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2026-02-14 52:08

#147 作家と客を育てる柴田悦子画廊について(柴田悦子画廊 柴田悦子)

銀座で30周年を迎える柴田悦子画廊・柴田悦子さんをゲストに、入りにくい画廊のイメージを覆す「おもてなし」の極意や、美大受験からNY極貧生活、修業時代の「筆で追いかけられた」エピソードまで、その強烈なキャラクターと半生をお届けします。

⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://sorosoro-art.vercel.app/ep/147⁠⁠⁠  番組の感想は、⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#そろそろ美術の話を⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ でお願いいたします。⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠番組公式Twitter⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠もフォローをお願いします!


Guest Profile柴田悦子

  • 柴田悦子画廊

Show Notes

柴田悦子画廊と銀座のアートシーン

話題に上がったアーティスト・人物・バンド

柴田さんの転機となった場所

展覧会情報

サマリー

今回のエピソードでは、銀座で30周年を迎える柴田悦子画廊の柴田悦子さんをゲストに迎え、その波乱万丈な半生と画廊経営の哲学について語られました。柴田さんは、美大受験の予備校から始まり、ニューヨークでの貧しい生活、そして銀座での修業時代を経て、自身の画廊を設立。入りにくいと思われがちな画廊のイメージを覆すため、「作家とお客さんを育てる」という方針のもと、お茶や椅子など、細部にまでこだわった「おもてなし」で、誰もがリラックスしてアートを楽しめる空間作りを目指しています。 また、柴田さんの人生の転機となった出来事や、出会った人々についても触れられました。大学卒業後に予備校に通い始め、偶然にも村上隆さんと同じクラスになったエピソードや、ニューヨークでの貧乏生活、そしてボストン美術館で日本画に感銘を受けて日本画の道に進む決意をしたことなどが語られました。帰国後、日本画の画廊に就職し、そこで10年近く勤めた後に独立。その独立までの道のりも、多くの困難を乗り越えながらも、周囲の人々の支えや自身の強い意志によって切り拓かれてきたことが伺えます。

柴田悦子画廊の紹介とギャラリストとしての歩み
はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、私アートテラー・とにがアートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
本日は、柴田悦子画廊の柴田悦子さんをゲストにトークをしていきたいと思います。
ということで、柴田さんよろしくお願いいたします。あらためて自己紹介からということで。そうですね。柴田悦子画廊、柴田悦子と言うと2回も言うことになるので、ちょっと鬱陶しいと思いますが、お許しください。
だから、ギャラリストさんってことですか。そうですね。こちら銀座のこの1丁目のこの場所で、画廊を開業してから30年になります。
そして、その前6丁目の画廊で修行してたので、10年間ですから、都合40年銀座にいることになりますね。
ギャラリスト歴40年。そうですね。今年がこの画廊30周年ということで。はい、そうです。独立してこの場所で開業して30年ですね。
いやいや、この番組ではギャラリストさんは、それこそ日動画廊の長谷川さんに出ていただき、そして東京画廊の山本穂津さんに出ていただき、今回3人目のギャラリストです。
そうですか。長谷川さんは、今のあちこさんのところで2代目。今、次の方たちがやってるので、お嬢様方やってるのが3代。
で、穂津さんのところは2代目。はい、そうです。ですから、都合あの方たちは100年とか50年とか、すごいです。私30年でまだヒヨコちゃんなんで、ヒヨコ組と言って、ちょっとでっかいヒヨコですけど、そんなような感じで、まだ銀座では小さくなって過ごしております。
そうです。銀座の画廊界というか、僕も何度も申し上げた銀座ギャラリーズのパーティーの司会を僕が毎年やらせていただいてて、そこでいろんなギャラリストさんとも、1年2回は必ずお会いするんですけど、穂津さんは銀座ギャラリー界のアイドルと呼ばれてます。
いやいやいや。でっかいアイドルです。
ちっちゃいって言ったりでっかいって言ったり。でも本当に、穂津さんに振ればなんか絶対落としてくれるっていう安心感が、MCとしてはなんかがあって、こうなったときにもう穂津さんに最後振るっていう。
いやいや、穂津さん素晴らしいなと思って、私も常々尊敬してるんですけど、いつも暖かくてかうまく振ってくれるので、私も歌って踊れる場所っていうのをキャッチフレーズみたいなときもあったので、ちょこっとは貢献できたかなと思ってるんですけど、
なかなかみなさん真面目な方がもちろん多いんで、私も真面目じゃないとは言わないんですけど、もうちょっと楽しく絵をご紹介できないかなといつも思ってるもんですから、なんとなく出てしまうんですね、そういうときにね。
そういう意味では十何年来くらい、もうだいぶ長くお付き合いさせていただいて。 岡田 そうですね、いやもうまだ黄眼の美少年って感じでね。本当に。 見えてないことをいいことに。
岡田 いやいやいや、でもいい意識で、とてもこういうふうにね、アートを上手に、本当に一般の方たちにわかるように説明してくれる人が、しかもお笑い会から出てきたっていうのが、ちょっと私は衝撃的でして。
