はてなダイアリーの立ち上げ
飛鳥山の窓から、TOKYO NORTH MOVEMENT。
東京都北区飛鳥山。暖炉のある、小篠光洋さんの部屋には、未来を思うさまざまな人たちが遊びに来ます。
情熱とアイデアが交錯した素敵なおしゃべり。さあ、今夜はどんな話が飛び出すんでしょうか。
こんばんは、小篠光洋です。今週も引き続き、株式会社温度、代表取締役社長、近藤淳也さんをお迎えしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
はい、お願いします。
先週は学生時代の話なんかいろいろ伺ったんですけれども、ご卒業されて、
はてな、最初のご創業という風に変わっておりますが、こちらを作られたということなんですが、これのきっかけを教えていただけますか。
一応ですね、大学の学部の時に就活はしたんですが、なんかうまくいかず。そんなに真面目にもやらないうちに。
真面目にやらなかったんだな。
やらないうちに終わってしまい、仕方なくってこともないですけど、大学院に行ったんですけど、そんな経緯で行ったものですから、そんなに身も入らず。
自転車レースにのめり込んでしまって、どっちかというと自転車に乗っているのと、あとインターネットにはまって、インターネットをずっとやっているみたいな。
何年頃、西暦でいうと。
1998年ですかね、大学院にやがったので。
なるほど、そうするとやっぱりインターネットがグーッと出始めたという感じ。
そうですね、インターネットはまっていたのは95年くらいからですけど、ずっとパソコンをやっているか自転車を乗っているかみたいな状態になっちゃって。
我々のようなインターネットしもじものものからすると、パソコン通信とかっていうのが始まっていたみたいな。
そうですよね、そういう時期だった。
そうですね、大学の研究室はすごい恵まれていて、インターネットすごい良い回線が来ていて、グローバルIP使い放題みたいな環境だったので、
サーバーを立ててウェブのホームページを提供するとかも自分のパソコンでできちゃったので、
そういうのを使って遊んでいたら楽しくなっちゃって、研究もせずにホームページを作るか自転車を乗るかみたいなことをやっていたら、
先生からはどうするか決めろみたいな。
大学院は中退しまして、写真が好きで、カメラマンのお仕事をちょっといただくこともあって、自転車レースの写真とかを撮っていたんですよ。
そこからフリーカメラマンを一回志して写真の仕事をやり始めたんですけど、
自分ではこれはなかなか物にできないなという挫折を味わいまして、
大学の席もないし、写真の仕事も道も諦めて、先がない。
どうしようという状況で、24歳くらいの時に何もないという状況になりまして、
捨てるものもないので、インターネットも大好きだったし、アイデアもあったので、
それを一回形にして、やるだけやってみようと思って、
インターネットの仕事というか、一応会社を作ってサービスを作ってというのをやり始めたというのがハテナです。
人力検索のアイデア
そのサービスの中で特徴的なのが人力検索ですか。
これはどういう経緯でそういうアイデアが生まれたんですか。
当時だから1990年、2000年くらいか2001年に起業しているので、
2000年くらいの時に検索というとYahoo!があったりGoogleがあったりしましたけど、
なかなか難しくて検索するのが。
父親が実家に帰ったら検索しているんですけど、たどり着けない。
こういうのを調べたいんだけどどうしたらいいのって聞かれて、
いやそんなの単語を2個くらい入れたらすぐじゃないとか言ってやるんですけど、
それを恥ずかしそうにしている父親がすごい嫌だったんですよね。
ああそうかって言って、どっちかというとインターネット側が悪いと思ったんですよ。
使いにくいだけじゃないですか。
それはすごいありがたいというか素晴らしい発想で、
あの当時って使いにくいというとちょっと分かっている奴がインターネット側に立ってマウント取って
お前ら覚えるみたいな感じだったのを、それをちゃんとユーザー側の味方でやっていただいたということですね。
そうですね、それこそ象徴的なのは2チャンネルとかで聞くとググれカスとか言われて、
自分でググれない人はカスだって言われる世界だったのでめちゃくちゃ怖いというところで、
そういうのはちょっと得意じゃない人に優しくないし、
もうちょっと優しく、人に優しい服できるだろうという気はしていたので、
どうしたらいいかなと思って、
それこそ今だったらAIで自然文で聞けば教えてくれるので、
本当にそれにだいぶ近づいてきていると思いますけど、
当時のAIというのもそこまで賢くもないし、
じゃあもう人に聞くのが一番だなと思って、
人に優しい検索ということで、質問を普通にすれば人間が答えてくれる検索エンジンを作ろうと思って作ったのが人力検索です。
ブログ文化の影響
なるほどね、今AIのお話があってそこに技術は近づいてきていると言っているけど、
でもやっぱりそこの目的って一番近藤さんが最初に考えられた優しさみたいなものが残っていないと、
多分使いやすさも出てこないし、定着もしないような気がするので、
でも原点ですね、それは。
そうですね、やっぱりみんなにとっていいものにしたいし、
それが達成できていないんだったら、仕組み側がまだ発展途上だろうって感じるので、
それを良くするのがやっぱり面白いなと思うんですけど。
大事なことだな。
また創業時は組織のマネジメント作りについてもちょっと苦労された点もあったというのがいかがですか?
