00:01
お願い申し上げます。
こんな、しだがの人間でございますけれども、また呼んでいただきまして、ここで御用させていただきますことを、本当に幸せに思っております。
神様の憐れみと恵み、そして皆さん方の御恩情によることを覚えて感謝しております。
どうか働いた努めが全うできますように、祈り支援してくださいますように、一言お祈りします。
御慈愛深い天皇賜なる神様、尊い皆と御恩情を拝め、いさかな恵みを中心より感謝いたします。
すみました一週間、気候不順のおりでございますが、守っていただきありがとうございました。
今日から新しい一週間となりますが、まずはじめの日、教会にこうしてお集めください。
感謝を捧げ、賛美を捧げ、また祈りをし、御言葉を聞いて出発させてくださるから感謝します。
このイヤナ様は私の外なる人にも安息を与え、また新しく強めてくださいますが、
特に内なる人を強めてくださいまして、救われたことを喜び感謝しながら、
寝ておさって、今週も昇るものとしてくださるからありがとうございます。
どうぞ御精霊様、特にこの小さい者をお助けくださいまして、御精霊様が言葉をもって、私たちの中に御業を行ってくださいますように。
やむを得ず同席できなかった形勢の上にも、師の御守り、また良き導きをお願いします。
下げられましたお祈りに合わせまして一言、感謝する皆によってお祈りします。
アーメン
読んでいただきました、又に復元書16章の13節から終わりまで、ここから説教させていただくのですが、
私が持ってきました聖書は口語訳ですので、ちょっと違いますけれども、御理解ください。
イエス様の後生涯、イエス様が救い主として御押しくださった御生涯は3年半と言われておりますけれども、その後半は弟子教育に力を入れられたと言われております。
03:00
大事なことをおっしゃる。弟子たちがそれをどれくらい受け止め、理解しているかテストするようにして弟子を御導きになりました。
実はここもそういうところですが、イエス様が弟子に求められたこと、今も求めておられることを教えられますが、3つあります。
その第一は13節から20節というところですが、健全な信仰告白をお求めになりました。
先ほど読んでおきましたので、もう一度読むことを控えますが、イエス様は御自分について世間の人々の見方を聞かれ、次に弟子たちに問われました。
その時、世間の人はバブテスマのイオハネの再来だとか、アリア預言者の一人だとか、いろいろ言っていますよと。
けれどもペテオがあなたこそ生きる神の子キリストですと申し上げて、イエス様を喜ばせしました。
この言葉は今も同じでありまして、世間の人が言うところは皆さんもよく知っていらっしゃる通り、三聖人の一人でいらっしゃるとかね、
キリスト教の教祖でいらっしゃるでしょう、というような具合で、キリスト様について世間の人は正しいことがわかっていません。
私たちはペテオの要望に告白していきたいんですけれども、ここに大切なことが記されています。
ちょっと見てください、16・17。
またよく見ると、16章の16。
諮問ペテオが答えて言った、あなたこそ生きる神の子キリストです。
するとイエスは彼に向かって言われた、悪いような諮問、あなたは幸いである。
あなたにこのことを表したのは鉄肉ではなく、天にいます私の父である。
この信仰告白、イエスはキリストであるという。
今人間となってこの世に来ておられるけれども、ご本性は神様である。
なぜ神が人間となっておられるのか、それは冷たい私たちを拭うためで、そのためには十字架にまでおこかれになります。
そして私たちの罪の身代わりとなって、神の前に罪を処理してくださると、私たち信じる者は救われる。
