1. 名谷教会
  2. 2015/06/07:聖日礼拝(旧音源)
2015-06-07 50:40

2015/06/07:聖日礼拝(旧音源)

2015/06/07 聖日礼拝(旧音源)




00:01
みなさん、おはようございます。
今日はですね、町内の聖祭でしたので、朝早くから多くの方々が草刈りや掃除をしていただきまして、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。
それでは、お互いに挨拶しましょうか。
はい、よくお願いしました。
はい、ありがとうございます。
はい、それでは一言お祈りします。
神様、今から神様の御言葉に耳を傾け。
神様御自身が私たちに、主の教会にお語りになる御声をお聞きしたいと願っております。
どうか、命の言葉を、希望の言葉を、救いの言葉を、私たち一人一人に、
どうぞ、お語りください。
どうぞ、お語りください。
主イエスキリストの皆において、お祈りいたします。
アーメン
はい、今日はですね、その働き7回目ですけれども、先週1週間は私個人的にですね、神様がこの日本を本当に愛しておられるということを熱く感じられた1週間でした。
特にですね、月曜日に東京に行く途中、名古屋にちょっと立ち寄りまして、前から知り合いになっているEと言う韓国の先生にお会いしました。
名古屋の地区サイズのところで、名古屋トゥループチャーティーという単立の仏会をしていらっしゃる先生なんですね。
その先生は名古屋に留学で来たわけなんですけれども、博士まで取りましたが、神様に命されてですね、名古屋で開拓してからもう20年経っているんですね。
日本の方や韓国人含めて子ども含めて約70人、80人ぐらい集まっている教会なんですけれども、その20年間の仏会の中でですね、本当にもう言い尽くせない感謝のこともいっぱいありまして、
03:15
そしてその中でも誤解もあったり、ところの傷もいろいろありましたけれども、にも関わらずこの日本を愛してですね、あの名古屋で本当にですね、もう58とおっしゃっていましたから、
20代の後半に来てですね、もう人生の黄金の時をこの日本にですね、死のために捧げたわけなんですね。
ところが、あの月曜日にですね、たまたま他のお二人のまた韓国の博士先生にお会いしました。
一人の方はもう小さい時にアメリカに移民して、そこで死に息をとっていますけれども、米軍の関係を長い間してですね、丁寧に退職して、その後、撲滅して滅されてですね、
アメリカで誤解する自分のプランがありましたけれども、突然その奥様が癌で亡くなられてですね、自分のプランは、自分がいくらですね、しっかりプランを取れたとしても、神様の導きがあるんだなと、
道があるんだなとですね、それを悟ってですね、祈って祈っているうちに、日本に行くようにですね、導かれて。ところが、日本には知り合いも友人も一人もいなくてですね、
なんとか縁があって、この名古屋のいい先生と知り合いになって、ちょうど今名古屋に来て、一ヶ月間ですね、留まっていながら、日本の教会やあるいは先生方を訪ねながらですね、これから選挙を、誤解をしようとしている。
しかもその先生は、安面会で現金をもらって、結構な現金をもらっているらしいです。だからそれを自分の生活をしながら、店頭メーカーとして開拓でも、あるいは小さな教会でも誤解させていただきたいとですね、そういうふうに献身された60歳の奥氏でした。
本当に感動を受けました。それからですね、神様はまたボーナスにですね、もう一人の韓国の先生ですけれども、その先生も同じ60歳の先生で、韓国で長い間誤解をしていて、そして神様から、日本に行きなさい、選挙をしなさいと。
06:00
最初はですね、ちょっと迷ったんですけれども、神様の御心ならば行きましょうと。で、四日市でですね、マンションを借りて、一番上の最上階で、家の教会をやっているんですね。
ところが、その話を聞いたら、奥様が癌でですね、本当に重病で、年に半分以上は韓国に戻って治療を受けられるんですね。そんな中でも、その先生はもう短期不妊みたいにですね、一人で四日市で選挙をしていらっしゃる。