その当時ですか、出会いのときに。 岡田 当時当時、はい。まあ今はもうすっかりオーストリティーになってしまいましたけど、あの当時はね、本当にすごいなと思って、ちょっと本当に感心してたんですよ。
いやでも本当に今考えると、やっぱり怖いもの知らずというか、それこそ、やっぱり画廊とかギャラリーってやっぱ敷居が高いから、そのパーティーで、その敷居の高いのをちょっと低めて欲しいってのでMCが呼ばれて、じゃあ何しようかって言って、アメトークのパロディをやって。
岡田 そうですね。 来週の雛壇に並べて画廊あるあるをさせるって、今考えたらとんでもないことをしたなって思いますよ。 岡田 いろんなことをさせられましてね。
岡田 いや私はともかく、画廊界の住人たちがなかなかね、踊りまくったりしてますので、そういう引き出しをね、本当によく上手に開けてくださったなと思って感謝してるんですよ。
こちらこそ。それで、しばたさんはそういう意味では、僕の中では面白お姉さんっていう感じのあれなんですけど、今回本当に失礼な話ですけど、改めてそういえば柴田絵塚画廊ってどうできたんだっけとか、そういうことをちゃんとパーティーの席で聞くわけにも、MCとね演者さんみたいな感じなんで、今日はちょっとじっくり聞かせていただこうと思っております。
岡田 はい、おかげさまで私どもも30年になりましたし、弱い70というか、後期を迎えましたので。
おめでとうございます。
岡田 はい、ありがとうございます。自分なりに振り返りというか、トニーさんの手のひらに乗って、いろいろ思い起こしてみようかなと。そういうありがたい機会を得たと思います。
じゃあぜひぜひ聞いていきたいと思います。そもそもですけど、柴田絵塚画廊ってどういう画廊ですかって聞かれたらどう答えてますか。
「作家とお客さんを育てる」画廊の哲学
岡田 うちはね、作家を育ててお客さんを育てる画廊ですね。自分も育つんですけど、その間に。ですからだいぶ初期からその辺は心がけておりましたね。
作家を育てるってのはなんとなくわかるというか、どの画廊さんも。お客さんを育てるってのはどういうことですか。
岡田 お客さんも、我々の周りの方は90%くらいは、絵に関心がない方たちが多いものですから、本当銀座を回ってらっしゃる方たちは、まして買ったりする方たちは何パーセントみたいな感じじゃないですか。
全然人口も。
岡田 なんとなく、画廊の扉が非常に重たいというか、入りにくい。
精神的な重さというかね。
岡田 そうそう。そんなことでね、できるだけ平たくみなさんに楽しんでいただける交流の場所になるんじゃないかなと思って、それは最初から心がけておりましたけども、
岡田 画廊さんはそれぞれ手なんかやるごとに成長もしてくるんですが、お客さんも来るたびに目が成長してくるんですよ。
ですからできるだけ長いことを画廊に行っていただいて、5分でね、いらっしゃる方はパーッと来て、パーッと見てさようならで、1分いない方も多いんですね、画廊に来る方。
まあ、しょっちゅう来る方でも。で、やはり最初に来る方は、もうとにかく緊張してるんですよ。
何か言わなくちゃいけないんじゃないかとか。
絵の感想とか。
岡田 はいはいとか、買わなくちゃいけないんじゃないかとか、説明したら説明したで、ちょっともう背中がビビってるんですね。
そういう方がやはり、一般の方そうだと思うんですよ、もう、画廊なんてね、デパートさんの画廊はともかくとして、
やっぱり閉ざされたドアを開けるとか、かなり緊張してるんで、できればもうちょっとリラックスした状態で、
見ていただけるような、そういう空間を作りたいと思いまして、まずはおかけになっていただいて、
コロナ以降は紙コップになりましたけど、その前はいいお茶器を使って、作家さんのものを使って、おいしいお茶を入れて、
まずはお茶でもどうぞっていうところから、大体ちょっとおしゃべりして、10分とか20分ぐらい、普通のおしゃべりですよ、
絵の話も含めて、いろんな話をしてる中に、だいぶね緊張感が溶けてくるんですよね。
なるほどね、向こうの方も心揺らして。
岡田 そうそうそう。やっぱり緊張してる状態の時って目が見てるようで見えないんで、
あることなしに、話しながらこの画廊の絵を見ていただいてるうちに、
おやっていうか、いい絵じゃないのとかって思ったりするんですよね。そういう体験を積み重ねていただいて、
ここの場所に慣れていただく。そういうことを繰り返してるうちに、やはり最初からあまり緊張感なく絵を見ていただけるようになるんです。
まずは、だからお茶がおいしいっていうのが結構ポイントなんですよね。
こだわりの。
岡田 そうなんですよ。だからちょっと今時はね、マリア・デフレールのお茶を使ってますけど、
なんか人ってね、やっぱりね、ちょっとこう、器を持って飲んだ瞬間にそれがおいしいと、
おやってこうね、やっぱり感覚のね、どっか感覚が開くんですね。おいしいと思う感覚。
それと美しいものを感じする感覚って、ちょっと近いと思うんですよね。
なるほど。
岡田 だからそういうふうな、最初の感覚の扉をひとつ開けていただいて、お話しして楽しんでいただいて、
その中から絵を見ていく感覚が開くっていうか、そういうような流れで。夜になるとお酒って言う手もありますけど。
手もあるってなんで。
岡田 でもリラックスする話ってやっぱりね、そんなに簡単には全然他人とは親しくなれませんから、
こんなにこちらを信用していただくのが一番なんで、その楽しい場所を共有するっていうことが繰り返していくっていうことで、
お客様たちもやっぱり見慣れてくるとどんどん目が越えてくるんですね。
その方の持っている、それぞれ、こう見なくちゃいけないとはないですから、
その方が自分の感覚に合ったものと出会っていただくっていうのが我々の趣旨なんで。
