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2023-12-24 32:01

「悔い改めとゆるしのクリスマスを」2023年12月24日(日)のメッセージ

東京ぶどうの木教会 2023年12月24日(日)主日礼拝のメッセージです。
牧師:アブラハム黄
▼教会へのお問い合わせ:tokyo.vine.church@gmail.com
▼メッセージの自動文字起こしはこちら
https://listen.style/p/tokyovinechurch/

ヨハネ-12 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

サマリー

本日は、クリスマス礼拝のメッセージとして、「悔い改めとゆるしのクリスマスを。」という題を掲げて、メッセージをお伝えいたします。クリスマスは、キリスト教の最も重要なお祭りであり、イエス様が悔い改めとゆるしをもたらすためにこの世においでになった意味を知る必要があります。イエス様が十字架でお亡くなりになって、罪やサタンを解決してくださいましたこと、また、イエス様の愛と献身を信じて悔い改めることによって、天国の喜びと永遠の命を得ることができることをお説教します。イエス様の悔い改めと許しのクリスマスを迎えることが重要であり、私たちの罪が許され、救いを受けるために、赦しの行動を理解することが大切です。

00:00
今日は、クリスマス礼拝のメッセージとして、「悔い改めとゆるしのクリスマスを。」という題をもって、メッセージを分かち合いたいと思います。
じゃあ、皆さん、メリークリスマス、クリスマスおめでとうございます。
クリスマスは、キリスト教の一番大きなお祭りと言いましょうか、ファスティバルです。
クリスマスの意味
ところが、皆さん、クリスマスの意味をご存知でしょうか。
じゃあ、クリスマスは、キリスト、プラス、またマスという構成語なんで、このマスということが使わされたという意味、
だから、キリストがメッシャーとして、イエス様がメッシャーとして、この世に使わされたという意味もありますけど、
このマスという単語を、カスリックでは、
ミサという言葉、礼拝という言葉を用いているんです。
ですから、クリスマスは、キリストを礼拝せよ、という意味で、私たちが受け入れることもできます。
ですから、お生まれになったイエス様に、東方からの博士たちが、馬小屋に来て、
黄金、乳黄、持ち訳を用いて、礼拝を捧げる、そのような場面が、聖書に現れるでしょう。
さあ、今、私たちは、キリストが来られた日を記念する意味で、クリスマスを守っているんですけど、
キリストを正しく礼拝するためには、キリストが来られた理由、意味をよく知らなきゃいけないんですけど、
イエス様は、なぜ、この世に来られたんですか?
これは、神様の大きな計画を成し遂げることですけど、その計画とは、
創世記3章で問題になった、人間が善悪の知識の木の実を食べて、罪を犯して、神様から離れたという問題を解決して来られました。
具体的に申しますと、創世記3章15節の御言葉を成し遂げるために来られたんです。
神様が蛇として現れた悪魔、サタンに、こう言われます。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、私は敵を置く。
彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかどを砕く。
悪魔、サタンが、イエス様にかかどを砕くということは、十字架の事件を意味します。
しかし、イエス様は、この悪魔、サタンの頭を砕く。
頭を砕く、これは滅ぼすという意味です。
その働きをするため。
また、ヨハネの福音書では、ヨハネ10章10節に、
盗人が来るのは、盗人ということは、悪魔、サタンを意味します。
盗んだり、ほふったり、滅ぼしたりするために他ならない。
私が来たのは、羊が命を受けるため。
しかも、豊かに受けるためであるということです。
また、第一ヨハネ3章8節。
使徒ヨハネは、こう言います。
罪を犯す者は、悪魔に職します。
悪魔は、初めから罪を犯しているからです。
悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。
