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はい、どうもこんにちは、たからんです。
今日はですね、ちょっと子育て振り返りみたいな話なんですけども、
あのー、乳幼児の時ですね、子供が、ゼロ、ゼロはまだ、ゼロというか、
今話すのは1、2、3歳ぐらいかなーって気はするんだけども、
えー、私がその頃ね、気をつけて、気をつけてというか結構印象に残った言葉に、
自然からの宿題という言葉がありまして、ちょっとその話をしてみようかなと思ってます。
あのー、ちょっとね、きっかけはリール、インスタのリールっていうの?動画が流れてきて、
えー、てかですね、1個目に入ったのが、えっとね、あの玄関で、保育園で帰ってきた玄関のちっちゃい子。
あれはどのくらいなんだ?3、4歳ぐらいなのかな?なんですけど、
もうちょっとちっちゃかったかな?玄関の入ったドアのところで立ち尽くして、
泣いているというか、いやいやってなっているという、そういう動画で、
お母さんがこうしん坊主よく話を聞いてというかね、そんな動画だったんですけど、
なんか、ざっくり言うと、車から降りる時に、たぶん後ろに乗っているんでしょうね、チャリットシートで。
後ろから降りる、普段普通に降りるんだけど、なんかね、前の運転席の前の方から降りるっていうのをやりたいっていうのを、
たぶんどうやら以前言っていたような感じの会話がありましたね。
前から降りたかったんだねって、でもそこから降りないで、後ろから降りちゃったんですよね。
で、そのまま家に入ってきちゃって、降りられなかったっていう気持ちが残って、
どうやら怒っていると、そんな感じの絵でした、絵というか、対話していまして。
それに対して、前から降りられなかったんだねっていうような、降りたかったんだよねっていうようなことを聞くんですね。
本人、やっぱりまだ語彙力もないし、自分の感情もうまく説明できないところもあったりするんで、
とにかく、あーっていう気持ちだけがまずあって、泣いているというか、かなりぐずっていると。
だけど、どこに原因があるのかなっていうのを、しんぼ強く探るんですよ。
ちょっとした口ではしばし言ったようなことに対して、こういうことがやりたかったのかなっていうようなことを投げかけてあげて、
それに対してうんなり、うんなりの反応をするわけですよね。
それを本当にね、結構限界先でもすぐに家に入って夕飯の仕掛けしてやりたいだろうに、
そこで、あーってならないで、しんぼ強くやっているという、そんな事例でした。
そのうち、その子は笑顔になったりしたんですけども、いろいろ経てね。
今日それを見て、あーって思い出すというか、いわゆるイヤイヤ期みたいな話がありますよね、子供の。
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イヤイヤっていうのって、っていうのをどういうふうに見てきたかって話ですね。
私、ちょっと前の最新、一個前かな。
保育園に長く預けるのがどの子の、どの子のっていうか、いいのか悪いのかみたいな話がちょっと話題に出してて。
朝ね、朝保育園に連れて行くのが私の夫の役割だったんですよ。
それを毎日やったんだけども、あまり早くしなさいとかって言って、こうやった記憶がそんなになくてないなっていう印象があったんですよね。
朝なんでね、忙しかったら忙しかったと思うんですけども。
その玄関先での話とはまた別なんだけど、全体的に子育てをしようと思って、子供と見ていこうと思った最初の頃に、
大事にしてたっていうか、意識下にすごく強くあったのが、この子たちは自然からの宿題を今受けてるんだっていうふうに思うっていうことでした。
この言葉ですね。
モンテス総理教育っていうのがあって、モンテス総理の幼児教育っていう本ですね。
モンテス総理の幼児教育、一人でするのを手伝ってねっていうタイトルの本なんですけど、
この本を読んだんですよ。
これ子育て、子供が生まれる前だったか、生まれてすぐの頃ですかね。
なんかその時、私自身は子育てしてたわけでも、保育園まで行ってるわけでもなくて、妻が育休中でだったんですけど、
