1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #304 人間は孤独になり切れな..
2025-03-30 51:11

#304 人間は孤独になり切れない?本当の意味での「個人」が存在し得ない理由

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、西洋と東洋の哲学における人間観の違いを探求し、コミュニティと個人の関係について考察しています。特に、現代社会における孤独や人間の存在意義について述べられています。また、人間が完全に孤独であることはないという視点から、身体と痛み、社会性の関係について議論が展開されています。個人の認識や経験が社会的に形成される様子を探り、特に痛みを通じて他者とどのように繋がるかを考察しています。 さらに、松井氏の視点から、人間が持つ社会性と個人性の関係が探求され、真の独立した個人は存在し得ない理由が議論されています。デカルトの哲学にも言及し、人間の自我意識が他者との関係性の中で形作られることが強調されています。 このエピソードでは、人間の存在が個別性と社会性の両方から成り立っていることについて考察されています。松井による哲学的視点を通し、個人が共同体の一部である限り孤独になり切れず、相互関係が人間存在の核心であるという理論が探られています。また、人間の孤独や「個人」の概念について考察し、存在し得ない理由を探ります。

人間観の対比
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も和地哲郎さんということで、前回までフードの中身を見てきたというところだったんですけれども、今回から間柄をテーマにやっていくというところでした。
そうですね。前回までは、自然とか環境とかいろんなものを含めつつもフードという大きい概念があって、それが人間と切っても切り離さないんですよ、という話をしたと思うんですよ。
その中で結構、兄貴はまさに確信をついてくれたんだけれども、「人間の捉え方自体が結構違うよね」とか、いわゆる西洋でいうところの人間というものと、和地哲郎さんが言っている人間って、なんか違う気がするねとかって言ってくれたと思うんですよね。
ああ、まあそうなのね。違うというか、西洋哲学で言うとね、「人間とは?」とか、「犠牲とは?」って言っているときに、そのコミュニティ内というか、その前提が共有されている中では、「人間とは○○だ。」って言っても支障はないんだろうけれども。
そこのさ、世界と全然違うところから来た和地さんだよね。東洋の極東から来た和地さんが見たときに、「人間とは○○である。」みたいな話をされたときに、「いや、ちょっとちげーし。」みたいな。そういう違和感はあったんだろうね、みたいな話だったよね。
そうそうそう。実際それは本当にその通りで、ある種の違和感を手分かりに、ちゃんと哲学に落とし込んでいったというか、進めていったというところが、和地さんなんだなって思うんだよね。
で、どういうことかっていうと、特に近代の西洋ではね、現代はちょっと変わってきてる部分もあるんですけれども、やっぱりこの暗黙の前提として、いわゆる人っていうか個人だよね。個人っていわゆる注意と完全に切り離して独立した個人とか、本当にそういう一個の存在として扱おうみたいな話が結構主流でしたよ。
そうじゃなくて、間柄っていう言葉っていうのは、和地さんが人間を捉えるときのキーワードなんですけれども、個人的でもあるんだけれども、やっぱり社会的でもあるよねとか、そういう両面を持った、まさに人の間と書く人間。
個別な人よりも人間っていうものを考えてるんですよ。
なるほど、なるほど。
これって今まで感覚化すると当たり前じゃないかって思うと思うんですけれども、結構こういう洞察自体が哲学的には新しいよねとか、そういう風な意見とかがちゃんと社会に浸透してないというか、そういう議論がやられてないときに和地さんがそこに切り込んでいったというか、
そういうテーマとして、人間の捉え方っていうものを具体的にしていったっていう感じなんだよね。
個人とコミュニティの関係
へー、そうなんだね。
まあ、早くとも当たり前かもみたいな話をしてもらったけれども、むしろすごくタイムリーというか、すごく今っぽいなとも思うよね。
本当はどういうところで思うかな。
常にね、そういうことを考えてる人はもちろんいただろうとは思うんだけれども、たぶん日本でいうと、これイメージね。田舎に住んでるから全然一般的なイメージかは知らないけれども、
日本ってもともとやっぱり世間みたいなもの、その社会的なつながりの方がやっぱり強いイメージがあって、そこからやっぱり個人だよねみたいなものが、ここ30年というか何十年かで、
ちょっとずつたぶんですね、より個人の方に、ある意味西洋とかアメリカとかから遅れて、個人っていうものに目が向いてきたような気がするんだよね。
で、今やっとそこからちょっとずつコミュニティというか、やっぱり人って一人じゃ生きられないんだとか、こんなにSNSでつながってるのになんで孤独を感じるんだろうみたいな、
子と社会みたいなものが結構見直されつつあるのかな。テクノロジーとかも兼ね合いもあってね。だからそういう意味で、人と人間の違いってなんだろうってすごくタイムリーというか、ちゃんと考えておくと面白いテーマなのかなって思った。
まさにインターネットとか資本主義が浸透していく中で、やっぱり子の力とか子の発信力が上がってるとかってもちろんあると思うんだけど、逆にだからこそ誰とつながるかとかどうつながるかとか、コミュニティとかも含めて確かに最近ホットだよねっていうのはあると思うから、
その兼ね合いも含めて聞いてもらうと、すごく確かに現代的なテーマにもなるかもね。
