00:00
おはようございます。毎日しておりますように、お隣の方と朝の挨拶をしております。
それでは、この教会で、引退してから初めて声をさせていただくこと、本当に光栄に思っておりまして、ドキドキしながら、一ヶ月か二ヶ月か準備しておりました。
以前、また旧会館の時だったんですけれども、鴨野直子先生、今、修学を講習しておられますけれども、あの頃、一度、ここで説教、西川教会のボクシングをしておりました時に、ここで応援させていただきました。
ボクシング会が3度、4度ここでございましたので、ここの教会は、ずっと出たり、入ったりしております。初めてで、かなり楽しみです。初めて来たら、こんな年ながら上がってしまったり、緊張して語れることは語れなくて、後で反省ばっかりする。本当に未だに見られないというか、乏しいなと思うことが多いんです。
それでは一言、お祈りをここに伝えさせていただきます。神様のお祈りを捧げさせていただいて、メッセージに移ってまいります。
あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じる得をない伝達した働き人になって、神に自分を捧げるように努め吐きなさい。愚かな小さな亡き人心者ですが、青年期、18歳、19歳の頃に、この御言葉を与えて下さいました。
すぐにでも召されて伝道者と思いましたが、祈りによって10年後、一般社会ホテルマンで10年間の生活をし、働いて、その後、あなたの御意識とまた恵みによりまして、関西新出身学校で4年間学ばせて下さったことを感謝いたします。
今日、本当に祈りのうちに、そんなものに正しくないものでございますが、ユン先生、主幹牧者であられます先生は、参加福音教会の午前午後の特別集会に招かれ、御奉仕をしておられます。
祈られましたように先生を尊く、本当にアコロジック魂、まだ人生の目的もわからないで、悩みの中苦しみのある方々に、普段ここでも語っておられるように自由に御器を極めて用いて下さい。心からお願いいたします。
03:02
どうぞ、私は始めであり終わりであると仰せたも、御意識には、どうぞ聖教1144編の言葉を通して出席者お一人お一人に語りかけ、恵みを与え、身を白かしめ、あなたが全ての全てとなって下さいますようお願いいたします。
とうとう祈りまつる主耶穌様のお名前を通してお祈りをお捧げいたします。
聖書は、日本でもちょっと聖書のお話をしたい。20種類ぐらいの翻訳があるんですね。
大体いいのを認める、ここで使っている新開薬聖書、あるいは古いので公語薬聖書、新聖道薬聖書というのがあります。
3つほどがある4つ、プロテスタントでも使われている聖書でありますが、こちらの教会は新開薬を使われております。
私は大体、古語薬を使うと、個人では新教材薬も、英語の聖書も、ギリシャ語の聖書も、また文学の聖書も持って準備したりするわけなんですけれども、
時々ここ新開薬で話して、先生はそれを自由に用いてお使いなんですが、私は古語薬の言葉が出てくるかもわかりませんけれども、内容は同じでございます。
神様が変わらないで、器とか編集者が変わりましても、神の意気には変わりませんので、理解していただいたら、真理の言葉、命の言葉を聞けますので、
皆さんそれぞれでデコーションや、あるいは公白集会でも聖書を開いてお話し、聞かれたり恵まれていらっしゃると思います。
毎日ともと、古語薬の聖書が出てきたりしますので、お断りしたいなと思って準備いたしました。
今日の説教題を見ていただきましたら、書かせていただいて、説教題というと大体そういう話になっていくわけなんですけれども、
キリストを神とするものの最大ということでお話いたします。
この聖句から私を読み取って恵まれて、また語らせていただきたい内容はどういうことかと言いましたら、
イエス様を信じるものに与えられている神様の特別な恵みが聖書の中に書かれてあります。
聖書はご存知のように、創世紀の一章一節から目標の最後まで神の言葉なんですね。普通の言葉ではないですね。
多聞とか言ったりするんですけれども、本当に神の言葉、旧約聖書は神様がしないなんで、
儲けを通して批発だって、いわゆる十戒という映画を見られた方があらゆるのではないかと思うんですが、
