じゃあ坊がろうで10年働きました。 独立しようかなと思うきっかけみたいなのあったんですか。
いや、要するに坊がろうさんに優勝したのはアメリカから帰って、スカラカンになって、
ちょうど30くらいだったけど、30から40まで働きまして、その40から50までの工事、これは人のためには働きたくないなと、そういうふうに思ったわけですね。
もう厳しいとこでしたけど、わりとここまで来ると、もう何年でもOKな体勢は、
婦人は引いてましたんで、ということでも大丈夫だったんですけど、でも40になったら、自分しかできないような若手の作家さんを中心にしたがろうをやりたいなというふうなことは思ってたので。
坊がろうのときは前半に言ったように、もう5山3山、業界のトップみたいな人たちを相手にして取り扱ってたけど、もう自分がやるとしたら若い作家さんを。
もちろんね、銀座の合唱会は厳しいので、自分のもといたがろうの扱い作家はどんなに親しくても扱えないっていう縛りはもちろんあるんですよ。
不分立というか、暗黙の了解で。
そういうことがあるので、でも私は自分しかできないことをやりたいなと。
そういう意味の、みなさんが目が向けないところ、生まれてるところ、あるいは若いところ、そういうところからスタートしたいなと思ったので、本当に何の手すりもなく。
じゃあ独立しますってなったときに、まず最初に何から、もしこの番組切れちゃうんで、じゃあ自分もギャラリーやってみたい人がいるかもしれないので。
まずその前に、独立する前にお金が必要なんですよ。
これは大事な部分です。
私ね、銀座でなくちゃいけないって思ったわけ。
銀座でやるっていうのは、普通銀座のがろうで修行した人が、銀座で開くってまずありえないんです。
遠いところで独立して、何年とか時間を置いてから。
かけて戻ってくるじゃないか。
そうっていうようなことなんですけども、まったく作家さんも元いた知り合いの方はお願いできない。
お客様も当然、手出しできない。
そういう状況になると、いくら家賃が安くても、遠方じゃできないなと思ったんです。
一からゼロからやる。
やるには銀座だなと。
やっぱりお客さんは多いから、銀座のほうが。
そういう、お客さん全くなかったんですけどね。
どうせ銀座でやらないと長くは続けられないなというのはわかってたので、
頑張って、本当に資金が。
みなさん、本当に家賃ってどのくらいあればできるんだろうって思われるんでしょうけど、
私も最低限のところでやりまして、3ヶ月分の家賃しかなかったですね。
今のスタートもここなんですか。
ここです。
ここだもん、ずっと30年。
最初にここを見つけて、ここの3ヶ月分の家賃だけで。
だからね、すごいとても。
というのはね、他所の方のところはともかくとして、
某ガロスさんはアルバイトするのは厳しかったので、
本当に若い人にいっぱいお金持っちゃいけないって言って、本当にお給料だけだったんですよ。
本当にね、だからそんなになかったんです。
心がけ悪かったと言われたんですけど。
独立なんだから、大学入学のときと一緒で。
毎回それがついくんですね、柴田さんの人生には。
なんかね、前もった準備がなくて、いろいろお借りするところはお借りして。
そのときに、一番最初に届け出とかも出すんですか。
もちろん全部出しますよ。
だから一応法人にしたので、それなりの役員になってもらう方はなってもらって。
だから本当に小口のお金を皆さんから集めて、最初の資本権を作って、
そういう恥ずかしいような話なんですけど。
ガローの名前が特徴だけど、フルネームガローにした理由は何だったんですか、最初の。
柴田ガローでもなく柴田ギャラリーでもらって。
そのとき、遠藤発句とかさ、美容室の名前はあったけど、ガローで柴田フルネームつけるのってすごい。
今は小山富代ギャラリーとか、那須太郎とか、現代アート系はいるじゃないですか、小太郎ぬか柄とか。
私も、だってほらニューヨークで見てきた人だから。
あ、両キャスティングでも見てるから。
だけど、最初柴田ガローって看板4文字で書いてもらったんですけど、宇藤先生。
そうなんですか、最初。
最初は書いてもらったんですけど、遠藤さんに柴田ガローじゃ全然インパクトないよって言われて、
みんなね、ふくみめガローとか適当なこと言うんですよ、ギャラリー、量産バッグとか、いろいろなこと。
でもね、私は、私的にはね、お金もない、遅延もないし、要するにバッグが何があるわけじゃないので、自分の名前だけだと思ったわけ。
柴田恵津子を裏切るわけにいかないと。
この名前をね、全面に出せば悪いことができない。
もう要するに敗水の陣ですよ。
もう、なんていうの、それしか、この名前しかないなと思って、そういう意味でつけたんです。
あ、そう、覚悟みたいなもんだ、柴田恵津子ガロー。
だってほら、何が余裕があってやってるわけじゃない、とにかく心差しだけで始めたことなんで、
もう自分しかないというか、それで自分の名前を裏切るわけにもいかないし、恥じることもできないっていう、
そういう意味でつけた、逃げ場をなくすための、
というか、まあみなさんはね、変な名前って言って最初来たけど、最近褒められますよ。
いやいやいや、もう覚えやすいですし。
あまり立派な名前ではなくてなんですけども、たまたまね、そういう名前を持ってたもので。
そういう名前を持ってたもので取らそうですけど。
そんなことで、自分の覚悟を示すというか、この名前で、この名前というか、これをここの自分だけ、最後は一人っていうのを覚悟をして開いたんですね。
だって、うちの優しいおばあちゃんですら、ガロを開くって言ったら、ガロってなんだかよくわからないと思うんだけど、
なんかね、もう席を抜いてけとか。
で、ガロをやるんだったら。
だってさ、どのくらいお金かかるか、借金するんだろうとこの人はと思って、たぶんもうね、感動する勢いですよ。
あ、そうだったんですか、その当時は。
ねえ、まあもちろんされませんでしたけど、ちょっとご主義でいただきましたけど。
まあでもまあまあ、ちょっと怪しい処方法とまで言わないけど。
そうそうそうそう。だってね、ガロって何するとか、絵を売るんだよって言ったら、え、なんか売れるの?って言ったら、あ、売れないよって言ったら、そんなような話じゃないですか。
まあ売れるとかもちろん売れますけど、しかも銀座で何かやるって言ったら、みなさんやっぱり心配なんでしょうね。
でもじゃあその柴田康子ガロをやるっていうときに、何もないって言ってましたけど、作家さんもだから、某ガロじゃない作家さんは手出せないけども、この作家さんを紹介したいなっていう仲間みたいなのはいたんですか?
