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みなさん、おはようございます。
今日も礼拝によくいらっしゃいました。神様の恵みが豊かにありますように、心からお祈り申し上げます。
すぐのメッセージに入る前に、隣の方々、挨拶しませんか?
はい、よくいらっしゃいました。
それでは一言、お祈りさせていただきます。
幸いなことよ、全て主に身を避ける人は。
主よ、何と私の敵が増えてきたことです。私に立ち向かう者が多くいます。
救いは主にあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように。
神様、今から神様の御言葉に耳を傾けます。
全身全霊を主に向けます。主をどうぞお語りください。
そして、私が自分自身を顧みて、御言葉として、さらにさらに私たちの信仰が強くなりますように。
そして、もしも悔やためるべきものがあるならば、主の御前に下り下って悔やためて、本当にイエス様のように帰られますように。
どうぞ主が、あなたの天の窓を、天の扉を開いて、溢れるほどあなたの恵みを主が注いで下さいまして、
本当にこの朝、私たちが主によって御言葉によって生かされる命の時として下さい。
イエス様の御名によってお祈り致します。
アーメン
今日は先週までの4回のシリーズメッセージは終わりました。
そして今日は4編第3編、タイトルがちょっと変わってますね。
何としかし、そして、というタイトルであります。
実は想定において、今4編が回ってきて、毎日一章ずつ黙想して恵みを受けているんですけれども、
この前のこの4編3編を準備して祈って、そしてまた想定において恵みを共にする時に、
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神様が主よく示されて、この課題を持ってもう一度恵みをみんなと分かち合いたいと、恵みを受けたいと示されて、
今日のこの家族として選ばせていただきました。
皆様もご存じですね、月1日にお配りしている行事予定表に、その日その日の聖書の表が書かれています。
想定に来れる方もいますし、来れない方々もいますけれども、私は家様を神様として一つの体でありますから、
できますならば毎日同じ聖書を黙想して、そして同じ恵みを、恵みはそれぞれもっと豊富になるかもしれませんが、
同じ恵みを受けして、そして同じ方向に向かっていきたいと思うんですね。
その一致の恵みを、まずこの御言葉から持っていきたいと思いますので、
今までやっておられる方は、まださらにやり続けてください。
あるいは今までやっていない方々は、今日から明日からそれを是非実践していただきたいと、そういうふうに願っております。
今日の資源3編は、招待に含まれているように、ダビデがその子アブシャロームから迎われた時の参加とあります。
ですからつまりこれはダビデの罠足なんです。
そのストーリーをお話したいと思います。
ダビデは初代王、シャウルの後を継いでイスラエルの王になりました。
ダビデは一言で言うならば、神様が立てられた王です。
あの当時の具現者の名前はサムエルです。
そのサムエルに、イスラエルの子ダビデに油を注いで王に来なさいと神様から示されて、
そしてシャウル王は戦争で戦死していたわけですから、神様の御言葉通りに油注がれてイスラエルの王にされました。
ですから皆さん、ある意味ダビデはもう自分が王になりたくてなりたくてそれで王になった人ではないんですね。
神様に油注がれて、神様に立てられて王座について王になったと言っても間違いではないと思います。
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そのダビデはイスラエルの王の中で最も強力な権力を持っていました。
そしてイスラエルの王の中で、ソノモン時代を除いては一番広い領土を支配していました。
もう絶対権力を持っていた国といって、誰も彼を倒すことはできないと。
イスラエルの民も周辺のペリシテとかモアブとかアンモンの国もそういうふうに思って、みんな水泳を捧げてそういうような強力な国を持っていました。
ところがそのダビデに大きな危機が嵐のように吹いてきた。
つまり、なんとという危機が、問題がやってきました。
小世代のことでした。
よきせぬ嵐が吹いてきたんです。
その危機はどんなものでしょうか。
それは息子アブサロムが、そんな無謀を起きてしまったことなんです。
ところが皆さん、シャムエル記第二になりますけれども、そこら辺を読みますと、実はアブサロムが無謀を、反乱を起こしてしまったのには、
そのアブサロムには彼なりに理由があったわけなんですね。
