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2021-09-17 28:23

#18(s3-6) 大政奉還に乱れる日本。その日本を勃興させるべく生涯をかけた偉人たちが目をつけたのがお茶だった

日米修好通商条約(不平等条約)によって不利になった日本の貿易。

日本は大政奉還により混乱期のなか貿易摩擦が加熱し、なんとかしないと!と立ち上がった人々がいた。


その人々が目をつけたのがお茶産業を作ることであった。


広大な不毛の土地と言われる牧之原台地を開墾。


中條景明、山岡鉄舟という剣の達人が剣を捨て、なんと生涯を掛けて茶畑の開墾に乗り出した。



その背景には徳川家、勝海舟、そして渋沢栄一がいた。



今回も最後までお楽しみください。


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はい、では後半です。お茶業、ここから激震の時代を迎えると、はい、ということで
はい、前回概要をやりましたので、詳細のところ、幕末ですねまず。 幕末
はい、黒船来航のところからいきます。この黒船がやってきたことで、今回二つのストーリーで話をしていきますね。
一つは新政府、明治政府がどんな考え方をしてどういう動きをしていったかということと、江戸を追い出された旧政権の徳川家が何をやっていったか。これが全部お茶でくっついていくので、ここがちょっと面白いところですかね。先に言っちゃったけど。
まず黒船が1853年に日本にやってきます。有名なペリーですね。ここで日米和親条約を結んで1854年鎖国を終えて開国、そこから1858年日米就航通商条約という条約を結びます。これはもう教科書にも書いてあるんだけど不平等条約と言われていて、これひどいんですよ。
まず関税自主権が日本にない。アメリカ人が悪さしても日本の法律で裁けない。結構そういう不平等条約。これが何を表しているかというと、貿易において日本とアメリカの力の差ですね。
貿易に関しては圧倒的にいます。この開国によって日本の文化文明がどういう挙動をしていくかというと、これが文明開化につながっていくんですけど、ヨーロッパ諸国の文明を輸入しまくることになります。
輸入してくるんだ 坂本龍馬がジーパン履いてたとかブーツを履いていたなんていうのも結構有名な話じゃないですか。同じように洋服ガンガン買うんですよ。日本は当時洋服を作る技術がありませんので買うんですね。
ああ買うんだ ああガストをね 街灯に使われてるあれですね。それから靴、鞄、あと洋式建築、あとレンガ積んだりするあれですね。洋式建築だったりとか石畳だったりとか鉄道の技術だったりとかそういったものを物資とともに買い入れていきます。
これが何が起こるかというと買う方が圧倒的に多いわけですね。売るものが少ないと。で税金もちゃんと取れませんので国はこのまま行くとどんどんどんどん貧しくなっていってしまいます。ここで貿易赤字が起きますよね。明治政府めっちゃ焦るんですよ。
なぜかこの少し前にアヘン戦争が起こってですねイギリス対中国当時のシンですねと戦ってなんとイギリスが勝ってシンが負けると。世界最大の国家が負けてしまうわけです。
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日本にとっては親も当然の国ですね。このまま行くとイギリスの植民地になってしまうのではないかとこういう焦りが生まれるんですよ。で軍事的脅威を覚えた明治政府は二つの指針を出します。一つは富国強兵。
聞いたことありますねこれは。国を豊かにして兵士を強くしましょうと。と同時にこの富国につながるんですけど食産工業。商業を勃興させて力つけましょう経済的に復興していきましょうと。経済的に伸ばしていきましょうというこの動きがあります。
ちなみにこの富国強兵や食産工業を明治政府がなすために何人か日本人を海外に視察に行かせてますね。聞いたことないですか。伊藤博文初代総理大臣。福沢諭吉学問の勧め。渋沢栄一。この人たちはパリ万博なんかも行ってますね。
ああパリ万博この頃か。 でそのフランスの市民がどういう風な政治の関わり方をしているかを観察したことでそれを持ち帰って書物にまとめたのが彼の有名な学問の勧めですね。
ああそれをまとめたのがそうなんだ。 ちょっと今挙げた3人共通点気づきませんか。伊藤博文、福沢諭吉、渋沢栄一。全員1万円札。