イエスキリストはそのために来てくださっておるという、そういうことでございますが、
06:06
ここに書いてありますように、17説。
するとイエスは彼に向かって言われた、悪いような諮問、あなたは幸いである。
幸いというのは、イエスをキリストと信じる者は救われるということですね。
この信仰告白、すなわちイエスはキリストと信じる者は幸いというのは救われるということですが、それは神の御業です。
18説も読みますと、そこで私もあなたに言う、あなたはペトロである。
そして私はこの岩の上に私の教会を建てよう。
余命の力もそれに打ち勝つことはない。
それまでなかった教会が新しくできるのですけれども、教会を生み出すお方、教会をお建てになるお方はイエス様であられ、教会はイエスはキリストである。
この信仰告白の上に立っておるということですね。
そして19説を読むと、私はあなたに天国の鍵を授けよう。
そしてあなたが地上で繋ぐことは天でも繋がれ、あなたが地上で解くことは天でも繋がれるであろう。
人間の永遠の運命を決める鍵、つまり救われて神の国に入れてもらえるか。
永遠の滅ぼしに落とされるか。
人間の永遠の運命を決める鍵は教会に与えられている。
教会の存在の使命といい責任ということですね。
これを今逆順で申しますとこういうふうになります。
教会の使命は福音の宣教明しと、
それを信じて救われた人を養え育てる、これは教会ですね。
そして天国に送るということですが、
この救いに預かった人が一番幸せとなると伝道、救励に努めるということですが、
人の救いは精霊の御業です。
祈りが大切になるということですね。
大事なことですので持って申しますと、
教会の使命は福音の宣教と明かしをするということ。
それによって救われた人を養え育て、そして天国に送りする。
この救いに預かった人が一番幸せとなると伝道、救励に努めるということですが、
09:06
人の救いは精霊の御業です。
私たちとしては祈りが大切となってまいります。
今は二次施設ではありません。
その時イエスは自分がキリストであることを誰にも言ってはいけないと弟子たちが言いましねられた。
この時はまだイエス様の贖いが完成していませんからね。
イエス様はまだ言ってはいけないとおっしゃったけど、
もう贖いが完成している今日、イエスはキリストであるということをですね、
大胆に積極的に私たちは明かしをして生きて、
祈りつつ福音の宣教を明かしに努めてまいりましょう。
これは信約の教会の使命であり特権であり責任だと思います。
もう皆さんはよくわかっていらっしゃることで復習となりますが、
伝える福音は主キリスト様です。
イエスはキリストであるということを伝えるんですが、
そのイエス様はどんなお方かというと、
信仰告白ゆえ、人心情をぬると、
先ほどもね、信仰告白しましたけども、
皆さん、基地なる神については、
天地の作りの神、全能の基地なる神を信ずですね、
聖霊様については、我は聖霊を信ずと、
それだけですよ。長い人心情は、
ほとんどイエス様のことについて言われてますけども、
皆さん、イエス様をどう信じるかによって、
救いか、あるいは救われないか決まりますが、
この信仰告白の通りに告白する人は、
皆救われます。そして神のことされて、
教会生活をして、時が来たら手にあげられるというね、
一番幸いな人と知られます。
ちょっと余談になりますけども、
時々エオバの証人なんていう人がですね、
直接エオバの証人と言うと断られるので、
私クリスチャンですよなんてね、
言われてくる人がおりますけども、
もし皆さんがそういう人に会った時に、
じゃああんたこの信仰告白、これ信じる?
