不自然な、その人間の作ったものにみんなは、それが100%だと思いすぎてるっていうのはあるよね。
全然、全然違う、作ったもんだぜっていう、所詮。外側には全然違うものもあるんだよっていうところ。
その、まあ正直という枠組みの外で生きることも、本来人間は絶対できるはずなんだけど、この方も証明してるからね、それを有機農業というやり方で。
そうすると、寄捨て人って人がいるわけじゃん。そういうことしたことをする人って。確かに確かに。
それは日本、それはでも人間界の社会という世を捨てたってだけで、別に真な万象との調和、地球との調和って意味では何も捨ててないわけで、そこで生きて暮らしてるわけだからちゃんと幸せにハッピーに。
戦略的幸福論です。イギリス系日本人のリチャードと、アメリカ育ちの日本人、輝きです。
AIが社会の在り方を根底から変えようとしている今、私たちはどのように生きればよいのか。
この番組では、ウェルビーング、テクノロジー、農科学、仏教、心理学、哲学など、北欧の東西の書籍をテーマに近未来の生き方を実践的に哲学します。
ということで、今週の引用のコーナーです。今週は輝きさんが持ってきてくれた引用ということで、早速紹介してください。
そうですね。今週引用した本のタイトルは、
自然農法、わら一本の革命っていう本ですね。 その中からの引用の方に行きます。
教育というものは価値のあることだと思っている。 ところが、それは
その前に、教育に価値があるような条件を人間が作っているんだということに、まず問題があるという引用ですね。
この本の著者ですけれども、
福岡正信さんという方で、 この方自身は
もともとは
横浜の税関に所属していて、そこで植物の検査課というところで、
植物の輸入とかするときに、それをチェックするみたいな仕事をされていたのかな。
そういった仕事をしている中で、突然仕事が忙しくて、急性肺炎にかかって死に直面すると。
その死に直面した時は絶望したんだけども、いろんな町の中とか散歩している中で、
この世には何もないってことを突然悟ったっていうエピソードが本の中に書いてあって、
その瞬間に今まで俺は何をしてたんだと、別に何もやらなくてもいいじゃんみたいな、
っていう悟り体験がこの人には、その瞬間、死を悟ったときに、そういうこの世すらも空だってことも、
悟った瞬間が彼にはあった。 出た、空。
そう、でもまさに僕の体験と結構重なるところがあって、
その諸恩主義の中で、500国盗まれたときの感覚ともちょっと近いな、みたいなところとかちょっと読みながら感じたりしていて、
この方はそれを気づいた瞬間に、生き方をガラッと変えて、
その中でも有機農業かな、有機農業、自然農法っていう農業の方法に結構系統して、
何もしなくてもいいっていうその哲学を証明するために、この方はその自然農法を確立するんだよね。
35年40年ぐらいのスパンをかけて。 普通だったら除草剤使ったりとか農薬使ったりとかっていうのは当たり前だったんだが、
この方はそういったものを一切使わず、もう林っぱなし、何もしないマジでっていう。
種植えてもそれだけみたいな感じの状態で、そういった今までの現代科学を使った農業の方法以上に収穫量を増やしたっていう。
この方は現代の人間の知恵みたいなものを農業の側面から否定したんだよね。
要は自然に任せれば人間の知恵なんて借りずと思う。勝手に育つと思う。
人間は勝手に物事を難しくして、難しくして、無駄なことをしてると。
っていうような根底のある哲学はそういう感じ。
それを生き様で証明したっていう。
人間は無駄なことばかりやって、物事を複雑にしてっていう批判なんですか?
批判、批判でもあると。
だからこの引用に戻ると、教育というものは価値あることだと思っている。
もちろんそれはその前に教育に価値があるような条件を人間が作っているってことですね。
なるほど。
本の概要というか、荒ましいですよね。
福岡正宗さん、著者の方が悟り体験をきっかけに、もしかしたら農薬とかいらんじゃね?という気づきがあって、
それを証明したっていうのが、3、40年の自然農法を確立することによって証明したっていう本の中で引用してくれたのが、
教育に意味があるとみんな思ってるよねと。
でも教育に意味があるっていう前提が一生懸命作られてるっていうことにまず気づこうよって言ってる?
