ここで番組を応援いただいているスポンサーのご紹介です。
1社目は、決まる商談が増えるイメージを。
問い合わせ直後や資料を読んでいるホットな顧客と画面上で商談を自動で設定。
電話をしなくてもアポが取れる有効商談オートメーションです。
実は本日のゲストのSHIPPIO佐藤さん。
三井物産時代に濱田さんと同僚だったというところでお話を聞いております。
そして2社目は、スタートアップがオフィス移転をするなら一歩。
通常のオフィス探しから、居抜き物件の紹介、待機の支援まで手厚く伴奏。
このスタートポッドスタジオも一歩さんにご紹介いただいた物件でございまして、
渋谷駅から徒歩3分ぐらいのところに位置してるんですけれども、アクセスが良いと非常に好評いただいております。
ありがとうございます。
そしてスタートアップナウからもお知らせです。
企業家の声をどんどん届けたいなと思っておりまして、スタジオを構えて映像付きで頑張って配信をしております。
ぜひポッドキャストリフトスナーの皆様もYouTubeのチャンネル登録ご協力お願いできればなと思っております。
さらに資金調達発表前のご相談、これはスタートアップ企業さんからもVCさんからもお待ちしておりますので、ぜひ気軽にご連絡いただければと思っております。
それでは続きをお楽しみください。
本日佐藤さんの人生の物語にぜひ迫っていきたいなと思っているんですけれども、その前にですね、多分領域的にもちょっと難しそうだなと思う方とかもいるかもしれないので、何をされていらっしゃるのかってところだったり、この領域の面白さみたいなところも簡単に教えていただけますでしょうか。
はい、我々シッピオはですね、産業の転換店を作るをミッションに2016年から創業した会社で、今10年目の会社です。
やっていることは、いわゆるサプライチェーン領域の中でも貿易とか国際物流という領域のDXをずっと進めている会社。
10年目で今だいたいシッピオ本体に正社員で100名弱ぐらい。
これに今日も後ほどお話しするかもしれませんけれども、我々2022年にですね、創業63年目の新生の通貨会社というのがあるんですけども、そういうのを命名したりとかですね。
なのでグループ全体で今130人ぐらいかな、いるような会社でやっています。
この国際物流とか貿易DX、皆さんからすると国際物流とか貿易って少し遠い世界のように聞こえるかもしれないんですけれども、
だいたい部屋を見渡してみても家具だったりですとか、履いてる靴とかね、あるいは履いてらっしゃるジーパナタやとか、あるいは飲んでるこういうものだったりとか、ワインですとか。
こういうのも全部海外から入ってきたりしていますし、日本から例えば科学費の何かしらの食梅が輸出されて、それでバッテリーがつけられていたりということで。
本当に人々の生活や経済活動にはなくてはならないもので、この領域のDXということをずっとやってきたような会社になっています。
ありがとうございます。最後のところ、そうやって表現していただけると確かに意外と身近な存在だなということは感じられましたし、本当にこの国全体を底の部分で支えていらっしゃる存在なのかなと思いまして、非常に興味深いなと思っております。
そして、今ご紹介いただいて、おそらく佐藤さんの輪郭の部分を知ることができたかなと思いますので、今度は内側の部分にもディープに迫っていきたいなと思っておりまして、もしよろしければ、幼少期どんなふうに育ってきたのかなとか、お家庭環境とか、こんな子でしたみたいな、なんかそんなエピソードとかをいただけたらなと思うんですけれども、いかがでしょうか。
これはね、なかなかこういうところじゃないと話さない。
そうですね、ぜひぜひ。
私自身は、もともと出身は横浜なんですよね。
で、うちのじいさんが事業を起こしてやっていて、それがいわゆる物流だったんですよ。
これも本当にたまたまなんですけども、冷蔵冷凍の20人ぐらいの物流の会社っていうのをやってる家だったんです。
冷蔵冷凍の物流って、皆さんからするとちょっとわかりづらいかもしれないんですけども、当時でいうと大手の飲料メーカーさん、例えばコカコーラとかキリンビバレッジさんとか、ああいうところの商品を一度この冷蔵倉庫に集めてきて、そこから例えば横浜だったら装鉄線の各駅だったりとか、
透明高速道路のサービスエリアだったりとか、あるいは市内の自動販売機だったりとか、横浜スタジアムとか、小戸谷球場とか、いろいろあるんですけども、そういったところにディストリビューションをするような仕事をやっていて、だから物流を始めたわけではないんですけども、そういう家でしたというところですね。
またいろんなことがあってって感じなんですけども、僕が中学校3年生の時に、うちのじじいさんが不良の事故で亡くなるっていうことが起きて、そこから結構大変だったんですよね。
そのうちの親父は当時、普通に建築士の事務所を自分でやっていたんですけども、その事務所を畳むような形にして、やったこともない会社の経営っていうのをやらなきゃいけないということで、
そういう意味では、僕の経営者として見てきた背中というのは、一番近くにいたのはやっぱりおじいさんだったりとか、うちの親父が小さい頃の原風景としては残っているのかなと思いますね。
お父様の背中とか、どういうふうに見えていたものなんですか?