確かに美術的に価値の高いものとかお高いものとかそういうものを見せるのも一つなんですけども、
本当に作家たちが魂を込めて描いたものをお客様の人生で受け止めるわけですよね。
その方その方の見方があるはずなんで、それぞれの方の感覚に合ったものを私どもは提供するっていう、探してもらうっていうか。
そういうことを日々、365日のうちの300、そうですね、40日ぐらいはやってるんですよ。
365日でいいんじゃないですか。
休むときは休む。
休みだし、休みだし。
でもそれを聞いて、本当に何度も会話してもらっているのに気づかなかったけど、
当たり前のようにいつもこのセンターのところにお茶菓子が用意してる。
これはもうお客さんとリラックスするための。
あともう一個特徴的なのが、椅子がちょっと低めじゃないですか。
ここの椅子って。
なんか応接室のどっかりした感じじゃなくて。
これもやっぱり椅子が低いことによって、
そう、背面の絵がね、話してると向こう側のこっち側の絵が見えるでしょ。
だからそうやって何気なく見てることが大事なんですよ。
これ柴田さんをちょっと舐めてたって言ったら失礼ですけど、作詞ですねこれは。
計算しつこされてますね、この椅子とか。
そんなことないです。それはたまたま偶然。
やっぱりね、本当にいろんなことがあるんですよ。
この椅子はうちのお客様があるとき、若い者を二人したたいて、
近所にあったアンティークショップから担いでもってらして、
これを使いなさいって言って。
お客さんが今日から。
お客様が。
これとこの椅子二つと。
今僕らが座ってる。
これを若い人にかすがせて、
これを使いなさいって言って持ってきて。
それまでちょっと高い目のテーブルだったんですね。
これになったんです、それによって。
そしたらね、なんか具合が良くてね。
それにほら、もうこれ30年触ってるから、もういい具合なんですよ。
これもエイジングして、もうなんか人が触ってるこの木の手触りがね。
だから本当にそんなに大したもんではないんですけど、
皆さんが褒めてくださって、ああ素敵ですね。
これを触ってるうちにお客さんもリラックスするのね。
まあそんなようなことを、それで偶然にこれは私が手に入れた。
画廊でのユニークなイベントと作家育成
ただこの椅子もね、なかなかね、うちの作家たちは、この椅子に座ったらここから離れない。
要するに皆さん、女の方たちはこれに座りたがりますね。
この椅子人気なんですね。
そうそう、この下にも三つ入ってるんですが、これもね、すごい人気なんですよ。
たしかに、柴田さんの画廊に来るたびに、本当に知らない人がいっぱいいますよね。
作家さんじゃないお客さんたちが演座になって、みんなでなんかお茶かいて。
最高に28人。
この日なんとかイベントありますよじゃなくて、たまたま集まった人。
この間一番入ったのは坂田明さんのライブとか、
3人の、うちの作家さんが1人がドラマーで、
なんていうんですか、知ってるかな。
スターリンというバンドか、パンクバンドがあるんですよ。
ドラマーなんですよね。
あ、そっちは先の。
そうそう、ドラマーの方なんだけども、絵も描くんですよ。
たまびの建築の出た方で、私と同期ぐらいなんですけど、
たまたまスターリンの早々期に道廊さんと一緒に立ち上げたメンバーで、
その方の個展をやるときに坂田さんと、もう一人有名なサックスの高瀬夫さんというベーシストがいらしたり。
そういうライブ、あのときは5、60人。
この空間に。
そうそう、もうぎっしり息ができない感じ。
本当に坂田さんのサックスもすごいし、ドラム全力でしょ。
こっちのベースもこんなになってるし、もうすごいね、このビル自体が。
大丈夫って言うやつにも警察が来ないように。
そうそう。
年に1回なんで、みなさんご見通しして、すいません、お探しますって言うんですけど、
そういうのも含めて、絵を描いてある空間で演奏するっていうような、そういうことも含めて、
なんかいろいろ、うちね、夜も忙しいんですよ。
月2回。
回やってますよね。
俳句の回は月1回で、120回超えましたから、10年だけ忙しいね。
それとはまた別に夜になるんですか。
その夜に、作家のためなんですけど、イタリア人のノイドモデルの子を呼んで、2回で3回やってるんです。
そういうのもやってる。
そうそう。それで31日は、野次先生もやっていただいてますけど、
今度は志望先生って学習院の、もうお辞めになったけど、
去年まで学習の、摂取とか水墨画の研究の方に、明日はレクチャーしていただくんです。
そういうのもある。それは一般の方。
それは作家のための勉強システム。
今さらっと出たけど、野次さんっていうのはこの番組にも、前回館長のトークで出ていただいて、野次郷一郎さん。
野次さんは本当にもう10年近く、我々の画家のための展覧会のために、
この度はカノーハのレクチャーだったんですけど、大変懇接丁寧に。
要するに画家と、それからクリティークっていうか、
各社の方が同じく、要するに支出を出し合って、一つを突き上げるっていうのが、
日本語の中では対象の国画創作協会は、中井英太郎先生っていう方が、
国画創作協会の画家たちを精神的な支柱になってくださってたし、
昔だったら岡倉天心と横浜大幹事みたいな関係性の。
そこまで政治的な意味はなくて、本当に勉強したいっていう。
大学時代に日本美術史とか豊美術史なんて、全然頭にないんですよ。
作家さんたちに持ってくるんですか。
50、60になってようやく描けるようになってきて、初めてその知識が必要だってことに気がつくので、
そこからでも遅くないから、50の手習いじゃないけど、先生がとお呼びして、
いろんな方面の専門家にお話を伺って、できればその時代時代の。
だから野次先生は本当にすごいよく、リンパもリンパから始まって、
中国の文人が、前期後期、江戸の文人が、それから摂取、室町水木をやって、
