今週の戦略的幸福論は、
精神的な豊かさをさ、まず優先しようよ、みたいな言説ってあるじゃない?
めっちゃピンとこないんだよね。
それを今、心から信じてはいないんだよ、認識としては。
なんかそういうとこに目を向けながら生きていかないと、マジ、えんどいよな、っていう。
子供たちに伝えられる大事なことはやっぱり、なんだ?
戦略的幸福論です。
イギリス系日本人の岡田剛義リチャードと
アメリカ裾立ちの日本人、川端ライアン、輝木です。
前回からの続きということでね、前回輝木さんに、
すべてのウェルビーイングとか、最近流行っているメンタルウェルネス的なもの、
仏教の焼き直しに過ぎないっていうところからですね、
昔はウェルビーイングを促進する仕掛けが生活に組み込まれてたんじゃないのか。
例えば神社にお参りに行くとかね。
それってなんでなくなっちゃったんだろうねっていう話を今回しようぜっていうふりだったんですけど、
失われちゃったのはなんでなんですか?
戦略的幸福論。
なんでなんでしょうね。
でもやっぱり一番は、当時の人たちはやっぱり精神的な豊かさみたいなところの支点が
あったんじゃないかなっていう。
お参りとはもうね、それもそうだし。
ただどっかのある時点で、産業革命とかが一番大きいのかもしれないけど、
その前に農業化とかそういったもので大量生産、大量消費っていう時代になっていくにつれて、
物質的な豊かさっていうところに人間は引っ張られていったんじゃないかなっていう。
なんでその結果、もっと欲しい、もっともっとっていうマインドになっていき、
樽を知る仏教的な発想ではなく、
より良いものを、より良い暮らしを、テクノロジーでより早くみたいな、
そういう世界線に切り替わっていったっていうのがあるんじゃないかなと。
なんで江戸時代とかまでは日本もまだそういう習慣があったんだろうなってイメージが、
なんとなーくあるんですけど。
そっからね、戦争で負けたりして、資本主義の波にどっぷり飲み込まれて、
GHQとかから、最初は神社を全部壊すみたいな命令があったらしいですね。
通し。GHQの方から。
この神社が日本人の神風特攻隊みたいなやつを産んでるみたいな。
確かに。
そんなことを本に書いてあったはずです、なんかの。ちょっと僕も記憶が曖昧ですけど。
そういう背景もあったらしくて。
だからやっぱり日本人の精神の礎みたいなものとして、外国人を見ていたっていう。
それぐらい、割と日本人のそういう習慣に根付いてたんじゃないかなっていう。
ただ戦争で負けたことによって、GHQのそういう3S政策とか、
スポーツセックススクリーンだっけ、みたいな政策みたいなものの話もあったり。
だから、よりそういう消費的なマインドにどんどん洗脳されていったんじゃないかな、日本人が。
結果、日本人が本来持ってたそういう神社的な習慣も、
ジャニーズとかスポーツ産業とか、そういったものに置き換わって、
そういうものを消費するっていうエンタメ的なものに引っ張られてたんじゃないかなっていう。
これも仮説でしかないですけど。
なんで、古き良きそういう神社みたいな良い習慣が失われて、
もっとドーパミン的な刺激物っていう方向に人々の習慣が引っ張られていった結果、
今みたいな日本になってるっていう、そんな気がしています。
なんか面白いよね。
一個一個否定してても意味がないというか、
なんて言うんだろう。
逆の順番で考えると、
今僕が神社にお参り行くとかっていう習慣を、
なぜ持っていないかって考えていくとさ、
そんなことよりやることあるみたいな気持ちが湧いてくる。
だし、2025年現在、今はロンドンに住んでて神社ないからっていうのはあるよ。
でもそういうことじゃなくて、
2020年代を日本で暮らしていて、
習慣的に神社に行ってないのはなんでかっていうと、
そもそもそんなアイデアはなかったし、
その上で、例えば精神的な豊かさを優先しようみたいな言説ってあるじゃない?
めっちゃピンとこないんだよね、素直に。
ピンとこない?