大変そうだなって思っていて、やっぱり当時、何かの時に親父の手帳を除いて、そこには借金の計算とかされてるわけですよね。何億っていうお金が。
こういうプレッシャーを感じながらやってるんだなっていうのが、小さいながらに見て感じたところはありますね。
いつか佐藤さんご自身もそこの会社継ぐのかなみたいなのもあったりもしたんですか?
大変そうなんで、絶対継がないと思って。嫌だ嫌だって思いながら、僕は別の会社に入ったんですけどね。
そうなんですね。じゃあ本当に佐藤さんご自身はそういった起業家の家庭とかで生まれてたかと思うんですけど、純粋に小学生とか中学生とかの時っていうのは、例えば何に熱中してたとか、こういう部活入ってましたとか、佐藤さんのキャラクターとかもわかるようなこととかもあったらぜひ教えてほしいんですけど。
なんか部活はいろいろと転々としてて、そんなに一生懸命やる感じではなかったんですよ。
ただ何でなんだろうって今思うと、わかんないですね。
結構当時はそれこそ家がそういう家だったんで、横浜駅に直営の売店があったんですよ。
これは面白くて、たぶん聞いてる皆さんわかんないと思うんだけど、昔その瓶の牛乳とか、あれじゃないですか、コーヒー牛乳みたいなやつ。
あれの蓋を取るミルクスタンドみたいなのがあったんですけど、そこで仕事を手伝っているような形だったんで、中学とかも帰ってきてから見せ版ではないですけど、やるみたいなことは結構あったかなと思いますね。
何に時間を使っていたかというと、割と本は読んではいて、本読んだりとか会社の仕事手伝ったりとか、そういうのが多かったかなって感じ。
そういう意味では子供らしい子供だったというよりは、中学生の頃から普通に仕事をしてたみたいな感じでしたね。
じゃあ学校でのキャラクターとか、どんな子だったとか、性格とかそういうのとかわかるものあります?
そこそこ目立つのが多分好きで、中学校2年と3年はですね、伝統的に合唱コンクールとかあるじゃないですか、あれの指揮者を2年と3年と両方やって、両方とも2連続で1位を取る、たぶんまだ既読破られてないと思うんですけど、そういうのとかすごいやってた記憶があります。
つまり立候補してやるぞって感じなんですか?
そうですね、目立ち下がりあったんで、そういうの立候補とか文化祭でわちゃわちゃやるとか、そういうのは行ってやった気がしますね。
高校生はどんな感じで過ごされてたとかあります?
高校生は、だからそれこそ、うちのじいさんが亡くなった後、結構大変だったんで、あんまり覚えてないですよね正直。
そうなんですね。
本当にあんまり覚えてなくて、ただいろいろくすぶってた中で、うちの親父にいきなり言われて、ここ2の夏かな、アメリカにでも行って来たらなみたいな、当時そんなにうちわからなかったと思うんですけど、
頑張ってカラフォルニアに、ロサンゼルスに3週間かな、1ヶ月かな、行くようなプログラムがあって、そこでやっぱり海外面白いなっていうか、いろんな人たちと話すのは非常に面白いしエキサイティングだな、というのは後任の時に感じて、
そこから少しずついろんなことがグローバルだったりだとか、それが最終的には勝者への就職とかにも、もしかしたらつながってくるかもしれないけど、ちょっと世界を変えるというか、景色を変える現体験は後任の頃だったかなと思うんです。
お父様はなんで送り出したんでしょうね。
どうなんですかね。やっぱりいろいろと家の頭って大変だったし、ちょっと一時についたからっていうことだったんじゃないですかね、という気がしますね。
結果的に視野も広がり、本当に人生変わっていくようなところの最初のきっかけにはなっているんですね。
そうですね。だから僕が初めて海外に行ったのは、その氷の夏ですね。
一般的に行ったら結構早めというかね。
どうなんでしょうね。今の人たち結構早いじゃないですか。だから、まあまあ、確かに当時としては遅くはなかったっていう感じだと思います。
大学からはじゃあどんな感じですか。
大学の時は、やっぱりその企業活動とか経済とか、そういうものは結構好きだったので、それこそ当時まだインターンっていうことがない時代に、今から20年くらい前じゃないですか、僕が大学卒業したのが2006年なんで、2004年とか2005年っていう時代に、例えばファンドでインターンをしてみたりとか。
当時そういう、だからまだスマホがない時代なので、いろんな手作業が残っているときなんで、いろいろとお手伝いしたりだとか、あとはそうですね、でもなんか結構好き勝手やらせてもらってた気がします。
もちろん海外も夏休みのたびに行ったりとかしてましたけども、いろんなことを考える4年間だったかなと思いますね。
いわゆるサークルしてたとか遊んでたというか、割と結構真面目にいろんな。
サークルもやってましたけど、基本的には飲み会とか宿にだけ行くタイプの、そういう大学生だったと思うんで。
結構就活に関しては相当難易度高いところに入られてる気がするんですけど、例えばそういうときってどんな実績を持てるんじゃないですけど、入社できたもんなんですか?