あと風俗画もやって、さらに今度いよいよ、移動の科学版になってくる。
一応、全部はするけども、流派流派の代表作を、いろいろ全部スライドで見せてくださって。
言葉でやるんですか、スライドで。
言葉で、はい。だから、中国水木をやったときは、書道の先生も、東大の板倉先生の弟子さんが来てくださって、
ここで書道誌を、全部頭に入ってる方だったんで、中国美術史と並んで、中国書道史も、このリンパを。
どうやって書いてるか。
そうそう。編纂を、ようやくついで、分かったというか、頭に入ったというか。
そういうことをさせていただいたので、書道展とか見に行っても何を見ていいのか。
中国のすごいのが来たって言ったのが、何だか分かんないんですよ、どういうふうに見るのか。
それがようやく、親戚のおじさんの書道とかみたいなぐらいの感じのした人に感じられるようになって。
その方がね、その若い先生が、もうたびね、もう婚約をしたんですよ。
中国絵画の歴史っていうふうにですか。
この富田先生。
そうそう、富田先生。
これね、こちらがちょうどうちに来てくださって、書道を教えてくださった先生なんで、まだ25歳の頃ですから。
玄斎先生って呼んで、私たちはすごくありがたく思ってる先生なんですけど、まだ30代ですよ。
この先生ですか。
そんな若い先生。
ですからね、ここでの中国の、この方が中国美術学園かな。
中国のものなんですね、これもともと。
この人が92年生まれ。富田さんが95年生まれ。
この参考にこちらの先生が93年生まれっていうね、大変若手の若い先生たちが。
この素晴らしい本なんですよ。
こういうことが、若い世代がこういうふうに活躍する時代なんだなと思って、大変尊敬してるんですけど。
この若い先生が、作家さんたちと一緒にやってくる。
そうそう。私たちがここに毛線を引いて、はいつくばってやるわけですよ。
そこに手本を書いてくださって、これが扇子から始まって、扇子の影響を受けたこの人があれを書いてっていうふうなことを。
この全部頭にこちらの歴史が入ってる方が教える手法だったものですから、大変参考になりますね。
これはその回を月に1回ってやって。
月に1回。それがね、年に1回の勉強会なんです。
たまにそれに付随していろいろ。
やっぱりそういうことをすると、作家さんたちは変わっていくもんです。
いや本当に変わるんですよ。びっくりですよね。
私も美大出てるので、そういう知識をなくはないんですけど、
本当に学ぼうと思った時に、全部の美術館に行ってみるのと、また先生からこと細かに聞くのとは全然違って、それを模写するんです、その作品を。
中国の絵画のことですね。
模写、描いてみないとどうやって描いたのか、その時代の作家に迫れませんので、自分で工夫するわけですよ。
それをどっから描くのか、描きちゅうのかわからないわけですから。
例えば山の絵でも、山のどっから描いたのかわからないですよね。
そういうことを模写することによってやるっていうのも、芸大の保存修夫の方たちなんかは専門的にやってらっしゃるけど、
普通に描いてきた次第の方たちは、自分で求めない限りは、そういう知識は得られないので、
誰に聞いたらいいの?みたいな話なんですけど、そういう機会をこの画廊でやろうと思って、定期的に機会を設けてやってるんですね。
これは最初に言った作家を育てるっていうところが、こういうところになるんですね。
もちろん、そうですね。
柴田悦子さんの人生の転機:美大受験からニューヨークへ
これ言いませんが、ちなみに作家さんって、柴田恵都子画廊の作家さんっていうと何人ぐらいですか?
そうですね。全部数、最初30年。私もそれを恐ろしく、中には嫁になった方もいるかもしれないんですけど、
常に30回やってるうち、29回やってるのが2、3人いますね。
30回のうちの。
古典を3回やった人。
古典を毎年やってるのは、30周年のうち、29回やってる人たちがいます。
毎年古典やってる人が3人。
ですから、それは本当にそんなに数多くないんですけど、そのうちの古典だけじゃなくて、どんどんやっぱり他の方からもお声がかかってきたり。
他の画廊からも。
そうそう。とかデパートさんとか、やりたいって人が見てるうちに増えてくるので、そういう意味では貢献したかなっていう感じもしますけどね。
ざっくり何人いるかなって言ったら、50人はこえます。余裕でいく。
そうですね。何百人だと思います。
何百がやっぱり。
300人ぐらいかな。
そういう方たちは、どこで知り合う、どこで見つけてくるんですか。
もうほぼね、私ね、それを言う前に、私がなぜ心を挫したか、心にね、ところを挫したからなんですけど。
5分で語る柴田彦の人生って、なんかね、笑われるんですけど。
いやいや、5分で語ります。いいですよ。何分でもいいってことです。
前後しなくてよろしいですか。
全然いいですよ。
そもそもね、私が美大受験の前に、受験の前にというか、大学の国文科卒業なんです。女子大でしたけど。
そこ出た後、絵を描きたいなと思って。それまでちょっとお芝居してたり、演劇部だったり。
でも芝居が30人とかいないと、何人もいないとできないから、絵だったら一人でできるかなと思って。
すごい軽くね、街の絵描き教室に行けばいいかなと思ってたら、
その時にね、すごく在任して、姉をするに付き合ってた方が、行くんだったら最高学部を目指せって言ったんですよ。
大学卒業した後に行ったんでしょうね。
そうそう。本当に街の絵描き教室でよかったです。何のあれもなくて、でも一人でできることがあるといいなと思って、絵を勉強しようかなって思ったときに。
最高学部ってことは芸大ってことですか。
そうそう。芸大とか美大とか、そういうところに、そこを目指せって言うんですよ。
それ、ええと。なぜっていうか、なぜとかまだわかんないけど、誰にそんなこと言ったんだかわかんないけど。
大学卒業してからもう22、9、2、3になってて。
