3|『長い読書』を語り合う
2026-06-03 46:27

3|『長い読書』を語り合う

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図書館の貸出期限を利用する/ 骨太の本を読むコツ/ 読書は能動的なしんどい行為/ 『ユリシーズ』の文体の魅力/ もっとクソみたいに生きるべき/ 人はそもそも矛盾している生き物/  文章はもっと自由でいい/ モネの『睡蓮』を見たときに感じるあれ/ しゃべりの手癖/ 書き手が分かる文章っていいよね/ 紋切り型の人生から外れるという気概を持つ/ 「いやでも⋯」


エピソード内で言及した本:

『長い読書』島田潤一郎〈著〉

⁠https://www.msz.co.jp/book/detail/09698/⁠


『おひとりさまホテル』まろ〈原案〉、マキヒロチ〈漫画〉

https://www.shinchosha.co.jp/book/772557/


出演:村田、中野

収録日:2026年5月28日

感想

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サマリー

今回のエピソードでは、島田潤一郎氏の著書『長い読書』をテーマに、村田さんと中野さんが読書体験やそこから得た気づきについて語り合いました。図書館の貸出期限を活用して読書を進める方法や、骨太な本を読む際のコツとして「太鼓を叩きながら川を渡る」という比喩が紹介されました。読書は受動的な娯楽とは異なり、能動的でしんどい行為である一方、それが日常のしんどさを忘れさせる効果を持つことが指摘されました。 また、『ユリシーズ』のような俗っぽく矛盾を抱えた文章の魅力や、紋切り型の表現から離れて「クソみたいに生きる」ことの重要性についても議論が深まりました。モネの『睡蓮』を見た時の感覚に例え、言葉では表現しきれない感覚を伝える文章の力や、書き手の「手癖」が滲み出る文章の面白さについても触れられました。最終章では、著者の実体験に基づいた、読書を通して現実から目をそらそうとする切ない心情が描かれており、深い感動を呼びました。全体を通して、読書体験を通じて自己理解を深め、より自由で人間らしい生き方を探求する姿勢が示されました。

日常の出来事と読書への導入
今日昼、あの、スーパーにコンビニ、あ、スーパーに弁当屋に行って、弁当っていうか、まあ、総題買ってんけど。 うん。
で、バーって見て、で、なんか、冷たい美味しいチキンナンバーみたいなのがあって。 うんうん。
なんか、冷たくても美味しいとか、なんかそんな感じだったかな。 ああ〜。 なんか、いずれにせよ、なんか、
なんか、チンクセンクてもなんか美味しいんや、みたいなのがあって。 あ、なんか、ちょっと時間ないし、なんか、ちょうどいいやと思って、それ買って。 うん。
で〜、
ま、帰って、飯食ってなった時に、何も考えずにチンしてて。
チンしながら行って、チンで出てきて、ああ〜ってなって、その、タイトルを見て、ああ〜ってなったっていう気持ちかな。
なんかこう、ほんま、何も、なんか、ほんまにぼーっとしてる時って、こういうことあるよなっていう。 あるなぁ。もう、なんか、
いつもの習慣でな、やっちゃうっていう。 ほんまに、もうなんか、
その、だってスーパー行ってないから、5分10分前の発線、そんでも覚えてない。 今日何かあったかな〜。
あ、今日はね、 あのー、
人生で初めての経験をしました。 え?
