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2023-08-16 39:25

#137 ストア派の人生哲学。西洋的な意味での「自然と調和する」という感覚

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ストア派の人生哲学について、自然と調和して生きるという感覚について説明します。ストア派は幸福や利益を考え、人間の理性を最大限に活用することで自然な在り方を実現することを重視しています。自然と調和して生きるという考え方から2つの考え方が浮かび上がります。1つ目は自然法や世界市民を考える外側派の人々の視点で、人類一般にとって重要な善悪や法律が存在するという考え方です。2つ目は国家を超えた法律や共通の価値観を持つコスモポリタンの考え方です。ただし、行き過ぎると帝国主義的になりますので、バランスが重要です。やはり自然法とアパテイアという2つの考え方が注目され、感情を正しく扱うことが重要であることが明らかになりました。ストア派の哲学の一部であるマルクス・アウレリウスの著作『自制録』も紹介され、その生々しい内面が語られています。今回はパラクサーレイスさんの生き方を通じて、自然と調和する感覚について学びました。次回ではローマ皇帝をケーススタディにして、具体的な自然と調和する方法について探求します。

ストア派の特徴と幸福の在り方
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回もストア派ということで、今回から具体的な中身について見ていくというところでした。
前回もちょっと触れたんですけれども、ストア派の重要なテーマとか、ストア派っていろんな人がいますよっていうのを相殺したんですけれども、
みんながある種、これがストア派だよねっていうのを思っているものとして、自然と調和して生きるとか、自然に従って生きるみたいな、そういう言葉があるんですよ。
はい、無為自然ね。
違う。違うって言った。
ちょっとそういうすぐ混乱させるようなこと言うからな、今日ね。
はい。
違うね、はい。
無為自然ではないんです。まさに東洋とかだと、なんとなく世の中の自然と一致して、生きようみたいな感じになるじゃないですか。そういうのじゃないですよ、全然。
前回もあったけどね。
だからやっぱ自然とは何かとか、調和とは何かとか、そういうのをちゃんと考えていくのが西洋っぽいというか、西洋哲学っぽいし、そこをちゃんとロジカルな説明するのがストア派の特徴でもあるんで、そこを今日はちょっとお伝えしていきながら、自然と調和して生きるって何よみたいなことを皆さんにもちょっとお伝えしていきたいなというふうに思いますと。
はい、わかりました。
ちょっと前段としたんですけど、これマニキュー言ってくれたんだけれども、そもそもなんで生き方みたいな話が哲学になるのみたいなのってあるじゃないですか。
哲学ってもっといわゆる啓示浄悪的な、神様はとか真理とはみたいな、そういうことについての学問っぽいと思うんですけど、これは別にいきなり哲学がめっちゃ接続的になったとか、民衆の間に浸透した結果だとかっていうことでもなく、
これがいわゆる善とは何かとか、悪とは何かみたいな、結構そういう抽象的なテーマから出てきてるんですよね。
そうなんだ。
善みたいなものは実はプラトンとかアリストテレスの時にちょっとやったと思うんですけど、まさにプラトンのイデアの中でも一番尊いものは善のイデアだとかさ。
そう、あとアリストテレスも人間の最高の目的っていうのがあって、それを最高善って言うんだみたいな言葉があって、つまり善っていうのは今の時代の良いこと悪いことっていうような意味を超えて、いわゆる究極目標みたいな、そういう意味合いで使うことが結構あるんだよね。
なるほどなるほど。
ただそのスター派では、いわゆる一つの心理とか最高善みたいなものを目的に立てて、それを分析しようとかっていう方法を取らないんだよね。
そこは違うんだ。そこに向かっていくって感覚とは。
そう結構違くって、目的が最高善の到達だとかってことじゃなくて、実はこの目的こそが善と調和していけることなんだみたいな。
もっと言うと、ある種それこそ生き方とか、そういう生きている状態とか在り方っていう方を重視してますよっていうのが結構スター派の特徴なんですよと。
