ピエール・アドの哲学
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回引き続き、ピエール・アドの第2回、やっていきたいと思います。
はい、前回の初回ということで、ピエール・アドさんってどんな人なの?みたいな話とか、
ある種の古代の哲学って、ここにも30年くらい研究をし続けて、それを捉え直しましょう、みたいなことを話すと思うんですよね。
捉え直し、何かっていうと、哲学っていうのは、情報を伝えるとか、提携を作るってことだけじゃなくて、
それも大事な哲学の挑みなんだけれども、目の前の人を育成するとか、生き方っていうものを学ぶ、基準を作っていく。
特に意識されているのは宗教で、宗教も当然こういうふうに世界を捉えるべしとか、こういうふうに生きることがいいよっていうことを当然言ってくれるんだけれども、
やっぱりそれで馴染まないっていう瞬間があるわけですよね。
はいはいはいはい。
うん、っていう時に、生き方を求めようと思うと、それが哲学になっていくんだぜ、みたいな。
むしろそれをやったのがソクラテスだぜ、みたいな話を前回したと思うんですよね。
それがピエール・アドの個人的な体験として、やっぱり母親がめちゃくちゃ宗教、教神的なカトリックの信者だったっていう、ありのっていう感じだったんだね。
そこも踏まえてるだろうって感じだね。
もうちょっと話に入り込んでいくんですけど、前回ととおり、今回ね、生き方としての哲学って本を完全に題材にしていて、
それを分析して支えていくぞとかっていうよりは、
こういうテーマが入っているから、それについていろいろ話しましょうよ、みたいな。
本を土台にして、確かにこういうことも言えるかもっていうのを考えていきましょうよ、みたいな。
そんなふうにお届けしていきたいなと思ってますと。
自己と世界の見方
はい、いう中で、今日持ってきたのが、世界を見るみたいなテーマなんですけど、
どういうことかって言うと、僕らは普通、世の中の中で生きてますよね、というときに、
この世の中の見方とか捉え方とかって、よく話すけど、どこが来てましたっけって話を時々するじゃないですか。
私、愛知県から言わせると、世の中を見ているのか、見させられているのかみたいな、そういうことを時々言ってくれると思うんだけど。
そこ結構重要なテーマですね。
やっぱりそこ、まさに生き方とか、自分の人生を考えるときにめちゃめちゃ大事だし、
あと実学っていうのは、アドさんから言わせると、むしろそれを変えるっていうことに役立つというか、
それをやるための技法なんだよ、ぐらいのことを言ってるんだよね。
世界を見るってどういうことかみたいな話でいくと、もうちょっと言葉を補うとですね、
要は世界の中の自分の立ち位置を知るみたいな話なんですよね。
おー、すごい。
あ、一気に。そこですごいって言ってくれるんだ。
ほら、自分はよく見えないでしょ。自分を知るのが難しいっていう。
っていうときに、自分だけ見せてもダメで、やっぱり世界の中で自分がどこに立っているのか、どう位置づけなのかっていうことを見ていきましょう。
例えば、猫大に目を向けるとピタゴラスみたいな人がいると思うんですよ。ピタゴラスの三辺法の定義とか作ったね。
あー、ピタゴラスイッチのね。
ピタゴラスイッチのピタゴラスでもあるか。
名前だけね。
名前だけね。ですけど、やっぱり彼は数学とか、あるいは音楽とかもそうなんだけど、ハーモニーだよね。
そういうものを大事にして、宇宙ってやっぱり調和をしているんだと。
そういう調和の中に人間の営みとか、そもそも人間と存在を見るよっていうふうな、そういうふうな世界観を捉えると、
大事なのは、いかに宇宙とか世界と人間が調和をするかとか、そのためにどういうことを学ぶか。それが数学とか音楽だったりするんだけど、
そういうふうな発想をやっていくんだよね。
そうなんだ。
つまりピタゴラスとかそういう考え方っていうのが、自分の位置づけとして、宇宙と自分とか人間と調和しているとかするべしみたいな、
そういうやり方をしているから、ある種そのための音楽とか、やっぱ数学が大事だよっていうふうな、そういうふうな位置づけになっていきます。
あるいはさ、スター派とかもいずやと思うんですけど、スター派はむしろ世界っていうのはある種どうにもならんもん。
風が吹くとかっていうときに、その風に止まれって言っても絶対止まんないよねっていうときに、
その風が冷たくて嫌だ、止まってほしいって思うのは、ある種無駄であると。
なので、その風が吹くのはどうしようもないけど、それが冷たくて嫌だってことは抑えられるとか支えられるから、
そっちに目を向けることで、ある種平穏とか安らぎが出てくるよねみたいな。
そういうふうな発想をしていくんだよね。
そうなると、要は立ち入りして、全て調和とかじゃなくって、むしろ調和してないじゃないですか、世界と自分って。
どっちかというと対立というか、なんかコントロールしたいよねっていう。
でもそれはできないから、コントロールできるものだけに集中せよっていう風な発想をやっていくわけなんだよね。
つまりこれも一個の世界の立ち位置とか、自分の起き所なわけだよねっていうときに、
まさにこの何々派みたいなことを、これは後からもちろん見出していくわけなんだけれども、
やっぱり結局は世界をどう見るか、ルール、世界とどう関わるかとか、
どういう立ち位置に自分を置きますかっていうふうな発想で、分かれていくわけなんだよね。
データと感覚の重要性
はいはいはいはい。
こんなに目を向けるとそうなんだけれども、これは面白いのが、
当然、アドさん20世紀の哲学者なので、やっぱり近代のというか、そういった自分と同じ時代の哲学者にもめちゃめちゃ目を向けてるわけなんですよ。
そういう人たちの発想がいっぱい出てくるんだけれども、
例えばメルロ・ポンピーっていう、この人はまたやりたいんだけど、プッサールの現象学ってあったじゃないですか。
それを受け継いで、結構現象学でめちゃめちゃ重要な仕事をした人ってのがメルロ・ポンピーっていう人なんですけど、
この人の言葉を引用しながら言ってるのが面白くて、
世界を解釈する方法っていうのには2つあって、それが計測と感覚であると。
計測からすると地球は動いてるんだけど、規格とか感覚の観点からすると地球は不動だよねっていうふうに言ってるんだよね。
つまり、世界を見るって言ったときに、地球動いてるじゃないですか、地動説で。
どう頑張っても動いてるんだけど、どう頑張っても自分の目からすると地球は動いてないように見えるっていうのも真実だよねと。
言ったときに、これって対立してどっちかがより正しいとかっていうことじゃなくて、あくまで2つの見方があるんだよと。
で、把握者は、地球は動いてないなんて、そんなアホがみたいに言うかもしれないし、
でも子供からしたら、地球動いてるなんて怖いよ、みたいになったりするっていうときに、別にどっちがいいとか悪いじゃないんだぜって話したんだよね。
哲学っていうのは、その両方の見方があるときに、ある種間に立つというか、その中でどういうふうに生きていくんですかね、我々は、私はみたいな。
そういうことを考え続けるのが哲学なんじゃないかっていうふうな発想がこのアドさんの中にあるんですよ。
へー、なるほどね、このPLアドの感覚ね。
そう、アドさんの感覚として。
なんで、なぜかっていうと、要は古代の人はある種地球が動いてるなんて考えてなかったわけだから、
ある種この地球って不動の安定した、地震とかもちろん起こるかもしれないけど、不動の世界において我々はどう生きるかっていうことを考えればよかったわけだよね。
それが世界の捉え方とか見方だったわけなんだけど、20世紀から21世紀に生きてる僕らからしたら、地球は動いていると。
別にそれ自体がそのまま直接僕らの人生に影響を与えるわけではないけれども、これはさっき計測って言ったけど、要はデータだよね。
前回も言ったけど、哲学よりも経済のほうが大事だから経済的なことを学びましょうって。
日経平均が5万円超えたでめちゃめちゃ上がるけど、今5万円また切ったみたいな、そういうふうなことをしたときに、
データに基づいて例えば投資をすべきかどうかとか、今はお金を入れるべきか引き上げるべきかとかって考えるみたいなところももちろんあるよね。
でも、それってある種データの話であって、自分の経済感覚って思ったらやっぱり規範を抑えた話じゃないですか。
果たして本当に日本は豊かになっているのかとかさ、株価は上がってるけれども、我が暮らしは楽にならざりみたいなことがあったときに、
果たしてどっちが経済の正しい姿なんですかみたいなのって、そんな簡単に言えなかったりするじゃない。
うん、そうだね。
っていうときに、要はその片方だけに立つと、やっぱりどっかで歪んじゃいますよね。
日経平均が上がってるから日本って豊かになってるんだってのも違うし。
経済、裁民の裁の報道になってるの?裁民の報道になってるの?