ああ1万円札は。 2023年でしたっけ渋沢栄一に借りますね。現在福沢諭吉その前に伊藤博文の時代も1万円札じゃないか伊藤博文は。お札になってますね。ちょっと僕らの時代じゃないので記憶薄いですけど。僕も小学校くらいまでなので。
僕も生まれてないからね。 これみんなお札当領ですね。ちょっとどうでもいい話ですけど。どちらかというと今回お茶がかかわってくるのは食産工業の方です。
食産工業ね。 貿易の強化でこの時日本が力を入れた輸出品目が3つあります。これが木糸、糸ですね。と銅。それからお茶。この3つです。
ちなみにこのキートで有名なのは富岡製糸工場。あそこがその時に作られた工場ということですね。あと棒石ね。糸から布を作るところですね。
ああそういうことね。 この時にできた工場のうちの一つが進化して今でも残ってるのが金棒さんとかね。
ああそうなんだ。 金棒の棒は棒石の棒ですからね。 ああそうなんだ。
あと織り機を作っていた。当然ね棒石をやるためには糸から布を織る機械を作らに行きませんから。この機械を作っていた企業が後に自動車を作ってトヨタ自動車になってきますね。
ああなんか映画で見た。 はい。トヨタ佐吉さんの物語ですか。 うん見た。すごかったあの人も。
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これは実はこの時キート側でもこういう動きがあるわけですよ。で似たような動きがお茶側でも起こるわけですね。
お茶側でも。 まずそもそもなぜここでお茶が選ばれたのか。土台があるわけです。
さかのぼること開国した年1853年。これはたまたまなんですけど長崎に大浦恵という女性がおりましてね。この人は油商人の娘です。
恵さんのお父さんは普通に油売ってる商人なんですね。長崎ですからオランダ人が出入りするわけですよ。出島があるので。ここでオランダ人がこの飲み物おいしいね。何これと。
ということでお茶のことを紹介するんですね。帰り際に手土産だっていうことでお茶の見本を少し渡すんですよ。
そしたらですね。大浦恵さんすっかり忘れてたんですけど3年後に大量のお茶の注文が入るんですよ。この注文の量がびっくりするんですけどいきなり6トンの注文が入るんですよ。
6トン。すごい大きいね。 すごいことですよ。1回の商人が扱う量としてはとんでもない量ですね。なんならこの人油商人ですからね。
油商人に注文が入る。 なので日本でかなり初期この段階で輸出をしたお茶は静岡茶ではございません。長崎のお茶です。
長崎にはもうあったのか。 これ英才が一番最初に茶園を開いたのここですから。この地域ですから。
そうかそうか。 だからこの元祖のルーツを持ってるところから輸出が始まっていくというのが面白いですよね。
これでお茶が売れるということを理解するんですよ。ちょうどその後に日米収購通商条約さっきの不平等条約が結ばれて貿易が始まるわけですから。
ここからお茶売れるかもというのを掴んじゃうんですよ日本人が。これでお茶やろうぜという方針が明治政府側で出ます。
で一方で徳川家これが1867年大正奉還もう貿易が始まった後ですね。
江戸幕府がなくなって徳川家は寸布、今の静岡県に移り住みます。この時にもともと所領が400万国あったのが70万国に激減しますね。
だいぶ減った。 82.5%オフ。
安売りじゃないんだから。 自分の収入80%オフとか。
資格問題ですよ。 年収500万の人がいたらいきなり100万になるわけですよ。ありえないですよね。
さすがに生きていけないんじゃない。 この時家臣たちのことを家族同然と思っていますので、考えたら自分の給料減ったからって家族リストラしないじゃないですか。
なんとかして養わなきゃいけないわけですよ。ここで徳川家がめちゃくちゃ頑張るんですね。
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この人たちをなんとか仕事につけてあげなきゃいけない。大量の失業者を救わなきゃいけないということで目をつけたのが牧野原大茶園。
大茶園。 今でこそ大茶園。当時は不毛の地。見捨てられた土地。
不毛の地に目をつけたと。 これなんで不毛の地だったかと言いますと、まず水がない。
水がないんだ。 まずも何もこれが最大の理由。すぐ近くに特急河川の大井川が流れてますよ。
だけど標高差が100メーターくらい軽くあるわけですよ。 確かに結構上にあるわ。
ポンプもない時代。電力のない時代。どうやって汲み上げます? 手動?
