1. そろそろ美術の話を...
  2. #120 面白いことは周辺から起..
2024-11-16 1:01:36

#120 面白いことは周辺から起きる。板橋区立美術館のすみっこ力について(板橋区立美術館 館長 松岡希代子)

板橋区立美術館館長 松岡希代子さんをゲストに美術に興味を持ったきっかけや板橋区立美術館の話題についてお聞きしました。 ⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠https://sorosoro-art.vercel.app/ep/120  番組の感想は、⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠#そろそろ美術の話を⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠ でお願いいたします。

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Guest Profile 松岡希代子(まつおか・きよこ)

  • 千葉大学大学院教育学研究科美術教育専攻終了ののち板橋区立美術館に学芸員として勤務。1989年より「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」の担当となり、絵本作家の育成に取り組む。
  • 美術展としての絵本の可能性に注目しレオ・レオーニ、トミ・ウンゲラー、ブルーノ・ムナーリ、瀬川康男、安野光雅など著名な絵本作家の全貌を取り上げた展覧会を多数開催。
  • 2010年から4年間、国際児童図書評議会(IBBY)の国際理事、IBBY 朝日//国際児童図書普及賞審査委員長を務める。日本国際児童図書評議会(JBBY)理事、女子美術大学非常勤講師。

Show Notes

板橋区立美術館について

いつから美術が好きだったのかの話題

板橋区立美術館勤務開始後の話題

おもしろキャプションのいきさつ

過去の展示の話

サマリー

板橋区立美術館の館長、松岡希代子氏が美術への興味や教育について語るエピソードです。彼女の幼少期からのアートへの情熱や女子美術大学での経験が印象的に描かれています。また、美術館での学芸員としての役割についても触れられています。松岡館長は、学芸員としてのキャリアとその初期の経験について語っており、試験で求められた体力測定や展覧会の企画を通じて、美術館の魅力を伝える役割の重要性を強調します。このエピソードでは、松岡氏が美術館の取り組みやアイデアについて語り、特に展示方法やキャプションの工夫に注目し、過去の展示が現代の観客に与える影響を考察します。また、地域に根ざした交流やアーティストとの関わりについても語り、住みっこ力の重要性を強調しています。特に、面白いことが周辺から発生するという観点から、地域文化の価値を再認識させる内容です。最後に、松岡氏が館内のアイデアやイベントの創出、そして自身の料理への情熱について語り、独自の視点で美術館の隅っこ力を発揮して地域との繋がりを重視した取り組みを紹介します。

美術への興味の始まり
はい、アートテラー・とにのそろそろ美術の話を。この番組は、私アートテラー・とにが、アートに関わる方をゲストにお迎えして、トークを繰り広げるポッドキャスト番組です。
今回は前回に引き続き、板橋区立美術館館長 松岡希代子さんをゲストにトークを続けていきたいと思います。
はい、ということで前半お疲れ様でした。ありがとうございます。ありがとうございます。引き続き後半ということでございますけれども、毎回聞いていることがありまして、
いつから美術に興味を持っていましたか?というのを聞いているんですけど、前半でちょっとイタリアで図像学みたいな話がありましたが、興味自体はいつからあったんですか?
もう本当に子どもの時からって、まあ皆さんそんな答えじゃないかと思いますけど、お絵かきしたり、工作が好きだったですね。
幼稚園に行く頃からですかね。
もう本当に長いんですね。
作ったり書いたりっていうのは延々とやってました。
でもそこから美術部とかにも入ったりとかですか?
いや、家の近所のお絵かき教室に行ってましたね。
幼稚園の時も行ってたな。
小学生になってからも、また別のお絵かき教室が近くにできて、そこに行ったりしてたんですよ。
そしたら夕方になると、かっこいいお姉ちゃんたちが来て、油絵とか描いてるんですよね。
かっこいいなと思って。
聞いたら、女子美っていう学校があって、絵ばっかり描いてる学校なんだってって言われて、
そうなんだ、そういうとこいいなと思って。
母親に、私も女子美の中学行きたいんだけどって言ったんですよ。
中学から女子美なんですか?
母親に言ったら、うちの母親も結構面白い人で、うちのお姉たちも何もダメとか言う人じゃなかったんですけど、
女子美もいいけど、あんまり中学から行くとつむしが効かなくなる。
ということを、小学校の時に聞いてるってことですね。
だから、ちょっと様子を見た方がいいんじゃないのって言われて。
ダメとは言わないけど、中学校は普通の。
でも、中学も私立の付属中学に入ってしまいまして、
それで、ずっと上まであるところに入ったんですよ。
でも、その時は別に美術専門じゃないんですか?
じゃないです。
それで、つむしが効かなくなるから。
そんなことを小学生が考えるから。
普通の中学行ったんだな、みたいな思ったんですけど、その学校が超合わなくて。
なんか三つ編みが好きで。
みんな三つ編みで、あと靴下は三つ折りなんですよ。
なんでみんなそんな三にこだわるのかよくわかんなくて。
三つ編みと三つ折りで。
高則なんですか?
高則です。
昔ながらの私立の私立の。
ミッションっぽい感じですか?
ミッションじゃないんですけど、私立の学校で。
もう本当に嫌で。
その感じが。
もう中学だけで失礼させていただいて。
もう中学だけで辞める人ってほんの数人しかいないんですよ。
その数人になって。
数人になりまして。
もう失礼させていただいて。
で、やっぱり私この学校嫌だから女子美受けたいんだけどって母親に言ったら、
母親はまあそうねってなって、それで女子美行ったんですよ。
その時はプレイヤーというか核側で入ってるんですか?
だってここですもんね。
普通に絵を描いたり。
ここでも絵画コースとデザインコースに2年から分かれるんですけれども、
それで女子美受かって入って、すごい楽しくて。
でもうちの母親とかも気に入っちゃって、いいわねこの学校みたいな。
もう他人の先生とかも紫のドレス着てて可愛くってね。
三つ編みの時からしたら大変化ですね。
大変化ですね。
会ってたんですね、水にやって。
会ってました。楽しいなと思ったんですけど、
高校1年の1学期が終わる頃には、これは自分はダメだなと。
なんでですか?
辞儀が下手。
周りと比べるということですか?
そう。だからもうこれは自分は辞儀では立ち行かないなっていうのが、
高校1年の1学期で見えちゃったの。
なかなかの挫折でしょ?