イエス・キリストが現れたのは、悪魔の働きを滅ぼすために来られた。
このために、イエス・キリストが、お孫やでお生まれになったということで、理解できるでしょう。
人間の罪と問題
ここで、何が問題でしょう。
人間が悪魔の誘惑によって、賃約の知識の木の実を食べる罪を犯すことによって、神様との関係がダメになり、人間が神を離れた問題を解決するために、イエス・キリストが来られたのです。
その時、人間は、賢罪という罪によって、悪魔の奴隷になって、すべて奪われ、殺され、滅ぼされました。
結局、罪によって、悪魔の奴隷、罪の奴隷になって、それによって、過去、現在、また将来のすべての人類が、苦しみを受けられ、また苦しみを受けるしかない状態になっています。
ここで、一番問題は、罪ということです。
皆さん、罪は、3つの種類があることを知っていますか。
まずはじめに、実情の罪です。
もともと、神様、人間、万物、このような実情が、しっかりできていかなければいけないのですが、
あっという間に、罪を犯していった人間は、人間、神様、万物になります。
また、万物、人間、神様として、その実情が、ぐるっと変わったのです。
一言で言えば、上下関係の実情が、崩されてしまったのです。
神様がおられる場所に、人間がいて、これ、何ですか。
これは、自己中心ということです。
神様がおられる場所に、人間がいて、自分が神様みたい。
また、神様がおられる場所に、お金があったり、また、神様の置かれるところに、動物、今日、聖書、羽生物という言葉を使うんですけど、動物を拝んだりします。
これは、とんでもないことでしょう。
また、実情が壊れるところで、必然的についてくることが、関係性の罪です。
では、関係性の罪。
神様との人間の関係が、ダメになりました。
だから、世の中の人々は、神を知りません。
また、神を認めないまま、神から離れて過ごしています。
これは、関係がダメになったということです。
また、人間と人間の関係が、ダメになりました。
人間と人間の関係が、ダメになって、葛藤します。戦います。憎しみます。
そして、みんな、バラバラになって、孤独の中で、うち病になってしまっていく、この世の中。
また、万物と人間の関係が、ダメになって、大自然と非常物を、私たちが支配して統治するべき人間が、むしろ、万物に支配されています。
私、テレビから、
まあ、道端で、インタビューするでしょう。
そこで、ある女性の、女子学生に、アナウンスは、こう聞きます。
あなたが、もし、携帯電話がなくなったら、あなた、どうする?と言って、死にます。
ああ、子供たちはね、携帯がなくなったら、死にます、というほど。
携帯に、完全に、支配されているんです。
それほど、今、世の中の人々は、
今、万物に支配され、神を無視して、この父女が、完全に、ダメになって、関係性が、すべて、ダメになっています。
また、問題は、倫理、道徳的な罪です。
人々が、倫理、道徳的な罪を、もう、勝手に犯して、汚くなりました。
また、快楽を求める、動物みたいになりました。
優しく、不倫し、優しく、離婚し、優しく、再婚し、
結局、イエス様が、再臨なさる時には、
最後の世界は、ノアの時代、これは、不倫の世界です。
子供の世界は、同性愛の世界になる、と言います。
私は、たびたび、YouTubeを通して、
世の中の、まあ、金持ちたちは、どう生きるか、ずっと見てますと、
まあ、中東地方の金持ちたちは、この、高い車を、現金で買うんですね。
たくさんのお金を持って。
その現金で、立派な家を買って、立派な車を持って、
そして、何をするんですか?
この方たちは、もう、立派な、ナイトクローブのコーナーに行って、
そして、快楽を求めます。
まあ、結局、麻薬して、そのように、人がだんだん、ダメになくていくでしょう。
お金を得るために、一生涯働いて、お金を得たら、それを持って、安逸な生活。
快楽を求めるようになります。
お金が、人をそのように、導くんです。
させるんです。
そして、高ぶり、また、派手な生活をしながら、
それを求めて、だんだん、だんだん、生きていって、
結局、人生、身近な、100年の人生を、この快楽を求めながら、生きます。
そして、結局、地獄に行って、最後に、炎の裁きを受けるでしょう。
悪魔の意図は何か?
