰のために歩んでください。
惰性ではなく、習慣ではなく伝統によるクリスチャンじゃなくて、信仰による真理による、まず信者になってください。
そして役員として主が立ててくださいましたから、群れの全体をイエス様が養ってくださるように気を配って養ってください。
そして皆さん方にお願いします。教会は神様がご自身の血をもって買い取られた神の教会です。
誰かさんの人のものではない、組織の団体のものでもない神の教会です。
18:10
だからその方向性はもう決まっています。神の御心のみです。
私が好きな教会に作るのではありません。楽な教会、居心地のような教会、いい教会、自分に合う教会を作るのではありません。
神の御心に沿った教会、真理に基づいた教会を立て上げさせていただくのです。
その時にこそ教会は教会になります。
そして何より、この方にまだ救度者の方々、あるいは信者であっても、せいにおけても、本当の意味でイエス・キリストを信じていない方がおられるならば、救われていない方がおられるならば、イエス・キリストを信じて救われるようにしてください。
神を信じてください。イエス・キリスト、唯一の神を信じてください。
その信仰他には、私たちの生きる道はありません。
当時、実際にパウロがこの3回連動旅行でエフェソ教会の長老たちに会った時は、AD57年頃でした。
そして約40年が経って、使徒ヨハネはヨハネの目白の中に7つの教会にあてにして手紙を書き送りました。
そこにエフェソ教会がありました。覚えていますか?
そしてそのエフェソ教会は40年経った。
パウロは、気を配りなさい。狼が来ますよ。
回ったことを語って、自分の方に引き込もう、そういうものがいますよ、気をつけてくださいね、とパウロは涙をもって叫びました。
40年が経ったあの頃、ヨハネはエフェソ教会の様子をわかっていました。
何よりエフェソ教会は最初の愛を、信仰を失っていました。
そこが使徒ヨハネに大きく責められた部分でありました。
21:00
どうか皆さん、最初の愛を、その愛が冷たくなることなく、愛を失うことなく、いつまでも燃やされて、燃え続けていてください。
神を愛して、兄弟姉妹を愛してください。
そして様々な異見や、あるいは異端の攻撃、様々なことが起こるかもしれない。
実際にどこに居るか言いませんが、先生がいなくなった教会に、あらゆる変な自称牧師という者たちが教会に電話して訪ねて、そういう様々な惑わしが実際にあります。
神の教会の中にもありました。
だから皆さん、神の教会ですから、信仰を持って守ってください。
そして三十節に語っているように、またあなた方自身の中からも色々と曲がったことを語って、弟子たちを自分の方に引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。
パウロはわかっていました。
どうか皆さん、見た目にあって一眼となって一致して進んでいってください。
そしてその一致の本源は、神の御言葉です。
人の主張によって一致になるのではなくて、神の御言葉によって一致になって進んでください。
パウロはエペソで三年間、昼も夜も彼らと共に過ごし、彼ら一人一人を懇懐し続けてきました。
九年間、私も皆さん一人一人を懇懐し続けてきたと思います。
それを思い起こしてください。
そしていつもお話をしたことですけれども、目を覚ましていてください。
終わりが近づいている。
イエス様が来られる祭輪の日がどんどん近づいています。
目を覚ましていてください。
そして最後に三十二節。
今私はあなた方を神とその恵みの御言葉に委ねます。
24:04
御言葉はあなた方を清清をさせ、
聖なるものとされた全ての人々と共に、あなた方に御国を受け継がせることができるのです。
パウロが言っているように、私自身も神様とその神の恵みの御言葉に皆さんを委ねます。
ここに書かれているように御言葉が皆さんを成長させます。
そしてその御言葉によって御国を受け継がせる。
その信仰に立って歩んでいただきたい。
まだ皆さんにお会いする時があるでしょう。
あるいはないかもしれない。
もし神様が私の命を早めに取ってくださっておいでねとおっしゃられたら、
本当にこの御言葉通りに二度と会うことはないかもしれません。
しかし主がもうちょっと働けとおっしゃられたら働かせていただけるでしょう。
それは分かりません。
異様がいないまま皆さんは変わることなく、愛をもって信仰をもって変わることなく、
今まで以上に信仰をもって主の教会に神にお仕えください。
お祈りします。
25:48

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