そういったものがないとそもそも自分はここに存在していないっていうもの。
そこからさらに派生していくと過去とかご先祖様とかもそうだよね。
ご先祖がいたから自分がここにいるっていう思想にもなってくるし、だから全てのものに関して自分がここにいるのは関係性の他はものでしかない。
だからその周りに生かされてる、ご先祖様がいたから自分がいるし、ご先祖様も周りのいろいろなものの関係の中で生かされてたんだから、もうこの周りの関わり合いみたいなものを追求していくとキリがないよねっていう。
そう、キリがないし全部つながっているし、つまりは全部一つであるっていう質感にもなってくるし。
言葉を違う言葉にするとワンネスって言葉で例える人もいるし、クーっていう表現をする人もいるし。
多分この2つの言葉は割と言葉は違える質感は近いっていう印象があります。
なるほど、ワンネス。だからクーって一言で言っちゃって、これがしっくりこない場合にもうワンネスのことだよって置き換えても意味が通るというか、近しい考え方だっていう。
近しい考え方。
で、それを今は言葉で説明しちゃってるけど、これを体で本気で感じるとマジでクーじゃんって。
マジでクーじゃんって、なるほどね。
これは言葉にできない、この感じは。
それは輝きさんが瞑想体験で至った質感なの?
そう、瞑想体験で至った質感で、それこそその瞬間になるともう過去のめちゃくちゃ嫌いだった人とか、過去のめっちゃ嫌な体験にすら感謝ができるっていう。
なぜかというとその体験があるから、自分がいるから。
うん、なるほど。それは頭どころか、体でその感覚を得るともうクーじゃん、マジでクーじゃんって。
そうそうそう、マジでクーじゃんって。
たぶんね、これでもその感覚はやっぱりなかなか得れるものではないと思う、すぐには。
どうしても体のほうではね、あいつ腹立つわーって、たぶん頭でクーぼり返してもなっちゃうと思うんだよね、ほとんどの人は。
うん、そうだろうな。
それを体まで落とし込めるとマジでクーになる。
うーん、なるほどなー。
面白いね、つながってるとかさ、過去のご先祖様がみんな関わり合ってるとかさ、あらゆるものが関係性の中にあるっていう話はさ、論理的に聞こえるよね、すごく。
直感的に否定できないというか、論理的にもそうではないとは言えないというか、なぜなら事実だからっていうところがあるので、
なんかこう、仏教を指して、なんだろう、哲学であるというか、科学的な説明もできるみたいなことの言説はさ、よく耳にするけど、
なんかそういう、このクーの概念っていうものが、そういう論理の積み重ねで、まあ説明することができるよっていうところが、
ゆえんなのかなっていうのは思ったね。
そう、そうなんですよ。
だから、仏陀はこれを思考じゃなくて、体感覚でここにたどり着いてるんだよね。
それがすごいことで、やっぱ思考でこねくり回してさ、やっぱ関係性全部つながってるから、クーだよね、みたいな。
インテリ系じゃないわけですよ。
本当にこう泥臭く、いろんな修行をして、自分の中で体感、体をもってして、それを感じきったって。
体で感じた後に、自分の脳で処理をしたって感じだと思うんだよね、仏陀って。
自分らが逆なわけですよ。本読んでなんかしたわけじゃなくて、やりながら、その弟子たちが勝手に本にしてったっていう、そういう。
それだとすると、やっぱなんか宗教として発達していったっていうものが、すごい納得いく感じがするね。
形式というか、一緒に瞑想しなければいけないとかさ、そういうものが大事だっていうゆえも、なんかすげえ納得がいくので。
なおかつそこでの発見が、現代の量子力学って言われてることと、ほぼほぼ重なってきてるっていうのがまたすごいことで。
というと?
というと、仏陀ってこう、瞑想ずっとしてて、自分の内観を見てたら、自分の体を感じるって瞑想もあるんだけど、自分の体は全部量子でできてるっていうことに気づいた人なんだよね。
その量子力学って、あのものがある前から、以前から、2500年前にね。
自分の修行の中で、あれ?体量子でできとるやんってなったわけ。
瞑想してたら。
うん、気づいたね。量子、量子、量子と言っていたかどうかは置いといて。
言葉がある、確か、仏教の言葉はちょっと忘れちゃったけど、あるんですよ。
それでできてるやんで気づいて、さらにそこからもう一歩先行っちゃうんだよね。
あれ?振動でできてるやんってなるわけ。
で、それがもう最近出てきた超ひも理論なわけですよ。
超ひも理論で言われてる、その量子のさらに、量子自体はひもでできてるみたいな。
うん。
仏陀はそこまで自分の瞑想修行の中で気づいちゃってる。
論理的な理解がないのに。
体の実体験でそれを感じきったっていう。
で、それが2500年の時を経て今、量子力学だったり超ひも理論だったり、そういった発見が科学者によってされてきてるっていうストーリーなわけですよ。
だから宗教と科学が交差してるっていうのはそういうところ。
だから人間は頭脳じゃなくて体での体験値とか、実際の経験で学んできたことみたいなことの方が、実は英知として正しかったんじゃないかっていう。
そもそも科学的に証明せずともそれに気づいてたみたいな感じ。
戦略的幸福論。
すごく興味深い話だよね。
一個あるのは2500年前の人類が今の人類と脳の構造とか能力ってそんなに変わんないんだねっていうのはさ、一つ証明している気がするんですよ。
そのブッダ、2500年前の人が量子力学の理の字もない時代に一人で瞑想してそこにたどり着いちゃってるっていうことがあってさ。
もし彼が今のようなGPT4.5とかさ、そういうものにアクセスする術があって、自分が思いついたことを壁打ちする相手がいて、それを発展させられる人がいたならば、ものすごいところまで行っちゃったんでしょうねみたいな。
どっちかっていうとあれだな、2500年前の時代って今と比べたらすっげー不便だったじゃん絶対。
めっちゃ不便だった。
貧富の差とかもすごく差が開いてたであろう、そういう時代に心穏やかに過ごすための方法っていうのは確立されててさ、今の時代もっと簡単にできそうなものなのにとか思ったりするんだよね。
人類の真理みたいなものって何なら下手したら量子力学のベースみたいなものを2500年前にたどり着いてて、なんで今の俺たちはこんなに毎日苦しくてさ、生きるのが難しいの今の時代はって思っちゃうんだよね。
それの一つの仮説は、習慣が失われてしまったっていうのが大きいと思うんだよね。
深いね。どういう習慣の話?