で、いきなり。 昨日飲み会やったよ。
で、イタリアンに行って、で、そこでナマダルワインっていうのを飲んでん。
で、ナマダルワインが何なんかよくわかってないんやけど、どうやら加熱処理をしてない、ええ感じのワインらしい。 へぇ〜。
で、なんか、いいワインって悪いよいせえへんっていうのをずっと聞いたことはあってんけど、 ワイン、
俺、経験したことはなかったよ、それ。ワイン飲んだ次の日は絶対気持ち悪いみたいな。 ああ。
ちょっと悪いよいするみたいなことしかなかったんやけど。 はいはいはい。
今日、なんかそれがいいワインだったらしく、今日はもうすっごいすっきり目覚めて、 え、すご。
2日酔いも全然なし。 へぇ〜。
これか〜と思って、いいワインが悪いよいせえへんってこのことかって初めて、
あ、すごい。 知ることができた、1日やった。
だいぶ大きい、1日。
あ、こんばんは、村田です。
中野です。
本日は、長い読書という本について、
ちょっと話せればなぁと思っておりますが、
はい。 これあれやな、早速、
早速読んでくれたというか早速読んだんやな。
そうやね。 それにまずびっくりしたわ、そんなスピード感に。
これもちょっと一個あって、なんか、 そう、なんか会社で、
なんていうかな、技術書とか、これ最近読んでオススメですみたいなのを、なんか定期的にこう回ってくるというか、
社内で、なんか、チームスとか、あの辺でこう、
なんかオススメというか、あれがされるんだけど、で、その中で一個なんか面白そうなっていうのがあって、
なんか買うまでもないなっていうのがあるやん、なんかそういうのって。
で、なんか図書館、そういや、なんか全然使ってないなと思って。
なんか図書館とか借りれるんやったら、なんか2週間ぐらいしか借りられない、あの、貸し出し期間ないし、なんかちょうどいいかなと思って。
こういうのを図書館で借りてみようと思って。
あー、でもう期限付きで読んじゃえみたいな。
あーそうそうそうそう。
で、行こうってなって、で、そういやってなって、
いや、村田のオススメしてたやつもあるなーと。
いう、なんかトントンで、じゃあ、で、屋敷あって、ちょうど。
あったんや、図書館に。
そうそう。
いい図書館やな、それ。
これがあるんや。
そう、で、あーなんかトントンで行って、じゃあ借りれるんやったら借りようみたいな感じで。
で、それまさに2週間しかないから、これ読まなあかんなってバッて読んだんやったら。
なるほどね。期限付きで。
うん、だからなんか、そうそう、ほんま、なんか図書館、なんか全然使ってなかったけど、かなりありやなっていうの。
これ、読んでみてというか、借りてみて、感じたね、1個あったね。
そういう背景もあって、書いて読んだと。
『長い読書』から得た気づき:読書のコツと影響
ノーションに書いてくれた読書メモを読んだやつ。
それぞれ、あの、引っかかるところが違うというか、心に残るところが違うというか、っていうのがやっぱり面白いな。
うーん、でも、なんか途中でこう思ったのは、なんか村田はかなりこの本影響を受けてるなって思ったな。
なんか、最近のポッドキャストでこう会話してて、これなんかまさに村田が言ってたことやみたいな、なんかブシブシにあったような気がして。
おー、マジで。
だから多分、もうあれだな、このインプットとしてすごい根底に自分の中に落とし込まれてるような。
おー、そうなんか、気づかないうちに。
いや、俺は結構さ、その、Tipsみたいなところにもなんか引っかかったというか。
おー。
まさにさ、こう、本を読むコツっていうのが書いてあって。
うん。
骨太の本を読むコツは、えっと、太鼓を叩きながら川を渡るかのごとく読みましょうみたいな。
そうなった?
そんな一文がありまして、これあの本を読むコツっていう章やねんけど。
なんか、その章なんか1日1ページ、1文だけでも読むみたいな、そんな章じゃなかったっけ?
この章はね。
あ、ほんまやな、ちょうど今拾えた太鼓叩き表現。
これはなんかある作家さん同士の会話で、なんか〇〇っていう作家は長編小説を書くときに、こう、太鼓を叩きながら川を渡るかのごとく長編小説を書いていると。
要は、太鼓を叩きながら川を渡るって、耳を聞こえない状態にして、えいやと川を渡ってしまうみたいな、勢いよく。
耳が聞こえないというデメリットはあるんやけど、なんかそれを逆手にとって、川の音とか聞いちゃうと怖い、怖くて渡れないから、耳聞こえへん状態にして勇気を持って渡り切るみたいな。
長編小説を書くっていうのも、小説を書いているうちに、いろんなことが頭をよぎるけれども、そういうのに耳を貸さないようにして、思い切ってえいやと書いてしまわないと書き終われないみたいなところがあって、
それが小説を書くだけじゃなくて、読書、それこそ長い読書、量が多い読書とか、ちょっと難解な骨太の読書とかっていうのは、太鼓を叩きながらわからない表現があっても思い切って最後まで読んでしまうと。
そしたらそうしているうちに、そのうち、ふと意味がわかることもあるし、わからなければもう一回最初から読み直すとか、そういうふうに本を読むべしみたいな。まさに本を読むコツが書いてあって、
