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お聞きの皆様、おはこんばんちは、現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。
えっとですね、ここ最近ね、ミミコさんが色々人のね、人というか人格分析をね、されているシリーズがめちゃくちゃ面白かったんですけれども、
この舐められ女ね、舐められ女はかなり自分も該当するなーって思ってね、色々反省したり、考えたりしてましたね。
この舐められ女vs盛る女ね、盛るっていうのは自分を盛る女ね、っていう話の切り口でちょっと喋ってみようかなと思いました。
はい、私は何がどう転んでも舐められ女ですね。
舐められるっていうか、とにかくこれはね、私の生まれ育ちとか色々ね、そういったことに原因があるので、もう多分このまま一生を終えますね。
舐められ続けながら、生涯を終わること確定だなって思います。
そもそもがね、このダンカイジュニアっていつも言ってるこの世代自体が舐められている世代じゃないですか。
なおかつ私は帰国子女として日本に帰ってきて、日本語が当然喋れないまま、子供の一番残酷な、小学校ぐらいの子供って多分一番残酷だと思うんですよね。
何もだから、善悪の区別がつかないですしね、何も道徳的な概念がまだ備わってない年代なんでね、こういう時ってのはとにかく残酷だと思うんですよ。
こういう時に放り込まれたんでね、すごいいじめられないように、浮かないようにっていうことをね、最新の注意で気をつけなければいけなくなっちゃったんですよね。
もう挙動一つがね、当時、今はね多分日本もすごく変わったと思うんですけど、当時はね鉛筆の握り方一つでもバシッて先生からね、定規でね、手を叩かれるぐらい厳しかったんですよ。
あと左利きの人が右利きに強制されるっていうのは結構、スタイフ聞いておられる方の中にもいらっしゃるんじゃないでしょうかね。
これ多分もう今してないですよね。だって全然する必要ないことなんでね、左利きをなぜ右利きに強制しなきゃいけないんでしょう。
何の別に必要もないのに、これをあたかもね、左利きっていうのは異常というか異形だとして、右利きに強制してたっていう、そういう伝統があったんですよね、割と最近までね。
そういう厳しい厳しいこういう右向け右社会みたいなものがね、まだ脈々と私が子供の頃はあったんで、
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例えばね私なんかは腕組んだりね、腕組むじゃなくて足を組んだりして座ったらね、これも行儀が悪いって言ってバシッて叩かれたりね、足を払いのけられてピシッと90度に曲げてね、
背筋もちゃんと伸ばして教科書は立ててね、立てて読むみたいなね、そういう姿勢から鉛筆の持ち方から、腕の上げ下ろしから、右利きか左利きかとか何もかもそうやってね、
管理されてたようなところにね、自由に気ままに育ってたアメリカの子供がね、ピュンって日本に帰ってきたわけですよ。
だからね、それはそれはね、異形の目で、異端の目をね、あの人は異端だっていう感じで見られて、
あの深刻ないじめは受けてないんですけれど、やっぱりなんかかんなちゃんって変みたいなね、あとなんか服装が変とか、みんなが流行ってて持ってるものを持ってなかったら変、
もう何でも変だとかおかしいとか言われてきたので、浮くと損だっていうね、目立つと損だっていうことはすごく刷り込まれました。
あとは、英語ね、中学に上がると英語の授業が始まりましたね。今ってもっと早く始まるんでしょうかね。
私たちの頃は中学からようやく英語教育が始まったんですけれど、ここで、まあ私は当然英語の発音がネイティブなわけですよね。
そしたら、おいおい寸尺、お前RとLの発音ちょっとやってみてや、とかって言われるんですよ。
で、RとLって綺麗に発音を区分けできますよね。うわ、すごい、外人やんとかって言われて、もうすっごいそれが嫌で、
だからそれはね、だから冷やかされてるのはいじめと取るんですよ、こっちはね。なんかこうバカにされてるっていうふうに取るわけですよ。
だからわざと発音を悪くして授業を受けてました。だからね、今の若い人からしたら信じられない。英語ができて羨ましい。
えー、いいですね、羨ましいですねって言われるんですけど、何一つ羨ましいことなんかなかったんですよ、私たちの世代はね。
ちょっと人と違うっていうことはもうそれだけでリスクだったんですよ。みんなと同じようにね、サラリーマンのお父さんと専業主婦のお母さんの家庭で
縦売り住宅に住んでて、兄弟が2人で、そういう家じゃない人はもうみんな異端だったんで、いじめられるか変な目で見られるかだったんで、もうね、いじめられちゃまずいんでね。
すごい息を潜めて生きてたんですよ。本当に今思ったらくだらないことなんですけど、勉強もできすぎちゃダメなんですよ。
男の子とかだったらいいですよ。女で成績優秀すぎたら、なんやねんあいつなんか可愛げないなぁみたいにね、思われるので、やっぱりちょっとねバカなフリとかしてる方が得だったりするわけですよ。
だから何でも目立っちゃダメっていうね、そういうあのまだ時代に幼少期を過ごしてきたんですよね。でもう一つ言うと家庭でもね、
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母親がね、とにかく忙しくて飛び回っていて、祖父母に私を預けて仕事してたんですよね。なのでこの厳しい厳しい、超厳しい祖父母に私は育てられたんですけれど、
もうね、絶対におじいちゃんおばあちゃんのご機嫌を損ねないようにしなさいよと言われて育ったんです私は。もう行き場がないですからね。このおじいちゃんおばあちゃんを怒らせたら、
もう追い出されたんでは母親はね、仕事ができなくなっちゃうんで、何が何でもおじいちゃんおばあちゃんとうまくやってねって言われて育ったんですよね。