そのことを通して、いやしい人間に与えられた神の言葉であります。
そのことを堅く信じていただきたいと思うわけですね。
その聖書は何とか言いますが、題をつけておりますように、
06:01
キリストを神とするものの幸い、幸福、そういうことについてお話しいたします。
特に後の方で語りますが、神様を信じるものにとりまして、一般のクリスタルでない方も41億2800人が、
信仰を持っていない者にも神様は変わらない恵みと愛と救いの業も既に行ったんですね。
日本の方は残念ながら知らないんですね。福音を知らない、結晶になることない、教会に行ったことない、
ボブ先生の救いの話を聞いたことない、わからないんです。
わかったらすぐに信じられるんじゃないかなと思うんですけれども、
そういうことで、今ももしもこの中で信じられない方があっても、
神の恵みがあることを今週一週間も考えながら過ごしていただきたいと思いますね。
それでその恵みのことについて、少し内容を今日のセイクに入っていく前にお話したいと思います。
恵みも二つあるんですね。一般的な恵みと特別な恵み。
英語ではSpecial Graceと言ったりするんですけれども、
本当に特別な恵み。クリスタルの方は皆さん一人一人、私だけ一人一人、その恵みを与えられています。
持っていらっしゃるんですね。
今お話ししていますけれども、一般の恵みとはどういうことか。
そして特別な恵みはどういうことかと言いましたら、
一般の恵みです。ちょっと例外でお話したいんですが、
何かで青年会とか何かで集会をやっておって、
たまたま一人の友人や知り合いの方が20人ぐらい集会を集まっているところで、
教会の一般の教職も準備、カレーライスを準備して婦人会が皆さん準備するんですね。
突然と一人増えたらですね、どういうことか。
まだ出していないときですから、18人、19人でまたちょっと水を増やしたり、
具を入れたりですね、増やして19人を20人を一人増やすことができる。
そういう恵みが一般の恵みなんです。
特別な恵みがどういうことか。19人は19人差し上げて、
一人増えたらその人のためにですね、もう一人分準備して、
その方のために作るカレーライスなんですね。カレーライスより他のことであります。
神様という方は私に対してもそうなんです。
一人一人に皆さんの問題、皆さんの悩み、皆さんの家庭状況、
そういうことをみんなはご存じです。一人一人違う。一般の恵みじゃない。
一人一人に本当にサイズに合った、すべてのことをご存じで、
一人一人にその恵みを届けておってください。
痛いところも病気も、私たちの過去の経歴や病気をみんなが知ってですね、
その方にふさわしい救いや恵みを与えてください。
これが神様の特別な恵みであります。
そういうことを覚えて受け入れたいと思います。
10%から上に神様は我々一人一人を見取られるにはないんだ。
09:04
一人一人心の中で愛して、イエス様を大切にして、今も天でおられまして、
違う神様にそれなしの祈りをしておってください。
特にその言葉は一般の方に言います。
イエス様は死んでクリスチャンになると、そういうことは日々に分かってくるんですね。
クリスチャンは本当に幸いな種族というか国民だなと、私も常日頃神様に感謝します。
ワンダウトに感謝します。ネウマイに感謝します。
一生死を始める時も新しい一日を与えてください。
死を感謝しますと一日を始めるわけですね。
私がいなくても皆さんもそういうことをしていらっしゃるんじゃないかなと思うわけであります。
それでは前置きはそこにおきまして、聖書の144ページ、
今日テキストって選びましたもんで、ここからお話しさせていただきたいと思います。
少しここでお断りしたい。皆さんそれぞれ考えないとどう信じようと学ばれても結構ですが、
ここに著者問題、誰が書いたかなということについてお話したいと思うんですね。
ここに誰でみろると書いてあるわけで、これだから第二代目のイスラエルの、
大体今から3000年前のイスラエルを誰では書いたんだと思われても間違いないんですね。
このことについてお話ししましたら、72役聖書というのがあります。