ダビデには王様として妻が王でいました。
その王での妻がいたわけですから、当然子供も王でいたわけなんですね。
いわゆる威福兄弟が何人もいた。
その中の一人の息子がこのアブサロムなんです。
ところが皆さん、アブサロムにはまだ結婚していなくて、とてもきれいな妹さん、タマルがいたんですね。
ところが、このアブサロム、タマルとお母さんが嫌った威福兄弟のアムノンという人がいて、
そのアムノンが、タマルがとてもきれいで恋して大好きで、
ところがある日、そのアムノンがタマルを恥ずかしめて寝てしまった。
この事件をそのお兄ちゃんアブサロムがわかったんですね。
ところが彼はその事件について一言も触れないで、
2年間ずっと我慢して、あるいは企んでいて、寝らせていました。
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そして2年がたったある日、ダビデの息子の王子がたくさんいるわけなんですよね。
みんな招待して、宴会をパーティーを開きました。
そこでダビデに、お父さんに、お父さん、アムノンお兄さんもぜひ送ってくださいとお願いして、
アムノンもさっぱりわからずそのパーティーに行って、
そこでアブサロムによってアムノンは殺されてしまいました。
そしてアブサロムはその日も逃げてしまったわけなんですね。
その後3年が経ちました。
ダビデはその息子アブサロムを心の中に愛する和楽部として懐かしく思って、
そしてなんとかして3年後、アブサロムをエルサレムに戻るようにして和解をするような形になりました。
ところが父ダビデはアブサロムを帰ってくるようにしたのに、その後一度も会ってくれなかったんですね。
そしたらアブサロムは心の中に不満がどんどんどんどんパンが膨らむように膨らんで膨らんで、
彼はずるかしというものでしたから、父の王位を奪おうと思って企んでいました。
そして彼はいつも朝早くエルサレム王宮に入る門がありました。
ずるずる道側にいつも朝早く行って立っています。
そしたら王様に何か裁きのために来る人々が通るんですよね。
そしたら彼はその人々を止めて、彼の話をアブサロムが全部聞くんです。
そして彼らにこう言うんですね、その国民に。
あなたの訴えはいいです。正しいです。
でも王様のそばにはあなたのことを聞いてくれる者がいないんですよ。
どうしよう。残念ですね。
誰かがこの私をこの俺をこの国の裁きつかさに立ててくれたら、
もうみんなの訴えや申し立てを私が全部解決してくれるのに。
そういうふうにみんなにそういう話を何週も何ヶ月もずっと続いてやりました。
こうしてアブサロムはそのイスラエル人の心を結んだと聖書は語っています。
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そういうふうに結んでいて、そしていろいろ時が来ました。
そしてこのアブサロムは自分にも水兵、いわゆる兵士たちがいるわけですから、
彼らを連れてお父さんのダビデに、
お父さん、ヘブロに行ってちょっとやることがありますから私を送ってくださいと。
そしたらダビデはつらないから、お、そう、もう行って。
そしたらこのアブサロムは自分の水兵鉢を連れてヘブロに行きました。
そのヘブロはダビデがイスラエルの最初に王になったとても重要な街なんですね。
そこでアブサロムは戦略的にそのヘブロに行って、
自分を支持するその家族族のリーダーたちを集めて、
そして彼らによってアブサロムがヘブロで王になったと、
みんな全国に叫ぶように知らせるように告げせらせるようにしました。
そしてもうすでに何年も国民の心を奪って、
支持者を密かに裏で立てていたわけですから、
もう一気に多くの人々がアブサロムを王にしよう、王にしようという流れになってしまいました。
この実をしたダビデは、もう生きるために王宮から逃げてしまいました。
そして逃げているうちに歌った、作った詩が今日のこのシネ対サンペンであります。
ですから皆さん、全然考えもしていなかった、
自分の息子にとんでもないことがなんとというふうに起きてしまいました。
そんなことはもう起こるはずがないと思っていなかったことが、
今まで見たことがない、聞いたことがない、経験したことがない、本当にとんでもない大きな事が、
事故が起きてしまったわけなんですね、ダビデに。
その日に彼は一節のように歌っています。
一節を一緒に読みましょうか。
一節に3杯。
主よ、なんと私の敵が増えてきたことでしょう。
私に立ち向かう者が多くいます。
その立ち向かう者は、アブシャロムをはじめて彼を引きするその群れなんですよね。
敵が増えてきました。
そしてその群れはダビデに向かって、彼はダビデだしね、
