1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #371 古代の哲学者から学ぶ「..
2025-11-19 1:04:30

#371 古代の哲学者から学ぶ「自分らしい生き方」を見つける方法

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、プラトンの「パイドン」に基づき、死への修練の重要性について議論されています。哲学を通じて自身の生き方や死をどのように捉え、それがどのように生きることに影響を与えるかが探求されています。古代の哲学者の考えから、自分らしい生き方を見つけるための方法が模索されています。特に、ソクラテスの死を受け入れる姿勢とその哲学が、自己の生き方にどのような影響を与えるかが考察されています。古代の哲学者から得られる教訓を通じて、死と向き合いながら自分らしい生き方を見つける方法が探究されています。特にストア派の考え方や、ソクラテスの死に対する態度が強調され、人生における選択や後悔についての洞察が提供されています。古代の哲学者から学び、自分らしさを探求する重要性が語られています。死への修練を通じて、自らの幅を感じ取り、シビアな現実と向き合うことが求められています。また、無の概念や未完成であることの重要性が強調され、自己の幅を理解することが生き方に与える影響が考察されています。

哲学と生き方の見直し
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、ピエールアドの第3回ということで、やっていきたいと思います。
はい、今回ですね、その生き方としての哲学っていう本を元に、お話をさせていただいているんですけれども、
前回はですね、世界の見方みたいな話をしたと思うんですよね。
はいはい、なんか感覚だ〜とか、あとなんだっけ、観察だっけか。
そうそうそう、感覚か観察かっていうね、それこそ地球っていうのはね、データからすると丸いはずなんだけど、
どう考えても僕の目で見ると平らにしか見えないみたいなね。
う〜ん。
うん、というところで別にそれ、もちろん正しいっていう意味で言うと、地球が丸いって言えば正しいんだけれども、
でも自分から見たら世界は平らにしか見えないっていうのも正しいよねっていうふうな話があったときに、
そこってやっぱりどっちかだけだとある種片手落ちだよねと。
うん。
で、もちろんどっちの見方もあるよねっていう中で、やっぱり自分がどう世の中を見ているのかとか、
もっと言うと世界とか自分の生き方をどう捉えているのかっていうことがすごく大事だよねっていうふうな話をちょっと前回いろいろしたかなと思うんですね。
はいはい。だからその観察?
うん。
いわゆるその自然科学というか、そっちの方に寄っちゃってるよねみたいなイメージって感じだろうかな。
そうだね。特にやっぱり20世紀以降の、特に平田さんとかがやったときだと、やっぱり科学的な見方がどこが正しいとか。
うんうんうん。
常識的なことことが正しいみたいなふうにはなりがちだと思うな。
うん、なるほどなるほど。
うん。という中で哲学でやっぱりその自分が、ある種その、欲があるんだよね。自分が良ければ良いとかさ、
自分の見方こそが正しいとか落ち得らずに、でもそのいわゆる常識的なこととか科学的なことだけじゃない世界もあるよねっていう。
うんうんうん。
ここのバランスをどう取るかっていうところが結構この本のテーマかなと思うんだよね。
死への修練とは
あー、ちゃんとそこのバランスについて具体的に話してるんだ、ちゃんと。
そうですそうです。
へー、はいはい。
で、その次回まではちゃんと話すっていうかテーマになってくるんだけども、今回はですね、テーマとしては、なんだろうな、
えーとね、ということで今日扱いたのは、師への修練っていう言葉ですと。
えーと、修練はなんだ、鍛えるとかさ、練習するっていう修練。
はいはいはい。
で、死はいわゆる生死の死、生きる死ぬの死ですね。
うんうんうん。
で、これはですね、結構有名な例として挙げられてるんだけれども、プラトンのパイドンっていう本がありまして、
ここに日本語で訳すとなんだけど、哲学することは師への修練であると、上に書かれてるらしいんですよね。
へー、そうなんだ。
でもこの言葉って、なんかちょっとわかんないじゃないですか、師への修練って言われても、どういうことみたいなさ。
まあそうね、死に方、うまい死に方を考えてる。練習してる。
練習してるみたいなね。
そうそう、っていうのもちょっとあるし、あとですね、似たような言葉で、これ聞いたことある方もいらっしゃると思うんですけど、
あの、メメントモリみたいな言葉って聞いたことない?