これはイスラエルとか昔からアシチレアやバビロニア、非常にイスラエルの人々はヤーウェイというか、
そういう神様を信じて民族からよく迫害されたんですね。
バビロニア帝国、アシチレア帝国を捕虜として連れて行かれて、
もう本当に連れて行かれて、生まれて死ぬまでずっと捕虜として、またそこで部宅して行くときに、
イザヤ人でありながら、イザヤ人が分からない、イザヤ人が大勢できたときに、
70人のこの旧役聖書で、ヘブル語で書かれてある聖書をギリシャ語に変えたんです、72役。
そういうのがある、そういう72役、新学校に行かれた方は、72役聖書というのをご存知だと思うんですけども、
その72役聖書にですね、それで先ほどの話を続けますと、
このモウヘゴシア旧役のヤーウェイの旅その日に起きて、リッポンの時代の聖書です。
それがイザヤ人に知らせるというか、神書に、キャノンというか聖書になったわけですね。
ここに10節見ていただきましたら、このように書かれてあります。
神は王たちに救いを与え、神の守護名ダビデを、悪の剣から解き放されます、という言葉が書かれてあるんですね。
ですから72役聖書を読みましたら、ゴリアテに適するという表現がつけられてありまして、
12:07
そしてですからアラム語、イエス様が使っておられたのがアラム語なんですが、ペブル語のアラム語を使っていらっしゃったんですが、
この10節2行目に、神の守護名ダビデを、悪の剣から解き放されますと書かれてあります。
ですからゴリアテの悪の剣からと訳されておるわけですが、本編が、144編がダビデによると書かれてあるんですね。
ですけどずっとこの古い旧約聖書の聖書をずっと読んでいきますときですね、この聖書は司会社本という司会の近くに出てきた旧約の聖書の中にはですね、
紙編144編というのは出てこないんですね。もっと旧約、誰が語ったことは、壺の中に出てきたんですけど出てきたんですが、144編は出てこないんですね。
ですから、もともと聖書を読んだ、たくさんダビデが書いたところがありまして、
そのところを言いましたならば、紙編の、これはもうダビデのものに違いない、紛れもないダビデの作品だと思えるのが18編とか、
あるいは、紙編8編、39編、そういうところみんなダビデの作家を書かれていたんですね。
104編、33編などのことがあります。ですからダビデの作品というのはいっぱいあるんですね。
ですから編集する、製作する時点ですね、もういろんな時代がありましたから、いろんな、
誰が書いた、紙編出てきた、どのところ出てきますけどですね、後で寄せ集めた、寄せ集め最後でですね、
これもおそらくこの素晴らしさがダビデのものだと、編集しているそういう段階で、このこともダビデによると言われているんですが、
だけど、方向学とかそういうことを調べていきましたら、どうやらダビデの時代じゃなくて、もっと後の時代の紙編だということがわかりますので、
私はですね、私というのはですね、政教の本とかそういう文献を読んでお話しするんですが、
おそらくダビデよりもっと後代の、後の世の作品だと言われているんですね。
私もおそらくダビデではなしに、他のものがダビデと同じような純粋な信仰を持った、
逸材の王とか、そういう知識というか信仰、真剣な信仰を持った者が書いた。
他のダビデではなしに、他の人の作だと、私はそのように信じておるわけですね。
ですから、そういうこと。だけど、先ほど言いました、ダビデが本当に神を恐れ、やおへの神、唯一の神さを信じてですね、
純粋な信仰を持ったもんだと、だから神の言葉と受け取っても間違いないわけでありまして、
15:06
政教を読んでいくときに恵みを預かって、他のダビデと書かれてあるけど、他の人物であったとしても、
政教そのもので違いないですね。
政教が編纂された頃に、これは政教、神の言葉と、その昔はカトリックだったんですけども、
それを教父が集まって、政教と認定するときにですね、
そういう人が、カトリックの教父や政教学者たちがみんな集めて、政教を66巻決めたわけなんですね。
そういうことであることを覚えてまいりまして、
ダビデが書いたのはお前と間違いでないで、