最初はね、たまびのいつもの同級生の方たちにも話してなかったんで。
ガロを開くような。
そうそうそう。最初にね、吉川優さんってこの方がね、愛知芸大の方がいたんですよ。
この方だけはね、私本当に親しくして、今ちょっとお嫁になって、あまり地方で、飯田にいらしてね、飯田の方でやってるので。
長野県にいらしてるんですか。
そうそうそう。東京にはあまり出てらっしゃらないんですけど、この方がすごく応援してくださった方だったので、この周辺の方をやったんです。
というのは、日本画のガロって言っても、いろいろ決めつけられるのも嫌だなと思って、この方の日本画の方なんですけど、周辺にいる陶芸家の方とか、現代美術の方とか、いろんな作風の方を最初の年は。
だから知り合いの作家さんを一人からそこから、遠行じゃないけど、仲間を広げていく感じなんですか。
そうですね。その作戦でした。次の年からはいろいろ。メインは日本画の方なんですけど、まだ世の中に出てない方とか、ちょっと記載系、大人だけど他の画廊さんでは扱わないような、ちょっと変わった方たち。
そういう方たちが主になってきましたね。
同級生はどこで声を掛けてくるんですか。
同級生は、この方が最初の立ち上げのときからずっと一緒だったので。
今、コーテンがちょうど開催されてるの、こしば。
こしゃとさんね、清美さん。
もう本当に30年、お互いに伴奏してきた感じですね。
この方たちも含めて、後輩たちやら優秀な方たちが多かったので。
この方は芸大の方なんですけど、やはり同じ歳ぐらいで。
こちらは先生ですね、中野先生って言って。
そういう関係者がどんどん広がっていく感じな。
やはりそれで画廊を開いてると、こういうとこでやりたいっていう方が。
でも誰でもいいわけじゃなくて。
やっぱり仕事の中でもあるわけですよね。
ご縁のある方っていうもんでね。
この方扱ってみたいわっていうか育てたいわっていう。
やっぱり10年スパンで考えたいので。
そういう、最初から売れてる方とかそういう方じゃなくて、
手がけてるうちに広がってくるみたいな、そういう可能性のある方をやりたい。
これは柴田さん的には、どこで見るんですか、この人と10年やっていきたいって。
やっぱりね、品、よく日本画では品って言われるんですけど、
私が品っていうのは変でしょ。
いやいやいや。
意外と厳しいんですよ。
それは作品の中の品。
そうそうそう。
それも同じ空間にいるんで、ここの空間の空気だと私は判断するんですよ。
ここの空間に合うかっていう、空気感との。
空間の空気が綺麗かどうかですね。
作品を並べたときにってことですか。
そうそう。かもし出す。
作品って物質ですけど、実は木を走ってるんですね。
その中の木が綺麗だと一週間一緒にいられるんです。
あ、そうか。だから柴田もずっとここにいるから、一緒にいて。
一緒にいて、嫌な物とはとても一緒にいられないんです。
なるほどなるほど。
そういうのって、頭っていうよりも感覚な感じですかね。
それは言ったら買うお客さんにとっては、柴田さんは展覧会だから一週間二週間だけど、買う人はもう一生ですもんね。
そうですよ。
だからそれがずっといて、やっぱり品。
間違ったものを買ったとしても勉強したと思えばいいんでしょうけど、
でもどうせだったらぴったりマッチしたやつをお持ち帰りいただきたいじゃない。
だからそこを会話で一緒にいて試してみたいみたいな感じですね。
なんかよく作品買い方わからないとかって時に言ったら、
要するにこの作品って価値があるんですかみたいな感じで聞かれる方多いじゃないですか。
でもそれはその方が縁に何を求めるかで違うから、
商品価値っていうか、展売したいっていう方もいらっしゃるだろうし、
全員とは言わないけども、財産として買う方もいるし、それはその方の要望っていうか。
私は何が一番大事かっていうと、
画賞っていうのはっていうとちょっと、私はね、問題あるとして、
私の仕事は結局作家さんをいかに残すか。
作家さんの絵を次の世代に残せるかっていうのが、
要するに作家さんを育てるとはおかましく言わないけど、
作品を次の世代まで残せるかどうかっていうか、
そこが一番大事なポイントだと思うので、
そのためのいろんな努力ですかね。
それが、ガローさんの場合は、
いやいやいや、あ、ごめんね。
前のガローではね。
前のガローでは、オーナーさんがすごく経済的な活動がすごく得意な方があったので、
高くするとみんな大事にすると。
だから結果的に残るんだみたいな、そういうロジックで。
それはそれで一つの考え方ですね。
同じものでも、これが10万か100万かっていったら100万のほうが大事に思うよってことですよね。
自分の100万がお金に代わるとなると、みなさん褒められるし、
コレクション作りは成功したって言われるんだと思うんですけども、
結局親の代のものって、下の代にはなかなか伝わりにくくて、
いかにその絵を大事に思うかどうか、
それを家族中で愛すかどうかっていうところだと思うので、
そういう届け方を私は目指してるんですね。
ちょっとキレイごとですけど、
でもこうやって絵を見ていただくからには、大事に持ってもらいたいので、
作家さんの魂を受け継いでいく人を探してる感じ。
それは前半に言われて、作家さんを育てるだけでなくお客さんを育てるっていうのも、
そういうことに通じるんだなって話がすごくいいと思いました。
話をちょっと戻して、始まりが3ヶ月分のだけ持って、
じゃあいざ始めると、で車も仲間もまだいなくて、
そこからどう、ジュンプ満々に。
それがね、よく自分でも覚えてないんですけど、
本当にね、人得なんですかね。
でしょうね。
困ると助けてくださる方が必ず現れて。
最初の3ヶ月はだから、ジュンプにいったんですか?