コミュニティはちょっと古いというか、あれかもしれないけどね、最近だと界隈だっけか、とか言葉で言うとね。
ニュースとかでも出てますけど。
そういう言葉が生まれるぐらいだから、やっぱあるんじゃないかなと思うよね。
なのでそこに対してはついさんのまず人間感だよね。もっと言うと、そういった個人的でもあり社会的でもある中で改めて捉えた個人で何なのみたいな。
それをちょっと掘り下げていくことで、人間とは何かとか社会とは何かとか、そういうところをちょっと改造と上げていきたいなっていうのは今日やりたいと思っていることでございます。
なるほどね。これを100年とか50年前とか、50年じゃなくて80年前ぐらいに考えてるとかね。
80年前ぐらいかな。
それをかつ自分のことだけじゃなくて、前回言ったフードみたいな、やっぱりそういった外理的な要因も含めて考えてますっていう話ではあるんだけれども。
大きな前提として、松井さんにとって人間とは何かみたいな話なんだけれども、
これも定義というかね、そういう話をしているものがあって、
これはね、世の中自身であるとともに世の中における人でもあって、
人間っていうのはこの世の中と人っていうものが伝承法的に統一されてるんだっていうふうに言ったりするんだよね。
伝承法的ってどんな感じだろうね。やったけどね、伝承法。
また出てきた伝承法っていう。西田さんとかでもあったと思うんですけど。
要は普通に考えると、世の中と個人とか社会と人って何だろうな、
相入れないというか、重ならないよねっていうふうにやっぱり普通は捉えられると思うんだよね。
伝承法をもう1回軽くおさらいしてほしいぐらいだけど、
確か対立する矛盾がある2つのものを、みたいな感じだったよね。
それを統合するのだ、みたいな。
そうそう、矛盾する概念を統合してまた次の新しい概念を生むっていうふうなものが伝承法って言われていて、
ここで言うと世の中っていう概念と個人っていう概念をもにゃもにゃしたら、
人間になりました、みたいな。
そういうふうな性反応とかで言われたりするけれども、
そういう動きがパティさんが捉えている人間っていうものにはあるよっていうふうに言うんだよね。
なるほど、まずはここまでの理解でOKっていう感じだね。
もし伝承法復習したいという人はヘゲルの回をもう1回聞いてくださいっていう感じだね。
うん、の方が確かにちゃんと話してるかな。
ざっくり言うと、近代西洋は個人っていうふうに効果しすぎてて、
社会との対立とか圧力とかっていうのって、もちろん政治的にはあるんだけれども、
科学的には個人がいかに理性を働かせるかっていうところがメインなので、
そういうふうに矛盾とかってあんまないんですよね。
要は個人がどうかって考えればいいだけだから。
ああ、そっか。個人が多資産とかそういったものが社会であるみたいなふうに捉えられるってことか。
そうそうそうそう。
そういうのがあるんで、私たちは人間、要は社会と個人の両方を含めて考えたいから、
その一見対するようなものをどうすれば人間という一つの存在の中に落とし込めるかっていうことを考えるんだよね。
たとえ人間のこの世の中自身であるとかって言われちゃうと、
ちょっと抵抗を感じるというか、本当に?とかって思う部分もあると思うんですよね。
私ちょっと直感的にイメージは開かないな。
そうそうそう。世の中における人って言われたらすぐわかるじゃん。
確かに世の中っていう空間とか環境があって、その中に人とか自分がいろいろあると思うんですけど。
もちろん両方あるという前提なんだけれども、そこに対してはついさんっていうのは、
この肉体っていうものと、あと自我の意識。要は身体と心だよね。
これ二つの側面から、いかにして人間っていうのが独立した子っていう意識を持つのか。
要は、和田さん逆なんだよ。人間から考えるから、この意識っていうのは後から生まれてくるっていうふうに考えてるんだよね。
はいはいはいはい。
もうそこが逆転しちゃってるんだけど。
だからそれがさっきの西洋との違いだよね。子が集まって集団になるのじゃなくて、
なんかもう集団みたいなものがあって、その中に人間がすでに存在するのだ、みたいな。
実はそれもちょっと違くって、集団と子が合わさったものが人間だから。
もうあれか。現象法的に統合されちゃってるから、スタート地点どっちからにしても間違ってるって話ね。
間違っちゃってる。社会からって言ってもダメだし、人からって言ってもダメっていうのが難しいんだよね。
そっかそっか。それをさっき説明してくれてたんだね。現象法的に統合したよ、統一したよって。もうダメなんだね。
もうダメ。もうダメなんだけど、でもこれほんと難しくって。やっぱ普通に考えると、やっぱり個人があって社会に参画するとか、
社会があってそこから個人が生まれるって、どっちかを出発点にしたくなっちゃうんだよ。
したくなるんじゃないとイメージが頭の中に湧かない。
まさに言ってくれとおりで、統合された人間ってことが考えたときに、要はそこには社会性も個人性も両方含んでますっていう状態なんだよね。
なるほど、そっか。だから一旦ゼロ米生松路さんの話をちゃんと聞いて、新しいイメージを作ってくださいねっていう本というか話なんだね。
そういう話でございます。なので、そういうふうに社会性も個人性も何となく持っている、種を持っている人間とかがいたときに、
なんで自分は個人だとか、この存在だって思うんだっけってことを考えてみませんかっていう話なんだよね。
これからその肉体と自我意識っていう2つを通じてやっていきます。
確かに逆に言うと、あんまり子が弱い人もいるかもしれないじゃん。
あると思う。
そこはあれだよね、さっきどうしても子を感じるんだっけ?もそうだし、どうして子を感じないで社会に帰属してるとしか感じないんだっけ?
同じってことはね、この話においては。
そうですそうです。
ただやっぱり西洋の哲学の中では当然子の意識が強いから、哲学的な文脈で言うと、なぜ人は子というものを感じるのか。
もっと言うと、西洋は子から出発してるけど、それは間違いだよっていうことを言いたいんだよね。
そっかそっかそっか。あくまでそっか。西洋哲学はなんでそんなに子に執着してるんですかねっていう話だってことね。
そうそうそうそう。
本当にいろんな前提があるからね。
むずいね。
むずい。
肉体と個の意識
さらっとね、僕が言い過ぎてしまったのに、まにきがむしろうまく引っかかってくれてありがたかったんだけど。
そこで肉体、体っていう話でいくと、これも逆に一般的な普段の生活として感覚化すると、
自分の体って基本自分のものじゃないですか。
ある種、さらこそ自分があるとも言えるよね。
自分の思い通りになる体ってこれしかない。今自分はまとってるこれしかないから。
これに包まれたものが自分であるという意識って、否定しがたいというか、普通そうだよねって感じると思うんだよね。
そうかね。
赤ちゃんがちょっと経つと自分の手を自分の手と認識し始めるみたいなのがあるけど、
それがどんどん積み重なって自分っていうものがね、これ自分なんだと思っていくんだろうし。
そうそうそう。
まさにそういう感覚もそうだし、
例で論文出てたんだけど、痛みっていう感覚がありますと、
当然痛さっていうのは、自分の腕が痛いっていう時に、
他の人の腕も痛いって限らないというか、そうじゃないことが多いじゃないですか。
うん、そう同時にね。
もちろん。そう。
そうなると、痛んでる腕はまさに自分だけの腕だとか、自分だけの痛みだっていうふうにも言えるよね。
そうなると、さっき社会性とかって言ってたけれども、
この痛みは社会性ないよね。
世の中と共通性ってなくない?とかっても言えそうですよね。
あーまあ確かにね。なんで自分だけこの手で痛いんだって。
そうそうそう。
そうすると独立したこの認識がそこから生まれるんじゃないかとかってのも言えそうなんだけれども、
痛みの社会性
実はワツイさんはそうじゃないって言うんだよね。
っていうのは、共通性とかその社会性がないんじゃなくって、
ただ捉えにくい、要は欠けているだけなんだっていうふうに考えますと。
どういうことかっていうと、例えばその痛みはもちろんその人はものかもしれないけれども、
例えばそれがどれぐらいの痛みなのとか、
ほっといていいの?それとも今すぐ病院行った方がいいの?とか、
叫ぶぐらいのの我慢した方がいいの?とかっていうことって、
痛みの感じ方っていうふうに含まれたりするじゃない?
例えばさ、うちの娘もよくあるんだけど、ちょっと壁とかにコツンってぶつけただけで、
痛いよギャーって騒ぐみたいなときにさ、
でもそれそんな騒ぐほどじゃないからとかって言ったりするのよ。
っていうときに、痛みは本来娘だけのものなはずなんだけど、
こっちの感覚化すると、その痛みってそんな大きくないよね?とかっていうことも言えたりする。
なるほど。
そうすると、実はその痛みっていうものも、
社会的なものとか、その共通で捉えられるものじゃないかっていうふうに考えられるよね。
まあ確かに確かに。そっか。
ある程度共通のレベルがありそうだね。
そういうこと。
今君、1でしょみたいな。
そうそうそうそう。
そうなってなると、痛みそのものは自分のものって言えるかもしれないけれども、
実はそこに応じてどう振る舞うかとか、
痛みをどう感じるかっていうことに関しては、
社会性とか共通性が入り込んでるんだよね。
まあ確かに。そっかそっか。
だから、場所変わればレベル1が変わってくるみたいな話あるね。
そうそうそうそう。
さっきの壁コツンが1のところもあれば、
指1本なくなったのが1みたいなね。
独道。
ぐらいの差は下手したらあるだろうって話だね。
まあそうそうそう。
逆に言うと、指1本なくしても何だ、
大したことないですっていう人がいたときに、
そうだよねっていう社会もあれば、
そんなことないよ、大事だよっていう社会もある。
そうだね。
基本大事なんだけど。
っていうことは、実は社会性とか共通性だよねっていう感じなんだよね。
はいはいはいはい。
そういった意味でも、いわゆる痛覚はもちろん個人のものかもしれないけれども、
それも単純に自分だけの痛みだとは言い難いよね、
っていうことをあつりさんは考えますね。
神との関係と独立性
うんうんうんうん。
っていうような意味で、肉体とか感覚っていうものも、
要は共通性に開かれてるっていうことを考えたりするし、
これちょっと日常的な場面とは違うんだけれども、
哲学的な流れの中で宗教と体っていうのは結構密接に結びつきますって話があるのよ。
へーそうなんだ。
どういうことかっていうと、例えば東洋とかだと、
いわゆる苦行とかってわかりやすいと思うんだけど、
体を痛めつけて悟りに至るみたいな、
ブッダはそれを否定しますとかってあったと思うんだけど、
っていうふうに、自分の体っていうものをどうにかコントロールしてやることで、
悟りの境地に至るとかっていうのはよく覚えたりするわけなんだよね。
うんうんうんうん。
あとこれはちょっと西洋の方で、覚えてるかな。
ピルケゴールさんっていたの覚えてます?
詳しくは覚えてないな。
前に取り上げた人で、
彼は神様との関係でもどう取り戻すかというか、
作るかっていうことをいろいろ考えましょうっていう話をしたんだけれども、
それに対して、いわゆるただ一人の単独者っていうものとして、
ある種、好み好まないというか、自分自身が神と一対一で向き合うんだみたいな、
そこに救いというか、神様とどう繋がるかっていうところを見出したような人だったんだよね。
はいはい、なんか現在との付き合い方みたいな、そういうとこだったか。
そうそうそうそう。
その罪っていうものを通じて繋がるのかって話だったかな。
そう。
そういうときに、まさにこの単独者って言葉の通りで、
独立した子、他の人とは違う自分だけの罪というものを通じて、
神と向き合うんだみたいな。
向き合うっていうことは、身体的に神と対峙するっていう話でもあるから、
要はそういう自分の身体性っていうものをとにかく研ぎ澄ませて、
子というものを突き詰めていくことで、神と向き合うんだみたいな、
そういう発想が西洋にはありますよってことを考えるんだよね。
あー、なるほど。確かに確かに。一対一な感じだもんね。
そうそうそう。
そうだそうだ。
うん。これもまさに、さっきの痛みとかと同じや、
自分だけの身体とか、自分だけの神様との関係性とか。
そういうことを言うことで、まさに子とか独立した自分っていうものをどんどんどんどん強めていきます。
っていうふうな話なんだけれども、これも松井さんに言わせると、
それも独立性じゃないんだよっていうふうに言うんだよね。
でもこれ面白いのは、さっきの痛みは社会性に開かれてるって言ったじゃないですか。
うん。
でもこっちの、自分だけが例えば素振りに至るとか神に繋がるっていうのは、
これは松井さんに言わせると、社会性の否定なんだよね。
なるほど。はいはいはい。
社会との繋がりを立って神の世界に行くみたいな話なんだけれども。
ただ、結構こういう論者はこの後、今回とか次回も出てくるんですけれども、
社会性を否定するっていうことは、そもそも社会性っていうものがないとできない行為じゃないですか。
そうだね。
リンゴを食べないっていうのは、そもそもリンゴがないとできない行為だみたいな話と一緒で。
否定するって、やっぱりそのものがあることを前提としてるんだよね。
なるほど。
なので、社会性を否定するっていうことは、社会性との繋がりを完全に立つっていうことがちょっと違います。
否定をするって、要は嫌いって、愛情の反対は無関心みたいな話と同じで、
関心を持ってる限りは、その人と関係ってのは繋がってるんだよね。
あーなるほどね。はいはいはい。
否定しよう否定しようって言ってるってことは、やっぱり社会性に囚われてるみたいな、そういう感覚?
へー、そうなんだ。そっかそっか。
で、何よりもね、さっき言った通り神とか悟りの世界に行くっていうことは、そっちの世界との関係を繋ぎ直すってことなんじゃないですか。
えーと、そっちっていうのは神とか悟りの世界との関係を、むしろ人間世界よりも…ってことだよね。
よりもというか、そっちを否定して神とか悟りの方に行くよ、繋がるよっていう話ね。
はいはいはい。
という風に、繋ぐ先を変えましたっていう話なんだけれども、
要は、その意味でいくと、繋がる先を変えたっていうだけで、
結局は別に独立をしているとか、そうして何か自分だけで立ってるってわけじゃないよっていう風にやっぱ言えるんだよね。
あーなるほど、確かに。
うん、そうそうそう。
そっかそっか、別の社会に入ったよっていう言い方でもいいぐらいなんだね。
なので、実はここには、そういうやってることと、本人が思ってることと実際やってることのズレがあるよねっていう風におついちさんは考えていて、
そしたらこれは肉体の話なんだけれども、その時の体はどうなってるかっていうと、
独立してるんじゃなくて、むしろ従属してるというか、神に自分を捧げるとか、
あとは、もしかしたら悟りに関しては、捧げっていうよりは手放すだよね。
自分の体とか心も全部手放して、仏教的に言うと空位になるというか、
そういうところで自分の体を奉付するみたいな、
そういうことが行われているとすると、