そういうことです。
どういうこと?もう少し。
要するに、人間が勝手に設定したルールでしかないっていうところだよね。
本来そんなルールを設定しなくてもいいんだけども、例えばいい大学に入って、お受験して、それでいい大企業に入ってみたいな。
この大きなルールがあるわけじゃん。
ルールというか、資本主義というゲームのルールみたいな言い方をするときのルールの話ね。
そうね、資本主義というソースです。
それを訳するための教育がありみたいな。
そもそもそれ自体が人間が作ったものであり、人間が勝手に作ったゲームでただ苦しんでるだけっていう。
別にそんなことをしなくても、この方は農業というやり方で証明したっていう。
農薬とか使いまくって人間が得た知識でそういったことをやっても、育つは育つけど無駄なことばっかりしてるんですよと。
別にほったらかしでも育つんですよと、この自然はっていう。
自然に任せればいいはずなのに、人間は勝手にそういう暇つぶしかのようにそういったものを始めたことによって無駄なことをずっとしてるよね。
それを教育という観点から言ってるのがこのEOなんだろうなっていう。
なるほど。だからルールというよりは枠組みみたいなものかな。そういう枠組みがあってっていうものを人間が勝手にすぐに設定しがちで、それに即して最善をみんなで喜んで追い求めるよねっていう批判かな。
そうだね。今の引用をさらに読み進めると、教育なんて本来は無用なものだけども、教育しなければならないような条件を人間が社会全体が作っているから教育しなければならなくなる。
教育すれば価値があるように見えるだけに過ぎないという、同じことの繰り返しですけど、そういうことですね。人間が勝手に設定してるだけ。
これは個人の選択への批判じゃなくて、人間がそういう社会を作ってるよねっていう批判だよね。
そうだね。人間という種そのものがっていう。
これはお受験批判みたいな話じゃないよね。
例えば、子供をどうにかしていい学校に入れて、いい高校、いい大学っていうのをエスカレーターで行けるように、あるいはグレてる子たちとの接触を減らして、なるべくいいご家庭のご子息に囲まれたところで育ってほしいわみたいな。
これ偏見にまみれたお受験ですけど、そういうものをむやみにやるもんじゃないよみたいなミクロの批判ではなくて、そもそも人間の社会ってすべからく、教育が生まれたのは国家っていう概念が生まれた後だみたいな話もあるわけじゃないですか。
国と国の戦いをするってなったときに、国民を兵士として動員していく、あるいは兵士としてじゃなくても国を戦争に備えて豊かにしていくってなったときに、文字の読み書きができないと情報伝達がうまくいかないので、文字の読み書きができるように教育っていうものを整えていかなければあかんみたいな話があって、
学校教育っていうものが、国民を教育するっていうのが国の責任になっていったっていう歴史があって、要請によって必要に迫られて教育をしなければいけないっていうものが大きな流れとしてあったわけなんですけれども、それすらも概要によってそういうふうになったっていうものに過ぎない、そった理解になってますかね、これ。
それすらも人間のご都合というか、ご都合で、本来で言えば自然に任せればうまくことは運ぶんであろうけども、人間がその自然に介入することで物事がおかしくなってきてるっていう哲学だよね、この方自身は。
今のリチャーさんの話で言うと、それも人間が勝手に作り出した世界であり、ルールであり、そういったものが出来上がる、そういったものの介入によって、本来ではやらなくていいことが発生して、どんどんしていくと。
大きいマクロに捉えていくと、そういういろんな話に発生していってしまうけど、この方自身はそういうところを一旦無視して、農業というところでそれを証明したっていう、人間の地で買えなくても勝手に育つでしょっていう。
