1. 名谷教会
  2. 2015/01/11:聖日礼拝(旧音源)
2015-01-11 1:02:22

2015/01/11:聖日礼拝(旧音源)

2015/01/11 聖日礼拝(旧音源)




00:03
皆さん、おはようございます。
今日もメッセージに入る前に、隣の方々に対象としたいと思います。よろしくお願いします。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
それでは、一言お祈りいたします。
お祈りいたします。神様、年末年始、帰省されたり、あるいはいろいろありまして、礼拝に出れなかった教会の住まいたちも、主が支えて守って下さいまして、こうしてまた、主の宮に共に集まって礼拝できますことを感謝いたします。
また今日も、賛美を通して、御言葉を通して、また主の御声を聞く中で、主をどうぞ、我らに天の扉を開いて、あなたの恵みを降り注いで下さいましょう。
恵みに満たされ、主の愛に満たされ、本当に我らの霊の目が閉ざかれて、主の弟子とならして下さい。
このものを隠して、あなた様の御言葉だけが語られますように。
家様の皆によってお祈りいたします。
今日から、新年の新しいシリーズ、説教が始まります。
霊的聴訳シリーズ説教で、聖書本文は、使徒の働きです。
この使徒の働き、使徒行伝道も言いますが、その理論やただの知識を学ぶというよりですね、
実際的に、私たちの人生の中で、教会の働きの中で、神様の大きな御業を見る、体験させていただくことを説に願っております。
ペソビという手紙、号書18節には、私たちに酒に酔ってはいけません。
御霊に満たされなさい、とあげます。
皆さん、御様に満たされることにおいて、中間地帯、霊像は、この家様の時代も、今日の今の時代も、
03:09
家様が再び来られるその日まで、この中間、曖昧な中間地帯はありません。
皆さん、本日もですね、二つの形のリバイバル、満たしが、つまり、罪の満たしか、精霊の満たしか、どっちか、
それがですね、本当に今、世界的の現象を見てもですね、とても早く、それからはっきりと、それが進んでいます。
一つの例として、今の世界的な、この霊的な動きを見ますと、
最近ですね、イスラエルでは、メシアをイエス様の存在を認めていなかった、信じていなかった人々のうちに、
ものすごい勢いで、イエス様を信じて、クリスチャンに回収する人々が大勢増えています。
ところが、もう一方では、非キリスト教的な、反キリスト教的な、その勢力と言いましょうか、
そういった宗教が、それも、ものすごい勢いで増えています。
私たち、個人個人においても同じだと思います。
聖霊十万であるか、罪十万であるか、です。
聖霊十万を経験した信徒は、この言葉の意味が何なのか、よくわかります。
しかし、少なくないクリスチャンたちは、自分は中間ぐらいに立っていると思い込んでいるかもしれません。
例えば、自分は聖霊十万ではないんだけども、でも、罪に満たされてもいないというふうに思い込んでいるかもしれません。
しかしながら、このように思い込んでいるのが、実は恐ろしいことであります。
なぜなら、聖霊に満たされることを、聖霊十万を受けること、その決断決心をしきりに、後日に譲ってしまうからです。
06:08
ペテロがイエス様にお会いした時に、「主よ、私から離れてください。私は罪人です。」と告白をしました。
イタヤ予言者が神様にお会いした時に、こう言いました。
ああ、私はもうダメだと、自分の実体を、死の光を照らしていたしますと、それが気づく、悟る、わかってくるんですね。
ですから、忠悍はありません。自ら騙されてはいけないと思います。
聖霊十万でいないと、今、非常に暗い状態に置かれているということなんです。
しかし、過ごしたり、恐れたりすることはあります。
聖霊十万を、聖霊の満たしを求める者に、期待を求める人の上に、主が溢れるほどまで注いでくださることを、期待して、信じてください。
この人の働きは、今まで、多分ですね、何度も何度も、皆さん、読まれたと思いますが、
この人の働きは、単なる理論や、あるいは理屈を並べている聖書ではありません。
最初のその通り、働きであって、行動であって、英語の聖書のタイトルは、Xと書いてあるんですね。
人たちの働きを記した聖書なんですけれども、実は自分たちで自分たちがやったことを記したのではなく、
聖霊様が主導してくださった、聖霊様によって突き動かされた、彼らの働きが記されている。
だから、この人の働きは、聖霊の働き、聖霊行伝とも言えるかもしれません。
ですから、この人の働きは、人の働きの主人公はカツヘロとか、あるいはパオロではない。人間ではありません。聖霊様なんです。
人たちはただの序言にすぎないのです。