神の御姿で作られた人間を、徹底的にダメにして、堕落させて、
人間を一番愛する、神様の心を、
神様の心を、苦しめようとする。
この悪魔の働きなんです。
この人間の姿を、聖書、ローマ書は、よくよく表現しているんですね。
少し読んでみましょう。
ローマ書1章20節からです。
世界が作られた時から、目に見えない神の性質、
つまり、神の永遠の力と神性は、非常物に現れており、
これを通して、神を知ることができます。
したがって、彼らには、弁解の余地はありません。
どころが、彼らは、神を知りながらも、
神として崇めることも、感謝することもせず、
かえって、むなしい思いにふきり、
心が鈍く、暗くなったからです。
自分では、知恵があると、ふいちょうしながら、
愚かになり、滅びることがない神の栄光を、
滅び去る人間や、鳥や、獣や、羽生物などに似せた女王を、
取り換えてしまいます。
そこで、神は、彼らが、心の欲望によって、
不潔なことをするところに任せられ、
そのために、彼らは、互いに、
その体を、恥ずかしめました。
男性が男性に、女性が女性と、
恥ずかしい働きをするんだと、聖書は言っています。
そして、聖書は、ローマ3章10節からです。
次のように、書いてある通りです。
正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、誰も彼も、役に立たない者となった。
行う者はいない。ただ、人にもいない。
彼らの喉は、開いた墓のようであり、
彼らの舌は、人を欺き、
その唇は、魔虫の徳がある。
その道には、破滅と悲惨がある。
彼らは、平安の、平和の道を知らない。
彼らの目には、神への恐れがない。
このように、人間は、神から離れて、
神様を認めない世界の中で、
自分なりに偉そうに過ごしています。
それはすべて、人間の現在の属性、
自己中心性、この欲がどれほど強いのか、
それを妨げる、解決する方法は、
世の中にはない。
人間の欲によって、もっともっと楽しく、
もっともっと豊かに、もっともっともっともっと、
世の中でも立派に過ごしたいという欲によって、
人間は前に走っているので、
それをどうすることもできない。
世の中では、そんなことを、
何か止める方法がないということです。
じゃあ、このような人間を、どのように回復して、
初めに、神様が造られた、この初めのところ、
創世記1章、2章の姿で、
取り戻すことができるでしょうか。
そのために、イエス様が、
メシアとして、この世に来られたということです。
ルカ2章、11節。
今日、ダビデの町で、
あなた方のために、救い主が大回りになった、
この方こそ、メシアである、と言います。
ところが、イエス様は、その働きを、
どのように解決しますか。
イエス様の呼び名に、答えがあります。
イエス様は、メシア、キリストというのは、
メシアは、ヘブライ語、
キリストは、キリシア語ですよね。
その意味は、
この、油注がれた、ということです。
じゃあ、ルカは、救い主として、
簡単に表現していますけど、
もともと、この話は、
油注がれた、というのは、
イエス様は、王様であり、
最主張であり、預言者、ということです。
世の中で、王様、最主張、預言者が、
たくさんいますけど、
その人たちは、イエス様が、本体で、
もう、この人たちは、影に過ぎません。
だから、イエス様の働き、
すべてを分けて、
影のように、世の中の人々は、
それを働いている、ところであります。
さあ、ここで、イエス様は、王様だ、ということは、
万王の王として、平和と愛をもって、
統治されることを、意味するんですけど、
聖書は、悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、
神の子が現れた、と言います。
この、世の神と言われる、この悪魔、サタン、
その、悪魔、サタンを滅ぼすために、
イエス様の犠牲と献身
その、悪魔、サタンを滅ぼすために、
イエス様は、来られた、と。
その意味は、イエス様が、王様、
万王の王だ、ということです。
また、イエス様は、最初というのは、
世の中のすべての人の罪を、
許されるお方だ、という意味です。
じゃあ、許されるために、イエス様が、
自ら、十字架を背負って、
全世界、全人類の罪の、
贖うために、イエス様が、
十字架で、死んでくださいました。
ローマ書3章23節、
人は、みんな、罪を犯して、
神の栄光を、受けられなくなったのですが、
ただ、キリスト、イエスによる、
贖いの業を通して、
神の恵みにより、
無償で、祈祷された、と言われます。
じゃあ、ここで、
血の流しがなければ、
罪の赦しが、ありませんけど、
この、血を流す時に、
罪がない人の血が、必要です。
世の中で、罪がない人が、いますか?
