教会の7周年と祝福
ぶどうの木の教会7周年記念、おめでとうございます。
主が、本当に主に誠実に歩まれて来られてきた このぶどうの木の教会のお一人お一人、
普段、松井先生、ファン先生からその熱い思いを耳元で、 同じ狭い車の中で聞かされて、すごいなって感動しています。
主がどれほどこの教会を愛しておられるでしょうか、それは確信しています。
では、今日の御言葉、先ほどの高先生の熱いお祈りにもあって、 またファン先生のお話にもあったんですけれども、
7周年記念でこの御言葉はどうかなって、 ちょっとうーんって思ったんですけれども、
安心して取り継ぎたいと思います。
まずお祈りいたします。
恵み深い、また憐み深い愛する父なる神様、皆を褒めたたえます。
主よ、あなたの愛が今ここに溢れている。私たちはそれを感じています。
私たち、あなたの見た目によって心一つにして、あなたに栄光を期します。
あなたこそ、私たちの神、私たちの救い主、 私たちのすべてであることを心から感謝します。
この礼拝の中にあって、私たちあなたに賛美をお捧げし、
そしてあなたの見た目によって、私たち一人一人の心が一つにされて、
あなたにまっすぐ目を向けて、あなたを喜ぶこと、あなたを両手を広げて、
あなたに礼拝を捧げられるこの恵みを心から感謝いたします。
主よ、どうぞ、今さらにあなたの見た目でここを満たしてください。
そして私たちの心があなたの前に柔らかにされ、
そしてあなたの恵みを受け取ることができますように、
主よ、どうぞ、あなたが働いてください。
語るものは本当に小さいものです。
主よ、あなたの力を与えください。
また聞かれるお一人お一人が、本当にあなたによって祝福されますように。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
自分を捨てる意味
自分を捨て、自分の十字架を追って私についてきなさい。
皆さんこれをどのように受け取られるでしょうか。
わあ、自分の十字架を追って。
ひょっとしたら中には聞きたくない御言葉、もっと優しい御言葉、
また愛に満ちた、祝福に満ちた言葉があるじゃないって思われるかもしれません。
さっきはそうではないかなと思ったんですけれども、
また人によっては自分を捨てるっていうことがとても難しい。
自分をどうやって捨てたらいいのか。
人間関係の中にあって、またさまざまな問題の中にあって、
自分を捨てたい、問題を大きくしてこじらせているのは自分自身だってことがよくわかるのに、
それを捨てることができない。
私たちいろんなこと、自分自身が結局はいろんな問題をこじらせているのは、
私たち自身ではないでしょうか。
今日の御言葉はマルコの福音書からですけれども、
この御言葉はイエスが弟子たちを導かれて養われて、
旅をあちこちして電動旅行をしている中にあって、
一段ギアを上げるような、そんな場面であるように感じるわけです。
ですからこのブドウの木の教会が7周年を迎えられて、
さあ8年目だって向かうこの時に、
この御言葉は力を与えてくれるんじゃないかと思うわけです。
十字架を追ってっていう言葉は世間でもよく使われる言葉です。
自分の十字架を、これは私の十字架だからって。
一般の人は普通に使うんです。
そういう場合、自分が何か重い罪を犯してしまった、
もうその罪跡感から自分は一生この十字架を追ってという言い方をするわけです。
または何か困難や苦難があるとき、それを受け入れるときに、
これは自分の十字架だから、そのようにして忍耐して、
それを背負いながら人生を歩む、そんなふうに使われるわけです。
私たちもこのようにして自分を捨て、自分の十字架を追って、
私についてきなさいって言われたら、
何か重苦しく、何かこうつらく、
何か私たちはいつも、当然クリスチャンは私たち自分自身の罪を認めたものです。
だからこれを追っていかなきゃいけない。
自分はいつも自分が罪人であるということを思い起こしながら歩まなきゃいけないという、
いつも人には譲って、そして何か償うようにして、
不条理なことがあってもそれを甘んじて受け入れて、
一人に何か意地悪なことをされても作り笑いで、いいよいいよって許してあげて、
忍耐して、忍耐して、十字架追って、っていうのがこの御言葉の意味でしょうか。
御言葉は、でも私たちはそれに従いないことがしょっちゅうなんです。
分からないとき、この御言葉、自分を捨てて、自分を捨てて、自分を捨ててって、
自分にどんなに念じたって自分を捨てきれない。
何かあればすぐ逆上してしまう自分がいて、敗北感を感じるんです。
ペテロの理解と反応