あーなるほど。ちょっと語弊はあるけれども、結果部分よりもちょっとプロセス部分の方を重視してるよねみたいなイメージね。
そうそう。でもほんとそんな感じ。実際そういう例え話とかもあって、例えば弓矢を撃つ人とか射手がいたときに、射手っていうのは的にもちろん当てなきゃいけないというか、そのためにすごい色々努力をするんだけど、
でも実は大事なのって、その努力をし続けることとか、最高の努力をすることであって、的に当てることそのものじゃないんだよみたいな例えをしてる人も実際いるみたいなのね。
そうなんだ。
だからそういうふうに、まさに言ってくれたプロセス重視みたいな話で言うと、これ多分掃除の時の私さんからでも話したと思うんですけど、ちょっと僕自身も幸福とは何かと考えたときに、
達成する幸福と充実する、持続する幸福があるみたいな話をしたと思うんですけど、結構それにも近いというか、無意識に影響を受けたのかなと思う部分があって、
やっぱりプラトンとかアレスレスはどっちかっていうと、幸福になるとか、最高前を実現するみたいな、神を見るみたいな、結構そういう結果にミッチするぜみたいな感じなんだよね。
とにかく的に当てるぜみたいな感じがするよね。
そうなんだけど、あくまでもそれって目標であって、真の目的じゃないんだと。目標だから遠くに確かにそれを置いてもいいんだけど、あくまでも人間の目的っていうのは、幸福であろうと努力し続けることなんだ。
善であろうとし続けることなんだみたいな、結構そういうことを前に出してるんだよね。
だからすごく現実的な感じがするのは、どこに力点を置いてるかっていうところが結構違うなっていうのは改めて感じていただけるんじゃないかなって思いますと。
結構違うね。
ここからはストア派とか哲学の本領で、幸福って何よとか、自然って何よみたいなのをちゃんと説明してるんですよね。
そうなんだ、このストア派でもそういうのをちゃんと定義付けてるんだ。
そう、じゃないとそこに至れないよねみたいなのがあるんで、ちゃんと理性とか知識で分かるようにやっていくんですけど。
まず幸福って何よっていうところからなんですけど、これも今のいわゆるなんかハッピーみたいなとか、いいことあったよねみたいなものじゃなくて、ある意味では人間としての在り方としての幸福を考えるんだよね。
それって何かっていうと、いわゆる得、これってあれてみたいな言葉でギリシャ語で言うんだけど、それについて基づいて生きる人生だっていうふうに言うんだよね。
得とは。
要するに得とはって話なんだけど。
得っていうのも結構ギリシャとか西洋哲学の根本にあるアリスト・デュレスとかも言ってた概念で、日本語にすると完成されたものとか、そのものの本質が十分に現れた状態みたいに言う、得越性なんて言葉で言われることもあるんだけど、
例えで言うと彫刻、石を削ってできる、ギリシャとかっていろんな彫刻とかあると思うんですけど、そういうものが完成した状態のことを得とかあれてっていうふうに言うんだよね。
そうなの?どんどん若くなってきたな、得の概念。
今で言う道徳とか得が深いとかって言うと結構違うのよ。
ここが難しいというかちょっと理解しにくいんだけど、要は普段は魅力とか、人間で言うと人間のいいところっていうのはちゃんと磨いて発揮しないと出てきませんっていう話なんだよね。
それを完全に最大限発揮している状態っていうのが国も続いて生きている状態だみたいな感じなんですよと。
人間の本性と自然の調和
なるほど、ダイヤの原石だからいいよって言うのはしないってことね。
そうそうそうそう。
ちゃんと磨いてカットもしたダイヤの状態を得だから、ちゃんとその状態に持っていく努力だったりとか、実践が重要なんですよと。
それが十分に体現された状態が得であるというような感じね。
俺原石だから別にいつか光るしみたいなのは得のいい状態ではないってことね、この得。
そうそうそう、それじゃダメというか。
ちょっとわかってきた気がする。
人間たるものをちゃんと磨いて削って輝けよというような感じなんだよね。
なるほどなるほど。
やっぱりそういうふうに人間の本質をちゃんと表しましょうって言うときに、人間として感性された状態って何よみたいなことになってくるんだけど。
まあ確かに確かに。