これだけ聞くとね、すごいかわいそうな人だと思われるかもしれないですけど、これはね、自分自身もね、母親自体が超絶厳しかった、この教育ママゴンとパパゴンだったね、自分の両親から厳しく育てられているので、
自分が受けてきた、親に遠慮しながら気を遣いながら生きてきたということを、子どもにも何の疑問もなく同じことをやらせようとしたに過ぎないんですよね。
だからここに悪気はないんですけれど、今見ればちょっと異様なことですよね。今はやっぱりもっと子どもにも人権があるし、子どもの意向っていうのは大事にしなきゃいけないのでね。
だから復習すると、私個人の家庭環境における問題が一つ、それとこの世の中自体がこういうふうにすごく男尊女卑で、画一的で、一億総中流っていうね、今みたいに格差社会になった今となるとね、
この当時のもうみんなが中流のサラリーマン家庭で、みんながそれなりに経済的豊かさを享受できた時代っていうのをすごくよく言う風潮が今ありますね。今あまりにも格差が生まれてしまったんでね。
でも私はこの一億総中流時代の弊害もなんか体感としては感じてるんですよね。みんな同じじゃなきゃダメだったんですよ。
だから隣の人が例えば1戸建てのお家を買って住んでるんだったら、自分もいつまでも車宅に住んでたらダメだとかね、団地に住んでたらダメだとかね。
お隣さんが車買ったらね、例えばクラウンを買ったら、うちもこんなカローラとか乗ってる場合じゃないぞとかね。そういうふうにしてみんなが同じものを持たなければいけないし、同じような平均的な暮らしをしなきゃいけなかったし。
だからいつも比べる相手は隣近所っていうね、すごく狭い村社会みたいな感じで、みんなが同じものを目指してた時代に1人いたんだとね、それが仮にいい場合もね、いい場合も別にあんまり良くは思われなかったんですよ。
男でもちろん東大行ってるとかだったら、それはもうすごいことなんですけれど、たとえば女性でそこまで優秀だったりすると、女の子でそこまで優秀でも意味がないのにねとかね、結局あまり良く思われないので、すごく能力が高い人って結構実はいたと思うんですけれど、女がそこまで優秀でも得しないっていうね、そういうまだ時代だったので、みんな自分の爪は隠してひっそりと暮らしていたっていう、
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時代背景もあるので、とにかく目立ったら損、浮いたら損ということで、自分を自分以下に見せるっていうことをしすぎたために、ちょっとその年代が違う人から見ればね、すごく舐められたんだろうなっていうふうにちょっと思いましたね。
女の世代からは当然バカにされてるし、今となったらこの若い年下の世代からも、なんとなくはっきりしない人たちだなと思って舐められてしまうのかなと思ったりしました。
で、こっから今度はね、盛る女ね、盛り盛りに自分を自分以上に見せる人っていうのが、今度私たちの世代は、だからこういうふうに自分がもしかしてすごく能力があったり、すごく例えば用紙も一緒ですよ、すごく綺麗な人とかも、いやいや私なんてそんなって言って、何でもとにかくそんなことない、そんなことないって言って、自分を過小評価して小さくしておかないと叩かれちゃうんでね。
何でもいい方にも、自分が他の人よりも優れてた場合も小さく見せなきゃいけなかったんですけども、今はやっぱり個性の時代ですよね。個性があって、人よりもちょっとでもオリジナリティがあってユニークな方が勝ちだという社会になぜかなっちゃったんでね。
そうなった時に平均的な人では勝負にならないわけですよ。だから自分をすごくオリジナリティのあるすごい人だっていうふうに、盛らなきゃいけない社会になっちゃったような気がしますね。だから今のこの自分業とか、いろいろそのなんかこう
自己啓発セミナーとかね、いろいろあるんですけれど、なんでこんなに自分を必要以上に、自分を自分以上に見せる必要があるのかなって思った時に、こういった私の世代とは違った今、市場価値が求められてるせいなんじゃないかなっていうふうにちょっと思ったんですよね。
だからもう何でもかんでも自分はすごくインテリですとかね、自分はすごくこんなレアな趣味を持ってますとかね、自分はもうこんなすごい特技がありますとか、大したことないことも盛り盛りで言わないと抜きに出ることができないみたいなね、そういうところがあるのかなぁちょっと思ったりして、
まあ私のこの舐められるっていうかね、自分を自分以下に見せて、あの人に警戒心を持たれないようにするっていうね、あのそういう社会的な所成術ですよね。こういったものがもう今は必要とされなくなって、
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まあ風通しが良くなったのかなと思う反面ね、自分を盛り盛りに持って、私ってすごいでしょっていう、私すごいのよみたいなことを、ことさらにあの強調しなきゃいけない社会っていうのもなんか息苦しいもんだなと思ってね、なんかちょうどいい自然体な感じっていうのがね、あの訪れた時に本当に真に成熟した社会ということが言えるのかなと思ったりしました。
だからね、もう結論はないんですけれど、舐められ女も盛る女もなんかどっちもなんかパッとしませんよね。なんかこう自然体女みたいな、あのもっとのびのびとね、できる人は私はできますって言える人とかね、気持ちいいですよね。
できなかったらできない、でも正直にできない、できませんって言える、こういう素直さ、正直さ、あのあるがままでいるっていうね、ことを目指したいなと思います。というわけでね、まあ舐められることは一生変わらないと思うんですけれど、まあ自分をね、変に減り下ったり、卑屈になったり、そういうことだけはね、ちょっと控えていこうかなって思ったりしました。はい、というわけで今日はこれで終わります。ごきげんよう。