その話を聞いて、韓国にいる友達の先生方がそう言われるんですね。もうあなた日本でそんなに苦労しないで、もう韓国に来たら安定できるし、いろいろいいんじゃないと、そう言われるみたいなんです。
ところが、その先生はですね、この御心になって、神様が日本に使わせてくれたから、開拓教会であれ、神徒が二、三人、四、五人いようが、ここは私の選挙地だと。
そういうふうにですね、御開をしていらっしゃる先生、年配としても何を見ても私よりはるかに先輩の方々なんですけれども、その方々にお会いしてですね、東京に行く新幹線の中でいろいろ考えさせられました。
神様はこの日本をいかに愛しておられるか。本当に日本を愛してですね、日本を救うために、もちろん日本からも献身される先生方が大勢いらっしゃるわけなんですけれども、
その中でもアメリカとか、あるいは中国、あるいは韓国からですね、若い人や、あるいはこういった先生方をすぐは使わせてくださって、一人でも多くの人々を救おうとする神のその愛の手をですね、拝見したわけですから、
本当にですね、行けば行くほど日本は希望的である。行けば行くほど、実は一人でも多くの人々を必ず救ってくださるに違いないとですね、本当に思わされた一瞬間でした。
皆さん、神様は日本を愛しておられます。そして行けば行くほど、実は今日のこの聖書のように、行けば行くほど一人でも多くの人々を救って、行けば行くほど多くの人々が主に愛されるように、
闇から怒りへ、火から命へ、主が移ってくださることを本当にですね、願っておりますし、また信じていきたいと、そう願っております。
09:01
今日の聖の働きの弟子たちの彼らの気持ちはですね、今の私たちの気持ちと同じだと思わないんですね。
この時代に行けば行くほど、発芽や観覧や資源は厳しくひどくなるかもしれませんが、しかし行けば行くほど多くの人々が救われて、そして神の国が広がっていくことを彼らは夢を見ていたわけなんですね。
そして彼らはこの夢が実現されることを目撃して、そしてそれを見て、聞いて、体験して、それを彼らは証しをして、述べ支えて、また共に礼拝を捧げている彼らの素晴らしいその貢献が今日の聖徒たちに書かれているわけなんですけれども。
ペンテコステのあの日、聖霊様がおいでになりました。その日、ペテロはですね、外に集まっている人々にイエス・キリストと十字架の福音をお伝えしました。
ところがそのメッセージはですね、ペテロのメッセージではなく、聖霊様がペテロの唇を借りて語られた天のメッセージでした。皆さん、そのペテロのメッセージを聞いた彼らの応答の反応はどうだったんでしょうか。
37節をですね、もう一度一緒にお読みしたいと思います。37節。よろしいですか。3、人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロと他の人たちに兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうかと言った。
ペテロのメッセージを聞いてですね、そこにいた人々は心を刺されました。そしてペテロとその立っている他の人たちにですね、こう言いました。兄弟たち、ペテロ先生、誰々先生、私たちはそしたらどうしたらよいでしょうかと謙遜にお聞きしました。
心を刺されましたね。これは皆さん、精霊様による応答でした。実はですね、今日読んではいないんですけれども、2章の中のこのペテロのメッセージはその内容を皆さんご存知でしょうけれども、一言で整理するならばこれなんですね。
12:01
そこに集まっている偉大人に向けてですね、こうペテロは語りました。あなた方が殺したイエスは救い主であって神の子です。その神の子、救い主をあなた方が十字架につけて殺しましたよ。
だからこのイエス・キリストを主は受かって天に引き上げてくれましたというメッセージだったんですね。本当に心を刺されるつらい、あるいは厳しいメッセージだったんですね。ところが、そこにいたその人々の応答はどうだったんでしょうか。