そしてその人が、私この通り信じますと言ったら、
じゃあ何もエオバの証人に関わって、
余談に気をかけて一緒に出会ったらいいじゃないですか、
そういったらいいでしょう。
けどもこの通り信仰告白できない者が
異端とされるというのは大事なことですけども、
イエス様をよく知る、イエス様をよく存じ上げ、
12:00
そして救われたことを喜び感謝、
今度は一生イエス様のことを伝える、
イエス様は弟子にこのことを求めておられる、
いいですね、イエス様をよく知る、
そしてイエス様を信じて救われたことを
いつも喜び感謝しておる、
何とか一人も多くの方がこの救いに入ってほしいと、
そして伝導する、証しする、
イエス様はこのことを私たちにも求めておられるということです。
福縁宣教と求霊、そして良い皇帝づくりにこれからも
努めていきましょう、努めてください、
お願いしましょう。
それでは二つ目のことは、
21節から23節ですが、
この時からイエス・エリヒトは自分が必ずエルサレムに行き、
長老・最秘教・立法学者たちから多くの苦しみを受け、
殺され、そして三日目に蘇るべきことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロはイエスと脇を引き寄せて怒め始め、
主よ、とんでもないことです、そんなことがあるはずはございませんと言った。
イエスは振り返り、ペテロに言われた、
サタンよ引き下がれ、私の邪魔をする者だ、
あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。
二つ目は、人のことより神のことを思うクリスチャンを求めておられます。
イエス様が十字架での死と復活をお語りになったところ、
ペテロはそんなことが起こりませんように、
イエス様の目の上にそんなことが起こらないようにと言いました。
それはイエス様の目の上を心配して、
イエス様を思う心から言ったとともに、
もう一つの言葉は、当時のユデア人は、
メッシア、つまり救い主来たりませば、
ユデアの国をローマの支配から解放して地上、天国にしてくださると、
みんなそういうふうに思い込んで信じておったんです。
次ですね、メッシア、約束の救い主がおいでになったら、
その救い主はユデア民族をローマの支配から解放して、
そしてユデアの国を地上、天国にしてくださると、そう信じておったんです。
ですから聖書のところどころの弟子たちが、
イエス様、天国で誰が一番偉いんですかと、何でも聞いておる。
その時に天国でイエス様が王様、そして王様のそばで偉い人というのは、
15:00
ペテロかな、ヨガネかな、自分たちがそうなるんじゃないかというね、
そういうことを信じておったということ。
あるいはヤコブテファレのお母さんなどは、
イエス様、あなたが国の王様になる時、私の息子たちを無大事に、
最大事にしてやってくださいとお願いしたけどね、
当時のユダヤ人は、メッシアが来られたら、
ユデアをローマの支配から解放して、地上、天国にしてくださると思い込んで、
ヨガネにしてくださった。
ですからイエス様が、私はもう間もなく捕まって、十字架につかれて殺されるなんておっしゃったら、
ペテロは、そんなことはあってはなりませんと、こう言った。
けどもペテロはまだ、イエス様がどう良かったか、十分分かっていなかった。
イエス様が来られたのは、ユデアの国を地上、天国にするのではなく、
十字架にかかって、全ての人の罪の身代わりとなって殺される。
そして神の前に、これであがないができましたとおっしゃる。
天皇ちまう神が、ああでも良かった良かった、これで全ての者を救うことができるとおっしゃってですね、
福音の時代が始まるでしょう。
そして今はもう誰であっても食い改めて、
イエス様の十字架は私のためだったと信じる者は皆救われるという、
恵みの時代、福音の時代が始まっておる、こういうことでございます。
ですからイエス様は、ペペロお光になって、
そしてあなたは神のことを思わないで、人のことを思っているとおっしゃる。
神のご計画は、キリスト様が十字架にかかって死なれること、
十字架による救い、その十字架に生かせまいとする者は、
サタン以外の何者でもないと、こういうことになるんですが、
急に話が落ちると申し訳ないですけれども、
私の息子が中学生の頃、あるいは大学に行った時のことをちょっと話させてください。
中学2、3年、今から37、8年ぐらい前かな、
礼拝に出ておりましたけどね、中学生として。
その頃、こういうカセットテープというのが流行って、
そしていろんな僕の説教を収録してきて、
また自分の家でラジオにかけて聞くということが流行っていたんですが、
一人の姉妹が、礼拝が終わるともう待ちかねたように、
5本、6本のテープを持ってきておられて、
そしてこれ本田先生の説教いいですよ、聞きなさい、
これ服部先生の説教いいよ、聞きなさいと言ってね、
毎週配って歩いているんですね。
18:02
ある時、昼ご飯を一緒にしていたら息子が、
お父さん、僕な、礼拝が終わるとすぐにテープを配る、
あの人あまり好きと違うね、好きと違うということは嫌いだよ、
あの人あまり好きと違うね、とこう言いました。
あの人あまり好きと違うね、とこう言いました。
むしろ察してね、息子にしたら、
さとり先生、本田先生の説教もいいけれども、
親父の方がいいと言ってほしいと、
それが息子の気持ちですね。
そういう息子でしたが、
高校、そして大学に入れてもらって、
大学を私が東京の教会に生かしてですね、
そして企画の教会で教会生活をするようになったんですけれども、
今度は息子が帰ってくるたびに、
有名な先生の説教のテープを、
なんか配るようになりましたが、
もう一つのこと、
それは彼が大学の3年ぐらいだったかな、
春休みに帰ってきて、ある土曜日、
一緒に親子でご飯を食べて、
その時に玄関に人がいらっしゃってね、
家内が大田に出たんです。
帰ってくる私が、
どなた?どんなようだった?