ダビデには神様の救いはない、神様はついていない。
もう終わりだ。
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皆さん、私たちにもダビデのように似たようなことが我々の人生には起きたりします。
例えば、何らかの事故や病気で家族を先に手に送ることもありますし、
あるいは本当に信頼していた人からおかえされたり、そしてつらい日々を送っている時があるかもしれません。
生きているうちに本当につらいことが起きたりします。
それがある意味で私たちが生きている状況なんですね。
死んだ人には何も起こりませんから。
私の知り合いのある選挙主の話です。
日本で働いている韓国人の選挙主ですけれども、日本に来て開拓して、
自分なりに僕が一生懸命やっていました。
その中で親とのある人が事業、ビジネスをしていまして、借金が多くて、
でももっとお金を借りなくならないですから、
その保証人が秘書になりまして、そしてその生徒がその先生にお似合いしました。
ところがその先生は頭では保証人にするのはあまりよろしくないと思っていたんですけれども、
でもこの心では本当にかわいそうですし、そして親とですから連帯保証人になったわけなんですね。
印鑑を押したわけなんです。
ところがその親とのその事業がもう完全に破産してしまいまして、
その借金を返済できなくなってしまいました。無一文になってしまったんですね。
そして結果的にこの保証人になったこの選挙主先生が、もうかなり多くのお金を代わりに返済しなくならない事態になってしまいました。
でもその先生もお金を、それからその先生は何回も法廷と言いましょうか、そこに何回も出入りをしました。
でももう結論はあなたが返済しなさい。
そういうふうな結論になりそうなときに、本当に不思議に神様の恵みによって、
とても素晴らしい良い弁護士を紹介してもらって、しかもそれも無料で無償で全てやってくださりまして、
結果的にはその先生が返済しなくても、そういうふうに全てが法的に解説をして、それで終わりました。
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皆さん 私たちの人生には諭吉戦のことが起きたりします。それで時にはとてもつらい日々を起きたりします。
支援を見ましたら、旅ではもう寝れなくて、枕を涙で濡らす日々がある。
周りからそしたら祈ればいいじゃないかと言われますけれども、祈りすらできない。運営記号が出てこないというときが私たちにあるかもしれない。
皆さん、そんなつらい時、神様は眠っておられるのでしょうか?
決してそんなことはありません。
なんと驚いてつらい時、逃げたい時、諦めたい時、いや行きたくない時、
皆さん、なんとといった時があるかもしれませんが、そんな時に私たちのために全ての状況をひっくり返してくださる逆転の神様がおられることを信じなければなりません。
だから私たちがなんとというふうにびっくりする時に神様は三節のように、しかしとして神様が私たちのそばに現れるでしょう。
三篇の三節の一行目、二行目まで一緒に読みましょう。私の栄光までですよ、三節。
これ合わせて、眠り方は大きな声で一緒に読みたいと思います。
はい、しかしすよ、あなたは私の周りを囲む盾、私の栄光、アミュー。はい、そこまででいいでしょう、皆さん。
だけど、このなんと、そしてしかし、そしてこの三つのプロセスをぜひ覚えていただきたいんですけれども、
なんとといってびっくりしてつらい時があります。そんな事態が起きてしまいます。ところがそれで終わりではありません。
しかしといって神様が、バットマン、スーパーメンではありませんが、しかしといって現れてくださるんです。
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ですから、私たちがどんなつらい状況に置かれていたとしても、私が信じる神様が生きておられ、働いておられ、
自分の子供のために盾になってくださる、私の栄光になってくださる神様であることを覚えていなければなりません。
皆さん、信仰はある意味戦いですけれど、それは外の敵との戦いではなくて、自分との戦い。どんな戦いかと言いますと、
神様はすでに私のそばにいつもおられる。それを自分が認識できるかできないか、その戦いである。
確信できるか確信ができないかの戦いである。
だからある意味、「主よ、私のそばにいてください。」と祈るのは、ある意味ですよ。
ある意味で間違いない。いつも一緒におられる。
どこかの基金室や札幌にいて、一週間後で帰ってくる神様ではない。
いつもおられるんですよ。離れることはないんですね。
だから私がどう祈ったらいいですか?