なかなかですね、楽しかったはずなのに。
でも基本は楽しいのよ。
だからそのプレイヤーとしてはっていうのをそこで知っちゃったんですね。
隣に座った人とかね、今でも作家活動している野村直子とかね、
もう本当にいい絵描くんですよ。
もう線一本引いても違うんですよ。
でもそんなのが隣にいたんですね。
もうこれはダメだなと思ったんですけど、
でも女子見のいいところは、やっぱり美術系の学校だったんで、
美術に関する情報がいっぱいあるんですよ。
先生たちも進路指導じゃないですけど、
いろいろこう、美術もちろん絵画だけじゃなくてデザインもあるよ、工芸もあるよ、
ディスプレイデザインとかもあるよ、
実際に描くんじゃなくて美術の先生になったりとか、
美術館とか博物館には学芸員という人がいて、
人々と美術をつなげる役割をしている人がいるんだよと教えてくれたんですよ。
それで、あ、これだなと。
それも高1の時には、夏にはそこで決まったというか。
そうです。ほぼそうです。
でも、そういうことを教えてくれる授業もあるんですか?
教えてくれる授業っていうか、
やっぱり付属だけど、大学には推薦で何人しか行けなくて、
あと受験しなきゃいけないとかっていう、
先々のことっていうのは常々いろんなことを、
保護社会とかもたぶんあったんだと思うんですよ。
いろいろ教えてくれるんですよね。
そういう中で、大学のコースを選ぶときに、
教員やるんだったらこういう単位が必要だし、
学芸員だったら何でとか。
短大ではこういうコースがあって、大学ではこういうコースがあって、
いろいろ教えてくれる。
そういうものの中でたぶんあったんだと思います。
授業としてはでも描く、描いたりとか、
そういうことをやってはいるけど、
美術士の授業だとかもある。
そういうこともありました。
でももう頭の中では、自分はそっち側に行こうと決めたんですね。
その学芸員の方の道に。
だって下手なんだもん。
でもじゃあそこから大学上がって、そこで美術。
板橋区立美術館でのキャリア
大学でも、学芸員資格が取れたら美術士をやるコースっていうのは、
造形学専攻っていうところしかなくて、
そこに行こうっていうふうに決めて、
造形学専攻に行って、
それで学芸員の資格を取るための単位。
大した単位ではないんですけどね。
計画としては、
学部卒より院卒の方がいいかなと思ってたので、
大学院に行って、
学芸員になれたらいいなっていうふうに、
すごい漠然と思ってたんです。
前半の時にそこを聞こうかなと思ったけど、
テーマが絵本だからと思ってグッと堪えたのがあったのが、
明治の美術っていう話が出たじゃないですか。
この入る採用の時。
ってことは明治美術の時に専門、
今や絵本の人ですけど、
絵本の人って言い方あるかもしれないけど、
学生時代というか、
その時は明治の美術を研究されてたってことですか?
私も大学時代も大学院時代も、
研究と言えるようなものを全然やってなくて、
板橋でも本当に研究とかって全然やってない。
研究は広中に任せてる。
広中研究班。
研究班ですね。
何班なんですか?
私はイベント班かな。
でも言ってもその時は、
卒論とかは何で開催したんですか?
卒論はキリスト教美術です。
中森義宗先生っていう、
キリスト教美術の大科の先生が、
非常勤講師だったんですけども、
来てくださっていて、
見ていただいて、
卒論を書いて、
中森先生って神田生まれの江戸っ子で、
面倒見がいい方だったんですよ。
それで、
君ね、高校を卒業した後どうするの?って言うから、
芸大の大学院に行きたかったんで、
でもいきなり芸大の大学院、
ちょっと外部からとなかなか難しかったんで、
1年ぐらい、
超高生やってから受けようかなと思ったんですよ。
超高生の資格申請みたいなのが、
書類選考みたいなのがあったんで、
それで応募してたんですね。
芸大1年、超高した後、
芸大大学院に行こうかなと思っている、
中森先生に言ったら、
中森先生本部が千葉大だったんですよ。
千葉大の教養の先生だったんですけど、
そうだったらね、
千葉大の大学院にいらっしゃいって言われて、
それで、
中森先生に誘われたなんて、
先生に教えていただいて、
それで千葉大の教育学部の
美術教育専攻の大学院に行ったんです。
今日、僕は松岡さんの長いのに初めて知ったのが、
大学の先輩にあたるんですね。
千葉大学なの。
だからあそこに通ってたんですね。
西千葉2年間。
西千葉キャンパス。
そうです。
それで中森先生が、
ここは教育学部の大学院だから、
鑑賞教育についてやったらいいよって。
私も何のアイデアもないから、
先生に言われるままですよ。
それで中森先生が、
黒田世紀なんかと一緒に、
一緒にフランスに行った
久米慶一郎って、
今、久米慶一郎美術館って
目黒にありますよね。
久米慶一郎について、
ちょっとレポート書きなさいって。
先生からお題が来たんですよ。
それで久米慶一郎について調べて、
朱論じゃないんですけど、
ちょっとレポートを書いた。
それが私の唯一、
明治の美術に繋がっているというか、
やったことっていう感じなんですよ。
そっか、それで明治一応関係はしてるわけですね。
それで朱論は、
日本の美術教育の中での
鑑賞教育の教材が、
どういうものが用いられていたかっていう。
白樺派の人たちなんかが、
白黒で印象派の作品なんかを、
たくさん伝えてたみたいな。
それが教科書にも影響を及ぼしてるみたいな、
すごい適当なことをやりまして、
なんとかお茶を濁して出てきたっていう。
意外と千葉大学の人っていないじゃないですか、
この業界に。
倉谷さん?
倉谷さんも実は女子美から千葉大ですね。
今、横浜美術館の館長ですよね、倉谷さん。
この番組に出てくれた方でいうと、
水戸芸術館で今学芸やってる伊関さんが、
千葉大学の僕の先輩にあたる方で、
そうなんですよね。
意外と探したら出てくるんです。
いやいや、まさかまさか先輩ですね。
そうなんですよ。
でもそこで卒業しました、
板橋入りましたって話でしたけど。
板橋の時も面接とかで、
明治の展覧会と教育復旧なんですけど、
できますかとかって言われたんですけど、
普通面接で聞かれたら答えって一個ですよね。
確かに、わざわざ来ててできませんとか、やれないとか言わないですもんね。
やりますみたいな感じ。
そう考えると、松岡さんは板橋一筋だったんですね。
そうです。
ずっと板橋区立美術館で。
そうです。だから学生からここの美術館に入っただけで、
学芸員としての道
しかも皆さん苦労して学芸員の職を探してた方って最近多いんですけど、
私就職活動を全然してなくて、
ある日突然中森先生から朝電話がかかってきて、
板橋で募集してるから受けてらっしゃいとか言われて、
はいみたいな感じで。
初めて応募して受けた試験が板橋美術館で、
それで1次がペーパーテストで、
2次試験が体力測定とかあったんですよ。
体力測定、どういうことをやるんですか?
笑っちゃうんですけど、
1次で何十人かいたのが3人になってて、
男子2人で私女子1人。
そのうちの1人とは今でも付き合いが、
誰とは言いませんが付き合いがあるんですよ。
その時は1人と。
その3人でですね、区役所の屋上に呼び出されまして、
垂直跳びと反復横跳びと握力。
なんでスポーツテストみたいなことをやるんですか?
