00:01
アーメン、ありがとうございます。
みなさん、おはようございます。
それでは、今日も言葉をいただく前に、ご連れの方々と挨拶をしたり、また祝福しましょう。
ありがとうございます。
それでは、一言お祈りいたします。
愛する天の神様、今日もこうして、聖なる祝日、今日は特に商店舎、豪土記念でありとして、
また従来祝を迎える聖日礼拝として、二枚に集まり、心から喜びを持って参加していただきます。
私は、今から神ご自身が、聖霊様が、ここに座っている我々一人ひとりの心の中に、霊の中に、呼びかけ、語りかけ、示して悟りを与えて恵んでくださいますように。
そして、我々の信仰が成長し、生活が変えられ、行いが変えられ、
ましまして、イエス様に認識して作られたものとして、イエス様の御印象まで、信仰まで成長できますように、
道法としての豊かに、一人ひとりを覚えて祝福してください。
感謝して、委ねて、イエス様の皆によってお祈りいたします。
はい、今日は、僕からですね、商店舎合同記念礼拝を、この図鑑宗の聖地礼拝にともに捧げることになりました。
この商店舎合同記念礼拝、あるいは御前礼拝も同じですけれども、三つの意味合いがあると思います。
その一つ目は、先ほど福島への祈祷の中にもありましたように、先に天に埋めされた家族、あるいは信仰の兄弟姉妹たち、
その信仰の先輩たちの、その方々の信仰を思い起こし、そしてこの模範を見習う、そしてその足跡をついていくことに、この商店舎合同記念礼拝の一つの意味があるでしょう。
そして自分自身の今の信仰を振り返り、謙遜になって、兄弟姉妹、あるいはお父さんお母さん、あるいはおじいさんおばあさんの、あの素晴らしかった信仰を思い起こし、そして我々も成熟を目指して歩んでいくこと、そこに意味合いが一つある。
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日本もそうですし、韓国もそうですが、1900、例えば30年代、40、50年代、60年代、天に埋めされた方々の信仰を持っていたあの時代は戦争の時代でした。また貧しい時代でした。
自分は死んだことはないんですけれども、お母さんお父さんから聞いてわかるんですが、日本もですね。それから今よりはるかにキリスト教に対しては無関心、あるいは差別ですね。
そんな時代の中に、我々の先輩の方々の信仰はそんな中でもですね、たくましく、あるいは強く、あるいは忍耐強く、信仰をですね、本当に命のように守って、勝利の歌を歌って、天に凱旋されたわけなんですよね。
その信仰を思い起こして、今私たちがどこにいるのか、それを覚えてですね、信仰を見習って歩んでいきたい。一つの意味合いがそこにあると思います。
二つ目は、死を覚えることです。忘れないことです。ペプロイヴィトン帝国の九書二十七史にはこういう見言葉があります。
人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているという見言葉があるんですね。この肉体は必ず死がある。死後の裁きがある。それを覚えることです。
いつまでですね、永遠に生きるわけではない。それがいつなのか、またそれぞれ違いますけれども。一度死ぬこと、それから死後に裁きを受けることが定まっている。それを覚えることです。
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そして、その死を、死後にある裁きを備えることではないでしょう。四つ目は、復活信仰を持つことです。テサロニケ・ヴィトンの手紙第一四の十四から十七節はこういう見言葉があります。私から読みますね。
私たちは、イエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのようにイエスに会って眠った人々をイエスと一緒に連れて来られるはずです。私たちは、その見言葉の通りに言いますが、死が再び来られる時まで生き残っている私たちが死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
死は、号令と見遣いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それから、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たしまし彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で死と会うのです。
このように言って、私たちはいつまでも人と共にいることになります。
イエスに会って眠った人々をイエス様が一緒に連れて来られる死が来るのです。
死で終わりではありません。よみがえりがある。それを、この聖戦車号令、号令、記念出来令を守りながら、私たちが覚えるべき、この神の真意ではないでしょうか。
