干渉はしたくない。
彼がやりたければやればいいし、
彼女がやりたければやればいいし、
逆にやりたくなかったらやらなきゃいいし。
そこに対して父親として、
これをやったほうがいいとか、やるべきだみたいなことは、
極力言いたくない。
なんか攻めでもあるけど柔軟だよね。
固定概念がない、いわゆる父親っていうものに、
イメージから柔軟に離れてるというか、
新しい形なのかなとか。
そういう人も昔からいたかもしれないけれど、
なかなか胸張ってるというか、
言える人もなかなかいなかったのかなと思うし、
それって、その考え方っていうのが、
昔からですか?いつからか変わっていった?
みたいな感じですか?
でも、子供が生まれるってなった時からそうだし、
自分の子供っていう対象じゃないにしても、
人に対して基本そうですね。
なるほど。
難しく言っちゃうと人権みたいな話になるかもしれないけど、
その人が生きるその人の権利だから、
他者から、たとえ家族身内であったとしても、
その人以外の人からその人の生き方とか、
その人が生きる時に大切にしたい考え方とか価値観みたいなことを、
曲げられるまでいかないにしても、
干渉されるっていうことは、
その人それぞれの領域というか、
ジェンダー的に言うとバウンダリーみたいなものがあるじゃないですか。
そこを一線はちゃんと守りたい。
これもう申し訳ないけどって話じゃないけど、
僕も守るから、あなたに対して守るから、
僕のこれも守ってねっていうスタンスなんですよ。
だから多分外育祭の打ち合わせか当日かの時も言ってたと思うけど、
僕は今、僕の人生としてこのフェーズというかに立っていて、
その時に子供を授かることができました。
これはすごく嬉しいしありがたいことなんだけど、
ただ一方で僕のこのステージ、今のこの人生の僕のステージにおいては、
申し訳ないけど、子供たちと密に時間をかけながら接するっていうことが、
僕の今のステージでは申し訳ないけど、僕自身が許されない。
だからちょっと待っててみて。
次期キャッチアップできるというか、
君たちのステージが上がってくるのと、
僕のステージが降りていくのか分からないけれども、
ペースダウンした時に何か一致してくる時があったら、
あるかもしれないし、会ってほしいと願うから。
その時にはもうフルコミットメントするから、
ちょっと待っててみたいなスタンスなんですよ。
実際それがだからたまたまだけど、議員業に就いたことによって、
申し訳ないけど菊池は政治家として、議員業を大事に考えるという立場になったから、
今度は会社のみんなに対して申し訳ないけど、
会社のみんなごめんね、しおり日の菊池として、
しおり日に避ける時間が短くなるから、短くせざるを得ないので、
ここみんなでカバーしてっていう投げ方をするわけですよね。
そうするとこれまで僕が経営者として、
あれもこれもそれもとにかく自分の会社だから自分でやらねばっていうマインドの下に、
抱え込んでいたものを一個ずつ手放していく。
これはシフトの作成は申し訳ないけどお願いねとか、
経理関係で最後決算書を取りまとめて会計士さんとやるのはお願いねみたいな感じで、
切り離していった時に僕の手が開くじゃないですか。
これはもちろん議員活動をするために手放していって開いた手なんだけれども、
それが思いがけず、議員活動ともちろん並行してですけど、
家族っていうものに対してこの手を差し出すことができるようになったという、
そんな1年間です。
だから今は比較的、春木やさきと、
例えば日常的なことで言うと夜ご飯食べる機会とかもすごく増えたし、
一緒にお風呂入るとか、庭でサッカーするとか、
習いごとのお組み迎えするとか、
時間も増えていって、
あの時またしてごめんねっていうのを今僕はリカバリーしようとしている。
家族的にそれは今どんな状態?
やっぱりこういう時間が持てた方が、
妻との関係性も含めてだし、子供たちとの関係性も含めて、
今すごい家族をやってるなっていう。
これを本当は小さい頃からこのコンディションが作れたら、
確かにより良かっただろうなっていうことは思いつつも、
でも基本スタンスがさっき言ったスタンスだから、
あの時はあの時で僕の人生は僕の人生でああだったからってところで、
別に後悔はチラッとするかもしれないけど、
あれはあれだったっていう割り切りはできてるっていう感じですかね。
ちょうど確かお仕事が忙しくなる時期と、
お子さんができた時期がちょうど重なってたってことでしたよね。
そうそうそうですね。
でもね、菊池さんってすごく思考されて、
めちゃくちゃ言葉にしてくれるっていうのも変なんだけど、
ちゃんと言語化してやっぱり表してくれるっていうのは、
なんかその一緒くたに育児をしてなかったっていうのに
全然結びつかないなってすごく思ってて、
きっとのぞみさんともすごく話し合いをされただろうなって、
のぞみさんも…
知ってたかな?