いや、その時はやっぱりまだバブルの少しの余波があって、
吉川さんっていうのもなかなかその当時売れっ子さんだったので、それなりに売れてたかな。
吉川さんが第一回なんですかね。
そうそうそうそう。
柴田絵塚柄の最初の展覧会。
本当にそこから大変本気のある方で、
まあそういう意味でいろいろ、そこそこね、その時、
まあ売れ行きもあって。
そうなんですよ。
だけどそんなにね、こんなに長くは続くと、
だからその当時は結構、あれでしたよ、40代でしたから、
夜もすごくて、あと終電前に帰ったこと、終電ギリギリが結構。
それは何をするんですか。
要するに皆さん、12時開くじゃないですか。
要するに7時になっても誰も帰らないんですよ。
お客さんが。
ここで宴会みたいなとこ行って、
宴会というか、
でも初めて来るお客さんも多いってことですか。
そうそう。それでバカなことを言いながら、
絵を見て、何だこうだ言いながら、
そういう楽しい時間を過ごしたんですね、作家さんも。
じゃあ毎日も終電越えぐらいまで盛り上がる。
泊まってた方もいましたね。
ここに。
学芸員さんとか、誰とは言わないけど、
なかなかそうやってリラックスする場もなかったですよね。
でもさすがにやっぱり40代、50になったらもう、
7時になったら閉めるようにしました。
10年間はかなり頑張りました。
その最初の3ヶ月。
まあその家賃だって言うじゃないですか。
でもその時にはもう1年間ぐらいのスケジュールは組んでるんですか。
どういう感じだったんですか、スタートって。
そうですね、1年間は私も記憶にないんですよ。
どうやって過ごしたか。
結構綱渡りだったんですか。
綱渡りですよ。
でも展覧会自体は、そこそこないと動けないので、
スケジューリングはちゃんとしてましたけど。
どこら辺から軌道に乗ったんじゃないけど。
いや、持ってませんよ、いまだに。
いまだに乗ってません。
もう本当に泥舟なんですけど、
でも泥舟でも何か支えがあると浮上すると思うんでね。
みんな穴を埋めてくれるんですよ。
続けていけるなって思った瞬間とかはあるんですか。
最初はね、よくほら3日、3ヶ月、3年とかって言うじゃないですか。
その言葉を刻みながらやってきたんですけど、
そうですね、やっていけるっていうふうに自信を持っていけるのはいまだにないですね。
私も本当にこのお仕事を選んで転職だと思ってるんですけど、
かといって絵を買うのって大変なことなんで、
それで安定したあれを築けるとはちょっと内心を持ってないですね。
今でもですか、単純に。
今でもそうそう。
だってほら、無用のものっていうか、
必要なものじゃないっていうふうに思われるじゃないですか。
食べて、衣食中のうちの、食べて、着て、暮らして、
そのアウトサイドのものだから、
本当誰にとっても必要なものではないんだけど、
でも自信、要するに二度、直接的な、
あれとしては東日本震災の時に、
神戸の時もさ、なんで、どうするんだろうって思ったけど、
実際に東日本の時は、
これはもう、なんかこう、
絵なんか描いてる場合はないし、売ってる場合は。
作家さんも思ったってことですか。
思ってなかったですよ。
思ってなかったけど、たまたまその一瞬ね、
一瞬、その2時40分から夜にかけてもさ、
これは、絵なんか扱ってる場合じゃないし、
絵なんか買いに来る人もいないだろうし、
作家さんになっても、どうするんだろうっていうふうに思ってたんですけど、
作家はね、揺れてるその中でも描いてるんですよ。
描いてるし、次の日ね、
そのやってる、実際土曜日まで、月曜日だったんですけど、
土曜日の最後、作家さんが来て持ち帰りました。
そしたらね、赤棒がね、ちゃんと運んでくるんですよ。
ああ、あの状況でも。
そうそう、どんな時も作家も辞めるとは言わないし、
だから、ずっと休まずやったんですよね。
で、それにね、買う人もやってくるんですよ。
なんか、ああいう時って、ほらもう、
電車も動いてないし、誰も来ないだろうと思って、
でも、開けようと思って、実際に休まなかったんですけど。
311のあの日に開けてたんですね、2時過ぎて。
まあ、人によっては帰れなくて、大学に泊まったりがあったあの日にも、
買いに来るお客さんもいたんだよ。
だから、不思議ですよね。
そういうふうな、てんぺん地位が起こって、自分が不安になって、
日常が欲しいんですよね。
逆にってこと。
逆に。だから、来たお客様が、しかも買ってくださって、
こんな状況の時に買う人がいるんだって思うのが、
なんかこう、この仕事のようなものかもしれないけど、
必要な時、こんな時に必要とされるんだと思って、
それがすごく大きな力づけのあとかしらね。
まあ、いろんなね、作家も書くのやめないし、
お客さんも食うのやめないし、
じゃあ、私やらなきゃ、誰がやるっていうぐらいの、
まあ、そういう大きな心の支えになったかしら。
いや、無用なものをやるんじゃなくて、
いや、これは絶対必要なものなんだっていうふうに、
自分の中で自信がついたっていうか、
経営上のことは未だに不安だけども、
そういう、この仕事に関しての、
自信っていうか、必要であるんだなっていうことをね、
常にどなた様にとっても必要なものにする、
努力をしていかなくちゃいけないなっていうふうに、
改めて思ったんですけど。
でも、あともう一個ちょっと思ったのが、
それこそ、僕がお世話になっている、
銀座ギャラリーズっていう組合あるじゃないですか。
これは、銀座のギャラリーズの、
みんなが全開立地で認めないと、
入れないみたいな話があるじゃないですか。
だから、本当にもう、銀座の一流の我老の皆さんが、
事情組織みたいな感じで、
うちらで認めた人たち、
認めた我老で、安全ですよってことでやってるじゃないですか。
そこに入ったきっかけを、だからもう言ったら、