あのペテロとかですね、人たちに向かって歯ぎしりをするどころか、彼らはそこでですね、へり下って悔い改めの反応をしたわけなんですね。38節をまた続いて一緒に読みたいと思います。38節。
そこでペテロは彼らに答えた。悔い改めなさい。そしてそれぞれ罪を許していただくためにイエス・キリストの名によってアプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。アーメン。
そしてですね、彼らはその通りに悔い改めて、聖霊を受けて、その日3000人ほどの人々が弟子に加えられました。皆さんこれはですね、聖霊様による御業とやって、聖霊様による恵みでした。
皆さん、人間がですね、いくら上手に説教をしたとしてもですね、その説教に聖霊の働きと、聖霊の恵みがなければですね、何の役にも立たないでしょう。ただのおしゃべりに尽きないかもしれません。
いくら発言であっても、とても感動的であったとしても、そしてとても面白くてですね、全然眠たくない説教が起こしても、そこに聖霊の恵みと働きがなかったならば、それはただの人間のお話に過ぎないわけなんです。
ペペロのメッセージは、聖霊様による天のメッセージです。そこでペペロのメッセージを聞いた人々は、心を重ねましたけれども、それをやり返すのではなく、受け止めて、自分への神様からのメッセージだとですね、受け止めさせてもらって、そしてペペロがそこで悔い改めました。
15:04
それぞれ罪を許していなくために、イエス様の名によってマップスを持っています。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょうと、お勧めした時に彼らは、そこでその通りにしました。
本当に素晴らしい神のおみやさが起こりましたね。奇跡のようなことが起こりました。ところが皆さん、私たち人間の頭には、これは本当に奇跡だと思えるようなことはですね、人間にとっては奇跡かもしれませんが、神様にとっては奇跡ではないんですよね。
何でもお出来になる神様には奇跡というものがないんです。言葉でこの宇宙万物を作られた神様に奇跡とはないんですね。すべては普通のことですべてが常識。
皆さんは3千名ほどの人々が聖霊を受ける光景を裏になったことがありますでしょうか。私はありますよ。韓国に一番大きな神兵訓練所があるんですね。韓国の真ん中のところにありますが、そこにですね、毎年のように多い時には4千名、3千人ほどのあるいは2千人ほどが軍人ですよ。
それがみんな神兵ですね。入ったばかりの神兵たちが、聖霊を受けるんです。だから全国から牧師たちが集まって、何百人の牧師が、一人ではそれを出来ないわけですから、もう習ってですね、牧師がこう習うんですね。約50人くらいが習って。
そうするとですね、一列に並んで、聖霊を受けて、そして再立って、再立って、牧師先生に連れてから交代ですね。3千人ほど、4千人ほどが軍人たちの聖霊を受けるんです。
日本にもですね、東京にダイブハウスチャーシというインサマカナのチャーシがありますけれども、毎年のようにですね、多い時には200人、300人が洗練を受けているチャーシですね。本当に素晴らしいことなんです。
すべては神様がなさることなんです。皆さん、このように多くの人々を救ってくださるその理由はどこにあるんでしょうか。それは神様が私たちを、この日本を愛しておられるからではないでしょうか。
闇の中で苦しんでいないで、光の方に近づいてきなさい。そしてまことの人生がここにありますよ。まことの幸せがここにありますよ。それを味わってほしいと、主が救ってくださるのではないでしょうか。
18:04
皆さん、私たちが信じる神様は、私たちを救ってくださって、私たちに新しい命をお与えになるお方であられます。
この皆さんの中で、またイエス・キリストを救い主として受け入れていらっしゃらない方がいらっしゃるならば、私たちの救い主であられるイエス・キリストを救い主として、光の表して受け入れていただき、そして救われてですね、共にこの新しい命に預かりたいと、そう願っております。
この人の旗描きをですね、何度も個人的に何度も何度も読みましたけれども、読みながら、こういうふうに神様の言葉が描かれました。