そして、この復活信仰に立つことが何より大切でしょう。
この三つのことを、また、今日の受難集のイエス・キリストの十字架のメッセージに入りたいと思います。
神の光であるイエス様は、人間になられて、この地上においでになりまして、33年間生きられました。
ところが皆さん、正しく読まれて分かりますように、イエス様の33年間の生涯に対する記録は、四つの訓書に書かれているのですが、
なんと、そのマサイのあるいはマルコ、ルカ、ヨアネの訓書をどこを見ても、大体3分の1をイエス様の生涯の中、最後のその1週間、この1週間の話がマサイの3分の1、大体ですよ。
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マルコ、ルカ、ヨアネはもっと長いのですが、3分の1がこの1週間のイエス様の受難にフォーカスを当てて記録しているのですね。
それほど皆さん、イエス様の誕生も復活も重要ですが、それほどイエス様の受難に対するメッセージは、
我々に救いのため、我々の神話のため、どれほど重要であるか、聖書がそれを長く書いてある、そこに意味があるのです。
受難集に入ります。イエス様が王家になった受難と十字架の死を思い起こしつつ、そして我々も背負うべき、それぞれ自分の十字架を背負って、イエス様の受難の足跡を従っていきたいと願っております。
皆さん、キリスト教は、我々の信仰は、無条件の祝福や成功や出世を保証したり、かぱったりする信仰、あるいは宗教ではありません。
キリスト教のこの真ん中には十字架がある。イエス様のあの受難がある。それを忘れてはいけないのです。
また同時に、この受難集を守りながら、私たちが覚えるべきこと、覚えていただきたいことは、
イエス様のあの十字架の受難が、自分の生活や自分の暮らし、あるいは自分の人生の中に実際的に自分が負うべき十字架を喜んで背負って歩むことが起こらなければならないことです。
ああ悲しい。イエス様大変だったな。つらかったな。それで終わりではない。あるいは映画を見て、ああ怖いな。あるいは何かの絵を見て、すごいなと。
感傷的に、感情的にその気持ちを持つだけでは、それは信仰に達していないと言えるでしょう。
12:03
イエス様がおっしゃったように、自分の負うべき十字架を背負って歩むこと。そこに受難集の意味があり、恵みがある。
このイエス様の十字架は、私たちに大きく密の祝福と恵みを与えてくださいました。その一つは、イエス様の十字架は、我々に向かう神様の愛を確認してくださいました。
では一緒に見てみたいと思いますが、ローマルトの手紙5章8節です。画面に出ますので、一緒に読みませんか。
しかし、私たちがまだキリストが私たちのために生きてくださったことにより、神は私たちに対する真の愛を明らかにしておられました。
私たちがまだ罪人であった時です。
キリストが私たちのために生きてくださったことにより、神御自身の愛を明らかにして、私があなた方をどれほど愛しているのか、この十字架のイエス・キリストを見てそれを知ってほしい、信じてほしいという愛が明らかに示されたのです。
政府には、罪の報酬は死ですと罪を犯した人は死ななければならない。
ところが、罪によって死んでいた私たちを、イエス・キリスト様が身代わりとなられて死んでくださったこと、それほど愛が大きく強いその愛を明らかにしてくださったのです。
ですから皆さん、私たちが十字架を仰ぎ見るたびに、神様が自分自身をどれほど愛してくださったのか、
あのイエス・キリスト様の命、それが代価として払われて私を贖ってくださったから、自分の救いは、自分が持っているこの貧困は、イエス・キリスト様の命が引き払われたことを、私たちは覚えていただきたいのです。
また続いて、ローマ仏の手紙8書32節を見てみたいと思います。一緒に読みたいと思いますね。
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3.私たちすべてのために、ご自分の御幸さえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御幸と一緒にすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
イエス・キリスト様の命を惜しまずに死に渡された神様が、どうして御幸と一緒にすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。
3.私たちすべてのために、ご自分の御幸さえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御幸と一緒にすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。