神の言葉ですから、同じように引き上げられますので、支援を担って恵まれなさったらいいわけであります。
それでは、この政府の方に入っていきたいと思いますけれども、
ここから教えられるのは、締め日頃、皆さんも感じられるんじゃないかと思います。
私もかなり歳は重ねてまいりまして、そろそろ人生の終わりに近づいてきたな、
いうことをよく家内とも話し合うことがあるんですね。
若い時は若い若いと思っていたんですが、いつもたくさんいろんな方、
登壇でも焦点差、名簿とかいろいろ出てきた。
自分たちの身近な問題だな、と考えることなんです。
だけど、皆さん、私たちは地上生活が終わった後は、イエス様の名、私の両父もクリスタンです。
サンマゴロウ先生や、ハドソン・テイラーや、ダビデや、みんなとまた会えるんだと思うとですね、
この地上よりも、また神様、この地上生活が終わった後、彼らの方がもっと素晴らしい世界へ。
うっさり事を信じて、日々祈りつつ、さんびさんびして過ごしているわけなんですね。
ですけど、少しこのところで、セイクが意味していることを考えてみたいと思うんですが、
人間とは一体何者なんだろうかな、と考えることがあるんですね。
いろんな哲学書、教会に行きましても、伝道のパンフレット、いろんな企業に行きましても、
要は人間に語りかけますので、英語でヒューマン・カインでヒューマン・ビーンと表現したりするんですが、
一体何者なんだろうかな、ということを心聖書からも教えられるわけですね。
そういうことを三説の中でも、このダビデは言っております。
しよ、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。
人のことは何者なのでしょう。あなたがこれを見られるとは。
ダビデが言うには、第一に、皆さんもそういうことはすっと考えられることはながら、
考えがあえてお互いに過ごしていらっしゃるんじゃないかと思うんです。
ダビデが言うには、人とは一羽。一羽を数て、三羽を数て、吐き出す。
18:03
人は一に似て、陰に似て、パーッと陰側の方に太陽が昇っているから、陰の方が冷えてしまうみたいですね。
陰に似ている、本当に儚いものだということを、ここでこの著者ダビデは言っておるわけですね。
日本の鴨正明という人も、そのように言っています。
人生を結んでは消える泡沫、水の泡に例えました。そのように書いてあります。
私も樽見教会に行っておりまして、若い時に研修生の大阪のロイヤルホテルに勤めております。
リーガルホテル、中野島の一流のホテル。東京だったらホテル大倉とか、
ホテルマンだったんですね。樽見で勤めておりまして、会食センターに乗って、中野島へ行って、仕事に10年間ほど勤めておったわけですが、
ここはあまり何かしません。JRで行く時に、日によったら瀬戸内海のところに置き合いに、日によったら船が浮いて見えるんですね。
海面とカゲロウとか、あれの関係だと思う。船が浮き上がって見えること。船と海との間に空気というか、入ってみたりするわけですけれども、
人間というのはそういう存在だ。カゲロウみたいなもんだということを、このところにも言っておるんですね。
ですから、カモキョウメイという人も、人生を結んでは消え得る歌方、水の泡に例えとおる、そういう文が書かれてあるんですね。
そして古事からして、ダビデは私たちに教えておるのは、他のダビデが教えているんですが、自分がどんなに醜く汚れた罪深い小さなものであるかを告白しているんですね。
いかつ説を書きたいと思うんですが、お開きくださいませでしょうか。四篇五十一篇の五説です。
同じ四篇なんですが、四篇五十一篇の五説。それでは私が読みます。
八百五十五ページですね。四篇五十一篇の五説です。
ダビデは自分のことを言っておるんですね。
ああ、私は徒がある者として生まれ、罪ある者として母は私を見守りました。
本当に人間、どの場所でも自陣はいない。一人もいない。
アダムエヴァイが生まれた、イエス様の息子にあずからない、イエス様は違いますよ、神の。
21:01
どこを叩いても気をよかたで、神そのものが非常に現れなさそうかと。
人間は多かれ少なかれ、罪の現在というか、罪の因子を持って生まれてくる存在なんですね。