はい、人力です。だからこの人たち人力でマジで頑張るんですよ。 人力でやったの?
お茶を育てるために必要な水を、雨水をため息作ったりもするんですけど、初期段階では大井川から汲みます。やばい挙動します。
だってかなり広いよね。人力か。 その頃はまだちっちゃい茶園だったので、頑張って。
後々明治政府が大きくなって明治後半になるまでずっと政府に陳情し続けますね。水のインフラ整えてくれって。
それは昭和までずっと続いていきますから。 長いことやるんだね。 長いことやっていきますね。
これを圧戦した旗頭になったのが、蚊の蚊蚊回収。 蚊蚊回収。
江戸幕府がある時となくなった後で動き変わるんですけど、江戸幕府時代のことは別のところで聞くなり調べるなりしてください。
幕府崩壊後、蚊蚊回収は何をやっていたかというと、平たく言うと後始末です。
後始末。 さっき言った就労圧戦ですね。お仕事見つけてくること。それから資金援助。その人たちにお金を貸してあげる。
生活保護の組織を作るとか。とにかく混乱とか反乱を最小限に抑えるために動いた。徹底してますここは。
そのために自分の力とか知り合いとかいろんなパワーを使って動きまくるんですね。
その知人で有名なのが山岡哲史。この人が幕末の体制崩壊の時に結構使者として動いたりした人なんですね。
朝廷との朝政役、それから薩長同盟側との朝政役で動いていたのが山岡哲史です。
この山岡哲史が結構あちこち歩き回ってるんですよ。実はこの時代。
今でも伊豆の修善寺にゆかりがあってそこで禅の修行をしたり書を書き残していたりとかしますし、
今の浜本寺にあるお寺にも同じように書が残っていたりとか。 そうなんだ。
割と歩き回っていますね。その影響が清水の二郎町。そこそこ有名な方ですね。
この方とも割と仲良くなって。清水の二郎町からそんなにあんた言うんだったら
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あっこにでかい大地があると。不毛の地だけど人さえ集めりゃなんとかなるかもしれんよって。
ちなみに二郎町って何? 清水の二郎町知らない?
森の石松とか知らないか。 なんか名前はなんとなく、名前は知ってるけど。
今の清水市に住んでた敵家の親分みたいな感じですね。仁教の世界の方ですよ。
そうなんだ。 この方はヤフザまではいかないけども、
そっちに寄ってるような方。ただ今みたいに犯罪を犯しまくるわけではないですよ。
この方が町の復興のために尽力をしたということで有名になってますね。
じゃっきり節にも出てきますよね。男は二郎町。これが清水の二郎町ですね。
その人のことなんだ。 その古文の筆頭が森の石松。森町の石松さんですね。
へえ、名前だけ聞いたけどそういう繋がりなんだ。
時代全然違うんでわからないと思いますけど、芸能人でガッツ石松さんっているじゃないですか。
あの人ボクサーだったんですけど、ボクサーとしてリングに上がるときには森の石松の格好をして登場してましたよね。
知らないと思うんだけど。これ昭和です昭和です。
そんな。 どうでもいい話。どこ行ったかわからなくなっちゃうけど。
行くわけですよ。山岡哲史は。で誰と一緒に行ったかというのがこれが駐場影明という人ですね。これは剣術繋がりです。
剣術繋がり。 どっちも剣の達人で山岡哲史は剣の達人ですし駐場影明も剣の達人でね。
こっち駐場影明は徳川義信15代将軍なので最後の将軍ですね。の敬語隊長なんかも務めてますね。
へえすごい人だね。 この方を連れて牧野の大地に行くわけですよ。
でどうやら記録によると二人で一回水汲みやってますね。試しに。
剣の達人が。 視察に行ってここ行けるかなーって言っていや水ありませんけどって言って。
いや下に流れてるじゃないか。やれやります?やってみよう一回。行けるかもしれん。
言ってなんか桶担いで二人で水汲んでえちらおっちらまた登っていくわけですよ。
で馬子弟子これきつかろうって言ったら駐場影明がやってやれんことはないじゃないですかって。
何そのど根性論。 結構ど根性なんですね。
でこの駐場影明がじゃあいいっすよ。なんだったら私やりますから。オッケーっす。
言ってそれが勝ち返しのとこまで声が上がって分かった。じゃあ徳川家として支援しよう。
ということになるわけですね。でこの駐場影明は自分の配下精鋭部隊が敬語隊があるんですけどこの敬語隊の名前を精鋭隊と言いますけどこの精鋭隊とともに