だって文字物の中にジャージとか書いてある。
それで決めるんです。
それは何を見るんですか?
分かんないです。
体力があるかどうかみたいなことなんですかね?
握力は私がトップだと。
貧弱な男子です。
松岡さんがすごい、
ちょっとそこは数値聞いてないから分かんないですけれど、
それをやらされたんですか?
はい。
これは未だに伝統で残っているんですか?
いや、それが最近はないらしいんです。
広中にも聞いたんですけど、
広中さんの時もなかったらしいです。
どこかで、やっぱりこれは違うぞ。
やっぱり違うなっていう気づきがあったんですかね。
私、聞いたことないですよね、この話。
他のところで。
面白かったですよ。
でもそれを、
クリアしましたね。
3人残った中で、受かったのは1人だけなんですか?
はい。
じゃあ、握力のなさとか落ちた理由は?
いや、でも他のお二人も体制されてますんで、
板橋区が見る目がなかったっていう。
でも、反復横跳びとか、体力がないのは持たないと思われたんですか?
いや、分かんないです。
チョークつけてね、垂直跳びポンとかね、やりました。
意味がよく分かんない。
でもそれで合格されて、
他は受けずに、ここしか受けずに。
他は受けたことないです。
受かって、板橋の美術館に来て、
そしたら安村さんがいて、
最初の日は、来たらここに反抗するんだよ、みたいなことを教えてもらって、
次の日は安村さんが、
展覧会っていうのはね、3年前くらいに大体全部決まってなきゃダメなんだよ、みたいなことを教えてくれて、
それで、終わりなんですよ。
3日目朝行って、やることないんですよ。
初期の展覧会企画
どうするんですか?
電話も取れないじゃないですか。
社会人経験もないわけですからね。
場所の説明とかもできないし、自分だって分かんなかったんだから。
確かに。板橋の場合、どこを曲がってどうとか言えないんですもんね、場所が。
どこからも遠いから。
当時は電話の問い合わせの9割くらい、どうやって行くんですかっていう。
今もGoogle先生でみんな来るから。
そうか。しかも別にその当中っていう、携帯電話で聞いてるわけじゃないですもんね。
携帯電話って生まれてから聞いた電話なんだ。
これ家電ですよね、きっと。これから行くにあたってどう行ったらいいんですかっていう。
どう説明したらいいんだろう。
ホームページもないわけだから、ホームページ見てくれても言えないし。
3日目くらいからやることはなくて、
ポツンと机に座ってたら、安村さんが
ここに座っててもしょうがないから、展覧会でも見てくればって言われて、
それで、えーとか思った。
そしたら、地元の深井孝先生っていう彫刻家の先生。
深井さんが今、エビスで展覧会やってるから、
国内作家の展覧会とかも見てもらわなきゃいけないから、行ってきたらいいよって言われて、
エビスのまだシャビができる前ですよ。再開発の途中みたいなところ。
ガーデンプレイスがないわけですね。
ないです。あれ作ってる頃ですよ。
そこで、深井さんがスペースで展示してるのを見に行って、
すごい心細い。私、明日からどうしようみたいな。
別に手取り足取り教えてくれる人もいないし。
いないし、それで深井さんの展示を見て、
いろいろ銀座のギャラリーとかもあったりするんだなーみたいな。
学芸員ってこういうことをやるのかな?みたいな。
学芸員ってこういうことをやるんだ。
全然研修とかもしてくれないし、みんな忙しそうにしてるし、
みんなそれぞれが勝手に点でバラバラのことをやっていて。
入ったのが何年って言ってましたっけ?
1986年です。
だから79年にオープンして、美術館としてはもう7年。
もう軌道に乗ってるっていうか、モンパルナスの展覧会やったりだとか、
江戸の展覧会やったり、ボロン予定もやったりとかしてて、
教育普及とかもやってて、
その中に突然来て、何やったらいいかわかんない。
でもとりあえず教育普及の予算は講座10回分ぐらい取っといたからとか言われて、
え?みたいな感じで、
とにかく実技の講座をやってくれって10回分取ったっていうから、
実技の講座を企画するってところから始めて、
それは私は実技の経験が一通りあったので、
女子美の高校と大学でも実技をやったので、
彫刻も調査もやったし、版画もやったし、写真とかもやったし、絵画もやったし、
一通りやったんで、それはものすごくいきました。
それは区民の方向けの講座としてやってたってこと?
そうです。子供だったり大人だったりの、
区民のための実技講座っていうものを企画する。
それが結構最初の大仕事という。
そうですね。それは今でもいろいろやってますけれども、
そこから始まって、
それで次の年には明治時代の展覧会やってもらわなきゃ困るからみたいな感じで。
けいちろんはレポート書いたけど。
で、どうしようと思って。
そしてまた私が困ってたら、
安村さんが道真くんのところに相談に行ってきたらいいよって言われて。
道真くん?
佐藤道真さん。
芸大の先生で定年退科されましたけど、
佐藤道真さんがOBなんですよ。
ここに佐藤道真さんいて、
その後文化財研究所に行かれて、
その後芸大に行かれたんですけど、
当時は文化財研究所にいらして、
それで黒田世紀の映画飾ってあるのは、
今はカフェの角がカフェになっている。
上島コーヒーになっている。
いわゆる黒田記念館みたいな。
黒田記念館。
あの重々しい立派な建物の奥に道真さんいらして、
それで相談に乗ってくれるから聞いてきたらって言われて、
で、私も安村さんが道真さんに相談して、
なんか考えてくれるって言うんですけどっていう感じで、
いやそうだよね、板橋で明治の展覧会か。
部屋が2つあるからさ、明治美術会と博物会と2つやったらいいんじゃない?って、
道真さんが決めてくれて、
2人でその後焼き鳥屋みたいなところで食べたりとか。
その展覧会やったんですか?
やりました。
明治洋画団の巨匠たち展っていうことで。
それが初展覧会ですね。
初展覧会。
そういうので、なんかそうやってなんとなく学芸員になる、
お仕事を覚えてた感じなんですか?
江戸美術のキャプション
そうですね、そういう感じです。
あと僕はちゃんとこういう場で謝んなきゃいけないなと思ってたのが1個あって、
公式にはこういう場でちゃんと言わなきゃと思ってたんですが、
過去にコネクトっていうTBSのラジオで板橋区立美術館を紹介させていただいた回があって、
それももちろん皆さんが板橋区紹介してありがとうって言ってくださったんですけど、
板橋といえば江戸美術、江戸美術といえば板橋のキャプションがちょっと面白キャプションが多いみたいな。
僕はもう勝手に思い込んでて、やっぱり江戸美術で面白いキャプションを書くのを始めたのは、
この話何度も出てきた安村さんが始めたとばかり思い込んで、
それをTBSラジオで放送に載せた後に、
考えたのは実は松岡さんですという訂正のあれが来て、
これはいつかこの番組ではちょっともう訂正できなかったので、
このオンエア上に載せてちゃんと公式にあれは違いましたよというのを言わなきゃと思ってたので、
すみません、改めて申し訳ありませんでしたってことなんですが、
板橋区立美術館というと江戸美術面白キャプション、
それを松岡さんが考えたきっかけみたいなのもあったんですか?