ダビデもそういうことを言っておるんですね。
もうそれこそ宿命的としか言えるのない、人間の醜さ、罪深さをこの言葉でもって表現しておるんですね。
ああ、私は徒がある者として生まれ、罪ある者として母は私を見守りました。
お母さんも罪深さなんだから、自分の罪深さをあげてですね。
また、いろんな罪を犯したこと、皆さん、神の罪を犯したこととか、そういうこともご存知だと思います。
本当にそういうことをはっきりと神を信じているダビデですので、告白しておるんですね。
ですからここでダビデが素晴らしい、こういう生まれを残る支援を残したことで、我々もそういう信仰を持ちたいなあと思うわけですが、
ダビデはですね、バテシバトのことでも、中において罪を指摘されたら本当に今はこれから増やされて、
そういう涙の長い罪を増やされて、神々に立ち返っておるんですね。
ですからダビデは、こんなに小さい、弱い、罪深い、穢れたものを変えてみて下さい。
本当に神様という方、本当に真実の愛の神様だということを支援の至るところで書いておるわけですね。
共感の叫びを歌っているのが支援であります。
どうするべきかい、こんなステップの仕方。
外学から与える私を、神様を愛して罪を許して、逸材の応答性を用いて下さい。
このダビデの本人のこと、また皇帝の144編を他の人が書いてあったと私もおっしゃるんですけれども、
そういうことですけれども、ダビデはそういうことを知ってですね、
本当につらい罪なんだのに愛してもらってありがたいなあと感謝したのであります。
ある人が言ったわけなんですけれども、このようなことを言われました。
私もそうだなあと感動を覚えてメモしてきたんですが、
神は真っ暗闇の夜、真っ黒な岩の上をはいずり動く小さな黒い蟻ですね、真っ暗。
岩も真っ暗、地球も真っ暗なんですが、そこに小さな蟻がですね、うろちょろしておる。
この小さな蟻がもう全部人なんですね。
神様は全知全能でいらっしゃるんです。
私は知りません。普段説教される優先生もわからないです。
みなさん一週間の歩みですね、どこで何をしたとか、それもわからない。
だけど神様は全知全能でおらんっていうことをした、どういう思いを持った、
心の中を見ておられる神様、すべてみなさんの表も裏もみんなご存知の神様なんですね。
そういうことをある人が言いました。
24:02
ですから神は、みなさんの謙遜な方、私も僕自身はそのあまり謙遜に、いい自信を持ちなさいと謝りましてくださる方があるわけなんですけども、
私たちの小ささ、弱さ、罪深さを全部知っておられるんですね。
それでもですね、こうしたですね、そこもいい無言バージョンというのはみなさんご存知かと思うんですが、
イザヤ帳の43章の4節、普段イザヤ帳もみなさんがよくお開きになられますので、
イザヤ帳の43章の4節をお開きください。
政府が、政府が神様こと私たちに心に刺さりかけてくれますので、
43章の4節です。
私の、政府神科学とページが違う場合があるんですが、1194ページですね。
イザヤ帳43章の4節です。
みなさんもちょっと声を、口をお借りしまして、みなさんと一緒に神科学でイザヤ帳43章の4節をお読みいたしましょう。
1・2・3
私の目にはあなたは光華でたっとい。私はあなたを愛している。
だから私は人をあなたの代わりにし、国民をあなたの命の代わりにするのだ。
今朝、これは、今朝、この日、10月29日、2017年の、今この時、みなさんに私もですね、
みなさんが私も、もう若い時から、罪だらけというか、どこ、どこ、日本に多存とかテンタンがあります。
どこ叩いてみんな黒ばっかり、罪ばっかり、嘘ばっかりというか、本当にとんでもない男だったんです。
こんなもの、十字架に指標であらいきを見てくださって、神の言葉を語るものとして、40年間、この3月まで40年間、奉仕させていただいたんですね。
これはもう一方的な、神様の選びと恵みだなと、感謝、こんなものかなり、ろくも共産、奉仕させてくださったな、感謝だなということをよく話してお祈りするんですね。