要は自分が自分がってことじゃなくて、むしろその自分っていうものを神に預けてしまったり、手放してしまったりっていう意味で、
どんどん薄くなってるんじゃないっていう風に考えるんだよね。
はいはい、なるほどね。
このイメージは湧くかな。
どうなんだろうな。
種語がわかんないけど、たとえば悟ろうとしてる人とか、
神様と言ったりして、よりそっちの方に行きたいって思ってるその人なのかわかんないけれども、
自分は子になってると思い込みながらも従属してるとか、
それをむしろ放棄してないっていう、
そういうのなんていうの、盗作じゃないけどなんていうの。
まさに盗作だと思う。
言ってることとやってることと考えてることとやってることが実は違うよね。
っていう感覚だよねっていう話だよね。
そうですそうです。
人間の社会性と個人性
なので、これは元々どういうふうに人間っていう社会性と個人性があるものから
子を導くのかって話を考えてるんだけど、
松井さんに言わせると、自分の体は自分だけのものだみたいなことって思いがちなんだけど、
意外と突き詰めて考えてみると、
その方向では子っていうのは求められないとか成り立たないよっていうことを言うんだよね。
なので、体っていうルートでは子っていうものは行き着きません。
ルートね、なるほど。
ルートAです。
話は今したんだけど、次ルートBの方は、さっき言った自我意識ね。
要はこれが自分である、まさにデカールド的な我を思う上に我ありみたいなものがあったときに、
我ってあるじゃんって言うし、
逆にこれがない人も珍しいと思うんだよね。
まあそうだね。
意味でいくと、この発想自体は別にありますよね。
これは結論ありきな部分も正直あるんだけれども、
松井さんから言わせるとね、
そもそもその独立した子、私がいるっていう感覚はもちろんいいと思うんだけれども、
独立した私とか、私という子が物事を捉えるとか、世の中を捉えているっていうのは、
ちょっと違和感あるよね、というふうに松井さんは考えちゃうんですよ。
どういうことかっていうと、さっきデカールドの話をしたと思うんですけど、
例えば彼はいろんなものを疑って、最後の最後、私がそういうふうに考えているとか、
そういう私のことを疑っているということは疑い得ないよね、というところで、
我というところから哲学を始めます、ということをしたわけなんだけど、
それさえはもちろんいいんだけど、でもさと、よくよく考えたら、
その前に散々いろんなものを疑ってるじゃないですかと、引き続きとしてね。
そこから考えると、本当の意味で我みたいなものをゼロ地点に置けますかっていうと、
違うよねってやっぱり思うわけよ。
そうなの?
松井さん。
見出した我を取り出して、もう一回ゼロに送って、
まさに実験室の準備を整えましたって話じゃない?
いろんなことを疑って疑って、やっと問い付いたものなのに、
それまでの手続きを全部なしにして、我から始めますって、
まさに実験的というか、あんまり生活から生で考えましたっていう感と違くない?
なるほど。
だからデカールと絵の、松井さんが持ってるデカールと絵の違和感っていうのは、
いったんいろいろ疑ってるじゃんと。
例えば、友達そこにいる人もいないんじゃないだろうか、リンゴもないんじゃないだろうか、
あらゆるものをもうないとして、自分だけがあれよねって言って、
よしじゃあそっからスタートしようで、あれは私が思ったリンゴだ、イエイ。
あれは友達だ、イエイっていうのは、なんかおかしくない?みたいな。
結局同じというか、何も解決してなくない?みたいなことを思っちゃったみたいな話なのかな。
そうだね、そう。
すごいことやってるようだけど、何もやってないじゃんみたいな、すごい意地悪な言い方をすると。
そうね、何もやってないというか、いわゆる独立した子っていうものを前提で置こうとしたときに、
それ自体がちょっと無理があるよねとか、そっからスタートするのって、実は本当は違くないっていうような感覚だよね。
デカルトの哲学と疑念
めちゃくちゃ何かを証明したというか、もう我しかないのだっていうものをめちゃくちゃ科学的というか、
みんなすごい納得してるけれども、それって別に論議的に正しそうだけど、
全然直感的でひらめきじゃないみたいな、そんぐらいのイメージ?