どういうことかっていうと、
それは経済的な豊かさの後にくるものって考えてると思う。
それを今心から信じてはいないんだよ、認識としては。
私もコーチングみたいなことをやってさ、
なんだけど結構私のコーチングって結構実理的というか、
ビジネスシーンをどうやってパフォーマンスアップするために、
心を整えていくかっていう観点で、
ビジネスコーチング的なものを提供するケースが多いのと、
あと自分自身もフリーランスとしてどうやって生計を立てるかみたいなことを、
結構考えて生活している部分があるなと思って、
だからこういう論言の寒いを着ている輝きさんに惹かれてるっていうのはね、
だけれども置いといて、
精神的な豊かさの充足っていうのは、
この経済的なポジションを確立した後にくるものだっていう物語を、
何かどこから吹き込まれたのか、あるいはそこら中から吹き込まれた上で、
信じて生きてきてた気がするんですよ。
だからなんだろうな、
今って良い習慣、神社にお参りして、
自分を顧みて、世の中、神と呼ぶ矢をよろずのものに感謝をして、
健やかな心で暮らしていくっていう習慣が、
とっくのとうの失われた後の世界に住んでいる感覚するなっていうのはね、
話聞きながら思ったよ。
そう思う。
もう跡形もないんだよ。
跡形もそうね。
1980年代に生まれた我々はもうそういうのがとっくにないところで、
生を受け、経済的な成功が、
その精神の充足につながらないっていう不都合な真実だけ知りながら、
とはいえ、まずはお金を稼がなきゃみたいな。
で、品質でバトンする。
なんかそんな感じのさ、価値観があって、
まずはお金を稼げるようになろうぜみたいな感覚が、
そうだよね。
強いと思うんだよね。
その中でさ、精神的な充足を、充実、精神的な豊かさを追求しようよって、
こだかり叫んだところでさ、あんまりピンとこねえなっていう、
致し方ねえんじゃないかなって思ったりするんですよ。
戦略的幸福論。
そう思います。
なんでここは、これは、そう。
でも結構気のせいなこともめちゃくちゃあると思うんだよね。
気のせい?
やっぱ生命が脅かされない限り、
基本的には問題ないはずじゃん。
本来であれば。
日本で生まれてきた時点で、
自然も豊かなし、野菜も摂れるし、
田舎だったらほぼゼロ円でお米とか分けてもらえるしみたいな、
だからその生命維持装置としてはもう機能してるわけで、
日本で生まれた時点で。
ただ諸君主義という世の中で生きていると、
どうしても生命維持以上何かを追い求めなければいけないっていう、
そういうゲームに放り込まれてるんだよね、生まれた瞬間が。
で、そうするとやっぱり子供とかいるとなおさらね、
諸君主義のゲームをクリアするためにはいい学校に行き、
そのために勉強して、いい大学を出て、
諸君主義という中でのエリートにならないと自由になれないよっていう、
そういうものを植え付けられてきてると思うんだよね、我々世代は特に。
でもそういう物語すらも、
最近もうその作説ストーリーもうないやんみたいな、
もう遺伝で決まってるじゃんみたいな、その作説数かどうかみたいなところも、
もう世の中的にはわかってしまっていて、
なんで諸君主義というゲームに放り込まれてるんだけど、
生まれた時点でもう決まったゲームじゃん、これみたいな。
クリアできないじゃん、どう足掻いても。
っていう不都合な現実が、
なんかみんなに石で渡ってしまっている。
なおかつ今はもう高度成長期でもないから、
そういう本当に実力がある、遺伝的な実力がある人じゃないと、
上に登っていけない。
高度成長期だったらね、段階世代とか、
全部まとめて大規模に入って成長を感じれるってことはあったと思うんだけども、
今はそれもない。
なおかつ給料も、社会保険料上がっていくからどんどん減っていく。
なおかつインフレで物価も上がっていってる。
っていう状況の中で、
もう苦しいよね、このゲームをプレイし続けるのは。
でもこのゲームを放棄することも本来だったらできるはずで、
別にエリードカイドに乗らなかったとしても、
例えば最近だと農業コミュニティを立ち上げている企業家もいれば、
全然違う東出さんみたいな俳優業をやりながら、
GBAのお肉を飼っている人もいれば、
そういうオルタナティブな生き方をしている人が、
このゲームの不都合さに気づいて、
始めてるっていうことだと思うわけですよ。
なんでそう考えると、
やっぱりリジャーさんの言ったような、
この時代の諸本主義に生まれて、
そのゲームをクリアできるっていう扇動が、
たぶん我々世代はまだクリアできる希望があった最後の世代みたいな。
でもこれからの我々の子供たちは、
おそらくもうその希望すらもう失ってる100%っていう。
たぶん無理よみたいな。このゲームクリアできないよ。
っていうゲーム設定の難易度の中で、
お幸せに生きるのっていう話だと思う。
このゲーム設定っていうのは、
一般的に僕がさっき語ったような、
精神的な従属は経済的な従属の後に来るよっていう、
しっかりとお金を稼げるようになる、
諸本主義経済の中で、
ちゃんと資産を築けば安心して暮らせるから、
そうなったらば、じゃあゆっくり神社でもお参りすればと。
お散歩すればみたいな空気を前提とした物語、
ゲームのルールのことを言っているよね。
で、今までは僕らがもう就職する頃には、
いい学校、いい大学、いい会社、いい人生みたいなものは、
もう特に幻想だっていう認識だったじゃない。
2000年代、2010年代とかにはもう。
それでも直っていうのがまだめっちゃあるよね。