主よ、あなたが私といつもずっとおられることを、私が認識できるようにしてくださいと祈った方がいいんじゃないですか、皆さん。
神の子供の人生は苦しみで終わります。
必ずしかしといって、神の逆転が始まるんです。
神様の逆転がひっくり返してくださる。
それ必ず起こるという信仰をお持ちください。
神様が大事にしていらっしゃって。
そうしたらいくら不可能に見える状況であったとしても、
神様が指一本で全ての状況をひっくり返してくださることが神様にはできると信じてください。
このダビデと同じ似たような状況で歌ったコラの子孫たちの詩があります。
そこをちょっと私が書きたいと思うんですね。
同じ数編の42編です。
42編、947ページです。
旧約聖書947ページ。
その中で10節と11節だけ一緒に読みたいと思います。
よろしいですか。
ご一緒に3回。
私に敵対する者どもは、私の骨骨が打ち砕かれるほど私をそしり、
一日中お前の神はどこにいるのかと私に言っています。
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我が魂よ、なぜお前は唸られているのか。
思い乱れているのか。
神を待ち望め、私はなおも神を褒め称える。
私の顔の救い、私の神よ。
ダビデと似ていますし、私たちと似ています。
敵対する者があるかもしれません。
誤解されているかもしれません。
違い事を起きているかもしれません。
実際にそういう状況の中におられる兄弟姉妹たちがおられますが、
お前の神はどこにいるのかとからかわれる人があるかもしれません。
そして私たちは唸られている。
もうしぼんでいる。
思い乱れている。
そういう皆さんが今日おられるでしょうか。
その時に、我が魂よ、なぜお前は唸られているのか。
なぜ私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め、私はなおも神を褒め称える。
私の顔の救い、私の神よ。
と、唄うべきではないでしょうか、皆さん。
皆さん、私たちが望みを、希望を、どこに誰に置くべきでしょうか。
神様なんです。神様なんです。
皆さん、これはですね、頭ではわかっていても、
それを実際に、希望を望みを神様に置いて、
そしてその本当に生き生きとした神の助けを、神様の逆転を、
それをですね、私が人生の中で経験させていただきたい。
そうすると、何とか起きても、その次は必ずしかしが来る。
そしてその次は必ず、そして神の日が来る。
こういうパターンがですね、この身についていてわかっているから、
次回に何とか起きても平気なんです。平気なんです。
タヒデは本当に平気でした。
だから彼はですね、いつも賛美で賛美でこの死を占めているんですよ、皆さん。
どうぞ皆さん、望みを神様に置いてください。
ところがダビデのお話に戻りますと、その後どうなったのか。
もうアブサロムの無本でですね、逃げていたダビデは、
ところがダビデは自分の息子ですから、息子に対する愛はあってですね、
そのダビデ側の将軍たちや兵士たちに、もうアブサロムを殺してはいけないと、
守ってほしいとそういうふうに命令をしました。復出をしない。
ところがですね、このアブサロムはラバに乗っていてですね、もう逃げていた最後の時でした。
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それでこのラバが大きな樫の木の茂った枝の下を通ったときに、
アブサロムの頭が大きかったのかすら知りませんけれども、
髪の毛が結構ブサブサしていて、この樫の木も引っかかってしまってですね、
囚人になって、ラバはそのまま逃げてですね、囚人になっていてですね、
何もできなくなって、そういう状態になってしまいました。
ところがそのダビデ側の将軍にヨアブという人がいて、