どうやったら自分を捨てられるのか。
この自分を捨てて、自分の十字架を追ってっていうのは、
どういう言葉の前後関係ですね。
それはどういったものでしょうか。
それはこのように主は言われているんです。
誰でも私についてきたいと思うなら、
自分を捨てて、自分の十字架を追い、そして私についてきなさい。
この私という方が、自分を捨てて自分の十字架を追ってって、
私についてきなさいって言われるんです。
私たちは誰が言った言葉かによって、その言葉の力は違うんです。
大好きな人に何か頼まれたら、やってあげたいって思います。
でも嫌いな人に苦手な人に言われたら、聞こえなかったふりして、
ごまかすかもしれない、動かないかもしれない。
でも自分を捨てて、自分の十字架を追ってっていう風に言われた方は、
私という方、私が言われた私についてきなさい。
じゃあその私って誰?って。
いやいや、そんなシューイエスでしょって。
聞くまでもないことかもしれませんけれども。
じゃあそのシューイエスって誰?
この部分の会話の始めに行くと、27節ですけれども、
このイエス様はこういう風に弟子たち、また群衆たち、
イエス様の周りに集まっている人たちに聞かれるんです。
人々は私を誰だと言っていますか?
みんな、もうこの当時はイエス様が不思議な技を次から次へとされるんで、
もうあっちでも噂、こっちでも噂、誰だ誰だ誰だ誰だ。
イエス様って誰なんだっていうことで持ちきりでした。
もうあっちでもこっちでもイエス様の噂が満ちていた。
だからこの質問に対してすぐ答えられるんです。
もう耳にいろんなことが入ってくる。
いや、あなたはエリアです。
いや、あなたはバプテスマのヨハネだ。
いやいや、あなたは預言者の一人だって。
みんなもういろんな答えがワンワンいろいろ返ってくる。
もっとあったかもしれない。
そしてイエス様は次に、では、目の前のいる彼らに、
あなた方は私を誰だと言いますか?って。
みんないらっしゃるんです。
あなたたちもここにいらっしゃるんです。
私もそこにいるんです。
あなたは私を誰と言うか?
みんな顔を見合わせながら。
そういう時、いつも決まって答えるのがペテロなんです。
率先して私たちの言いたいことを言ってくれるのが弟子のペテロなんです。
ペテロ、イエス様大好きで、あなたはキリストですって。
彼は叫ぶ。
イエス様はそのことをうなずかれました。
他の箇所では、他の福音書で同じ記事があるんですけども、
イエス様のことのほか喜ばれた子の答えをって書いてあります。
でもその子と丸子ではそれをかわされるようにして、
そしてイエス様はおもむろにこう話し出されるんです。
長老は、人の子は、イエス様はご自身のことを人の子、人の子って言うんですね。
人の子は必ず多くの苦しみを受け、
長老、最始朝、立法学者たちに捨てられ、殺され、
三日の後によみがえらなければならない。
そして続く言葉は、しかもはっきりと宣言されたと。
断定、はっきりと、もうその言葉に、え、どういうことですかと聞き返す、
そんな隙のない、はっきりとした言葉で、
イエス様のこれから身に起こることを、イエス様は明らかにされたんです。
それを聞いた弟子たち、群衆たちは、聞いたことがよくわからない、
息をのむような恐ろしいものを聞いてしまったように、
言葉が出ない、体が動かない、そんな状況だったのではないでしょうか。
すると、またもやペテロが、イエス様の袖をつかんで、
端に連れて行き、そんなことがあなたに起こっては決してならないって、
あなたはなぜそんなことを言うのか、そんなことを口にしてはいけないって、
イエス様をたしなめられた、それはもっとはっきり言うならば、
叱りつけた、とここに書いてあるんです。
学校の先生が学生より何か悪いことをしたか悪いことを言ったかわからないけれども、
その子をつかまえて端っこに持って行って、個人的に向き合って、
こら!って叱るような、そんな場面です。
ペテロは、そのことが受け入れられなかった。
もし私たちの大切な人、愛する人が、その人の不幸やまた、
怒ってほしくないこと、つらき苦に絶えないことを口にしたら、私たちどうでしょうか。
どれほど心がえぐられるような思いをするでしょうか。受け入れられるでしょうか。
ペテロはイエス様をとっても愛していました。
あなたのためだったら、自分は死ねると言ったぐらいの人です。
あなたにそんなことがあってはならない。
悲しい気持ちと、しかしどうでしょう。
ペテロのその怒り、激しい怒りです。
それはペテロの中に、そのようなことがあってはならない。
だってあなたはキリストでしょ?救い主でしょ?