あー、なんか言葉だけ聞いたことある。
そうそう、あれはラテン語で死を思えっていうような言葉なんだけれども、
これもやっぱり死っていうものを扱うような結構有名な言葉なんですよね。
うーん、これは哲学者の言葉なの?
うん、これはね、なんか一応その、なんていうのかな、あの、ちょっと言葉座的な感じ?
あー、はいはいはい。
受け継がれていて、いわゆる中世のキリスト教的な感覚とかってのを通ってきてるらしいんだけれども、
なので、死への修練は哲学っぽい話。
で、メメントモリは今日はちょっと宗教っぽい、特にキリスト教っぽい話、そしてちょっと取り上げてるんだけど、
なるほどなるほど。
この2つを比較しながらですね、じゃあ果たしてこの死への修練とは何かとか、
それって僕らの生き方にどう繋がってるのかみたいな話っていうところをしたいなと思ってます。
という感じなんだよね。
へー、そうなんだ。はいはいはい。
はい。で、これがね、実際じゃあその生きるとか死ぬっていうことをどう捉えるかって、
まさに捉え方か見方の変化につながるかなと思うので話していくんですけど、
まあ、結論から言っちゃうと、この死への修練ってさっき言ったみたいに死ぬための練習をするとか、
別に自分のお葬式を何かやっとこうとかってそういうことじゃなくてですね、
死っていうものを鏡というか自分を映すものとして、その死に対する生、まさに生き方だよね、
それをちゃんと見ていこうぜっていう風な話なんだよね。
へー、そうなんだ。
あのー、この前ほら、前回のそれ鉄カフェでさ、テーマ死でやったじゃん。
やりました。
その時もあったよね。死っていうテーマなのに生きる方の話ばっかりしてるよねみたいなね、話してたよね、そういえばね。
そうなんだよね。で、これ結構面白くて、エピクロス派とかかな、ちょっと忘れてたんだけれども、
この本にも書いてるんだけど、その、死っていうのは人間にとってはある種もう預かれ知らぬものだから、
考えないほうがいいよみたいな、そういう哲学者もいるんだよね。
そんな昔から言ってるんだね。
そうそうそう。要は死ねっていうのはもう全然ステージが違うことだから、
そんなことに捉えてもしょうがないねっていう風な話もあったりするんですよと。
で、逆に東洋の方とか、最近結構ハマってる老僧思想の掃除とかだと、
もう別に生きてても死んでてもそんな変わらないよみたいな。
変わらないんだ。
僕ら今生きてるところから死を考えるから、なんか死って怖いなとか、
なんかすごい、なんだな、全てが無になるんじゃないかとかって思うけど、
でももし死んだらきっと別に、
生きてた時も別に良かったけど、死んだ時も悪くないなってきっと思うはずだから、みたいな。
そんな風に考えてる人もいるんだよね。
なるほど。だからさな、蝶々の幼虫がさ、
飛んでる蝶々見ながら、ああなっちまうんだ、みたいなね。
そうそう、無理だよ、空なんて怖いよ、みたいな。
この体で無理でしょ、みたいなね。ああなるわけないでしょ、みたいなね。
そういうのもあるから、やっぱり死っていうのを捉え方っていろいろあるんだけれども、
今回はプラトン的な死の修練みたいな話でいくと、
すごいざっくり言うと、ある種、やっぱり肉体的な感覚的なものっていうところじゃなくて、
魂っていうとちょっといろいろな意味が出てしまうんだけれども、
そういう自分の世界に捉えられない、もっと広い目で見ようぜっていう話を通じて、
この死への修練ってことを言ってるらしいんだよね。
どういうことかっていうと、
死ぬっていうことを前提にすることもよくあると思うんだけれども、
例えば、人からどう思うか不安で怖いとか、
前の列に横配備されたムカつくとか、
あるいは誰かと競争してあいつに負けたくないとか、
いろんなことって起きると起きるじゃない?