3.私たちすべてのために、ご自分の御幸さえ惜しまずに死に渡された神様が、どうして御幸と一緒にすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょうか。
聖書を一箇所見てみましょう。ガラテアビトへの手紙3章13節です。
では私たちに書きましょうか。ガラテアビトへの手紙3の13節。
新約聖書366ページですね。
3.キリストは私たちのために呪われたものとなって、私たちを立法の呪いから贖い出してくださいました。なぜなら、気にかけられるものはすべて呪われたものであると書いてあるからです。
3.最初の人間アダムとエヴァが神様の命令を犯してしまった時から、ある意味で人間の悲劇は滅びは罪は呪いは始まったのです。
3.最もひどい悲劇は神様との人格的な恵みと祝福と愛の関係が断し切られたことです。
18:14
3.実はこれが最も恐ろしい呪いであり、悲劇です。それは言うまでもなく罪による呪いです。
3.神様は聖なるお方であられまして、私たちは穢れた罪人です。ですから聖なる神様が罪人と一緒にいることはしない。
3.まずあるを持たない。実はこれが最も大きな呪いであり、悲劇です。
ところがイエス様の十字架は我々と神にあるその間にあるその罪によるそのぼろいを取り除いてくださいました。
そして私たちは幅変わることなく大胆に神の御座に近づくことができるようになった。
では一箇所見てみましょう。エペソビトへの手紙、第2章13節から16節。
13、14節を私が読みますね。15節、16節を一緒に読みたいと思います。13節から読みます。
しかし以前は遠く離れていたあなた方も、今ではキリストイエスの中にあることにより、キリストの地によって近いものとされた。遠いものが近いものにされました。
14節、キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、その次から三回、御自分の肉において、
聖人は様々な規制から成り立っている今姫の立法なのです。このことは、二つのものを御自身において、新しい一人の人に作り上げて平和を実現するためであり、
あなた両者を一つの体として十字架によって神と和解させるためなのです。敵は十字架によって葬りさられまった。
この最後の16節が大事なのです。これは実は福音です。神様と私たちの間には罪による敵意がありました。愛がなくなってしまって、
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まるで夫婦喧嘩をしたら、一晩とか一週間とか一年とか、何の会話もなく、何の部屋も別々に使ったり、あるいは別居したりして、その中に何があるのですか。
敵意がある。まるで神様と私たちの間に敵意があって、神様と一緒にすることができない。話し合うこともできない。愛し合うこともできない。
その敵意を、イエス様が十字架に架けられまして、それを取り除いて下さいまして、神様と和解させて下さったのです。
それがイエス・キリストの十字架の儚いの恵みなんです。ですから誰でもイエス・キリストを信じれば、イエス様の十字架のあの位相によって、
罪許され、神の愛される子供になり、裸ることなく大胆に神の溝に近づくことができる。
そしてその世の人々を主が義と認めて下さい。すべての呪いから贖われる恵みは十字架の恵みなんですね。
4番目、イエス様の十字架はイエス様の十字架についていく人々の模範標準になります。
せっかく見せてみましょう。
この御言葉を覚えていただきたいですね。
一緒に読みたいと思います。
皆さん、イエス様が十字架の意味が何なのか、御言葉に明らかにして下さったんですね。
誰でも私についてきたいと思うなら、我々はイエス様についています。
ついてきました、今までね、皆さん。ある方は10年、ある方は40年、ある方は50年、ある方は60年、70年であらかましております。
ついてきたいのか、そうするならば、自分を捨てること、己を捨てること、古い義我を捨てることなんですね。
そして、自分の十字架を追うこと、そして私についてきなさいというメッセージを、私は御言葉通りに受け止めさせていただきます。
そして、この通りに行わなければ。
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イエス様が模範を示してくださったんですね。
進行はこんなものですよ。キリストについていくことはこんなものですよ。と、模範を、標準を示してくださったんですね。
例えば皆さん、主定楽家が歌を習うときに、自分の恩師の教授から習うわけなんですよね。
そしたら、コーンはこう立ちますよ。あるいは、ベースはこうするんですよ。歌はこういう風に歌うんですよ。