旧約聖書では、動物の血を使いました。
なぜなら、動物は、罪がないからです。
人間の中で、罪がない人はいません。
アダムの子孫だったら、
アダムの、現在の罪が、流れるべきですから。
だから、イエス様は、
聖霊によって、身をもって、
それで、マリア、
男を知らない、マリアの体を通して、
お生まれになったのです。
要するに、イエス様は、
最澄して、最澄として、
人類の贖いの御業のために、
この世に来られ、
十字架で死んでくださったのです。
また、イエス様は、預言者という意味は、
ヨハネ14章6節が、よく表現しています。
イエスは言われた、
私は、道であり、真理であり、命である。
私を通らなければ、誰も、
父のもとに行くことができない。
これはもう、そのまま、
預言者という意味です。
このように、イエス様は、
王であり、最澄であり、預言者として、
罪とサタンを解決し、
神様に導く道になるので、
イエス様だけが、救い主になります。
ですから、使徒たちは、どこに行っても、
イエス様の愛と恵みの受け入れ
大胆に、このように宣言します。
マタイ4章、使徒行伝4章12節です。
他の誰によっても、救いは得られません。
私たちが、
救われるべき名は、
天下に、この名のほか、
イエス・キリスト以外に、
人間には、与えられていないのです。
ですから、イエス様は、
クリスト、メシア、救い主であります。
イエス様は、この世に、
十字架を背負うために来られた、
その心の動機は、
ただ、神様の痛い、
御心を解決してあげたいという、
神様に対する愛と、また、
人間たちの苦しみを解決してあげようとする、
人類に対する愛ですけれど、
その愛を、言葉だけではなく、
相手の必要を満たすための、
ご自分の犠牲、
また、積極的な行動によって、
成し遂げられたのです。
ですから、聖書は、こう言われます。
フィリップ2章5節からです。
キリストは、神の身分でありながら、
神と等しいものであることを、
固執しようと思わず、
かえって自分を無にして、
しもべの身分になり、
人間と同じものになられました。
人間の姿で現れ、へり下って、
死にいだるまで、
それも十字架の死にいだるまで、
従順でした。
神様は、このようなイエス様が、
どれほど感謝だったのか、
イエス様の後生涯の中で、
神様が、天から御声で現れます。
これは、私の愛する子、
私の心にかなうもの、
あなた達は、この方の声を聞け、
と言います。
また、皆さん、映画で見たでしょう。
十字架を上から眺めながら、
落ちる涙。
これは、本当に立派に表現したのですけど、
この世の中で、
すべての人の人類の罪を、
あがない、
神様の切なる心を、
解決するために、
十字架で死んでくださる、
このイエス・キリストを見ながら、
父なる神様が、
涙をふっと流されたことを、
考えるときに、
どれほど、どれほど、
イエス様の素晴らしい働きでしょう。
ですから、ピリッポ2章9節から、
こう言います。
このため、神はキリストを高くあげ、
あらゆる名に勝る名を、
お与えになりました。
こうして、天上の者、地上の者、
地下の者、すべて、
イエス様の皆にひざまずき、
すべての人が、
イエス・キリストは主であると、
公に述べて、
父である神を、
たたえるのです、と言います。
大事なのは、
イエス様は、
こんなに犠牲、
献身をされながら、
成し遂げられた、
このキリスト、
救い主の御業を、
これは、
私たちの罪を赦され、
救われ、
生かされる、
回復される、
この働きを、
全部成し遂げたのですけれど、
その働きを、
誰が受け入れることができるか、
ということです。
罪の赦しと救いの条件
今日の聖書、
ヨハネ1章1節、12節には、
言葉は、
自分の民のところに来たが、
民は受け入れなかった。
しかし、
言葉は、
自分を受け入れた人、
その名を信じる人々には、
神の子となる資格を与えた。
この言葉は、
イエス・キリストを意味します。
では、
自分を受け入れること、
また、その名を信じるということは、
どうすることなんでしょう。
イエス様が人間として来られ、
十字架で死んでくださった、
イエス様の犠牲と献身を、
正しく理解したなら、
ただ信じるから、
私は救われたよ、
として、
それから、
自己中心的に生きることではなく、
本当に悟ったとするなら、
二つのことをするようになりますけど、
それは何でしょう。
本当にイエス様の愛と献身、
または恵みを信じて感謝するなら、
十字架のイエス様に委ねて、
自分の罪を悔い改めるでしょう。
イエス様が来られて、
十字架を背負った目的が、
罪と、