ですから、私たちがこの人の働き、今日からシリーズメッセージが始まりますけれども、
09:02
是非皆さん、お家であるいは教会に来て、その日の本文を何度も読んでいただきたいと思いますけれども、
この人の働きを読んでいきますと、私たちはどんな神様に、どんな聖霊様にお会いすることができるのでしょうか。
この人の働きを読みますと、働かれる神様にお会いできます。働かれる聖霊様にお会いできます。
休まず働かれる聖霊様。続けて続けて働かれる神様にお会いできるんですね。
ですから、この二千年前、一世紀のこの時代に働かれた聖霊様が、
今日の、この二十一世紀のこの時代に来ている私たち一人一人の上にも、それぞれの家庭の上にも、
この明大に教会の上にも、この日本の上にも、同じく等しく働かれることを祈って信じて求めていこうではありませんか。
この人の働きの内容を理解するためには、その当時の宗教のことをちょっと理解する必要があるかと思います。
当時のイダヤ教がこのイスラエルの宗教でした。
イダヤ教には立法もありました。立法に対する知識もたくさん持っていました。宗教品も厚くありました。
しかし残念ながら、このイダヤ教はまるでですね、化石のように化石化されていました。
あくまでも彼らは誠の信任を拒み、彼らには神の大きな御業が起こらなく、
恵みのお分かしもなく、救いの感激もなく、神様の恵みを額に求めるそのパッションも植え替わりもなかったんです。
ただのイダヤ教という宗教形式だけが、
彼らにパリサエビドとかサドカエビドとか、彼らにですね、聖祖の知識がなかったからではありません。
宗教品がなかったからでもありません。
あるいは教会がなかったからでもありません。あるいは街道がなかったからでもありません。
経験がなかったからでもありません。
12:02
それらのものはみんな持っていました。
しかし最も大事なことが彼らには抜けていてなかったんです。
それは聖霊様であって、聖霊十万でした。
それがなかったから、その宗教はあって、立法はあって、知識はありましたけれども、
そこには神の大きな御業も、救いも、誠の真理も、あるいはこの誠の真理に対する植え替わりも、
私たちも気をつけなければならないと思います。
私たちの信仰が破石のようにならないように。
私たちの信仰が恵みが枯れてしまったものにならないように。
礼儀的に目を覚ましていなければなりません。
そして本当に皆さんお一人お一人に、それぞれのご家庭に、明太に、教会に、
今年は今までより幾倍も本当に神の大きな御業が起こってほしい。
そして多くのお証を持ってほしいと願っております。
そして神の恵みに感動してですね、涙するほどのお証がたくさんあってほしいです。
だから恵まれた信者はお証が多いです。
自慢話ではありませんよ。
神の恵みが私をこのように捉えて、このように変わらせてください。
このように恵みを与えてくださいました。
このように祈らせてくださいました。
このように御言葉を語ってくださいました。
このような夢を語ってくださいました。
このようなお証が多いです。
これから私が読んでいく、そして恵まれていくこの人の働きの、
この中で書かれているこの信仰、描いている信仰というものは皆さん、
生ぬるいものではなく、この世界を揺さぶる信仰であって、
歴史をひっくり返す強力な信仰であって、あるいは信仰の信号でありまして、
信仰の張曰であって、霊的な張曰がこの人の働きに書かれているんです。
それはダイナマイトのような福音による爆発のようなものでした。
15:01
この霊的張曰、霊的震度、福音の爆発のような働きは、
ただ精霊縦脈によってのに起こるものであります。
ですから皆さん、愛する皆さん、今年には一人も漏れなく、
みんながこの信仰生活において、あるいは家庭において、
このダイナミックなおばかしや精霊様によるミラクルが、
そして神の大きなミラクルを体験させていただきたい。
それを期待しようではありませんか。
上川家をもって期待を求めますよ。
皆さん、求めるものにある。
これは私の理論ではありません。
聖書に書かれています。
ちょっと開きたいと思いますが、
ルカの福音書、11章。
ルカの福音書、11章。9節から13節の見言葉です。
多分ですね、皆さん、この11章の9節から12節までの見言葉は、
よく皆さんご存知の聖書・科書だと思うんですね。
求めなさい。そうすれば与えられる。
何か神様からいただくためにですね、よく用いられる、語られる見言葉なんですが、
実はこのルカの福音書を記したこのルカ、この記者が、
結局的に書きたかったのは、自分が書きたかったのは、
聖霊様によって書き記した目的は、最後の13節に出てきますけれども、
まず9節から私が読んでいきますね。ご覧ください。