一番ペーペーで入ったじゃないけど、
だから、僕がいるときに入って、
銀座ギャラリーズとやるようになった時には、
もう柴田恵子さんいらっしゃるから。
だから、すでにもう20年やってたんじゃないですかね。
20、15年ぐらい。
どのあたりから、銀座の界隈の我老さんたちとやる。
競馬市界隈とやってたんですよ。
競馬市界隈の我老さんたちでチームをやって、
それが20回ぐらい、17回ぐらいやってたから。
ここ今、銀座一丁目だから、競馬市もすぐ隣だし。
だから、そこに入れさせてもらって、
近隣の椿さんとか、いろんな大手の我老さんが、
競馬市界隈の人たちがいたので、
そこではすでに、青戸森本もこの辺だったので、
笠井ちゃんとも面識があったし、
長いので一応、それなりに一応、
ご主人様方とはご面識があったので、
誰とは言わないですけど、
皆さん、親父さんたちがだいぶ亡くなった方が多くて、
その親父さんたちが、誰にも言えないことを、
ここにボソボソ喋りに来るのが結構いたんだ。
ガス抜きに来るんですか、この場所に。
作家さんも来るけど、お客さんも来るけど、
ガラガラさんも。
口で言われて、私もゆっくりして言ってるんですけど、
外をガチッと言って、元気か?とか言ってきて、
ここに何だか口を言ってくるんですよ。
そういう場所なんだ、ここが。
それで、その親父たちが、僕は貝とかの偉いさんたちだったので、
私なんか一番気が楽で、何の利害はないので、
いろいろガス抜きんじゃないけど、
それで、うっかり口を大変ですねって聞いてると、
いつの間にか自慢話になってて、そうか、みたいな。
こいつ自慢しに来たのかと思ったんですけど。
でも、まあまあ、そういうふうにそうやって来てくださる方が居たんで。
一応、名前だけは、私の名前も知ってる方は多かったと思いますよ。
で、いつの間にか銀座ギャラリーズのメンバーにもなってた感じですね、そしたら。
うん、銀座ギャラリーズのメンバー。
でも、ほんとに趣味のほうでコソコソやってるもんですから、
そんなに有名ではなかったと思いますが、
ただ長居だけで、長いお付き合いなので、そんなに知られてはいたような気はしますけど。
だってもう、銀座ギャラリーズのパーティーに出演するギャラリーズさんの中では、
もう一番のベテランになってきましたもんね。
そうなんですよ。
いつの間にやらみたいな。
そうなんです。
ほんとに、ふずさんがいなかったら私が一番上って、
長居さんが、私より2ヶ月後なんです、誕生日が。
ああ、そうか。同級生は同級。長居羽生の長居隆之助さん。
官邸団にも出てやられましたけど。
だから、こうやって、自分のポジションというか、全部ができるわけじゃないから、
少なくても、これから世の中に出る方たちの最初のファーストステージっていうか、
いい形で上に上げていきたいな。
ギャラリーズもいろんな方がいらっしゃるので、
それを受け止めて、また上に上げてくださる方がいればいいし、
あんまり競合しないで、いいところを分かち合っていけたらなと思いますけどね。
でもそれこそ、この画廊でも数百人の方と、作家さんっていう中で、
もちろん幽霊つけるっていうのは難しいなと思うんですけど、
この作家一番伸びたなとか、自分の中で柴田恵都子画廊からこの人出たよっていう人で言うと誰で。
そうですね。もう120歳まで行きたいっていうのは、
見届けるまでもうちょっと時間がかかりそうじゃないっていうのが多いもんですから、
ちょっと80で死ぬわけにいかないです。
だけど、この人がね、近代美術館にニューヨークで、2000年にニューヨークでコテを私が仕掛けて、
あちらの画廊さんにやっていただいたんですけど。
名前教えてもらっていいですか。
そうそう、阿佐美孝子って言うんですけど、
この人がちょうど私の最初に行ったニューヨークの時に、いつかニューヨークで出会いしたいって思って、
それで初めてお連れした方なんですね。
最初どこで出会ったんですか、阿佐美さん。
それはね、もう随分学生時代から。
私が修行中に目の前のビルで卒業政策っていうのをやってたんで、
その時から知ってはいたんですけど。
面白い作家さんだなと思って目をつけてて。
自分の、私のとこで扱うようになったのは2000年からですね。
その前後に、2001年のセプテンバイ11の3ヶ月後にニューヨークに出会ったんです。
そうなんですか、阿佐美さん。
まさか予定してたけど、まさかあそこでガラガラと。
目の当たりにするとは思わなくて、もうあれ切った、ニューヨークに持ってったんですよ。
彼女はそこで大ブレイクして、日本に戻ってきてからもいろいろな方に応援してもらって、
キャリアを積み上げて、近代美術館の美術館に入るような作家に育ちましたね。
だからびっくり。
阿佐美さんは多分、僕は多分、中村屋サロン美術館のゲスト、アーティストリレーのときに選ばれてて、
そこで初めて見て、いろんなところの展覧会で見てたんですけど、
ある時、東京公立近代美術館のコレクションですね。
ちょうせいステージ室の一番最後の部屋の12室に行ったら、
なだたる作家の、現代アーティストのメイクとともに、新規収蔵品として、阿佐美さんの作品がドンと飾ってあって、
僕も確かに、僕が言うのもなんですけど、ブレイクしたなと思って、ついに国立のコレクションになったんだと思いました。
本当に、ほら、こういう絵ですから、別に最初から売れてるわけじゃなくて。
作品としては、だから隅ですよね。隅の作家さん。
裏からやってるんです。
表から描いてるんじゃなくて、いわゆる着地で裏財式的な感じでっていう。
そうなんです。こういう抽象作品が、ニューヨークの方たちがすごく喜んでくださって、
本人も大変自信を深めて、それからニューヨークの留学も決まり、
帰ってきてからもオハラ美術館の話が決まるみたいな、