言って聞いたらね、
若い姉妹が、
明日は付き合いを仕掛けた男性とデートするので、
出会いに出られんというか、
出会いは休ませてほしいと、失礼しますというね、
そういうことだったと。
じゃあまた、その次はまた休まんといらっしゃいね、
という家内が別れたという、
そういう話なんです。
それで終わるかと思っておったらね、
息子が言い出したんです。
お母さん、
なんでね、
そんな邪魔、
なんていうか、
来週また休まんと来てね、
なんて別れるんですか。
クリスタンが、
聖術礼拝を守るということは、
非常に大事なことでしょ。
その礼拝をね、休んで、
そして付き合い始めた若い男と一緒にデートに行くなんて、
なんていうことじゃ。
デートはその後、
まず礼拝を守りなさい。
その後で来たらいいという風に、
そういう風に指導者がいかんと違うか、
まあ言うからね、
私はまあまあそう言わんといて、
息子を抑えようとしたんですけど、
そうしたら息子は下に向かってね、
お父さん、
クリスタンが、
聖術の礼拝を守るということは、
とても大切なことだと。
出られない事情がない限り、
礼拝を守るというのはね、
信者として当然のことだと。
それをデートに行くから休むなんてね、
21:00
そんなことを許すな。
デートは明日にしなさいと。
デートは明日にしなさいと。
礼拝が好きだ。
それでもうあなたと付き合わんと言うなら、
もうその男とは付き合わんでよろしい。
こういう風にね、
なんで導かんのかと息子が言い出した。
私はまだまって聞いて、
うーんと言ってたんだけど、
ほっと顔を見たら、
息子は目から涙を流して、
私に言うと、
どうしてお父さんはそんな導き方をしてるから、
大きな教会の僕に出してもらわれへんのや、
と言うてですね、
まあもう私も返す言葉がなくて、
黙っておったんですけども、
皆さん、
もう立ってらっしゃると思うんですけどね、
親を思う気持ちが分かりますけども、
しかし人間的な見方、受け止め方、
しかし主が弟子に求められるのは、
人のことより神のことを思う信仰で、
そのように訓練されたのが主の弟子である。
皆さんもう一度覚えていただきましょうか。
キリスト信者は念情より神の御心、
神の御計画を大切にするのだと。
念情で動くと人間的肉的になる。
心情で動く、
信仰的霊的なクリスチャンにしていただきたい。
イエス様は人生の中に起こるいろんな問題を、
神の側から見れる人、
神の目で判断また識別できる人、
そういう弟子を求めておいでになるのです。
いつまでたっても人間的で叱られるようにしたいものですが、
ペテロもペンテコステの後はですね、
一両で書いてあるように、
人に従うよりは神に従うべきであると言いましたね。
私たちも言う言葉をよく聞きましょう。
またよく聞いているものとして、
いろんな判断、それは神の側からするということですね。
そして神様がお示しになったことには、
自分としてはちょっとつらいなと思ってもですね、
従う。
日曜日の朝の礼拝を差し置いて礼と、
それが従い神ということになれば、
それには従うということです。
ちょっと話が脱線しますけれども、
息子が行っている教会、
東京の生き残った教会、
ちょうど同じ時ですけれども、
一人の姉妹がおられたのです。
若い女子の姉妹が。
誰が見ても、
惹かれる良い姉妹だったそうですが、
24:02
職場で一人の若者が、青年がですね、
その女の人にちょっと惹かれて、
そして、結婚してほしいというようなことを言ったのですけれども、
東大を出て、そして富士通で仕事をしている若者だったということですけれども、
その姉妹が、私はクリスタンで、
もし私と結婚したいとおっしゃるならば、
あなたは教会に来てください。
そしてイエス様を信じてクリスタンになってください。
そうしたら私は結婚しますと、こういうふうに言われた。