それは哲学っぽくて、理性とか知識、これを正しく伝える状態だよみたいに言うんだよね。
なんでかっていうと、人間っていうのももちろん動物なので、いろんな衝動とか本能みたいなのも持ってるんだけど、
よく言われるように、やっぱり人間は理性があるよねとか考える力があるよねと。
だとすると、動物とか他の生き物にはない理性っていうものを最大限に発揮していくのが人間にとっては重要だし、
ある種それが自然の在り方だみたいな感じで、ここで自然っていうことが出てくるんだよね。
なるほど。
人間にとっては理性をちゃんと使うというのは本当は自然な状態なんだと。
不自然じゃないんだね。本能に対して無理してる状態じゃなくて、理性を使うのが自然な状態だっていうふうにここでは言ってると。
そうそうそうそう。
ここはちょっとそういう価値観とか人間観が出てくるよね。
それはやっぱりその理性と本能があった時に本能の方が大元だではなく、理性ってのは人間しか持たないものなんだから、
それこそ神とかね、やっぱりそういう自然を作った、宇宙を作った人がいたとしたら、それを与えた理由があるだろうと。
そうすると人間だけが持ってるその理性っていうものを正しく使うっていうのは、人間にとっては自然な状態とかあるべき状態だみたいな感じかな。
はいはい、なるほど。その感覚もわかるっちゃわかるよね、確かに。
ここまで来ると、自然と調和して生きるみたいな意味もずっと分かるようになってくるんですけど、
この自然っていうのは実は2つの意味が含まれていて、1個は今言ったみたいな、人間は自然に理性っていうものを使うべきだみたいな、
そういう人間としての自然の在り方っていうものもあるんだよね。
はいはいはい。
あともう1個は、いわゆる自然っていう意味での、いわゆる周りの環境とか、宇宙みたいなそういう世界のこと。
で、やっぱり人間もその世界とか自然の一部だから、そういうふうに一人だけで生きるんじゃなくて、
そういう自然とまさに関わりながら生きましょうっていう話と、
人間本来の自然の在り方っていうのもあるから、その本来の在り方に対して調和していきましょうっていう、こういうダブルミニングなんだよね。
ああ、そうなんだ。はいはい。ややこしいね。そこはちゃんと、自然と自然と調和して生きるってちゃんと言ってほしいね、ちゃんと。
そうねそうね。だから、もちろん言葉は徐々に長くなっていったりとか、
人間本性の自然と、ことしの自然みたいなちょっと面を分かれたりすることもあるんですけど。
はいはいはいはい。
東洋と西洋の視点の違い
でも面白いのはさ、やっぱり東洋とか老子掃除みたいな話でいくと、人間っていうのはそんなに理性とか知識っていうよりは本来持ってるものとかさ、
もちろんね自分の技能を磨くとかはあるけれども、割とそういうありのままでまさにいいみたいなね。
むしろ無為自然だからそういう手を加えるよりも、むしろ捨てていくんだみたいなね、そういうものがあったと思うんですけど。
そうだね。前回もね、無理にそういう道を極めるって言ってたってじゃなくて、もっとフラットな感覚だったもんね。
やっぱり西洋のこういうストア派的な感覚で言うと、自分を鍛えるとか知識を身につけるとか訓練するみたいな。
そういうふうに鍛え上げていって、そういう目的である善と調和した生き方をすべきだみたいな、結構そういう強い主張になっていくんだよね。
なるほど、これはさっきの徳っていう話だよね、ちゃんと磨いて鍛えてという話だよね。
そうそうそう。徳について基づいている人生というのはそういう人生だと。
こういうふうになってくると、必然的にどういうあり方とか生き方が人間にとって正しいんだみたいな。
もっと言うと、やっぱりより正しい、唯一最適な生き方みたいなのが結構出てくるんだよね。
そこは教えてほしくなっちゃいそうになるよね。
そうそう、じゃあどうしたらいいのみたいなね。
それも結構いろんな話があって、ストーカーの人たちに言わせると、人間を含む動物っていうのは生まれたすぐに自分を大事にするみたいな、自己保存の本能とか欲求を持つよみたいな話を言うんだよね。
これは結構理解できるかなと思って、人間であるいろいろな動物は自分が大事だし、自分にとって言うべきなものは近づけて、害あるものは遠ざけるとか、あるいは自分から逃げていくみたいな、そういう行動をとりますよね。