挨拶一つとかさ、ありがとうとかさ。
そうなんですよ。
仕事関係とかがあると、もちろんディスカッション大事だよねみたいな。
ディスカッションを通じた合意形成。
対話と熟議で合意形成を図っていく。
これは民主主義のプロセスそのものなんで、
政治って本来そういう仕事だと思うんですけど、
そのことって社会に出ている社会人としてはできてるはずなのに、
家庭に入ったとたんにできなくなるって何なんだけど。
相手に対する甘えだと思うんですよね。
もうパートナーなんだから、そんな言語化しなくたって、
わかってくれるでしょっていう甘えが多分、
一方的なのかお互いになのかあると、それがきっかけで、
いやわかんないですよ、そんなこと言われても。
話になりますよね。
わかってくれてるだろうと思うから、
これしてくれないのなんだろうって思っちゃうんだね。
勝手に自分の中で不満を募らせてくれて、
不機嫌になるみたいな。
家庭内の不機嫌とか夫婦間の不機嫌って、
基本的に相手に対する信頼がもたらしている不幸だと思うんですよね。
なんかやっぱあるよね。
うち最近になって家族会議を始めたんですよ。
めっちゃいいと思う。うちもやりたい。やろうと思ってるの最近。
そんなまだ家族会議にもどんどん上手くなっていくと思うんだけど、
本当に始めたばかりだから、
会議になってるかなってないかもわかんないんだけど、
むしろ子供の思ってることとか、
普段会話してない会話とかもそうだし、
それに関した夫婦の意見みたいなものも、
ちゃんと時間作らないと聞けないんだなって、
すごい思う。
どういう風にやってるの?
初心者だよ。
家族会議やります。
全員?4人家族だもんね。
4人だから、一応下の子は2歳だから遊んでるんだけど、
その上の6歳か、小1の6歳も入れて、
ホワイトボード?小さいホワイトボードに、
今日の話したいことを、3人は話せるから、しゃべれるから、
持ち寄るの。
そうそう。
今度の休みのこととか、
やっぱりスケジュールとかで、ごちゃっとなるじゃん。
なる。
なるよね。みんなそれぞれそれこそお仕事をしてたりとか、
子供が成長していくと、いろんなスケジュールが増えてくるから、
それをまず整理とか確認するみたいなところで、
少しずつ息子が学校に行って遊びたいとか、
そういうこと知らなかったとか、
じゃあ行こうよみたいな。
そういう話になって、本当に分からないなりにも会議っぽくしていて、
というのも本を読んでるんです。
家族会議の本をやり方。
家族会議を取材してる人がいて、その人がまとめた本があって、
全国いろいろ取材に行って、いろんな家族の家族会議をお邪魔してくるみたいなやつで、
それがすごく面白くて、ちょっと泣きそうになるエピソードとかもあったりして、
すごくいいなと思って、初めて見たところ。
うちもやりたいし、みんなやったらいいと思う。
例えば今の休日の使い方みたいなのも、
結局親が何するかみたいなことに対して、子供はただついてくるだけとか、
そこにいるだけみたいな感じになっていってしまって、
子供の生きたい生き方みたいなことが、その時ってすごいなおざりになっちゃってるなっていうのを、
最近よく感じるんだよね。
今、自分の息子と娘は小3、小4ってなってくると、
自我ももちろんしっかりあるし、彼ら彼女たちには彼彼女のそれぞれの社会があるじゃないですか。
明確にもはや。
そうすると、父ちゃん母ちゃんのそれのそばにいるよりも、誰々君家に行って遊びたいんだよとか、
キクリンはそれは映画見に行きたいかもしれないけどさ、見たくないよそんな映画みたいな。興味ないよみたいな。
だったらそっちの公園で遊んでたいよみたいな。
この前も松本市の隣の安住野市の図書館で、
野党震災の後の高校の炊き出しのドキュメンタリーの上映会があって、行きたくて、
そのタイミング的に僕が息子と娘を春木佐紀を連れて一緒に行くっていうタイミングになったので、
野住とも話して、野住はもうちょっと店のことで焼き菓子作らなきゃいけないって言ってたから、