罪によって支配している悪魔から、
私たちを救うためですけど、
その始まりは、
悔い改めからです。
悔い改めるなら、
罪を許していただき、
罪を口実として、
吐いてきている悪魔が出てしまい、
それで、
清くなった心に、
聖霊様が来られ、
私の心に、
御国、
神の国が成し遂げられ、
また、
神様との愛の関係が取り戻され、
そこに、
永遠の命、
平安を与えられるはずなんですけど、
私の人生の変化は、
ここからです。
私は、
大学生の宣教団体で、
修練会で、
その間、
私を煩わせて、
しかし、
解決できない、
罪の問題がありました。
その罪の問題を、
何百人の大学生が集まった、
夜の集会で、
私は、
告白しました。
そうしたら、
罪が許され、
天国の喜びを味わったんですけど、
それで、
私は、
この恵みが、
どれほど感謝なのか、
3日間、
泣きました。
その時、
私は、
第一要念1章9節、
この御言葉が、
どれほど、
私の心に打たれたのか、
自分の罪を、
公に言い表すなら、
神は真実で、
正しいお方ですから、
罪を赦し、
あらゆる不義から、
私を清めてくださいます。
私は、
この御言葉が、
本当だということを、
その時、
私は、
体験しました。
また、
その時、
マルコ2章5節、
御用、
あなたの罪が、
許された、
御声が、
聞こえたような、
気がしました。
その時、
私は、
こんなに、
素晴らしい福音を、
伝えるために、
全世界に、
伝えるために、
私は、
使ってください。
その時、
私は、
献身をしました。
私を、
宣教師として、
使ってください。
と言いました。
皆さん、
天国の、
味見をした人は、
もう、
献身するしかない。
私の、
私を、
使ってください。
と、
言うしかない。
そのために、
私たち、
一番大事なのは、
悔い改め。
天国は、
悔い改める人に、
与えられます。
じゃあ、
ここで見てますと、
悔い改めが、
イエス様を、
こられた目的だ、
ということが、
わかります。
じゃあ、
また一つ、
本当に、
イエス様の愛と、
恵みを信じて、
感謝するなら、
イエス様に、
見習って、
自分の、
自分に、
過ちを、
犯す人々を、
赦されるでしょう。
ということです。
イエス様は、
自分を、
暴虐し、
罪を、
かぶさせ、
鞭打ちをし、
また、
十字架に、
かけて、
嘲笑う人々に、
対して、
主よ、
彼らは、
罪を、
赦してください。
自分が、
あったことを、
彼らは、
わかりません。
そのようにして、
全ての人を、
赦されたように、
私たちが、
私たちに、
悪いことした、
また、
負い目のある人たちを、
赦すなら、
神様が、
私たちの心に、
人間関係の葛藤、
様々な痛み、
その全てを、
解決してくださり、
その時、
私たちの心は、
天国になり、
シャローム、
というところが、
成し遂げられるでしょう。
しかし、
私たちに、
悪いことした人たちを、
赦さないなら、
私たちの、
罪を、
赦さないなら、
私たちの、
罪を、
赦さないなら、
私たちの、
罪を、
赦されたことも、
無効になり、
私たちの、
救いが、
おかしくなります。
結局、
赦されない、
私は、
再び、
罪の、
苦しみの中で、
煩わせるように、
悔い改めと許しの重要性
なるでしょう。
ですから、
私たちは、
私が、
生きるために、
他の人が、
私に、
悪いことしたことを、
赦してあげる。
私の、
負い目にある人たちを、
赦してあげることが、
大事です。
そうするなら、
私たちの、
罪を、
私たちは、
赦されること、
救いが、
本当のものに、
なるでしょう。
ですから、
私が、
生きるため、
私が、
楽になるために、
赦してあげなければ、
なりません。
願わくは、
今年、
わずか、
残された、
この時間、
通して、
もし、
私に、
悪いことした人を、
赦されていない人が、
いるなら、
皆さん、
是非とも、
是非とも、
赦して、
あげて、
ください。
なぜ、
赦してあげなきゃ、
いけないのか、
マタイ18章、
32節から、
私たちは、
神様に、
一万ダランと、
もう、
返すことが、
できないほどの、
大きな罪を、
赦して、
もらいました。
しかし、
私たちに、
小さな、
悪いことを、
した、
小さな、
負い目のある人、
借りがある人を、
赦して、
あげないなら、
神様は、
私たちを、
赦したことも、
取り消される、
と、
言われているからです。
神様は、
赦して、
あげない、
と、
言われているからです。
ですから、
皆さん、
私たちは、
赦して、
あげること、
もう、
私が、
いくら、