そういう意味で上手くちゃんと認めてくださってる方が多くて。
いやでもそれこそ、去年の12月にリンダギャラリーズのパーティーの前に僕がツアーやって、
フラッとここに来た、あざみさんのちょうどね、個展やって新作も見れて。
だからそれがすごいなと思ったのが、言ったらもうあざみさんなんてもう大ブレイクしてるじゃないですか。
そうなんですよ。
そうしたら、もうなんかそういう人によると思うんですけど、もう違うところで自分でやりますみたいな人もいるじゃないですか。
ずっと関係性が続いてるのがすごいなと思いました。
いつもね、あの子は偉くてね、柴田さんがニューヨークに連れてってくれたおかげですって、
私もそのニューヨークは囲んでるから、いつかきっとここでっていう貧しい時代のなんかあれがあったので、
でもすごくね、やっぱりなぞみさんの国際性っていうか、言葉が通じなくてもアートはつながるっていうか、
そういうのが実感できたので、何が書いてあれば、なかなか日本では認めてもらえなかったのが、
あちらの方たちがもう80号を買ってくださったので、これは本人の大変な自信になったんじゃないでしょうかね。
でも今更ですけど、なんでまたニューヨークにチャレンジしようと。
そうなんですよ。私全く手がなかったんで。
そうそう、そうでしょうねと思って、なんかニューヨークで働いてたとかでもないのに。
ニューヨークのガローって厳しいんですよ。厳しい。
簡単にできるもんなんですよね。
絶対無理。
絶対無理。それがなんでできちゃったんですか。
それがね、これもまたね、運命って面白いですね。
その年の月刊密、これもピーリーだったらごめんなさい。
雑誌の特集で、日本の女性画賞っていう特集があったんで。
そこにニューヨークのガローさんの紹介がしてあって、この人の連絡先教えてって編集部に連絡して、
それでいきなりアタック。
ニューヨークでやってる日本人の方なんですけど、
プロクリミニス館でアシスタントキュレーターやってた方で、非常に優秀な方だったの。
でもそこで、チェルシーにガローがあったので、
うちのガローと提携して交換店やってもらえませんかっていう。
っていうのを連絡して。
そうそうそう、ご連絡して。
それでいきなり行ったけど、あちらもすごくウェルカムで、
ちょうどすごい奇跡的に、お金もかからずお互いにできればねって言って。
それですごく大事にしてくださったの、アザミさんのこと。
そんなわけで、はい。
その1回なんですか、ニューヨークとのっていうのは。
そうね、その後もう1回やったんですよ。
やったんですけど、なかなかその後続かなくてなったんですが、
自分のあれは夢を果たしたかなみたいな感じで。
でもその時にだって、言ったら10年ぐらい続いて、色が逆される中で、
アザミさんだって決め手は何だったんですか、ニューヨークに出すなら。
アザミだけじゃなかったんですけど、何人かのファイルは持って行ったんですけど、
でも、あちらのガローさんが一番に選んだのがアザミさんだった。
へー。
私だけじゃないんですよ。たまたま国際展に必要な要素があるから、
こちらの方をね、とことん日本側に背を向けてた方なんですけど、
でも最近ようやく裏上玉玉堂とか、あちの研究を始めたんで、つながってきましたね、みんな。
だから前半にした研究会の経過が出てきてるっていう。
そういう意味では、外では、あと10年したらまたわかりませんから、
うちは記載系が多いので、
だから、よそ様が扱って、それでいいんだったらそれでどうぞって感じなんですよ、ほんと。
地綿越子ガローで扱ってる記載の方いっぱいいるじゃないですか。
今言える中でこの人が、その中でも一番記載だなと思うのはどなたですか。
これもう一押しというか。
一押しの記載は斎藤隆ですかね。
どんな方ですか、斎藤。
斎藤隆はね、80年代に結構芸術伸長に超取り上げられた方なんですが。
人気作家としてどうですか。
人気作家、そうですね、話題の。
当時若手ですか、その時。
そう、その当時若手の記載。
これから注目の若手みたいな感じで。
前衛武闘というか、あの当時、肘方達美とか、大野和夫とか、前衛のこういう動きの方たちを彼は鉛筆で、コンテで書いてる、聞き迫るものを。
その方は、普通にはそんなに歓迎されないんですけど、やっぱりね、それはそれでお好きな方たちがいらして、楽さんが、楽。
楽家って茶碗の楽家ですか。
そうそう、だから先代っていうか、今は当代になったけど、15代の方が。
吉左衛門さんの。
そうそう、の方がすごく評価大好きなんです。面白いですよね。
全然違うジャンルな気がしますけどね。
そうそう、だからすごく斎藤先生のことを尊敬してらっしゃって、彼の提案会の時は楽さんがいらっしゃってた。
でもそのだけ聞いてると、全然記載な感じというか、何が思って記載なんですか。
お酒を飲むと、なかなかやっぱり記載ぶりが更に。
そういうことなんですか。どうなっちゃうんですか。
やっぱり権威とかそういうの全然関係ない方なんで、すごいね、あんまり可愛がられるようなこと言わないんですよ、本当に。
そういうひねた人が好きで、私が。
なんかやっぱりね、理解、理解。
絵でやっぱりインパクト、斎藤隆で検索すると出てきますよね。
ちょっとあまり一般の方が好まれるようなものではない。
人間の嫌なものとか、毒々しいものとか、でもそれを通り抜けて、聖なるものに行くみたいな。
そういう首切れ抜けるところの見逃さない感じがね、すごい私もすごくいいなって言っていいなっていうか、本物かなっていう感じがね。
本物が好きなんですかね。
そんな大事なことですよね。
本物ってね、なんだかわからないんですけどね。
それはやっぱり言葉でじゃなくてフィーリングですか。
そうですね。やっぱりね、最近やっぱり伝送芸能も好きでよく聞きに行ったり見たりするんですけど、やっぱりすごい人はすごいですね。