これ多分動物を観察した結果だから結構アリストテレス的な感覚だと思うんだけど、いろんな動物を見たらみんなそうしてますよね。
動物の場合はそれで終わりなんだけど、理性を持つ人間っていうのはその衝動を超える必要があるんだと。
どういうことかっていうと、ただただ自分と対象の中に、これは好きだから近づきたいとか嫌いだから遠ざかるみたいな一杯一関係だけじゃなくて、
対象同士、要は自然の秩序とか法則みたいなものを知って、そこに自然の素晴らしさとか、まさにそういう良い状態。
自然の法則、もっと言うと神が作った宇宙って考え方があるから、そういう神の働きみたいなところを見出すことが人間はできるんだと。
それっていうのは人間しかできないことだから、自分自身だけを大事にするんじゃなくて、そういう自然の法則を知るとか、それをより正しく捉えるために自分の理性を磨いていくとか、
その法則を知ったからにはその法則と調和するように生きるよねとか、そういうものが自律の間にどんどんどんどん出てくるんだよね。
なるほど。ここでさっきの自然のダブルミーニングの意義が出てくるわけね。
そうそうそうそう。
なるほど。
周囲にある自然と、自分に備わった理性というのの働きを自然に働かせるって、まさにその自然っていう言葉が異なるから読みにくいんだけど。
要はその内部環境外部環境どっちも正しく理解しましょうって話だよね。
そうだねそうだね。その理解でいいと思う。
実際にそういういろんなものが調和、調和って言うと整合性を持って働いているとやっぱり善、良い状態。
はいはいはいはい。
秩序があって良い状態だからその善の状態を見出していきましょうと。
そうしていくとやっぱり人間というのはすごく理性に基づいた良い生き方ができるよねっていうのがこの本体での考え方なんだよね。
なるほどね。そっかそっか。確かにそれは片方だけでもおかしなことになっちゃうもんね。
すごくセルフィッシュというか自己中心的になっちゃったりするだろうしね。自然というものを自分だけしか見てないとね。
そうそうそうそう。やっぱりこの主知主義みたいな主に知る知識の地の主義っていう言葉もあったりして、
いわゆる知識変調というか、正しく知っていれば世界をありのままに好き勝手できるみたいな結構そういう過激な思想とかもあったりするのよ。
それはストア派とはまた別。
そう、別なんだけど結構ストア派もそういうふうに思われがちというか批判されることもあるみたいね。
そうなんだ。
やっぱり知識とか、物事を正しく知るっていうことももちろん大事なんだけど、それをどう実践するかとか、それを元にどうまさに環境とか自然、世の中と関わるかっていうことも大事にしてるんだよね。
なるほどなるほど。ちゃんとここ前の話に聞くと、物事を知るとかっていうのはちゃんと手段になってる気がするからね。
そうそうそうそう。やっぱりそういう意味ではすごくバランスを取れてるんだけども、ある種ストイックというか、やっぱり自分を常に高め続けようとか、
人間理性を元に唯一正しい生き方をすべきだみたいな、やっぱり結構そういう感じはしてくるんじゃないかなと思います。
結構こうあるべしみたいなのは強そうだね、確かに。
やっぱりどうしても西洋法はそういうのが強いよね。どうしても一個の正解で、それ以外は間違いというか、正しくない状態だみたいなのが結構意味合いとしては強いから。
それがどのくらい正しいかとか、人それぞれとか、いろいろディスカッションした方がいいかなとは思ってるんですけど、
さっきも言った通り、最終的に目標とか、いわゆる幸福になるとか、本当に徳に基づいて生きて、理性をめちゃめちゃ磨き込んだ人になるみたいなことって、
そういう人たちにとっては重要じゃないっていうか、ちょっとコントロールできないものではね、みたいな感じで理解されてるんだよね。
ああ、そうなんだ。とはいえって話はね、今ね、難しいじゃんって話はしたんだけど。
だから、もちろん得のある状態にならなきゃいけないというか、それが正解なんだけど、なれるかどうかってやっぱりわからんよねと。
さっき弓を撃つ人の例えを出したと思うんだけど、スターハンの中でも聞けろって人が言ったものらしくて、そういう努力もするし、絶対に的を撃つぞっていうふうにそういうことを思ったり、
そういう意志を持つのは自分の選択なんだけど、やっぱりそれでもどうしても矢が当たらないことって絶対にある?