なるほどね。まったくそこ読んでなかった。言ってることはまじでそうだな。読み終わってから気づくタイミングもあるし、前半でわかんなかったやつは後半で同じこと言われてて、そういう言い方とかそういう言い回しやと理解ができたりするから、
なんか意外と読み進めるとおもろさがふっと上がってくるみたいなのがあるから。
そうやね。で、中野とかも結構難しめの本って何週もするって言ってたやん。2週も3週も。
うんうんうん。
まさにこういうこと言ってたんかなと思って。
俺はそれを読まずとも到達してた。
そうそうそう。
で、こんなん思ってるうちに、でまぁ後はその他のところでも、骨太な本を読まないとだんだん読めなくなってしまうというか、
はいはい。
そういう、まあそういう、なんか書かれてる章もあってんけど、読みやすい、まあ娯楽小説ばっかり読んでると難しいのが読めなくなるみたいな。
とかも引っかかって、まあどうやら俺はその骨太な本を読みたいという欲があるんだろうなとちょっと気づいた。
あー確かにな。
いやでも確かにこの長居読書の中で、すごく忙しい、なんかそのヒッシャーじゃなくて、そのヒッシャーの友達かなんかわからん忘れたけど、
その人が忙しい中立ちそば、立ち食いそばかなんかで片手に分厚い本を読んでるみたいなシーンがどっかにあって、
あったあった。
ああいうのとかも、まあやっぱりかっこいいよね。
かっこいいよね。
それこそほんとなんか、潜ってる感あるもんね。
はいことだけながら潜ってるというか、川を渡ろうとしてる感というか、
なんかほんまに周りのことを見ずにというか、自分の世界に没頭してるというか、その辺がいいよね、そういうことができるっていうのは。
いいよな、かっこよさもあるし、なんかそんなことしていいんやっていう気づきにもなったわ、俺は。
分厚い本とかって、しっかり時間をとって、椅子に座って読まないといけないもんやって思い込んでたけど、
立ち食いそば食いながら読んでもいいんだみたいな、その読書の自由さを感じたというか。
あれは印象やな。
そうやな、俺が文章に書いたところでいうと、読書なりなんでもいいけど、
自分のためだけにやる行為っていうのは、日常ですごい大事やなと。
それなんか書いてた気がする。
なんか読書はやっぱ自分の世界というか、入り込んでっていうところで、
すごくしんどい行為でもあるなと思うけど、例えば映画とかテレビとかなんでもいいんだけど、
そういうのは自動的なもので、簡単で楽だから、
それが一つの日常の大変さから逃れる行為みたいなところになりうるのかもしれないけど、
本って読まないと、自分から挑まないと教授できないから、
その能動さがかえって日常のだるさとかしんどさを忘れさせる行為につながってるかもしれへんなと思って。
それはやっぱり中野としては、
映画を見るとかという受け、ある種、自動的な行為では日常のしんどさを払拭しきれないみたいな感覚があるんかな。
いや、そう結構あると思うね。
なんか授業、自動的やと仕事のこと考えれちゃうというか。
はいはいはい、没頭感みたいな。
能動的な方が没入しやすい。
でも、没入しやすいのかな。
てか、没入しないと読めないというか。
なんか、そうかそうか。鶏卵じゃないけど。
さっきの話につながるけど、
彼に深さがあったとして、すごく深く潜るためには太鼓を叩きながらじゃないと深くまで行かれへんというか。
読んでる間も、なんか違うこと考えたりしようとしてしまうんやけど、
いやいやみたいなんで、深く入っていくことで仕事を忘れれるというか。
なんかしかもそのおひとりさまホテルっていう漫画を読んだときに感じたその印象と対比して書いてたやんか。
そこで、能動的と受動的とか、読書はあえてしんどいことをする行為だとか。
そこの着眼点が面白いなと思って。
ちょうど、この漫画もちょうど読んでたから。
どっちも自分の中で掘ってたから、たまたま繋がっただけなんやけど。
『ユリシーズ』の魅力と人間理解
これはどんな漫画なの?おひとりさまホテル。
これはなんか、仕事とかしんどくなったりとか人間関係で疲れたってなってたら、
普通に自分の家あるんやけど、ちょっと高級ホテルとか、無事訪問でもなんでもいいんやけど、
ああいうおもてなしをしてくれるようなホテル。
そうでもなくてもいいんやけど、非日常なとこに足を向けることによって、
リトリートというか、日常のしんどさから忘れようとするみたいな、そういうので。
ここの漫画で表現されているホテルって実在しているホテルで、
だからこういうホテルってこんな感じなんやとか、
これすごい良さそうやなみたいなののフックになってたりもするような。
それは面白さやね。
そうそう。
だからその、表現されているホテルとかは、
すごいめっちゃいいホテルやなとか、こんなホテルあるんやとか、
すごいそういう学びというか、あれにはなるんだけど、
主人公とかちょっとだるすぎて、これなんやろみたいなのになったと。
主人公には共感できへんかったと。
そう。
ああ、そんなんや。
なんかこのユリシーズ、ユリシーズなのかな、ちょっと。
そうもわからんけど。
っていう章があって、すごいいいなと思って。