神様は、私たち一人一人に対しても、また、いつの時代でも、100年前でも、これからも、オリンピック開かれる3年後もですね、10年、20年後も、みんな人間に対して、一人一人、私の目には、あなたは高価で、たったい、私はあなたを愛している。
皆さんを、本当に一人一人を、皆さんを、私、人間、日本人、すべての人、韓国の方も、ロシアの人も、北朝鮮の人も、中国の人も、アメリカ人も、ヨーロッパの人も、アメリカの人もね、人間一人一人、世の中にいても痛みないように、愛しておられることを、私たち考えされている。
そしたら、また、失望しよっても、新しい光を、私は見出す。ああ、立ち上がっていこう、ということを、我々は与えられるんですね。
27:05
私は、君に許されたことで、ぱっと、若い時に、青年の時に、教えられたけど、本当に感動を受けたことがあるんですね。
これは、古い、古いというか、進化劇の方々がご存知ですが、私は、カルミ教会に出身しているここも、今、小谷先生ご遺体が勃開していらっしゃるんですが、
あそこで宣伝を受けまして、中島明先生から、21歳ですね。進化を持ったのは、17歳ぐらいだったんですが、それまで大阪に住んでおりまして、
宣伝を受けさせていただいたんですね。ずっと、学生だったか、今から考えていても、働いておったか、どうかしれませんが、ある時、だんだん、
進化を持って、クリスタルになりながら、なんでこんなに穢れた、いろんな、中途半端な、信仰者としてなっていないな、思いまして、本当、暗い思いでですね、ああいうことも思った。
イエス様はいろんなことでおっしゃっておられる、イエス様、神様の表現からしたら、とても、信仰者にふたわしくないことをしておりましたので、重苦しく、罪のことを考えて、やっておったんですね。
そして、ある日、日曜日の宣伝が終わった後、その当時、まだ、新学校50年ほど、校長先生をしておられました、沢丸五郎先生がいらっしゃったんですね。
私、その頃、たぶん、22、23歳ぐらいでは、職場であったか、なんかやってても、悶々として、どうしたらいいんだ、不祥理というか、そういうことをすごくやっていたんですが、
その旨、礼拝終わった後、沢丸五郎先生に、こうこう、しかしかなんです、と言ったらですね、沢丸五郎先生、もちろん、それは、イエス様の十字架の騎士を、カルバリの十字架のことを指名して下さいまして、
中川君、心配しんでもいい、あんたも吹いて、神様の前に告白して許しを求められたら、
皆さん、今頃は、ボールペンとか万年筆とか色々ありますけれども、昔は万年筆の中にインクを入れまして、その赤いインクとか、インクのポッと小さな入れ物があるよね、
あれを大事なようにボンと投げて、捨てても、それで真っ赤できないから、あっという間に消えてしまうように、イエス様の十字架によって、中川さん、中川君の罪を許されていくよ、
イエス様の十字架の働きと力を祝われて、はー十字架はあるべきだと思って、救われた、明るい気持ちに立ち返らせていただいたこと、今も忘れることはできない。
たった小さな、わずか60㎝くらいのインクで台風を持ってきて、赤いインクを飲んで、止められないように、あ、そうなんだ、と救われたことを思っておりますけれども、
30:03
ニコイエスの地、全ての罪より我らを清むとありますので、皆さんがもしもそういうことを知られたら、あったらご感謝で神様に近づけられたら、本当に十字架を仰ぐときに、我々は救われるわけですね。
ですから、一番最初よりも特別の恵みのことに言いますけれども、神様は私たち一人一人、生まれた日から死ぬ日までこの宿命を知っておられるわけですね。
みんなご存知であって、一人一人を愛しておってくださる。全ての人を愛しておってくださるので、我々は神様の愛の中に生かしていただきたいなと願うわけであります。
この愛はどういう愛かと申しましたら、神様は、世界には今、75か60ぐらいの、ヨーロッパにもアフリカにもアジアにも上米大陸、アメリカにもカナダにも南米にもたくさんの人々が住んでいるわけです。
女の人も男の人も同人も子供もたくさんの人がおるんです。神様はなんか世界に一人だけ、中々だけ、みなさんも一人、まるで私一人しかいないように神様を本当に大切に思ってですね、心配してくださって、愛してくださっているんだ、分かると新しい力、神様に愛される。