一線をくぐり抜けた人たちの、どっかに触れていたいんですよね。
本物の美術とか。
自分が本物と、偽物だから本物かいいなと思うのかもしれないけど。
そういう際だった。
上級をしたというか、境目を乗り越えた方が掴んできたものを見たい。
自分が乗り越えろって言われるとちょっと。
いやいや、言わないで。
やっぱりね、編集者と小説家とか、我々は際にいる人で、
際のこっち側に落ちないけど、際のとこで見張ってる人だなと思って。
だからちょっと、あまり幸せでも絵は描けないわねとかって思っちゃったりするんですけど。
なるほど。満たされてるとする。
なんかどっか描けてるところがあるから、そこから表現ってそういうところかなって。
それがでも、その人その人の足りないものって違うじゃないですか。
演劇だってきっとそうですよね。
全部が同じではないけど、その方の持っている何かがものを創作させる。
そこのところに私は一番興味があるのかもしれません。
それが別に絵でなくても、影響していく人たちを見てると目が離せないっていうか。
そういうとこが好きなんでしょうね。
ちなみに今、若手の作家も見つけていくのでやってるんですか。
私もね、私が始めた時、40の時に、メインの作家さんたちは30から35ぐらい。
だからその方たちがもう完力なんですよ。
もうこのままね、上の先輩方はもうなくなってるし、
ここからもう一つ、あと20年仕事するには、もう一つ若手をやらなきゃダメだなと思ったんです。
それで最近、1997年でうちのオープンの時に生まれた人たちとか、
その後の人たちを展覧会で扱ってるんですね。
びっくりですよ、本当に。2005年っていうのが現れて。
2005年生まれ。
そう。それが今、学生ですから、学生がね。
それはどこで見つけてきたんですか。
そうですね。そういう方たちを専門に扱ってる方たちがいまして、
そこのところに教えに行ってもらったり来てもらったりして、その周辺の方たちが。
でもただ若ければいいってわけじゃないわけですね。
若ければいいわけではないけど、いきなりうちではちょっと厳しいんで、
ちょっと様子を見ながら、その中からチョイスしてますけどね。
でもやっぱりその選ぶ人は何かが引っかかるものがある人たちなのか。
そうですね。
島田さん的には。
そうそう。美大出てれば、大抵一応基本ラインはクリアしてらっしゃるんですけど、
そこから30過ぎ行ってから、どうすんのっていう、そこから育てたいかどうか。
だからそれが、あと120はできないと。
そう、確かに確かに。
そう、いけないと、あれなんですよ。
もうやっぱりちょっと長いスパンで考えることがもうそろそろあるんですんで。
限界があると思うんですけど、そこから渡せばいいんだと思って、ここまでやったら。
最初にいい感じで、最初の経験が悪くないように心がけてますね、やっぱりその若い方たちには。
そこだから。
どうしてもダメなんですよ。最初は下手だし、そんなにお客さん持ってるわけじゃないし。
それを孤独に耐えるっていうか、自分の責任っていうか、その孤独に耐えていくときにうまく伴奏できればいいなって思いますけどね。
これでも柴田さんって他のギャラリーさんと違うなと思ったのは、画家経験もあるわけで。
いやいや、ないでしょ。
その美大さじゃないですか。
はいはいはい。
描きたい名はないんですか、もう。
そうなんですよ。
あんなに4年経って、スタートはそもそも絵を描きたいから始まったんじゃないですか、柴田さんは。
そうなんですよ。でもそのときにね、最高学部を目指す発言の方がね、和尚をやるんだったら絵は描けないよって、またこれもね、確信を持って言ったんですよ。
それ、でももう離婚後に?
まあその、お別れ、そうそうそう。
あとに言われたんですか。
まあそうそう、言われた。
ちょこちょこその人の発言が人生を。
たまたまね、何人かそういう発言がありますね。
いやそのほら、前後だったら、日本の前後。でも和尚をやってこれから行きたいって思ったら、そのときに、
その絵を描くためにも支援をずいぶんしてくださったから、きっとね、絵描きになるつもりでいたと思うんですけど、
でも、和尚をやるんだったら絵描きにはなれないよって、まあ確かにそうだなんですよ。
やっぱりね、画家なんてね、本当に自分が一番と思ってなきゃさ、ろくではないんですよ。
いやまあどなたの様だって、どんな下手な人だって、自分が一番と思ってなきゃ、画家なんて一日もやってられない。
そういうふうなものなんです。表現者ってみんなそうじゃないですか。
自分が一番なんですよ。自分が一番と思ってないとできないことっていっぱいあるので、
まあ和尚は、画家に対してこれが一番、俺の方がすごいぞって、描けるぞなんて言っちゃったらさ、もう目も当てられない。
でしょ?だってそれにね、やっぱり画家さんたちをバイトで使うのも嫌なのは、なんていうか、やっぱり人の絵を褒めるっていうのはあんまり、画家さん同士ではね、させたくないっていうことなんです。
まあそういうこともあって、全然知らない方の方がいいなっていう感じはしましたね。
じゃあもう、和尚をやるって言ってから、もう一切筆は取って。
そうなんです。それにね、どうしても描かずにはね、もういられない人がやるのが画家なんですよ。
まあそれ以外の人はやらなくていいの。
たまびの4年間やってた時は、ちょっと自分の中で画家になるかもなと思いながら、やっぱり4年はやってたんです。
でもその時から、その時に一緒にいて、どうしてもこの絵しかできない方たちがいるんだなってわかったの。
私はそれ以外でもできる人だったの。それがわかっただけでよかったね。
でも、そういう意味ではやっぱりいろんな美術の世界の中でも、一番定職を選んだなって感じですか?