でもそれもよくあると思うんだけど、
死ぬときにそれって大事ですかって言われると、
いや、そんなのちっぽけな悩みじゃないかっていうこともできたりしますよね。
まあまあ、そこと比べるとね。
もちろん生きていられるのは大事なんだけれども、
死っていうものを鏡として見たときに、
ある種、こだわらなくていいものって実はいっぱいあるよねと。
逆に言うと、そうなったときに初めて、
本当に丁寧に行うべきことってなんだっけとか、
本当に大事にすべき物事ってなんだっけとか見えてくるよねっていう風な、
そういうことを考えてるんだよね。
おー、なるほど。はいはいはい。
これ結構ね、編集とかでもあって、
僕今ミライフっていう会社にいるんですけど、
ミライフでキャリアプログラムみたいなのがあるんだけど、編集でね。
その中でも一遍死んでみるっていうテーマがあるんですよ。
えー、そんなのあるのか。
もちろん死ねないから、もちろんね、
そういうことを考えてみようっていう話なんだけど、
例えば一遍自分が死んだときに、それを間抜き見ようとすると、
例えば家族がいたとしたら家族はどう思うかなとか、
友人はなんて言ってくれるかなとか、
そういうことを考えたときに、
じゃあ今生きてるうちにやることなんだっけみたいな、それがわかるみたいなさ。
あー、なるほど。逆算の思考的な感じだね。
そうそうそう、そういうこと。
っていうふうなところで、一般的には言われる、
日々、明日死ぬと思って生きろとかさ、
もし死ぬとしたら何が大事かとかってあると思うんだけど、
そういうことを実は昔のプラトンとかがやってた哲学者たちっていうのはやってたんだよっていう話なんだよね。
なるほど、この20世紀のピエラードが改めて。
そうそうそう、見返すときに実はやってたんだと。
実はこれが結構大事なところで、
さっきのメメントモリっていう話をしたじゃないですか。
こっちが死を思えっていう言葉で、言葉としては同じように聞こえるんだけれども、
こっちのメメントモリのほうは、さっき言ったキリスト教的な感覚なんですよね。
どっちかっていうと、キリスト教って来世があるとか神の国があるっていう発想じゃないですか。
なので、どっちかっていうと、この現世のことは一旦置いといて、
もう来世とか死んだ後の世界のことを考えましょうみたいな。
そうなっちゃうのか。
そういう発想のほうが強いんですよね。
そうなってくると、要は日本の戦国時代とかもそう思うんだけど、
勝って死んだら仏の国に行けますみたいな。
そうなっちゃうと、もちろん生きてる今も一定大事なんだが、
それよりも死の世界のほうが大事だみたいなふうにどんどん変わっちゃうんだよね。
やっぱりそういうことじゃなくて、この哲学でいうところの死への修練っていうことは、
死っていうものを鏡にして生きるっていうことをちゃんと考えましょう。
メメントモリとの比較
まさに第一回にも哲学っていうのは、情報を育てるんじゃなくて、
育成することを育てることだっていう話をしたと思うんですけど、
一つの技法としてこの死を考える、死に向き合うっていうことが行われてたっていう話らしいんだよね。
なるほど。だからさっきのメメントモリとこの死への修練の比較で言うと、
生きることと死ぬことのバランスが違うって話だからね。
あくまでも哲学者プラトンは生きるっていうことを大事にしてる。
メメントモリのほうがちょっと死のバランスで言うと、死のほう天秤重いよねみたいな感じになっちゃうって感じなんだ。