じゃあごめんちょっと行かせてもらうねって言って、二人連れて行くねって言ったんだけど、行っていい?って言って、
まあいいけどみたいな。しぶては。行きたくないんだよ。
雰囲気がもうわかるね。
これ多分ここで家に置いとくと、野住の仕事がはかどらんし、連れて行った方がいいなと思って、
交渉、ネゴシエーションするんですよそこから。何があれば一緒に行っていい?みたいな。
上映会が40分のドキュメンタリーの後にトークイベントが50分あって、
多分トークがしんどいんだろうね。映像がある程度見れるから、
じゃあそこ休憩あるから、休憩になったら図書館行っていいよって。
だったらいいって。まあじゃあいいけど。まだまだだって。
昼ごはん食べたんだって。僕が午前中足折り身に行って、午後帰ってきてからのそれだったから、
昼ごはん食べたんだ。いやまだ食べてないって。じゃあ昼ごはん好きなとこで食べていいじゃんって。
どんどん交渉してる。
でまあそれで降りてくれていいし。
どうにかこうにかお互いのやりたいことをくっつけてくっつけて。
でも今のもまだまだ不十分で、今のやっぱり僕がやりたいことを、
その子供たちを巻き込みながら連れてるっていうのをしたから、
やっぱりそこももっと手前のところで、ちゃんとそれこそ家族会議みたいなものがあって、
じゃあ次の休日はこういう風に過ごそうねってことに、みんながアグリーしてるって状態で、
その週末を迎えられたら結構ハッピーだと思うんですよね。
でもなんかそこ行くまでのプロセス、家族会議っていうのもしっかりだし、
やっぱりその毎休日毎休日じゃあ今度子供のやりたいことに合わせたらいいかっていうと、
なんかそれだと今度ちょっとバランスが悪くなってくるたりするのかなと思ってて、
なんか試行錯誤してることこそなんかまあいいよねっていう気がしている。
なんでその映像を見に行きたいのかみたいな話とかもしてあげると、
逆にねもしかしたら興味持ってくれたりするかもしれないし、
あ、そっかキクリンはそういうことに興味があるんだっていう子供ながらにね理解してくれたりとか、
なんかそういうのも大事なんでしょって。
なんかこちらのやりたいこともちゃんと行くようじゃなくて、
私はこういうのが面白いなって思うから今日ここに行きたいんだ、どうするっていう問いかけですね。
そこも含めてやっぱ対話ですよね。
家庭内の対話ってやっぱね、後回しにされがちというか。
なんか本当はっていうか、外行く際にキクリンに来ていただこうと思ってた時って、
最初パパなんだけど夫婦で来てもらおうかなと思ってて。
その話ありましたね。
それこそその夫婦感なんか結構みんな知り合ってないっていうか、
どんな感じで夫婦やってるのとか。
外行く際の裏のテーマがずっと人の家庭の覗き見。
ラジオも特にそうだけど、
ネス見劇ね。
したいなっていうのがあったんだよね。
なんかそれでもちろん勉強になるところもあるだろうし、
反面教師になるところとかもあるだろうし、
なんかみんな子供いてどういうふうに円滑に家族とか夫婦なんかこうコミュニケーションしてるのかなみたいな気になったりして。
それでキクさんの場合はお店、松本市でお店もやってるから、
なんかその中身って本当どうなってんのっていうところの単純な聞いてみたいっていうところからね、
お呼びしたいなっていうふうに思ったんだよね。
でも実際の打ち合わせの時に本当に私印象的で、
ちょうどお嬢さんだったかなが小学校から帰ってきたタイミングで、
お店で打ち合わせしてた時にね。
私みんなで打ち合わせしてた時にお嬢さんが帰ってきて、
たまたまキクリンが多分コーヒーを入れてくれたタイミングとかで、
なんかおかえりただいまみたいな、
なんか今日何やったのみたいなおしゃべりしてて、
なんかもう先生っていうのもちょっと変だけど、
なんか人のやっぱその親としての姿、
仕事一緒にする人と親の姿を見れるっていうね、新鮮だったし。
分かんない、まだうちも上の子が小1だから、
小3、小4ぐらいの猫お子さんってどんなスタンスなのか分からないけれども、
少なくとも親とちゃんと話をしてくれる?