そもそもマネジメントするほどの規模になったのはだいぶ後で、
最初は3年ぐらいは2,3人で大学の時と高校の時の友達と一緒に起業してやってたんで、
マネジメントも何もって感じだったんですけど、
そうですね、ちょっとその後ブログのサービスがヒットして大きくなって、
東京にやってきてから一気に20人ぐらいに人が増えてっていう風になって、
ちょっと会社っぽくなってきまして、
ただ自分自身が社会人経験とかもあんまりなかったので、
会社ってどうやってるんだみたいなのは、いまだにあまり分かってないですけど。
中小企業ってマネジメントって、
特に今の若い人たちいろいろ僕らにもどういうマネジメントされてるんですか?
なんてご質問あるんですけど、
やっぱり経営者の全人格みたいなものをどうやって共有してもらえるかっていうところがあるから、
そういう点で言うと本当に近藤さんのさっきの創業の話もそうだけども、
そういうもので今も素晴らしい組織になっているんじゃないかなというふうに思いますけどね。
なといいですけどね。
さてですね、
ハテナダイヤリー、ハテナブックマークなんていうキーワード、
本当にブログ文化に大変なインパクトを与えられたお一人というふうに聞いてますけども、
僕らもちょうどあの頃ね、ブログみたいなのをちょっと始めたり、
それがフェイスブックなんかにつながっていったりもしてるんだけども、
どうですか、改めて近藤さんが当時のことも思い浮かべて、
そのユーザーの反応、どんな感じだったかなという話になれば。
大学の時にインターネットに夢中だったという時に、
具体的に何をしていたかというと、ホームページを作ってたんですよ。
クラブのホームページだったり、自分のホームページだったり。
自分のホームページでじゃあ何するのっていうと、
そんな一学生のコンテンツなんて大したことないんですよね。
だけど何か更新したいとなると何をやるかというと、日記を書くんですよ。
毎日毎日HTMLを書き足していって、
掲示板でコメントをもらうみたいな感じで。
それをやってるインターネット好きの友達っていうのが結構いて、
20人くらいいたかな、学生の時から。
みんな結構自分のことを人に知ってもらいたいっていうのは根源的にあると思うんですよ。
今までは紙の日記帳とかに書いて、
人に見られないところしか書けなかったけど、
インターネットの面白いところって、
それを誰でも見れるところに置いとけちゃう。
しかも結構簡単にというか安く、
誰もが見える場所に書けるって、
今思ったら当たり前だと思うんですけど、
当時はとんでもなく革命的だったと思うんですよ。
本当に日記って、読んでもらいたくない、隠したいって思う一方でもって、
自分の気持ちをそこに投影してるから、
そこ分かってもらいたいみたいなものもあるっていう、
二律相反みたいな、そういうものなんだけど、
やっぱりそれが読んでもらいたいっていう方向に大きくシフトしていったみたいな、
ブログ文化の誕生
僕も実は2012年くらいからフェイスブックをずっと始めて、
年寄りのメディアとか言われながら、
その通りじゃないかって言いながらずっと書き続けてるんですけど、
今の全くそんなこと全然2000年当時知らなかったけど、
本当そういう感覚でしたね、僕が始めたのもね。
そうですね。
ちょっと社会で行きづらさを感じてて、
自分のこと分かってくれる人がどっかにいるかもみたいな人とか、
なかなか対人の関係がつくの難しいというか、
方だけど、だけどやっぱり人とはつながっていたみたいな人とかが最初は多かったと思うんですけど、
あとはすごいね、マニアックな趣味を持っていて、
世界のどっかにはこの面白さ分かってくれる人がいるはずなんだ。
いるんだよね。
そういうリアルな人との付き合いで自分満足してる方よりは、
ちょっとそこじゃ満たされないものがあった人から普及していったと思うんですけど、
そういう人たちを救うような形でブログっていうのを実際作って提供してみたら、
一気に数年で数百万人の方が使うっていうような形に広がって、
やっぱりみんなそうだったんだっていう気持ちでしたね。