うーん、なんでなんでしょうね。あんまりわかんないけども、今の三井別さんの就職とか採用にまつわる最近の記事とか読んでも、学生のときに何に敷かれたかを聞かないとかね。
結構その当時から本質的にどういう人間なのかみたいなことを問われるような面接があった気がして、なのでこれすごいこういうところで話す話なのかわかんないですけども、
なんかこう勝者ってやっぱりみなさんすごいこのOB訪問とかOJ訪問100人やりましたみたいな人たちがいっぱいいるんですよ。謎の人たちがいるじゃないですか。
でも僕も一人もしてないし、僕の周りの同期もたぶんほとんどみなさんしてないんで、だから勝者のOB、OJ訪問しないと通らないのは都市伝説だと思っていて。でもなんでそんなこんなで入りましたね。
それで無事に三井別さんに入られて、そこからはどういう最初の仕事とか。
三井別さんでは一番最初にエネルギー本部っていうところでですね、この配属自体はいわゆる勝者って配属ガチャって言われる。
だからどこに配属されるかわからないリスクっていうのが結構あって、普通に海外で事業をやりたいのになんかこうコーポレートとか経理部になってしまうことだってもちろんあるし、
それもしょうがないんで、一応配属その希望面談みたいなのが確かあって、当時僕がずっと繰り返し言ったのは、24時間365日働きたいですみたいな、というのと、あとは僕は細かい作業があまり得意じゃないので、コーポレート系の部署に行くと一緒に迷惑かけることになりますって話をしてですね、なんとかそっち側を避けて。
で、石油部っていうところで、石油の原料になる原油っていうのがあるんですけども、この原油のトレーディングをやるようなチームに一番最初配属されたというと、非常にいい配属だったかなと。
そんな感じがしますね。
24時間365日っていうのはコーポレート系を避けるためじゃないですけど、それとも本当に気合が入りますか?
気合は入ってましたね。気合はむちゃくちゃ働きたいなと思っていたので、気合はたぶん空回りするぐらい入っていた気がしますね。
なんでそんなスイッチが入っていたんですか?
これ僕よく言うんですけど、社会人って最初の3年でついた差って簡単に埋まらないだろうなっていうふうに当時から思っていたんですよね。
やっぱり経験が経験を呼ぶではないですけど、社会人の最初の3年間の経験の積み上がりって、そこからすごいフクリで効いてくるんですよ。
つまり、最初の3年間で経験的に100の貯金ができれば、それはその後の30年間で、例えば5%でも10%でもいいんですけど、とにかくフクリで効いてくる。
社会人の最初の3年間で、社会人経験として5とか10しか貯金ができなかったら、そこから5%10%伸ばしていっても、やっぱり指数関数的にその差って先に行けば行くほど広がるかなというふうには思っていて。
そういう感覚で最初の3年、やっぱり一生懸命やりたいなというのはあった気がしますね。
最初の頃っていうのはどんな働きぶりだったとか、実際その業務自体はどうだったのかとかでいくとどんな感じですか?
忙しいでしょうね。それこそ今の仕事に多少つながっているのは、石器のトレーディングっていきなりトレーダーをやらせてもらえるわけではなくて、最初その見習い期間というか、この船のデリバリーみたいなのがあるんですよね。
こういうラジオというか、ポテキャストを聞いている人にはあまり想像がつかないかもしれないんですけども、例えばオーストラリアで買った原油をタンカーに乗せて電力会社さんに届けるとか、
あるいは車に乗られる人はエネオスさんとかイデミチさんとか、ああいうところを皆さん使われていると思いますけども、ああいうところの石油の備蓄基地に運んでいくみたいなので、
常にその何十隻っていう船をスケジュールを確認したりだとか、それの決済をしたりだとかっていうこともやっていたので、これへんは今の仕事に結びつくかなというふうには思っています。
あとは担当は、南方原油ってすごいマニアックだから。
漢字もわからないですね。
これオーストラリアとかニュージーランドとかベトナムとか、あとはシンガポールなんかもよく出張で行ってました。海外結構寄らせていただいて非常にありがたかったかなと思います。
それの次が中国に行くんですか?
