例えばその方たちが言ったのは、電車のシーンでパッパッと電気が消えてフラッシュみたいなやつがあるんだけど、
そのフラッシュした、暗転したタイミングでカットを入れて、
次のシーンではちょっと違和感がある。ちょっとずれてるじゃないけど、そういった微妙にずれてるやつ。
立ち位置が変わったりとか、あともう違和感で、大きい違和感で言えば、
これもちょっと勉強して松井さんが教えてくれたんだけど、
冷蔵庫にジョーカーが入っていくシーン。
なんか知らなかったけど、冷蔵庫入ったけどこれ何?って。
暑かったのかな?とか、一人になりたかったのかな?とか言ってたけど、
そのシーンとか、いろんなシーンがあって、その落ちっていうのを見せなかった。
あと、カウンセリングのシーンでタバコを吸ってるんだけど、急に短くなったり。
話の流れは別にカットされてないような流れなんだけど、急に短くなったり。
そういった感じで、時間がぶつ切りにされてたりとか、
夢の中のような、そんな感じのシーンがたくさんあったり。
そういったようなものがあって、すごい違和感のある作り方をしてると。
そのホワイトルームの場面、ラストにも出てくるんだけど、途中にも挟まれるんだけど、
これ工術だって、後の資料の後にも出てくるんだけど、
そういう作り方というか、変わったものがあるんだけれども、
この物語、冒頭にも同様の壁が登場しており、物語の循環構造を示唆しています。
あるんだけれども、
ぶっちゃけ言うと、本当に初期の方から言っちゃうと、
僕、月真央はこの作品のラストシーン、みんながラストシーンのあそこは現実で、ホワイトルームのあそこは現実で、
その前までは、アーサーが妄想して考えている物語だよ、というのがたくさんの人の意見があったりするんだけど、
僕に関しては、冒頭にもホワイトルームの場面があったりとか、
同じシーンがラストになったりで、廊下に出て、足跡がベチャベチャ赤くついてるんだけども、
アーサーに血痕、手とか上半身にあんだけ血が出てる、足のほうに血だまりができてるくらい、
おそらく殴ったんだろう。武器は見当たらないから。
殴ったんだとしたら、ナイフ的なものもなかったし、
考えたらそこまで血が出るんだったら、殴ったときの血しぶきとかがたくさんかかってても、
正面は見えてないんだけども、そういうのがあってもいいのかなと思ったりするんだけど、
そういう足跡だけが赤くて。正面にはついてたかもしれない。
そういってダンスを踊って、左に行って、病棟の人なのか看診なのかに追っかけられて、
すぐにどこでターンしたかわからないけど右に行く。そういった違和感もありつつ。
最後のホワイトルームからのシーンもちょっとした違和感があったりもしたり、
すごく思いついたんだってときに、ブルース・ウェインが両親が倒れてるところに立ってるシーンがファッと差し込まれて、
またホワイトルームの場面に戻って、そこがミスリードじゃないけど、
考えてることをまた映し出したのか、それともみたいな感じに思えた。
あの映画自体、全部が誰かが作った物語ですよ、という解釈をしてみました。
というお話で、ちょっと進めさせていただこうかなと。
もちろんホワイトルームまでが想像、考えてたことで、ホワイトルームから先がアーサーの物語だよっていう解釈もできると思うんだけど、
そういったことで、いろいろ違和感もある。だからこそ違和感がある、いろいろね。
いろんな人が言ってるけど、時計が11時11分だっけ?
現場に出るときにね。
映画の劇中に出てくる時計が11時11分らしいんだと思う。
そういったことからホワイトルームの時計が11時11分。
ジョークを思いついたんだ、のときに11時11分ってことは、前の全てのシーンが11時11分だったってことは、
全部この時間帯にアーサーが思いついたこと、ジョークだっていう解釈とかね、いろいろあります。
そういうこともひっくるめていろいろ考えてみました。
松井さんも、なるほどと、その話を聞いたときに言ってもらったんですけど、
この話はおそらくそういうことじゃないかという仮説に基づいて、合ってるかどうかわからないよ。
ということで、アーサーっていうのは誰かが作った物語の中で、
社会という檻の中に閉じ込められているキャラクター。
それは当たり前の映画だもん。映画っていうのは誰かが作ってるんだから。
その多義的な構造が作品の魅力を高めている。
現実と虚構の境界線を曖昧にしていることからっていうことだね。
アーサーから見ると、観客はアーサーの視点で物語が続いてる。
アーサーはこういうふうに、いろいろ大変だったねって予感するわって思った人もいると思うし、
わー怖い大変いたそう。普通の映画のように楽しめる。
そこの中で違和感がたくさん出てくる。現実と虚構の曖昧性。
その後に、観客たちが作った、観客たちが作ったじゃない、監督たちが作った、
フォアキン・フェニックス、監督たちが作った脚本とかいろいろ設定の中で、
フォアキン・フェニックス、アーサーを演じる、それを観客が見るっていう多層構造。
観客たち、つまり僕たちですけども、今僕たちもいろいろ解釈をしてるよね。
こうだったんじゃないか。アーサーの、いろんな人が言う、アーサーのあの親友と、ああいうことだったんじゃないか。
例えば、アーサーのお母さんと、トーマス・ウェインさんが、過去にできていてうんちゃら。
それが嘘なのか本当なのか。お母さんがグイグイって迷惑かけただけなのか。
それともトーマスさんが本当に愛してたのか。
その辺の材料がどっちにも解釈できる材料を置いてあったり。
アーサーはね、病気?笑い病って言われてるやつだけども、笑い病にかかっているって言っても、
薬をいただけなくなって、国から支給されなくなって、薬飲まなくても、
薬飲んでるときと飲まないときとあまり差異は感じなかった。
そんなに笑いの発作がいっぱい出るわけでもなかったし。
果たして彼はその笑い病を患っているのか患ってないのか。
それが後にカルデに書かれたんだけど、
お母さんのかどもの頃に虐待を受けていて、脳に障害ができてね。
その病気なのか、精神的な病気なのか、外症性の病気なのか、いろいろありますし。
あと面白かったのが、ポッドキャストとかいろいろ見てて、
精神科医の目線からジョーカーを読み解いているYouTubeがあるらしいという本があるんですって。
それを見ると、アンサーは層曲性障害だと。
診断を下す新たな家庭の話として。
そこも治すためにはお父さんの存在が必要だとか、いろいろあるらしい。
そういうふうにも思える。
そういう作り方をしてるからこそ、解釈がいろいろできるということで多層的解釈の可能性です。
ジョーカーは社会批判、個人の狂気、社会の狂気など様々な視点から解釈できる多層的な作品です。
観客一人一人が独自の解釈を持つことができ、それが作品の一部となる構造が本作の芸術性を高めています。
これのさっき全部が作られたものだよってしたときのお話の資料を作ってもらったんです。
見てる人たちも、映画見終わったときにいろんな人が解説してたり、
岡田斗司夫さんとかの有名なところで行くと、岡田斗司夫さんが社会構造がどうのこうのとかね、いろいろ言ってるけど、
みんなのいろんな解釈の動画、ポッドキャスト、文章、
その全てが、単一の答えっていうのが映画で明かされてないからこそ、議論が生まれ作品がより深く理解されるっていう、その壮大な映画。
これね、私たちの話してることも、みなさんが思うことも全てが、
全てがこの映画の一部。ここをもう楽しんでください。
すごいよね。
ジョークっていうのは、このノックノックっていう有名な映画の一部に出てくるんだけど、
このノックノックっていうのはいろんなパターンにできるみたいな。いろんなパターンのジョークにできる。
だから象徴的には、ジョークとしてノックノックっていうのをおそらく用意したのかなって俺は思ってるんだけど、
人によっては警察官が来たよと。
犯罪を犯したときにビビってノックノックって音が鳴って、誰だい?ってビビりながら出たけど、
近所のおばちゃんだったよとかね。ビビって損したよみたいな話があるし。
いろいろ変化できるノックノックっていうジョークがある。
それをみんなも作れるし、作品を見たみんなノックノックっていう、
ジョークを知ったみんなが後でいろいろ変えられたり、みんなが作れるよみたいなことからも、
おそらく僕はこの作品自体をそうやって楽しんだ、みんな巻き込んだ壮大なエンターテイメントとして。
アーサーに共感した、いや共感できないだろうっていう人が現れても、
全部作品の一部として消化されていくという話で、ものすごい壮大な話であって、
結論がジョーカーの芸術と社会的意義っていうので、いろんな要素が盛り込まれていて、
もちろん社会問題とかね、多層的な解釈を促す行動、今言ったことだね。