私たちをローマから救い出す、
違法人の支配の中にある神の民であるはずの私たちが、
なぜ違法人の支配の中に私たちは生活しなきゃいけないのか。
モーセのような預言者、まさにあなたでしょ。
モーセは私たちの先祖エジプトから救い出されました。
モーセのような預言者、あなたこそ、私たちをこのローマから救い出してくださる、
ダビデの子孫であるマコトの王、私たちの王、私たちのリーダー、私たちの支配者、
私たちの救い主ではないのですか。
ペテロもペテロの他の弟子たちも、あなたはキリストですと答えた、
その言葉の意味は、そのような思いがありました。
イエスこそ、イエスこそって。
でもイエス様の答えは、それを真っ向から否定する返事でした。
私はあなたたちが期待するようなキリストではない。
私は捕らえられ、苦しみを受け、
そして長老たち、妻子、そしてパリサイピトたち、
言うなら彼らはこのユダヤ教の信仰のリーダーたちです。
そしてこのユダヤの国で、いろいろなことを支配するのは彼らたちです。
彼らに捨てられということは、
彼らによってイエスという人は無用なものだ、
あってはならないものだ、社会の害になるものだと判断されて捨てられるということです。
そのように判断される。
そして排除される。殺される。
なんで私たちはメシアを待っているのに、
目の前におられるイエス様が言われる言葉はあまりにも矛盾して、
もうわわわわって聞きたくないっていうような、そんなイエス様の言葉です。
イエス様はそのようにたしめられた、何をするんだではなくして、
そういうペテロに対して、ペテロを凝視して、
あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。
皆さんどうでしょうか。
自分の大切な人、この人のためなら死んでもいいって思えるその人が、
自分の目を凝視して、悪魔って呼びつけられるんです。
こんな悲しいことはあるでしょうか。
悪魔、下がれって、私に言ってるんですか。
もし自分にそんなこと言われたら、私だったら涙ぐんで、崩れてしまうかもしれません。
しかし、イエス様はペテロに入った悪魔を、ペテロを誘惑して、ペテロの弱さを利用して、
イエス様が父なる神様の道に歩もうとすることを阻もうとして、
神様との関係よりも、このいつも一緒に旅をしているペテロとの関係の方が
近くて深くて強いものにしようと、誘惑を受けたんです。
イエス様はそれをつかさず、腹へのけられました。
下がれサタン。
イエス様は霊的な分別で、ペテロの情敵、人情とか、
そういったペテロとイエス様の親しい関係にそれを利用する悪魔を見て、
それを追い出されました。
私たちのイエス様もおそらくペテロを愛していたから、
イエス様の底は弱さだったかもしれない。
ペテロの苦悩と誘惑
悪魔は私たちの隙を狙ってきます。
どんなに神様に従いたいと思っても、そうではない神様よりも、
目に見えて、手が触れ合って、ハグし合って、
身近なそういう人たちの方が大切、人の方が大切、
家族の方が大切、友達の方が大切、
そうなってしまうのが私たちです。
しかし、主はそれも誘惑であることも見抜いて払われたのです。
あなたは神のことを思わず、人のことを思っている。
まさにペテロは神様のことを思わず、自分のことを思っていたかもしれない。
神様の御心よりも、主よ主よとイエス様に従いながらも、
イエス様の言葉、イエス様の行動、
イエス様の父なる神様から聞いている御計画に歩もうとするよりも、
ペテロはそれよりも自分の思い、自分の考え、自分の判断、
自分の思惑、自分の期待、自分の望みを
イエス様に乗せていたのでは、合わせていたのではないでしょうか。
ペテロがまた他の弟子たちも、
イエス様はキリストだ、そのキリストというのは、自分の望むキリストであったわけです。
私たちのキリストは、おそらくみんなも、
じゃあ、私はあなたは誰だと言いますかって聞かれた時、