体はこうしなさい。正体はこうしなさい。頭はこうしなさい。と、模範を教えてくるんですね。
そしたら、その弟・弟子はその恩師先生通りに真似をして、自分もそれぐらいになるか、その恩師よりはるかに素晴らしい成果になるわけなんです。
標準を、模範をイエス様が示してくださった。
そしたら、私たちもその標準に達する日まで、今は立っていないかもしれません。立ちにいなくても、イエス様を包み込んでくださり、ゆるってくださり、愛してくださるんですね。
しかし、ずっとありのままではいけないと思う。ありのままから一歩一歩成として、時には十歩ですね、成として成熟して、イエス様の品種に、あの標準、模範にまで至ること。
それが実は信仰ではないでしょうか、皆さん。
皆さん、イエス様の品種という信仰は、自分をして、自分の十字架を追い、そしてついていくこと。
それを嫌々しながらじゃなくて、強いられるんじゃなくて、喜びを持って自ら進んで十字架を背負って歩むことが実は信仰なんです。
聖書1ヶ所を見てみましょう。テセーロの手紙、第1、2の21節です。
画面にありますので、一緒に読みたいと思います。
3、あなた方が召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなた方のために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなた方に模範を残されました。
イエス様が模範を残されているんですね。何ですか。
イエス様が我々のために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、模範を示されました。
27:07
皆さん、十字架の道は、苦しみを受け、柔軟の道なのです。
無条件的にですね、栄光の出世の幸福の金持ちになる、そういうポジティブチンキンを教えるところではありません。
教会に、あるいは信徒に、あるいは聖書にですね、十字架のメッセージがなくなる。
善悪のメッセージがなくなる。
そして、幸せになることを教え、あるいは成功することを教え、祝福ばかりですね、教えること。
そうして実は、イエス・キリストの十字架がなくなってしまう。
何より、イエス様が、神様が悲しんでおられることではないでしょうか。
では、十字架の道、十字架を背負うことは、どんなもんなんでしょうか。
常について、二つあるいは三つをですね、ともにお話しさせて教えていただければと、
私たちもイエス様の足跡について従っていきたいと、質に願わされるものであります。
まず第一は、十字架の道は従順の道です。
ローマ理想の手紙5章19節を見てみましょう。
この御言葉は、聖書ですね。
旧約からもう目標とまで、聖書全体を貫いている、とても大事な一つの御言葉なんですね。
一つ読みませんか。
すなわち、ちょうど一人の人の不従順によって、多くの人が罪人とされたのと同様に、一人の従順によって多くの人が義人とされたのです。
この前の一人の人の不従順は、アダムの不従順を指しています。
あとの一人の従順によって多くの人が義人とされた、この一人はイエス様を殺しているんですね。
皆さん、十字架の道は従順の道です。
宗教とは従順なんです、実は。
神の御言葉に従順すること、従うこと。
従い、安かったら従う。
やらたら拒む。
難しかったら適当にする。
30:02
それは従順ではありません。
皆さん、信仰は道徳でも倫理でもないです。
我々の信仰は、イエス様が模範を示してくださった、あの十字架の従順を私も歩むことです。
それが従順であり、それが信仰なんです。
さっきのローマ語著十九節の御言葉のように、不従順はソタンが与える思いであり、従順は聖霊様が与えられる思いであります。
アダムとエヴァは不従順のゆえに神様に逆らいました。
そしてアダムとエヴァの不従順によって、全ての人類に自分自身も含めて呪いと死を招いてしまったことを覚えていただきたい。
しかしイエス様のあの十字架の従順は、全ての人を生かす祝福になりました。
コメを読む皆さん、アダムとイエス様から教えられる重要な真理は、従順は祝福を生み出し、不従順は呪いを、滅びを生み出すことです。
神の御言葉に、イエス様も平成まで経っていく、自分の追うべきそれぞれの十字架を背負って歩む生徒になりたいと願っております。
二つ目、十字架の道は許しの道です。
今でもまた十字架は許しなんですね。
罪人であった我々を許して下さい。罪の渡先自身も許して下さいました。
あなたには罪がない。裁判上で判決を下して下さいました。
十字架は全く許しなんです。
ですから十字架の道を歩む人は、ただ悲しいなだけではなく、許す人になることです。
許しの道を歩むことです。
受難所を過ごしながら御言葉を読んだり、祈ったり、賛美したりすることも重要でしょうが、