それは、神様は算数が好きなんですね。というのをですね、この人の旗描きの救いのストーリーは引き算ではなく、竹算だったと思うんですね。
さあ、見てみましょうか、皆さん。イエス様が3年間ですね、大災害のあの3年間、イエス様についていた人たちは、皆さん何人でしたか。はい、合わせました。12人でした。
さあ、それですね、イエス様が招展なさるあの時に、あの屋上の間に集まって祈っていて、イエス様についている人々は何人でしたか。大体で120人ぐらいなんですね。
すると、12人が120人だったら10倍、神様は10をかけました。それですね、その120人が集まって祈っていました、御言葉をいただいていました。
その時に御存説の日になってですね、今日の四十一説を一緒にまず読んでですね、見ていきましょうか。四十一説、三範。そこで彼の言葉を受け入れた者は、厚手妻を受けた。
その日、三千人ほどが下司に加えられた。何人ですか。三千人ほどが加えられましたよ。12人が120人になりました。その120人の上に三千人が加えられたわけですよね。大体二十倍なんですよね。
それで終わりではありませんよ。また続きます。また行きましょうか。四章四説を開いていただきまして、一緒に読みたいと思います。四章四説。では一緒に読みますね。三範。
21:05
しかし御言葉を聞いた人々が大勢信じ、男の数が五千人ほどになった。アーメン。五千人ほどになりました。また行きましょう。七章七説。二百三十八ページですね。七章七説。これ一緒に三範。
こうして神の言葉はますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。そして多くの祭司たちが次々に信仰に入った。アーメン。
皆さんこう見ますね。もう五千人以上、八千人以上ですね。このように福音は掛け算ではなく、二十倍も三十倍も信じる人々が増えていくこと。弟子に加えられていくこと。それは皆さん、人間がしたことではないんですよね。
これは神様がなされたこと。聖霊様が感動を与えてしまいまして、そしてあのイエス・キリストを十字架につけたその祭司たちすらもですね、彼らも救われたわけですから、これは確かに聖霊による素晴らしい救いの見業でした。
皆さんこのようにですね、人が働きはいけばいくほど多くの人々が救われるこの救いの光景、これが教会であって、これが福音のパワーであって、これが神様の心ではないでしょう。
そしてこの光景はまさに私たちが夢見ている光景ではないでしょう。この日本中に行けばいくほど、教会が閉鎖してしまっていくのではなく、
ますます、十二人が百二十になって、三千人、五千人、数えきれないほど多くの人々が救われたこの初代教会のこの救いの見業がこの時代に、この日本の日で起こされることを、
その夢をですね、共に見て、共に励んで、共に使えて、また共に働いて歩んでいこうではありませんか、皆さん。それはですね、単なる大きい教会を建てよう、そういうわけではありません。
24:16
有名な教会になりましょう、そういう夢ではありません。いい季節を育った教会になりましょう、というものでもあります。それは単なる結果に過ぎないものなんですね。
私たちが夢見ているのは、闇の中に死んでいる魂が、苦しんでいる魂が、罪という鎖に縛られている魂が、その光へ、命へ、イエス・キリスのもとに来て、新しい命を得ることではないでしょうか。
皆さん、このようにしてですね、本部に戻りますと、国に改めて弟子に加えられた人々、そしてですね、少なくとも三千人以上の異業の人々が、一緒にですね、死を礼拝する多くの群れになりました。
その群れが集まって、一体何をしたんでしょうか。そのエルサレム教会の様子がですね、四十二節からそれが書かれていますけれども、まず四十二節を一緒にですね、お読みしたいと思います。
四十二節。よろしいですか。今日の四十二節ですよ。三杯。そして、彼らは人たちの教えを固く守り、祈りをしていた。アーメン。
ここにですね、このエルサレム教会、教会の原型という、この初代教会の四つの大事な特徴が書かれています。