そうしたらその若者が来たちなんですよ。
そして何回も来て、とうとう福音が渡って、
信じて救われたんですけれども、
なんと、この兄弟、せっかく新しい働き場である富士通を辞めて、
そして忍びしびに従って東南アジアに進教に行くという、
そういう夫婦となったんですよ。
そういうのを見ておったからでしょう、息子は余計にですね、
やっぱり、ここに書いてある、
人のことを思わないで、神のことを思う。
神様はどうすることを喜んでくださるか、
どうすることを求めておいでになるかということをね、
いつも気にするとこういうことでしょうか。
どうか、人生の中に起こるいろんな問題を、
神の側から見ることができる人、判断できる、
そういう弟子としていただきたい。
間違っても、あなたは神のことを思わないで、
人のことを思っていると、お叱りを受けることがないようにしたいと思います。
それでは3つ目、24節から終わりですけれども、
十字架を覆って従うものを求めておられます。
24節からね、
それからイエスとは弟子たちに言われた。
誰でも私についていきたいと思うなら、
自分を捨て、自分の十字架を覆って私にさらってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、
私のために自分の命を失う者はそれを見出してあろう。
イエス様は、やがて十字架にお付きになる。
そして、人間の罪の贖いを完成してくださいますが、
復活、天にお返しになる。
聖霊が来てくださいましたね。
そして福音選挙ということが全世界に向かって展開される。
福音が全世界に述べ伝えられる。
27:02
そして救われる人ができて、教会が作られていくという、
福音選挙と、教会時代、新しい教会が出来上がるというね、
そういうことをイエス様はちゃんと予知、予見しておられましたが、
それは喜んで十字架を覆う出先によってできるんだと言われました。
ここで十字架についてちょっと申しますと、それは運命とは違います。
もし来てくださったら、ご容赦願いいたいんですけれども、
時々クリスチャンの中にも障害者という方がおいでになります。
またそういう子供を持つ親もおられます。
そして、初中がないですけどね、何かのそういう交わる時には、
十字架ですわーとおっしゃるのをね、私は否定しません。
けどここで皆さんと一人確認しておきたいことは、
皆さん、十字架は運命とは違います。
境遇の悪いことが十字架ではありません。
何となれば、運命は選ぶことができません。
選び取ることが、まあ選びて、自分で取ったり捨てたりすることができません。
けど十字架は取ることもできれば避けることもできるというね、
十字架は取ることもできれば拒むこともできるという。
そして皆さん弟子達、つまりクリスチャンがどれも誰もがですね、
みんな十字架をこういうふうに拒否したら、避けたら、
死の業は進まないということです。
喜んで十字架を追って、そして死のため福音のために放出する人を追ってこそ、
福音は広がっていくと、こういうことですね。
ですからイエス様は十字架を追って従う者をお求めになっておると、こういうことでございます。
ちょっと年寄りは、おまけにまた古い話をするということですが、
もうしらがに免じてね、許していただきたいんですが、
ちょっとプリントしているものを読ませてもらいますよ。
ここであるキリスト教徒とある法華経信者の話を紹介する。
そのキリスト教徒は斎藤壮次郎という人です。
彼は1877年岩手県花巻でお寺の産卵として生まれた。
そして15歳の時、ある人の養子となり斎藤家の人となったと。
彼は小学校の先生となり、いじゆいは国際記事に傾くのですが、
30:06
やがて太ったきっかけで宇治村勘蔵の書書に出会い、聖書を読むようになりました。
1900年、信仰告白をし、宣伝を受けてクリスチャン、花町の地で第一号のクリスチャンです。