2、3のときですよ。もう別にもう一回大学行くお金もないし、お仕事をしながらちょこっとできることがあればいいなって思ったぐらいだったのに、
その最高学部を目指せ路線っていう、なんかこう大変なあれが。
でも、そうは言われたけど、いやいや行かないよってならなかった。行かなきゃと思ったんですか、そのとき。
行かなきゃと思って、予備校に寄せ身に。
そこから始めるんですか。
寄せ身に。もうなけなしのお金を持って寄せ身に行ったんですよね。しかもね、そうなんです。そこがね、おかしいでしょ。
おかしいですよね。
だって絵を描く、別に画家を目指したわけじゃなくて、絵を描きたかったけど。
そうそう、単に。
なんで寄せ身で予備校に行くんですか、もう一回。
だから、最高学部ですよ。
目指さなきゃいけないから。
最高学部目指さなきゃいけないから、全然受験の勉強なんかしたことないし、まあ今だから思うけど、なんかよくそんなこと考えたわねって思うぐらい。
いや、すごいですよ。
本当に予備校に、日本画の場合は、いわゆる鉛筆デッサンに必要なものは、鉛筆とこういう指差すの。
ああ、デッサンするときの。
そうそう、デッサン用具。
デッサン用具が何が必要かもわからなかった。
それで、当時の予備校の泉屋さんっていう画材屋に買いに行って、それで上に上がったら、みんな上手いわけ。
当然、絵大を目指すような人たちばっかりだから、当然みんな上手いわけですよ。
私、これ何してたの、みたいな。
言い方悪いけど、場違いも場違いですもんね。
本当に、みんな、なんでこのおばさんって感じで見るわけ。
年もだからみんな上手いわけ。
予備校、みんな18区でしょ。なんでこの人来たの、みたいな感じで。
もう、めっちゃごろうしたぐらいの感じで来ちゃったわけですよね、イメージで言うとね。
しかも、描いてみたら全然素人が、自分も描いたことなんかなかったんですよね。
本当にすごい、割りながら言うのもすごいドキュメント。
でもまあ、習わなきゃと思って、下手ながらこう、自分も上手に描けたと思って、引いてみたら、目のとこだけ真っ黒で、
本当にみなさん、ほら、バランスよく、みなさんって知ってくるじゃない。
まあ、ご存知でしょうけど。
まあ、その、素人って本当に、この、あの。
書きたいところいっぱい描いちゃったら、目の部分だけがちょっと。
そこしか、そこしか。
いやいや、本当に、漠然として、そっから、スタートですよ。
まあ、受験、まあ、それが5月だったんですけど、5月から入って、まあちょっと、みなさん、違和感を、バリバリに違和感を感じながら。
ちょっと年上の方がいて。
そう、そう、そう、それも下手くそ。何しに来たんだ、このおばさんみたいな目線に耐えながら。
で、それで、まあ、それでも、先生が、優しい先生がいて、今もお付き合いあるんですけど、
あ、その予備校のメンバーにね、あの、村上隆って言うでしょ。
で、村上隆。
急にすごいと言われて。
そうそうそう。まあ、あの時何でもないから。
予備校生の一人。
予備校生だから、まあ、兼役だったのかな。
まあ、ちょっと、なかなか面白い子だったんで、よく遊んでたんですけど。
その辺の川村、えーと、近野池智子か。
おお、近野池智子さん。
あの辺が、いたクラスですよ。
そんなとこに、そんなとこに入っちゃったんですよ。
そうなんですよ。
お絵描き教室に行きたいだけの人が。
そう、そう、そう。
それで、もう、やっぱり変なおばさんな感じを耐えながら、まあ、視線を耐えながら。
でもね、デッサンをね、ちょうどね、30枚の時に描いたぐらいに、急に上手くなったんですよ。
急に上手くなって、まあ、もちろん芸大はダメだったけど、たまび場入ったんですよ。
いや、それで、たまびに行くんですか。
そうそうそう。
そこで、たまびに入ったのが奇跡的って言われて、みんなから、みんな上手い。
今日下、身の落ちて、なんで私が入るみたいな、そういうような、奇跡の。
でも、1年間しか呼び子に行くお金がなかったから、ここで入れなかったら、まあ、すぐにもう撤退って思ったから、でも入っちゃったのね。
たまびの何学部だったんですか。
日本側の日本側に。
そうそう、入って、たまびの日本が人物だったんで、比較的好きなあれだったんで、たまたま入れたんでね。
たまたま入れたんです、ラッキーにも。
それだけど、入ったものの入学金とか何もないわけ。
呼び子で使い切っちゃったから。
そう、いたわけ。もう全然受かると思ってないから。
俺もそんな気はしてた。本当ですか、やっぱり。
全然、もう何も用意してなくて。
受かったはいいけど。
いや、受かったはいいけど、どうしようと思って。
で、しょうがないから、また田舎に帰って、拝み倒して、もう親もさ、2度目だとさ、もう。
そうですね、だって4年行かせたんだもんね。
入学金だって出したくないわけ。
で、おじいちゃんとおばあちゃんが、仕方ねえな、俺たちの孫だからと言って、お金を出してくれて。
ええー。
泣きながら上京したんです、また。
ありがとうね。
それで通えることになったんですか。
そうそう。当然、夜は喫茶店でバイトしながら通ったんですけど、それで入りました。
そのときに。
それを受かったときに、付き合ってた人はなんていうんですか。
そのときは、お坊さんの修行をしてた人だった。
もともと、アート志向だったけど、ちょっと生活上のことがあって、お坊さんになる。
修行を、修行っていうか、小松山に行ってて、
入学してから、修行に、総理寺さんだったけど、1年間、お坊さんの修行って、離ればかりになるんですよ。
だから、その前に結婚しちゃおうってことになって、学生結婚ですけど、学校に行きながら、1年間離れ離れになるんで、
じゃあ、席を入れましょうと結婚式もして、それでね、大学1年の、おけえな話になっちゃいますけど、いいですか。
どうなったのか分かるでしょ。
お金ないじゃないですか。