そういう話を聞いたときに、現実との折り合いってどういうふうにつけていくのかなっていうのを聞いてて、気になるところで、例えば教育の話以外にもたまたましてくれたところで、そういう教育に価値があるっていうのも人間が勝手にご都合でこさえた枠組みじゃないかっていう批判をした上で、本来勉強しなくても学力は身につくんですよみたいなマクロの話をしてるわけじゃないよね。
そうだね。勉強しなくても、その学力というものすらもまず人間が定義してる。学力とは何なのかっていう。
そうだね。
学力というものもね、いい会社に入るとかそういったところの指標をもとに学力になってるから、それもそもそも人間が作ったものだっていう。
ここで言うと音楽すらもそういう捉え方をしていて、音楽もドレミファソラシドってそれも勝手に人間が作ったものだと。
だから別にそこに当てはめて曲を作らなくても、人は自然な鳥のさえずりとか、自分の手を叩こうとか、そういったものだけでも十分楽しめるし、音楽を奏でられると。
でも人間が後からそういうフレームを当て込んだことによって、自然なものが不自然になってる、介入があったことによって、おかしくなってるっていう。
そこで音痴みたいなものも概念が発生してみたいな。
うん。
奏でらればそんな概念もなかったよねっていう。
さすがに極端ではと思ったけど。
だってその人は濃厚をするにあたってクワとか使ってるわけでしょ。
手で掘ればいいところをクワで一生懸命掘ってるわけじゃん。
人体の拡張は許されるけれど、音楽に理論を当てはめて発展させるっていう拡張は否定するのかみたいなクソリプがあったとすると、そもそもの主張にはどんな意味があるのだろうかっていうふうに思った。
本当の原則原理を見てるんだろうね、こういう方に関しては。
マジでゼロで無という視点から立った時に、そうだよねっていう話をしてるっていう。
なるほどなるほど。
マジで原則原理っていう。
生まれてきた意味とかさ、生きる意味みたいなのをさ、あるいは生き甲斐みたいなものを探すときの出発点としての無みたいな。
うん。
質感で捉えたらいいのかな。
そうね。生きる意味すらもこの人は確か後半の方で否定してたかな確か。
要するに動物、人間には知性があるから、そういったものを求めるけど。
普通の植物とか動物であれば別に意味も求めないし、自然の中で調和してたら生きてるっていう状態。
人間が知性があるからこそそういう介入がどんどんされてくから、自然なものが自然じゃなくなってるっていう。
相当原始思考であり、原則原理な感じではあるけども。
でも自分のこの悟りの感覚、自分が瞑想で感じた感覚とはすごい近いんだよ。
この人の言ってる、この本自体の質感が。
なんでもし現代に、現代のブッダが悟りを開いた後にどういう行動を起こすかって言ったら、この方のようなこういう活動も一つあり得ただろうなっていう。
なるほどな。
当時のブッダはね。
当時のブッダは人類の苦しみからの解放っていうところで、自分の気づきを戦法って形で伝えて、この世は四季即是空で空なんだよってことを教えてったってことだと思うんだけど。
それによってちょっと苦しみから解放されるっていう。
だけどこの方は農業という方法でそれを証明しようとしたっていう。
この世は空であるってことを。
なるほど。面白いな。面白いんだよ。
なんかその、この空という感覚、その私はあなた、あなたは私っていう感覚を得ると、どうやら生きやすくなるらしいじゃん。
生きやすく。
話を聞いてると。
生きやすく、そうだね。
家庭はあるけども、そこからも。でも生きやすくはなると思う。
で、そうだよな。なんかでも、今の自分がやってることの輪郭を捉えるための一個の視点として、この無意自然みたいな考え方をインストールしとくっていうのは、役に立ちそうって言われるとまた俺ね、資本主義的だよって怒られちゃうかもしれないけどさ。
でもなんだろうな。
例えばさ、時間っていうのがあるじゃないですか。
24時間。
あります。
これあんの?っていう話もあるわけじゃん。
時間なんてそもそもね。
時間を認識してるのは人間だけじゃないですかみたいなさ。
過去と現在と未来があってっていうふうに思ってるのも人間だけじゃないですかみたいな話だし。