幸せに生きるための習慣。
おお、いいね。戦略的幸福論っぽくなってきたじゃないか。
これ僕の仮説だけど、基本的にウェルビーングって習慣だと思う。幸せであることみたいなことを。幸せというか習慣。
ウェルビングになるための習慣ってものを、本来古代の人たち、例えばネイティブアメリカンとか、厳重民族とか、昔の日本の神社とかが盛んでみんなお参りしてた時とか、
っていうのはウェルビングであるための習慣があったはずなんだよ。
その習慣とは何かっていうと、食べるものもそうだし、神社に歩いてお参りするっていう参拝の習慣もそうだし、
神社とかってコンビニの2、3倍あるわけですよ、日本に。
いるね。
30万とかあるのかな、確か小さいものも含めると。
それだけ信仰してたわけですよ、日本人は、そういう神社というものを。
だからそれって、やっぱ瞑想なんだよね、一種の。
お参りに行くっていう行為自体。
なるほどね。
なるほどなるほど。
自分を顧みたり。
そう。
だから、しかも最近神社の本を読んで、やっぱ神社の一つ一つの動きとか、そのやしろとか、2杯2拍手とか、全てに意味があるんだよね。
あるらしくて。
それのやる行為自体に。
例えばこの2拍手で、あえて右手がちょっと下になるっていう。
2拍手するときって。
手をピッタリ合わせるんじゃなくて、右手を下にするみたいなのがあるみたいで。
それって何を意味しているかというと、右手は基本的には自我とか、自分の利己的なものを表現している。
左手は理他的な、もっと社会のためとか人のためっていう意味があるらしくて。
だからあえてこう、自己を沈めて、周りに感謝するっていう意味合いも含まれる。
2拍手に。
それってもうまさに瞑想なんだよね。
瞑想って自分の自己を見てって、自分の自我を手放して、より感謝とかありがたみみたいなものを感じるっていうような行いでもあるから。
だからもう神社参りという、今のは一例だけど他にもね、水で清めるとかいろんなものがあると思うんだけど。
1個1個がウェルビーングであるための、習慣化が自動的にお参りするだけでできるみたいな。
そういう装置。
そうなんですよ。
僕はもう1時間散歩して神社お参りしてから、家に仕事を始めるっていう習慣を持ってるんだけど。
だからそれしてるとね、やっぱいい気持ちになるよね。
それを理解した上でやってると。
そうだね。意識的にやってるっていうのはさらに進んだ感じだし。
いい習慣だね。
実際にさ、初詣でお参りして、その時にまあじゃあ今年はこういうこと頑張るんで神様一つよろしくみたいな感じでさ、お祈りしてたわけだけどもさ。
そのお参りでじゃあ、お願い事する時にやっぱ自分の行いとか変えりみると思うわけですよ。
あるいはさ、こういうことを願うっていうさ、自分の中の願い願望とかもその時にさ、頭の中で言葉にするわけじゃない。
自分がどうありたいかとか、そのためにどんなことをするかとかっていうのを都度振り返る機会を持つっていうのはさ、それこそ何だろう、
現代だとコーチングとか、あるいは内政、セルフレビューとかをこうして、紙に書くといいですよとか日記書くといいですよみたいな話とさ、
なんか通じる仕掛けになってそうだなっていうのはさ、なんかすごい表層的なところかもしれないけど。
かがやきさんの言う、昔の生活には自分のウェルビーイングを保つための仕掛けが習慣化されるようになってたんじゃないかって仮説はめちゃめちゃ面白いね。
たぶんこの仮説正しいと思うんだよね。おそらく。だからこんな人事あるんだなって。
あるいは結果としてそうなってたのかちょっと意味がわかんないけどさ。
結果としてそうなってたって感じだと思うけど。
でもそれはなんか、失われてったっていう話とも整合性があるからさ、それが。
失われてたって話だと思っていて、だから本来日本人はそういう、要は神社へのお参りって基本的には神様に感謝するっていう習慣だから、
つまりは本来であれば、今だとね、年末年始、みんな明治神宮に行って、お金持ちになりたいとかそういう利己的なお願いばっかしてると思うんだよ、ほとんどの人は。
でも本来は神へ感謝する場所なんだよね。
今までありがとうございますとか、今までのご縁に感謝してますとか、それこそさっき言った空の概念ですよ。
空の概念の中で生かされていることに感謝しますっていう、そういう場のはずなんだよね、本当に神社って。
だから神っていう風に言ってるけど、神っていう言葉は基本的には宇宙とか神羅万象っていう意味だと自分は思っていて、
それをあえて神という言葉に置き換えてるだけで、さっき言ったような関係性の中でできてるっていうのも大きな宇宙なわけですよ。
その周りは空であり宇宙でありっていう。
ここら辺もそこら辺の概念が繋がってくるんだけど。
だからそういう物事全てに感謝するっていう場が神社なのかなっていう。