やっぱり突然風が吹くかもしれないし、何かが通りかかって矢を遮るかもしれないし、的が動き出すこともあるかもしれないよねと。
それは本当のところわかんないし、自分のコントロールできることじゃないんだと。
そういうのに患わせられるっていうのはやめて、自分ができることに最善を尽くすとか、それでも失敗するっていう可能性も含めて受け入れていくとか、そういう考え方があるんだよね。
なるほど。そこはちょっとすごく理想主義に偏ってはいなさそうな雰囲気もあるんだね。面白いね。
面白いのが、ゼノンとかセネカとかそういう人たちがいるんだけれども、彼らもいわゆる賢者とか、徳を積み切った人というのを理想にするんだけど、自分も全然そんな人じゃないぜっていうふうに言ってるらしいよね。
なるほど。
やっぱりそういう人じゃなきゃダメって言うんだけど、そういう人じゃないと生きる価値なしとも言わずに、やっぱり努力はしようぜみたいな、みんなそれはできるよねみたいな、横から語りかけてくれるみたいな。
上から頭こだしに、お前らダメダメな感じじゃなくて。だからこそそういう修行法というか、こういうふうにしたらよく生きれるとか、こういう考え方で訓練を詰めるよみたいな、そういうノウハウみたいなものも残ってるらしいんだよね。
なんか面白いね。哲学。ちょっと宗教とも違うな。学問っぽいからね。面白いね。
だからちょっと言い方はあれだけど、若干自己啓発っぽい感じもあったのかもしれない。そういう意味ではバランスがあるというか、結構今でも無理なく受け入れられる、そういう考え方もあるし、やってもいいかなって思いやすい考え方かなとは思うんだよね。
自然法と外側派の考え方
だいぶざっくりではあるんだけれども、自然と調和して生きるというのは何かという考え方を見てきたんですけど、これ自体も結構面白いんだけれども、自然に調和して生きるという考え方から、実は2つほど面白い考え方というか、それの後の世界にも影響を与えた思想というか考え方が出てくるのね。
ちょっとそれをご紹介したいんだけど、1つ目は自然法とか世界市民、もっと言うと国家を超えた法律とか人類みたいなのを考えてたんだよね。
これ何かっていうと、それまでのギリシャって要は共同体意識がめちゃめちゃ強いじゃないですか。要はアテネとかスパルタみたいな感じで、共同体こそが全てだし、共同体の外は敵だし、共同体の法律っていうのは何よりも優先される。
ソクラテス時は、悪法は法なりとか言って、毒灰飲みましたみたいな感じだったと思うんですけど、そんな感じで、自分がいいと思うのかっていうよりは、ポリスの法律だから守るべきだみたいな、そういう考え方で生きてる人たちなわけだよね。
なるほどね。価値観としてはそっちの方が強いってわけだね。
そうそう。それはそれでいいんだけれども、やっぱりそうじゃなくて、誰かが善悪とか法律とかを決める前に、そもそも自然が定めた、もともとある善悪とか法律とかのそういうものはあって、それに従ってのは人類一般にとって重要だみたいな考え方を外側派の人たちは言うんだよね。
なるほど。その視点はすごい感じてるね。今の前提で言うとね。そもそもやっぱりポリスごとに、全然感覚が違うよっていうところで育ってきてる中で、そういったコスモポリタンっていうのを、なんていうの?