それは能力があるかわからないけども、私的にはすごく楽しいというか、自分を生かすことができたなと。
自分がどういうものか、私の人もわかってないんだけど、堀先生がおっしゃった、大石の堀文子先生が、
画家は、自分の運命を描くもの、教えられるものではない。絵なんて教えられるものではない。
自分の運命を描くしかないんだっていうふうに、それを皆さんにお伝えくださいませっておっしゃった時に、
私、運命ってさ、そんな大げさなっていると、その時思ったんですけど、自分が70になってみると、
自分が選んできた選択肢って、これが私の運命?って、ちょっと感じるところがあって。
どこで誰に会うとか、そういうことも含めて、俯瞰してみると、この人に会わなかったら今の自分はないなとかっていうのが、そういうものの連続じゃないですか。
だから、画賞さんっていうね、たまたま今、これで生活して仕事してるけども、ここを最初からわかってたわけじゃないから、
いろんな形の自分で、要するに選択とも言えない、天から降ってきた石のような、そのタイミングで離婚するなよみたいなさ、そういうね。
いやでもすごいですよね。
いや本当にね、織りに触れ、こういう事件が起こったり出会ったりっていう、そういうもので成り立ってきたなっていうのはね、
そんなに大したものではないけども、これが先生の言う、自分の運命を生きるしかないっていうことだなっていうのを、痛快してるとこです。
まあでもそういう意味では30年の歴史ですもんね、それが。
ねえ。
これはでも目標はもう40年50年ですか、ここから。
そうですね。できればね、続けたいですね。だから、いける伝説になりたいですね。
もうないです。もうないです。
いやいや、そんなことないですよ。
もう。要するに本当に、誰でもできるっていうか、私なんか何か、家がそういうことをやってたわけでもなく、お金持ちでもなく、ただ好きなだけでこの仕事に入ってきちゃいましたけど、
好きだと何とか知ってくれるもんだなっていうのが運命か、運命かというか、まあそう言って怠けてはいけませんけど、
なんとなくこうね、誰か自分の泉みたいな、自分の中の泉を掘っていけば、まあまだまだ出てくるかもねっていう。
だからその3・11の時はちょっとこれ続けていけるのかなってちょっと思ったけど、まあ買ってくれる人がいたじゃないですか。
それ以外で30年間の中で、やめようかなって思う瞬間はあったんですか。
ないんですよ。
ずっとないんですか、やっぱそれは。
またコロナの時は誰も集まっちゃいけなかったから、それはもっと絶望的でしたけど、
あっちの方がまだ震災の時の方が人が集まってここで賑やかに励まし合ってやってくれよって言えたんだけど、
コロナの時は集まっちゃいけませんでしたから、ザクザク途方に暮れましたね。
でもこんなに集まりたかったんだとか、人と触れ合いたいんだとか、そういうことは思いましたから、
そういうね、この収まったらそういう場になろうと思いましたよ。
だから結局、うちはお客さんだけじゃなくて全然知らない、なんていうのか、交差点みたいになってるんですよ。
全然絵を描いたい方とか、絵を描く人以外の方もここに来て出会って、なんか新しい絵を得て楽しんでらっしゃるので、なんか面白いですね。
これはだから、これ聞いてる方も、もうフラッと来ていいってことですよね。
もちろんもちろん。だからね、席に狭いんですよ、意外とね。3人しかいないみたいな、そういうときが。
ここで出会ってみたいな。
そういう、今ね、本当に縁側みたいなところがなくなったので、ガローって誰が来ちゃダメっていうふうな、
扉は閉ざしてないから、自らは来てもらっていいんです。
本当ね、ここはなんか皆さんがいらっしゃるイメージがすごいあるので、
皆さんもぜひこれをきっかけにね、柴田さんの話聞きたいって聞いてくれればいいですよね。
なんかね、みんなの困った友達がまた行っちゃってるって言って。
基本毎日いますもんね、だいたい当たり前ですけどね。
ちなみになんですけど、ちょっと話をずれちゃうんですけども、この番組でよく聞いて、美術以外で好きなものはありますか?って。
こんだけ美術が好きだっていうのが伝わったんですけど、美術以外で趣味とか。
昔はね、あ、昔って、最近ガロー知られてから言ってないんですけど、山が大好きで、やっと山にしてましたよ。
某ガローにいた頃は、金曜日の夜に車で松本まで行って、朝っていうか夜が明ける頃の登り始めて北に行って戻ってきて、
月曜日の朝のあずさ6時に乗って、部下に電話して、スカート持ってきてって言って、リュックしとったまま、朝だからこの辺赤くしながら。
あの当時良かったのは、2週間ごとに一応そういうお休みがあった。
今は全然休みないんで、行けないんですけど、土日で、あの体力でいまだに、その体力で。
そうそうそう。じゃあちょっともし予定があったら、山行きたいぐらいなんですね。
岡田 そうですね。
そういう登山部みたいなのやらないですか、メンバー。
岡田 いや、流石にね、俳句が限界。俳句の原稿。
俳句は、その苦戒はどういうきっかけでやるんだったんですか、今聞いて。
岡田 いや、もともとね。
野次さんもいるんですよね、それこそ専用と同じ。
岡田 そういう仲間がいたんですけど、なんか宴会があるから呼ばれていくとか苦戒だったりして、
そういうふうにいつの間にか、その我老をね、もう我老に勤めた頃に始めたんですけど、
なかなか、我老を始めてからは時間がなくて、行けないんで、自分のとこでやればいいんだと思って。
しかも、私ね、俳句っていうのは非常にミニマルな、この世界とこの世界をくっつけるとこういう宇宙になりますっていうような、
その大きな爆発力を持った文芸なんですよ。
それで、それをやり始めたら、もともと武装っていうのがあり得まして、
武装を田中先生の鈴木進先生という先生に教わったんですよ、庭園美術館の館長ね。
この方の一緒みたいなこともちょっとやってましたんで、その上で教わって、
それで、このような日本画家は俳句をやったほうがいいぞと思ったんですよ。
そうか、よさぶさんは、俳人としても夢だけど、画家として、絵師としても国宝の絵とか描いてますからね。
はい。それで、やはりね、日本画家におすすめして、
俳句をやると、俳句っていうか本当に十七無二しかないから、余白っていうもののことを意識するんですよ。
少ないものと少ないものを出会わせて、爆発的な世界を作るっていうのは、
すごく厳密に研ぎ澄ましていかないといけないので、そこに余白が生まれるんですよ。
そういうことをね、東洋の美学っていうのは、そこがつながってるってちょっと思った。
それで、若い方たち、日本画家たちにおすすめして、やらせてるんです、今。
それで、区会をやってる。たまに野次さんもいらっしゃる。
たまに野次さん そこに美術関係者の方たちをお呼びして、そういう交流の場にしてるんです。
はあ。
たまに野次さん でも、美術関係者の方も、やはり感性は鋭いから、もちろんいろんな方、画家さんもいるし、出版社の社長もいるけど、
美術出版の関連の方たちにも来ていただいて、それでやる。面白くって。
月一番。
たまに野次さん 皆さん、自分がっていうよりは、他の方たちがいい俳句作るんですよ。
たまに野次さん びっくりするぐらい。やっぱりね、普段、画家たち、ものを見てるから、ちゃんと視点が鋭い。
観察があるとか。
たまに野次さん そうそう、観察がある。やっぱ写生的な目線があるので、そことし的な状況がぶつかると、なかなかすごいものが。
ああ。
たまに野次さん だからちょっと、やってよかったなと思って。
それで区会の名前とかあるんですか?つけてるんですか?