みんな心の中で、いやあなたはキリストだってみんな答えたと思うんです。
そのキリストは、イエス様の言われるイエス様御自身でしょうか。
それとも自分がそのイエス様に重ね合わせている何か自分の望みであったり、
自分の期待であったり、
なんかドラえもんのような何でも自分の言うことを聞いてくれるそういう人であったり、
それもしくは、やたら厳しいキリストであったり、
または、とても甘い、自分に甘い、何でも自分の願いを聞いて、
祈れば何でも自分の望むように叶えてくれると思うキリストだろうか。
キリストは大きいだろうか。
しかし、私たちのキリストはあまりにもちっぽけなものだろうか。
私はあなたは誰だというか、
イエス様が御自身を預言されたように、
イエス様の危機がやってくるわけです。
イエス様が捉えられたとき、
これはペテロに今度はフォーカスして、
その続き、もうちょっと遡って言うと、
弟子たちもペテロもみんなそういうイエス様が明かされる御自身を受け入れることができなかった。
理解できなかった。分からなかった。
それで彼らは、それでも自分たちの願うキリストに従って旅を続けていたんです。
そして、その中にあって、
いや、その時が来たら、誰が一番だ。誰が一番偉いのか。
いや、私か、お前か、そんなこと言っているんです。
もうすっかり自分たちのキリストに彼らはついていっているって。
イエス様、あんなこと言われたけれども。
でも、必ずイエス様は自分たちの望む、それがキリストなんだ。
イエス様の死と復活
その通りに違いないって、そのように念じるようにしていたかもしれません。
その時が来れば、イエス様は立ち上がってくださるって信じて。
しかし、そんな時にイエス様は御自身が言われた通りに捉えられて、
そして、弟子たちはそれを恐れをなして、天でバラバラに逃げていったわけです。
党のペテロはどうだったでしょうか。
あなたは、あのイエスという男の、今あそこに捉えられているあの男の弟子じゃないのかっていう人がいるんです。
いや、私は知らない。
それを3回繰り返した。私はあの人を知らない。
そう、捉えられるイエス様なんて知らない。
あなたは私を誰だというかって聞かれた時、ペテロは喜んで、あなたはキリストですって宣言したんです。
しかし今、恐れに駆られているペテロは、私はあの人を知らない。あなたを知らない。
あなたが誰なのか私は知らないって、3度繰り返した。
あの人とは何の関わりもない。
イエス様が私たちに与えてくださるキリストでないのならば、
私たちが従っているキリストが、イエス様が私たちにしてくださる、神様が与えてくださったキリストでないのならば、
私たちに降りかかる困難や苦難が来た時、私たちは、何でって、不審を思い、そしてわからなくなり、
イエス様なんか知らない、わからない、そのようにしてイエス様を捨ててしまうかもしれない。
イエス様は自分の思い描いたキリストが、その苦難によって崩れ去って、わからない人になってしまうかもしれない。
自分の思い描いたそのキリストは、ここぞという時、一番本当に大切で苦しい時に、助けてほしい時に、何の力も自分に及ぼさない。
そのことがわかるのです。
自分がキリストと思っていた、あのイエス様は一体誰なのか、自分の今までの歩みは何だったのか、
そんな風にして立ち尽くすことが、私たちは信仰を持った後、何度か経験するでしょう。
わからない、神がわからない、なんでこんな状況、神は許されるのか、なんでこんな自分の状態を、主は許されるのか、主はわからない、見えない、ついていかれなくなるのです。
イエス様は、そんな私たちに対して、哀れみの、また悲しみの眼差しをもって、いいえ、愛の眼差しをもって、見守っておられます。
私はあなたを知らないって叫んだペテロに対するイエス様の眼差しは、決して非難する眼差しではありませんでした。
温かな、しかし大丈夫って、あなたは大丈夫って、言われるような眼差しだったのではないでしょうか。
私たちの困難苦難よりも、一番自分を立ち上がらせなくしてしまうことは何でしょうか。