的な感覚を持つっていうのは、でも確かにその前にアレクサンドロスがね、ある程度統一したりとか、そういう情報のやり取りだったりとか、だいぶ世界が広がってたんだろうね、その前にね、たぶんね。
そうだね、そう。やっぱりその世界の流れと、そういう自然に調和するっていう自然っていうものに対して、国家とか地球を分け込みを超えて、もっとお互いに理解し合おうぜとか、ちゃんと一緒にやっていこうぜみたいな考え方ともマッチしたのと思うんだよね。
はいはいはいはい。
そうじゃないとさ、やっぱりね、このうちのポリスではこういう法律だからとかさ、この裁判官になったら、例えば盗みとか素敵を働くのもオッケーになりましたとかって、やっぱそれっておかしいよねっていうのはすごくある。
でもやっぱりそれは当時の上司からすると、別にそれでいいんじゃないっていう感じだったと思うんだよね。
だからやっぱりそうなると、やっぱり人類っていうのは、やっぱり同じ価値観を信じることができるよねとか、同じものを良いとか悪いっていうふうに思って生きていけるよねみたいな感覚がどんどん広がっていく。
なるほどなるほど。そこは哲学っぽいね。なんかね、人類ってものを共通、細かく分けずにちょっと共通を見出していくというかね、構造を見出していくみたいなところは。
やっぱりそうやって繋がっていくとか繋げていくってあるんだけど、これがね行き過ぎるとある種帝国主義的な感じで、やっぱ自分たちの価値観こそが全てだとか。
そうそうそうそう。
一周回っちゃってね。
一周回っちゃってね。
はいはいはい。
俺たち先進国で後進国のお前たちは俺たちに従えみたいな感じになっちゃうのもやっぱりあるので、まずやっぱり行き過ぎは良くないというかそのバランスは大事なんだけど、
自然法とアパテイア
やっぱりその手前となる、やっぱりそもそも人類には共通の土台があるよね。やっぱりもうちょっと交わっていけるよねみたいな感覚。
やっぱりすごく新しい発想だったんじゃないかなと思うし、やっぱりその後のいろんな時代の中でも大事にされてきた思想だなというふうに思ってます。
それが1個目の自然法とか世界市民みたいな考え方で、もう1個はこれも面白いんだけど、アパテイアっていうふうに呼ばれる態度というか言葉があって、
これ日本語で言うと無感動とかそういう言葉で訳されたりするらしいんですけど、要は理性を正しく使う人間だと先ほど言ったじゃないですか、理想とする人間は。
そうなると結局感情も正しく扱いましょうというのが出てくるんだよね。
ほうほうほう。
要は理性の方がやっぱり上で本能とか感情って下というか、やっぱりそれを制御する必要があるという考え方になりますと。
はい、理性の方でコントロールしようとね、はいはい。
面白いのは、無感動とさっき言ったんだけど、喜ぶとか悲しむっていうこと自体は自然なことだっていうふうに言うんだよね。
それは別にもう動物含む本能というかそういうものとしてあるよねと。
ただそれが良いとか悪いとか、喜ぶことが素晴らしいとかいうふうに勝ち付けをしちゃうと、
そっちに引っ張られて、じゃあ素晴らしいことはもっと起こすべきだとか、
その素晴らしいことをもっとやりたいみたいな感じで行動とか思考が引っ張られちゃって、
正しい行いとか理性に基づく行動がやっぱりできなくなるよねと。
逆もしっかりってことだよね。悲しんだり泣いたりするのは良くないからそこを止めようっていうのもまた逆もしっかりだよね。
そうそう逆もしっかり。
そもそも勝ち付け自体のものがダメだみたいな話があって。
だから前回、現代の心理学の認知行動療法みたいなのに近いよって話しましたと思うんですけど、
自分は喜んでるって思ったらそこでストップしなきゃいけないんだよね。
感情として喜んでるっていうことが浮かぶのはしょうがないし、それを理性でちゃんと自分は喜んでるって留めますと。
それが良いとか悪いとか、喜びをもっと増やしたいとか減らしたいとかっていうことを考えちゃダメで。
なるほどね。
そこでそれ以上感情とかが走り回ったりとかそっちに振り回されないようにするために理性を正しく作りましょう。
それが感情を正しく扱うことですよみたいな考え方があるんだよね。
心理学的な方でもね。
そうそう、心理学的な方でもあるし、スター派的な処刑術というか、物事との捉え方でもあると。
すごい面白かったんだけど、どの本に書いたか忘れちゃって、具体的なことを思い出さなくてあれなんですけど、