本当に大した情報もなく板橋の美術館に就職したら、
この美術館は古美術をやっている美術館だったんですよね。
それも知らずによけるかって、今まで実験する人はちょっと怒らせるんですけど。
こういうのあるんだと思って、
私は全然日本の古美術とかに興味がないっていうか、
ほぼ接点がないままここまで来てたんですよ。
私の母親って英語の仕事をしてた人っていうか、
若い頃通訳をやってて、家でもずっと英語を教えてたんですよ。
だからすごく横文字系のものが好きで、
私も高校時代からヨーロッパに連れてってもらったりとか、
すごいラッキーだったんですけど、
日本っぽいものっていうのが家の中になくて、
床の前だとかそういうのもなくて、
布団よりベッドよみたいな、そういう人だったんだよって母親が。
知らなかったんですよ。
ここに来たら、掛け軸とか屏風とかいっぱいあって、
へー!みたいな感じになって。
ところが見たら、まあ難しい、難しい。
わかんないんだけど、キャプションに書いてあるでしょって言われて、
キャプションを見たら音読できないんですよ、教養がなさすぎて。
タイトルがどうですか?
タイトルも、技法の説明も、
あ、そっかそっか、全体的に。
四本とか書いてあって、何ですか、この紙本って。
確かに確かに。
六極一層とか、形状六極一層とか、は?って。
やってる方にとっては当たり前でも使ってるけど、
知らないともうわかんないですもんね。
まあそんなことを知らないで学芸員になったのかって言われそうだけど、
いや本当に知らなかったんですよ。
で、なんで、これちょっと何かわかんないんだけどって言ったら、
いやこれは六枚折りのことだよって。
一石は一個で、一層だと六枚折りが二セットだからって。
安村さんってすごいリベラルな人で、
そういう物の知らない松岡みたいなやつの、
新規な質問に全部答えてくれて、
そうだよね、こう言葉難しいよねって、
一応同意してくれたんですよ。
それで、じゃあちょっと乾燥品展で、
すごいわかりやすい感じで乾燥品展で小美術出してみようかと思うんだけど、
いい?って聞いちゃったら、もう乾燥品展だったらいいんじゃない?みたいな。
それでまた、じゃあちょっと展示考えようかなと思って、
いろんなところをぐるぐる回ってたら、
展示の新しい試み
引っ越す前の山谷美術館。
山谷美術館を歩きふらっと行ったら、
あの屏風が露出展示してあったんですよ。
ガラスケースに入ってなくてそうですね。
あ、これはいいなと思って、
露出展示してあると、なんか見る気失せるっていうか、
なんか水族館の中みたいで、
あんまりリアリティがないなと思ってたけど、
露出展示だとすごい見たいなって感じがして、
ちょっとこれ露出展示面白いなと思ってました。
それで、うちの作品露出展示してみたらどうかなと思って、
あともう一つ考えたのが、
よく安村さんが、
美容部とかってちょうど品だからね。
昔の人はこれ使ってたんだからね。
っていうのをよく教えてくれてたんですよ。
そうなんだと思って。
なんか都合の悪いところを隠したりとか、
風が吹いて寒いからちょっと立てたりとか、
そういう風にして使ってたんだよねとか言って。
展示作業をしてる時なんかも、
美術館だとベーッて平らにしたりとか、
綺麗に角度を整えてやったりとかだけど、
昔の人はいろんな風にしてたんだよって教えてくれたんですよ。
なるほど、角度の曲げ方を。
そうそう、曲げ方を。
ああ、そうなんだと思って。
じゃあ美術館のコーナーに座敷コーナーみたいなのを作って、
昔の人が使ってたみたいに、
いろんな変な形の美容部を露出展示で置いて、
そこの間はみんな歩いて回れるようにしたら、
ちょっと時代劇じゃないけど、
昔の人みたいで面白いかもなと思って。
あと、みんな着物とか着たらもっと面白いなとか、
いろいろアイディアがあったよね。
それはまだできてないけど。
あと、キャプションも分かりやすく、
キャプションの重要性
みんなが見るためにヒントになるようなキャプションにしたらどうかなと思って。
全部書き換えてもいい?って聞いたんだよ。
あとタイトルとかも、流行図とか書いてあって読めないし、
分かんないんだけど、
これって書いてもいい?って聞いたら、
いいよって。
だってこれ着た時、
かけ物とかしか箱に書いてなくて、
これ自分が付けたとかって言うんですよ。
伝来してない。
この美術館で決めたってこと?
そう。
大体古来からあるフォーマットに沿って付けたぐらいってことですよね。
伝わってるものもあるのかもしれないけど、
自分が付けたとかって言うんですよ。
言ったらさっき言ったような屏風が日用品として使われてるものだから、
別に日用品に名前付けてないようなものですよね。
あと四季花鳥図とかって、みんな四季花鳥図。
それはそうですね、確かに確かに。
だから別にいいよって言われて、
流行図とかはドラゴンバーサスタイガーとかにしたんです。
それが何年ぐらいのことですか、最初にやった?
やったの90年代の初めですね。
ちょっと調べないと忘れちゃったけど。
でもその頃に。
そう。
僕が最初にアートテラーってやり始めたのは2010年とかで、
それこそ美術に興味がないのにこっちに世界に来て、
やっぱりキャプションとかって難しいなと思ってたから、
じゃあこういうことやったらいいやと思って自分がアートテラー始めたわけですよ。
やっぱり世の中の当時の美術館のキャプションは硬いのが多い中で、
なるほど、やっぱり僕はこういう仕事必要だなと思ってた中で板橋に来たら、
あれ、すでにやられてたみたいな。
いたんだ、こういうことやってる人はと思ったんですよ。
板橋のキャプションって変わってるなってずっと思ってて、
ある時ぐらいからちょっと世の中のキャプションが緩くなったじゃないけど、
わかりやすくなった時に千葉市美の方がしたのかな。
なんか板美っぽくなったよみたいな感じで、
キャプションが緩くなるイコール板橋区立美術館っていう認識が業界にはあるんだなと思ったんですけど、
この取り組みはどうだったんですか、リアクションというか。
最初やった時はさすがに例えば古い業界からしたら、
いやいやそんなことやるなよって言われたのかどうでした?