しかしこれは、キリスト教がまだ野荘教、国族などと呼ばれて、人々から激しい迫害を受けている時のことです。
宣伝を受けたその日から、彼に対する迫害が強くなりました。
親からは感動される。
以後、生家、生まれた家に一歩たりとも入ることは禁じられる。
町を歩いていると、野荘野荘とあざけられ、何度も息を投げられた。
それでも彼は神を信じた喜びにあふれて信仰を貫いていました。
しかし、言われのない急増が相次ぎ、ついに彼は小学校の教師を辞めなければならない羽目になってしまう。
また迫害は彼だけに留まらず、家族にまでも及んだ。
長女の愛子ちゃんはある日、国粹主義思想を高まる中、野荘の子供と言われて腹を蹴られ腹膜炎を起こし、
何日か後、わずか九歳という若さで天国に帰っていきました。
その葬儀の席上、参陸歌が歌われ、天国の希望の中、平安に彼女を見送りましたが、
愛する子をこのような言われなきことで失った斉藤宗一郎の内なる心情は、さっそくに余りあります。
彼はその後、新聞配達をして生計を立てる。
朝三時に起き、来たら着くたびに何度も駅に新聞を取りに行き、配達するという生活。
重労働の中、彼は肺結核を患い、幾度か発血した。
それでも毎朝三時に起きて、夜九時まで働くという生活を続けました。
その後の夜の時間は、聖書を読み、祈るときとしました。
不思議なことに、このような激しい生活が二十年も続きましたが、体は鍛えられました。
朝の仕事が終わる頃、雪が積もると、彼は正午後への通路の雪かきをして道をつける。
小さい子供を見ると、抱っこして校門まで走る。
彼は雨の日も風の日も雪の日も休むことなく、地域の人々のために働き続けた。
自分の子供を決定しなせた子供たちのために。
新聞配達の帰りには病人を見舞い励まし、慰めた。
やがて一九二六年、住み慣れたその故郷を離れ、彼が東京に移る日がやってきました。
花巻の地を離れるその日、誰も見送りに来てくれないだろうと思って彼は駅に行きました。
33:02
ところがあそこには、町長をはじめ町の有力者たち、学校の教師、またたくさんの生徒が見送りに来てくれているではありませんか。
神社の勧誘師もいました、仏教の僧侶もいました、さらに他の一般の人たちも来て、町中の人々でごったらしていたのです。
斉藤総二郎が普段からしてくれていたことを彼らは見ていたのです。
彼らは感謝を表しにやってきていました。
身動きできないほどの多くの人々が見送りに来てくれたのです。
その中の一人に宮沢賢治がいました。
宮沢賢治はその5年後、有名な雨にも負けず、風にも負けずの詩を作りました。
この詩は最後は、そういうものに私はなりたいという言葉で締めくくられています。
雨にも負けず、風にも負けず、雪にも、夏の暑さにも負けず、丈夫な体を持ち、決して怒らず、いつも静かに笑っている。
1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ、あらゆることを自分を感情に揺れずに、よく寝聞きし、そして怒らず、野原の松の林の陰に小さな荒吹きの小屋にいて、
昼足に病気の子供があれば行って看病してやり、
日に疲れた母があれば行ってその稲の束を追い、
南に死にそうな人があれば行って怖がらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言い、
自然の時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなにレクノボーと呼ばれ、褒められもせず苦にもされず、
そういうものに私はなりたい。
古い証を持ち出しましたけれども、お分かりいただけましたか。
イエス様がね、喜んで十字架を覆って、私に従って聞きほしいとおっしゃった。
そういう人がいないと福音は広まらないと言う。
みんなが十字架がしんどいからいてね、避けたり拒んだら、せっかくの福音は広まらない。