そのこのユリシーズが書いている小説なのかな、本があって、
で、それはすごく俗っぽくて、なんかエロとかも含めて、
すごくリアルに多分書いているような感じで、
かつ、文体とかもすごく交互的だったりとか、
言いたいこともよくわからんような一貫性がなかったりとか、
何を言いたいのかが多分よくわからんような本なんやろうなと思うけど、
それをフィッシャーのこの島田はかなり気に入ってるっぽくて、
それはすごくいいなと思ってて。
というのも、最近、忍者メガチャチカとかを読んで、
物語とか、なかなかいろんな側面があるなというのが、
よくどこでも語られてるけど、
こういうすごく俗で平凡で一貫性がないっていうのは、
唯一の物語から逃れる行為やろうなと思ってて、
俺らはもっとクソみたいに生きなあかんなと、
いうのをここ最近は思ってて。
物語に回収されへん部分を大切にせなあかんというか。
それは俗っぽくあれっていう話じゃなくて、
人間、物語に回収されへん部分ももちろんあるはずで、
そういうやつを捨てきらないでいきたいなという気持ちかなと。
そういうのは多分意識してたのかしてないのかわからんけど、
そういうのもあり手に書いている姿っていうのは、
なんかスタンスにすごい共感できるなという感じかな。
物語ってここで言ってるのが、
俺の今の話を聞いてた理解では、
物語って言ってるのは、こう一本筋の通ったような、
行為になるんかな、一本。
将来の夢とかも、それに向かって自分が頑張ってるとか、
なんでもいいと思うんだけど、
そういうなんか理解しやすいストーリーとか文脈というか、
そこかな、ここで言う物語は。
ギュリシーズが描いてるのがちょっと三分的というか、
矛盾を含んでいたりとか、
一貫性がなく平凡。
それがいいみたいな。
でもそれは確かにそうかも。
そんな一貫性のあるもんでもないしな、人間って。
いや、そうだよね。
本来だ。
本当にそう。
それをなんか人を簡単に理解するためのフォーマットとして物語とか、
将来の夢とか、あること言うけど、
もっとそれ以外の部分って生活にはもちろんあって。
理解できないものって怖いから。
他人を理解するために自分が知っているフォーマット、型に無理やりはめてるのが物語であり、
それって多分他人に対しても自分に対してもそうなのかもしれんけど。
そう。
でもそういうもんじゃないと。
矛盾している存在なのだというのを受け入れて、
それをつぶさに描いているというところがやっぱり良いと。
なるほど。
説明ありがとう。
本当にそういうロジックでいいと思って。
いや、いいな。
そうかそうか。
ここちょっと読み飛ばしてたけど、いいね。
そういう風に読むと。
まあ、どこまでこれを言いたかったのか分からんけど、
俺はそう受け取ったというか。
この著者はどっちなんやろうね。
結構、章はさ、短編集がたくさんあるやん。
物語になっているのか、あるいは三文的なのか。
よく見たらこれって、
本の一番後ろぐらいに収録されている年代とか雑誌とかが全部書かれてて。
ほんまや。
これを見ると、
何か一つの媒体で書いていたものとか、
この年のこの月から月までのやつを全部織り込みましたみたいな本じゃなくて、
いろんなところでいろんなタイミングで書いてて、
それをただただ抱き合わせにしたような本で、
多分、
全体の一貫性とか多分ないとは思うかな。
でもなんか、
これは全体読み通した後に思ってんけど、
とはいえなんとなく物語とか、
こう、
こう、読者側が受け取ってしまうような気がして。
トータルで。
だから、三文的でもあり物語的でもあると。
うんうんうん。
まず時系列に並んでるもんな。
これが。
そうだね、確かにね。
プラス読書という一つのキーワードがあって、
確かに。
読者の読書という行為に向き合う中での、
なんか起こった出来事の記録みたいな。
うん。
で、人生っていう時間軸があるから、
それプロットすると、
ある種の物語になりやすいのではあるのかなって。
マクロで見ると、
人生という物語になるんやろうな。
まあそうだね。
すごいミクロに見るとそれは、
えっと、
一つ一つの行為とか、
起こった出来事ってすごい三文的で、
矛盾をはらんでるけど、
振り返ると物語なのかな。
まあそれはあれやろうね。
うん。
やっぱ書くという行為か、
発話でもいいけど、
えっと、
結局、
こう、
文字にしている時点で、
中小化していって、
俺ら、
例えば24時間時間があったとしたら、
24時間全てを語り切るのは無理というか、
文章の自由さと「手癖」の面白さ
だとした時に、
自分が覚えている範囲でしか記録をしないとすると、
物語に、
物語やすくなるやろうなと。
結局記憶というか、
理解、覚えやすいのは、
物語性だったりするし、
自分がこうやからこうやっているみたいなのが、
として言語が記憶されていると、
まあそうなると結局、
そうか。
うん。
だから書くとか、
発話するっていうその時点で、
物語側に、
傾りそうではあるよね。
確かに。
これ読んでいいんかな。
ミスター・ブルームは一人で本の題名を眺めた。
麗しい坊くんたち。
ジームズ・ラブ・バーチョ。
どんな本だか知ってる?読んだっけ?
うん。
彼は本を開いた。
そうだと思ったよ。
薄汚れたカーテンの後ろで、
女の声がした。
誰かの奴だよ。
ダメ。
これさ、彼女の気に入る前にも借りてやったし。
みたいな。
すごいよな。
ほぼ口語というか、
思ったことをそのまま書いてるというか。
ライブで書いてるのかなっていうぐらい。
めっちゃ自由やんな、この文法というかスタイルというか。
そうそう。
この自由さは物語から離れようとしているというか、
ほんまに今思ったことをそのままやっているような気がして。
その一瞬一瞬の自分の感覚だけをただただ羅列しているような。
この辺の気合はいいなと。
いいよな。
なんかこういうのって書けないよな、こういう文章って。
書けないよね。
書くの難しいというか。
多分、日常生活を送りすぎてるがゆえ、
まあ仕事ももちろんそうやけど、
こう、論理的な文章を書かないといけないやんか、日々。
それを書き続けてもう何十年も生きてしまったから、
それ以外の文章が書けないというか。
例えば自分の日記とか、
なんか旅行に行った時の思い出に俺たまにノートを書いたりするんやけど、
なんかそんなんとかもすごい矛盾しないように書くもんな。
一個一個。
それでしか書けないというか、
本当はもっと自由なもののはずやのに、
なんかレポートみたいな文章になっちゃうねんな。
いいよな、やっぱ文章ってもっと自由でいいんやでっていうのをこう。
そうやね。
気づかせてくれるのがいいよね、なんか。
あと結構その文切り型の文句で文章表現をするということに対する
危機感みたいなのが書いてある章があって。
なんかそれも多分中野もそこ気になったと思うけど、
俺もここ気になってて。
なんか俺が受け取ったのはその、
さっきの物語っていうフレームワークがまさにそうなんかもしれんけど、
ありきたりな表現とか、よく使われる表現とかをみんな使いがちやんか。
それは日常生活がそういう表現にあふれてるから、
何も意識せずに発話すると自然とそういう表現になってしまうし、
その方がこう、コミュニケーションの負荷が少ないから、
話しても聞きても、ある種共通言語のようにコミュニケーションすることで、
コミュニケーションエラーもないしみたいな。
だからやっぱりこう、社会生活を送る上ではそうなってしまうし、
そうなるべきなんかもしれんけど、
そういうフレームワークを使うことでどうしても抜け落ちてしまう、
こう、些細な表現とか。
しかもこの人の思考回路って、
その頭の発話しなくても頭の中で考えてる時点でやっぱりこう、
この門切り型の表現っていうのを頭の中で使ってるから、
頭で考えてる時点で、なんかほんまに抜け落ちてしまってる情報っていうのが絶対あって、
だから、ほんまにメリット・デメリットあるなと思ってさ。
門切り型の表現はさっき言ったようなメリットもある一方で、
デメリットとしては抜け落ちてしまう情報もあって、
なんか多分その抜け落ちてしまう情報っていうのが大事な気づきやったりするのだろうな、
というその危機感をすごい感じた。
はいはいはい。
いやでも、これを受け取るとすると、
ちょっといろいろ、いろいろ言いたいんだけど。
全部言って。
えっと、そういう言語化できない部分みたいなのがあったとして、
そこが大事みたいなのはすごい思うし、
なんかやっぱ、結局その辺はアートだったりとか、
あの辺になってくるんやなと思ってて。
で、俺なんか地中海美術館かなんかで、
モネのスイレンを初めて見て、5年ぐらい前に。
で、その時はほんまにいい経験、いい体験やって、
で、モネのスイレンって、
たりとかがすごく丁寧に描写されてるんだけど、
たりとか?
光。
あ、光。
で、なんか水の上に、
てかまあ、水面か。
水面にスイレンが浮かんでて、
で、俺が見たのはなんか、木々から木々の木漏れ日が差し込んでて、
で、それが水面に照らされて、
きらきらきらめいているみたいなのをモネが描いている。
まあ海外だけど。
ほんまになんかこの、なんかアウトドアとか、
ハイキングとかした時に木々の木漏れ日があって、
で、それを綺麗と思うみたいなの。
あれをほんまに如実に体験できる絵画やって。
おお。
なんか、あ、これねみたいな。
あ、これあれ綺麗よねと。
マジで思って。
おお。
つい体験できたんや。
その感じを。
そうそうそう。
あれはあれとしか表現できん。
で、で、それをモネは、
ちょっと100年ぐらい前なのかな、分からんけど、
それをちゃんと描いて、
それを100年後の俺を伝わっている。
まあそれも時間的で空間的でまたいでいると。
で、これはなんか、
あ、ほんまにこれを言いたいんやなと結構思って、モネは。
モネはこれを言いたかったからこれ描いてんかなと。
うん。
これはでもこうとしか伝えれへんなと思って。
うんうん。
木漏れ日が差し込んでキラキラしてるのって綺麗だよね、
で、言葉で言う情報量と、
あの絵に対して感じる情報量ってまるで違くて、
これねと言えばなって。
それでしかないというか。
そう、あれよ、あれね。
あれね。
そうそうそう。
あれねとしか言われへんような。
うんうん。
から、そうやね、言語外というか、
まあ確かに間違いなんかあって、
でかつそれが大事だというのは紛れもない事実やなと、
うんうん。
いう話をしたかったり。
うん、それをモネのスイレンを見たときに感じたと。
そうそうそう。
しかもその時を経てっていうのがすごいよな。
100年前のそれを現代の俺らが、
そうそう。
追体験できてるっていうのがマジですげえよな。
いやすごいよな。
しかもなんか、まあモネのスイレンってまあ、
もう五本の指に入るぐらい有名な海外だと思うんだけど。
うん。
有名ってことはつまりみんなの、
てか広く多くの人に刺さってるってことだと思うんだけど、
つまりあれが刺さってる世の中っていうのは捨てたもんじゃないなとすら思って。
うーん。
確かに。
だからみんなあれやんってなってるわけやろって思って。
うんうん。
これねみたいな。
そうそうそう。
これーってなってんじゃろみんな。
そうそう。
あれやっぱいいよなってみんな思ってるとすると、
なんかいい世界かもしれへんとすら思って。
いいよな。
うん。
で、そのこうもん切り方の表現になってしまって、
まあてか言語の特性上そうっていう話もやっぱよくあるなと思って。
うん。
言語っていうのは基本的にこうやっぱ真似をすることによって学んでるがゆえに、
結局誰かから受け負っているものでしかないというか、
そうなると、まあ基本的には誰かが使ってるやつを使ってるのに過ぎないとすると、
うん。
そら、もみ切り方になるよなというのはやっぱ一個あるなというのと、
なるほど。
あとなんかとはいえ、
とはいえ手癖みたいな部分はなんかあると思ってて。
うんうん。個人特有の。
そうそう。
だからこのしゃべりで言うと、
なんか嫌でもみたいなのを俺すごく言うなっていうのを、
このあれ聞き直したりとかしてすごい思ってんねんけど、
まあいいですよ、この口癖とか文章とかでもその手癖で使ってしまう、
簡単とかでもいい、それですらなんかまあ癖やと思うんやけど。
うんうん。
この情報を共有するっていう部分においては、
おおよそ必要なものがあったとして、
なくてもいい部分とか、
冗長的な部分だったりとかっていうのはあって、
そこに割と個人らしさみたいなのもあって、
うん。
そこはなんか結構おもろい部分やなとは思ってて、
個人らしさが滲み出る部分だとすると、
言語の中にも音切り方ではない部分の余白というか、
うん。
残されてるんじゃないかなとも思ってると、
うん。
リードがいただいた。
手癖っていい表現やな。
しゃべりの手癖。
まあ口癖なわけだ、それは。
うん。いやなんか手癖の方がいいな。
手癖の方がしっくりくる気がする。
個人の文体と生き様、そして人生の選択
だから今回この長い読書を読んで、
俺の読書メモをあえてかなり雑に、
まあ訂正っていうかあれはだいぶ整えたけど、
けどなんか俺の文体っぽく残したつもりで共有して。
うん。いや自由さを感じた俺は。
なんかいい意味で。
から。
綺麗じゃない文章っていうかな。そのいい意味で。
うん。
どんどん綺麗にしてったらここに書いてあるような、
そのAIのような均一的な文にどんどんこう、
なんか収束していくような。
うん。あ、そうそうそう。
それをあえてせずに、あえて出したって感じやね。
メールも結構、
まあ俺最近AI使ってよくメール書くんやけど、
うんうんうん。
こう、結構もうだいぶ上のそれこそ60超えた人とか、
再雇用の人とかのメールとかって結構味あんねんな。
味あるな。
メール見ただけでこの人が書いた文章やって分かんねえ絶対。
あー確かに。
でも俺が書く文章って多分俺が書いたってみんな分からへんと思う。
紛れる文章というか。
それはAI使って書いてるっていうのもあるし、
AIを使わずともすごく読みやすい構成で文章を書くようにしてるから。
仕事はな、特に。
そう。でもなんかあれが、
仕事っていう意味では正解なんかもしれんけど、それが。
なんかそういうのを取っ払って考えたときに、
やっぱ何々さんには何々さんの文章があるなと思って、
ああいうことなんやろうな。
いやーそうやと思う。
その人らしさが滲み出てる。
そうそうそう。俺が言いたいのはかなりそういうことだね。
なんかやっぱその文体を読むことによって、その人が想起されるっていうのはもうなんか、
それだけでやっぱいい文章やね。
それが伝わらんかったりとか、情緒やったとしたとしても。
俺2人おるわ。2人。
その人の文章をやってて100%当てれる自信のある人が2人おる。
ってことはAI使ってないんやろうな、あの2人は。
確かにな。確かに。
なんか偉くないよりはそういうやつになっていかなあかんのじゃ、俺らは。
そういう方にきっと幸せを感じるんかもしれんね。
なんかほんまにその人の生きた証やもんな、それ。めっちゃ。
その文章が。
そうやね。
やっぱその時間軸を感じ取れるっていうのは、
すごいノスタルジーをすら感じるよね。
なんかその手癖を習得するまでに、
例えば昨日今日でそれをやろうってわけじゃなくて、
確かに。
いろんな文章を書いてきた上でのそれやろうとすると。
そこに行き着いたってことやもんな。
なんか味わい深いあのある。
確かにな。
秘伝のタレというか。
そういう感じやもんな。
過ぎたし過ぎたし。
だから今の味になりましたみたいな。
そうやね。文体もそうやし、
それは引いては生き様というか、生き方というかになってくるやん。
だからどこに住むかとかっていうのも、
奉義の文体であって、
手癖がやぞる部分ではあるよね。
いや中野のそのさ、
前の家の話したときも、
交換可能じゃない人生っていう言葉があって、
それがめっちゃ刺さってんねんな俺は。
それがまさに手癖であり、
そこがまさに人生であり、
そもそも。
そういうのを、
いや多分モンキリ型の、
モンキリ型って人生においてもそうやけど、
多分すごい無難であって、
リスクのない選択肢やねんけど、
一方で交換可能であって、
面白みのない人生のような気も俺はしてて、
なんかそこから外れたモンキリ型じゃない選択肢を、
やっぱ勇気を持って、
もしそれが本当にやりたいことなんであれば、
モンキリ型の選択肢に収まらずに、
なんかそういうオプション、
選択肢を選んでいくべきなんやろうなと。
そうだよね。
そういう選んでいきたいなと。
その気概としては。
そうだよね気概としては。
そう思ってる。
そう思ってるのすら、
メタに行くと、
それすらモンキリやっているのはありつつも、
そういうの言い出したらどうしようもないというか、
何も行動しなくなるんで、
そんなもんはどうでもいいから、
自分のやれる範囲での手癖をね、
それはどうの程度というか、
全然あると思うし、
とはいえなんか、
自分が気概を持って選択する部分よね。
気概がやっぱ大事なんちゃう?
いやそうそうそうそう。
その気概を持ってるか持ってないかで。
持ってるか持ってないか。
そうよね。
同じ選択肢だとしてもね。
うん。
それはちょっと忘れないでおきたいよな、
その気概は。
そうよね。
この気持ちを。
俺はこの本の中で、
最終章の感動と読書体験の深化
最も好きな章というか、
最もこう響いた章というか、
ガツンと来た章がもう最終章やね。
長い読書の?