仕事行って、仕事場に行く直前ぐらいに本屋さんがあるんですよね。
なんかあさっぱらか空いてる本屋さんで、そこでちょっと5分か10分ぐらい読めるんですよ。
そこでちょっと立ち読みしてて、なんか大事かもと思って買った本なんですけど。
このモンテス総理の考え方っていうところに、ちょっと今ここであまり詳しくは述べることが難しいんですけど、私は。
だけど学んだことっていうのが、幼児、幼児期っていうのは段階的に発達していくっていうものがあって、
今その子っていうのは、自然界からの宿題、宿題って言い方知ってましたけど、自然界からの課題というか、生きていく、発達していくにあたっての課題っていうのかな、経験っていうのを与えられてるんだと。
それに今向かっているんだっていうことで、そこに対して親っていうのは、それを支援するというかサポートする、伴奏するっていう、そういう立場だし、そういう環境を用意するっていう責任があるっていう、そんな感じのことがまずメースにあるんですね。
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イヤイヤ期の状態っていうのもよく書いてあって、ちょっと引用するわけじゃなくて、私がこれ昔読んだのって、何が書いてあったか一問一答覚えてるわけじゃないんだけど、印象として強く頭に残っているのが、小さい子、ゼロされから生まれて、無の状態から生まれて、自分の手っていう存在があるとかそんなこともわからないような、目も実はよく見えてない、なんか聞こえるみたいな、そんな感じのとこから、
自分というものがあって、自分の外界には何かがあって、何かの人なりに助けてくれる人がいて、どうやらママという存在がいてみたいな、そんなとこから始まって、だんだんと世界を理解していくんですよね。
その中で感覚的なものを繰り返し繰り返し同じことをずっとやるみたいなのがあるじゃないですか。うちの子なんかこう、積み木に穴が空いてるやつがあって、そこにぴったり合う形のものがあるんですね、筒状の感じの。
それを筒状の穴がくり抜いてあって、筒状のものがあって、それをカチャンって入れるんですよ、カチャンって。入れたらまた外して、またもう一回カチャンって入れてっていうのをもう永遠繰り返すんですよね。
永遠繰り返したりとか毎日やったりとか、毎日本これ読んでってなったりとかするじゃないですか。ああいうのもずっとずっと同じことばっかりやって、他のことやらなさいとか、ずっと夢中になっちゃったりとかあるんだけど、あるところで自分が満足してこれでいいって思うとピタッとやめるらしいんですよ。
大人はもう一回やればわかるじゃないかとか、そんなね、一ヶ月も何回も同じ本読まされるとかあるかもしれないけど、その中で一回一回確かめてるんですよね。
本だとちょっといろいろね、文字とか音とか情景とか色とか、いろんな要素がいっぱい入ってくるんじゃないかと思うんだけど、さっきの積み木の話なんかでも、この穴の形にこの筒をただ当てたんじゃ入らなくて、この角度にすると入るんだとか、自分で手を持っていって、手の摩擦のあるこの感触の、この抜けた感じのところで入るんだとかみたいな。
言葉にするとたぶんすごいいろんなことっていうのを感じて確かめてる。で、こういうことかって思う。
大人だったらだいたいわかるじゃないですか、穴が開いてるものがあってそこに使われて、じゃあ目つぶってても手の感触とかで落とすこととかできますよね。
そういう感覚ってどうやって身についてるかっていうと、ゼロの状態からこうかもしれない、こうかもしれない、こうかもしれないっていう実験を超繰り返してて、そこでわかってくっていう、そういう課題を幼児たちはやっていると。
さっきの車のデザインって話も、たぶんその頃ってあんまり記憶とか記憶力とか、時間の概念とか日とか週とかの概念とか、1週間、2週間とかね、毎日のルーチンの概念とかっていうのはあんまりまだ根付いてない時期なんじゃないかなって思うんですね。
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ちょっとここで今適当に時期がどうかっていうのは発達の話としては私の感覚で適当に言ってるんですけど、でも実際将来記憶っていうのは発達段階によって何々とできるものらしくて、
