1. 現役リフォームプランナーの業界裏話
  2. 40年ぶりに韓国に行こうと思い..
2024-10-16 21:45

40年ぶりに韓国に行こうと思います。 #220

Sunnyさんと春木先生の配信から、高校の修学旅行を思い出しました。

▽スープとイデオロギー
https://youtu.be/teK5g7iZCl8?si=8ob3hUFJkTeAJKiy

▽Sunnyさんの配信
『#88 韓国の黒歴史 済州4.3事件のお話』
https://stand.fm/episodes/670bba3dfbae8bcde93af99b

▽春木先生の配信
『時代の変わり目とポンコツな僕』
https://stand.fm/episodes/6709ee9f67ba20f575bd6c7d

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お聞きの皆様、お運ばんちは、現役リフォームプランナーの寸尺かんなです。 3、4日ほど前に、サニーさんが、チェジュ島という、これ、割と数年前までは、最終島という日本語読みで言われていたところですね。
チェジュ島で起こった悲惨な歴史について、触れておられる配信がありました。これは、私、すごく胸が痛むというか、触れるかどうかも迷いながら、ようやく何日か経って、気持ちが落ち着いてきたので、それについてお話ししたいなと思います。
実は、私が行った高校は、私が若かった高校生の頃なので、まだまだ今みたいに、反流ブームとか、ヨン様とか、一切そういうことはなくて、ほとんど、すぐ隣の国にも関わらず、韓国とかね、朝鮮に関することっていうのは、ほとんど知らずにいた時代です。
その時代に、早くもね、修学旅行先が韓国だった学校だったんですよね。高校1年生の時から、みんなペンフレンドね。ペンフレンドっていうのは、文通の友達のことなんですけれど、これをね、みんな割り振れされるんですよね。
1年間かけて、文通をしながら、この当時なんでね、ネットも何もない時代なので、お互い手書きの手紙を書いて送り合ってたんですよね。1年間交流を温めて、高校2年生になった時に、いよいよ自分のペンフレンドの相手と会える、直接会えるっていう、そういう仕掛けがありまして。
1年間ずっとそのペンフレンドを持ちながら、高2の時に船でね、プサンに行ったんですよね。まずはね。プサンに着いてから、いろんなところを巡って行って、最終ソウルでフィニッシュっていうね、今思ったら何日ぐらい行ってたのかな。
結構長かったですね。1週間近い旅行だったと記憶してるんですけれど、このね、私、高校に関しては何一ついい思い出がないぐらいね、全然行きたかった学校でもないし、全然ね、この当時私自身が自分のプライベートの方でね、いろいろ大変だったので、正直ね、高校時代っていうのはね、私にとっても暗黒の時代だったんですけれど、
唯一感謝しているのが、この何もね、韓国っていうか、朝鮮と日本の暗い歴史をね、ほとんど知らされてなかった時代にね、わざわざこういう旅行を組んでね、悲惨な場所ばっかり行きました。
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いかにね、日本がお隣の国にひどいことをしてきたかっていうのを、いろいろね、見てきましたね。で、最後なぜかね、でもね、あまりにも暗いね、そんな思春期の多感な時にね、重い歴史的事実をバンバンバンバン見せつけられるような旅行で、最終ね、だからちょっとそれじゃかわいそうだっていうことで、最後はね、ソウルのロッテホテルでね、
すごいいいお部屋にね、みんなそれぞれ2人1部屋で泊まらせてもらってね、なんかロッテデパート行ったりね、なんかいろいろ割と豪勢にフィニッシュして、帰りは飛行機で帰るみたいなね、不思議な修学旅行でした。
なのでね、であとそのペンフレンドからもね、いろいろ聞かされるわけですよね。自分の祖父母は大変な目に遭ったとかね、自分の両親も命からがらどうだったとかね、いろんな話を聞かされて、ああそうかと思ってね、だから割とこの私たちの世代の中ではね、このある程度は予備知識があったんですよね。
さらにね、この高校でね、最後卒業式の日に1人の生徒がちょっとみんなの前でね、お別れの前に一言言いたいことがありますって言って立ち上がったんですよね。
どうぞどうぞとね、あの前に出て話をしていいですよって言って促されてね、先生の立っている教壇のところにその方がね立って、でね泣き出したんですよね。
本当に3年間みんなとね、一緒にこの高校でね、共に時間を過ごせてすごく幸せでした。ありがとうございます。
だけども、みんなと仲良くなればなるほどね、自分の胸の中にはすごく辛い思いがね、ずっとあったんだけれども、どうしてもどうしてもね、言うことができませんでしたと。