そうそう、本当にそう。一方で、スーパーの野菜とかの価格も上がってるから、経済っていうのはもうどん底でボロクソだっていうのも違う。
実体経済と金融経済の違いとかっていうのはもちろんいろいろあると思うんだけど、
この話をシンプルにすると、要はその目の前で現実だけ見てても間違いは違うねっていうところが、やっぱりもう我々はわかってるわけじゃないですか。
うん、そうだね。
っていうときに、その両方をどう行き来しますかみたいな、そこにある種の世界の見方っていうところのグラデーションがあるよっていう話なんだよね。
はいはいはいはい。
この辺のところでイメージ分かるかな、どうですかね。
まあ、そうはね。だしあと今回の物事の見方だっけ。
うんうん。
なんだっけ。
世界の見方かな。
世界を見る。
うんうん。
っていうのが、そもそも前回話した、古代からやってた生き方と、今回のテーマである生き方の都市の哲学。
うんうん。
その実践する上での具体例みたいな話だよね。
そうそうそう、具体の話。
だからもう一回ちょっと抽象化すると、計測っていう見方はやっぱり、まさにデータなので時間と距離を測りますとかさ、数値化して分析して、より良い基座を得ますみたいなさ。
そういうふうなものは操作の話なんだよね。
うんうんうん。
やっぱ感覚の世界ってそうじゃない。
うん。
やっぱりさ、基本38度まで来た暑いとかっていうときにさ、その暑さって38度って数字にはやっぱり到底狙わし得ないものがあるわけじゃない。
うんうんうん。
ね、うだるような暑さとかいろんなものがあったときに、やっぱりその感覚っていうのはやっぱり当然、僕らが生きれば大事でしょうと。
うんうんうん。
だからそういう意味ではどこまでいっても僕らはこの体とか身体っていうものを通じて生きているっていうときに、やっぱりあとさ、この身体的なものっていうものはやっぱりどうしても大事だよねと。
うんうんうん。
それは当たり前に言うかもしれないけれども、いわゆる近代哲学っていうのが、やっぱりその体とか自分がどう感じるかってことを捨てて、絶対値っていうのがむしろあるんだとかさ、理性っていうもので全部いけるんだとか、そういう風になっちゃってたわけだよね。
そうね、はいはい。
うん。ある種哲学の世界からすると、そういう身体的なものとか、そういうまさに自分が感じる世界っていうものをどう取り戻すかみたいな、そういうところがやっぱりテーマになってくるっていうような話なんだよね。
哲学のアプローチと感覚
あー、なるほどらしい。今面白いなと思ったのが、たぶんこの悩みだとして、もしくはこのテーマの出発点が、たぶん哲学者だったりとか頭いい人と自分みたいなさ、何も考えずに生きてるやつの出発点逆な気がした。
はいはいはい。
今回はさ、やっぱりいわゆる、今回で言う計測だよね。計測する側とか、真実、万物は何かっていう、ちょっと頭でっかちに見えるような方。自分の感覚から外れてる方。そっちじゃなくて、自分の感覚。
そうだね。
大事にしなさいよっていう感じだけど、うち、自分からすると逆なんだよね。
あー、なるほどね。
うん。あの、感覚でしか生きてないから、ちょっと頭使えというか、全体視点じゃないけどね。その計測側を、もう大事だよ、みたいな。
はいはいはい。
そこが重要だって、ちゃんと知らないとダメだなーみたいなとこだから。
そっか、そっか。
そこはね、その中間が大事っていう着地点は一緒なんだけど、どっち側から来てるかは結構人によって違うなっていう面白さがあるなと思った。
あー、そうだね。本当にそれは大事で、やっぱりこの、今までもアドさんの今回のお話し方でいうと、やっぱり元々哲学っていうのは、近代以降哲学っていうのはやっぱり体系とか理性とかにある程度行き過ぎてましたよねと。
でも、個材を見たら、実はそういう身体とか大事でしたよねっていうふうに、それを取り戻すって話だから、やっぱり言ってくれたように計測側から始まってるんだよね。
そうだよね。スタート地点、今回。
そうそう、スタート地点が。
そこのスタート地点が、どっちを主人公から始めてるか、今回行き方っていうのがすごいみんなにとって身近で大事なテーマだと思うんだけど、
今回の主人公が、いわゆる万物を、真実を知る側の方が主人公だから、そこをそうすると、自分も含めて一定層にとっては、意外と自分ごとに感じられないかもなっていう。
はいはいはい。そうだねそうだね。
意味で面白いなと思った。
観測と感覚の重要性
うんうんうん。でもそこが本当に大事だと思うし、逆に言うと、やっぱり身体が大事だって当たり前じゃんとかいう方がむしろ、やっぱり不安的だと思うんだよね。
うん。で、それは前回と通りで、プラトンがイデアとかさ、死への修練の手伝いとかって言うときに、同時代の人が、「いやあいつ何言ってんだよ。そんな死が大事とかって、なんか頭おかしいんじゃねえの?」みてきなさ。
そうそうそうそう。
やっぱ言ってる感覚って、たぶんずっとそうなんだよね。