ひらめきっていうか、これもたぶん約束ごとなんだよね。
それは独立した子というものを前提に考えましょうとか。
約束ごと、なるほど。あれデカルットだっけか、法助説。
そうだよ、デカルットさん。
そっかそっか。その前提の作り方がめっちゃ上手いよねっていう話だったっけか、そういえば。
そうそうそう。そうですそうです。
なるほどなるほど。
ルールとしてはすごい役立つし、上のゲームはやっぱり成り立つというか盛り上がるんだけど、
そのゲーム自体がって話だね。
だから実験室っていうのは法助説のところの話してるんだ。
ここはこうして、この空間はこういう風にして、温度はこうして、この辺は考えないものとして、
よしじゃあここにこれを置きます、よーいスタートみたいな話が確か法助説だったような気がするから、
あーそこの違和感みたいな話か、そこといわゆるそのよく言ってる生の哲学みたいな、
松井さんとか日本の最近の哲学者が言ってるところの違いみたいな話ね。
そうですそうです。
ごめんごめん、やっとわかりました。
ごめんちょっとさらっと行き過ぎたかも、ありがとうございます。
まさに言ってくれた通りで、やっぱりそういう実験室作る前にいろんなものを買うとかさ、
温度条件整えるとかさ、いろんなことやってるじゃないとすでに。
はいはいはいはい。
さっきも言った通り、その社会性を否定するとかって否定っていうことは、
すでに社会性とのつながりがあるっていうことが前提なんだよね。
わーはいはいはい。
だからその独立した子を前提に考えましょう。
まあいいんだけど、その独立した子っていうのを導く前に、
いろんなやっぱり人との関わりとか物との関わりっていうのはすでにあったよねと。
わーはいはい。さっきの肉体と同じようなことが行われてるわけだ。
そうそうそうそう。意識においてもね。
だからそういう疑ってやっとたどり着いた独立した意識っていうものは、
それはやっぱり共同性と共にある子でしかないよねっていうふうにやっぱり松井さんから見えちゃうんだよね。
わーすげーそこ同じに見えたんだ。
すごいね。悟りとか神様との約束みたいなものが。
我を思うゆえに我々が同じなんだね。
同じだねと。
すごいね。
肉体か意識かの違いだけで。
はいはいはい。
だからどれだけ自我とか個人意識とかって考えてみても、
やっぱりあくまでも概念として後からやっぱりたどり着いたものだよねとか、
定めたものだよねってしかやっぱりちょっと思えないよねと。
ちょっと繰り返したけど自我とか子みたいなものが、
常に集団からの否定として、カウンターとしてしか子って出してないじゃんみんなみたいな。
本当にそういうこと。
あるがままある子みたいなものを誰も言ってないじゃんって言っておくみたいなところを松井さんは気づいてしまったんだね。
そうなんだよね。ちゃんと言葉にしましょうとするよね。
やっぱりそれも違うし、もし彼に絶対の孤独を感じるとか、
俺はもう本当にこの地球上でただ一人で生きているとかっていうのを感じることもなくはないよねと。
サポユーズってね。
それもやっぱりあくまでも共同体の自我は繋がりがないっていうだけの話であって、
繋がりから全く離れてるとか、そもそも繋がる可能性自体を奪われてるわけではないじゃないですか。
もしかしたら本当に何か災害とかがあって地球上で一人の人間になってしまったとかってあったとしたら、
それはあるかもしれないけれども、でもそのぐらいの話なんだよね。
なるほど。そうかそうか。
だからその孤独で食べ物もないし仕事もないし、お金もないし住むとこもない、どうしようみたいなものが孤独かというと、
この厚井さんの話から言うと、孤独じゃなくてちょっと社会からちょっと今繋がりがだいぶ薄いねあなたみたいな話で、
社会性がないとか、孤独とかとは違うよっていうね。
そうですそうです。
買っているとないっていうのは結構やっぱり難しくって、さっき言ったように兄貴ではお金がないって言ったけど、
お金が足りないなのよ、あくまでも。
なるほどね。
そうそうそう。
だからやっぱりそこで何か、例えば稼げる何かがあるとか、手続きをすれば補助をしてもらえるとかっていうのがあれば、
それはお金との繋がりがまだあるよねと言うこともできる。
お金そのものがなくなったわけでもないし、お金という概念をそうしたら失ったわけでもないから、そこが明確に違うねっていうことを考えるんだよね。
そういう意味で言うと、今回個別性とか独立性みたいなことを言ってきたんだけれども、
まさにこれも兄貴がさっき言ってくれたんだけど、共同性とか全体性というところも否定することからしか生まれてこないんだよね。
人間というのはそもそも両方を持ったもので、両方のうち社会性というのを否定すると個別性になるし、
逆に個別性を否定すると社会性の方に近づいていきますっていうふうな運動なんだよね。
へー、なるほど。
共同体と個人の相互作用
これ例えばなんだけれども、国とか家族でもいいんですけれども、そういう共同体ってあるじゃないですか。
そういうのを考えたときに、確かに一人欠けたからといって国がなくなるとか家族がなくなるとかってことではないんですけれども、
もちろん全部の人がいなくなったら当然その国も滅ぶし家族もなくなるっていうのはあるわけですよね。
そういうときに、共同体が先だとか家族が先だってことは間違っていて、
究極的に言うと、そういった国とか家族という共同体もある種無というか空というか、個人の存在なくして共同体は成り立たないんだよね。
あー、はいはいはい。
うん。だからさっきも言った通り、個人の方も共同体を否定するっていうことから生まれてくるって意味では共同体が必要なんだけど、
その共同体の方もある種個人を必要とするって意味では、まず表裏一体というかわけで考えられないものなんですよと。