9節です。
私はあなた方に言います。
求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見つかります。
叩けなさい。そうすれば開かれます。
誰であっても、求める者は受け、探す者は見つけ出し、叩く者には開かれます。
あなた方の中で子供がウオウオくださいと言う時に、
ウオウオの代わりに蛇を与えるような父親が一体いるでしょうか。
卵をくださいと言うのに、誰が悟りを与えるでしょうか。
13節1章に読みたいと思います。
13節、5・1・2・3、はい。
そして言うと、あなた方も悪い者であっても、
18:04
自分の子供には良いものを与えることを知っているのです。
そうすれば、なおのこと、天皇父が求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょうか。
アーメン。ここにですね、なおのこと、天皇父が求める人たちに、求めるんですよ。
求めて、探して、叩いて、求めるならば、神様が聖霊を下さると言う。
ルカがですね、この9節、求めない、そうすれば与えられる、この御言葉を記したゴールは、
焦点はですね、フォーカスはこの13節の聖霊のこと。
残念ながら、多くの教会でメッセージですね、9節だけを語られるところがよくありますが、
実は13節のこれがフォーカスなんです。これを。
今年ですね、皆さんお急ぎを受け取りが、聖霊の満たしを、聖霊十万を求めましょう。
求められるものに。
さてイエス様は、復活の後40日間、この地上におられました。
その40日間、イエス様は何をされたんでしょうか。
3節をご覧ください。今日の御言葉の1章の3節。
これも一組を見たいと思います。3節。
イエスは苦しみを受けた後、40日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、
数多くの確かな証拠を持って、御自分がしていることを。
ここにですね、40日の間、彼らに現れて、何を語られましたか。
神の国のことを語られました。
40日の間、最後のこの地上での一日ですよ。
最後の昇天の前の最後の40日を、イエス様はずっとこの残される弟子たちに、
何を語られたのか、神の国のことを語られました。
この福音書ですね、マタイからヨハネの福音書、4つの福音書を読んでみますと、
イエス様のお話やメッセージの中に、神の国あるいは未国という言葉が、
約100回くらい書かれて出てくるんです。
21:03
皆さんよくご存知のマタイの福音書、6の3図3節。
まず、神の国と神の義を求めなさいという言葉がありますよね。
このようにですね、イエス様は生きている間も、そして昇天の直前の40日間もですね、
ずっとイエス様の口が開かれると、神の国、未国、神の国のお話だけが語られた。
つまりそれは、イエス様の最大の関心は、神の国ということなんです。
神の国なんです。
皆さん普段ですね、皆さんの家族とか、皆さんのよく知り合いの方々とか、あるいは教会の働き方とか、
よくその方が話しているそのネタ、その話が、その人の主な関心事ですね。
例えば、今年で3年目になっていますが、この者が高壇であるいは人会でよくよく働かしているメッセージは変わらないと思いますね。
それがその人の関心事なんです。
例えばですね、ソウルの院長の実家にいる私の母にですね、会うたびに、あるいは電話をするたびに、母は口癖のようにも毎回毎回私に言うお話があります。
卑怯して祈りました。祈りのほかには方法がないよ、40年間聞いてきました。
勃開をしてからはもう10年ちょっと経っていますけれども、何回も何回も聞いています。
同じなんです。イエス様はですね、まるでですね、口癖のようにイエス様は何度も何度も繰り返して強調をしているイエス様のお言葉のポイントはいつも神の国。
神の国が来ますように、それがイエス様の夢であって、イエス様の働きの一筋でありました。
そうであるならば皆さん、イエス様について言っている私たちに、イエス様が求めるものは、それは神の国を求める信仰なんです。
そのために命が許されています。そのために職場が与えられて、そのために知識が与えられて、そのために健康が与えられて、そのために教会があって、そのために私たちが生きているんです。
ですから世のもののつまらないくだらないもののために、むなしいもののために、時間や健康や金を無駄遣いにせずに、神の国のために生きなさい。
24:14
それがイエス様が私たちに求めるメッセージなのではないでしょうか。
皆さんのこの頃の最大の関心事は何でしょうか。一番関心あるものは何でしょうか。
時間も投資し、お金も投資し、関心も投資し、よくそこに行っている。よくそのことを考え、よくそのことを話し、それに関する情報を集めたりしている。