そういう難しい方との交流はあまりなかったせいもあるんですけれども、
その重々しいタイトルとか、重々しい技法表現みたいなのが好きな方向けにもちゃんと載せましたんで。
大きいキャプションに両方。
だから子供語って言ってたんですよ、子供語のタイトルと説明と。
あと当時金さん銀さんっておばあさんが流行ってたんで。
タスキンのCMでね。
金も100歳、銀も100歳。
金さん銀さんの似顔絵を書いて、それがおばあさん一人だと100年前。
何年作ったんじゃなくて何年前でカウントする。
なるほど。
おばあさん二人描いてあったら200年前。
単位なんですね。
おじいさん、男性の方は単名なんで恐縮なんですけど、
おじいさんは50年にして。
単名、もう50はおじいさんですよ。
200年前のものはおばあさん二人とおじいさん一人のイラストつけて200年前。
250年ですね。
250年前っていう風にしたの。
逆にわかりづらくない。
なるほどね、でも面白い面白い。
あと屏風もいろんな風な形に変じして、
座ってみてねとか座敷を、
御座みたいなものを張って座敷を作って、
上がってみていいよとか。
あと光によって金屏風の光が調整できるような装置を作って、
動かすと暗くなると金がふわっと生えて、
明るくするとまた普通に見えるっていう実験できるようなコーナーとかも作ってやりました。
でもやっぱりそれは一般の方のリアクションはどうでしたか?
なんか無料の乾燥品店だったので、
それをめがけてくるって人がいたのかどうかちょっとわかんないです。
でも小美術の時にはあんまり来ない。
あと学校の先生ともずっとコラボして、
1年間ぐらい学校の先生と一緒に研究会、
軽く言ってますけど意外にしっかり作っていまして、
学校の先生たちと月に1回ぐらい、
こういう作品を子どもに伝えるためにはどういうふうな表現したらいいかとか、
それに合わせてどういうワークショップをやったらいいかっていうことも、
ここで研究会をやってたんですね。
なので学校の先生たちもたくさん子ども連れてきてくれたりとか、
福田美蘭さんなんかもずっと一緒にやって、
芸術家の福田美蘭さんも。
一緒に企画やってくれて、
美蘭さんが子どもたちに扇に絵を描くみたいなワークショップとか、
美蘭さん子どもにやってくれて、
そんなことをやったりとかで、
普段小美術を見ない人たちが来てくれたかなっていうのはあります。
これはでもだから未だに続いているってことはやっぱり、
もう一つの軸にはなりましたよね、そう考えると。
そうですね。
安村さんはすごい気に入ってくれて、
キャプションだとかこういう考え方っていうのは面白いから、
松岡ちゃんとこれで論文を書けと。
安村さんは俺に触れて私のプライベートのことも含めて、
いろいろ的確なアドバイスをくれるんですよ。
もうその中の一つで、
これで論文をちゃんと書けって言ったんだけど、
私がサボって書かなかった。
今日に至る。
まだ書いてないですか?
書いてないです。
20年以上前の話のネタとして古くなって、
でも皆さんすっかり共有してるっていうか、
大きなキャプションを作って、
それに分かりやすくするっていうこととか、
あと東博なんかでもね、
屏風に光を変えると、
東博では照明の専門家の先生もいらっしゃるみたいですが、
光によって近屏風の見え方が変わるなんていうのも、
職員の協力と美術館の文化
展覧会でもやられたりしてたので、
役割は終わったかなと。
今でこそ江戸美術なんて、
もう最初前半でも言ったけど、
キラーコンテンツだけど、
そうじゃなかった時代があって、
だから板橋さんがかなりずっと、
初期から頑張ってたっていうのはよく聞きますもんね。
そうですね。
奇想の経風っていうのがね、
今はもう奇想じゃなくて、
メインストリームみたいな感じになっちゃってますよね。
その流れ、安村さんは辻文化ですから、
その流れで来てるのかなというふうに思ってます。
でも前半で若手が頑張ってこの美術館を作っていったっていう中の、
だからこそできたことの一つな気はしますかね。
そうですね。
その流れは今でもあるし、
私は大事にしなきゃいけないなと思ってるんですけども、
何か企画があった時に、
やりたいって言った人の意思がほぼ100%表現できるような、
議論して、だんだん平板なものになってしまうみたいな、
そういうことはしてないです。
何かやりたいって、これをやるんだってなったら、
その人のやりたい形を極力表現できるようにっていうのが、
館全体でそれをやっていくっていう体制ができていて、
本当に小さい美術館ですけれども、
ジムも学芸も一致結束して、
学芸の人がこれやりたいって言うんだったら、
ジムは頑張るからって感じで予算を取ったりとか、
あといろんなところに説明しなきゃいけなかったりとか、
そういうことをジムの人たちもやってくれるっていう。
だからそれは思うのが、
前の館長の池田さんの時代に、
池田さんは多分区から来られた方で、
別に学芸じゃない人だったじゃないですか。
だけどすごくよくしてくださって、
ある時に、笹屋三転か何かの時に行列ができた時に、
行列の後ろでここが最高尾ですって思ってるのが、
館長だった時代ありましたよね。
池田さんが普通にそういう作業も。
だから本当にみんなで展覧会を盛り上げてるんだなと思った時がありました。
そうですね。それはもう全然みんな普通にやってることですね。
一般的には普通じゃないと思うでしょ、美術館で考えたら。
まあうちは、私は今館長ですけど、
板橋区立美術館って区役所の中の一係で、
館長って管理職じゃないんですよ。
だから全然他の館の立派な館長さんと、
私は同じところに立つわけではなくて、
なんちゃって館長言うから、
全然館長だから何々ってことは全然なくって、
みんなと一緒に盛り上げてるっていう。
だからそのちょっと文化祭的な、
監視の方とか清掃の方とか職員だけじゃなくて、
委託の業者さんも含めてですね、
全体で盛り上げて展覧会をやっていくっていう、
そういう気質は、
それ本当に最初に安村さんが作ってくれたものだなと思ってますけど、
そのままずっと来ています。
その一つの象徴的なこととしては、
ミュージアムグッズみたいなのいっぱい売るじゃないですか、ショップで。
誰よりも買うのがスタッフ、監視のスタッフ。
やっぱ好きなんですね、この美術館のこと。