その一つは、彼らは人たちの教えを固く守りました。つまり、人たちから御言葉を教えてもらったわけなんですよね。
皆さん、聖人に満たされた人々、彼らが一番最初に言ったのは御言葉と祈りだったんですね。神の霊が望まれたから、その神の霊に満たされたから、神の霊によって書かれた聖書をですね、御言葉をしたり、また求めて学ぶわけなんです。
生きる神様の御言葉に囚われることなんです。皆さん、単なる勉強と、その御言葉に囚われることとは違うと思うんですね。
頭の中に知識を入れることはできますけれども、その知識によって人はなかなか変えられないんじゃないでしょうか。
ところが、神の御言葉に囚われて、そうすると、今から見ていきますが、彼らはその生き様が全く変えられました。人生の目的が全く変えられました。全くですね、新しい御国の人に変えられたんですね。
27:21
それは御言葉から始まったわけなんですね。御言葉は皆さん、神の御言葉は信仰生活のこの骨であって、発芽であって、基礎なんですね。
ですから皆さん、神の御言葉に学ぶことに一生懸命、神の御言葉を学ぶのではありませんか。元気なときに、歩けるときに、聖書を読めるうちに、喋れるときに、座っていられるときに、他のことを楽しむより、神の御言葉を楽しむ。
神の御言葉に学ぶその人生を送ろうではありませんか。聖霊に満たされたこのエルサレム教会の神徒が、まず彼らが取り組んであげたことは、人たちから教えをいただいて、そしてそれを固く守ることです。
その次は何でしょうか。交わりをしとあります。交わりをしました。交わりをしました。皆さん、聖霊に満たされた信者は、一人でキリストを信じていませんでした。あるいは、たまに教会に来ることで満足していなかったんですね。
毎日、彼らは主のミヤに集まりました。一体何があったので、それが可能だったのでしょうか。それは、もう言うまでもなく、聖霊の力によるパワーでした。
聖霊に満たされていたから、この肉体の限界を、状況の限界を乗り越えて、すべての壁を乗り越えて、主のミヤを主体求め、御言葉を求め、兄弟姉妹たちを愛して、共に集まって、共に祈り、共に笑い、共に学ぶことでした。
皆さん、実は、これこそ教会の秘密であって、これこそ教会の力ではないでしょうか。
日本の教会がすべてそうだとは言いませんが、多くの教会を、私も今まで十何年、日本と関わりを持っているものですから、九州から北海道まで多くの教会を回らせていただきました。
30:05
その中で一つ残念だなと思っていることは、なかなか集まらないという傾向があるんじゃないかなと思いました。
いい建物もあります。いい神道も多くいますが、なかなか集まらない。
聖典に集まるのは、それはもう想像もできないことであって、宗一回以上集まるのは奇跡のようなことであって、なかなか集まらないのが当然のように思っている教会が少なくないなと思いました。
皆さん、聖書どこを見ても、集まらないのが当然なのではなく、よくよく集まることが聖書的であって、それが正解なんです。
三位山にも、四谷教会には多くの集いがありまして、皆さんが喜んで、聖典やあるいは水曜日、あるいは木曜日、あるいは金曜日、あるいは土曜日、あるいは日曜日、朝も午後も集まって、
共にそこで御言葉に学ぶ、共に交わりを持って、共に手をつないで祈ったり、交わりをしたりする、その中で神の恵みがある。その中で神の働きがあると思いませんでしょうか。
神の人が集まるそこに、天使も共に集まって、そこに神の力が共に集まるわけなんです。
四十六節をちょっと先に一緒に読みましょうか。四十六節ですよ。今日の箇所の四十六節。一緒に読みますね。
そして毎日心を一つにして宮に集まり、家でパンを炊き、喜びと真心を持って食事を共にし、飴。ここにですね。
そしてその次の言葉は何でしょうか。何でしょうか皆さん。毎日ですよ。毎週ではありません。毎月毎年ではありません。毎日でした。
この初代教会の信徒たちは暇だったから毎日集まったのでしょうか。いえそうではありません。
彼らの中には奴隷もありました。複数の市民もありました。歳比もありました。彼らも家庭がありますし、彼らも仕事がありますし、