そういうことなんですよ。
このあたりが、第一回も言ったけど、哲学ってなんか抽象的なこと言ってるよねとかさ、
普段の僕らの生活とはかけあえたことを考えてないっていうふうに見えがちなんだけれども、
今回のテーマは一貫してそうじゃないんだよっていうこともあるし話していきたいです。
確かに今回、万物とは何かとか、使徒とは何かみたいな話は出てきてないもんね。
自分を見つめることの重要性
使徒とは何かっていうことも、この文脈で言うと、それを通じてどう生きるべきかとか、
何が自分にとって大事かっていうことを考えましょうっていう話なんだよね。
ただこれが面白いのが、ただ自分なりに考えましょうというだけじゃなくて、
それを本当に突き詰めて考えると、さっき言ったみたいに、個人的な名誉とか、
経緯とか、ある種何かをおっしゃって欲求とか、そういうものよりも、
世の中の役に立ちたい。その当時だったらポリスだよね。
共同体の役に立ちたいとか、自分の能力を最大限発揮したいとか、
そういうことを人って大事に思うよねっていうところはセットなんだよね。
へー、あー、そうなんだ。
うんうんうん。
そっかそっか。だから今死んだら何を後悔すると思うっていう時に、
なんかめっちゃ死ぬほどコーラ飲みたかったみたいなのはダメなんだ。
ダメっていうか、本当ってそこに対話が生まれてくわけだよね。
まあコーラは嘘だろうけど。そうなんだ。
あんまり個人的なことよりも大きなものがあるはずみたいな感じなんだね。
もちろん完全に個人的なものがないかっていうと難しいんだけれども、
死への修練って言われた時に、これじゃあ何をやってるかっていうと、
要は自分の魂を磨くとか、自分の精神面を向上させるみたいな、
ソクラテスの死への向き合い方
そういうところに繋がっていくんですよ。
ほうほうほう、なるほど。
だから例えば、当時の発想でいくと、いわゆる体の反応だよね。
やっぱり感覚って話ではあったけれども、
例えば暑い寒いとか、眩しい眩しくないとかって、
すごく植物的って言うとあれだけれども、すごく根本的な反応じゃないですか。
怒りとかもそうだよね。何かあった時に葛藤するとかさ。
やっぱりそれってある種、自分がそっちに振り回されてしまうとか。
本当は、理想としての一定の落ち着いた事故とか、
いわゆる静けさみたいなものっていうところが結構大事にされる部分があるんですよね。
それはある種感想的な生活みたいなところで言われていて、
やっぱり静かに本質を見つめるみたいなところがあったりするんだけど、
本質を見つめるとか静かに自分があるっていうところを、
死っていうものを鏡にすることで伝えていこうみたいな、
そういうふうな発想なんだよね。
なるほど、なるほど。
なのでちょっとこれ分かんないのが、
その静かな自分になった時に、
それが他の人と全く違う自分であるかっていうのはちょっと分かんないんだけど。
どこまで個人的な話をしてるのか、一般的な話をしてるのかっていう話?
そうそうそうそう。
だからその静かになった状態っていうものが、
例えば理想的にある種、
それこそ前提は仙人みたいな人がいて、
その仙人みたいな人がいいっていう話なのか、
その人それぞれに静けさっていうあり方があって、
そこに至ればいいのかっていうところはちょっと分かんないんだけど。
あーなるほど、その本読むかに。
そうそう。
それとどっちだと思う?