自分の本当の姿、それを知った時ではないでしょうか。
どれほど自分が、自分はもっといい人間だと思っていた。
こんなに醜くて、こんなに愛がなくて、こんなに白情で、そんな自分をはっきりと見せつけられた時、
こんなにイエス様が好きだったのに、あんなに大事に思っていたのに、死んでもいいとさえ思っていたのに、
自分がちょっと危険に晒されたぐらいで、イエス様を知らないと否定している自分、
その自分に本当に惨めな思いで、絶望の中に突き落とされたような、立ちすくむ、立ち尽くすペテロがそこにいました。
そして、皆さん覚えているでしょうか。
イエス様が私たちに明かされたのは、私は長老、最小、立法学者たちに捕らえられて、そして捨てられ、殺され、そして三日後によみがえらなければならない。
それがキリストだっておっしゃったんです。
私たちが耳にするのは、捕らえられて、殺されて、わーって、そんなミッションは受け入れられない。
でも、イエス様が伝えたかったのは、しかしその後に私は三日後によみがえるって。
それがあなたに与えられた神のキリストだって、救い主だって。
主は言われたのです。
今、主が、よみがえりの主がペテロの前に、私たちの前に立たれるんです。
ペテロはどれほどの喜びで、また涙して、また崩れたでしょうか。
取り仕返しのつかないことをしてしまった。
死が絶望です。
そして大切な人の断絶の時です。
でも今、もうできたら、もう本当に地面におでこをすりつけて謝りたいって、
そんなんじゃない、それは自分の本心じゃないって言いたかったペテロの前に、
よみがえられた、死を打ち破られた、私たちの罪を全部負って、
よみにまで下られて、私たちが下る必要がないようにご自身が下られて、
今、目の前によみがえって立ってくださっている。
私たちの前にいてくださる。
そう、神様が与えてくださった救い主というのは、
私たちのこの地上での生活の何か都合のいいようにしてくれる、
またはローマから救い出してくれる、
そんな人時代の一時の出来事、歴史に時間がたれば埋もれて忘れ去られてしまうような、
そんな救いではない。
私たちの魂を、死んでも死にきれないほどの苦しみに葛藤しているその魂の救いを、
罪からの解放を、
イエス様は死を打ち破って、罪のなあめを打ち破って、
今、私たちの前によみがえって、
愛のまなざしで私たちの前に立ってくださるのです。
キリストに従う意味
これが神様が与えてくださった救い主、キリストです。
そのキリストが、私たちの救い主が、私たちに言われるんです。
自分を捨てて、自分の十字架を追って、そして私についてきなさい。
私たちは、自分を捨てなきゃ、自分を捨てなきゃ、
時には自分の十字架を追ってとか、そうではなくて、
私たちを救ってくださったイエス様が、
この三つの言葉を一つに、ワンセットにして、
バラバラじゃなくして、一つにして、
自分を捨てて、自分の十字架を追って、
そして私の後に、私の後についてきなさいって言われるんです。
バラバラにしちゃダメです。これは一つです。
これを一つが、私たちの信仰の土台なんです。
そして、自分を捨てるって、
もうペテロを通して私たち、痛いほど分かりました。
自分の思うように、自分の考える通りに、
それはどんなに浅はかなことか、
どんなに自分の視野が狭くて、自分の考えが狭くて、
そんなこと、あなたに起こっちゃいけないって。
私の身にこんなことが起こっちゃいけない、
あんなことを言っちゃいけない、あれはいけない、これはいけない、これもダメだって。
でもそれは、既に主が許されて、私たちの身の回りに起こっていることです。
私たちのちっぽけな判断で、ちっぽけな考えで、
私たちはそれを、善悪をつけることはできない。
主は私たちの計り知れないもので、
いろんな状況で私たちの弱さを砕いてくださる。
いろんな出来事を通して、いろんな不条理なことがあったとしても、
またそこでのいざこざを通してもまれて、