機能機能って言って変える農民の農ですね。農民になるという意味です。刀を置いて農民になります。
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剣の達人? 剣の達人が剣を振るうことをやめるんです。
これからは産業の時代だから剣はいらぬと言って。
すごいね。 本人が言ったとされる記述がちゃんと残っていて
不毛の地で推論に乏しく民に見捨てられているけれど私に与えてくれれば命を懸けて開墾してみせると。
何その男に。 これを徳川家とで明治政府に言い切るんですよ。
すごいな。 すごいですよ。で金谷原開墾方。
この金谷原っていうのは牧野原の別名ですね。牧野原のふもとが金谷町という地名だったので
そこから来て金谷原を開墾する人たちのことを呼んで金谷原開墾方という役職をつけます。
だいたい200名程度です。 200人でやったの? あの広さ考えたらびっくりするけど初め200人で始めるんですよ。
ええ何か途方もない広さだけど。 いろんな身分の人がいるんですけど基本ほぼ武士。
あれかさっきの職業にあぶれた武士たちの働き先か。 そうです。ある意味リストラにあっちゃった人たち。
でもリストラしたくないから会社作るみたいな感じですよね。女子どももいるし農学士。踊る人ですよ。
ああ踊る方の農ね。 あと歌う人とかねそういう人たちも混ざってて。
面倒くさいのが中条陰明よりも身分制度時代に格上だった人たちも混ざってるんですよ。
ああ。 プライド高いんですよ皆さん。これを中条陰明がまとめていくこの大変さ。
相当大変だと思う。 あなた今31の状態で50とかの料理業界の従事人たちを携えて新しい会社を起こすわけですよ。
いやー考えただけでも嫌だわ。 これまたそこに異業種のちょっと格上の人たちもいるわけですよ。40代とかの。
自ら望んできたならまだいいんだけどなんか追われてきてるからさ絶対嫌々の人とかいるじゃん。
ここに合流した人たちがいます。大井川の川越人足。もともと江戸時代っていうのは大きい川特に大井川は橋を架けるなということになってたんですね。
なぜかというと西側から攻めて来られないように川を防壁の代わりとして使っていたので川を渡るときは肩車で渡るとかね、濡れないように。
あとおみこしみたいなやつですね。あれに乗るとかお金を払って渡してくれるんですけど渡す仕事をしていたのが川越人足です。
ところが明治政府になったのでそんなルール作らなくていいので船使っていいよってことになっちゃったんです。
川越人足いらないわけですよ。大リストラです。この人たちも吸収します。
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だからもうありとあらゆる人たちがそこに合流していくんですね。これ束ねるのやばいっすよ。
だって一気に振るでしょ。 型や文字が読めない人たちがいたり、型や文字を読んでそれを歌にして踊りにしてやってる人たちがいたり。これはえぐい。
いやー労働者と文化人が一緒くたでいきなり農業やろうって言ったからすごい幅の広さだよね。
これはゴリゴリにやっていくんですよね。この時に裏でコソーっと動いてる人がいるんですよ。コソーっとでもないけど。
これがさっき出てきた渋沢栄一。 これ少し時代が後になっちゃうんですけど渋沢栄一は500いくつの会社を作って
日本の復興に貢献したことで有名ですよね。その作った会社の第1号が商法会社という名前の株式会社です。
商法会社。 これ商工会議所とかは全く関係ない別の名前が似てるだけですね。この会社というのが今の株式会社というのと同じ意味ですね。
これを作った場所が寸布。静岡市です。 静岡市に作ったの? これねちょっとややこしいんですけど、藩が政府からお金を借りるんですよ。
今でもありますよね。国から県に予算がつくみたいな感じで。で貸し付けなんですこれ。 貸し付けなんだ。
現代は国家から県に対して助成金みたいな感じでお金をくれますけど、あれは貸し付けだったんですよ。初め。だから返さなきゃいけない。
でもそんな簡単に返せるわけないよねっていう時代なんですね。幕末の動乱を乗り越えたばっかりの、しかも徳川家ですから。