それは何でしょうか。ゴルフですか。あるいは世界のどこかの旅行ですか。まだこの国に行っていないからブラジルに行ってみようか。そういう世界旅行でしょうか。
あるいはダイエットでしょうか。あるいは健康管理でしょうか。
イエス様についている私たちであるならば、イエス様の最高の最大の関心が私たちの関心にならなければならない。それが信仰なんです。
ですから皆さん、神の国こそ私たちの信仰の本質であって、目標であって、目的であります。
神の国を建てるため、私たちがこの地上に存在し、神の国を建てるために、明大に教会がこのところに存在する。
そのことをイエス様は表現の前に、彼らに、私たちに、最後の最後までイエス様が残された御言葉、神の国のことでした。
そしてその後にイエス様は四節を見ますと、このように言われました。
四節をまた一緒に読みたいと思います。
一緒に3回、彼らと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。
ここにですね、「人の働きでは、ルカがエルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。」とありますが、
ルカの福音書24章49節を開きたいと思います。
27:05
ルカの福音書最後のページなんですが、ルカの福音書24章49節。
171ページです。
ここにですね、同じルカですよ。
ルカが、人の働きをこのように記していますけれども、ルカの福音書にはその言葉を、ちょっと違った単語を持っていてですね、使って記しました。
24章の49節を一緒に読みたいと思います。
3、はい。
「さあ、私は私の父の約束してくださったものを、あなた方に贈ります。
あなた方は、位相高きところから力を着せられるまでは、都に留まっていなさい。」
まあ、内容は一緒なんですけれども、単語、言葉がちょっと違いますね。
「エルサレムを離れないで、都に留まっていなさい。約束の御霊を待ちなさい。贈るから。」
そして、このルカの福音書には、あなた方は、位相高きところから力を着せられるまでは、これがポイントです。
ところが皆さん、エルサレムを離れないでと言われました。
都に留まっていなさいと言われました。
さあ、それがですね、この敵たち、テテラ達にとって、エルサレムというこの場所、この町は、どんな意味のある場所なんでしょうか。
ただの使命ではないですね。
エルサレムという町は、敵たちが失敗した場所です。
恥をかいた場所です。
二度と覚えたくない、自分たちのこの信仰の薄さがバレてしまったところが、実はエルサレムなんです。
弟子たちはですね、まあきっとですね、このエルサレムから、もう一刻も早くですね、早く離れたかったんでしょう。
だから彼らは実際にイエス様が亡くなられた後、みんなガリラにですね、もう帰ってしまったんですね。
ここにいたくないんでしょう。
ところが、イエス様は、そこを離れないで、留まっていなさいとおっしゃいました。
なぜ、留まっていなさい、離れないでいなさいとおっしゃったんでしょうか。
30:04
私たちがペテロパティにですね、アドバイスするのなら、もう早くここから離れた方がいいんじゃないですか。
例えば、神戸で辛いのですから、東京とか札幌に引っ越した方がいいかもしれませんよ。
日本は辛いですから、他の国に移民に行った方がいいかもしれませんよ。
あるいはそのことを忘れるために、別の趣味とかを持った方がいいんじゃないですか。
そういう風にアドバイスするかもしれません。
しかし、イエス様の言い合い方は違います。
失敗したところ、失敗したあなたたち、それは大丈夫。
私があなたたちのために大きな身業を起こすためには、
その失敗した場所や、失敗したあなたたちのその失敗は何の差し支えにもならないからだ、というメッセージです。
皆さん、この御言葉を覚えてほしいです。
皆さん、私たちの失敗や、あるいは弱さ、あるいは薄い貧困、あるいは失敗した経験とか、
そういったものが、神様がなさる大きな身業を邪魔することにはならないんです。
神様が私たちのために大きな身業を起こすために、私たちの失敗は何の問題にもならない、何の差し支えにもならないんです。
ですから、失敗したことがありますか、皆さん。
挫折を経験したことがありますか、押し込んでいるでしょうか、自分の弱さのゆえに苦しんでいるでしょうか、大丈夫です。
泣くこともありませんし、恐れることもありません。
神様には、私たちの弱さも、失敗も、絶望も、神様には大したものではないです。
だから、イエス様は約束の御様を使わせてくださって、私たちを失敗したその場所から、そこから新しいものに、力あるものに、神の大きな身業を担えるものにしてくださるんです。