主が私たちのキリストを知ることができるように、
自分がどれほど歪んでいるかを知ることができるようにさせてくださる。
いや、自分はこんなにちっぽけだから、自分はこれだけしか能力がないから、
自分のあれはこうだから、ああだからって。
いいえ、自分でこうなければならない、ああなければならないではなくして、
主が私たちに求めておられるのは、
今を一生懸命生きること、今を感謝して、イエス様と共に生きること。
今、自分のやっていることはちっぽけかもしれない。
でも、主のご計画は壮大なんです。大きいんです。
その救いの計画も大きくて、ある人には大きなことをさせるかもしれない。
でも、あるところには、ある人には小さなことを、
しかしそれがとても重要なことを任せられるかもしれない。
今、小さなことでも、そこから次の世代、次の世代に、
それは神様は大きなものとして用いられるかもしれない。
大事なのは、今、私たち置かれているところで、
しっかり、自分の役割を、自分の命を、主の愛によって生きることです。
この恵みによって生きることです。
主の御心に従って、主の御用を、私たちは誠実に行うことです。
そして十字架を追って、いやー十字架を追ってって、
私たちいつも苦しみを追って、これは自分の追わなきゃいけない重りだって。
でもどうでしょう?私たちが自分の十字架を追ってって、
いやイエス様、私は自分の十字架を追って、
まだこれから自分の残っている罪があるんですか?ではないんです。
私たちの罪を償いの十字架は、もうイエス様が追ってくださった。
私たちの追う十字架は、もう用済みなんです。
私たちの追う十字架は、むしろイエス様が私たちのために追ってくださった、
その十字架の愛の重みではないでしょうか。
イエス様の愛が大きくて、そしてイエス様の救いの業の恵みと愛とが、
私たちの体にずっしりと、私たちを感じるんです。
私たちはこのイエス様の愛に生かされていることを、
いつもいつも忘れることなく、これを感じながら生きるのです。
そして、私に私についてきなさい。もっと言うなら、私の後についてきなさい。
いやあなたにそんなことは起こってはいけないと言って、
イエス様の前にグイッと出たペテロに対して、イエス様は下がれと叫ばれました。
それは、私の後ろに回りなさいっていう、そういう言葉です。
あなたはいつも私の後ろにいなさい。私の後に従いなさい。
あなたの歩む道に、私はいつも前を歩く。
あなたがこれから苦難に遭うとき、また何か問題に起こるとき、いろんなこと、
でもそれはすべて、私がすでにもう歩んだ道だから。
あなたは私の後ろに回って、私の後に従いなさいって。
イエスに従う信仰の重要性
そして私の歩みから学びなさいって。
主が歩まれた道を、私たちは歩むんです。
一足一足、同じ歩みをするんです。
そこに、精霊の力もあるでしょう。主イエスの知恵もあるでしょう。
私たちが何を恐れる必要があるでしょうか。
もうすべてイエス様の知った道なんです。イエス様が経験した道なんです。
それを主が私たちの前を歩いてくださる。
私たちはイエス様の背中を見て学ぶんです。どうやって歩いたらいいか。
私たちはいつも自分の信仰生活、歯を食いしばって、どうしたらいいのか途方にくれて、
何か問題が起きれば一人取り残されたようにして泣きながら主に祈ります。
いいえ、私たちの前にはいつも主がおられる。
主が私たちが歩んでいる歩みを、私たち以上に、いいですか、私たちの前なんです。
私たちの苦しみのその前を歩んでおられる。
イエス様にとってはもう済んだ道なんです。
だから、信頼して、落ち着いて、イエス様に従えばいいんです。
主の後に従って、主の愛の後に従って、すべてを益としてくださる主の後に従って。
恐れる必要はありません。私たちはこの主に従うのです。
自分の命のことで何か惜しんで、または恐れて、自分を守るような生き方はする必要がありません。
私たちはここにあるように、自分の命を救おうと思うまではそれを失い、