そうですね。それ3年くらいやって、今度は2009年にちょうど上海万博があるときの上海に行って、
その翌年が天津という北京の近くの港町というか、ここで大手の自動車会社向けのサプライチェーンの仕事もやってるんですけども、
天津に行った2010年はちょうど北京オリンピックがあった年で、
今でこそ中国というのは非常にテクノロジーが進んでいてハイテクな国に見えるかもしれませんけども、ちょうど中国ががっと最近っぽくなるというか、
タイミングがこの2009年の上海万博と2010年のベトナムオリンピックなので、
本当に中国の経済が一番熱狂したときに、今度はもう一度そこで学生をやるわけですね。
研修生みたいなので行ったので、途中1年ほど向こうの大学に行って、そこで中国語の勉強をしたりして、
非常に昼間は勉強をして、夜は先輩たちと中国で乗りまくるみたいなことをやってたので、非常にそのときの熱狂というのがまた一つの原風景かなと思います。
そこで研修生を終えて、本配属みたいな感じで行くとどういうお仕事だったんですか?
研修生を2年やって、また東京に戻ってきて、今度はコーポレートディベロップメント本部というのがあって、
これは金融とか物流とか、そういった商社の三菱さんのファンクショナブルというようなチームだったんですよね。
そこで企業投資部に配属をされて、今度はいわゆるベンチャー投資、これは日本だったり中国だったりとか、あるいは場合によってはインドネシアとかイスラエル、
これをみなさんでチームでカバーしていくわけですけど、ここでスタートアップの世界というのを当時2013年からやっていたというところ。
2012年か2013年くらいから企業投資部というところではそういった仕事をしていました。今から12年くらい前にやっています。
しかも日本だけじゃなくてグローバルなんですね。
そうなんですよね。もともといたファンも、学生の時にインターンしたファンもスタートアップの時でしたし、
ちょうどまだあの頃はユーグレナが出てくる前くらいだった。
ライブドアイズの事件があったのが2006年なので、その前くらいのタイミングですよね。
なんとか言っても20年くらいこの業界には実はいると思うので、さまざまなシーンで見てきたというかもしれないですね。
そこで投資業務を得られて、その後がまた中国に行ったりするんですね。
そうですね。中国でも投資業務の一部と、それから今度は中国総代表出という、これ面白いんですけど。
当時の中国三井物産には大体1000人くらいの人たちがいて、4つのエリアに分かれていたんですよね。
北京、つまり北側ですよね。
モンゴルとか北京とか、あるいは重慶とかこの辺を管轄している北京エリアの社長がいて、
次は上海、上海とか蘇州とか、この辺りを見ている上海エリアの社長がいて、
広い州ですね、グアン城、甲州だったりとか四川だったりとか、より南側のエリアを見ている甲州地区の社長がいて、
最後に香港を見ている社長がいてということで、四天王みたいなのがいるわけですよ。
四天王も上にいるのが総代表という存在で、
その総代表の企画部というか、官房長官室みたいなところにこれは全部で2年か3年かいたと思うんですけど、
そこで中国全体のいろいろな戦略の仕切りだったりとか、PMだったりとかこういうのをやってきたっていう感じですかね。
本当に中国の総代表、指揮官みたいな方と日常的に一緒に仕事するような。
今でも大変参考にしてますけど、やっぱり29歳くらいだったと思うんですけど、
29歳で三菱さんの常務とか専務とか、場合によっては社長クラスと一緒に移動しながらいろんな話を聞けるので、
この経験というのはやっぱり非常に大きかったかなと思います。
そこまでいったら、本当にそのまま三菱さんの業績を狙い続けるような野心的、そっちもそれでいいキャリーかなと思うんですけど、
そうこうには行かなかったんですか。
そこには行かなかったですね。何でかっていうとよくわかんないんですけど、今でも。
ただ一つはっきりとあるのは、やはり当時の北京に僕は住んでたんですけど、3年間。
2014とか15くらいの北京っていうのは、やっぱり僕と同い年くらい、その20代の人たちがどんどんスタートアップを作って、
ちょうどその聖火大学とかの辺が日本でも話題になってる時期で、スタートアップを作って、
中国ではなかなか直接IPOする人少ないので、アリババとかテンセントとかに会社を売って大成功してるような人たちっていうのも周りにいたので、
それを見てやっぱりその躍動感とか、その勢いとか、あんまりお金持ちになりたいからどうというよりは、
すげえなっていう会社を作って、アリババとかテンセントに買ってもらうって、そういう仕事があるのかっていうのは、
やっぱり自分もVCというかそういうところで見てきてはいましたけど、実際にそういう事業家の人たちが見てると、
僕もやってみたいなって思って。
というのと、あと10年いたから、ちょうど飽きたっていう。
もういいかなって思う時期だったんじゃないかなって思うんですね。
そしてそこで企業を意識し始めて、多分共同創業者の方との出会いとかもありつつだと思うんですけど、
その辺りのエピソードも少し教えてもらえますか。
そうですね、当時一緒に北京に住んでいた後輩と事業は最初やろうかということで、
彼とは結局その途中でカラカラにやりたいことがあるということで、今は一緒にやってないんですけども、
そういった形で2016年の3月に日本に帰ってきて、事業の準備を始めて、
そこから3ヶ月後の2016年の6月の2日に会社を立ち上げて始めたというところですね。
始まるタイミングではもう完全に事業領域とかプロダクター安定は決まってたんですか。
いや、ほとんど決まってない状態で、
さすがに会社を始めようというタイミングでは方向性は決まっていましたが、