それが今日のメッセージなんです。
皆さん、これはどれだけ大きな慰めの希望のメッセージなんでしょうか。
この世は失敗したものを問いただき、責任を負わせ、もっとひどい場合は捨ててしまいます。
職場で実績が良くなかったら、あるいはしょっちゅう失敗だらけの人だったら、昇進することも難しいし、評価も良くない。
33:12
私も4年くらいの職場生活でしたけれども、そういうような経験をしたこともたくさんありました。
最後の時は国の全体的な金融危機がありましたけれども、リストアされるかなと思って直前に辞めました。
それが世の原因なんですね。
しかし皆さん、教会と神の国は決してそうではありません。
失敗したもの、弱いもの、貧乏の薄いものを主は受け入れて受け取って下さい。
そして受け入れて下さって、ずっとずっと70年、100年ありのままにいて欲しいよじゃなくて、最初はありのままでいいですよ。
ありのままでいいんだけれども、そしてその人の上に恵みを与え、精霊を満たして、そしてこのペテル橋のように、これを振っていくことがある。
それが神様の言い方なんです。
皆さん、イエス様は4節、そして人肌書きをずっと読んで、最後の28章まで皆さん読んでみてもですね、
イエス様は一度もあなた方が置かれているその環境を、条件、コンディションを私が変えてやろうとおっしゃったことは一度もないんです。
このエルサレムのこの固くなな宗教形を私が変わらせる。
このお町を潰して新しいお町を建てるとか、そういうふうにその弟たちの周りの環境を変えてくださるというメッセージは語っていないんです。
誰を変えてくださるんですか?弟たちを変わらせてくださる。
そして私があなた自身を変えるから、そして精霊によって変えるから、そこで止まって待っていなさい。
皆さん、私たちもいろいろ失敗することが多くあろうかと思います。
自分の失敗をですね、皆誰でも認めにくいです。認めたくないかもしれません。
罪の誘惑に負けてしまうこともありませんし、あるいは自分の無能さのうえに本当にざっかりすることもあります。
36:01
それが一時期であろうが、長い時期であろうが、そういう時代、自分にはもうだめだなと思われる時があるんですね。
ないですか、皆さんには。私には今まで何でもありました。
例えば、ひじんちゃんが生まれる時でした。会社を半分自分が辞めて、半分辞めさせられましたけれども、
辞めてすでにひじんちゃんは生まれていました。二月になっていました。
中古に行くために自分は辞めましたけれども、だから仕事をするわけにはいけませんね。
だから給乳が全くありませんでした。
それで三人の家族が生きるためには、ミルク代も必要ですし、おむすば代も必要ですから、
ハンナがやむを得ず、結婚の前にしていた幼稚園の仕事をやり始めました。
今から17年、16、7年前、ひと月の給料が約7万円くらいでした。
それで三人の家族が暮らしてきていました。
そして、その一年、元気よくて、新学校、大学院に受かったらよかったんですけれども、一度落ちてしまって、
その一年、また浪人の生活をして、ハンナは一生懸命働きをしてくれました。
その二年間、もちろん選挙のため、下々になるための準備の時間でしたけれども、
その二年間の間は本当にすまなくて、自分の無能力と言いましょうか、そのために本当に悲しんでいた時がありました。
皆さんは言ったでしょうか。
自分自身のことのために失望感を感じたり、あるいは弱さのゆえに、
ああ、だめだな、なんでこれしかできないんだろうか、そういうふうに思ったり、そして落ち込んでいたりすることはないでしょう。
あるかもしれませんし、ないかもしれない。
しかし皆さん、実は私たちは自分自身に対して、ああ、もうだめだ、
いざいざ上手のように、ああ、私はもうだめだという、この自分の肉の限界を体験して、絶望しなければならない。
39:07
自分には何もできない。
自分自身すら変えることができない。
自分の目の前にあるこの問題すら解くことができない。
それを気づくこと、悟ることが、実は皆さん、それが祝福なんです。
なぜなら、自分自身に対して徹底にですね、絶望を感じた、分かった人が、その目を上げて、日を見上げるようになる。
自分の絶望から、神にある希望を見出せるからです。
皆さん、信仰生活というものは、このようなものなんです。
自分自身に対して絶望を感じて、そして神に目を向けて、神にある希望を見出すことなんです。
皆さん、人の働き、第一章の次は何が来ますか。
第二章が来ます。当たり前です。
それは、実は意味があるんですよ。
失敗の章の次には、聖霊降臨の章が、御存説の日が来て、そして新しい歴史が始まる。