要するに大学入ってうれしいんだけど、なんとか入学金と年のやつは出してもらって、
大学生になって、1年生のときに、日本語のクラスはカンバラ屋っていう、模擬店を出すんですよ。
で、そのときは、私たちの同級生が、この人なんですけど。
この人って誰ですか。
この人ね、後で説明します。
お粥をね、オイスターソースで炒めた肉を上に乗っけたお粥を、カンバラ屋っていうところに出すことになって。
学園祭的なところで。
芸祭です。芸祭で。
で、その学祭で、模擬店で、みんなお腹空いてるから、飛ぶようにお粥が売れるわけですよ。
で、足りなくなったらまた水を足して、すっごい大盲池して。
とんでもないから。
事故、事故。
そう、事故ね。それで、そのおけたお金で、私たちに新婚旅行行ったの。
お粥のお金で。
お粥のお金で。
まさかのハートフルな話だった。
でしょ。本当にありがとうって感じで、もう本当に貧乏な新婚旅行に参りました。
だけども、そんなことで帰ってきました。
で、これから、卒業4年になったんで、これからお寺の奥さんやりながら絵を描いていくのかなって思ってたら、
卒業制作してる間に、彼がフランス人の方と恋に落ちちゃってね。
すごい話。
どうしようと思って。
お坊さんなのに。
フランス文学が好きなお坊さんで、あちらの方は日本の文化が好きな、土がつく人ですよ、土がつくフランス人が、やっぱり恋に落ちて。
それがさまよいのパーティーだったかな。
私が3ヶ月間卒業制作の準備で田舎に帰ってる間に、そんなことが起きて帰ってきたら、もう何を見ても涙が出てくるような、そんな状態で。
無事に卒業制作はそれでも描いて、これからどうしようと思った時に、
教師になるか、画賞っていうのは、要するに同級生たちが、やっぱりちょっと普通の方たちじゃないから、世間に出てどうなっちゃうのかなという、
そういうお姉さん的に心配なところが、自分もそんな心配してる場合じゃなかったんですけど、
どうせだったらこういう方たちの役に立つことをしたいなと思って。
同じ学年の同級生たちを。
そうそうそうそう。
ちょっとお姉さん、4年上だから。
お姉さんで、この人たちが出てくるから、どうやって生きていくのかしらと思って、ちょっと普通のお役に立とうと思って、
画朗っていうのは、そういう意味では役に立つかしらと思ったんですけど、でも画朗ってどうなってなっていいかわかんないですよ。
実際ね、画賞さんの銀座にいっぱいありますけど、ほぼ社員を取るのって、えんことか、お知り合いのお嬢さんとか、そういう狭きもんでね、どこも取ってくれるところはなかったんで、
どうやって画賞になっていいのかわからなくて、それでね、異種類を握りしめて。
もうその時は別れてるからさ。
だからそこがなかったら、じゃあお寺にいらっしゃるかもしんないけど。
そうそう、お奥さんになってるはずが。
変な言い方だけど、卒業のタイミングでよかったですよね。だから、決断するところがちょうどいいっちゃちょうど。
いやまあ、その時はそうは思わないけど。
結果としてみたら、これが例えば大学2年生の時でもなく、3年でもなく、4年の卒業政策っていうところは。
そんなことが起きるとは全然予想もしてなかったけども、たまたまそうだったんですよ。
じゃあ遺写料があったんですね、その時は。
そうなんです。それでね、その遺写料を握りしめて、もちろん自分も働いたお金を持って、それでニューヨーク行くんですね。
それからもう1年ほど。
ボストン美術館での感動と日本画への回帰
それはそのニューヨークは何を目的に行こうとしたんですか。
まあ、和尚になるには、どうせ現在の和尚さんはどこも通ってくれないし、知り合いもいないから、ニューヨークで和尚さんの最前線を見てこようと。
本場を見る、武者修行みたいな。
でもその当時日本語だったけど、日本語って今時、たまびって物派の倉窟みたいなところでしたから、
まあ、花鳥風月なによみたいな世界で、この時代の富士山とか牡丹ってなによって思って、私ももう現代美術バリバリやろうと思って、それでニューヨークに行ったんですけど。
まあそこはそこでね、なるほどと思うところが、大冒険の旅が節序合わせになりましたという方がいっぱいいるんですけど。
ニューヨーク行くときは、あそこのガロ行こうとかはあったんですか。とりあえず行く感じ。
とりあえず行く感じ。
だってまあ、しばらくいなくちゃいけなかったから、学校の、学校ビザっていうのか、ああいうのでできるだけ、観光ビザよりは長くいられるやつで、大学寮に入って、
まあ何にもなわせてね、住所不定無職ってなったことないでしょ。
そうですね、ないですね。怖いですね、確かに。
そう、全部だからこう。
逆に今言うように無敵の人になったってことですね。
そういうことですね。英語もできないし。
だからそのときに大学の寮に行くのに、年立てアイランドってところだったんですけど、そこのカレッジのほうに寮があって、そこにしばらく勉強しながら。
それは何の勉強だったの?
語学の勉強ですね、5月の学校しか取れないわけだから。
そこに行って、そこの寮に長くいられるじゃないですか。
だからそこにまず行ったんですけど、なんせできないんですよ、英語が。
できないから、私はそこの大学の寮に行きたいってタクシーのところまで行ったのに、
ミシジンを教えてくれるから、近いんだろうなと思って。
だから全然行ければ行ければとどり着いたんですけど。
トランク2つ持ったの。
ようやくでも2時間くらいかけて汗だらだらになって着きました。
そしたら、怪しい難民としか思ってない。
それでその時に、どうもあいつは日本人だし、私はお金も払ってるし、ここにいられるのよって言ったつもりだったけど全然わからなくて、難民状態で。
その上から降りてきた方が、どうも日本人らしいから、お前はちょっと様子見ろって言って。
くださった方が、ニューヨークの私の保護者のようになってくれた。
その人はもう日本人の方?