一番いいお客さんですよ。
確かにね。
ハンビコンと地域の交流
もう絵本も買ってくれるし、グッズも買ってくれるし。
いいことですよね。
本当にありがたいです。
あと板橋さんで言うと、この話を聞きたいなと思ったのが、
広中さんがやった展覧会、
多分美術館ちょっといい話みたいな展覧会のときに出てた、
ハンビコンっていう謎の言葉が出てきて、
何だろうと思ったら、
皆さんで、
まあ言ったのは飲み会みたいなもの。
飲み会です。
ちょっと説明していただいていいですか、ハンビコン。
ハンビコンって、私も実態はよくわからないんですけれども、
この地域に住んでて、
谷原田さんとかがね、
宇都宮の館長さんやられて、美術評論家だった方で亡くなられましたけど、
谷原田さんなんかが中心になってて、
この辺りに住んでた現代美術を中心としたアーティストの方とか、
なんとなく縁のある人たちが集まっては、
変な民謡酒場みたいなところでですね、
飲み会をやってたんです。
ハンビコンは何の略になるんですか。
板橋美術懇談会。
懇談会か。
板と美と懇談の懇で、ハンビコン。
別に野球をやったりとかしてたらしいんですけど、
私が来た時はもう本当に飲み会ちょっとやるぐらいで、
その後だんだん亡くなってしまっているんですけど、
広い職務調べてましたよね。
それが展示のこんなのがありましたよみたいな。
でもそうやって交流的な、
この周りの人たちとの交流みたいなのも結構あったって言いますよね。
芸術家たちとの。
そうですね。やっぱり中心じゃないっていう。
私これも一つキーワードだなと思ってるんですけど、
住みっこ力っていう言葉を使っておりまして、
板橋美術館が曲がりなりにももう50年近くなりますけど、
生き残ってきてたっていうのは、
やっぱり住みっこにあるからの住みっこ力があるなって思っているんですね。
それはやっぱり、まず大きく見たら、
日本っていうのが世界の中でもアジアの中の住みっこ、東の住みっこにあるし、
東京ですって言ってるけど、東京の中の住みっこじゃないですか。
うーんと言いづらいけど、はい。
板橋区ですって言ったって板橋区の中でも住みっこなんですよ。
全部住みっこなんですよ。
でも今トニーさんも住みっこって言ったら、住みっこですよねとかって肯定しにくいような言葉を選んでいましたけど。
ここ最近は住みっこ暮らしとかね。
アニメとかキャラクターもあるから、そんなに昔ほど悪いイメージないですけどね。
でも住みっこっていうのは、面白いことってどこから起こるか。
終身からじゃないでしょ。
面白いことはやっぱり周辺から起こるんですよ。
で、やっぱり周辺って何なのかって言うと、言ってしまえば管理が行き届かないとかね。
まあまあ自由がある。
自由があって、それでなんかこう面白い新しいことをやりたいみたいな人たちが集まれたりとか、
乗ってきたりとか、なんか勝手に起こしちゃったりとか、そういう余地があるんですよ。
だから板橋の美術館が本当に日本の東京の住みっこ板橋、板橋の住みっこ赤塚、ここにあったっていうのは本当にある意味ラッキーなこと。
ここでやってるから、住みっこで気がつかれないように。
気がつかれないようにいろんなチャレンジができる。
いろんなチャレンジができる。
そういうなんとなくしょうがないなみたいな感じで認めてもらえるっていうのが、ここまで来れた力だなというふうに思います。
だからまさに住みっこ力。
住みっこ力の意義
しかも住みっこにあるってことは期待値も低いわけ。
最初からね。
これが板橋の区役所の隣とかにある立派な美術館だったら、なんかちょっと期待しちゃいますよね。
でも赤塚ちょっと離れてるところにあって、区役所が来るんだって1時間くらいかかるから。
なんかちょっとわかんないっていう。
そうなってくるとなんかちょっと自由。
でもだからテレビに対するYouTubeみたいな、もうそこから面白い企画が生まれてってみたいなのもあるし。
それはすごいあって。
その中で、私たち世界に向かって発信するんだとか言っちゃってるわけですよ。
そこがでもすごいですよね。
求められてなかったんですよ。
お宝店と区民文化祭。
やってればよかった。
やってればよかった。
だけど、いやいや企画展やってズローク作って、日本全国で出すんだ。
で、挙句のあてに、世界に発信するんだとか言っちゃってるわけですよ。
それ勝手に言ってるわけですよね。
だからその一発目が安村さんじゃなかったら、全然違う美術家になってましたね。
そう考えると。
でも安村さん責任取って。
責任取ってカンチャまでやってやめられたんでね。
自由にしていただいて結婚なんですけど。
今ヨロズ美術屋をね。
でもそう言いながらも、私たちの心の支えで、もうありたらあることは相談して。
いつも来てくれるし、相談に乗ってもらってるんですけれども。
でもやっぱりそのスピリッツっていうのは、私ももう数年でここいなくなるので、
次の世代にもちゃんと伝えていかなきゃなと思ってるし、
それを伝えられるような人材が育っているなっていう実感は、ここ数年間すごくあります。
あと僕は松岡さんの功績の一つだなと思うのが、
古澤先生との関係
それこそ古澤祐美さんっていう芸術家との交流をしたおかげで、
ロビーが今ものがあるんですよね。
ちょっとその説明をぜひ。
古澤先生は池袋モンパルーナスの中のお一人ですね。
寺田正明さんとか井上長澤浦夫さんとか立派な先生、画家の先生がいらっしゃって、
池袋で皆さん若い頃暮らされてた方が、
書体を持ったりするとちょっと広いところがいるっていうんで板橋に越してこられて、
板橋の前の町に古澤先生はお家を持たれたんですよ。
すごく素敵なお家で。
古澤先生は絵を描くモチーフで家具なんかもすごく集められて、
スプリンの伝統的な家具なんかたくさん持っておられて、
古澤先生はすごく美術館のことを近しく感じてくださってて、
年中電話がかかってくるんですよ。
美術館にですか?
美術館に電話がかかってきて、
住んでた絵が近かったもんですから、年中先生のところに電話がかかってくると言ってたんですよ。
どういう内容の電話がかかってくるんですか?
例えばですね、年末になると、
お正月用の絵を描いたから取りに行きなさいとかって。
寄贈してくれるってことですか?
色紙みたいなのをいろんな人に配ってて、
それで色紙を描いてくださるんですよ。
美術館用に?