これが、大きな大きな教訓を私たちに教えているんです。
ペテロ達は、この第二章を起点にして、前後が全く違うんです。
絶望に失敗に落ち込んでいました。沈んでいた彼らでした。しかし、それでおしまいではありません。
終わらせる神様ではありません。
彼らに第二章をスタートさせて下さい。
聖霊降臨、ペンテコツネの日を主がスタートさせて下さって、
個人個人の人生のストーリーを新しく主が書かせて下さって、
そして教会の歴史を主が新しく書かせて、
ずっと失敗の章に留まっているならば、希望の二章は来ないかもしれません。
ですから皆さん、絶望と希望の間はそんなに遠くないんです。近いんですよ。近い。
何か最近、絶望に落ちたり、絶望の中に置かれている方がいらっしゃるでしょうか。
神の希望が遠くないんです。もうすぐです。
42:02
失敗の出発のあのままで、おしまいはありません。
終わらせないんですよ。神様は決して失敗のまま、不信仰のまま、終わらせない。
聖霊を満たして送って下さって、
新しくて、そして驚くべきの新しい人生のストーリーを主が書かせて下さる。
私たちも同じなんですよ、皆さん。
私たちを主が、いつまでも敗北者のままに、失敗者のままに、落ち込んでいる者のままに、終わらせないんです。
聖霊の満たしによる、御存説の日による、希望の第二章、いや第二幕を主がスタートさせて下さい。
今年がですね、2015年が、本当に渡させの人生が、この主人公の人生がですね、
聖霊降臨による第二幕が、第二章が始まっていきたい。始まらせていただきたいと、そう願っております。
ところが、どんな人が、エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさいという、
このイエス様の御命令に従うことができるのでしょうか。
それは、この仏達のように、失敗を統合して、謙遜を身に付けた人々。
ただ頭で学んだ若さなくて、身をもって徹底した、本当に惨めな自分の失敗を経験させられた人、
自分の限界を経験した人が、ああ、もう俺はダメだと分かった人が、主の御命令にフィレグして、
福寿、従順することができる。
だから、主が求める心は、悔いた、くたかれた、離れないで、父の約束を待ちなさい。
意図高けどころかの力を寄せられるまでは、ほどまっていない。
ああ、そうなんですね、イエス様。私達は今まで自分の努力で、自分の頑張りでやってきましたけれども、全部失敗してしまいました。
彼も彼も失敗だらけでした。
だから彼らはですね、その上からの力を寄せられるまでも、待っていたんですね。
そういうことができました。
待ちなさいという御言葉に従って、実際に待っていることができました。
皆さん、このように、くたかれた人、自分の限界を経験した人、失敗を経験した人が、
45:00
そしてその人が、くだかれて、減り下って、謙遜になって、自分にはこれ以上希望がないことがわかった人が、神の御言葉に耳を傾く。
教会の中でもそうですけれども、教会の外にもそうなんです。
いくらですね、ここにはお一人の方だけで信仰を持っている方が大勢いらっしゃるんですけれども、
いくらご主人に、親にですね、あるいは家族に、イエス様の話を、救いの話を言ってもですね、自分の限界を経験したことがない。
全部うまくいっていると思っているから、くだかれていないから、減り下っていないから、神の御言葉が耳に入ってこないんです。
クリーチャーの中でも同じことがあり得ることです。
死の御前に立つならば、真剣に立つならば、最初に申し上げたように、ペテラのようにしよう。
私は罪人です。私から離れてください。一挙にいられません。
イザヤのように、もう私はダメだと告白しざるを得ない。
それを常に死の御前に告白して、減り下った人が、神の御声に耳を傾けるんですよ。切なるんですね。
もう切迫性がこの内側にあるんです。
ですから皆さん、失敗して、くだかれて、倒れて、つまづいた人、そして正理を一体求めて、恵みを一体求める人が幸いな人なんです。
なぜでしょうか。死の御言葉を切実に求める。耳を傾けて、聞いて、従順して、恵まれて、正理に満たされるから、その人が幸いな人なんです。
イエス様は、私たちに、一層たちがきところから力を消せられるまでは、待っていなさいとおっしゃいました。
この待つ時間というものは、幕前とした待つ、待機の時間ではありません。
上から、糸を探きところから、つまり、天から神様からの力を消せられるまでは、待っていなさいとです。
その力は何でしょうか。聖霊様による力です。
だから皆さん、私たちに必要なのは、知識ではありません。宗教ではありません。ただの感心でもありません。聖霊様なんです。
私たちは皆さん、イエス様にも会いました。十字架も見ました。最後の四十日の間も、イエス様のお話をたくさん聞きましたよ。