だからそうすると、これは面白いなと思ったのが、今回アドの話ってめちゃくちゃ、その辺を全部ちゃんと俯瞰して見てる面白さがあるなと思ったんだけど。
はいはいはい。
生き方とかもしくは、もうちょっと広い人々がどう生きていくかみたいなところも、そこを俯瞰で見たときのプラトンとか、あとその真実を見つける系の哲学って、
たとえばそれやる人ってたぶん人口の1%とかじゃん?たぶん。
まあそうだね。
でも少ないと思う。
だからこの人々とか世の中に足りないのは、感覚の方?それともデータ観測の方?みたいに言うと、観測側が圧倒的に足りてないからそっちを、ちょっと啓蒙主義っぽくなっちゃうけど、
そっちこそが大事。そっちを作って広げることで、そのバランスがいいとこに保たれるというか着地するよねみたいな。
なるほどね。確かにね。
そういう人々の感覚とは抜きにしたマクロからの視点で言うと、そういう現象というか、そういうニーズというか需要があった上で世の中が回ってきたんじゃないかっていう意味での面白さみたいなのがちょっと今見えてきた。
で、それが時代が20世紀になって、今のピエール・アドが生きてる時代は、その辺があらゆる程度理論できる時代になってきたから、そのバランスってどこに着地点を置くのはいいんだろうねみたいなとこをやっと考えて抜き出して受け入れられる下地が整ったんじゃないかみたいな面白さを今感じた。
なるほどね。でもそれは実際だろうね。やっぱり前回ドイツカネロンで言った時みたいに、やっぱり自由みたいなものがあった時に、自由ってなんだとか、自由を実現するとは一体どういうことなんだみたいな。
っていう風な感覚があった時に、やっぱり自由とはこういうものだとかさ、人間の自由とはこういうところに基盤があるとかってことを言ってくれる人は、たぶんすごい重宝されてるはずなんだよね。
そうだよね。
やっぱりそれがあるいは行き過ぎたというか、むしろそれだけになった時にギャップが大きすぎるとか、そもそもそんなこと言うてもねみたいな、それって僕らの役に立つんでしたっけっていうところに、やっぱりすごく薄皮一枚減らしてやっぱり行っちゃうみたいな。
確かにね、当時のフランスだよね、ヘイデリーさん、革命後のフランスも、実は結構、都会以外のというか、外周辺の方だと、なんなら王様の方が良かったみたいなさ、感覚で言う人が全然いたから、
だから普通に選挙したら、革命派が落ちたみたいなさ。また王政が復活しちゃったみたいなさ。これはコテンラジオで聞いた話だけどさ。
実際そうそうそう。前回もちょっと言ったんだけど、実際アドさんの本の中でも書いてるんだけど、哲学者っていう人に対して、哲学者じゃない人を呆れさせたりとか、憎まれさせたり、笑わせたりするものなのだ、みたいな。
それって小さいからずっとそうなんだよ、みたいなことを言ってるんだよね。
へー、そうなんだね。
まさにあやきが言ってくれた通りで、普通の人は別に、僕も普通の人だけれども、やっぱり身近なものから始まって、大きいものに発想を広げていく。
で、その大きいものを学ぶために哲学とか、科学とか、そういう的なものを、ある種、ちょっと普遍的なものを学んだりするんだけども、
やっぱり哲学者っていうのは、そもそも普遍的なものから始まってるよねっていうところの違い。
そうね。自分の感覚がそっちに行っちゃった人たちの話だもんね。
だからどこかでそっちに切り替わっちゃった人って話だね。
突き詰めた人の話だもんね。
そうそうそう。っていう中の文脈で今回話してますっていうのはすごい大事だね。
ごめん、ちょっとずれちゃったけど。
全然全然。ずれてない。本当に多分そこが大事で。
やっぱりその、哲学とは、みたいなことを言うときに、やっぱりその、再発見なんだよね。
やっぱりその、要は、前回さ、アドさんの言葉、アドさんが参考にした言葉として、大海原にいる感覚って言ってたと思うんですけど、
要は人としての自分が海にいるんじゃなくて、自分が大きな海の波の一つであるっていうふうに感じた感覚、みたいなことを言ったときに、
まさにそれが、ある種哲学者の人たちからすると、あるいはそういう大きいところから考え始めたところからすると、
その抽象的なとか普遍的なことだけじゃなくて、やっぱり自分っていうのは確かにあるんだと。
確かにあるんだけど、でもそれはちゃんと普遍的なものと繋がってるんだっていうふうな感覚。
ちょっとある種の神秘体系っぽいんだけど、それをちゃんと見出すこともまた哲学だよっていうふうな話はやっぱりそこに繋がると思うんだよね。
マルクス・アウレリウスの哲学
はいはい、そのバランスでもね。
そうそうそう。やっぱり決して自分は海全体を見てる観測者っていうわけじゃなくて、ちゃんと世界の中に自分の居場所もあるよねっていう話だよね。
で、結構これ面白いんだけど、以前やった哲学者で、これもストア派かな?のときに、マルクス・アウレリウス・アントニヌスさんっていたの覚えてます?