だけどこのままお別れしたんでは、もう自分としてはね、もうこれからも一生会わない人もこの中には多分いるから、今言わないと一生後悔すると思って、あのお話ししますっていうことでね、泣きながら話されたのが、この方はね本当あの普通の平均的な日本のお名前なんですよね。
なんですけれど、実は私は在日韓国人なんですということをね、カミングアウトされたんですよね。で、まあね、この私がね、この通った高校は、そんなね、韓国の学校とね、国際交流して、でね、その修学旅行で1週間もかけてね、韓国を旅行してね、なおかつそのいろいろ日本がね、行ってきたあの数々のね、歴史的な
あのひどい事実とかもね、そのちゃんとそういった場所をね、巡って旅行するようなね、まあすごくリベラルなちゃんとした学校だったんでね、あのこんな学校で差別する人なんか、まあいなかったはずなんですけれど、あまりにもね、あの両親もね、祖父母もひどい経験してきたので言えませんでしたっていうことでね、あの告白された同級生がいてね、でこれもものすごく胸が痛みましたね。
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で、まあちなみにね、この学校は他にもね、在日韓国の方いっぱいいらっしゃって、えっとね、全然普通にだから、あの韓国名でね、あのいらっしゃるリーさんとかサイさんとか、いろいろ韓国のあの苗字ありますよね。
で、ここで普通にそういうふうにしてらっしゃる人もいて、でそういった方たちはみんなすごくあの、えっと裕福なね、あの成功、社会的に成功されている方が多かったようには見受けられるんですけれど、まあでもね、あのこういうふうにずっとあの胸の内でね、苦しい思いをしながら自分の出自を隠している人もいたというね。
まあそういうね、あのちょっとあの高校生活というか高校時代の思い出があります。でその後私はアメリカにね留学することになるんですけれど、でアメリカの大学に行ったらね、でここもコリアンの人はねすごくたくさんいるんですよね。
で私のルームメイトもあの韓国人のあの女の子でした。で彼女ともねすごく親しくしてたんですけれど、ある時ね彼女のボーイフレンド、彼氏はアメリカ人だったんですけれど、このアメリカ人のね彼と二人で話す機会があった時に、あのね君のことはね、あのカンナのことは、あの彼女はねすごくあのいい人だと言っているけれど、
心の奥底ではねやっぱり日本人だっていうことでね、信用してないって言ってたよっていうことをね言われたことがありました。でねやっぱり辛かったですけれど、高校のね体験が、体験というかね高校の時にやはりこういうしっかりねそういう意味では教育を受けてたので、それはね無理からぬことだと思ってね、あの辛かったですけれど受け入れましたね。
で、あのチェジュ島のね、あのサニーさんのお話にまた戻るんですけれど、これはね私何年か前にヤン・ヨンヒっていうね、あの女性の在日コリアンの映画監督がいるんですよね。でこの人はもう題材は明確に、あの自分の出自をずっと描き続けている映画監督なんですよね。
でこの人がね、あのスープとイデオロギーっていうドキュメンタリーを4、5年くらい前かな撮っておられて、これを見てまあ衝撃を受けてたんですよね。
あの私はだからその高校の頃に韓国に旅行したりはしてるんですけれど、チェジュ島で実際何があったかっていうのは知らなかったんですよね。でこのヤン・ヨンヒのスープとイデオロギーっていう映画をね見て、すごいねショックを受けたんですよね。
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ヤン・ヨンヒさんがどういう人かというと、この方はね大阪の人なんですよ。あの大阪のイクノクっていう場所はね、あのもともと在日コリアンがたくさん住んでいる町として知られていて、で今はね、あのこの呼び方では言わないんですけれど、イカイノっていうね、イカイノって呼ばれてた場所なんですよね。
たくさんね、このコリアンタウンもあったりね。で今こうやって反流ブームの今の時代には、また別の意味でね、あのすごく人気のある場所になったんですけれど、ちょっとね、ある種ちょっとタブーというかね、そういったエリアだったんですよね。
でここの出身の方で、ずーっとね、自分の両親とかね、自分の老いたち、であの日本における在日のこととかね、あのそういったことをずーっとね、描かれているあの映画作家なんですよね。でこのスープとイデオロギーって本当にすごく見やすくていいドキュメンタリーなんですけれど、これは
このヤン・ヨンヒさんのお母さんが命からがら、チェジュ島から大阪に逃げてきて、でまあね、あの思い出すのも辛い感じでね。でもある、もうやっぱりお母様も高齢なので、あのここは大事な史実をね、残さなければいけないということで、お母様からね、いろいろこのチェジュ島の頃の思い出とかを聞き出して、でさらにね、このやっぱり韓国政府というかね、あのがいろいろこの当時のね、
