本って一口に言ってもさ、いろんなジャンルあるやん。
それこそこういう物理っぽい話、現象を説明してくれてる本、勉強系の本とか。
あるいはエッセイとかミステリーとか。
全然違うなと思って。
確かにね。
自分どんな本好きなんかなとか、なんでそのジャンル好きなんかなみたいな話をちょっとしたいなと思いまして。
なるほど。
それで言うと、もともとこの本好きやわーで紹介したいなと思ってたんが、俺結構エッセイがどうやら好きっぽくって。
エッセイ以外も読む、もちろん読むし、お本棚見たらたくさん小説とかもあるんやけど。
なんかお気に入りの本選んでって言われたら、3つぐらい選んだんやけど、どれもエッセイやってん。
で、なんかエッセイ好きやなっていうのもあったし、3つ中2つはコロナ禍に発売されたエッセイ。
コロナ禍の、言ったらその非日常を通して著者が感じたこととか、考えたこととかがエッセイとして綴られてるものが、なんかいいなと思ってん。
それ理由は分からへんねんけど、なんかたまたまそういう共通点があって、これなんなんやろなみたいな。
それなんか共感ってこと?じゃなくて。
共感する部分もあって、例えばこうぼんやり考えてるけど言語化できない感情みたいなのが多分自分の中にあって、
それをこう、著者がバシッと言語化してくれてる文章とかを読んだりするとめっちゃ共感するし、
たぶんそういうのが気持ちよかったりする。
それがいっぱいあればあるほど、好き度が上がるのかな。
好き度が上がるし、その、なんかそういう切り口で言語化すればいいんや、やられたみたいな。
この人の洞察力すげえなみたいな。確かにこういう感情なんかもおれみたいな。
言語化うまくできんかったけど、とかっていう文章があったり、文章の表現とかがおしゃれな表現とかがちょっとあったりすると、好きってなるな。
なるほどね。
そう。
確かに。
コロナ禍は、ほんまになんか結果的にたまたまそういう共通点だけだった可能性もあって、
あの、おれが好きポイントがその、普段の、
例えば芸能人のエッセイとかって全然興味ないね。
よりかは、普通よりの人が、普段の生活を通じて、その、考え抜いたこととか、
そういうなんか文章とかを見るのが好きで、
コロナ禍はもしかしたらその、そういう人らも、コロナ禍やからこそ外に出れなかったりとか、
ソーシャルディスタンスみたいなんで、内省する、著者自身が内省する機会を得て、
より、なんか普段の生活を通して、
普段の生活というか日々の生活を通して、考えたことみたいなのを文章にするタイミングやったんかもしれない。
その、多くの人が。
そういう文章がたまたま素敵やったんかもしれない。
確かにね。
あの時期はいろいろ、特殊条件のもと、いろんな人はそうで、
物思い吹ける時間は多かっただろうしね。
その確率は、いっぱいそのいう書き手が増えたからこそ、刺さる文章が確率的に上がってたっていうことかもしれません。
そうやな。
あとは、その普段やったら、こう何も引っかからずに通り過ぎていたことに対して、
著者が引っかかって、それについて書くみたいな。
で、それが結果的にこう読み手にとっては、うわ、こんな些細なこともこういうふうに捉えるんやみたいな。
ひまえたってことね。
そうそうそう。
エッセイこそ、そういう文体というか、その人らしさみたいなのがすごく色濃く出るもんな。
そこ勝負みたいなところもあるもんな。
ある。
文体と着眼点と思想みたいな。
で、俺たぶん結構憧れみたいな感情もあって、
ほとんどの著者が年上やんか。
まだ言うて、俺ら30半ばで、
同い年ぐらいの人が増えてきてるけど、
まあまあまあ、どちらかと言えば、年上の人が多いんやけど。
なんかそういう人らの生活が垣間見えて、
なんかこういう生活スタイル素敵やなとか。
あとはそのある人は、この森田雅夫さんっていう独立研究者。
なんか企業とか大学とかに所属してない独立した研究者の人が書いたエッセイで、
僕たちはどう生きるかっていうエッセイがあるんやけど、
この人はお子さんが2人いて、
コロナ禍に息子さんとかが登園できなくなったんかな。
保育園に。
で、一緒に庭に畑を作って、一から。
保育園に行けない代わりに、この庭で畑作業して、
植物とか虫とか、そういうのからいろいろこう学ぶみたいな。
一緒にやってみるみたいな、なんかめっちゃ素敵やなと思って。
これ、買った時が子供が、もちろん生まれてなくて、
まだお腹にいるぐらいのタイミングかな。
とかで、うわなんかこういうの素敵やなみたいな、
自分も息子とこういうことをいつかしたいなみたいな、
そういうタイミングもあって結構好きやったりするんやけど。
そういうちょっとした未来を見てるじゃないけど、
半分憧れみたいなのもあるかもしれない。
なるほどね。
生き様なやな。
やっぱ生き様かっこいい人に憧れてるからな。いつまでたっても。
そういうとこない?