でもね、今の僕の気持ち的には、やっぱり人それぞれにあっていいんじゃないかと思ってるんだよね。
今回の流れからすると、そう捉えても殺されはしなさそうだよね、別に。
それではないと思う。
もちろん型として、例えばストア派ならこういうものが大事だとか、
これを働いたらさすがにストア派的には認められないとかありそうだけども、
いわゆる魂の静けさとか平成を取り戻すというか、
それを鍛えていくようなところがやっぱり大事なんですよっていうふうな前提はあるわけなんだよね。
はいはい、なるほど、それこそ文化的にとか国とか、
人は人によって違う可能性はあるけどねと。
うんうんうん、ですです。
なので、これもよく今回お伝えしたいんですけど、
ソクラテスの死ぬ時の話があったじゃないですか。
独人児飲みましょうって話だと思うんだけども、
あの時ソクラテスは何をしてたかっていうと、
独人児飲んでどんどんじわじわ毒が効いていくんだよね。
で、ほら見ろと、なんか俺の足が動かなくなってきたみたいな。
でもその足が動かないということを俺はちゃんと観察してるじゃないかみたいな感じで、
でもそれってキラダっていう、ある種その思い通りにならないものというかなんだろうな、
自分を振り回すものじゃなくて、精神とか理性っていう、
自分がちゃんとコントロールして世の中を正しく捉えるものを、
最後まできちんと作ってるとみたいな、そういうふうな話らしいんだよね。
へー、そんなシーンがあるんだ。
死への修練と生き方
そう、そのシーンがあるの。
死ぬから、実況してるのは自分の死ぬ実況をしてるのよ、ソクラテスって。
あー、そうなの。
そうそうそう。
これを要は死に対して、要は恐れるとか喚くとかじゃなくて、
静かに自分の死っていうものをちゃんと見つめるというか、
そこに向き合っていくっていうふうな、ある種の理想的な在り方なんだよね、これが。
へー、そうなんだ。
あれか、恐れすぎないというか。
そうそうそう。
恐れなさすぎな気もするけどね、それはね。
まあ確かにね。
まあでも一つのね、死への修練か、の結果だと言えるとね。
そうですそうです。だからある種まあ、言い方変えて十分に生きた自分としては、ある種ポリスの法律とかさ。
あー、なるほど。
自分が信じたものに殺されてはいるんだけれども、それを信じるってことは自分が決めたことだし、
自分の生き方の結果なわけだから、それを受け入れることに何の恐れもないみたいな、多分そういう感じなんだよね。
はーはーはー、なるほど。
そっか、それは単なるパフォーマンスじゃなくて、本当にもう自分死ぬんだっていうことを完全に受け入れてるからこその行動だっていう話ね。
あ、そうそうそうそう。
はいはいはい。だからまあ人によっては、スクラテスは多分そうやったんだろうけれども、
言うたらまあだったまってるかもしれないしみたいな。
そうだね、そうそうそう。
そこも含めて変わるかもしれないけど、スクラテスはそこに至ってただろうみたいな感じかな。
そうですそうです。だからこそ第一項言ったようにパソコンやスクラテスっていうのは哲学者として尊敬されるっていうのは、
やっぱりそういう生き方を貫いたとか、まさに死に面しても自分のよく生きるっていうことをやっぱり最後の瞬間まで貫き通した。
っていうところがあるよっていう話でアドさんは言ってるんだよね。
ほー、なるほどね。はいはい。
でもどうかなんかこのさ、もちろんその、よく生きるとかさ、生きるために自分の死を考えてみようって、
なんかまあ頭ではわかるとか言われたらそうかもねって思うけど、ちょっと抵抗感あったりしない?どうなんだろうこの辺って。
いやーどうなんだろうね。想像する分には存分にしたらいいのかなとは思うけれども、
はいはいはい。
この死への修練というか、このスクラテスを理想像として掲げるのは危ないんじゃないかなとは思うけどね。
あーなんかどのあたりが?
うんうん。
完全に受け入れるのは難しいというか、これって解釈の仕様によっては、
はいはい。
なんだろう、今日その、どっちかっていうと多分さ、比較してるメメントモリ。
はいはい。
全然なんかそっちと同じじゃんとかさ、
うん。
今日の例で言ってたさ、その牛が名誉のために死んで、まあ喜んでというかね、全然死ねるみたいなさ。
はいはいはい。
なんかそういうのと比較した時に、その心の在り方というか、
はいはい。
その、なんだろう、プロセスは違うと思うんだけど、
うん。
割と到達してるところは似てるから、そこ勘違いすると危ないんじゃないかなっていうイメージかも。今喋りながら思ったけど。
確かに確かに。確かに勘違いしやすいかもね。その、良き死を迎えるみたいな話で言っちゃうと、
やっぱり死が美化されるというかさ、そっちに軸足がやっぱり向いちゃうじゃない?