で、このチャットGPT出てきて、
学歴と職歴と経済的な自由度がひも付かなくなってきた。
っていう時に、完全に崩れ去った幻想かなと。
いう風に思うんだけれども、
AIが出てきちゃって、
もう新卒いらねえんじゃねえかっていうのは、
今すでに言われ始めていて。
もう止めたとこもあるしね。
富士通だったっけ。
その新卒一括っていうのをやめて、
通年採用でやっていきますよっていうのを宣言してたけれど、
なんかこの世の中が大きく変わってしまいそうだなと。
で、なんとか僕ら世代は、
それでも生き抜けるヒントを、
過去の時代で学んできた雰囲気があるけれど、
いや、子供世代だよね。
俺たちの子供どうなんねんっていうのは。
そう。そうなのよ。
なんか、彼らにどんな未来を描いて伝えてあげたらいいのかっていうのはすっげえ悩ましいな。
いや、そう。そうなの。
日本いると、お受験とか中学受験とかしてるけどさ、
それって完全に旧パラダイムのことを学ばせるためにめっちゃ苦しい思いしてお受験してるわけで、
それって子供たちが就職する頃もう役に立たないパラダイムですよっていう状況なのに、
そこのパラダイムしか知らない親たちはそれをさせようとしちゃうから。
いや、そうだね。
すごいかわいそうだなと思って、子供たちが。
そうだね。
数多ある選択肢と可能性の中からそれをあえて選んでいるっていう視点と、
自分が知ってる唯一の勝ちパターンだからそれをなぞらせるっていうのは全然違う態度だと思うので、
せめて前者であってほしいっていうのは自分自身に対しても思うな。
なんか、え?なんかだってさ、
子供、男の子が赤いランドセルを欲しがってもしょわせてあげるみたいなさ、
そういう価値観の変化と全然比じゃない変化が今起ころうとしてるわけでしょ?世の中でさ。
そうだね。
そのために自分自身が自分の幸福ってなんだろうっていうふうに向き合う機会が必要だと思って、引き続き戦略的幸福論を聞いていただいている方はお便りとか思ったことを聞きたいですね、今日の話は。
何の結論も提示はしていないけれど問題は提起していると思うんだよ。
俺らの子供世代はどう生きるのが正解なのかっていうのが多分答えなくて、そんな状態なのに今までの雰囲気で流されるようにただただお受験させますかみたいな、そういう問題提起はしていると思う。
答えらしい答えではないけど、結局仏教的な概念で僕はやっぱり戻ってきちゃうんだよね、こういう話になる。
今しかないっていうところと、今この瞬間のベストを作ることしかできないから、今をその不安とか恐れに支配されずに行動を起こすんじゃなくて、
これはコーチングの概念とほぼ一緒だけど、自分が良いと思う未来とか、自分が心地よく自然体であれるっていう、ここに向かって進むっていう精神状態。
お受験とかだとそれと真逆のことが起こってると思うから、不安と恐れ、ここに入れなきゃ子供たちが何世代するみたいな。
そうだね。
この瞬間だときめいだと思うんだよね。
逆もあるよね、ここに入りさえすれば大丈夫みたいな瞬間も多分セットになってるよね。
そうだね、それもあると。
俺はお受験、自分も経験ないし子供もしてないから想像で語るんだけれども、ツイッターとかで流れてくる情報を見る限りは、幸せの切符みたいな扱いをされてる気がするのであるけれども、もうちょっと工夫が必要かもしれないですね。
それこそ自分の心をウェルビーに保つ。
神社にお参りすればいいっていう話もなかったとは思うんだけれども、一周回って神社にお参りする習慣ぐらいあってもいいみたいな話にはなってきたね。
本当にそうで、結局習慣なんですよ、やっぱり。
習慣ね。
神社じゃなくてもよくて、神社やってることって死んだ場所への感謝だから、いただきますでもいいわけですよ、ご飯を毎日食べるとき。
そうだよね、ノートを開くとか手帳を開くとかでもいいと思うし、自分が一週間チャットGPTと何を会話したか振り返るでもいいかもしれないよね、もしかしたらね。
そうそうそう、っていう自分の内側と繋がる習慣で、繋がった先に死んだ場所と繋がるっていうその習慣があるだけで多分割とウェルビーイングに生きていける。
だからどんなに外側の世界で苦しい現象が起こったとしても、それを繰り返してると自分の精神性が高まっていくと思う。
それをやらないと精神性が高まらず、ただただ外側の敵だけ倒していくみたいな、同じことを繰り返す感じになると思うから。
大事なのは子供たちに伝えられる大事なことはやっぱり何を感じたとか、それをしてどう思ったのとか、それによってどういうことをしたいのとか、
経験をもとに自分の内側で何が起こったかっていうことを聞いてあげるだけでも、外側のゲームに引っ張られなくなるんじゃないかな。現時点では思ってます。
そうだね。だから子供世代の話をしたかったならば、せっかく子がいる親なのであれば自分のことをまず話してみるっていうのが大事だっていう話にもなってきましたね。
架空の子供世代の問題をでっかいこととして未来に対して慌てふためくよりも、今しか生きられない、今しか行動を起こせないっていう仏教的な観点から今できることをいくつか考えてみるっていう。
そして習慣か。自分を変えみる。自分の内側と繋がる習慣っていうのを持ってみるといいんじゃないですかっていうのが、僕らのこのトピックの一端の結論ですかね。
そうですね。それを家族の中でも習慣化するっていう感じですね、子供と。
いやー、今週もありがとうございました。
はい、じゃあ締めていきます。
それでは皆さん、またお会いしましょう。