または私と福音のために命を失う者はそれを救うのです。
私たちは大胆に生きるように、だってイエス様の後に従っているんだから、
イエス様が知っている道なんだから、私たちは決して一人にはならないから、
大胆にイエス様の後に従って歩むんです。
大胆にイエス様が私たちにしてくださった愛の行いを周りの人にするんです。
喜びを持って、私は新学生の時にお金が本当に乏しくて、
これを一体どのように使うかということをよく考えて使っていました。
でも私はその後に主が私の信仰生活、また主に従って、
お金のこともチャレンジでした。
そしてでも主が与えてくださる、
必要な時支払いの時にいつも主が私にその必要を満たしてくれる。
何か知らないけど学費を払わなきゃいけない時に書き留めでお金が送られてくる。
そのようにしてまた教会に行けばなんか献金ですってバッグにお金が入っている。
必要なのが与えられるんです。
そのようにして私たちがどんなに、ごめんなさい、
どんなに自分を与えようが自分が減ることがない、
どんどんどんどん湧き出る泉のようにして、
私たちの復活のイエス様の命が私たちの中に与えられているんです。
与えれば与えるほど湧き上がってくる。
愛せば愛すほど私たちの愛にもっと主の愛が分かるようになってくる。
もっともっとイエス様を知るようになる。
私と福祉のために命を失う者はって、
私と福祉のために命を使う者はです。
喜んで隣の人を愛する。
助けを求める人を愛する。
イエス様のように愛の言葉、愛の行い、
そのように生きる時、それもイエス様に従ってです。
私たちはイエス様を学ぶんです。
キリストとは、救い主とは、私にとってどういう方なのか、
イエス様の後に従って歩む時、私たちはこれを学んで知るのです。
そして自分を捨てることがいよいよ嬉しくなる。
自分よりもイエス様。
十字架を置くことが嬉しくなる。
イエス様の愛が私を満たすから。
イエス様の後に歩むことが、これ以上の幸せがあるでしょうか。
最後に保守の富尾さんという方がいらっしゃいます。
恵みと奉仕の模範
皆さんご存知の方多いと思うんですけれども、
彼は学校の先生で事故で全身不遂になってしまって、
その後、ペンを口に加えて絵を描いて詩を書いてという作品をたくさん残された方です。
彼が本当に自分の人生をそのような体になってしまって途方に暮れていた時、
ある人が目に入りました。
ごめんなさい。
そしてそんなことも孔子に残しているんです。
ごめんなさい、どこだったかな。
あの人のようになりたくて、
あの人についていったら、
あの人の前にキリストがいた。
私たちもそんなようになりたいです。
また、のぎくっていうタイトルでのぎくのお花を描いて、そこに寄せた、
これが今の詩ですね。
そしてもう一つあるのが、
命が一番大切だと思っていた頃、生きるのが辛かった。
命より大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。
お祈りいたします。
恵み深い愛する父なる神様、皆を褒めたたえます。
あなたのプレゼントは、どれほど大きなものでしょうか。
あなたが私たちに与えてくださった救い主、イエス様、心から感謝いたします。
私たちはこのイエス様に従いたく願っています。
主をどうぞ、私たちがこの喜びの中にあって、
新しい、これからブドウの木の教会8年目を迎えられます。
この歩みが、自分を捨て、自分の十字架を追い、
あなたのイエス様の後について歩む、
そんな喜びの一日一日となりますように。
そして日々、イエス様がどのような方か、
私たちに与えられた救い主が、どれほどの大きな存在であるのか、
イエス様の業を体験し、イエス様の愛を受け取りながら、
そして、私たちはあなたの光を放つ者として、
私たちの歩みが祝福されますように、
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン