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【保育・子育て】主体性保育って何することだろう?
2026-07-07 19:50

【保育・子育て】主体性保育って何することだろう?

「ママ、ひとりでするのを手伝ってね!」
個人的に、子供ってこういうものか、と私が子供と向き合う時の指針となった本です。モンテッソーリは私が子供の頃にも有名だったようで、もちろんその他にもいろんな幼児教育論等はあると思いますが、この本にも今も変わらないエッセンスがあるだろうなと思います。
もちろんパパにもおすすめ。(初版の1985頃は専業主婦時代ですから、タイトルは仕方ないね)

#子育て #保育 #幼児教育 #主体性保育 #モンテッソーリ
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はい、どうもこんにちは、たからんです。 今日は、ちょっとスレッズ見ててですね、保育関係の話題が目に入ったので、その話をしたいと思ってて。
主体性保育っていう言葉で、ちょっと話題になっているのがあったんですよね。
ちょっと私も保育専門じゃないし、分かんないんですけども、
主体性保育っていうのをよく言われるんだけども、保育士さんの投稿で、もやもやするという感じでした。
コーディネーターとかが来て、縁の指導したりとか研修したりとかっていうので指導されるんだけども、
細かいことはちょっと1個置いておいて、現場のことで分かってないとか、主体性っていう風に言って、
本人とは違うんだとかですね、そういう話が出ていて、それでいいのかっていう疑問の声が返信がたくさんついているんですよね。
その中で、いろんな人が、どっちかというと、こういうのは批判的な言葉の方が多く出てくるんで、
私も疑問に思ってますみたいなことが多かったんですけど、その中の理由がいくつかあったかなと思っていて、
1つは、主体的にというのが、今までの一斉保育、一斉教育みたいな、集団教育みたいな形のやり方は、
多分あんまり良くないというような書かれた方とか言われ方をしているんだろうなと、文脈から想像しています。
元のガイドラインとかコーディネート研修とかがどういう風になっているのか、私は知らないので、想像でしかないんですけども、
返信内容からすると、ただ自由にやらせればいいというわけじゃないみたいな言葉が書いてあったりするんで、
多分そういう一斉にやることとか、子供の行動を制限するとか、強制するとかっていうのは良くないよみたいな言い方がされているんじゃないかなと想像しています。
多分強要するとかね、子供の考えを無視してやるっていうのは良くないよっていうのは、
一つ指針としてあって良いことかなと思うんですけど、
だから一斉保育がいけないのかどうかはちょっと分からないですよね、というのが私の意見ですかね。
その中のいろんな意見があった中で、私一個、この人の意見、ちょっと近いかなと思うところがありまして、
主体性ってそもそもの主体性の定義を作らないとですよね、それぞれのイメージや価値観で考えるから、何をどこまでやることがいいのみたいな、
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それが分からなくなっているんじゃないかというような、そんな意見をされている人がいて、
一個例で出されていたのが、モンテス総理の縁などでは、決められたルールの中で好きなものを自由に選び気が済むまでやるという環境だから、
主体性が守られているイメージですというふうに言っていまして、
返信されている何人かの方も、ルールがあってこその自由だよねというような意見が何個かありましたね。
私はこの意見に近いな、割と賛成だなというふうに思っていますね。
モンテス総理、私も子育て始まった頃、子育て本を読み漁りまして、
読み漁ってはいたんですけど、あんまり覚えていないし、何が良かったのかも分からないんですけど、
ただこれは良かったなと思っているのは、やっぱりモンテス総理なんですよ。
モンテス総理は自分の中では良かったと思っている。
自分の中ではというのは、親からして自分の目線で良かったなと思っているのと、
子供の行動を見ていても、これは面白い子供が自分で考えて動いているなと思ったのがあるので、
ちょっと1個紹介するんですけど、
モンテス総理で、モンテス総理教育って幼児教育っていうのかな、
1個本を読んだんですよね。
私が1人でするのを見守っていないだけな。
ちょっとタイトル違ったな、ちょっと違ったんだけど。
要するに、子供が自分でやろうとしていることを、親は見守っててくれと。
見守っていればいいんだよという形で、
何とかこれをやったからこれをやったからとじゃなくて、
自分でやりたいことを見つける。
それをとことんやり込むと、納得ができると子供はスッと落ち着くっていうんですよね。
いろんな例で出ていたのが、
ギャーギャーギャーギャー返ってくると騒いじゃったりとか、
感触を起こしたりとかっていう子がいて、
もう先生も手に負えないみたいなことがあったんだけども、
1個絵を描かせるとかして、気が済むまで絵を描く。
毎日毎日同じ絵を描いているとかね。
っていうのを繰り返し繰り返しやって、
飽きるほどやったら他のこともやればって思うんだけど、
それをこう全部やり切ったら、
どっかのタイミングでピタッとやめるんですって。
ピタッとやめて、精神的にもすごく落ち着いてっていう風になる。
っていう話を見てですね、
なんかやっぱり子供というか、
この世に来た生命体っていう感じ。
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この世に来た生命体としてですね、
人間の最初の状況って、
一体この世って何なんだろうとか、
自分のこの今沸き上がっている気持ちというのかな、
なんかこれは何だろうっていうのが結構いっぱいあると思うんですよね。
そりゃそうだよね。
いきなり性を受けて、
自分は何者なんだろうとか、
見えている他の人間、他の動いている奴らは何なんだろうとか、
起こっている石は何だろうとか、
今なんか音がしたとか、色が見えたとか、
全ての刺激が何だろうと思っていて、
こうするとどうなるんだろうとか、すごくいっぱいあると思うんですよ。
それを突き詰めて、
あっ、こうなんだって思った時に、
スッとこう踏み落ちて、
すごい気持ちの中で、
分からなくてちょっと不安になっていたとか、
やってみて、やって確かめたいみたいなものが目指されると、
落ち着くっていう気持ちがすごくよく分かりますよね。
あらゆることがそんなに溢れていたら、
この分からないことを何とかしたいという風に思うと思うんですよね。
私、自分の宇宙人の世界に連れ去られて、
そこで生きていかなきゃいけなくなったとなったら、
地球の常識が全く通じないってなったら、
色々試すと思うんですよ。
それは大人になってからの考え方と、
またちょっとこの元は違うかもしれないけど、
そういう子供のイメージをする時って、
宇宙で過ごすことを考えたりするんですけど、
そういう探求心というか、
知りたいという気持ちは多分あるだろうなと思うんですよね。
今回この死体戦のところっていうのは、
モンテストーリーのもう一個、
いい遊びっていうのがあって、
この遊びというよりは、
色んな選択肢を準備しておいて、
子供に選ばせて、
子供がその時自分で遊びたいことを選ぶという感じの
環境を作るという話だったんですよね。
私は子供が小さい時は、
リビングにカラーボックスを何個か、
5個ぐらい、
3段ぐらいのやつを並べて、
そこに色んなおもちゃとか絵本とかを
ずらずらと並べていましたね。
手に取りやすくて、
しかも片付けやすいという感じで、
この場所にこのおもちゃがあって、
この場所にこの絵本があるよという感じにしておいて、
こうしておくんですよ。
子供が好きな時にそれを取り入れて、
好きなものを集めていると。
その環境を用意した時点で、
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3×5の15個の領域の中に用意したものは
親が用意しているので、
そこに子供の世界の無限の自由度を奪っていますよね。
とも言えますよね。
親が選んでいるじゃん。
親が誘導しているじゃんという風になっていて、
なっているんだけど、
全然それでいいと思うんですね。
生きている世界、大人だって今生きているこの環境って、
無限の中から自分が選んだわけじゃないじゃないですか。
日本に生きているとかそういうだけで限られた環境の中で、
その中で常識の中で動いててみたいなところがあるので、
それが不幸なのかと言われたらよく分からない。
とりあえずと言うことがあるので、
別にそれを大人が環境を用意するというのは、
子供の自由を奪っているという意味ではないと思うんですね。
さらに何でもない状態、何もない状態、
全てのものをその場所に置くことはできないので、
じゃあ子供に、はい、どうぞ、自由に。
いいからね。物はどこにあるか、どこにあるから、
好きに選んでいいからね。
どの部屋に行ってもどこの家に行ってもいいよ、
と言って選べるかと言ったら選べないですね。
どこにどんな世界があるか知らないからですね。
なのである程度の大事なのは、
主体性って私の中の定義は何かなとちょっと考えたんですよ。
さっき定義が曖昧だという意見があったので、
その時ちょっと思ったのが、こんな感じかなと思ったのが、
自分の中に動機的なものがある、動機がある。
こうしたいという動機がある。
その動機を乱すための行動を自分で選択する、選択ですね。
動機と選択した行動という関連性の根拠を説明できる。
自分の中に根拠がある。
あれを満たしたくて、そのためにこれをやれば、
動機が満たせるんだという関係性の根拠があるわけですよね。
思ったことを自分でやるということが本来あるんじゃないかなと思ったんですよ。
端的に言うと、自分で選んで自分でやる。
選択と実施するという2番目と4番目だけでいいんですけど、
選ぶ、何でそれを選んだというのがあるじゃないですか。
だってこれを知りたかったからとか、
やらなかったというのが自発的に自然と浮かんでいて、
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それをやりたいんだよというのがまずあって、
だから今これをやってるんだよというのが多分あるんですよ。
最初に言った感触を起こしたりしている子が、
ずっと同じことをやって、いつの間にかストンってやめて、
気持ちが落ち着くみたいな話って、
やってる目の前のそのこと自体もそうなんだけど、
それをやることによって分かる気持ちというのが動機があると思うんですよね。
適当に例を出すと、
よくあったのが息子が、あれはなんていうやつだっけな、
リグノだっけな、積み木みたいなやつがあるんですよ。
積み木に四角い積み木、キューブ状のサイコロ状の積み木があって、
真ん中に穴が開いているんですね。
円筒状の穴が開いてて、
筒みたいなやつが、トイレットペーパーの形みたいなやつが抜けるんですよ。
そこにその同じぴったり合う積み木になっているから、
そこに合わせるとカチャって収まるんですよね。
でも円筒状だから、ちょっとうまく角度を合わせないと真っ直ぐストンって落ちないわけですよ。
それを手にとって、ガチャガチャガチャガチャって触って、いつの間にかポンと落ちるんですよね。
ポンってなって、もう一回外して、もう一回穴に落とすみたいなことを繰り返し繰り返しやるんですよね。
それをやっているときって、穴に落としたいことをやっているんじゃなくて、
穴に落とす、なんで穴に落ちるときと落ちないときがあるのか。
その感触、手の感触で話すときに、こうすると落ちるんですけど、こうすると落ちないんだっていう違いがあるぞっていうのがあって、
どう自分の、手の感触があるじゃないですか、わかるじゃないですか。
手の形ではまったときと、斜めにはまってそれじゃ落ちないってときと、
スッと落ちるときって、今大人になってイメージするとわかりますよね。
手先の感覚なのかなんなのかっていうのが、どこみたいな、そういうのがありそうみたいなことがわかって、
そのときに、いろいろ試しているときに、あ、きた、これだ、これだみたいな。
なのを、すごい繰り返し繰り返しやってて、あるときわかるというときに、
普通の不に落ちるという状態になるのかなと思うんですよね。
だから、具体的にっていうのって、自分がこうありたいと思ったことに対して、
だからこれを試す、これを実行するっていうことを自分で選ぶ。
だからそれができる、やるっていう、その一連かなと思っていて、
その一連の状態を大人の視点で都合で阻害するってなると、
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それは主体性を止めちゃったんじゃないかっていう考え方でいいのかなっていうふうに思います。