あの生存証人というんですかね、あの生き証人の人たちがどんどんやっぱり亡くなっていっているので、ずっと調査して研究しているあの団体があるんですよね。でこういったところからのインタビューも合わせてね、このスープとイデオロギーではその描写も出てくるんですけれど、いろいろね、やっぱり思い出したくない過去の記憶をね、ずっとたどりながらこのヤン・ヨンヒさんのお母さんが、
語っておられる話のね、やっぱり壮絶な体験ね。だから今ね、やっぱ半日、半日じゃないです。ごめんなさい。あの韓国というかね、このすごくあの朝鮮人差別したりとかね、あのする人たちが一部いますけれど、行き場がなくてね、あの来てるんですよね。本当にね。
でさらに言うと、これが一番私は答えてたんですけども、ヤン・ヨンヒさんのあのこのご両親はね、あの北朝鮮の、だからキム王朝ね、あのだから今のキムジョン、キムジョンイル、あのひいてはキムウィルソンですよね。あのずっと信奉してるんですよね。
で、これがなぜなのかというとね、しかもこのヤン・ヨンヒさんには上にお兄さんが3人いらっしゃったんですよ。いらっしゃるんですよ。で、この3人のあの息子はね、みんな北朝鮮に送ってるんですよね。で、そんな決して裕福な家じゃないのにね、あのちょっとお金ができると全部北朝鮮に寄付するということで、
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大阪にいながらずっと北朝鮮の政党を支持し続けてるっていうお家なんですよね。ここで育ったこのヤン・ヨンヒさん自身はアナーキストね、無政府主義の方に育ってるんですけれども、でもこういうね、なぜ北朝鮮のああいうね、いい加減なキム家をね、ずっと支持し続けるのかということで、すごくね、両親に対して批判的な目でヤン・ヨンヒさんを見ていたそうなんですよ。
だけれども、このチェジュ島の時の話をね、聞いたらそういう両親をもう責めることはできなくなったっていうね、涙ながらにこのドキュメンタリーの中で話しておられました。その理由は、このチェジュ島で行われたこの殺戮っていうのはね、サニーさんもお話しされてますけれども、
アメリカに支持された、同じ民族の韓国人がやったことなんですよね。このチェジュ島にはたくさん今の反米のね、今の政府に反対する人がたくさん住んでるだろうというね、あまり根拠のない、ちゃんと裏付けも取らないままね、大量に人を殺したっていうことなんですけれど、
これはアメリカの支持の下、当時の韓国政府がやったことだということで、もう圧倒的な不信感があるんですよね。韓国政府に対して、そしてもちろんアメリカに対して、そしてかつて植民地支配した日本ももちろん信用してないわけです。
なので、ここ三国の人とは絶対結婚するなと、ヤン・ヨンヒさんはね、堅く両親から言われて育ったそうなんですよね。絶対アメリカ人も日本人も韓国人も結婚するなと。結婚するなら、もう朝鮮の、純正の朝鮮人と結婚しろみたいなことをずっと言われて育って、面白いことにこのヤン・ヨンヒさん自身は日本人と結婚されるんですよね。
それはいいんですけれど、とにかく、そういうひどい目にあって、国家的民族的裏切りに遭うと、そりゃあんな北朝鮮政府と言っても、そこを心の拠り所にしたこのヤン・ヨンヒさんのご両親を責めることはできないですよね。
そういう壮絶な歴史があったのに、ほとんど知られていないっていうね、この悲しさがね、何とも言えません。
また、このサニーさんの配信と合わせて、春木先生のパックス・アメリカーナ、アメリカがいよいよ、今回このノーベル賞で、日本の国家の人たちの視点から原爆とか水爆に反対するっていうことを訴え続けていた被弾協が、ノーベル賞を受賞したっていうことで、
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この春木先生の配信もちょうどつながってくるなと思ったんですよね。この団体がノーベル平和賞をもらったということは、ずっとノーベル賞にも息がかかっていたアメリカの影響がちょっと減ってきたのではないかっていう分析を春木先生はされてましたね。
いよいよアメリカ一国主義というか、一国が強いっていうね、アメリカを中心に回っていたいろんな物事がちょっとアメリカにちょっとやっぱり、アメリカの影響というものにちょっと限りが出てきたのではないかっていう分析をされていました。
本当にね、この韓国と日本の歴史もね、裏にはアメリカがいるわけですしね。アメリカ以前に日本はもともと、豊臣秀吉の時ももう散々、朝鮮の人にはひどいことしてね、鼻ちょん切ったり、耳ちょん切ったり、首ちょん切ったり、ひどいこと散々していて。
私はだからちょっと豊臣秀吉とかもね、もうちょっと正直、戦国武将で大河ドラマとかにしょっちゅう出てきますけども、豊臣秀吉のとって出たらもう消しちゃうぐらい、ちょっとねもう見るに絶えないんですよね。