時に家族でご主人が集めた言葉を聞いたとか、親からいろんなことを聞いたとか、いろんな学校の先生に厳しいことを言われて、そんなのまだ身のっきりされるんです。神様が愛して、救われる道を助ける道を備えとってくださるんだ、信じていけばいいんですね。
ちょっと分かりやすく説明しましたら、エレベーターでも7階まで、デパートでも1階に乗ったら、パッとボタンを押したら7階まで上げてくるんですね。そのように、また道路工事やっているショベルカーとか土地とかなんかをバッと積んで、そういうところに県政現場に土砂を運ぶように。
イエス様の御腕、神様によって、恵みによって、皆さん方急いで渡され、ざっと積んで我々に行きたい。いいもん、悪いもん、みんなあらゆる興味でちゃんと恵みの世界へ天国に帰らなくても、この地上でも勝利ある感謝の日々の中に入れてください。我々の力は限界あります。人間の力は限界。
だけど、神様の御腕は大王でありますので、そういうことをしてくださることを信じて、今週も生きていきたいなと願うわけですね。ですから、こんなものが一人しかおらないように愛してくださっているんだと思うと、そのことを具体的に言うと、今も語ってきたのですが、
私の罪を許して、私の罪を清めて、私に新しい永遠の命を与えるために、イエス・キリストが、ご存知のように、あの二千年前、カルバイの十字架で命を捧げてくださったんですね。自分が死んで、死の苦き酒漬けを飲んでくださったんですね。
33:11
そのおかげで、誰でもですね、身分の高い人も貧しい人も、男性も女性も、金持ちも貧しい人も、関係がありません。みんな人間、神様の手の作品である罪を許すために、イエス・キリストは十字架にかかってお死にくださった。
彼は死んだだけじゃないです。三日目によみがえして、今も祈るときに答えてくださるんですね。ギターも、それこそ旧宗教は福音は命の宗教でありますので、普段、順先生も本当に素晴らしい目線、素直な説教をしておってくださる。
我々は、祈るときに言われることもあります。死なさいと言われることもあります。祈りに答えてくださる神様なんだ。聖書の神様はそういう神様なんだと信じていけてまいりたいと願っております。
ですから、みなさんお一人お一人、私たちを永遠の神の栄光の器として、あなたは飲むにも食べるにも、神の栄光をあらわしなさいと仰っているんですが、この企業で、家族の中で、職場で、人生社会で、世の光、宗教として生きていくことができるんですね。
その力は、私たちの中に内住のキリストとありますが、私たちの中に住んで、私たちの心を幕屋として、この中に内住してくださるんですね。その方が、本当に赤きする力、言葉も教えてくださるわけであります。
ですから、神がイエス・キリストを通し、また聖書全体を通して、その説教をまとめてお話しているわけですけれども、私たちに打ち上げて、私の思いはあなたを愛しているんだよ、元気になっていきなさい。
教会に来て、イエス・キリスト様を信じて、日本でもたくさんの自殺者がいます。この頃は2万5千人くらいですが、年間3万人を超える自殺者がいます。やはり福音が届いている。
本当にイエス・キリスト様という福音が、もっと教会が頑張ってやっていったら、ああいうことを自分は神様に作られて、神様に生かされているんだという、この神の愛と恵みがわかったら、自殺者の率ももっと低くなるのではないかと思うんですけれども、
あなたの若い日に、あなたの作り主を覚えようとおっしゃっているのに、この作り主のことを除外して、何をカムセラしたり、いろいろなことをやっても、肝心のキリスト、成長的な生活を無視して、それはあり得ないですね。
そういうことを私は本当に信じ、だから祈りつつ、愛する日本の方、他の方々、みんなが救われるように祈っていきたいと思います。それでこの御言葉を言って、最後のお祈りをしたいと思うんですが、ここでダビデが言っているもう一つの詩編、144編の方に帰っていただいて、私たちもダビデと同じような信仰をもしたいと思うんですね。
36:13
1節2節ですが、ダビデが完備しております。
このように書かれてあるわけなんですが、こういうお方なんです。この文理通り自分もなっているな、と。