うーん、なるほど。
どっちが先かみたいな、ニラとにたまごかともちょっと違うみたいな感じなのかな、そこは。
そうだね、本当に裏表みたいな感じで、これ結構台本作るときに自分もうんって思いながら作ったんですけど、
どうしても僕ら普通に考えてると共同体と個人って別個のものというか、
国があってその中に人が住んでいるとかっていう、やっぱり全然違うものに捉えると思うんですよ。
うんうん、確かに分けて考えちゃう、どうしても。
分けて考えちゃう、うん。
で、やっぱりワセイさんの発想からすると、
実際というか、
まさに冒頭言った通りで、人間っていうものが世の中自身でもあるし、仲良きな人でもあるっていうことで言うと、
共同体と個人の関係
その意味でまさに人そのものが共同体でもあるっていうふうに言えるよねっていう感じなんだよね。
あー、確かに言ってちょっと分かった気がする。
うんうん。
うんとね。
すっきりは来ないと思うんだけど。
うん、あーでも、前回のフードっていうのも含めて考えると、
なんだろうなー、
やっぱりニワトリ卵的な感じから言っちゃうと、
しかもそれはすでに、多分ワツイさん的に言うと、すでに元々も表裏一体で一つのものから、
みんなが勝手に分けて考えたものでしょうっていうレイヤーで考えてるから、すでにおかしなことだとは思うんだけれども、
そうだねそうだね。
うちらはもうそっちからなんとかたどり着くしかないから。
それで言うと、前回のフードも踏まえるとさ、例えば、個人が先か共同体が先か的な話で言うと、
例えば、自然があって、人がいないところに自然があって、そこに人間を一人置いたとしますみたいな、
それって共同体なの?みたいなところが多分あると思うんだけど、
それは人個人なの?共同体なの?みたいな話だと思うんだけども、人一人しかいないからね。
ただそのフードっていうものを考えると、例えばだけれども、その場所でその人が一人で完全に生きていけるのであれば、
そこに置かれた人はその個人でやっていけると思うんだよね。
そうだねそうだね。
ただ、多くの場合この地球上はそうはなってないと。
多分一人じゃきついので、もしくは二人三人いた方がだいたい生き延びる可能性が高いことが多いと思うので、
じゃあちょっと試しに5人置いてみようってなると、その5人がバラバラに生きていくんじゃなくて、
やっぱり集まって何となく分担し始めるみたいなことが始まるみたいなことで考えると、
その自然環境だよね。そうせざるを得ないとか、そうした方がいいよねっていう、そこも含めた共同体っていうのは、
すでに人間が一人だったりとか、何なら人間いなくても、なんかあるじゃんみたいな、
そんぐらいの感覚になっていく気がしたね。
そうだね。それもね、あそこに近くて。
やっぱり面白いのは、とはいえばバーティーさんは人間にとっての哲学というか、
人が生きるっていうことを前提で考えてるんだよね。
だからフードの時にも言ったと思うんだけど、自然があって人間って対立するものがあるんじゃなくて、
人間が関わるものとしての自然っていうものを捉えてフードにしたっていう時に、
そこも多分人間と自然っていうものを境目ってそんなにないというか、たぶん実続きなんだよね。
それと同じような感じで、国と人とか家族が人っていうものも実続きであるという時に、
やっぱり人間が全くいないところの哲学をしてるかというと、そうではない。
あくまでも人間がいて、やっぱりどうしても一人おこう、五人おこうっていうのも実験的な発想だから、
今生きている社会の中で考えた時に、よくよく考えると人間って子として、
独立した個人としてとか、個別性の中で生きてるんじゃなくて、
やっぱりその共同性とか、そういうものを前提に生きてるよねっていうことに誓えろうとするというか。
すごい、松井さん、というか哲学者のすごさを感じる瞬間ではあるんだけど、
だからここでやっぱり人間と自然を人間的に考えてること自体がまだお前わかってねえなっていう話だってことだよね。
そういうことじゃないから。
それこそ人間が先なの?自然が先なの?とか、共同体が先なの?自然が先なの?とか、
だからそういう話をしてんじゃねえって言われちゃうんだね。
そうそうそうそう。卵も鶏だからって言わなくちゃだよね。
はいはいはい。
ただやっぱりそれが難しいというか、そういう発想が人間とか社会とか自然とかフードって捉えようとした時にやっぱり難しい。
だからこそやっぱ松井さんのような人が話を見た時に、確かにそういうこと言えるよねとか、
やっぱり僕らってそれを分けて考えて、自然か人間かとか社会か個人かみたいなふうに分けちゃうよね。
そこをもう一回光を出てちゃんと考え直そうぜっていう話なんだよね。
はいはいはいはい。
実際にそういうことを松井さん自身の言葉だとどんなふうになるかっていうことなんだけれども、
例えばこんな言葉があって、そのままそれを踏まえて言うとっていう感じなんだけれども、
人間の存在、まさにどうあるかというのを把握するのは、主観の意識、まさに自我とか理性でもね、
というところから出発することによってはなされえず、意識の地盤となる層まで入り込んでいくんだと。
それは人間における事実、すなわち歴史的社会的な事実としての実践の連なり、いわゆるいろんな行動と、
まさにさっき言ったこういうふうにもう社会が出来上がっているとか、
その中で我々は生きているとか、そこの中に生まれたとか、
そういうものを手明かりにして人間存在が探られればならぬのだっていうふうに言ってるんだよね。
だからさっきのデカルトの例のように、一見我っていう意識とかそういうものを作って、
そこから全部見通そうと思っても、やっぱりその前には自分が生きた歴史もあるだろうし、