彼はもうダビデ王に忠誠を尽くすみたいに、そのアブサロムをなんと剣で殺してしまいました。
それでですね、この反乱無法がこれで終わりましたけれども、
そしてダビデは自分はやり返しはしなかった。
息子を失って本当に悲しいことになってしまいましたけれども、
3節のように、
なんとというびっくりする事態が起こる。
しかし、神様はしかしと言って、現れてくださって救い出してくださる。
そして、その人たちの頭を高く上げてくださるんですね。
神様はダビデの頭を高く上げてくださいました。
自ら頭をですね、頭を上げなくていいんです。
本当に誤解され、悪い噂が自分は知らないまま、もう広がっていることがあるでした。
私の夫婦も日本に来て多く経験しました。
しかし、落胆をしません。やり返しをしません。
なぜなら、神様が生きておられ、神様は正義の神様であり、
神様が私の頭を高く上げてくださるにしかいないと信じているからです。
皆さん、もし人に誤解されていますか?
本当に辛い目に遭っていますか?
自分の手には負えない大変なことを、今そのただ中におられるでしょうか?
なんと、しかし、そしての神様の恵みを、助けを覚えて信じてください。
30:07
今日の次元3編は、ダビレの信仰の証です。
ダビレは神様に出会った人です。
彼の人生は本当に波乱万境なものでしたけれども、
しかし、彼はそんな中で、この信仰のパターンをいつも経験していたわけですから、
いつも苦心に満ちていたんです。
なんとと言う、びっくりすることが起きても大丈夫、平気である。
なぜなら、しかしといって神様が登場して、神様が介入してくださるならば、
そして私の人生は逆転してくださる、改善してくださると、それをわかっている、信じているから。
ダビレはこの信仰のパターンをいつも経験していたんですね。
小さい時にゴリアテを倒して、
そしてもう一気に一生懸命に英雄に起動になった時に、
サウル王は妬んで妬んで、この者が鬼だとするんだと思って、
サウル王はダビレを殺そうと殺そうとしていました。
しかし彼はやり返しをしない。神様に祈る。
なんとと言うことが起きたんですね。
しかし、そして実は神様が全てを整理と言いましょうか、整理してくださる、回復してくださる。
そして本当に神の素晴らしい恵みが起こるんです。
ですから皆さん、私もダビレのように、このように信じて明かしする信徒になりたいんです。
なんとと言うびっくりすることがあったとしても、ダビレは賛美を歌える、祈れる人です。
皆さんいかがでしょうか。なんとと言うびっくりしていたら、
慌てて慌てて賛美を忘れてはいませんか。祈りを忘れていませんか。
祈りましょう。賛美しましょう。
そうすると、しかしと言いながら神の御手が現れます。
そして全ての状況を回復してくださるお金。
もし、なんとと言うつらい日々を送っている方がいらっしゃるならば、皆さん心配しなくていいです。
間もなくレイサが参ります。じゃなくて、間もなく神の御手が現れます。
神様は生きておられます。神様は私たちの盾であって助けてあられます。
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最後にイザヤイスを41章3節読みまして終わりたいと思います。
イザヤイスを61章、旧約聖書1226ページです。1226ページ。
イザヤイスを61章3節。ではご一緒に3節を一緒に読みたいと思います。
神様は悲しむ者たちに灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の街灯をつけさせるためである。
彼らは義の果實の木、栄光をあらわす死の植木と呼ばれよう。
神様は悲しむ者たちに灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の街灯をつけさせるためである。
信じてまいりましょう。お祈りさせます。