詩は糸掻き助けという詩編の言葉があります。本当にいつも今週一週間寝る時にも昼までも朝起きている時に、ちゃんと詩は私の肩にあって、このように岩となってくださって、盾となってくださって守られますね。
アブラハムがずっとウルの地からハランへ行って、ハランから約束の地、カナンの地へ行く時に神様が言われて、アブラハムよ恐れるな、私はあなたの盾である、そしてそのように守られている。
別にアブラハムとダビデだけではなく、今日の皆さん、私たちもイエス様が、精霊が今週一週間も私の盾になって守ってくださると信仰を持って、車運転者がかなり安心して車の運転もできるわけですね。
何か車、事故起こるんじゃないか、事故起こってしまうかわかりませんので、本当に大丈夫、出ると言うとアブラハムさん守ってくださると信じて運転を楽しみたいなと願うわけですね。
ですからクリスチャンはイワである、旧約ではヤーウェー、唯一神教、世界の一神教なんですね、キリスト教、ユダヤ教も一神教です。ヤーウェーを褒めたたえることによってその生活を確かなものとすることができます。
あとの、今日も時間もございますので、12節から15節の中にどのような祝福があるかということを、この書写ダビデは書いておるんですね。
3つだけのことを今日お話しすることを、征服でまとめてお祈りに移りたいと思いますが、神様に、私の説教題は、キリストを神とするものの幸いということでお話ししておりますので、神様のための祝福は、
やっぱりどういうことか、やっぱりもう一回信仰を確認するみたいですが、やっぱり今日の私たちは、あがなれたためですね、イエスキリストの十字架によって罪を許された。
39:03
キリストが二千枚しられた飾りとか、なぜがたくない。自分の罪やその失敗を許すために、イエスは女神に死んでくださったんだ。キリストの死は私のためだったんだと信じていくといいわけです。
ですから、神を信じるために、我々は罪も徒悪も許されています。
イザヤシュー43章を見たら、ヤクミたち、ヤクブを恐れるな。私はあなたをあがなった。あなたは私のものだとおっしゃっておられる、イザヤシュー43章3章の一線の言葉があるんですね。
あがないというのは、皆さんの生涯、世界の歴史、過去も、千年前、二千年前も、二、三年前も、今日も、現在も、未来もですね、あがなってください。
キリストの十字架は、それほど自観的な、超越しておられるわけですね。
キリストの民、死を己が神とするためは、このような恵みに預からず、十字架は確かにあったことを、生徒は信じて、そのことを信じたらいいんですね。
二番目には、神を信じる民であります。
一世の間は、我々は様々な戦いや試練があっても、神の恵みと力を知っておりますので、その試練を耐えることができるんですね。
死が伴って勝利を与えかかるんだと信じることができます。
三番目の祝福、キリストを神とする者は、やっぱり人生の導き手であるんですね。
ダビデが言っておりますように、死は私の牧者であって、私には乏しいことはないとダビデは言っているのですが、神様は自分の人生の導き手、導き手、今週週間も自分が歩く五歩前、具体的な空間、五歩前、十歩前を歩いておられる。
車を運転していても、三十メートル、五十メートル前、イエスタマン、ハイスト、私は自分に従っていくという、そういうような思いをやっていたら安心して、また時間的なこともですね。
キリストは私たちの人生の先だったと言うので、私に従ってきなさいと言っているんですね。そして十字架を追いなさいと教えておられるわけであります。
そういうことで、良い執事会です。ですから、この執事会であるイエスタマンを信じて、そして祝福を受ける日々の歩みをしていきたい。
その一歩一歩を祝福されることが、今も時間ありませんが、十三節、十四節、非常な喜び、倉も満ちあふれる。
もうこのザビデが与えられている執事もですね、幾千万、牛というのもあります。家畜や倉もいっぱいある。本当にそういう日々を神様が備えておってくださるわけであります。
それではこれで、私の一言を祈りますので、その後皆さんも、今日ご出席しておられる皆さん、皆さん回収席の皆さん、お祈りをしてください。一言お祈りをさせていただきます。