某新聞社の。
会社から派遣されて、ニューヨーク市立大学の大学院に留学に来た、大変堪能な優秀な方がいらっしゃる。
その方が、どうも怪しい奴が来た。
怪しい奴が来たけど、どうも日本語喋ってるのを聞くと大丈夫らしいってことで、お救いの彼女が。
その後ずっと、ニューヨーク滞在としてお世話になった。
そういう方がいらしたんで無事に帰ってくれたんですが、帰ってきたときに100円ぐらいしかなくて。
逆になんで100円だけ残したのかがちょっと。
でも向こうでは語学の勉強もしつつ、いろんな画廊は見て回ったんです。
レオキャッセリとかメアリー・ブーンとかが前世紀だったんですよ。
伝説のギャラリーストさん。
合ってるんですよ。
いったけど、会ってはもらえません。
でも画廊は見て。
それで私、現代美術バリバリにやるつもりでいたのに、帰りにせっかくだからボストンを寄って横断して帰ろうと思ってボストンに行って、
ボストン美術館で東博を見たら、なんで私はこんなすごいのを、今まで気がつかなかったのに、もう大感動して。
日本画。結局向こうで見た日本画に感動してた。
よくある話なんですけど、体中から全身に親しい感じ。私はここから生まれたのね、みたいな。
そういう、しばらく現代美術とアメリカの緊張感の中で暮らしてたから、
東洋ウイルスの間に入ったときに、まして東博の絵を見たときに、もう、なだなきっていうか、もう、なんかカッコつけて現代美術は私はやるわと思って、
これからは現代美術よとかって思って行ったのに、最終的にボストンでボロボロに東博にやられて、これだと思って、
日本に帰ったら日本画の画廊に就職しようと思って。
へえ、じゃあ最後寄らなかったら、もしかしたらそのまま現代アートに行ってたかもしれないけど。
小田 足元にあるもん、全然気がつかないでいる間はあって、意外とそれが当たり前、よく聞く話なんですけど、
私の上にもそれが起こって、全然日本画っていうのがわかってなかったっていうのが、そこで新人脱落というか、大転換があったんですよ。
帰国後の就職とギャラリストとしての第一歩
じゃあ100円だけ持って日本に帰って、100円だけ持ってマクドナルドに行くみたいな感覚です。
小田 もうちょっとあったと思うんですけど、あれだけ使って、とにかくね、いろいろその事件あったんですよ。
でもそれは言わないといって、5分で飾れなくなっちゃったんでね。
もう特に事ですぎるわ、特にですけども。
小田 そうですか。
じゃあ日本戻ってきました。
小田 そうそう戻ってきて、新聞を広げました。そしたらフランスの新広告が、というのは。
ええ、募集をかけてたんですか。
小田 要するに、そこにちょうど枠があって。
じゃあ某がろうの枠があって。
小田 100円しかないから、前の店主に電話して、アパート借りてってお願いして、そこは買いこなって、そこからですよ。
代々と、夜間一つから買う生活から始まって、30で。そこから、だから広げたら。
たまたま某がろうの募集があって。
小田 そうなの。
で、日本画系だったってことですね。
小田 日本画洋画の、要するに芸術院会員とか文化勲章作家をやってたの、その当時は。
その元、明治以降の近代の、大漢玉藤隆氏から、だだたる、その当時、高山達夫、東山みなさん、みなさんいたんで、3山5山まで。
広山先生から。
名前が下に山がつく。
小田 山がつくね、お偉い方たちが。みんな扱ってたんで。
そこにね、でも画章さんって、やっぱり本当に募集があったりすると、みんな怒涛のように来るから、
私無理かな、だいたいね、面接に行くときにスカートがなかったんですよ。
みなさんも旅から帰ってきたばかりで、友達のお母さんのお洋服をもらって、
それで2、3着のケースとか、そういうのもらって、面接に行ったんです。
だから、でも結構、作文がね、作文が上手かったから、社長様が気に入ってくださって、
私を撮らないと損しますよ、っていう感じで。
じゃあ撮っていただいて、そこで働くことになった。
小田 そうなんですよ。
じゃあそれがギャラリストの一歩目。
小田 それがギャラリストの一歩目、痛い一歩です。
それがだから、29か30、ちょうど10年ね。
そのときにはいつかは独立して、自分の画廊をやるぞと思いながらの一歩目だったんですか。
小田 いやー、とにかく画廊に入れたってことがまず嬉しくて、
仕事としてできるわ、というのがそこがまずね。
だって入社3日目に高山先生のところに絵をもらいに行ってらっしゃいって言われたから、
もう学生からしてみたら、高山先生とかその五山の先生方なんて、もうはるかにこう。
大イス。当時の大イスター。
小田 そうそうそう。とてもその小僧小野生がいけるようなお話しできる相手ではなかったんですけど、
でもまあほら、経営で忙しい方だったので、作家は全部任せてくれたんですよ。
へー、入ってすぐの。
小田 そう。だからとって損はなかったはずですよ。
そうですよね。でも実際行ってみたら、その先生たちはどんな人だったと思う?エピソードとか。
小田 それがね、偉い先生ほどね、こちらを小娘扱いしないの。普通のちゃんとお話をねこんでる。
今思うと本当に何話したのか恥ずかしいんですけど、本当に大事にしてくださって、
そう、君も絵を勉強したのみたいな感じで、まあおじいちゃま、まあ私ですよ、おじいちゃまたっていう先生方ですからね、
本当に大事にしてくださって。だから本当に楽しくて楽しくて。
お仕事も。
小田 もう本当にね、すごいハードな、要するに朝から晩まで3月6日、5日みたいな感じのハードな男だったんですけど、
私は仕事がね、作家担当だったんで、もうこんな楽しいことはないっていうか、もう転職だわって思って。
全然働いて嫌なことはなかったですけど。まあでもいろいろありますよね、なんかね。
いろんな先生がいたんで勉強になりました。
最後なんかゴニョゴニョと言えないやつが出てきた。
小田 お偉い先生とまた、激しい先生、まあいろんな先生がいたので、まあほら、うちと打ち合いしたくない人もいるじゃないですか。