みんなに。みんなに何枚もくださる。
すごい画家なのに。
すごい画家なのに。いろんな人に配ってた。
それで、私が取りに行くの分かってるから。
古澤先生は女性のヌードが得意。
はいはい。
すごいエロチックな絵だった。
でも先生も面白くて、私もまだ若かったんで、
ちょっとあんたにはヌードだと思って、鼻の絵を描いておいたって。
私には鼻の絵をくださる。
他の安村さんとかにはヌード。
ヌードの方がいいなと思ってた。
そんなこととか。
あとは、私が面白くてよく覚えてるのは、
すごい勢いで電話がかかって、
木が伸びちゃったよ。植木屋さん紹介してくれないかなって。
なんでも屋さんみたいな扱いを受けてますけど。
そのくらい親しかったんですよ。
植木屋さんですか?ってちょっと調べて、紹介して。
さっぱりしたとかね。
そういう感じでね。年中やりとりしてた。
ところが先生が亡くなりになって、お家も亡くなった。
テーブルは先生がまだ元気なときだったな。
それもある日突然電話がかかってきて、古澤先生から。
うちのテーブルはあるんだけどね。
テーブルをどかして、そこに布を敷いて、
水木画を描こうと思って、邪魔だから取りに来てって言われて。
もう廃品回収業者みたいなことになってるじゃん。
でも古澤先生から何か言って、分かりましたしかないんで、すぐ行ったんですよ。
そしたらすっごい立派な木のテーブルで。
1人で運べないレベルの。
3人ぐらいだって動かせないぐらいの、1枚のムックの立派なテーブルで、本当にすごい良い作品ですよね。
ムックぐらい立派なものですよね。
あらーと思って。
ちょっとトラック手配してきますって言って、
区役所のトラック借りて持ってきて、美術館のロビーに置いたんですよ。
回収前のロビー。
ずっとそこのロビーにあって、ロビーの主みたいな。
2019年に回収する時に、
区民の方が行えるようなラウンジを作ろうっていう構想になって、
そのラウンジは、私の中では古澤先生のテーブルをメインにしてデザインしようと思って、
それで設計の人に提案したんですよ。
こんな感じのレイアウトにしたいけど。
テーブルを真ん中に。
そしたらそうしましょうってことになった。
そうこうしてたら、今度は先生のお家を壊すことになる。
そこに中にあるものを欲しい人がいたら、あげるからって素晴らしい回があって。
素晴らしい回ですね。
いろいろ書籍だとか、作品なんかもご寄贈いただいたりして。
アトリエの中を見ていたら、カップボード。
小さい棚、低い棚があって。
棚だなと思って。
ドロッドロで、見えないぐらいドロドロだった。
表面が汚れちゃって。
ほこりの上に泥がこみついて。
剥がしてみたら、手彫りの彫刻が素晴らしい。
うわ、いいなと思った。
自分にもらいたかったね。
最初は。
うちの玄関あそこに置いたらいいかもと思って。
そしたら、重いのが大きくて。
いくら私の家が大きくても。
うちには置けないな。
個人宅には。
美術館のラウンジに置こうと思って。
ちょうどいい感じだったので。
ラウンジのテーブルの隣にカップボードを置くというレイアウトを考えて。
持ってきて拭いたら、すっごい綺麗なもので今置いてある。
その上にチラシとか置いてあるところだ。
板橋美術館に来て、皆さん基本的にはすぐ展覧会場に行くかもしれないですけど。
ラウンジにあるテーブルと。
テーブルとカップボードは古澤先生の旧造品で。
それを分かってもらうために、その後イーゼルも脇に置いて、古澤先生の説明をそこにするように。
松岡さんいろんな功績があるけど、あれも功績の一つですよね。
あとのぼりばたも考えた。
そうか、板橋といえば面白のぼりばた。
あれもある時、キャッチフレーズみたいに出したらいいなと思って。
これまでも遠くてごめんねとか、永遠の穴場とか隠れ掛け美術館。
僕ブログで何かそれを紹介してたら、ある時に月曜から夜更かしって番組から連絡が来て、
板橋特集であの画像を使っていいですかって来たぐらいですけど。
あれは第1回は何だったの?
あの時は何だっけな、ちょっと忘れちゃったけど。
美術館のアイディアと取り組み
30周年の時に、最初のアイディアは30周年だから30年間ありがとうみたいなのにのぼりばたを作ったらどうかなと思ったの。
でもそんなことやっても面白くないかな。
ちょっと面白いのをみんなで館内でこぼってのアイディアなんだけど、みんなで出し合ってやってみたらどうかなってことになって、
それで作り始めたら意外に、何だっけな、永遠の穴場じゃない?ちょっと調べないとわからないけど、
タクシーの運転手とかが来て、きゅうり服みたいなのを見たりとか、意外にみなさん喜んでくれたんですよ。
それなんで、じゃあこれ毎年ゴロニアでの時に仮設するお金がつくんで、その時にのぼりばたを毎年作ろうってことにして、
春先からみんなで募集して、選ばれた人は館長がポケットマネーで記念品を渡すっていう制度を私が考えて、
当時館長じゃなかった。
今まさか自分がポケットマネーで。
今自分で自分を表彰するみたいになってますけど、それを始めたら意外に続いちゃって、
千葉市美術館で下橋展をやった時には、
下橋とのコレクションのコラボ展みたいな。
その時にものぼりばたまでコラボしてくれて、過去ののぼりばたどうしてますかって言うから、
1年間ぶら下げるとボロボロになっちゃって、全部捨ててるんですよ。
そしたら再現しますとか言って、再現してくれて。
向こうの学芸員さんも、それを検索したら僕のブログに引っかかったらしくて、参考にさせていただきましたって言われました。
だから今やもうすっかり顔ですよね。板橋栗津美術館。
全部思いつきで適当にやってることなんですけどね。
でも確かにあれもやっぱり中央の美術館にあったらやらない発想。
やっぱ隅っこ力ってそういうことかもしれないですね。
松岡館長の料理への情熱
確かにいろんな話を聞いてきて、最後にこんな話なんですけど、みんなに聞いてるんですけども、趣味とかはありますか?
私ね、最大の趣味がお料理なんですよ。
それは意外って言ったらあれだけど、意外なことはないですけど、そうなんですか?
お料理大好きで、やってると時間を忘れます。
だからかなり忙しくても、本当にかなりちゃんとお料理してます。
何料理が得意とかじゃないですか?
作るのは家庭料理的な日本料理とイタリア料理です。
一番得意料理って言われたら何ですか?
得意って別に得意ではないんですけど、イタリア料理は普通に作ってます。
うちは多分半分ぐらいはイタリア料理ですね。食事が。半分より多いかもしれないけど。
それは昔からなんですか?料理好きは。
料理好きは昔からです。子供の時から好きでした。
例えば板橋さんって、いろんなものがある板橋さんですけど、カフェがないじゃないですか?
カフェはちょっとやったりしたりとかはしてたんですけど、やっぱりお客様の少なさで成立しないんですよ。
この改修の時にもカフェを入れようということで、いろいろ努力して探したりしたんですけど、やっぱり無理。
そうしたらコロナになっちゃったり、ますます難しくなっちゃったり。
やっぱりカフェはここでは無理なんですね。
ここでテイクアウトのものがあれば公園とかで食べられたりするじゃないですか。
松岡館長の弁当とか売ればいいんじゃないですか、その料理。
そうしたら休まないと美術館。
休まないと、そうかそうか。
でも作って持ってきたりはするんですか?差し入れ的なものとか。
いやー、持ってきたこともないわけではないですけど、
館にはあんまり持ってきてないかな。家で人を呼んだりとかは結構しますね。
それは好きなんですね、料理する。
好きです。すごく好きです。
イタリアとか出張とか個人で行くことが多いんですけど、その時も帰りはもう食材ですね。
食材ですねってパンパンに。
スーツケースの中は。
それは絶対これ買うぞって決めていくのか、
それとも珍しいものがあったら買ってとりあえず家で。
普段の買い物と同じで、あそこに行ったらこれとこれとこれを買うみたいな。
あるんですか。
イタリア、行くのはボローニアが多いってことですか?