社会が生み出されてきた、伝えてきた中の人々の営みもあるっていう時に、
それはやっぱりゼロには出来ない。できずダメなんだっていうことを言うんだよね。
確かにデカルトが我にたどり着きましたって言ってるんだけれども、
その下にはデカルトさん、あんた巨人の肩に乗ってますよね、あんたって、みたいな感じで。
巨人ですらある人はないんだよね、別に。
要は歴史だから別に偉大な人とかでもなくて、ただただ人の日常の営みっていうものの上に台立ってるっていう話だよね。
あなたはどこの上に立ってるんですかね、みたいなのが場所によって、ふどいと違うよっていうだけってことね。
そういうこと、そういうこと。
言われると、確かにそれもそうだなって思っちゃうじゃないですか。
実際的な感じがするよね、確かに。
今日のテーマ、ミソとしては、人間っていうのはあくまでも社会性と個別が両方あるっていうところから出発してるっていう話。
どうしても僕らはどっちからってスタートを決めたくなるんだけど、そうじゃない。
その中でバランスとして社会性を否定することで個人性が出てくるし、
個人性を否定することで社会性に近づくしっていう、そういうふうな振り子というか、
その中に人間っていうものはあるんだよっていう、やっぱりそういうことを和製の人間観からは学べるというか、感想よりかなって思うんですよね。
そんな感じで、それを間柄っていう、まさにその間の中にある社会と個人の間とか、人と人の間とか、そういうものを含めた存在として間柄的存在っていうことを言ったんだよっていうのが、今回の結論なんだけど。
歴史的社会的事実を踏まえた人間
そこからね、早稲田さんは、もちろん哲学者でもあるんだけども倫理学者でもあるって言ったじゃないですか。
そうだよね。だから日本の倫理観の周りにそうみたいな人だよね。道徳とかのね。
近代のね、そう。っていうときに、やっぱりそういうふうな人間、松井さんが捉えた人間っていうものが社会で生きるにはとか、
善悪とか道徳、倫理ってそういうものだとしたときに、それってどういうふうなものになるのっていうことを考えていくんですよね。
倫理学ってめちゃめちゃしっかりした本も書いてるんだけれども、それを全部まとめるのは僕の能力を超えてしまっているので。
その中でも、信頼するとか、両親を持つとか両親に従うとかってあるじゃない。良い心。
松井にちょっとフォーカスして、松井さんってこういうこと言ってるんじゃないとかっていう論文を見つけたので、
その内容をちょっと紹介しながら、松井さんが考えた人としての実践の在り方っていうのを考えていきたいんだけれども、
それもロジカルにいけるよねっていうところと、社会的に、時代的にそうなっちゃうよねっていうところは両方があるんですよ。
そこも含めて、時代に生きる哲学者というか、松井さんっていう人のところをまた味わっていくということで、
今回は松井さんから最後にしたいというふうに思ってますって感じですね。
わー面白そうだね。今回は人間とは間柄的存在であるという話だと思うんだけど、
この最後の話も踏まえると、松井さんが人間で、やっぱり風土によってというか、人間観をこうやって考えたっていうのは、
そこ自体にもちろん哲学を学んだ時にさ、声優はそう言ってるけど、実際そうじゃなくて?みたいな違和感みたいなものがあったとして、
そもそもこの次に話してくれるというか、日本の道徳をどうしていこうみたいな、まるで東大で日本の道徳の先生をしてるみたいな、
倫理学の先生をしてるっていう意味での、倫理っていうものをきちんと学問として人に伝えるっていうところの前提として、
ここまで深掘りせざるを得なかったみたいな、本人の興味関心はあるにせよ、そういう目的もやっぱりあるのかな?どうなんだろうね。
あると思うね。もっと言うと、これもちょっと次またちゃんと話すんですけれども、
倫理と人間観の結びつき
和平さんの中で、印代西洋の個人っていう発想もそうだし、そこにくっついてくる倫理っていうものもやっぱり個人が手にあっている倫理なんだよね。やっぱり西洋の倫理って。
へー、そうなんだ。
それこそ、例としてあれだけど、公理主義とかっていうのは、最大多数の最大幸福というのがあるじゃないですか。
それって個人の幸福の相和が社会の相和であるっていうふうに、個人がまさに前提になってるんだよね。
あー、なるほど。今日の話と似てるね、確かに。個人が集まって集団になるみたいな話と似てるよね。
そうです。それが幸福というか善ということでも行われるっていうのがまさに公理主義なんだけど、
それって本当とか、社会の側の善とか、集団の側の善もあるよねっていうふうなことは当然考えるんだよね。
そういうことを言おうと思うと、そもそも人間の在り方そのものか、衝動というかっていうこと自体がまさにそこにくっついてくる。
あー、なるほどなるほど。
実は今日話したアイデア柄的な人間の話と倫理の話っていうのは別々の話っていうよりは、実時なんだよね、これもやっぱり。
人間観を理解した方が倫理の話とかもわかりやすいかなと思うので、
今回の話も踏まえつつ、次回の話を聞いていただけると、
あ、そういうことを言おうとしたのかとか、
逆に全体の善とかって言い過ぎちゃうとやっぱりそうなるよねみたいなことも含めて、
なんか感じていただけるんじゃないかなと思ってますって感じですね。
孤独と個人の概念
おー、なるほど。はいはい、面白そうだね。わかりました。
じゃあ次回ですね、松井さんの最終回ということで、信頼、良心というところをテーマに見ていきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
51:11

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