スター派の人が街を歩いているときに何を考えているか聞く話があって、
風が吹いてきた、これは私のせいではない、石につまずいた、これは私のせいであるみたいな感じで、
あらゆる現象を自分のコントロールできるものかできないものかに分けて過ごすみたいなそういう訓練があったらしいよね。
それすごいね。面白い、それは。
だから、私は今寒いと思った、これは私のせいではない。
寒いから家の中に入りたいと思った、これは私が考えたことであるみたいな。
っていうのを全部のことに対してやっていくんだって。
そういう訓練法があるんだね。
そうそう。
それは面白いな。
これめちゃめちゃ面白いし、これやったら人としてレベルアップなのかレベルダウンなのかわからないけど、
なんかちょっと違う世界に行くだろうなって思うんだよね。
そうはね。それ言うと確かに日本語、さっきのアパティアを無感動っていうのも多分クニクの作なんだろうね。
感情の正しい扱い方
無感動ではないもんね。難しい。
無感動ではないんだよね。
ここは面白い。詳しく聞きたいところがね。
そうそう。
それはまさに認知行動療法とかの時に、もうちょっと詳しくお伝えしたいなとは思ってるんですけど、
やっぱり人間の大きな歴史の中で、やっぱり快楽とかそういう欲求はいいよねみたいな、それこそ快楽主義みたいなものと、
やっぱりそれは抑えて理性で生きるべきだみたいな、それちょっと禁欲主義的なものって、
やっぱり両方の流れが常にあるんだよね。
なるほどだし、そうだね。
例えばこのアパティアみたいな態度を、禁欲主義だっていう人もいるかもしれないね、と思った。
でも禁欲主義ではないよね、これは。
そうだね、禁欲主義ではない。
だからそこの違いが結構扱う人というか、できる人できない人、理解できる人できない人か、この態度によって全然捉え方が違う気がした。
そうそうそうそう。
やっぱり現代でもいわゆるアンガーマネジメントとかって聞いたことあるかもしれないですけど、
怒りとどう向き合うかとか、いくらでも正しく扱わないとコミュニケーションが悪くなっちゃうところがあるから、
それをちゃんとマネジメントしましょうみたいな考え方ってあると思うんですけど、
そんなふうに、例えば今自分は怒っているとか、自分は今怒りを相手にぶつけようとしているというふうに認知することで、
やっぱりそれをある種一回抑えるというか、とどめられるみたいな考え方があるっていうのは、結構これの近い話だと思うんですよね。
はいはいはい、確かに。さっきのね、これは自分のせいである、ここは違うって。
そうそうそうそう。
結果これは自分の判断でこれを回避したみたいなね。
そういうのは面白いよね。確かに無意識でやってるかもね。
あと、やってなかったりするかもしれない。
そう。で、やっぱり面白いのは、今の現代でのいわゆるアンガーマネジメントでいうと、
それができないと不利益があるからやめましょうなんだけど、
そう。ソフトウェア派は、そもそも理性を正しく使うというのが大事だから、
別にいわゆる喜怒哀楽の喜ぶとか、そういう普段は普通はいいと思われている感情をやっぱり抑えるというか、一定にしましょうという感じなんだよね。
はいはい。あ、そこはあれだな、フラットな感じ。どうなんだろうな。
このアパテイアっていうのは結構フラットな感覚でいたんだけれども、やっぱり喜んだ方がいいとか悲しむのは良くないみたいな、
やっぱり外のイメージってあるじゃん。価値観。自分が操られそうな価値観。
それからが、それじゃなくて自分で正しく喜ぶなら、その喜ぶ量は自分でちゃんと把握しましょうとかっていうのじゃなくて、
結構抑えましょうっていう感覚もあるの、実際。
そう、抑えましょうだよ、どっちかっていうと。
へー、そうなんだ。そこはちょっと感覚と違った。
そうそうそう。だから正しく喜びましょうではなくて、喜びって感情だったらそれとどめましょう。
悲しみって感情だったらそれとどめましょう、みたいな。
あ、それは金欲っぽいな。
あ、そうなんだ。
そうそうそうそう。そこまでいくとね。
マルクス・アウレリウスとストア派の哲学
はいはいはい。それがストア派の感覚なの、実際。
そう、それがストア派の感覚。
へー、はいはいはい。
だからやっぱり心に傷つくとか、なんだろうな、それこそ誰かって亡くなったら悲しいと思うとかっていうのも、そこでとどめましょう、みたいな。
だからそこまでいくとちょっと極端というかね、ちょっと馴染みにくいところまでいっちゃってる感じがあるよね。