で、正直生活の中でいろいろ制限しなきゃいけないことはたくさんあるんで、
あるんで、それはまあそれはしょうがないんだけども、
子どもに主体的に動いてほしい。
主体的な状況にさせてあげようって思ったときには、
大人としては選択、自分で、
要時期は自分で選択する、それをやる、できたっていうそこの経験だけでいいかなと思うんですよね。
根拠がどんどんとか、そんなことは別に考えなくてもよくって。
根拠がどんどんっていうのはね、これね、会社の話なんですよ。
自分の会社の部下とかが仕事の進み方に割とこう、
一言で言うと指示待ちみたいな感じで、
あんまり自分の意見言ってこないなみたいなときに、
なんか主体性ないなって思っちゃうじゃないですか。
どうしたらいいと思うみたいなのが、とりあえず言ってみっていうのがあるじゃないですか。
経験があったとしても、
上司とかのやるっていうことが全て正解なわけじゃないしっていうか、
ほとんど正解じゃないと思ってるんで、
いろんな意見の中から持ち寄って考えた方がいいと思ってて、
でもそのときに意見が出ないって、
何も考えて何がしたいっていうのがないっていう。
その動機とか、だからどうするっていう根拠とかっていうのを持ち合わせてないっていうことなんですよね、それだと。
それだと何も生まれないじゃんっていう。
だからやっぱり自分の中に自分で選択して、だからこうなんだって。
それがあってても間違っててもっていうか、
大体失敗してるんで失敗から学べばいいと思ってるんですけど、
それをやるっていう経験っていうかが大事だと思うんですよね。
だからこのモデストリーのような形で環境を用意するっていうのは、
大人が子供の可能性を狭めちゃってるんじゃなくて、
まずは選ぶっていうところの、
選んでやってできるっていうことが世の中たくさんあるんだ、
それで分かってくることがあるんだっていうことを経験するために、
ファーストステップとしてそれを用意するっていうのは、
幼児期とかにはいいんじゃないかなって思うんですよね。
その他のいろんな世界がもっと広がって、
自分で選ぶことがどんどん増えていくっていうのって、
徐々にというか、その時その時でまた環境とか世界、
広い世界を提示したりとか自分で見つけたりとかしてまた選ぶ、
っていうことの繰り返しをしていけばいいと思ってて。
だからただ何でもいいよってやるのは逆に、
どんな選択があるのかを知るきっかけをもしかしたら、
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奪うとまではないけど気づくチャンスが減ってるか、
減っていうかね、チャンスに出会えてない可能性があるかなっていう気はしますよね。
枠を作ったとして、その枠から選んだ。
でも確かにこの枠があると、
このカラーボックスの15個から選んだっていうことが分かってきて、
この他に何かないの?って次来ると思うんですよ。
で、その時にまだ他にもあるよとか、
自分で他にもあるんじゃないかって探していくとかっていう風に結局なるんで、
なんかね、枠を決めるとかルールを決めるっていうことが悪いっていう風に言われてることが
どうも主体制とかで多そうで、
何でもルール作らなければいいってわけじゃないみたいな意見があったんで、
なんかそういうところかなっていう気がしますね。
だから私も主体制育てるのに、
ルールの作り方とか選択肢の与え方とかっていうことは
いろいろ考えた方がいいと思うけど、
ルール作ること自体が悪いとかそういうことじゃないかなっていう風に思いました。
ということで、いろいろと、
ただね、幼児教育、保育ってことに何がいいか全然分からないんですけど、
でもこういうことを考えると、さっき会社の仕事の話もしましたけど、
結局大人も幼児も同じことなので、
そういうところから学べることが多いかなと思っていて、
保育ネタやっぱり面白いねって思いますね。
ということで、今日も最後まで聞いていただいてありがとうございました。
私の知らない新しい世界を教えてくれるあなたの存在に感謝します。
皆さんにも素敵な記憶のある毎日となりますように。
ダカランでした。それではまた会いましょう。
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