うん。とか死を恐れないとかね。
はいはいはい。なるほどね。
その結末というか、到達点が似てるから、
うんうんうんうん。
多分今回プロセスの話をしてくれると思う、くれてると思ったんだけど、
はいはい。
このスクラテスの例によってちょっとその、
うん。
到達点の方に目がちょっと行っちゃったみたいな感覚かな。
なるほどね。OKOK了解です。
その観点でいくと、今言ってくれた通り、やっぱりプロセスが大事。
もっと言うと、やっぱり生きている時の良さとか善みたいなものがやっぱり大事なんだよね。
うんうんうん。
だから、でもその、スクラテスが死を恐れなかったというのは結果であって、
それは何の結果かっていうと、生きている時にやっぱり自分のその良心に従い続けたとか、
世の中、そのポリス全体も含めて、それを良くしようと思ったっていうところをやっぱり自分で促進してるからですと。
そうだね。スクラテスの個人的な経験とか感覚として、
うん。
スクラテスが自分の死について考えた時に、
うん。
最も後悔するのは、
うん。
自分の正義とか良いと思ったことを貫けなかったこととか嘘をつくこととか、
うん。
あとその、アポロンのご神託明けか。
そうだね。
そういったものに多分逆らったりとかしながら、
うん。
生きていくのは多分死ぬより辛いことみたいなところが、
うんうんうん。
スクラテスの個人的なその死を思った時のことだとすると、それへの修練の結果として、
うん。
きちんとスクラテスが至った地点がさっき話した毒肺を仰いで、
うん。
死ぬのに全く恐れをなさないと。
そうだね、そうだね。
いうとこだったっていう、悪魔のスクラテスの話っていう感じではね。
そうです。
うん。
今兄貴に言われて思ったけど、結構変人だよね、やっぱスクラテスは。
変人?
変人、うん。
変、まあそうだね、変というか、やっぱあの、なんだろうな、かなりその、いっちゃってるよね。
生きてるというか突き入ってる。
うん。
なんていうのこれ、突き抜けてるか。
突き抜けてるね、そうだね。尖りまくってるね、やっぱりね。
うん。
うん。
それができるか、あるいはそれを理想と確かに抱えられちゃうと結構知り込みするというか、
いやなんか、自分そこまでじゃないっすってやっぱなっちゃう気はするんだよね。
まあそうね、霊としてね、強烈だからね。
うん。
目指すのは難しいけど、でも逆に言うとそれ目指さないなのかな。
死への修練を考えると、
うん。
似たようなとこには到達しちゃうのかもしれないしね、もしかするとね。
まあ確かにね。
本当に考えると。
これ実際、例えばストーハとかもまさにそれで、今回も何回もお伝えしてると思うんですけど、
やっぱり自分のコントロールできるものだけに集中しましょうってときに、
まさに死ぬなんてことはコントロールできないわけだよね。
うん。
死への修練
僕らは別にいつ死ぬかって、
例えば80歳くらいだと思ってるかもしれないけど、
よく言えば、じゃあ明日地震が起きてとか、事故にあってとかってことも起きるわけで、
死って一番コントロールできないものです。
うん。
だからこそそれにとらわれるっていうのは間違いで、
今コントロールできる良き行いとか、
世の中に対して善であることをしましょうっていうのがストーハの根本ではあったりするんだよね。
へー、そうなのか。
うんうん。
なので、やっぱり、
それまでも死っていうものに向き合いつつも考えてることは、