けれどもどうですか、この斉藤宗一郎さんが喜んで十字架を覆って主にお使いなさった。
そして地域の人々にお使いなさった。
その結果、花巻には福音が広まった。
そして大きな教会はできたということですけれども、
二年内に初めてクリスチャンになって、
そうしたから伝道しようとする人、明かしをする人はご苦労なかったと思いますね。
そういうことを知ってほしいと思ってね、こういうことをちょっと読ませていただいたんですけれども。
36:04
皆さん、本当にそういう明治、大正、昭和の初期ぐらい、日本のあちこちでですね、
救われてクリスチャンになった。
そして人にも多くの人が救われるようにと伝道する人が、みんなご苦労なかったんです。
そういう方々が辛いから、しんどいから十字架を拒んで、
そして自分の本位の生活を習ったとしたならば、
キリスト教が日本にあまり広まらなかったと思います。
けれどもこういう方々、先輩がおられたからですね、
日本のあちこちでキリスト教が広まった。
キリスト教は何者なの?いや、いいもんや。
キリスト教は悪いものと違うよ。あんなにいいものがあるか。
途中でね、みんなキリスト教を受け入れるようになったんですね、日本で。
そして伝道が進んで、あちこちに教会ができていったんですけれども。
まあ、そういうことを思うとですね、
今の私たちは、初代の人、あるいは二代、三代目ぐらいの人のね、
ご苦労はあまりないかもわかりませんけれども、苦労はないかもわかりませんが、
やっぱりイエス様は今も、誰でも私についていきたいと思うならば、
自分を捨て、自分の自由化を覆って、私に支えらせてきてほしいと、応募になります。
もう話が終わりますけれども、
兄弟、最東京、総治堂兄弟が京都に行くときに、
多くの人が集まったというところを読むと、私はここを思いましたね。
二十七節ですね。
人の子は、父の栄光の日に、御使い達を従えてくるが、
その時には、十歳の行いに応じて、それぞれに報えるであろう。
才能も時間も富も、自分のためには使ったが、
神のため、教会のためには使わなかったというものには、
栄光の日なんにもないでしょう。
イエス様が私たちクリスチャーに求めておられること、
そしてイエス様が喜んでくださることは何かということをよく学んで、
心に留めて、そこを目当てに励んでいきたいと思いますが、
皆さんもよく知っていらっしゃるというか、名前はよくご存知と思いますが、
バックストンという先生、英国から降り上がった宣教師さん、
バックストンという方が、当時の信者さんたちに、御弟子さんたちによくおっしゃったことはそうです。
それは、英語はよく知らないけれど、
カベット・ザ・クラスということで、十字架を結ばれということをね、
バックストン先生がよくおっしゃったそうですね。
39:01
集まっている信者さんたちや、また僕たちにね、
十字架を結ばれ、十字架を結ばれと、よくおっしゃったそうです。
十字架というのは、害が欲を殺し、神には信頼と服従、他者には善意と思いやりで生きること。いいですか。
十字架を覆うというのは、害が欲、自分のわがまま、自分の欲望は殺し、十字架につけて下さず、
神には信頼と服従、周りの人には善意と思いやりで生きること、
他者には恨大、自分には厳しく生きること、などが言われますが、
それこそ、古い私、憎と言われる自我は十字架につけて下さない。
そして、キリスト、我が伝えていくるなりで、キリスト中心でありましていただきましょうか。
恩師は、己をして日々我に従え、十字架を覆って日々我に従え、というところを、日々もだけど時々刻々だ、ということをおっしゃった。
時々刻々、十字架を覆って私に従え、と言われたということですね。
一つ、害が欲はもう殺して、本当にキリスト、我が伝えていくるなりで、
イエス様の心を豪走して、イエス様の足跡を従していただきたい。
お祈りをいたしましょう。