でこれをなんとかせにはいかん。渋沢栄一もともと徳川家の家臣でもありますから、これをさらに葛藩衆らの了解を取って渋沢栄一が運用を始めるんですよ。
ほお でこれを使って起こした会社がこの商法会社ね。ここで利益を上げてその利益の中から政府への返済を始めていく。
へえ 返済ですよマジで。わずか8ヶ月で8500両の利益を出すと。
8500両 8ヶ月で8500両だからこれ利益ですからね。だいたい1両あたり20万くらいだったかな確かね。
なんでもうこれ日本円現代のお金に関するとちょっとやばいぐらいなんですね。
1億6000万とか。利益でか。 利益ベースで。1年経ってないですから。
8ヶ月で。えげつないね。 8ヶ月で。でこれで何をやっていたかというと村にお金を貸すっていう事業をやってるんですね。
はあ でこの村で何をやってたかというと茶摘みとか製茶の費用、このコストをこの会社が先行投資するんですね。
ああそうなんだ。 要はお茶の産業って年1しかお金が入らない仕組みじゃないですか。農家って基本的にそうですね。
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特に1種類作ってるところって。だからお茶の産業が始まる前の冬とかってちょうどお金がない時期なんですよ。
このタイミングでお金を貸してあげるんです。でお茶が売れて利益が出たらその中から返済をしてもらうという。
お金を貸すというか資本投資融資とか投資の世界ですねこれは。これをやって利益をガンガン出していく。
つまり商法解消がなければ、逆側から見るとですよ。商法解消がなければ茶産業はここまで大きくなれなかったとも言えるわけです。
ああそういうことになるね。 はい。これがねじがーっとボディーブローのようにずっと効いていくんですね。
へえ。 ちなみにこの渋沢一は8ヶ月で商法解消を去りますけどね。
ああそうなんだ。 別の会社作りにどっか行っちゃいますから。これがすごいですね。
さあ牧野原は今どうなっているかというと地道にずっと開墾をこの資本とかも入れつつ頑張るんですね。
2年間で500ヘクタールの農地を作りました。 500ヘクタール?
桑だけで。 桑だけで? うん。桑とスキートでああいうマジの人力ですね。
わあすごいね。 はい。200人で。 200人でしょ。
全然お茶できなかったみたい。 いや開墾だけで精一杯。
3年目か4年目ぐらいにちょろっと葉っぱが取れてあまりにも嬉しくて
家族で女性たちはもうフリソデみたいなああいう晴れやかな着物を着てお祝いしたらしい。
牧野原からんでもないな。 すごいよね。ここからねさらにすごかったのがこれは明治政府の命令もあるんだけど
農地開放するんですね。これまでは牧野原大地というのは徳川家の持ち物なんですね。
ところがこれを明治政府は良しとしなかったのもあり一旦国のものにします。
でそれを開墾していた農民にプレゼントします。みんな自分のものにしていきます。
中条影明の手を離れていくんですよ。影明はこの間もずっとこの人たちが元気で商売ができていくようにずっと指導したりとか助けたりとか
寄り合いを作って協力する体制を作ったりとかしてどんどん進行のために動いていくんですけど最終的に自分の手が離れていくんですね。
これで中条影明一回手離れるじゃないですか。それで明治政府からもこの男はすごいという評価をされるんです。
マジすごいじゃないですか。で何が起こるかというと県知事やってくれないかという打診が来るんですね。
そんな話来るんだ。 静岡県知事じゃなくて隣の神奈川県知事。
当時は神奈川県令で県令って言うんですけどね。神奈川県令をやってくれませんかという打診が来るんですけど即答で断ります。
マジ即答です。その場で。言った時のがまたかっこいいですよ。読みますね。
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一旦山へ上がったからはどんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木の肥やしになるのだ。
何その闘技。 マジ 本当にこの人は下りないんですよ。ずっと死ぬまで。
だってめちゃくちゃ開墾大変なのにさ。県知事になればさ。もっと別のこともできるしさ。この肉体労働とはおさらばするのに。
しない? マジ しない。しかも別にこの人儲からないんですよ。 儲からないの?