長い読書の最終章。
長い読書。
長い読書という本の長い読書という章。
これがやっぱりすごい、
なんていうのやろ、
なんか図心ときて独語感が。
あーここね。
この義理のお父さんとの思い出を、
この著者の人が書いてて、
その著者の奥さんと結婚してから、
結婚したときの義理のお父さんの様子から、
最終的にちょっと体調を崩されて、
最終的に亡くなってしまうんやけど、
その時までの義理のお父さんとの思い出を、
読書という、なんていうのやろな、
行為と絡めて絵、書き切ってるんやけど、
なんかすごいこれがね、書きっぷりが、
すごいミクロに書いてるというか、
かつ、なんかこの章だけで言うと、
三文的に書いてたりもするし、
物語っぽくないというか、
だからこそ、
こう一個一個の、
著者がやってる行為とか、
なんかその時に感じた思いとか、
っていうのをすごい追体験できてる、
追体験させられるような文章で、
最終的にちょっとお父さんが亡くなってしまって、
でも、著者はそれでも本を読むみたいな、
そこから目をそらすために本を読むみたいな、
みたいな文章がマジでこうね、
心に重たくのしかかってきて、
うわーっていうね、この、
なんか喰らうというか、
なんとも表現しきれない感情になって、
なんかリアルにこう、
なんかちょっと息が荒くなりそうになるというか、
たぶん喰らったということだと思うけど、
なんかこの章がすごい良かったわ。
目の前に圧倒的な現実と読書というか、
それの大事というか。
たぶん著者の人はその日に日に弱っているお父さんを見るのが辛くて、
そこから目をそらすために読書をしてるんやけど、
その時は気づいてないと思うんだよな、たぶん。
目をそらすために読書してるっていうことは思ってなくて、
でも最後に亡くなってしまってから振り返った時に、
なんか目をそらすために読書をしてたんだって気づくところがあって、
なんかそれが切ないというか。
なるほどね。
確かに。
すごいね、でも、なるほど。
いやなんか、ここはすごい、いや確かに、
良い三文的であり感動的すらある文章やなと思ったけど、
確かに言われてみると、確かに。
読書にあるとして逃げてたというよりは、
そういう自覚的に逃げてたというよりは、結果的に逃げてたみたいな。
逃げてたというか、目をそらすみたいなをするための行為だったという読み方は確かにできるね。
そう読んでなかったわ、なんか結構。
そうなると確かに切ないね。
そうやね、そう読むと切ないね。
そう読んでしまって俺は。
なるほど。
困惑してると思うんだよな、この著者自身も。
その、やっぱこう現実を直視しきれない、分からへんで、
その時に書いたんかしら、文章、その時にその文章、この文章を書いたのか知らんけど、
直視しきれない、こう、そういう時に書いた、真っ只中に書いたかのような文章というか。
それをちょっと感じて。
そう、なんか聞き迫るというか。
そうそうそう。
てか、でもなんか3文的にすごいライト、フラットに書いてそうなんやけど、やっぱにじみ出る部分があるよね。
そう、なんか焦ってるというか。
リアルというか。
そうやね、そう、にじみ出て、にじみ出てんねん。
そうそうそう。
で、これがやっぱ文章としてすごいなと思って。
その文章を読んだ人にこういう気持ちにさせる、その文章の力というか。
そう、だからこの本がちょっと好きで。
で、おすすめした。
最後の章ある、いいといいもんなっていうかな。
いや、全体としてね、いいねけど。
最後の章いいとやっぱ、もう一個ボーナスで上がる気する評価が。
全体もめっちゃいいんだけど。
いや、しやっぱあれやね、なんか。
読書体験の振り返りと自己理解
村田はやっぱハリーポッターを小学生が読んでただけあってこう、なんていうんだろうね。
感情ちゃんと救えてるね。
マジで、嬉しいわなんか。
いやいやいや、そうやね、なんかいいね。
ハリーポッターがここに来て生きてきたか。
いや、だってそんな読み方で全くできんかったから。
これは絶対やっぱあるんじゃない?やっぱ小っちゃい頃からそういう物語読んでたっていうのは。
あるんかなぁ。
俺も中野のやつ見てその、気づかなかったことがいっぱい書いてるし、
なんかその章を読んで自分が思ったことを自分の言葉で書いてて。
逆に俺ってあんまこういうことせえへんやんか。
せえへんというかできひんというかやってきてないというか。
今だから初めて今自分の口に出してこの最後の文章、最後の章を読んだときに思ったことを。
すごいよく言語化できるね。
やっぱその感情とかこういう気持ちみたいなのを表現できることはたくさん持ってるんやろな。
そっちの語彙が豊富なんかね。
いやじゃない?
なんかちゃんと当てれるというか。
ありそう。
まさにの語彙。
そうか。あんま自分で思ったことなかったけど。
いやでもってほんまにずっと俺言ってるなって思ってねえけど。
確かにね。そう言われるとそうやな。
ちょっと今回のやついやでもを切らんといこうか。
たぶん毎回言ってると思う。
俺が話し始めるときに言ってる。
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