でも本当にね、中国とか朝鮮には散々お世話になってきててね、文化もこういう勉強もね、文字もいろんなものをお世話になっていながらね、どうしてこんなひどいことになってきたのかなっていう、いろいろちょっと私がここで語るようなことじゃないんですけれど。
やっぱり私はちょっとね、いろいろ高校の時とかにね、そういう意味では今思えばね、すごく進歩的な教育を受けたおかげで、多少なりともね、韓国と日本の歴史っていうのはある程度、多少は知っていた方なんですけど、それでもね、このチェジュ島のことは詳しくは知らなかったし、スープとイデオロギーって映画を見てね、衝撃を受けた。
そして今回ね、この被弾協がノーベル平和賞を取った。で、アメリカっていうものがずっと他国でね、戦争をさせて、自分の国は無害でいるっていう、無傷でいるっていう、ひどい政策をしてきたっていうね、いろんなことが重なって、ちょっと本当に胸がね、何とも言えない気持ちになるんですよね。
ただね、一つだけ最後ね、あのちょっと言いたいのは、アメリカってのは本当ひどい国だと思うんですけれど、私がね、唯一アメリカを評価しているのは、アメリカはね、私だから大学でも行ったわけなんですけれど、あの実際ね、第二次世界大戦で日本がパウルハーバーね、あの真珠湾に攻撃を仕掛けたのは、アメリカ人が挑発したんだよっていうことをね、ちゃんと授業で教えましたよ。
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そしてね、あの戦争中にアメリカにいたね、アメリカ人として暮らしていたはずの日本人ね、日系アメリカ人ですよね。この人たちを強制収容所に入れていたこととか、もちろん原爆を2発落としたこととかね、全部教えてましたよ。
いかにアメリカがひどいことをしたか、だからナチスドイツのことを悪く言えないんだぞとね、あのこの我々の国アメリカっていうのは、むしろ表だってファシズムになってない分だけどれだけ水面下でひどいことをしているかっていうことをね、ちゃんと我々は自覚するべきなんだよっていうことを大学で教えてましたね。
だから日本はね、こういう自分たちの負の歴史っていうのはあまりにもね、見過ごしてきてるっていうか、見過ごすというか、あえてなのか全く教えてないですよね。だからもうあくまでも事実として、何年何月にこういうことがあったっていうね、暗記教育で歴史をずっとなぞってるだけですよね。
実際どういったことがあったかとか、どういった民族的圧力とか差別とかそういったことがあったかとか、いかに他国に日本がひどいことをしたかっていうね、日本もひどい目にあってるんですけれど、日本も他国にね、特に近隣の東南アジア、特に韓国、中国、ひどいことをしたっていうことは何にも教えてきてないので。
やっぱりね、この教育が不十分だっていうことはね、言いたいですね。だからアメリカはひどい。アメリカはひどいんだけれども、ちゃんとね、こういう国家的不都合なね、史実っていうものをきっちりね、リベラルな場で教えるっていうね、教育っていうものがちゃんと生きてるんだなっていうことはすごく評価できると思うんですよね。
で、日本はこれが全然できてないというふうに言わざるを得ないですね。で、最後にね、私はだからこういったいろいろ諸々あったので、高校の修学旅行以来ね、韓国には一度も行ってないんですよね。で、なんとなくこう民族的罪悪感っていうかね、そういうくだらない思いにとらわれてるところがね、なんかあったなって、ちょっと今回サニーさんのね配信を聞いてて思うことは思いました。
で、でもこんなね、罪悪感とかっていうのがもしかしたら、そういう差別にもね、つながってる部分もあるような気がするんですよね。やはりなんとなくこう後ろめたい気持ち、そういったものがだんだんこう相手をうとましく思う気持ち。で、それがひいては差別っていうものにね、つながっているんじゃないかっていうふうにも思いました。
なので、私は何年ぶりになるんでしょう。もう40年ぶりぐらいになるんですかね。一度ね、韓国に近いうちに行かなければいけないなというか、ぜひ行きたいなと思いました。
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いろいろ今まだ残ってるうちにね、歴史的な痕跡が残ってるうちに、ぜひね、見て感じたいなと思いました。
はい、というわけでね、なんかこんな配信を私がすること自体、なんかどうなのかなと思ったんですけれど、本当にね、サニーさんの配信に心を動かされましたし、はるき先生のね、分析もすごいね、やっぱりすごい着眼点だなと思って、すごくね、この2つの配信は、ちょっとここ最近ではね、一番インパクトを受けた配信でした。はい、というわけで今日はこれで終わります。ごきげんよう。
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