三菱さん辞めた時点でどうするんだっていうのはあまり決めてなくて、
とりあえず辞めてから考えようという形で辞めたのも、そういうのも思い出した。
全然あれなんですけども、今でも企業家の皆さんにアドバイスしたいところではあるんですけど、
何が立ち狂ったのかわからないんですけども、三菱さんのとき有給めちゃくちゃ残ってたんですよ。
すごい量残ってたんですけど、全部捨てたんですよ。
先輩方に悪いことは言わないからもらっとけっていうふうにアドバイスをいただいたにもかかわらず、
これから大成功する企業家であることがそういうつまらないものに執着すべきではないとか言って、
全部捨ててきたんですけど、今計算するとまあまあな金額なので、
皆さんやっぱり有給をちゃんと取り切ってから次のチャレンジをするのがよろしいんじゃないかと思います。
確かに。
何の話なんだ。
しかも事業領域的にもキャッシュインし始めるというか、事業立ち上げまですごい時間かかりますね。
そうなんですよ。
そうですよね。
だから完全に間違えましたね、そこはね。
そこだけで唯一。
それは唯一、もしもやり直せるならシリーズで言うとそれぐらいかなと思います。
物流っていう領域、スタートアップもまだ日本にはほとんどなくて、まずそれは多分難易度が高いっていうところと、
多分すごい時間かかりそうだなみたいな気はするんですけど、
そういう意味では投資家からの資金調達とかもちょっと簡単にいかなかったりとかっていうのはなかったのかなって気になるんですけど、
どんな感じだったんですか?
そうですね、それはもう本当に信じていただいた投資家の方々たちがたくさんいたので助かりましたっていうことなんですけども、
だから時間のかかるチャレンジって僕は意味があると思ってるので、
すごい投資家の方々にもものすごくアップサイドがあるんだけど、
ものすごく時間かかるのとものすごく難易度が高い事業をやろうとしてるんですけど、
そういうのもポートフォリオの中には1個ぐらいあってもよくないですかみたいな栄養をかけた記憶があって、
とにかく時間かかりますっていう。
当時僕は自分たちのことをお楽しみ袋って呼んでた。
僕らは当たるか外れるかわかりませんけども、当たった時はもう最長距離を出すので、
とにかくお楽しみ袋ってポートフォリオの1個にどうすかみたいなことを言って、
時間かかります、難しいです。
でも誰がどう聞いたってこの領域って大きいじゃないですかっていう話で、
当時の初期の投資家の方々には納得いただいたって感じですね。
今となってはそのお楽しみ袋もどんどん膨れ上がってる感じがしますね。
そうですね、まだまだやらなきゃいけないことがたくさんありますけども。
授業に関しては具体的なプロダクトとかどういう感じで展開してたのかっていうのはどんな感じですか?
授業に関してはこれは一番我々がユニークなところで言うと、
フレートフォワーダーっていう仕事があって、
これは僕ら今やってる一つの機能なんですけども、
フォワーダーって日本で言うと一番大きいのは、
例えば日本ツーンさんとかね、多分そうだと思うんですけども、
貨物の旅行代理店みたいな感じ。
貨物の旅行代理店、ほう。
今でこそエクスペディアとかありますけど、
例えば昔だったら旅館どこ泊まって、
新幹線の切符はこうで、レンタカーはこうしましょうって組み合わせるじゃないですか。
保険は一応これかけときましょうか。
貨物も一緒で、
例えばアフリカから日本にコーヒーを何十トンと輸入したいですって言うと、
じゃあトラック会社はここにしましょう、船会社はここにしましょう、
保険はここにかけておきましょう、倉庫はここに入れましょうみたいなことを
一通りアレンジしていくようなのがフォワーダーという仕事なんです。
僕ら自身がフォワーダーというのは、
国土交通省の貨物利用運送事業者法という法律に基づいて行われる仕事なんですけども、
この貨物利用運送事業者法に基づいて免許を取る。
つまり自分たちで直接的に物流もやってしまうというようなビジネスを作ったんですね。
だからわかりやすいのは、例えば不動産サースの会社が自分たちでも不動産売買やってますってあるじゃないですか。
あれに近いような形だと思ってたり、
あるいはどっかのクリニックのサースが自分たちで直営のクリニックをやってますみたいなイメージ。
なぜかというと、当時僕らも当然サースから事業を始めたかったんですけども、
やっぱりまだまだ2016年というのはB2Bサース黎明期で、
物流業界はそれほどリテラシーという意味では一応高い業界ではない。
だから導入が進まないという壁が最初にあったので、
あれば僕らが物流事業者の免許も取ってしまって、
自分たちで直接的に産業に参入をしていきながらベストプラクティスを見つけに行こうと。
こういうことを考えたのが2017年とかそんな感じだったと思うんですね。
なので順番としてはまず利用運送の免許を取って、
自分たちでも直接的に物流事業を手掛ける。
その中で得た知見を徐々にサースという形で型化していく。
これが2016年から2020年ぐらいまでの事業の組み立て方。
ここに2020年以降乗ってくるのは、
この後お話しするかもしれませんけども、
死にせんの物流業界というかこの業界のM&Aとの掛け算という。
なのでプロダクトとか事業展開というところでいくと、
直接産入します、サース作ります、さらにそこにM&Aを掛け算していきます。
この3本柱でここまで10年やってきているのかなという感じですね。
一番最初のフォアラーとしてプレイヤーになりにいくみたいなところだと思うんですけど、
ここは資格も必要ですし、
そもそも業界から入り込むのすごく難しそうな印象があるんですけど、
そのあたりはどうだったんですか?