やっぱりどうよく生きるかとか、
どういう風な人生ってのは自分にとって良いものか。
それを自分でやりきったんだったらそこに、
何だろうな、
引き手をあげましょうよみたいな、そういう感覚。
うん。
だから今回お伝えしてる死への修練、
イコール良く生きるっていう話かなと思うんだよね。
うんうんうん。
うん。
自分らしさの探求
やっぱりピエロ・アドさん自身がやってるところも、
やっぱり古代の哲学と考えたときに、
前回言ったように、
いわゆる体系立っているものとか、
何か無人がないものを伝えようとしたよりも、
やっぱり教育、
一人一人に対して最適なものを届けていこうとか、
その相手がどうしたらもっと、
まさに死への修練が進むのか、
っていうことをやっぱり向き合ってたものだよね、
っていう話はあるんだよね。
うんうんうん。
うん。
さっきの話に戻るんだけれども、
やっぱり自分にとって、
こういったらすごく身近なだけ、
悔いのない人生とは何かとか、
何を逆にしてしまったら、
死ぬときに後悔するのか、
みたいなことがやっぱりすごく大事なんだろうな、
というふうに思うんだよね。
はいはい。
でも今回の話と通ずると思ったんだけど、
うん。
確かハヤトだっけか、
その人間がさ、
はいはい。
死ぬときにさ、
一番後悔することの、
うん。
何だっけ、
ハヤトが何か喋ってた。
僕が言った、
そうそうそう。
キュパラ・ロスって人がそれをやってて、
アメリカでいろいろ研究したときに、
一番死ぬときに後悔するのが、
自分の思い通りに動かなかったこととか、
やりたいと思ったことをしなかったこと、
自分らしく生きなかったこと?
うん、だよね。
確かそうだよね。
そうそうそう。
だから、
それと今回めっちゃ通ずるなと思ったんだよね。
具体的な発言は覚えてなかったんだけど。
はいはい。
だからやっぱ自分らしくある、
イコール、やっぱ今回、
死への修練を考えることで、
うん。
生きることを真面目に考えるから、
うん。
それを考えることが自分らしいとは何だろうってことと、
多分似合いイコールだと思うんだよね。
そうだねそうだね。
で、それを突き詰めようとしたときに、
うん。
やっぱりその、
何だろうな、
いろんなところと必ずぶつかるんだよね。
誰だろうと。
うん。
で、それを突き進むのか、
妥協するのかの判断軸として、
この死への修練っていうところを考えておかない、
しっかり考えておかないと、
自分の意思で、
これは妥協しようなのか、
これは突き進もう、
突き破ろうなのか、
実は妥協したから悪いとか、
突き進んだからいいってわけでもなく、
その死への修練っていうものを、
軸に自分らしさについて考えたときに、
その軸に従って生きたか、
だからその軸に従った結果、
ここはでも妥協しとこうっていうのは自分の判断。
そうだねそうだね。
だから妥協したことが悪いよっていうふうにはならないはずだから、
そこも含めての自分らしさみたいなものをやると、
このソクラテスほどではないけれども、
似たような境地には達する可能性はあるのかなっていうのは思ったよね。
でもそれもあるね。
しかし今言ってくれって僕も思い出したんだけど、
この本の中でソクラテスみたいな人って、
ある種の一個の理想像ではあるねっていう話もあって、
いわゆる賢い人と言われる人たちって、
市民の領域なんだよね、そういう人たちって。
何してる?