飛行機を乗る直前に買わないといけないので、だいたいローマで買い物をするんですけど。
何がおすすめですか?
スーツストックみたいなものとか、あとサフランの粉とか、あとチーズとか、
あと今寄生が厳しくてお肉系は一切入れないので、寄生が大丈夫なものですね。
あとはバルサミコ酢とかもちょっとこれだなっていうのがありまして。
そういうものはかなりストックしてあって、
コロナでしばらく外国に行けなかった時期は本当につらかったんですけど、
ストックが減っていくのを毎日見ながらですね、どうしようみたいな。
今回のレオレオ二転では、館長のセレクトショップみたいなのができないんですか?
いやいや、食材はやらないので、ミュージアムグッズっていうかグッズ屋さんはやりますけども、そういうのはないです。
でもやったらいいんじゃないですか?館長が選ぶイタリア食材。
いや今ユーロ高いんで、高くなっちゃうんですよ。
なるほど、やっぱり向こうで買う?
向こうで買っても高いんですけど、やっぱりなかなかね。
これは絶対買った方がいいよ、じゃあ一つお勧めするとしたらなんですか?
イタリアに行って、この食材。
食材っていうのは難しくて、その人がお料理をする人か、
あとそのイタリア料理を食べることに慣れている人かどうかによって全然違うんですよね。
イタリア料理好きな人で。
イタリア料理好きな人だったら、やっぱりイタリア行ったらバルサミコ酢と、
あとはパルメザンチーズ。
それは日本で買うよりとも全然違うんですか?
そうですね、いろいろ何年寝かしたっていう、25年ものだとか、5年ものとかいろいろありますし、
やっぱり鮮度もね、やっぱり切りたては美味しいので、そういうものとか、
あとはグリスイーニっていう細いハリハリしてるやつとかも、
工業製品のグリスイーニじゃなくて、焼いてるところのグリスイーニがすごく美味しいんですよ。
でもそれ持ってくるのが一番大変で、バリバリに割れちゃうんで、
なのでちゃんとエアキャップとかを持って、
箱の中に入れてエアキャップやって、持って帰ってきます。
美味しいグリスイーニ屋さんがある?
それとも向こうに行ったら基本全部美味しいんで。
美味しいグリスイーニ屋さんがあります。ローマンのお店とか。
なんてお店なんですか?
ロシニョーリ。
ロシニョーリで検索するとわかるんですか?
そうです。有名な食材屋ですけどね。
そこに売ってるグリスイーニが?
美味しいですね。
これは貴重な情報。
これはでもちゃんとした趣味ですね。
すごい趣味です。
イタリアから帰ってきた、だいたい午前中に到着する飛行機に乗って帰ってくるんですけど、
その日の夜には買ってきたものを使ってイタリア料理を作るっていう。
この人どこまで好きなんだろうっていう。
向こうでイタリア料理食べてきてるわけですよね。
だから普通はよく聞くのは、帰ってきたら日本食食べたいなとかあるじゃないですか。
よく帰ってきて海外が。
全然なくて。
じゃなくてやっぱりイタリア料理が食べたい。
だって食材買ってきたら新鮮なうちに作った方がいいじゃないですか。
なるほど。
パンとかも買ってくるんですよ。
買ってきたパンすぐ出して、買ってきたチーズすぐ出して。
だから本当にイタリア好きなんですね。
そういうのも含めて。
レオ・レオニー展の告知
国も好きだし料理も好きだし。
最初に行った国ですから、高校生の時に見てやっぱり面白いなと思って。
その後本当にご縁ができて、イタリアの人たちと仕事をするっていう、
ほとんどの方たちが望まないスリリングな日々。
でも向いてたんですね、それがね。
そうですね、向いてたと思います。
いろいろ大変でしたけれども、
私今まで一度も揺らぎられたことないです。
それはイタリア?
イタリア人。仕事をしてて間に合わなかったとかできなかったとか。
困ったことは山のようにあります。
間に合わないんじゃないかとか。
だけど間に合わない、どうしようってなった時に必ず助けてくる。
最終的にはってことなんですね。
そうです。
ゴッドファーザーの世界です、完全に。
だから関係性さえ、絆があればってことなんですね。
でも家族みたいなもんなんですね。
顔と顔でつながっている世界なので、
このことはこの人に頼めばいいっていうのが見えていれば、
スッといくんです。
でもその関係性があるからこそ、最後にお話戻します。
レオ・レオニー展もそこからスタートして、
いろいろとなって、今回また展覧会ということで。
レオ・レオニーさんのご遺族はアメリカに住んでいらっしゃるんですけれども、
おばあさんはイタリア人ですから、イタリアも混じったアメリカの方ですし、
あと他にもイタリアのコレクターの方とか、
イタリアの研究者の人たちとか、すごいみんなに助けられました。
最後にぜひ改めてそのレオ・レオニーの告知をよろしくお願いいたします。
レオ・レオニーと仲間たちということで、
レオ・レオニーさんという人がどういう人だったのか、
それから20世紀をまさに生き抜いた方なんですけれども、
その20世紀の文化の中でどういう立ち位置の方だったのか、
歴史とそれから作品等を見ながら楽しんでいただける展示になっています。
皆さんの好きな絵本原画もたくさんありますし、素敵なグッズもあります。
ぜひ板橋区立美術館でレオ・レオニーの世界を楽しんでください。
お待ちしております。
グッズも早くしないと職員さんたちが買っちゃうかもしれないですからね。
うちの職員みんな買いますね。
職員に割引とかないんで。
みんなと同じ。
みんなと同じ立ち位置で買ってますんで。
会期が2025年1月13日まで行われております。
ぜひ皆様、明日は板橋の隅っこまで来ていただければ。
板橋ね、絵本の町ですから。
絵本の町板橋、よろしくお願いいたします。
さあ、ということで、そろそろ収録終えようと思いますが、収録はいかがだったでしょうか?
いやー、座るとまたじっくりと喋れていいですね。
そうですね。確かに面と向かってこんだけ喋ることなかったので、
いろんなお話、貴重な話をたくさん聞かせていただきました。
あと2回ぐらいやるんですか、これ。
やりますか。
これ終わりですか?
一応終わりなんですが、もう2時間以上喋ってますから。
でもまたいつでも遊びにいらしてください、この番組には。
先輩ですから、お待ちしておりますということで。
ということで、どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
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感想はハッシュタグ、そろそろ美術の話を。
今後聞きたいテーマやゲストは番組ウェブページまでお願いいたします。
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