自勢力の人。
そう、あったあった自勢力の人。
おー。
今10点ですね、今ね。
僕らはストア派で皇帝だったんだけど、ストア派の有名人として今でも残ってますよっていう話なんだけども、
まさに自勢力っていうものが今でも僕らの手持ちで読めて、その哲学的な思想をすごい含んでるいい本だってなってるんだけど、
加藤さんがこれ、なるほどなって思ったんだけども、この本ってなんで成り立ったの?なんでこの本が生まれたの?とかって言ったときに、
でもこれっていうのは、ある種マルクス・アウレリウス、長いな、マルクス皇帝が自分の考えを書きつけて、それを民心に伝えようとしたとか、広めようとしたっていうものじゃなくて、
単純に自分がそのストア派の教えを忘れないためとか、それに基づいて生きるその基準を作る、ちゃんと残しておくために書いたものなんだよっていうふうに加藤さんは言ってるんだよね。
だからこそ自勢力、自分を変えみるためのログっていうのはまさにそういうことで。
つまり生き抜く中でその基準を超えちゃう?前回も言ったと思うんだけど、今回も言ったんだけど、ストア派ってコントロールできるものだけに集中しましょうって言ってるけど、皇帝なんてコントロールできないものだらけなんだよね。
当時の権力があったとて、独裁政治みたいな感じではないからさ。という意味でいろんなコントロールできないことが起こりまくります。
でも自分が書いたこの自勢力、それも後世の名前なんだけども、自分はこれは大事にしていたよなとか、こういう原理原則で自分は生きるべきなんだっていうことに立ち返るっていう、そのために書かれた本というかメモというか、そういうふうに言ってるんですよと。
これもあくまでも普遍的な、誰にでも通用するストア派の物事を書いたんじゃなくて、あくまでも自分のために書いたものっていう意味では個人的とか身体的なものなんだよね。
という意味で、まさに古代に目を向けたときに、そういうふうな身体的なとか個人的な哲学っていうものは全然あり得る。というところを河沢さんは読み込んでいくんだよね。
逆に言うと、哲学とは体系的なものだとか、普遍的で誰にでも共通するものを書くことが哲学なんだとかっていうふうに言っちゃうと、やっぱりこの自勢力の読みをある種見誤るというか、大事なものが見えなくなる。
はいはい。だから哲学じゃなくてただのエッセイじゃんで打ち捨てられる可能性があるんだね。
例えばそうそうそういうふうにも言われるし、逆に何かそこに統一的なものがあるはずだとか、これは実はこういうことをすごく普遍的に言っていて、これは万人に値するのとかって言っちゃうと、それって全然違うねっていうふうになっちゃうんだけど、
おそらく100年前の当時の哲学的な考え方で言うと、そういうふうな見誤りが起きてたんだと思うんだよね。ラドスさんもそれをちゃんと指摘して、いやそうじゃないんだよと。これはあくまでもマルクス皇帝個人にとっての哲学であって、生き方であって、それで全然いいんだよっていう話。
っていうことをあえて言わなきゃいけなかったっていうような感じなんだよね。
なるほど。はいはいはいはい。
みたいなところでいくと、まさにこれが世界の見方っていうところだと思うんだけど、計測か感覚かみたいな話をしたときに、僕らは感覚的にまず生きて、計測が大事だって思いますよね。
で、哲学者は計測とか抽象のほうが大事で、そこに対してラドスさんはいやいや感覚も大事だよねみたいな。さっき言ったメルロポンティとかも、まさにそういう知覚とか身体とか体っていうものはめちゃめちゃ大事にした人なんだけど、それと切り離された哲学っていかがなものかねみたいな。
そういうところはすごくこの100年ぐらい議論されてるんですよっていう感じなんだよね。
はいはい、なるほど。
やっぱりこれってすごく難しい問題が含まれてて、さっき兄貴も言ってくれたんだけれども、ともに僕らって物事を知ると白くなるとか、よりよく生きられるようになるみたいな、そういう世界観を、それが当たり前じゃないですか。
たぶん当たり前だよね。さっきの基準、だから基準作ってほしいと思うじゃなくて、基準作ってほしいとか、すでに世の中に基準があるっていう前提で生まれてる。そういう団子として生まれてる。
これ前回の話だね。
団子からあんこ団子へ
前回です。団子とは白いものであるとか、団子とは醤油とかあんことかは塗られて完成するものであるとかって言ったときに、やっぱりね、すると、あんこが乗ってない団子は未完成だ。だから我々はあんこを乗せればならぬみたいな、そういうところが一気に言っちゃうんだよね。
そうだよね。パンとかのことは考えずに、どういうふうに生まれたか、どういうふうにできてるかっていう話で言うと、そっち側で。
そうだよね。
ちょっと恥ずかしいみたいな。
そうそう。まだ足りないみたいな。僕らで言うと、世界を知るとは知識を身につけることである。その知識というのは、正しい教科書に書かれてあって、それをテストで正しく回答することが知識を扱うことであるみたいな。
あとは人付き合いだったりとか、いろんな手段の中での振る舞いだったりとかね。
生きるための知識とか、いわゆる勉強するための知識っていうものがすでにあって、それを取り込むことが学ぶことであるみたいな。話になっちゃうと、まさに白い団子からあんこ団子へっていうだけの世界になっちゃうよね。
でもそうはね、確かに確かに。小さい頃からたぶん周りで、何が言いたい?って言われたときに、私あんこ団子、私は見たらしいみたいな感じで、パンとかシチューとかっていうやつはいないみたいなね。
そうそうそう。絶対いないみたいな。
そういうふうになってて本当に同じなんだよね。
はいはいはい。
もっと言うと、やっぱり僕らが世界を見るっていうときに、やっぱり何か既存の知識とか、こういうものがあって、それをある種通じて説明することが、やっぱり世界を正しく捉えることなんだっていうふうになっちゃいます。
教科書とかもそうだし、データとかもそうだし、理論とかもそうだし。
そうするとやっぱり、その見方以外の世界捉え方とか変わり方がなくなっちゃうんだよね。
芸術と驚きの関係
いやー難しいね。さっき団子で完結してたけれども、やっぱり世の中のトレンドが変わって、「いやいや、俺たちはもう団子じゃダメなんだ。やっぱパンダ、これからは。」みたいな。
はい。
そこにもある意味、みんながそこに飛びついちゃうというかね、「それはそれで。」みたいなこともあるじゃん。
それも同じだよね。実は、自分はあんこ団子になりたい、醤油みたらしになりたいって言ってたのと、そこから飛び出してるつもりなんだけど、パンになったりとかね。
うん。
実は何も変わってないよみたいな。
いや本当にそう。
だよね。
本当にそう。だから、パンというものが与えられて、新しい基準ができて、それを目指すのが良いっていう根底にある世界の捉え方は変わってない。
そうだよね。
そう。自分の生き方は変わってないという感じだよね。
そうそうそうそう。
うん。
それが非常に難しくって、団子じゃなくてパンになるって言い方変わったように見えるじゃん。
見えるよね。
そう、見えちゃう。もっと言うと人間はどうなんだろうな。