おしゃべりをしてくれる関係っていうのは、
なんかいい関係なんだろうなと思った。
なんか親と話したくない時期がいずれ来るじゃん。
ついお互いこうなんか反抗的な態度になっちゃうみたいなね。
顔回せた。
そうそうそう。
なんか聞かれてもさ、うんしか答えない。
どっかこっかであるだろうなっていうね、
あるかもしれない。
僕そこは基本的に、
はるきとさきは息子と娘なんだけど、
なんか一番仲いい友達みたいな感覚でありたいなっていう風には思ってて、
一番じゃなくて全然いいんですけど。
さっきパパのことをキクリンって呼んでいる猫さんが。
本当にちっちゃい頃、幼稚園の頃とかに、
保育園の頃とかに、
のぞみんが僕のことをキクリンって呼ぶから、
それに合わせて子どもたちも僕のことをキクリンだったんですよ。
途中から周りの友達が、
父親のことはパパだったりトートだったりお父さんだったりって呼ぶから、
はるきとさきはトートを採用してどっかで。
採用して。
呼び方としてね。
そこから未だにトートなんだけど。
でも僕の癖で、
息子の頃は僕のことをキクリンって呼ぶから、
僕が自分のことを彼らや彼女たちに言うときは、
キクリンはっていう話をする。
今キクリンは、こうだから、だから。
友達だね。
繰り返し言ってるように、
彼の人生は彼の人生で、彼女の人生は彼女の人生だから、
僕が父親としては、君は僕の息子だからとか、
あなたは私の娘だからっていうことは言いたくないですよ。
対等な関係。
イーブンな関係でありたいから、
だから今日の彼女の学校がどうだったのかなっていうのは、
おすすめする本だったり、
CD、DVDなどを、
図書館で推薦して、
ご紹介するっていうコーナーを、
やらせていただいているんですが、
その辺も、
それをちょっとポッドキャストにも、
持ってこようかなという、
思考でございまして。
で、今回はゲストの木口さんに、
ちょっと1冊、
おすすめの本を、
お持ちいただきましたので、
ちょっとご紹介いただければなと、
思います。
貴重だよね。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
立派的すぎる。
しかも、
第1回にふさわしすぎない。
書店の人だからね。
書店の人ですから。
オーナーさんですからね。
本屋さんですよ。
しかもセレクトブックの、
オーナーさんですからね。
そうだよね。
そうだよね。
セレクトした上で、
セレクトしてきてもらって、
めっちゃあれだけど。
ハードルぐんぐん上がってる。
今ほんとそうだね。
セレクトブックの走りの、
パイオニア。
マジで。
ちょっと自覚がなかったわ。
すみません。
気軽に頼んでいただいて。
気軽にすぎたね。
雰囲気からね。
事前に行って、
選んできて、
お持ちいただいてますので、
ちょっとご紹介いただけますでしょうか。
ありがとうございます。
今日お話しいただいたので、
お持ちしたのが、
長嶋理佳子さん、
グラフィックデザイナーの、
一冊目というか、
ご自身の辞書で、
色と形のずっと、
手前で。
色と形のずっと手前で。
読みたい本、これ。
本当に。
聞いてたね。
噂は聞いてて。
一冊をお持ちしました。
ごくごく最近、
7月に入ってから、
リリースされた一冊なので、
使用日としても、
入荷したてです。
今日この収録が、
7月19日にされてるんですけど、
今日がレセプションがあって、
東京の恵比寿にある、
ポストっていう本屋さんで、
今日から8月の半ばぐらいまでだったかな。
理佳子さんの展示が、
この本の出版記念の展示が、
されています。
8月の4日までか。
今日の夕方、レセプションが。
すごいじゃん。
日程も。
日程モテという一冊です。
どんな本かっていうところの紹介を、
僕の言葉でしてもいいんですけど、
理佳子さん、
納品してくださったときに、
書店に添えてくださっているお手紙が。
すごい。
これは素敵。
すごいじゃん。
ここに、
本の概要でもあるし、
こんな思い出ってところが書いてくれている文章があるので、
これを読もうかなと思っているんですけど、
グラフィックデザイナーが母になったら、
何が起こり、何にぶち当たり、
どう考えるようになったのかを綴ることで、
私という一個人を通しながら、
資本主義社会の歪み、
止まらぬ環境問題、
ジェンダー不平等など、
社会の問題とそこへの投げかけが見えてくるような、
本になっていると思います。
デザインやものづくりに携わる方々、
そして女性だけでなく男性にも、
読んでいただけたら幸いです。
稚拙かつ、今できる精一杯の文章でしかないのですが、
届くべき人に届き、
少しでも役に立てるようなことがあれば嬉しいです。
というお便りを添えてくださって。
なんかもう共感だろうなって、
読む前からビシバシくるよね。
ビシバシ。
ビシバシくる。
しかもその外育文庫のキャッチコピー的なところが、
育児中でも自分らしさをっていう風にしていて、
本当にこの本棚にあるのは、
いわゆる育児本だけじゃなくて、
みんなの育児とか妊娠した人とかの、
心のコミュニケーションしたくて、
みんなどんなお仕事をしてたとか、
いろいろご家族であったりとか背景があっても、
きっと子供を産み、育てていく中で、
みんなで共有できる気持ちとか感情があるんじゃないかなと思って、
本とか、本当に文化を通してやっていきたいなと思ってるんで、
ぴったりだと思います。
本当にね。
まだ読み進めてる最中なんで、
全体を通じての触覚みたいなところが、
今このタイミングだと述べづらいんですけど、
外育としては息子さんが生まれになるあたり、
前後あたりから話としては含まれてるんですけど、
今もう5歳になられてるのかな、息子さんが。
この5年間を、
おにかこさんがご自身のiPhoneにメモした、
メモをベースに文章を広げていって、
一冊に束ねたっていう、
本当にご自身の日記的な本になっているので、
肉性が聞こえてくるような綴られ方をしているので、
すごく共感もしやすいし、入り込みやすい、
読みやすいし、読んでる途中にパタンって閉じて、
ふーって息がつきたくなるような、
自分とちゃんと引き寄せながら、
どんな人でも読めるような本だというふうに思っています。
長嶋玲子さんって、グラフィックデザイナーとして、
著名なとか特色ある、
素晴らしい仕事をたくさんなさっている方なんですけど、
ご自身のデザインの仕事をするときに、
環境に対する配慮っていうことを、
機構機器に対する関心がすごく大ありで、
その環境に対する配慮、
例えばデザインをするとき、あるいはプロダクトを作るときに、
選ぶマタリアル、その素材をどういうふうに選んだら、
環境効果が小さいかっていうようなことを考えて、
実践なさっている方でもあって、
この本も送られてくるときに、再利用の段ボールに、
こういう本を作るときにどうしても、
祭壇をするときに出てしまうやれ紙っていうものを、
鑑賞材に使いながら送ってきてくださったりとかして、
だからそういった考えを持ちながら、
デザインの仕事をなさっている方が、
母っていう立場になったときに、
見えてきた社会の中の、
さっき読んだところなんですけど、
基本主義社会の歪みであったりだとか、
気候危機っていうことであったりだとか、
あるいはジェンダーっていうことに対して、
それまでも向き合い続けてきた方が、
母親っていうもう一つの視点を持ったときに、
どういうふうに世界が見えたのかっていうこと。
すごい大事だなって思ったのが、
私っていう個人のことを綴ってるんだけれども、
実はこの私のことは誰かのことかもしれないっていう、
その想像力に基づいて書かれてるっていうところ。
社会って、社会のことを見ようとするんだけど、
結局その社会を形成してるのは一人一人の個人だから、
私の困りごとなんて、みたいなふうに思いがちなんだけど、
その人の困りごとは社会の困りごとであるっていう可能性が多分にあるっていうことを、
ご自身の言葉を通じて投げかけてきてくださってるなっていう、
ぜひお勧めしたい一冊です。
ちょっと聞きたいんですけど、今長嶋さんのお手紙の中で、
男性にも読んでくれて嬉しいなって最後おっしゃってて、
今読み進めた限りにはなってしまうと思うんですけれども、
男性が読んでみたくなる部分とか、
読んでて男性視点からちょっとお勧めしたいポイントとか何かありますか。
あとですね、やっぱり出産の前後のこととかって、
当事者がこうやって言葉にしていかないと、
男性はもちろん文弁の時に立ち会うっていうようなことを、
僕もしましてできるはできるけれども、その前後のその心境とか、
その文弁に至る前の、
お部屋で母親としてどういう心持ちでそれを迎えるのかとか、
生まれ出た我が子に対して母親がどういう感情を持つのかみたいなことは、
さっきちょっと言語化みたいなことがありましたけど、
こういうふうに綴ってもらったものに触れないと、
当事者性を持ちづらいというか、
目線が合っていかないというか、
そういう意味において、
これは父親になった人も、父親にこれからなる男性も、
そういう感覚なんだとか、感情なんだみたいなところに寄り添えるっていう意味において、
読むとすごく気づきが多いんじゃないかなというふうには思いますね。
例えばその奥さんがもう出産されたっていう人であれば、
もしかしたら奥さんからそういう話を聞けるかもしれないけれども、
私個人的には結構、それに対する意見って複数自分の中に一回取り込んでみる。