非常に難しかったですね。
やはり当時貨物利用運送事業者という免許をスタートアップが取るということは、
基本的には想定されていないような形なので、
本当に関係各省にいろいろな説明に行ったりだとか、
説明されている方も想定していない話なので、
いや言われてもっていうのがある中で、
当然国の関係各省とも話をする。
あるいはそれぞれのフレートフォワーダー協会みたいなのもあるので、
そういうところにも相談をしに行く。
あとは物流業界って、
ご意見万能の経営者の方たちって結構いるので、
そういったところにも相談しに行って、
なんとはスタートできないかっていう。
その中で1年半から2年くらいかけて、
免許を取り終わるということをやったんですよね。
先ほども少しいただいたと思うんですけど、
このM&Aはかなり大きな意思決定だったんじゃないかなと思うんですけど、
その時の背景だったりとか狙いだとか、
実際にBMIを買収されてからってどうだったのかみたいな話とかもちょっともらえますか。
まず僕自身も水物産企業投資部にいたっていうこともあって、
そういった会社を見るのは比較的好きだったんですよね。
そんな中でちょうど2020年くらいっていうのはコロナの時期だったと思うんですけれども、
まずコロナの時期、僕らも他のスタートアップと同様に非常に苦しい時期が続いていて、
この頃もほとんど記憶がない。
どうやって乗り切ったんだろうと思うけど、大変だったんですよね。
でもコロナの頃のBtoBのスタートアップって本当に辛くて、
電話してもみんないないじゃないですか、オフィスに。
気づいたらリモートになっちゃってて、
でも僕らとしてどこにもコンタクトがないから営業しにくいなとか、
マーケット仕様にもお金どんどん減っていくんでちょっと難しいかなっていう時に、
一つ試行実験的にM&Aってどうなんだろうっていうのを当時から思っていて、
かつコロナの時だったんで苦しい会社っていろいろあるんじゃないかと思った時に、
普段は表に出ないような会社っていうのが出てくる可能性があるなというふうに考えて、
いくつか見始めたというのが2020年頃だったと思うんですよね。
そのタイミングってしっぴょさんご自身も結構辛い状況だったわけじゃないですか。
多分キャッシュ的な不安とかも場合によってあったのかなと思うんですけど、
そのあたりは怖くなかったというか、よく踏み出せたっていうのは。
ね、どうしてたんだろう。
すげー怖かったけどね。
あの時本当にメンタルが引きかけましたね。
そのレベルで来てたんですね。
来てたんじゃないですか。
どのスタートアップもそうじゃないですか。
仕掛けたのすごいですね。
で、その一方でやっぱりM&Aっていうことも考えるんじゃないかということで、
結局実行は22年の7月だったので、そこから2年くらいかかるんですが、
途中で何社か検討をして、ただまだちょっと早いねとか、
まだタイミングじゃないねとか、この会社だとちょっと難しいかもねみたいなことを色々と話していきながら、
今の共和関連さんに出会って、
そこからは最初の面談からMAのクロージングまでは4ヶ月くらいだった。
それじゃあ結構スムーズにいってるんですね。
そうですね。それやっぱりその手前の2年で何度も想定してるのと、
それこそやっぱり当時はですね、ロールアップっぽい、
今でこそみんなロールアップとか言ってるけど、
M&Aみたいなのはあまり想定はされてなかったので、
各VCさんなんかからも当然本当にそれでいいのかとか大丈夫なのかとかっていう、
この辺の議論のポイントをだいぶ潰していたので、
いざやろうとの時には比較的スムーズに話が進んだので、そんな感じですかね。
これスタートアップ側の景色で見てると、
今となってはその心理性企業をロールアップしていっていて、
上等集団としてありますけど、実際に買収されたのは本当に心理性の移る会社さんなんですよね。
はい。当時僕らの平均年齢は30歳ちょいで、
彼らの平均年齢が50歳くらいで、
売り上げは僕らの1.5倍とか2倍くらいあるような会社さんだったので、
なかなか勇気のいるトライだったなと思います。
なんで売ってくれたのかとか、何を期待されてたのかみたいなところはどうなんですか。
ものすごく面白くてですね、
当時社長さんは一緒になる先というのが、
普通の物流会社、
当然物流会社って物流会社をリマンドするので、
という選択肢と、
エクストリームなんですけども、我々と一緒にやっていただくという二択があって、
普通でいくと、当時彼70歳くらいだったと思うんですけど、
そういった形でどんどんとやっていった。