例えば彼に、さっきの話で言った、勉強っていうのは知識を身につくことだけじゃなくて、自分で生み出すことだって言って、じゃあ俺は学校を辞めて、自分で何かやるぜとかって言うときに、もちろんそれは素晴らしいことになり得るんだけど、
うん。
でもそれも結局、例えばもっと良いところで言うと、何者かに並んでばならぬみたいなことの時間が抜け出せないよねとかっていう風に、常にどこかの所に絡めとられてしまう。
もっと言うと世界との関わりっていうことに対して、やっぱりスタンス自体は変わってないっていう風になっちゃうんだよね。
そうだよね。
うん。だからやっぱり、ある種一個の見方で生きていくっていうのは、多分それが当たり前なんだけれども、そこに自覚して初めてその不自由さを知るというか、自分の生き方ってこんなに縛られていたのか。
要はデータとか知識って、世界を見てたけれども、それこそさ、岡本太郎とか僕結構好きなんだけど、いわゆる画家ですよね。太陽の塔を作ったりとかした人なんだけど、
それはやっぱり芸術ってものを見たときに下手なほどいいんだと。要は何か上手いものを見てこれは上手いとか、この解説を見て絵を理解するってやっぱり芸術ではなくって、下手なものでもそれを聞くとかそれを見るとかで思ったことをとにかく知ったるとかも含めて、
むしろそれが芸術なんだみたいな話をしたときに、そうやって言えばまさに知識としてあるこれはいい絵だぞとか、これは優れた芸術家の作品であるとかっていうことから入るんじゃなくて、
うわ、この絵めちゃめちゃ下手だなとか、こんなの俺でも描けるぜっていうところにむしろ関わり方としてのまさに自分のざらしい芸術の関わり方があるっていうことを、やっぱり岡本太郎はめちゃめちゃ自覚してたはずなんだよね。
それと多分今の世界って分かり方ってすごい一緒の話なんだろうなって思う。
確かに確かに。同じというか、芸術の分野も面白いもんね。純粋にそれをやるのと、ちゃんと名声を得ていくっていうゲームみたいな部分もあるから、そこをどう両立するかっていう面白いゲームだもんね、もはや。
すごいゲームだし、その芸術家になるんだったらやっぱりそこで乗らなきゃいけないというか、それで生きていくっていうことが関わるけれども、芸術を変わるとか生き方を変わるときに、そこって本来もっと自由なはずなんだよね。
なるほど、そこまで戻ったときね。
そうそう、そこまで戻ったときから。もっと言うと、世界にどう関わるか、世界をどう見るかっていったときに、僕らはどう頑張っても何らかの見方とか関わり方に囚われている、絶対に。それがないと生きていけないからね。
データと感覚の融合
ただそこに対して、実は違うスタンスもあるよっていうときに、これは実際にアドさんの本の中とかでもあるんだけれども、要は世界にある、世界に存在しているっていうことに対して驚くこととか、その驚きっていうものが生まれたときに、まさにその違う関わり方が見えてくるんだみたいな話をしてるんだよね。
へー、そうなんだ。はいはいはい。
つまり、これってよく俳句とか日本の詫び詫び的なところで言われると思うんだけど、目の前の紅葉があってその一枚が赤くなったっていうときに、その赤さっていうものを本当の意味で赤いと知るみたいなさ。
とか、その季節の移り変わりっていうものに驚く。要は、こんな風に世界っていうのも動いているんだっていうことを理解するみたいな感覚って、まさにただ、四季は移り変わりますとか、木は緑から赤になりますっていう知識じゃなくて、本当に世界とか木の色移りって起きてるんだっていうことに驚くみたいな瞬間っていうのが多分あって。
それが、例えば身体的に世界と関わるとか、それを自分のものとして捉えるってことになるはずなんだよね。
なるほどなるほど。確かにその感覚は今日その途中で話した、いわゆる観測側と、あとその自分の感覚側で言ったとき、ちょっとまた違う軸だよね。
うんうんうんうん。
それはまた別の。
そうだね。
なんだか感覚側ではあるんだけど、
あーはいはい。
違う、感覚側には見えるんだけど、
うん。
でもちょっと違う。
なるほどね。
違うパラメーターだと思うよね。感覚側にいてもそれできるできない。まさに今ハエと言ったことじゃん。
うんうん。
赤、赤だよねーみたいなのとかさ、紅葉綺麗だよねーって言ってるのと、
うん。
うわ、山吹きのやばって思う。
うんうんうん。
自分のその感動とか驚きって違うじゃん。
違う違う。
同じ感覚側に見えるけれども、だったりとか、あとその観測側にしても、ただやっぱなんだろうな、データをただお勉強していきますとか、
うんうんうん。
やっぱその、前回のテーマで言うヘイゲルやったけども、
はいはい。
たぶんヘイゲルが最初にその絶対知的な感覚を閃いたとき、たぶんめっちゃ驚いたじゃん。
うんうんうん。
驚いただろうねって話したと思うんだけど、
うん。
その閃きと、ヘイゲルを読んでめちゃくちゃすげーって思うのってたぶん違うと思うんだよね。
はいはいはい。
うん。
本当に今のは本当に大事で、えっと僕は今その一番上の葉っぱの赤って言ったときには、身体的なほうがいいみたいな伝え方しちゃったかもしれないんだけれども、
うん。
で、そうじゃなくて、あれだけ言ってくれた通り、その身体的なことであれ、計測とかデータ的なことであれ、驚くことってあるじゃないですか。
うん。
これもうちょっと言葉を補うと、要は、世界を初めて見たもののように見るみたいな。
うんうんうん。
そんな言葉もあって。
うんうんうん。
そう、つまりまさにその驚、なんだろうな、危険だよね。
あって本当にこんな風に色づくんだもそうだし、あるいは同じ紅葉でも、日本と外国で例えば全然違うと思ったのに、この紅葉の色っていうのは同じなんだってことに気づくとかって、それってデータ側じゃない?
うん。
でもそれも、実は日本と海外の繋がりってのは実はそこにあるんだってことに気づくとかっていうのも、ある種その世界を初めて見るとか発見なはずなんだよね。
うんうんうん。
つまりそのデータ側と観測側、どっちが良い悪いの話じゃなくって、人間にはその両方の見方があって、それぞれを通した時に初めて見えてくる世界があるよね、とか。
うん。
逆に言うとそれをスイッチしないと、結局は世界っていうのは同じようなものとして現れ続けてしまう。
うん。
団子には団子の世界しか見えないし、それにパンっていうものを入れたとしても、それはパンの世界だとだけで別にスイッチされてない。
うん、そうだねそうだね。あー面白い。だから、変に身体的と計測的みたいな感じになっちゃったけど、実はさっきハヤトが言った色の話だよね、モミチの話で言うと、
うんうんうん。
身体的ではあるんだけれども、身体的に、なんだけどデータ的に見ちゃってるみたいな、観測的に見ちゃってるパターンが結構あるよね。
はいはいはいはい。
赤を赤として処理している。
あるね、あるある。
あの絵は、いい絵なんだとデータとして見ている。
処理している。あるある。
全然ある。
そうじゃないよっていう、同じ見るでも、ちゃんとそこを本当に身体的に見るってどういうこと?モミチの赤に感動するとか、あの絵のあそこに感動するとか、嫌だと思うとか。