特にですね、この時代に栗ちゃんが、信者が集まるということは、それはですね、もう死ぬことを覚悟をした行いだったわけですよね。
33:03
それほどそのような威嚇や危険がありましたけれども、にも関わらず彼らはもう毎日集まらずにはいられない。
どうしようもなくてですね、集まって集まって集まって来ました。これはですね、聖霊の恵みでした。
やはりですね、やはりですね、聖霊に恵まれて、聖霊に満たされている信徒がですね、もう祈りたくなりますし、見言葉に学びたくなりますし、礼拝したくなりますし、真似をしたくなるんですよね。
さあ、四十二節に戻りまして、二つ目は何でしょうか。それはパンを裂きとあります。パンを裂くのですね。
イスラエル人だからミソスリにご飯を食べるわけではないんですよね。パンを食べるわけです。
これはパンを裂いた、これを生産式を取り行ったという理解もありますし、愛産を、簡単に言うならば食事を一緒にしたという理解もありますが、私はその文字通りにですね、パンを裂いたわけですから、
共に食事をする、愛産をする、その彼らだったと、そう思うわけなんですね。
彼らは多分ですね、集まる前に共にパンを裂いたでしょう。あるいは祈って人たちから学んで、そしてまた一緒にですね、パンを裂いて、食事を一緒にしたのではないです。
それは単なる無駄遣いではなくて、これはですね、これこそ本当にキリストの体である教会を共に建てあげることですし、兄弟姉妹たちが一緒にやって、互いに愛し合う、互いに祈り合う、互いに慰め合う、愛の時間ではないでしょうか。
皆さん、不思議にもですね、どこの国の人もですね、まずですね、この口が開かれたら心も開かれるようになるんです。
全然知らない人でも、初対面の人であってもですね、一緒に食事を一緒にしたら、心が開かれるようになるんですね。
そしてそこに親密感が生じたりするんですけれども、皆さんこのようにエルサレム教会は、礼的なことだけではなく、肉体的にも共に交わりをして、どこからにでも彼らは一つになっていたわけなんですね。
その次、四番目は、祈りをしていただきました。祈りに専念をしていました。
彼らは御言葉をいただきました。そして交わりをしました。一緒に食事をしました。そして祈りに専念していました。
36:07
この祈りはですね、お互いのための祈りでしょう。みんな集まって祈っている時ですから、時にお互いのために祈ったことでしょう。
病院のために祈り、今国中にいる誰々さんのために祈っていたでしょう。あるいは、この前殉教した誰々の神父さんのために祈りましょう。その残された家族のために祈りましょうとかですね。
あるいはローマのために祈りましょう。この神の国のために祈りましょうといった取りなしの祈りでしょう。
皆さん、この四つ。御言葉を学ぶこと、交わりをすること、パンを炊くこと、祈りをすることは、初代教会のとても重要な四つの特徴でした。
そしてその上に生理の力が望まれたわけなんですね。だから皆さん、この時の教会にはまともな立派な建物があったわけではないんですね。何かのしっかりした組織があったわけではない。
あるいは、教団や教派といったものもありませんでした。しかし、彼らが持っているのは、ただ生理の力でした。生理の働きでした。それは神様の力ですね。
ところが皆さん、キリスト教の歴史が立っていけばいく中で、教会が建物を誇り、建物を頼りにし、あるいは人脈や組織やそういったものを、イース・キリストより神の力より頼りにし始めた時から、キリスト教は堕落し始めていきました。
なぜでしょうか。神様より、精霊様より、人や組織をもっと頼りにしたからです。
皆さん、例えば教会に、エルサレム教会に日々救いの宮舎が起きたというのは、彼らは神の力を持っていたから、精霊の力を持っていたから、それが可能だったわけではない。
皆さん、私たちは神の力、精霊の力を掴んでおれば、すべてを得ているものでありますが、しかしそれを失ったらいくら立派な建物があっても、いくら組織があったとしても、それはすべてを失ったことと同じ。