一方で全部うまくいってるように見えますけれども、
大事だったのは、元Zの小澤隆夫さんがいろいろとお話ししてくださる関係なんですけども、
小澤さんに何かのときに相談したんですよね。
M&Aで小澤さんがやっぱりイッキューとかゾゾとかクラシルさんとか、
いろんなところのM&Aをやられているので、非常にお詳しいわけですよ。
小澤さん、何やったらいいですかって言ったら、
うん、何もするなって。余計なことはしない方がいいって言われて、
そうなんですかって話をして、それどういうことですかって。
やっぱりどうしてもスタートアップっていうのは当然エネルギーにあふれているので、
M&Aした会社を自分たち色に染めたいとか、
自分たちのビジョンを何とかわかってほしいとか、
カルチャーを持ってほしいとか、そういうのでバーってやっていこうとするんだけど、
人には気持ちっていうものがあるからっていうのを小澤さんから言われる。
どうなんだろうという。
最初の1年はなるべくやり方を押し付けたりとか変えずに、
ただ後ろっ側で綺麗にいくのがたくさんあるんですよ。
例えばそれこそ当時あの会社にはWi-Fiが通ってなかったので、
Wi-Fi整備したりとか、メールからスラックに変えたりとか、
近代のシステム変えたりとか、
あとは誰一人ラップトップを持ってなかったので、
少しずつノートパソコンに変えていったりだとか、
そういったできることをまず最初の1年でやりながら業績を安定させて、
業績が安定できると皆さんの待遇というのを改善させることができるんですよ。
待遇が改善されるぐらいになってくるとようやくみんな、
あれなんか一緒になってよかったねっていう雰囲気になってくるわけですよね。
この辺からようやく共社としてどういう会社になっていきたいのかという話ができるようになってくる。
これは2年目とか2年目の後半ぐらいかなと思うので、
やっぱり最初の1年とか1年半はあまりいろいろガチャガチャいじらずにやってきたっていうのは、
すごくうまくいった理由なのかなと思いますね。
それを経て本格的に2年目ぐらいからは人を入れ込んだりとか、
そうですね。人はずっと入れ込んでたんですけども、
2年目からは社長を変わっていただいて、当社のメンバーから社長になってもらってですね。
事業務をやってくる。
でも嬉しいのは、当時70歳の社長さんも僕らが延命した後も残ってくれて、
今一緒にやってますけども、引き続き仕事はやってくれたということで、関係性は非常にいいんじゃないかなと思います。
今は通管の会社さんだったので、本当にいろんな業界さんでマンデーを仕掛けていく可能性っていうのもあるんですか?
はい。やっぱり必要に応じてやっていきたいなというふうには思っていますし、
スタートアップがMASというよりは、スタートアップがそういった産業の、
これまでの歴史のある人たちと一緒にやっていくっていうのもあるのかなと思うんで、そういったことは今後もやっていけるといいかなと思っています。
ありがとうございます。じゃあM&Aに限らず、この執行さん、今後何を目指してどこに向かっていくのかみたいな、そのあたりも教えてもらえますか?
僕らが大きく掲げてるところはですね、産業の転換点を作るということで、これどういう意味かっていうと、
やっぱりサプライチェーンっていうのは一定の企業規模以上であれば、輸出乳もそうですけども、
携わってない人たちはいないと思うんですよ。それが建設であれ医療であれ、B2BであれB2Cであれ、
やっぱりこの輸出乳とかサプライチェーンは切っても切り離せないというところ。
このサプライチェーンを大きく変化させることによって、いろんな産業にインフルエンスしていくことができるんじゃないかというのがこのミッション。
それを達成するためにどういう景色を僕らが作っていくのかというところでいくと、
今言っているのは2030年までに日本発着貨物、特にこれは一旦コンテナだったりとかいうところに絞ってなんですけども、
30%のデータを我々支票が流通させるというか、流通量の30%が支票で動いているような世界を作っていきたいと思っていますので、
ここから5年、マジで頑張らなきゃいけないというのがまず一つあると思っていますね。
さらにアクセルを踏んでってことで、僕らの人も本当に事業も最終的にはどんどん上手く立ち上がっていって、
PMIも成功されて、未来もすごく意外化されていらっしゃっていると思うんですけど、
さっきも何回も記憶をなくしかけていらっしゃるとは思うんですけど、
残っている限りであの時振り返ったらマジできつかったなとかそういうのとかってあったりしますか?