それから同じ身体的とか、観測側。だから前半で言ってたそこと、その二元論というか、そことまた違う感覚なんだなっていうのが見えてきたよね。
なるほどね、そっかそっか。それがさっき兄貴言ってたパラメーターって話だよね。
そうそうそうそう。
確かにそこまでもうちょっと言葉にしてみると、おっしゃる通りで、その、計測か感覚かみたいな話っていうのはもちろんあるスタンスとしてなんだけれども、
その根幹にあるのは多分、なんていうのかな、うーんと、なんて言ったらいいんだ、これ言葉にするとすごく難しいんだけど、
やっぱりこう、さっき言った処理だよね、その情報としてやっぱ処理をしてしまうとか、なんだろうな、ある種、自分の体を通さずにやっぱりわかった気になってしまうっていうたぶん話があって、
モミジの赤でもいいし、例えば気温が40度超えましたみたいな話もいいと思うんだけど、
40っていう数値だけを取るんじゃなくて、そうなったら本当に暮らしが大変になるだろうなとか、
例えばそういう、いやもっと今42度とかにもし上がったら世の中どうなるんだろうとかっていうふうにある種入り込んでいくとしたら、
それはたぶん40ってデータに対して、ある種この驚きだったりとか、初めての世界の見方みたいなものにつながっていくみたいなことってあると思うんだよね。
自己と世界の関係性
そういう、なんだろうな、データであれ身体的な感覚的なものであれ、ちゃんと自分をコースというか、
そこから世界っていうのをもう一回生み出そうとするっていうのは言葉として正しいかわからないんだけれども、そういう関わり方っていうのが本来あるよねと。
逆にそれっていうのが、本来の古代芸術家たちがやろうとしたこと。
さっきそのスター・ハットワークのピタゴラさんの話をしたんだけれども、そこまで体系化いって、
体系化って技法化されちゃって、コントロールできるものだけに集中せよとか、世界というのは調和してるから調和っていうものを大事にすべしとかってなっちゃうと、
それが新たな基準になっちゃうから、それもデータ化しちゃうんだよね。
そうね。
そうじゃなくて、マルクス皇帝があったみたいに、コントロールするはず、したいけどできないとか、
するためにこういうふうに言葉をかきつけておこうとか、そういうふうにまさに生きていくとか、これじゃダメだったからまた新しい言葉を出そうとかっていうふうに、まさに新しく生きていく感覚。
そういうところに、たぶんこのアドさんが哲学の源流というか、世界の見方、捉え方っていうものがそこに現れてるっていうようなことを読み込んだんじゃないかなっていうふうに思うんだよね。
はいはいはい。そのスタンスこそが哲学のもう一つの一面だよねと。
そうそうそうそう。単純に体系を作ってデータとか観測っていうものを正確にするとか、逆に自分の感覚っていうものだけを頼りにして何かを貫いていくってことじゃないっていう、むしろその根底にある関わり方とか生き方とか、まさに生き方になっちゃうよね、やっぱりこれは。
そうだね。そうしてみると面白いね。ピエロアド的に、さっき言ったけどヘイゲルのひらめきって観測的じゃないと思うんだよね、今回で言う。
そうだね。
たまたま領域が哲学っていう領域なんだけど、そうしてみるとピエロアド的にはどう見えてたんだろうね、その哲学界隈と。
それでいくと、たぶんヘイゲルであったりカントであったりとか、カントのことも増えたりするんだけれども、やっぱりその哲学者として、ある種その生き方に向き合ってるよねみたいな話をしてはいるんだよね。
ただそれを体系として、要はデータとして処理してしまう、学んでしまうと、それっていうのは哲学のもう一方の理性とか体系化されたものだけになっちゃうよねっていうふうな感じで捉えてるんだよね。
実際にカント自身は書いているんだけれども、つまりヘイゲルことは直接は書いてないんだけれども、面白いのが、哲学って言ったときに、哲学ってさっき言った自制力の話も、それをただある種の約束ごととかにしてしまうと、力を失ってしまうんだと。
つまり、ただの言述とか言論になってしまって、ただやっぱりお題に向けば成り下がってしまう。そうじゃなくて、常にその力を取り戻すために新しい言葉を書き連ねるとか、そこに向き合うってことはやっぱ必要だよねっていうふうな話をしているんだよね。
例えば、このショーペンハワーという哲学者がいて、それも引用してるんだけれども、ショーペンハワー自体が大学の哲学を批判してっていう雑誌を出してるらしくて。つまり、哲学ってのは、哲学教室の中では行われないんだみたいなことを書いたりしますと。
そうなの?
うん。いうときに、それはいわゆる体系だったとか、程度としては哲学はもちろん学べるんだけど、やっぱりこの生きる哲学っていうのは、当然教室の中では行われませんというときに。
エーゲルがやったことは、生きる哲学。彼らの中での、どうしてもフィフテとかシェリングに学んだけど何か足りないとか、もっといいやり方があるはずだっていうことの世界の捉え方として、自分の考えをそこに落とし込んだっていう意味では絶対にそれは生きるほうの哲学のはずなんだよね。
でもそれを学びましょうとか、その体系だっていうことが素晴らしいっていうのが、データ化されてしまった哲学っていうふうに、やっぱりすぐにそっちに移り変わってしまうっていうことも、あとは見てる。
あー、なるほど。
うん。だから、エーゲルがやった哲学と、エーゲルが学ぶ哲学って分けなきゃいけないって感じなんだよね。
うわー、これ、でもあれだね、ピエラードは結構難しいというか、ことを言ってるけれども、でもすごく大切だと思うんだけど、
うんうんうん。
ハヤトがさっき言ったじゃん、赤を見るのとモミジの赤を見るのが違うと。
はいはいはい。
だから、エーゲルを見るのと、エーゲルに驚くのは違うぞっていう話だよね。
いや、本当にそういうことだね。
本当にそういうことだし、でもそれってすごくやっぱり難しい。難しいっていうのは、判断も難しいし、どうやったら驚けるのかっていうのは分からないよね。
そこを教えてほしいよね。
教えてほしい。さっきの僕がエーゲルを読んで驚けないからね。やっぱりエーゲルのようには生きてないから。
でもある種それはなんだろうな、全てのものを驚く必要は多分なくて、やっぱり自分の生きてる中で絶対になんかこれは大事だなとか、
ウェルビーイングの探求
なんかここには自分の新しい扉が開きそうだな、むしろそういう扉っていうのはどこかにあるんだよって思ってることが多分大事。
うんうんうん。
で、それによって自分の生き方をアップデートしていく。で、なぜアップデートする必要があるかっていうと、やっぱりこれちょっとまた次回ちゃんと話していくんだけれども、
結局幸福の話につながるんだとは思うんですよね。
はいはいはいはい。
やっぱり誰かに与えられた規則とかなんだろうな、無意識のうちになんか従わされてた感覚に後立ったときに、
これ時々僕言うと思うんですけど、やっぱり死ぬ直前に一番後悔することって、もっと自分らしく生きればよかったっていうことだみたいな話を時々言うと思うんですよ。