アメリカと日本のIT文化の違い
なるほどね。
さて、2006年にはアメリカのシリコンバレーに活動拠点を移されたということなんですけども、
ここで感じられたアメリカと日本のIT、ネット文化の違いみたいなものを教えていただけますか。
なんかインターネットって新しい仕組みがどんどん出てくるんで、
すごい面白いですし、新しいもので世界が変わる。
ブログが出て世界が変わった。
じゃあ次SNSが出てきて変わったっていう、変わるものを作りたいんですよね。
誰かがそれ作ってくれてるわけですけど、
それを誰かが作ったおかげで世界中の人の生活が変わるってすごいことだと思ってて、
そういう新しいものを作りたいと思うんですけど、
だいたいアメリカから出てくるなっていう。
そうですね。
同じようなものをアメリカで流行ってるらしいから、
日本でコピーして誰が先に作るかみたいな競争をするよりも、
そもそも発明がしたいっていうのが僕はモチベーションとしては大きくて、
じゃあなんでそんなに全部アメリカから出てきてるんだろうと思って、
とにかく見るしかないと思ってとりあえず行きました。
そうですか。それどうですか現地って。
すごいそういう雰囲気があったんですけど、
僕のなぜ全部アメリカから生まれてるんだろうっていうことの答えとしては、
めちゃくちゃポジティブだから。
新しいことをやってる人に対して、
基本すごいねとしか言わないみたいな。
だから本人だけがポジティブなんじゃなくて、
みんながそういうチャレンジとかに対して拍手を送る文化があるっていう感じですかね。
自分のアイディア、まだないアイディアを口にしてる人に対して、
基本商算しかないですよ。
ある意味めっちゃ偏ってると思うんですよ。
あそこのカルチャーは。
これかって思いました。
だからスタンフォード大学とか行って、
学生さんのプレゼンとか発表会みたいなのを覗かせてもらったりしてたら、
こんなんなんっていうぐらいのやつもあるんですよ。
全員が全員すごいアイディアっていうわけじゃなくて、
もう別にダメでしょって僕でも思うんですけど、
誰もそんなことにいちいち、
これはこうこうで多分うまくいかないよとか言う人いなくて、
言っても仕方ないって感じなんですかね。
だから別にマイナスのことはあんまり言わないですよね。
すごいねみたいな感じ全部。
だけど多分絶対に誰も出資しないとか。
そういうところに結びついてるだけでみたいなところでしょうね。
批判って別に。
いいじゃん別にみたいな。
やりたかったらやったらっていう。
やっぱりカチウマに乗るととんでもないお金持ちになれるっていうのが、
何十年もの歴史でずっと培われてきてるんで、
そんな荒探ししてるより一番良さそうなところに、
先にお金を入れる、どうやってお金を入れるかっていうことを考えた方が、
得になるっていう。
だからやっぱりそうなんだよね。
要するに本当に資本主義っていうものがベースにべったりとあって、
そこの中でのそれの結果をよく出していくためにはやっぱりポジティブだよっていう、
そういうカルチャーがやっぱりある。
日本人の場合にはそこの根っこのところが良いとか悪いとか別にして、
そこまでじゃないみたいな。
なんかそういうところあるかもしれないですね。
そうですね。世界的にもちょっと特殊なエリア。
やっぱりアメリカの新大陸にまず移ってる時点で、
新しい物好きが来てると思うんですよ、祖先から。
そこからさらに西海岸で金が取れるとか言って、
移ってきた人たちが西海岸に集まってるんで、
新しいチャンスに敏感で飛びつく遺伝子が凝縮されてくるんじゃないかみたいな。
それで言ってずっと見てて金を掘ってるやつよりも、
要するに長靴とスコップを作る方が上手くいくよと思ったら黙ってそれをやって、
それを見てる人もまたそこを出資するみたいな。
そういう素晴らしい、僕らからすると羨ましいカルチャーが
やっぱりアメリカっていう国にあるかもしれないね。
そういうことを肌身で感じてこられた近藤さん。
次回また違った魅力を持たれている温度、
こちらの取り組み内容にも伺いたいと思います。
また来週もよろしくお願いいたします。