実際にエルサレム教会の人たちは、本当にローマ市民から見たら、身分も低くていやすくて、本当にみそばらしい、そのような何の力もなさそうな人々でした。しかし、彼らは天の力を持てられた天の人々だったんですね。これこそ教会の力なんです。教会の力。
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そして、彼らはどういうふうに過ごしたんでしょうか。私が読みたいと思いますが、44節、45節をご覧ください。一回読みますね。
信者となった者たちは、みな一緒にいて、一切のものを共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していたとあります。
この時も、彼らはこの社会で、メイジャーじゃなくて、マイノリティでしたから、少数のクリスタンでしたから、彼らは信仰を徹底に守って、そして行くために、彼らは共同生活をしたわけなんですね。もちろん、この時の特殊な状況だったと思います。
それで、彼らは共同生活のために、ものを共有にしていました。自分の持ち物や資産や畑や、そういったものを売って、そしてその金を一緒に捨て、そして一緒に共有して暮らしていて、そして神の国をみんな待ち望んで信仰を守り、通していったわけなんです。
もちろん、今日、私たちはこのように共同生活をすることもできますし、そういうふうに暮らしている方々もいますけれども、少なくとも、このクリスタンとして、自分のものは自分のものではなく、神のものであるという、このスピリットといいましょうか、
この原因を私たちは自分のものにして、そして実践していきたいなと分け与える、分かち合う生き様こそ、家様の生き様ではないでしょうか。家様が自分の命を分け与えてくださったようになんですね。
私の話なんですけれども、私は小さいときですよ。1970年代、日本はかなり発展していた時代だったと思うんですけれども、韓国はまだまだ貧しい時代だったんですね。
うちに、あのときは、果物といえばバナナも本当に高級の高級の果物だったんですね。あるいは牛肉がなかなか食べれないという時代でした。
42:05
そしてですね、たまに果物が入ったり、あるいはお肉が入ったり、私は小さいときにですね、今も覚えてるんですけど、桃の缶詰ありますよね。
桃の缶に入っている、それはですね、もう年に一回食べれるか食べれない、それぐらいのものだったんですね。そういったものがたまに入ってくるんですね。
それが食べたくなって、全然こう見ていると、お母さんは何というのか申しますと、「これは教会の牧師先生にあげますからごめんね。」
それが一回だったらいいんだけどですね、何度もですね、「これは教育隊の牧師先生にあげますね。牧師おじにあげますね。」
あるいは教会の誰々で一人のおばあさんにあげますねというですね、それで小さいときにですね、もうママは家より牧師先生にもっと愛してるんじゃないかとですね、つぶえた時がありました。
ところがですね、それは母としての教会を愛する愛し方だった。主の子供を愛する愛し方なのではないかと。
だからこそ主が、母がですね、金持ちだったのではないんですけれども、主は大いに報いて祝福してくださった。そう私はそれを見ているわけなんですね。
先ほど長屋の話をちょっとしましたけれども、訳を含めて4人の先生が、そのいい先生の教会の親徒さんが韓国の食堂をやっていまして、
日本ではなかなか食べれない韓国人の大好物のザダンメンを食べに行ったんですね。
一緒に食事をしてですね、そのオーナーの姉妹のために祈ってですね、食事をして。帰りに会計が起こったら、その姉妹はこう言っていました。
その先生方が4人もうちの食堂に来てくださって、祝福の祈りもしてくださったから、これはもう既に祝福は受けたわけですから、その食材は受けるわけにはいけませんと。
もらうわけにはいけませんとですね、もう断られて断られてですね、それでいい先生がですね、お金を取って逃げてきたわけなんですけれども。
神の国は、分け与えれば分け与えるほど満たされることが神の国の原因になる。
次ですね、今日メッセージの中でありますが、皆さんに一つですね、お願いしたいことがあります。