あるよ、それはもちろん。
そういうなんていうかな、変であればあるほどかっこいいからな。
そうやな。そういう意味ではちょっと変な人のエッセイが好きやね、俺。
一般人じゃなくて。
独立研究者とかなんか、哲学が好きな雑貨屋さんとか、
本めちゃくちゃ好きな人とか、本好きすぎて本読みまくってる人とか。
はいはいはい。
会社に居なさそうな人やな。
はい、そうやな。
でも変すぎひんっていう。
芸能人みたいな感じではないっていう。
だから、そうやな、ほんまにこう、
これ曖昧な話、曖昧なこと言うけど、自分のやりたいことみたいなのに忠誠誓ってるというか。
で、この子供と一緒に菜園作り始めるとかは、
まあ、商業的には全然意味ないもんな、あっきり言うと。
意味ないな。
まあそれは、別の意味では大きく意味があるからやってるんやろうけど。
そのスタンスやな。
そうやな。雑貨屋さんとかもそうやもんな。
決して儲かる職業じゃないというか。
でも雑貨が好きで、好きなのかどうかもよくわからんけど雑貨屋さんを営んでるみたいな。
で、お客さんこう変暇やなと思いながら物思いにふけたり本読んでたりするみたいな。
なんかそういうかっこよさ。
確かに。
中野はどういう系の本が好きなの?
いやあ、そうやな。
そういうとエッセイはほとんど読まへんからな。
これが面白いよな。本が好きって言っても、エッセイ読まへん人ももちろんおるもんな。
うーん、そうやな。
うーん、なんやろ、なんかこういうのが好きなの。
でもなんかこう、うーん、なんか生きていく上でのツールみたいなのを獲得していきたいんやろうなとは思うけどな。
世の中ってよくわからんけど、あるフレームワークがあれば少し解像度が上がるというか。
だからなんかいろんな知識を獲得していきたいって感じはあるかもな。
うーん、なんか例えば、まあ主義思考はさておき資本論とかの入門書とかも一応読んだりしてんけど、
マルクスはそもそも資本主義みたいなところに対しての理解がすごくあったからこそ、
社会主義みたいなところを大局において進めていきたいみたいな橋があったんやと思うんやけど、俺の理解においては。
だからってなった時に、彼の理解における資本主義ってどんなんやみたいなところは、
なんかまあ今自分らが働いて給料もらうってなんやっけみたいなところを考える上での必要なフレームワークを共有してくれたりするから、
そういうことをずっとやってるかもしれない。
そういうフレームワークを得得できたりとか、こういうものの社会とか世界の見方をすると違った側面とか、
今俺が感じてることとかをもう少し理解できるようになるなみたいなところがあると、その本はいい本やなって思ったりするって感じかな。
前の責任の生成みたいな本も昔読んで、これもすごい良かったなとすごく思ってるんやけど、
前言った中道体っていう体が失われたことによって、世の中の捉え方が変わったんじゃないかみたいなのを論じてる本やけど、
この中道体っていうやつがあったら、もう少し生き方が変わるというか、見方が変わるみたいなところが結構あるなと思ったりして、
こういうのがあると、なるほどみたいな、やばいなみたいな。
世の中の原理原則とか絵の探求心というか。
そうだね。
それは人の行動原理も含むやろうし、もっとマクロな世界の行動原理というか。
ルールというか。
うん。
なんかもうそれをずっとやってるって感じするな。
元々だから物理が好きでというか、物の断りが脆いと思ったから物理やったけど、
社会科学的な断りというか、フレームワークというか、あと人文におけるフレームワークだったりとか、
いろんな切り口における理解するためのツールだったりとかフレームワークみたいなのを、
もうずっと探してるって感じだな。
なんかほんまにピュアな探求心があるっていう印象を受けたな。
そうだな。
生活してて気になったことについて勉強したいみたいな感じか。
うーん、そうやね。
ほんまなんかやっぱ、分からんことばっかりやからさ。
ほんまにピュアに思うから。
そういう感じかもね。
それを読み終わって、ああこういうことやったんかって、世の中の断りが少しだけ分かるようになって気持ちいいみたいな。
そうだね。
で、そういう気持ちで終わるのもあるし、やったらなんか俺はどう生きていこうかというか。
さっきの資本論の話もそうだけど。
あとは造評論とかも読んだりして、これ造評論の入門書というか。
造評論?
世界は造評でできているっていう本なんやけど、交換価値じゃないものを一旦造評としたら、どういう社会の見え方ができるかなみたいなことを考えるんだけど。
造評論なんて論があるんやな。
そうそう。
なんかそれを踏まえて、確かにそう理解、こういうものを据えると世界の見え方が変わるなっていうのを踏まえて、なんか聞いては、なんか他者と生きていくのは俺は悪くないなと思ったりして。
他者と生きていこうって。
他者と交流をしようみたいな。
とかなんか結婚してもいいかもなと思ったのが、割とこれを読んだからって。
結構だから人生にフィードバックしてるんやな。
まあそうかそうか本なんてそんなもんやもんな。
その程度に差はあれど、何らかのフィードバックはかかるもんな。
そうね。
結構そこ意図的にやってるんやな。がっつりフィードバック、世の理を明らかにして、自分にフィードバックするみたいな。
そうやな。てか、なんかその読書後、その感想文というか、自分なりにまとめるときに、結局落とし所ってそこにしがちって感じなのかな、そういう意味では。
なんか理解したというか、自分はこう理解したっていうところで置いておくのもいいのかもしんないけど、
なんかそれを踏まえて、じゃあ俺はどうなんやみたいなのを、なんかやっぱ考えがちなのかもしんない。
で、アクションしてみるみたいなところまでこうやったりする。で、効果を見てみるみたいな。
そうそうそうそう。
なんかその他社と生きるみたいな話は、そうやね、そのボランティアみたいな話も前話したとおりで、なんかいろんな本読んで、なんかそこに帰着したって感じだった気がするな。
その、たぶんすごい量、今このフェイスタイムの背景にたくさんの本が見えてるけど、きっとこれだけじゃなくて、すごい量読んできたやん。
はいはい。
それをさ、なんか俺は結構忘れちゃいがちやねんけど。
うん。
刹那的に満足して終わってしまいがちやねんけど。
はい。
こう、覚えてる、どうやったらそう覚えられる?それを聞きたよ。
反復できるぐらいまでこう、なんていうの、自分の中で整理するみたいなのが結構大事な気がしてて、だから俺は何回も読むねんけど。
この責任の生成とかも前、まあなんか拙いながら説明したと思うねんけど、これって429ページあんねん。
うん、分厚いな結構。見るからに。
で、これをなんかまあ、土作自分なりにして一本筋通すみたいなのを感想を書くときはやんねんけど。
で、その一本筋通すときにこう、うーん、自分の中でこう理解を落とし込むというか、っていう作業をしてて。
で、その作業すると、この引き出しやすくなるというか、自分の理解をこう整理してるから。
普通の日というか、先の未来においても、なんかその理解を割とスッとこう取り出せるというか、いうようになってる感じがするな。
結構もう自分の中に入ってるんや、それをやるから。
そうそうそうそう、てかそのためにやってるって感じ。
これももう多分5年ぐらい前、もっとなんか、5年ぐらい前かもな、日本で読むけど。
一応それぐらい話せるぐらいには覚えてるぐらいから。
この前だって何も見ずに喋ってたもんな。スラスラ。
そうやね。で、なんかそういう理解というか、一本筋通しておくと前もそうやし、何回かこう、なんていうかな。
これって、あの責任の生成を読んだ時のフレームワーク使えるなとかっていうシーンがやっぱりこう、日々の生活において出てくるから、そのたんびにやっぱ毎回思い出せるというか、引き出せるというか。
だからどんどんこう定着していくのかもしれない。
俺その作業をしてないからな、その読み終わった後の。結局本で自分はどう受け取ったんやっけっていう。
ちょっと飽き性やから。2週目とかもよっぽど気に入った本じゃないといかへんねんな。
いやでも、難しいよ。時間めちゃくちゃかかるし。今もう全然無理やもん。
時間ないもんな。
で、なんか、それのカウンターで今読んでる本が、なんか、寸読は安全な読書術であるっていう本を読んでるな。
それ、興味あるな。
これなんか、なかなか熱い話で。
ちょっとまだ読んでるときやからこれも生に状態けど。
なんかその、読んだって状態ってそもそもなんやっけみたいな話があって。
一回本の上をね、目を滑らしたら、それはほんまに読んだのかみたいな。
その状態やわ、俺は。
で、じゃあ寸読ってそれ読んでないんやっけっていう問いをこの本ではしてきて。
目を通すのと、読んでなくて積んでるのと、
例えば初めにだけ読んだやつと、何回も読んだやつと、
実はほぼ等価なんじゃないかと、等しい価値なんじゃないかと。
結局忘れていくもんだとしたときに。
割と読んでるものは読んでなかった、読んだものも実は読んでないものと、
ほとんど等しくなっていくし、忘れていくから。
本が手元にあるという事実だけが同じであると。
でなったら、寸読っていうのは実は読んでるのとかなり近しくなってくると。
それ理屈じゃない。
いやなんか、で、その寸読は読んでいるのと等価であるっていうのはちょっと言い過ぎかもしれんけど、
ここでこの本が一番言いたいのはなんか、
寸読っていうのも全然悪くないよっていう話をしていて、
なんでかっていうと、現代社会においては情報量があふれ返ってて、
いろんなものが流れていくと。
で、そのときに情報の取捨選択っていうのはむっちゃ難しくなってきていて、
で、寸読をしていくっていうのは自分のビオトープを形成するってこの本では言ってるんだけど、
なるほど、いい表現。
つまり、情報の生態系を自分なりに構築していく作業であると。
だからこう流れていく、情報が流れていく日々、いろんな情報があふれていくと。
で、なったときに自分の好きなものとか、自分の興味あったものとか、自分の気になるものみたいなのを
ピンとむずれてきに置いておく、形成しておくことによって、
自分が何が好きかとか、自分の興味みたいなところを置いておいて、
情報のビオトープを形成していくと。
いいな、素晴らしいな。
本棚見たらその人がわかるもんな。
そうだね、だから全然いいんじゃないって話があって。
気になるのはじゃあ買っていきましょうと、読めないとしても。
そうそう。
もったいないって思いがちやけど、それは意味がある行為なんですと。
そうです。
それは本買っちゃうな。
ここで言ってるのが、買ったっていう時点でやっぱり自分なりに何かを思ったわけやから、
それだけでも語る価値があるんじゃないかって話をしていて。
俺がいろんな本読んで、この本がこうやったみたいな説明するのもあんねんけど、
この本買った時ってこういうことやってとか、
なんでこの本買ったとかっていう時点でも語れるとすると、
もうそれでもいいのかもしれないなと思ったりすると。
そういうのを今読んでる本で何か思い始めたと。
確かに、なんで買ったかみたいなんてそんな普段考えないけど思い出せるもんな。
思い出せるよな。マジで全部思い出せるレベルで思い出せる。
思い出せる。
この僕たちはどう生きるかの森田雅夫さんのやつは、トークショーみたいなのを聞きに行ってん俺。
そこまで?
で、この人のことは知らんかったんやけど、この人と一緒に対談してた人のことが好きで。
富川岳さんっていう東野で獅子踊りやってる作家さんやねんけど。
で、まあ移住者やねん。東京から。
なんて人やっけ?
富川岳さん。
で、結構地方創生とか、なんか最初はそういうので東野に移住して。
で、東野でそういうの、そういう活動をやりつつ、その獅子踊りっていう郷土芸能団体に入って自分で郷土芸能をやる中で、
なんか最初は地方創生から入ったけど、今はもうがっつり東野にこう暮らして。
夏は獅子踊りをしながら、厳しい冬は作家活動をしてみたいな。
結構作家にシフトしていってんねんけど。
このウェブサイトめっちゃ活かしてるな。
結構なんかオシャレな感じやね。
オシャレ。だいぶかっこいいね。
えー。
時代を作るなんとかみたいなのにもちょっと選ばれた人みたいな。
えー。オーブスかなんかの?
多分それやったと思う。
えー。
この人、もともと田舎に住みたいみたいなところからこの人のことを知って。
なるほどね。
で、作家もやられてるから本とかも出してて。
で、その民族学みたいなのも好きやから東野に行ったりとかしてる中で、この人が踊ってる獅子踊り見たりとか、この人が書いた本読んだりとかで。
で、京都に来て、なんかその本の出版記念にトークショーするみたいなんで、イベントがあったからそれを聞きに行ったよ。
で、それの対談の相手がこの森玉さんさんで。
で、全然畑が違う二人やけど、方やその研究の文脈からいろいろ。
この人何研究してるんですかって聞いたら神羅万象を研究してますみたいな言われて。
最初はなんかめっちゃ好かれたと思って嫌な気持ちあって。
でもよくよく、こう本とか読んだりするとほんまにそうやね。
ほんまに神羅万象について研究してて。
いろんなことについて。
その対談が面白くて、この人の本が売ってたから買って。
で、サインももらったんやけど。
で、サインに村田さんへプレイって英語でプレイって書いて。
遊べみたいな。
祈りじゃなくて。
Lの方、プレイって書いて。
なんやねんと思ってたんやけど。
でも後になって結構響いてきて、うわなんか、そうか人生やっぱりしっかり遊んでいこうみたいな。
それなんかそのエッセイの内容というか。
それともなんか通じるものか。
もうほんまに畑に、庭にな畑作って。
子供とそこで土遊びしたりとか。
いやほんまにそういうのを体現してはる人やね。
でも研究、独立研究者なんてもう遊んでるようなもんやん。
自分のほんまに興味のあることに対して、こう、なんていうか、研究していくって。
遊び、遊びや。
なんていうか言葉、誤解して取られたくはないけど。
遊びやなって思うね俺は。
おもろいことしてはんなみたいな。
いやまあそうやな。
やりたいことやってるなって感じ。
とかまあもう全部に対して言えるもんなほんまにこういう話は。
そうやんな。
そうそうだから穴がちこう、今読んでる本の言ってることも間違ってはないような気もして。