そういう人は、やっぱりこう、お前は何だってか言って、Fでもって追っかけられたことありますよ。
それは名前出したら有名な作家さん。
小田 そうそうそう。
お前は何社長の女かとかって、ただの自民家とかって言われて、ひどい。
そういう人もいるけども。
小田 まあまあ、だいたいあの。
じゃあ逆に言うと、悪い方言っちゃダメですけど、あの先生一番いい人だったなって人は誰だったんですか、名前出す。
小田 それはね、まあうちの、ほら、工藤先生は、うちの看板描いてくださった先生が。
工藤浩二先生。
あ、柴田エスコガローの。
小田 あの看板が。
工藤浩二さんが。
あ、そういう繋がりなんですね。
小田 私はね、大学時代の先生が堀姫子先生なんですね。
堀姫子先生には、あの、なんかうちの教え子がとんでもないものになったとか言って、最初びっくりされちゃって。
まさか自分の教え子がギャラリストになると思ってなかった。
小田 そうそうそう。それでまあちょっと言えないような状態で、しばらく先生が、中野先生にも堀先生にも、
シカゴンか白石さんになった、勤めましたってちょっと言えなくて、まあそんな先生たちにお願いにはとてもいきませんけれども、こういうことをやっておりますって言ってご挨拶に行った。
まあすごいね、それでまあ先生もしばらくね、私のことは独立してからも、しばらくちょっと様子を見て、こういうふうにね、なんか言ってくるんじゃないかしらっていう感じで。
でもまあ一切しなかったし、まあ一応DMは送る。10年目にようやく堀姫子先生も、なんか自分の名前を使っていいよって言ってくれて。
まあそれはね、〇時代が結構働いたので、まあ心よく社長も独立を許してくださって。
何年ぐらい働いたんですか。
田窪 なんか10年弱ですね。まあ立地じゃないけど、まあ大体朝ですね、一転展覧会をお願いすると、
まあ偉い先生、まあ年に5回ぐらいご挨拶に行くんですよ。まあそれが何百人を回ってるので、結構大変なんですね。
そのようなことの中で、まあ相当いつもご一緒することは多かったんですよ。まあ相性悪くなくて私には。
そんなに嫌だと思ったこともないんですが、まあまあよく働いたもんですから、独立も許してくださって、心よく。
普通は許してもらえないので、まあ本当にね、わりと案外大丈夫だったので、ありがたい。まあ普通銀座に出せないんですよ、店は。
そこから独立だとっていうことですか。
柴田悦子画廊の展覧会告知
じゃあその独立して、じゃあここからいよいよ柴田絵塚があるようになるんですけど、じゃあそれはちょっとお時間の関係で後半に移すとしまして。
そうですね、5分で語るのがめちゃくちゃ多くて。
そうそうそう、もう全然5分あれでやったんで、今ようやく独立まで来れました。ちょっとその辺は後半にして、せっかく今日ここで収録させてもらってるんで、告知をぜひぜひ展覧会、今この配信2月14日からということですけれども。
その頭人家のうちで柴田絵塚ガローがオープンしてから、次の年から毎年個展をしている小柴田清美という作家がいるんですが、小柴田清美展が2月の16日から25日までやってるんです。
小柴田さんは大学時代の同期の一人ですか。
まああのあちらはちょっと、実は日本国憲法なんです。
今文字が真ん中に書いてあって。
日本国憲法にピースマークなんですけど、日本国憲法を万葉仮名で書いたんですね。
今引きで見てるので、古典的なというか、古典の漢文のように見えたんですけど。
要するに万葉仮名。漢字なんですけど、日本国憲法の真ん中に書いてあって、そのまま上下にピースマークが書かれてる作品ですね。
これはヒュージョウの会は堀先生も熱心にやってましたので、こちらを。
こういうのが出る?
こういう作品がたくほんとかの作品が多いんですが、なんて言っても腰旗店の目玉はお茶会と古墳市なんです。
展覧会でですね。タイトルが腰旗読み、お茶会風味。
お茶会風味。
風味。なんとか風味とか。
お茶会とはとても言えない、なんちゃってなんで。風味で。
をやると。
はい、そうですね。それが、青竹を切ってここに二畳のお茶室ができるんです。
この空間にですか。
で、そこで掛け軸を掛けたり、お茶の窯をお手前にできるような空間を、お風呂ですけども作りますので、そこにぜひお遊びにいらしてください。
これは皆さん、一般の人も参加したらお茶会に参加できる。
あのおにじり口もあるので、そこから入っていただいて、3人が限度ですけど、店主が入って3人並んでお茶を差し上げるっていう、そういうの毎年やってます。
腰旗さんの作品も飾られた上で、茶会にもなるという展覧会か。
まあそもそもお茶会は腰旗のために始めたようなので、腰旗はね、ちょっと炙り出しのように、なかなかこうもやもやっとした絵を描くんですよ。
そんなにゴテゴテ描く方ではないので、それこそ余白の美で、長いこと見てると、しみじみと地味が伝わってくるというか、そういうタイプの絵なので、お茶をたてて静かに待ってる間に見ていただくのに適してるんですね。
見えないものが見えてくるみたいな。そういう方なもんですから、次ちょうどその時期は、まさしくお茶の、私もたてております。
ぜひぜひ。
年に1回なんでだいたい忘れてるけど、後半の方が上手にたてられると思う。
じゃあ2月15日、25日までですけど、なるべく後の方に行った方がいいかもよということですね。
正半だと、自分でたててくださいと言われるかもしれません。
じゃあそれはみなさん楽しみに来ていただければと思います。ということで、ぜひ次回に独立の話を伺いたいと思います。
そうですね、長かったですね。すみません、カットをするところが。
大丈夫です。後半もどうぞよろしくお願いいたします。
ということで、次回も柴田恵都子さんとのトークを続けていきたいと思います。
52:08

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