どれだろうな。全部きついですよね。スタートアップ全部きついんですけど。
でもやっぱりコロナの時期じゃないですかね。
やっぱり今の会社の状態でああいうことが起きても乗り越えられると思うんですけど、
当時やっぱりまだ20人とか30人しかいない、30人もいなかったから20人くらいの会社だったので、
しかももう強制的に外に出れないっていう状態で。
これだとやっぱりチームなんか作れないですよね。
あとは開発も進まなければ営業も進まないですよね。
これはやっぱり、しかも自分にはどうすることもできないっていうので、
うわーっていうのは結構あったなっていう気がしますよね。
どう乗り越えたか覚えてないです。
覚えてないですか。何とか乗り越えたんですね。
でも多分多くの企業家がそういう時期だったんじゃないかなっていうのは。
一方でコロナがあったから物流業界もリモートワークだったりだとか、
効率性だったりだとか、あるいはデータ管理みたいなところ。
つまり属人性というものがコロナによってやっぱりまずいっていうことが皆さんに伝わるようになって、
コロナ期間というのは逆に言うとB2Bサースは一定取り組みやすくなったんじゃないかなというので、
そういう意味ではそこで生き残れてよかったかなというふうに思いますね。
確かにコロナもそうですけど、それ以外でも多分国際情勢の変化激しくなってきてるんで、
これは時代が変わらざるを得ないみたいな、ある意味追い風っぽいところもあったりもするんですか。
そうですね。まさに最近で言うとトランプ関税ということで、関税という言葉がお茶のままの言葉になったりとか、
あとはちょっと前だとスウェーズ運河が通れないみたいなことがあって、
そういうのに影響を与えるんですとか、このダイナミックさというのも当社の事業の面白さなんじゃないかなというふうには思います。
ありがとうございます。これまで執表さんについてもずっと聞いてきましたけれども、
佐藤さんの話でいくと最後にお伺いしたいのは、佐藤さんとしてはこれからどんな人生を歩んでいきたいか、
どんな人生の物語を紡いでいきたいかみたいな、ちょっとふわっとしてますけど、
この後で聞かれるとどう生きていきたいですか。
これ考えてきたんですけど、歩きながら。
あんまり適切なことは見つからないんですけど、一言で言うとどうユニークなものを仕上げていくかというのが、
とても僕の人生もそうだし、僕の事業もそうかなと。
つまり執表で言うと貿易とか国際物流という領域も非常にユニークですけれども、
それを実業×サース・プラットフォーム×M&Aみたいな形の掛け算でやっていくと、
やっぱり唯一無二。
当社の社員みんな毎日頑張って仕事をしていますが、
ユニークなものに取り組むっていうのはストレスではあるんですよね。
やっぱり不安じゃないですか。
プレイブックがあるわけでもなければ、どうすれば勝てるのかっていうのも、
本当に自分たちでしか編み出せない。
ただ、だからやっぱり面白さだったりだとか、人としての成長もあるんじゃないかな。
あるいはその企業のチャーミングさになっていくというか、
ポテンシャルになっているのかなと思っているので、
ユニークであることは非常に追い続けたいですし、
誰かの真似をするということは極力したくないなと。
参考にするとかね、そういうのはすごくいいと思うんですけども。
事業も人生もユニークなものにしていくということが、
僕としてやっていきたいことかなと思います。
ユニークなものをやるの、不安もあるみたいな話もありましたけど、
その不安にはどう向き合っていくんですか?
やっぱり見たことない景色を見ようと思って歩んでいると不安じゃないですか。
だって別に道なき道は行かなきゃいけないし、
別に地図に載っていない道を行かなきゃいけないこともあるし、
だからこそ誰も見たことがない景色にたどり着く可能性があるわけなので、
そこは引き換えですよね。
得るものはユニークな景色で、
退治しなきゃいけないものはその景色を見るための道中のストレスとか不安とか焦りそう症みたいな。
こういうのはやっぱりあるかなと思っているので、
それはセットかなって感じですよね。
それはもうトレードオフというか覚悟した上で、
さらにその先の未来を信じてもやりきるしかないと。
ありがとうございます。
最後にここまで聞いてくださった方へ伝えたいメッセージとかもしありましたらお願いします。
聞いてくださってありがとうございますというところなんですけども、
我々国際物流や貿易という非常に壮大で複雑性の高い領域を10年やっています。
今回シリーズCの資金調達で32.4億円という非常にまとまった大きなお金をお預かりする形になりましたけども、
さっき言ったようにコロナだったりだとかいろんなことがこの10年あって、
これからもすごいいろいろなことがあると思うんですけど、
静岡にしつこくやるっていうことが大事だなっていうのは、
最近本当にいろんな場面で思うようになってきたので、
僕が何か皆様に申し上げるようなことはできないんですけども、
しつこくやっていこうというのがとても重要なんじゃないかなというふうになっています。