うん。これ多分アメリカとかの話としてはあって、それはそう自分残ってるんだけれども、
どこかでやっぱりその基準を受け取るにしても自分がそれを選ぶだとか、その基準で生きることを良しとしたみたいな瞬間って絶対大事だと思ってるんだよね。
そうね。
うんうん。別に自分で作ったもんやけどその基準を。でもそれって多分番人には難しいから。
そうね。
そういうときに、もっと僕の話でいくと、例えば結婚しましょうとかっていうときに、結婚したから幸せですねって言うのはすごく嫌なのね。
うんうんうん。
世の中に不幸な結婚なんていっぱいあるし、別に結婚自体に何かその善も悪もないと思ってるから、
でも自分がパートナーとなる人と出会えて、その人と共同生活をしていることを幸せにしたいという気持ちがあって、
それは自分で選んだんだっていうふうにどっかで思ってるよね。
うんうんうん。
っていうところの意味で言うと、やっぱり自分が何かこの人生を選んでいるのか、そこになんと自分として生きるっていうものを織り込んでいるのかみたいな感覚。
うんうんうん。
そういうことはやっぱり大事だろうとしたときに、ちょっと長くなっちゃったんだけど、まさに世界との関わり方を変えるとか、すごい哲学が役立つっていうふうに思ってるって感じなんだよね。
なるほどね。
ああ、はいはい。そっかそっか。でもね、今の話はめちゃくちゃ面白いと思う。
やっぱり自分で選んでいく。一個一個の選択を自分で判断しているっていう気持ちというかね。
うんうんうん。
だからその一般化しないことだよね。結婚イコール幸せって一般化せずに自分はこうだって思うことを選ぶこと、あと感じることの大切さみたいな話だと思うんだけど。
ただちょっとね、さっきハヤトが最初に言った、受け入れるに自分は驚けないって言ったところ、ここにちょっと一点反論させてもらおうかなって。
なんだろう、はい。
今回の話から自分が思ったのは、そのハヤトがさっき言った、受け入れるは自分は驚けないっていうのはおかしなことなんだよ。
それこそ多分この観測とか、経験じゃなくて観測側にはまったやつの末路だなみたいな。
末路の発言だなと思ったわけ、感覚だなと思ったわけ。
YouTubeのタイトルみたいだね。
なるほどね。
だいぶ煽ってるね。
煽ってる、はいはいはい、なるほどね。
なぜかっていうと、今日ハヤトが自分で言ってたんだけど、岡本太郎はどんな下手な、下手こそいいと。下手な人のを見て感じることがいいと。
これの逆バージョンだと思ってて、ハヤト自分で言ったのになんでって思ったんだけど、
ヘイゲルみたいなめっちゃ権威のある、だから絵で言うとめちゃくちゃピカソがあれか、
例えばゴッホみたいな権威のある人だとするじゃん、ヘイゲルみたいな人ね。
それを見て自分はこの人の絵をわかりきらないって言ってると同じなわけだよ。
なるほどね。
それを見て自分は驚けないって言ってるのはね。
そういうことじゃなくて、今回の話から言うと、たぶんヘイゲルを見た時に自由に自分なりに驚けたりとか、
自由に自分なりに感動するところが一つでもあれば、それは意味があるんじゃないかと、自分にとって。
はいはいはい。
自分が世界を見る、だから自分がゴッホを見る、自分がヘイゲルを見たと言っていいんじゃない?
だから、ハヤトは哲学的にヘイゲルを理解するとかっていう意味では、
イスペクトを持って驚けないっていう表現をしたのかもしれないけれども、
今回のテーマ、生き方の哲学とか、世界を見るっていう話から言うと、
自分はヘイゲルを驚けないっすっていうのは、もう愚かの極みと言っていいと思う。どう?
はいはいはい。言わんとすることは関しては、ぐうの音も出ませんみたいな感じではございますよ。
だいぶ反論したっていうね。
確かに失礼しました。ちょっと大詫びの上、訂正させていただきたいんですけれども。
ヘイゲルに驚けないっていうのは、今自分、それも言い訳になるんだけれども、
今自分のヘイゲルを学ぶスタンスでいくと、やっぱりまさに情報処理したいんだよね。
やっぱりヘイゲルを理解したいとか、ヘイゲルが何言ってるのかわからんみたいなところから始まっているから、
やっぱりそれを知らないことには驚けないっていうふうな、確かにスイッチで話だと思いますと。
そうだよね。観測側というか、万物は何だゲーム側のスタンスからいくとそうだって話だよね。
でも一方で言うと、こんなわけわかんないこと書いてるやついんの?みたいなこととか、
なんでこの人がこんな世の中で近代哲学の完成者とか言われて持ち上げられてんの?みたいな、そういう驚きはあるんだよね。
どうなってんの?世界みたいな。この人のこと理解して、こんなにすごいすごいって言ってる人がいるの?みたいな世の中に。
っていう意味での驚きは確かにあるから、やっぱりどこのスイッチを今押してますか?みたいな話とか、
どのスタンスで向き合ってますか?で確かにさっき言った、自分はヘイゲルを理解できないっていうのは、
その情報側とか、自分の生きるスタンスを狭めた話だったなって思うから、言われた瞬間に、なるほどなって思ったけど、むずいよそれ。むずいね。
いや、それで言うと、どっちがいい悪いじゃなくて、多分、ハヤトの価値観だったり、ハヤトのウェルビーイングだったり、
ハヤトの驚きポイント、喜びポイントみたいなところが、たぶん、バンブザナンダゲーム的な話で、
ヘイゲルをきちんと理解するっていうところに、きちんとカタルシスを感じるみたいなところがあるから、そこは繋がってんだ。
ハヤトの良い生き方とか、ハヤトの幸せに、その物事をきちんと理解するみたいなところが、ドーパミンデル的な話で繋がってるから、
哲学の基本概念
そこで驚けないってことは、ハヤトの敵には本当の意味で、たぶんちゃんと驚いてないから、驚かれないっていうふうに繋がってるんだと思った。
それ、今日朝考えたことに近いな。
そう、何か考えてる。
もちろんこれ脱題になっちゃうんだけど、先生、あと何かになっちゃうんであれですけど、自分が構造から捉えたときに、分かった感がある人なんだよね。
喜びがあるでしょ。
喜びがある。その構造を見出すことに、やっぱり喜びを感じてしまう人。
逆にその構造の中でどう生きるかとか、もっと言うと、今、本を読んで、人に紹介するものを800字で書きましょうみたいなお題を、文章学校みたいなところでやってるんだけど、
800字で書こうと思ったときに、やっぱり全部は書けないわけだよね、もちろん。
自分は構造を書いちゃうのよ。この本っていうのはこういう流れの中で出ていてとか、この本の前にはこういう本が書かれていて、こういうテーマで、
実はこの本の後に、今取り組んでる本で書かれなかったら、このテーマが書かれているんだみたいな、そういう構造で書いたのね。
なるほど。
これも多分、別に間違ってはないんだけど、フィードバックしてくれる先生たちがいて、その人から、いいんだけど本が見えてこないってフィードバックをもらうわけよ。
本そのものが見えてこないと。
そうそう、本そのものが見えてこないですと。
はいはいはい。
それはそれでいいんだけど、もうちょっと本そのものを捉えたものを書いてみてはってフィードバックをもらって、