48:05
学びがなかったわけではありませんよ。しかし、彼らは見事に失敗してしまいました。
なぜでしょうか。聖書を知らなかったからでしょうか。聖書を読んでいないからなんでしょうか。
彼らに、聖霊の満たしがなかったからです。学びが足りなかったからではありません。
イエス様の招待の直前まで聞いて学びましたよ。
皆さん、私たちも同じなんです。今までクリスタルホームで信仰生活をされた方は、
60歳であれば60年間、70歳であれば70年間、説教を聞いて来られたでしょう。何度も聞かれたでしょう。
多分、数千回、数万回説教を聞いたかもしれません。学びもたくさん聞いたかもしれません。
もちろん、その知識や学びがいらないという意味ではありませんよ。それは必要です。
しかし、最も大事なものが欠けている。それが聖霊様です。
聖霊様を失くしてはいくら説教が多くあっても、いくらいろんな聖書を読んでも、いろんな学びをしても、
聖霊に満たされていないと、まるでガソリンのない車と一緒です。
車もあって、免許もあって、道路も成立している。しかしガソリンがない。
そしたらどうするんですか。あそこまで行かなければならない。降りて、後ろから押し付かない。
だから人生がしんどくて、骨折る苦心が多いんです。
下り坂は押しやすいかもしれません。あれ、十分に行けるんじゃないかと思えるかもしれません。
しかし、ちょっとした上り坂にあったら、登れないんです。
今はですね、下り坂だから勢いよく行っていると思っている方がいらっしゃるかもしれません。
いずれか、登り坂が必ず来るんです。
私たちの頭の中に知識は多いです。学びは多いです。しかし、神の大きな御業は起こらない。
自分の人格、人生、あらゆる感じがなかなか変わらない。
その知っている御言葉の上に、今までやってきた学びの上に、精霊が来られなければならないんです。
51:04
そうすると、今まで聞いた御言葉が、今まで学んだその学びが、それが力に変えられ、
神の大きな御業に変えられ、そして大きな御業を担える聖徒教会に変えられると言うんです。
これは、努力して頑張って下さいという意味ではありません。
信仰を持って、慈悲求めなさいという意味です。
さっき言うと、福神福音書11章の御言葉はその通りです。
慈悲求めを持って、求めるものに、上渇きを持って求めるものに、神様が、神様が、精霊の満たしを与えて下さるということなんです。
ですから皆さん、今年は、全員皆さん、一人も漏れなく、精霊十万を待ってお求め下さい。
支配求めて下さい。
そうしたら、全ての人の上に、子供の上にもですよ、皆さんの子供の上に、お孫さんの上にも、そして青年の上にも、老人の上にも、
主が注いで下さることを信じて下さい。
こうして精霊の力が注がれますと、意図掛けたものから力を寄せられますと、今まで知っている聖徒の御言葉に、経験に、学びの上に主が油を注がれて、救いをもたらすミナクルを起こすことができる。
そして本当の意味での信仰がしたとできるんです。
その中で、もし男性の中で、昔日本の軍隊、自衛隊に入賞された方は、ないですよね。
軍隊に来ますと、ただ入賞したからといって、本物の本当の軍人になるのでしょうか。なりません。
訓練を受けなければなりません。銃を撃つ訓練、さまざまな訓練を受けて、歩く訓練、走る訓練、さまざまな訓練を受けて、そして軍人になって、軍人になる。
ただ軍隊に行って、朝ごはんを食べて、昼ごはんを食べて、夜ごはんを食べて、寝ているだけで、素晴らしい立派な軍人になれないんですよね。
そうなんです。同じなんです。教会が行ったり来たりしていたからといって、立派な神の大きな身技を担える、変えられた生徒になるのではありません。
精霊を受けて、訓練、そして精霊によって砕かれて磨かれてこそ、生徒だけ生徒、教会だけ教会になるのでしょう。
54:07
ですから皆さん、私たちはみんな、基礎行伝的生徒にならなければならない。
それは、この基礎の働きのストーリーが、私たちのストーリーにならなければなりませんし、基礎の働きのこのストーリーが、私たちの皆さんのストーリー人生になってほしいんですよ。
だから皆さん、基礎の働きとありますか。誰々の働きという皆さんのストーリーをぜひ書いていただきたい。
知れますか、有横派さんの働き、文字座の働き、柳川の働き、そのような自分の働きをですね、このストーリーを神の大きな身技を見て、それを経験させていただく、このストーリーを書きたくないですか、皆さん。書きたいですね。
御孫節の以前と御孫節の以降が全く分かれていません。
もう一度繰り返して申し上げますと、御孫節の以前は、弟子たちは家様のお言葉をたくさん知りました。