もう開放してその土地は農民一人一人のものになってますよね。そこのお茶が売れるとその人たちの収益になるわけですよ。
ああ確かに。 だから駐場かけ焼きは自分の畑の収益しか残らないんですよ。
ああそういうことか。 でも徳川家のため。引いては日本のため。お国のために頑張る。以上。
へえすごい選択。 ね。ほらよく歴史の授業聞いてると幕末なんかはね勝った側も負けた側も
どちらも国のために働いたんだっていう表現が出てくると思うんですよ。 うん聞いたことある。
負けた側は負ける役目として日本を支えたと。まさにその延長線上にこの人はガチで生きてます。
いやすごいな。 すごいでしょ。静岡茶ってこういう人たちに支えられて開かれていくんだよ。
ああ今のお茶すごい。 ね。旧幕神は歴史の表舞台にはなかなか出てこない。特に幕末を終えた後ね明治になると。
だけどちゃんと生きてる。こうやって。 ちなみにこの中条陰明の県の弟子文化生がいるんですね。
これは江戸にいた人ではなくて金谷原に住んでいた土着の農家農民かなまあ家の大きい人ですけどこの文化生の中の一人に出てくるのが後々日本茶業近代化の礎で縁の下で踏ん張りまくった河村総兵なんだよね。
ああ弟子だったんだ。 そう。河村総兵は中条流剣術勉強もらってますから。
そうなんだ。えー。 河村先生僕らの恩師ですねがたまに年に1回かそこら茶道剣という展覧会やりますね。
ああやってる。 だから剣なんです。
ああそうなんだ。そっちの剣の方の免許もちゃんと持ってて。 持ってる。達人なんですよ。
達人だったんだ。それで茶道剣なんだ。やっと意味わかった。
あとで話しますけど河村総兵さんがどうしてこんなに情熱を傾けて茶業の発展に貢献したのか。それは中条輝明からも魂注入されてるからですね。
ああ中条輝明が師匠だから。 というのもあります。もちろん旧幕府からも給料もらって働いてた身なので同じ思いは通じたんだと思いますよ。国のため徳川のためというのは。
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これが織り重なってしかも地元民ですから。必死になって働くんですよ。
へえ。 このストーリーこの連綿と続く魂のつながり。やばいっしょ。
すごいね。 こうして牧野原大地が一気に広がっていく。
このベースになっているのはあくまでも輸出なんですね。 ああ輸出なんだ。
日本国内に売るではなくて海外に輸出して日本にお金を入れて富国強兵につなげること。この1年なんですよ。
ああ。 近代茶業静岡の元々は輸出のことばっかり考えてます。
ああ最初から輸出なんだね。 輸出をするということは当然ですけど
諸外国がお茶を欲しい欲しいと欲しがってくれないとお話になりませんね。
事実欲しがってくれてたんですけどじゃあなぜヨーロッパやアメリカがこんなにもお茶を欲しがったのか。
ここが次回です。 ああここが次回か。 今日は言わない。
この回言わないんだ。 言わない。 じゃあ次回早く行きましょう。
じゃあここまでありがとうございました。 ありがとうございました。
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