私は、
正しい、
お前が、
間違い、
分かっています。
しかしながら、
私たちは、
私たちに、
負い目のある人たちを、
赦して、
あげることが、
非常に、
大事です。
じゃあ、
ここで、
見ていますと、
赦して、
あげる、
やましを、
なさるなら、
なしで、
だめになった、
すべての関係が、
癒されながら、
家庭、
教会、
社会、
国家に、
神様との、
愛と、
命が、
流れることによって、
初め、
つくられた、
その世界が、
回復され、
いるのですけど、
この、
ために、
罪がない、
イエス・さまが、
この世に、
来られ、
十字架を、
背負って、
くださったのです。
この、
ような、
イエス・様に、
出会って、
またイエス様の愛を感じた接した人は
悔い改め許しまた感謝で満たされるようになり
その人たちがまごとにイエス様を
恋愛する人になるでしょう
じゃあ皆さん私たちは
十字架の意味を正しく悟って
悔い改め許す生活をするなら
私たちも中二使徒のように
またセイ・オグスティンのように
セイ・フランシスコのように
私たちもみんな聖者になっているはずでしょう
美しい人になるための悔い改め
考えてみてください
皆さん信仰生活はどのくらい長くなさったんですか
私も数えてみました
私は1979年の洗礼を受けて
教会に通い始めたんですけど
それから45年が経ちました
信仰生活45年になって
今牧師までなったんですけど
聖者のようになっていない私の姿に
がっかりしています
ですから私は今年クリスマスに
私はぜひやりたいことは
イエス様の十字架の福音を新たに受け入れ
私が先に変わらなきゃいけないということです
そしてまごとに美しい人になりたい
聖者
になりたいと思います
それは何によってできますか
今日教えてもらったこの
悔い改めと許してあげること
また先週皆さん
美しい人になるためには
欲がてはいけません
むさぼりがてはいけません
欲を下ろすためにどうすればいいですか
神様との親しい関係の中で
御声を聞いたらもう本当にまともに従うこと
また聖霊によって満たされること
ですから今日悔い改め
許してあげる
御声を聞き従おう
そして聖霊十万を通して
私たちが清くなるんです
清い人たちの集まりになったら
使徒芸伝2章47節のように
この行動体に神様が救われる人々を
たくさん送ってくださるでしょう
清い人の中に一手が切ったら
みんな清くなります
汚い人が集まるところに人が来たら
みんな汚くなるでしょう
だからまず私
牧師がまず美しい人
清い人になりたいと思います
これを悟った人が
メリークリスマスと言うんですけど
このクリスマスは
キリストを礼愛せよという意味です
なぜキリストを礼愛しなきゃいけないんですか
罪によって地獄に行くべき私たちを救われ
天国を与えてくださる
神様神様神様であるイエス様が
すべてを下ろして
この世に赤ちゃんの姿で来られたんですけど
その謙遜さ
この犠牲
その愛を正しく悟ったら
心から礼愛したくてたまらないでしょう
そのイエス様を知っていながら
このイエス様を崇めない
イエス様に礼愛しない人がいるでしょう
このように悟った心
変わった心で
キリストを礼愛する
その人が
クリスマスに与えられた
全ての祝福をいただく人になるでしょう
ですから
今年のクリスマスは
悔い改めと
許しのクリスマスになりましょう
と私は言っています
私もこのメッセージを準備しながら
考えてみますと
早く2人の人には
謝りのメールを
送らなきゃと言います
それから数えてみたら
いろいろたくさん
私が悔い改めて
許してもらわなきゃいけない人が
たくさんいるんだなということが分かりました
今年はなんとなく
なんとか
これをやっていきたいと思います
ぜひとも皆さん
残りこの1週間
悔い改めて
許しの素晴らしいクリスマスを
迎えることができますように
お祈りいたします
主よ
私たちの教会は
信仰の本質を求めてきました
今日クリスマスの本質を分かりました
イエス様はこの世に来られた理由が
創世紀3章の事件以来
ダメになってしまった
神様との関係
人々の関係を
癒し救い
回復してくださることを分かりました
イエス様は
十字架に委ねて
悔い改めと
許しを通して
全ての人と和解ができるようにしてください
イエス様はこれらの目的が
無駄にならないように
その目的が成し遂げるように
私たちを
恵みを与えてください
イエス様の御名を通して
お祈りいたします
アーメン
アーメン
32:01

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