しかし彼らには大した力は、家様がオリーブ山で祈っているときに目を覚まして祈ることすらできなかった。
病んでいる人、悪霊につかれている人を癒してほしいと弟子たちに示してきたんだけれども、それを癒すことができなかった。
しかし御孫節の日が来て、聖霊に満たされた後、あのペテルバスは全く変えられました。
第3章に行きますと、その宮の門に座っているその生まれつきの足の不思議な人をペテルと言わねば、家様の御名によって癒すことができたんです。
みんな皆さん、私たちも聖霊に満たされて一人一人の人生において御孫節の日が来ますと、このような聖徒に、このような教会に変えられますよ。
ですから正解は、答えは聖霊十万なんです。
聖霊十万によって彼らは臆病な者から卑怯な者から大胆な神の人に変えられます。
ですから私たちにも聖霊十万が必要なんです。
ある意味ですね、学び知識は今までのもので十分じゃないかと思います。
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たくさん学んできたんですね。たくさん聖書読んできたんですね。
だから一人一人の上に、夫婦関係の上に、親子関係の上に、家庭の上に、この教会の上に御孫節の日が来なければならない。
そうでないと生きられないんです。
それほどの凶悪しないと私は生きられません。
聖霊の満たしをお与えくださいと主体求めていこうではありませんか。
今まで皆さんが学んだ知識、学び、それらがまるで火薬になって、そこに聖霊の油が注がれて、聖霊の火が注がれて、そこに全体的に爆発が起こりうるんです。
日本にも起こりうりますし、いや、起こらなければなりません。
聖霊に望まれますと、誰にでも霊的大覚醒が、霊的大爆発が起こりうるんです。
日本の教会にこの福井による聖霊様による霊的爆発が起こらなければなりません。
皆さんが今まで学んだこと、聞いたこと、読んだこと、その知識がアクションに変えられ、知識がパッションに変えられ、そしてそこに弱さが見なくに変えられることを切に願ってお祈り申し上げます。
聖霊に望まれなければなりません。
イエス様の生涯は聖霊によって見こもられて、聖霊によってこの地上においでになって、そして聖霊によって天に引き上げられました。
そうであるならば、私たち生徒の人生はなおさらのことではないでしょうか。
聖霊様という言葉を抜きにしては、イエス様の生涯も、実はクリスタンの生涯も、教会の存在も話せないでしょう。説明できないでしょう。
ですから皆さん、今まで聖霊様のことを頭で知ってきましたか、理論的に知ってこられましたか、経験をあまりしていないですか、史実的に知ってこられましたか、そしてその上に、聖霊十万を経験する生徒になります。
それを求めていきます。
皆さん、例えばですよ、水について研究して、水の化学、あれは成分がこうなっている、100年研究したとしても、もし水を飲んでいないと、その人はずっと乾きに、乾いて、乾いて、死んでしまうかもしれません。
水を研究することもいいかもしれませんけれど、水を飲まなければなりません。同じです。
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聖霊十万とか、聖霊のペンテコシテとか、さまざまな理論や知識や本や学びはたくさんあります。余るほど世界にあります。日本にもたくさんあります。
しかし、いくら知識があっても、学びがあっても、あるいは立派な本を書いたとしても、実際に聖霊の満たしを経験したことがないならば、ある意味でその史実は無駄であるかもしれません。
大事なんです。祈りに対する本をですね、100冊読んだとしましょう。しかし、1日5分も祈らない。その時期は無用なんです。信仰の本質は、行いであって、エッチューなんです。コードなんです。
祈りに対する本を読むより、ひざまずいて祈ることが大事なんですね。聖霊様に対する指引を包んで本を読むよりは、聖霊の満たしを求めて聖霊を受けることが一番大事なんです。
教会と生徒の力は、言葉につきにあるのではありません。力になって、聖霊の力を実際に経験する、そこに、その人に、その教会の上に現れます。
そうか、皆さん。今年、2015年。2015年ですから、御純説の図を求めましょう。そして、この働きは28章で終わっていますけれども、皆さんお一人お一人が第29章を書いてあげましょう。
神様、私にこのような29章ができましたよ。主にお会いする時に報告できる教会生徒になりたいんですね。私、みんなが、皆さん、みんなが、妙なに教会がこの21世紀の行伝の主人公になりますように。心からお願い、お祈り申し上げます。お祈り致します。
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