たまに野次さん いや、ガロー区会って言ってもらう。ガローは、ゆうがのがに、狼ですよ。
そのガロー。ガローのガロー。
たまに野次さん ガロー。そうそうそう。
ガロー区会。
たまに野次さん だからそんなに、大したことではないんですけど、続けてるとすごくて、もう私たち子さんのものより若い方たちの方が、どんどんいい句ができてきて。
でもそれもやっぱり、また絵に還元されてくるんです。
たまに野次さん そうなんです。そうなんです。だから若い方たちはすごいね、ちゃんとその美意識を、ちゃんと絵に反映されて。
たまに野次さん 最近は画題を俳句にしてますね。
そんなにですか。
たまに野次さん その、なんかね、なんでもやるといいなと思って。でも俳句はね、やっぱり美学っていうか日本美術の美学って、やっぱり通天して短くしていくっていうのは、すごいあれだと思うんですよ。
たまに野次さん 独特の、足していく美学じゃなくて、引き算していくっていう。そこの中で見えてくる世界が、例えばこういう世界の中でもこういうね。
まあ大分描きすぎないし、なんか手作選択にも生きてくるんでしょうね。そういうのが。
たまに野次さん そうなんです。そういうのがうまくつながってくるといいんですけど、こういう模写のお仕事と、模写っていうか、美術の歴史を知ることと、自分が文芸としての俳句にやることによって、創作者、要するに俳句はね、詩なのよっておっしゃる方がいる。
たまに野次さん やっぱり詩心がないと単に写生でもない。でも徐々に流れてもダメっていう。そういううまいことをつかず離らずっていうね。そういう点なんかがまたいつかできたらいいなと思って。
いいですね、確かに確かに。見たりすみません。ということで、いろいろとね、しばさんにお伺いかかってきたんですけども、あっという間にお時間が。
たまに野次さん すいません、なんか喋り慣れなくて。
いやいやいや、どこがですかね。しかももうお茶を飲みながらリラックスしてやってましたからね。ここの僕らもね。
たまに野次さん そうですね、よかったです。
ぜひみなさんもね、ここに足を運んでいただきたいなと思うんですけれども、改めて前半でも言いましたけれども、こしばたさんの展望会がまだ開催中ということですね。
たまに野次さん はい、こしばたの、なんちゃって茶会じゃなくて、お茶会風味でした。
そんな名前が、名前が適当になっちゃってますよ。お茶会風味で。
たまに野次さん そうそうそう。
開催2月の25日まで開催。
たまに野次さん カニカマの方がカニよりも美味しい場合がありますので、ぜひぜひ。
大物のお茶会よりもお茶会風味の面白さがあるということですね。
たまに野次さん ぜひ見に来ていただきたいと思います。
たまに野次さん ありがとうございます。
しかももうこの配信の頃にはしばたさんのお茶の腕前も上がって。
たまに野次さん そうそう、上手くなって。
今後半ですからね。
たまに野次さん もうずっとやってるかのようなお手前ですよ。
ずっとやってるかのような。さらにこの後も展覧会が目白をして。
たまに野次さん そうです。
3月4月にやっていきますので、みなさんぜひしばたさんのとこに遊びに来ていただきたいと思いますがさ、
どうですか。やってきて前半後半終わりましたけれども。
たまに野次さん ありがとうございます。
たまに野次さん まあいい記念になりました。
振り返ってみてどうですか。30歳。
たまに野次さん 30歳。
たまに野次さん 30歳で来たかって感じですね。
たまに野次さん あとどのくらい先を見計らして。
たまに野次さん こうやってでも出会っていいきっかけに、
たまに野次さん 一つ山越えると、山越えるというか、一里二里という。
たまに野次さん 工藤先生は振り返りが大事だって。
たまに野次さん 一里の道標のところで下道を振り返るって。
たまに野次さん そういうことをおっしゃる方でしたけど。
たまに野次さん 自分でも一点ごとにそういう感じがします。
たまに野次さん そういう25周年とか30周年とかの締めのときは、
たまに野次さん 自分もまた振り返るいいチャンスだし、
たまに野次さん こうやってトニーさんと来てくださるというのは、
たまに野次さん そういう自分にチャンスをもらったなと。
そんな大された番組じゃない。
たまに野次さん そんな日曜美術館が来たみたいな感じじゃないかもしれない。
たまに野次さん でも自分で自分のこと、考えてることというか、
たまに野次さん 言葉にすることってあまりないから、
たまに野次さん 5分で語るはよくやりますけど、
たまに野次さん トータルとして自分の仕事のことをこうやって語ることってまずないので、
たまに野次さん 大変ありがたい機会になりました。
じゃあ40年のときもよろしくお願いいたします。
たまに野次さん この番組はそれまで続いているわけですけど。
たまに野次さん 絶対伝説になりますから。
わかりました。
たまに野次さん 柴田えつこだろう。
たまに野次さん 柴田えつこは伝説ね。
たまに野次さん 私の友人がね、
たまに野次さん 画書をやってる友人なんですけど、
たまに野次さん ここシャネルは、
たまに野次さん シャネルが死んでもシャネルって言ってるわよって言うのよ。
たまに野次さん それで柴田えつこは、
たまに野次さん 柴田えつこでいいんじゃないのって。
たまに野次さん そんなのあった?別に私、野次はいないわよとか言って。
たまに野次さん でもそうやってね、企業的にね、
たまに野次さん なんていうの、
松本清みたいなものかもしれないですよね。
たまに野次さん そうそうそう。
たまに野次さん シャネルはいないけど、
たまに野次さん シャネルって名前は残って、
すごいこと言うな、この人って。そんな野心はありません。ありませんけれども。
でも残るかもしれないですよ、柴田恵都子がね。
でもたぶんこの番組で何度も柴田恵都子があると言ったから、もうみなさん柴田恵都子の名前確実に覚えましたから。
本当ですね。ありがとうございます。
あとは本人に会いに来るだけ。ここに来ていただければってことですよね。
こいつかーと思ったよね。
しかも今更なんですけど、この番組だっていうことでね、柴田さんにお願いして、
柴田さんは今日動画が来ると思って、今日すごいおめかしをしていらっしゃってますよね。
化粧もバッチリ決めて。すいません、これ音声のコンテンツでしたので。
実物をみなさん、ぜひ見に来てください。
やらかすよね。
ここに来ないと柴田にはお会いできれませんから、
ぜひこの配信で柴田さんが気になった方はぜひ来ていただければと思います。
今日はどうもありがとうございました。
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