例えば、自分はいつもここから出てるけど、前から出る、あの違う位置から出るっていうことを体験してみたいみたいな、確かめたいっていう思いが出たときに、それができなかったらもうその次にいつその機会が来るかなんてわかんないわけですよ。
今思ったのにできなかった、絶好のチャンスあったのに逃したみたいな、たぶんそんな気持ちなんじゃないかと思うんですね。もうなんだあそこでやらせてもらえなかったんだと、俺がこれを確かめるために全力でこれが今ここだと思ったのにみたいなぐらいのがあるんじゃないかなと思ってて。
じゃあ明日やろうっていうのがわかんないんですよ。わかんなかったりするわけですよ。明日またそれが来るっていうことがまだ理解できてなかったりとか。そういうのもあって、やりたかったのにっていうふうになる。
じゃあ今からもう一回やろっかっていうふうに、それも嫌だっていうことはありますよね。そのときはもう一回今からできればいいじゃない別の理由があったりするんでしょうね。
それはわかんないんですけど、でも何かそのときやりたい、確かめたい、知りたいっていう強い気持ちと、強い気持ちというかね、こだわりとかそういうんじゃなくて、たぶん本能的な人が大人が当たり前に感じられるようになる能力を身につけるための本能的な欲求なんじゃないかなと思うんですね。
それを感じようとして、それを感じて確かめたい、経験して確かめたいっていうふうに思っている。それができなかったときの感謝くなり、嫌だったりっていうことだと思うんですよね。
この状態になったら宿題があったのねって思うんですよ。宿題があったのにすまん、気づかないで取り越しちゃったわっていう気持ちで接する。それを叶えてあげることはもしかしたら取り尽きちゃってもうできないかもしれないけども、そうだったんだねって気持ちを理解してあげるっていうのかな。
まずはそれが必要だろうなっていうのがあって、その理由のお母さんはそれがどこだったのかっていうのを確かめようとして、一生懸命時間をかけて確認してたっていうところがすごく印象的だったなと思いますね。
そんな感じがあるんで、その辺を考えていると、なるべく子どものやっていることを邪魔しないようにしようっていうふうに思うんですね。大人が大人がやっていることを子どもが邪魔していると思うかもしれないけど、大人が子どもが生きるための訓練っていうか本能っていうのを邪魔するんですよね。それをなるべくしないようにしなきゃっていうふうに思ってたっていうのは結構あります。
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とはいえ生活があるんで、まるまる別に全然成人のようにやったわけじゃないんですけども、でもそれ一個思っていると、イライラというかっていうのは、イライラするときはありますよ。うるせーよって泣いてる息子の中でうるせーよって言う方もすみません、あるんですけど。
でも基本的にそういうもんだなっていうふうに思っていると、理不尽な子どもがよくわかんなくてもっていうような親としての自分のダメージっていうのは結構少ないと思いますね。少なかったと思います。
そんなに困ったような印象はあまり持ってないですよねっていうところがあるかなとは思ってますね。
なんかそういう子どもの立場というか、子どもに憑依してみて、何もわかってない子どもが何かを確かめたいという研究心っていう感じを想像すると、結構子どもの行動っていうのは全部面白く見えてくるんで、
そんなふうに見ていると少し日々の気持ちが楽になるかもしれないなと思います。ただ忙しくてイライラしているのはしょうがないです。
だってそんなに自分に罪悪感を感じすぎずに子育てするのがいいんじゃないかなと思ったりしてます。
自分の経験が思い出されたのでちょっと喋ってみました。
今日も最後まで聞いていただいてありがとうございました。
私の知らない新しい世界を教えてくれるあなたの存在に感謝します。皆さんにも素敵な気づきのある毎日になりますように。
タカランでした。それではまた会いましょう。