その意味で最も重要なことは、十字架の許しを自分が受け止めて、自分も許しの人になることではないでしょうか。
33:02
心から許す。
イエス様が私たちを許して下さったように心から、あるいは兄弟姉妹を許すことです。
この許しがなければ、真の礼拝はそこにはございません。
もしも皆さんが心の中に一時期ではなく、何かずっと心の奥底に誰かを許していない、
自分は偉いかのように考えてしまって、他の人を見下げてしまって、心から受け入れていない、
そういう心のわだかまりが、もしも許していないわだかまりがありますならば、
それを主の御前に食い集めなければ。
許しのないところには十字架の道もないのです。
家庭の中に、教会の中に、いや皆さん一人一人の魂の中に、
許しの川があふれなわれなければ、そこには恵みもないのです。
許しのない礼拝、許しのない賛美、許しのない祈りはある意味で、むなしいことであります。
十字架は全く許しません。
皆さん、許してください。
イエス様が私たちに一人一人を許されたように、許してください。
イエス様が死をもって私たちを許してくださったならば、
私たちは心から許すことを、死ぬほど一千万倍は優しいことではないでしょうか。
イエス様は我々を許してください。
三つ目、十字架の道は死の道です。死ぬことです。
皆さん、イエス様は十字架で完全に亡くなられたんですよ。
死んだふりをされたわけではないんです。
死にかけた、死にそうだったわけでもないんですね。半分殺しでもないんですよ。
全く死なれました。葬られました。
我々もキリストと共に死ななければなりません。
実はこれが十字架の信仰なんですね、皆さん。
36:01
御言葉を見ましょう。
ガラセガビトの手紙2章20セクションのところです。
いくつに読みましょうか。
ご一緒に。
三杯、私はキリストと共に十字架に付けられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
皆さん、最初の一つの文章、御言葉は、
私はキリストと共に十字架に付けられました、とあるんですね。
皆さん、十字架に付けられましたか?
私だけの古い自我は十字架に付けられて完全に死にましたか?
もしも古い自我がまだ生きていて、
自分の欲がまだ生きていて、
あるいは自己中心的な生き様がまだ生きていて、
神様にも人にも従わない不自由がまだ生きているならば、
実は私たちはまだ十字架で死んでいないのです。
十字架で死ななければ死なない。
十字架で死ななければ、堅くなままになるでしょう。
死ななければ生きどおるでしょう。
死ななければ不受順になるでしょう。
死ななければ天使しないのでしょう。
皆さん、洗礼、バッテスマは何でしょうか?
十字架でイエス様と共に死ぬことなんですね。
これが洗礼なんですね。
日本で言うと手綺麗をするんですけれども、
洗礼をする教法もあるんですね。
確かに意味があると思うんですね。
この川とかあるいは水に浸かって、
死んで、そして死ぬともに生きること。
ですから死ぬことというものは、
39:00
日々十字架の身元に来て死ぬことなんです。
死ななければよみがえりもない。
日本の罪に私が関わりを持って教えられた、
むずかしい言葉の一つ、
作殺という言葉を皆さん好みかもしれませんけれども、
パソコンで打ってもその作殺が感じられないほどの言葉なんですけれども、
砕かれることですね。
古い自我を、その貪欲を、
罪の性質を、不従順のその気質を、
頑固なところを、十字架の恵みによって、
あの十字架の力によって砕かれる、
託させられること、それが十字架の道なんですね。
十字架に、十字架の下で日々砕かれる、
死んだ人は従順の人になります。
わけならば皆さん、
死んだ人は頑固でありません。
死んだ人は怒りません。
死んだ人には貪欲なんてありません。
死んだ人には値段に、金に、
そういったもの、ないです。
死んだ人は、ああ、傷すぎた、そんなこともありません。
死んだ人は稽古も犯行もしないんですね。
ただ従順だけがあるわけなんです。
ですから十字架で死んだ人は、
神の御言葉のままに動かされる。
もしも我々の中に、
まだまだ頑固さが残っているならば、
我々は十字架で死に、死ななければなりません。
我々の中に、
もしもまだ不十分が残っているならば、
十字架で死に、死ななければなりません。
もし生きどりがまだまだ残っているならば、
十字架で死ななければなりません。
もし心の傷がまだまだ残っているならば、
十字架で死ななければなりません。
死なないと生きられない、
この十字架の恵みを覚えていただきたい。
もはや私は、
稽古とともに十字架につけられた。
生きているのが私ではなく、
キリストである、
42:01
この信仰を、
我々が歩んでいきたいと、
そう願っております。
お祈りいたします。