そうだね、ここはちょっと今日はね、今日の話でいうと、実際にそこがどうなのか、フラットなのか、やっぱりとどめましょうまでいっちゃってるのかっていうのは結構知りたいというか、重要なポイントな気がする、ストア派。
はいはいはい。
個人的にね、思ったのは。
いいねいいね。でも面白いと思う。
次の回で話そうと思ってるんですけど、マルクス・アリリス・アントニウスっていう皇帝が書いた自制録。
はいはいはい。
これは誰かに見せるためっていうよりは、いわゆる戦争中とかいろいろ戦時中に自分の思ったことを書きつけたみたいな本なんだよね。
あーそうなんだ、日記みたいなやつ。
結構生々しいこととか、まさに自分が感じたこととか考えたことが書いてあって、まさにそういう自分の感情をどう扱うかとか、今自分はこう感じてるけれども、これは自分のあくまでも感じたままであってコントールしているものだみたいな、そういう言い方はしたいんだけれども、そういう実例みたいなのが結構出てるんですよ。
あーそれはすごいね。そんな重圧かかるような人の内面が語られてるんだ。
そういうのがあるから、結構そういう言葉を見ると、ここまで考えてたんだとか、ちょっとここは共感しにくいなとか、逆にこれはめっちゃわかるとか、そういうのがあると思う。
なるほどね。そこが今、勝手に偉そうに抑えなきゃダメなのかとか、フラットなんだとかって言っちゃったけどさ、市、庶民と皇帝とはやっぱ違うからね。
すいませんでしたってなるかもしれないね。生言ってすいませんでしたと。
でも面白いのは結構その本にも出て、まさにそういうスター派の哲学を持って皇帝になった人ってやっぱ人類の実験だ、そうな実験だみたいに書いてる本もあって。
そうなんだ。
本当はね、ちょっと前回も言ったけど、マンラクサウルエス自体は自分たち哲学者になりたかったか、
別に皇帝、会いたくなかったかはわかんないけど、別に戦争したくないみたいな人なんだよね、本当は。
そうなんだ。かなり哲学者寄りの人なんだね。自分の適性みたいな話で言うとね。
だから本当はそういう哲学にふけてとか、哲学者と議論して過ごしかっただろうけれども、
戦争に身を置かなきゃいけない、その時代の流れとして。っていう中で何を考えたのかとか。
でもやっぱり人類っていうのは別に変わらない、みんな同じなんだみたいなことを結構言ってたりもしてて。
やっぱすごく心を打たれるというか、そういう言葉がいっぱいあるんですよね。
面白そうだね。
面白い。
ぜひ興味を持ったら一冊そんなに高くない、中古の本とかもいっぱいあるんで、いわなべ文庫の。
もしよかったら一冊買っていただいてもいいぐらい本当にいい本だなと思うんで。
ちょっと次回なので、今回は自然に従って生きる、自然と調和して生きるとは何かみたいな話をちょっとしたんですけど、
そういうところからね、そういうちょっといろんな生き方があるっていう中で実際それを体現した人の話っていうのを次回やっていくので。
そこから少しこのまさに生々しいそのスター派の感覚というか、
パラクサーレイスの人生哲学と自然との調和
パラクサーレイスという人の生き方を通じてそこを学んでいけたらいいのかなって思ってる感じですね。
いやー了解です。ちょっと今回はそうだね、自然と調和して生きるの基礎編というと、次が実践編みたいな感じだね。
そうだねそうだね。
いやーいいね。今回はまだね、特に最後のアパティアにすごく個人的に引っかかったから、
そこは具体的にどう実践されていくのか、その感覚みたいなものをね、掴むというかね、もっとわかったらいいなと思ったので。
次回はちょっとその具体的なケーススタディということで、皇帝ですね、ローマ皇帝。
ケーススタディとしては重い気がするけどね、自分に当てはめづらいと思うけれども。
そうねそうね。そのまま自分に生かせるかみたいな気もあると思うんですけど。
もちろん大変というかすごい人なんだけど、語彙力士とかはね、結構シャープだし、割と理解できるような感じになっているから、そこはご安心いただければという感じです。
了解です。そこはカジュアルに倒しに行きたいと思いますので、次回も引き続き倒しに行きたいと思います。というわけで、次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
39:25

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