いや、そうだよなーって確かに。やっぱり自分はどうしても構造側で捉えたときに、まさに語り捨てを兄貴の言葉で言うと感じてしまう。
まあまあそのテーマ設定次第だよね。やっぱり確かにその本を紹介しろって言われたときに、びっくりする人もいるかもしれないし、
読書感想文で小説を読んでさ、その小説の立ち位置みたいなこと書いてきた人いたら、これ感想なの?みたいなさ。そのテーマ設定との相互みたいなものは実際に来ない人はいるかもしれないよね。
そうそうそう。でも難しいのは、自分が本を読むときにやっぱり気になるのはそこなんだよ。なぜこの本が好かれたのかとか、果たしてこの本はどういう位置づけにあるのかっていうことを理解するときに初めて、この本のことは理解できるって思ってしまうのよ。
あのー、やっぱ面白い。感性が独特っていう表現していいのかわかんないけど、今日の話でいうとさ、モミジの赤さに驚くじゃなくてさ、モミジが今俺の目の前に落ちてきたことに驚くみたいなさ。このモミジはあそこからこう来てこう生まれて、こういう感じでここにぶつかって、この風が吹いて今この目の前にあることに感動してるって言われてもさ、
多くの人は、「いや、この美しさ感動しようよ。」みたいなさ。たぶんそんな感じなのかもしんないね。
あるかもね。実はあるんだよね。例えばさ、京都のお寺とか行ったときにさ、この桜とこの木は宮城県産ですとかさ、なんちゃら県産で60年前の交流事業によって植樹されましたとか言ったときに、
そんな交流があって、この桜の木がその宮城から来て、なんか今でも咲いているんだが素晴らしいなとかってやっぱ思っちゃうんだよね。
何を味わってんだって感じなんだけど。 そうだよね。目の前のものを味わってないよね。
そう。でもそれはね、なんかね、自分の特性かなってもちろん思うし、でも目の前のものを味わいたい、味わえるとできなんだろうなって気持ちももちろんある。
だからそこは訓練だなって思ってるよ。
結構今自分は、自分のテーマがまさにそこだなって思うし、今回の話でいくと、別にどっちでもいいよね、構造でも別に科学でも、その驚きというものがあればいいよねっていう話は多分今日の話だとは思うんだけれども、
じゃあその驚くっていうものも要は固定化されてしまう、要は構造を捉えたときに世界っていうものを発見するっていう構造に捉えてるみたいなさ。
っていうのがあるとやっぱ自分の世界って狭いと思うから、より新しい生き方として、兄貴が言ってくれた、目の前のモミジの赤さに驚くという世界もあるよねとか。
どうしてもそれは才能じゃないって思っちゃう自分がいるね、今話しながら。
なるほどね。その感覚を肯定的に得ることはできるのだろうかっていう話。
うん。それを得ようとしてる時点で作為、作り物っぽい感じがするじゃん。
そこはまた一つのテーマになるかもしれないから、ぜひまた話してみたいね。
長くなっちゃうね、この話は。どこまでも話しちゃうからね。
でも面白いと思うし、今の話に一言で回答するとすると、
今日か前回かわかんないけど、その世界を見る目的な話だっけか。
そうだね、これ今回だね。
世界の中でさ、自分の立ち位置を知ることみたいな話あったよね、どっかで。
それ今日です、今日の冒頭です。
これピエラードが言ってた?
これはね、メルロポンティが言ったことを踏まえてピエラードってこういうふうに騒いでるっていうふうに言った感じかな。
はいはいはい。
多分さっきの、その感覚的に得ることは可能なのかっていうのは、の答えは自分はそれだと思ってるんだよね。
あーなるほどね。
でもそうすると、無限ループになるんだけど、じゃあその自分、世界の中でも自分の立ち位置を知るってどういうこと?っていう質問になってくるから、
まあ無限ループっちゃ無限ループだから、そこも含めてどっかで話せたらいいな。
でも今回の流れで言うと、熱学っていうのはまさに世界の見方を変えることであると。
それはやっぱり技法であり修練できるってことだから、
やっぱりある種、むしろ方程的にできると思わないと、結局人間が生まれた瞬間、才能とか能力とか才能とか、そういうものにやっぱり捕らわれてしまった話になっちゃうから、
感覚と構造の探求
それは変化できるとか、それを鍛えていくこともできる。それが哲学なんだっていうふうな文脈はアドの中にはあるんだよね。
あーなるほど。はいはいはい。
みたいな感じでこういう話をすると、だいぶ好き勝手喋ってしまうんですけれども。
ほぼ雑談会みたいになっちゃうもんね。
そうだね。
でも読書会、前回言ったように読書会的に今日やりたいって思ってたから。
はいはいはい。こんな感じだもん、読書会って。
本の内容も読み解くってのもあるし、それはある種データとしての読書会だけど、
今回は感覚としての読書会で、本の中身を構えて考えたことを話すとか、
それにまつわることを話すっていう意味では、これもいい読書会、今回やりたかった読書会の在り方ではあるって感じかな。
そっか、読書会にもいろんな在り方があるのね。
そうですそうです。
次回で最後にしようと思ってたんだけど、どうしようかな。
もうあと2回くらいやってもいいかもね。
そこはお任せします。本のテーマというか、そった上でというかね。
今日の話でいくと、まさに何かが気づいたパラメーターだよね。
情報と感覚の奥にあるパラメーターみたいなのを反射したときに、
それをもう一回読み返したらこの本の中にある気がするから、
それをもう一回読み直してみて台本を作れたら、あと2回読みになるかもしれないし、
ちょっと無理だってなったらすみません、次回で終わるかもしれないですけど。
というぐらいの自転車創業の台本作りではありますが、
柔軟性があるということで、まずはね、
ちょっとね、前回、今回とだいぶ雑談っぽくなっちゃったんですけれども、
皆さんの中でもね、逆にこう、確かに言われてみたら自分は情報よりかも、構造よりかもなとか、
むしろなんか構造って何それ美味しいの?みたいな人もいると思うんで。
そのすべてに考えるきっかけというか、そういうふうな刺激だと嬉しいなと思ってますという感じですね。
はいはい。そうだね。あとぜひ今回はね、こういう情報の話というよりはさ、
結構感覚的な話だったので、お問い合わせとかで、
概要欄にメッセージフォームあるんで、「自分はこうだよ。」とか、「今回の話全然わからなかった。」とか、
ぜひね、たぶん、それこそね、100通りの答えがあるようなテーマだと思うので。
ほんとそうだね。
ぜひその辺、お便りいただけたらその辺もご紹介しながらというか、
読ませてもらいたいなと思いましたので、ぜひぜひ送っていただければなと思います。
未来への考察
はい。そしたら今日はそんな感じですかね。
次回ちょっとね、何に話すかちょっとまだ考せるんですけれども、
引き続きこのピエラードさん、あるいはこの生き方の哲学というふうな本を、
生き方としての哲学という本を土台にしたお話をしていこうと思っておりますというふうな感じですね。
はい。では次回もピエラードさんの中身を楽しんでいきたいと思います。
続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。