それは、最近私、資料になったある先生が京都に開拓をし始めたわけなんですけれども、家の許可を開拓したわけなんですね。
45:00
制度を買うといった余裕もありませんので、皆さんのお家でですね、もし皆さんのお家に今使っていらっしゃらない新火薬制度がもしあればですよ、
もう古く売っても構いません。線を引いたり、名前を書いても構いませんから、もしも使っていない新火薬制度がもしありましたら、譲っていただけないでしょうか。
今週の水曜日までに持ってきていただけたら、私がそれを持ってですね、京都の先生にお送りしたいと思いますので、
そういうふうにですね、一つの教会を立て上げて役に立ちたいなと思っておりますので、有志の方はどうぞ助けていただけたらと願っております。
皆さん、このように初代教会の人たちは施して、分け与えて、使えていきました。そんな中で神の恵みをいっぱいもらっていました。
これは誰からこうしましょう、ああしましょう、でやるのではなく、精霊に満たされて、自ら進んで喜んでしたわけなんですよね。
そしてですね、このような群れの教会に、主はどのように祝福を与えてくださったのでしょうか。
それが今日の最後の47節ですが、47節と一緒に読みたいと思います。
よろしいですか。
皆さん、第2章はこの人の働きのペンテコステの章なんですね。
その最初は祈って精霊に満たされた。そしてその結論のこのルカはですね、このペンテコステの日の締めくくりを47節で彼は締めくくっているわけですね。
神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。その次ですよ。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
皆さん、私たちもこのような光景を、このような救いを夢見ようではありませんか、皆さん。夢見ようではありませんか。
ここにですね、一つの言葉に注目していただきたいんですけれども。
主は、あるいは主がじゃなくて、主もとありますね。主も毎日救われる人々を加えてくださった。どういう意味でしょうか。
そうですね、彼らは一生懸命に集まって、祈って、御言葉を学んで、交わりをして、共有にして、愛さんをして、祈りに専念して、そして出て行って延べ支える彼ら。
48:03
あの彼らの上に、主は何もせずにおられるのではなく、主も一緒に働きたくてですね、主も、そしたら私も働かなければならないと。
聖霊様は分かりますよね。そしてですね、主も本当に恵まれて働いているその教会のために、主も働き出して救われる人々を毎日主は加えて、送って、送ってくださったわけです。
皆さん、まさに教会と神様との共同作戦ではないんですよ。
皆さん、教会は人が頑張ったとして、あるいは一人の牧師が頑張ったとして、それで立て上げられる場所ではないんですよね。
神様と共に働く教会。神様が働きたくて、新しい人々を救いに導きたくて、そして様子を送ってくださる、預けてくださる教会になろうではありません。
皆さん、魂は神の羊です。聖霊様の羊なんですね。
ですから、聖霊様はその羊は自分のものだから、安心できる教会に送って、その人が養われて愛されて恵まれる教会がどこなのか、主は見渡しておられて、そしてその教会に送ってくださるわけなんですよね。
ですから、明太に教会が、私たち皆さんお一人お一人がそのような教会であっていただきたい。
聖霊様が見られてですね、もう感動を受けて、明太に教会に一心と送りたいわ、と思われる教会。
そして主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。この証がですね、私たちの証になりたい。
聖霊様がいつか証をする時に、あるいは天に召される前に、主も毎日救われる人々を私たちに、この群れに加えてくださいました。
そして私たちは、その主を夢見て、ともに交わし、ともに二言を学び、ともに祈り、ともに歩んでいこうではありません。お祈りです。
50:40

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