市民の領域なんだよね、やっぱりそういう人たちってもう。
完成されてるから。
何千年も名前残ってるような人たちだからね。
僕ら一般人がとかさ、今、
哲学者は生きることが大事だって言ってるんだけれども、
どこまでいけるかっていうと、
やっぱりどこまでも未完成というか、
やっぱり本当の理想の人生とか、
自分らしい、本当に究極的に自分らしく生き抜いたみたいなことって、
どこまでやりきれないよねっていう話は書いてるんだよね。
ちゃんと書いてるんだ。
書いてる、書いてる。
実際、スター派もやっぱりそれをコントロールしてやるぞって言ってるんだけど、
それやっぱり正直やりきれないよねっていう話もあるみたいなのよ。
スター派の中で。
スター派の中で。
そうなんだ。
前回とかもマルクサイエースで、皇帝さんの話をちょっと思うんだけれども、
彼もまさにスター派の賢人と言われるけれども、
なんとか自制力っていうのをかきつらねて、
自分はこういうふうに生きていきたいんだとか、
こういうことができなかったからこれをやっていくんだっていうふうに書きつけて書きつけて、
なんとかそれを保ってたっていう感じなんだよね。
そうだね。
前の人でも毎日そうやって文字にしながら自分に刻んでいかないと、
自分らしさとは何だろうとか、
自分らしい決断というか判断って何だろうみたいなものが、
分かんなくなるかもしれない、揺らぐかもしれないみたいな話だね。
私やっぱり気づいたらそっちから離れてしまっているっていうふうな発想は入ってたみたいなんだよね。
未完成の人生
だからやっぱり今僕らは、
いわゆる自分らしく生きようとか死ぬ時に後悔しないように生きましょうっていう言葉では言うんだけど、
それってめちゃめちゃ難しいっていうか、たぶんほとんどの人は無理なんだよね。
難しいとか無理っていうよりは、そもそもその定理ちゃんと決めましたか?
死ぬほど考えてってことじゃない?まず。
確かに確かに。じゃあ自分らしいって何よ?とか、それって本当のこと何言ってる?みたいな話って、
たぶん即答できる人ほとんどいないと思うんだよね。
プラスアルファで今ちょっと誤解があったらあれなんだけど、
死ぬほど考えましたかっていうのと、自分らしさを見つけましたかっていうのは違うからねっていうところはちょっと伝えたいというか、
誤解してほしくなくて、今回の文明校の中で、
じゃあ自分らしさをきちんと見つけましょうってなっちゃうと、たぶん今回のピエロアドの話からずれちゃう気がするんだよね。
万物の根源見つけるゲームになっちゃうじゃん。自分の根源見つけるゲームで、自分なんて見つかるわけないんだから、
そこにとらわれると、今度また違う明記に入っちゃうなっていうのもあるから、
きちんと、たぶんこの死への修練だから今回言うと、そこをとりあえず現時点できちんと考える。
さっきのハヤトの話で言うと、常に考え続けるだよね、ストア派の。マルクシュ・アウレギスがやったように、考え続ける、自生し続けるみたいな。
たぶんそれしかないのかなとは思ったよね。じゃないと変な自分探し、ありもしない自分らしさ探しになっちゃうから、そこも危ないなと思った。罠だと思った。
でも今本当に確かにいいこと言ってくれたなと思っているのが、やっぱりまさにさっき言ったように未完成では終わりがないよっていう話だと思うんだよね。
それはしてくれてたのか。そういえばこのピエラードの中でも。
そうそうそう。してはいて。だからやっぱり、どこかに自分らしさというものがあって、それを見つけたら、もう後は安泰だっていうことはやっぱりないですよねと。
そもそも自分ってそういうもんじゃないからみたいな話。時々すると思うんだけど。
だった時に、やっぱりこのまさに修練っていうのはその通りで、やっぱり死の瞬間まで修練なんだよね。この文脈で言うと。
ソクラテスもさっき言った通り、どこかで完成されて、ソクラテスという人間が良い生き方をし続けたっていうことよりは、
本当にその、じゃあ毒肺を仰ぎました。死というものに本当にリアルに向き合ってます。
その最後の瞬間までよく生きるとか、自分の理性っていうものを信じて、周りに弟子がいっぱいいるんだけど。
弟子たちに、まさに自分が死に向かっているということをある種教え続けたっていうことが、本当に死の瞬間までソクラテスであったっていう話だと思うんだよね。
いやー、まあそうだよね、確かに。確かソクラテスも本当はアテネから逃げればよかったのに逃げれなかったみたいな感じだったんだよね。
そういうこともできたし、弟子たちはそれを勧めてたっていう話だよね。
でもそうじゃねえんだっていう話で、最後の自分の本当に死の、死ぬ瞬間まで弟子たちに教え続けた人。
そっちがソクラテスにとっての正解だったって話だね。
そうそうそうそう。っていうことを掴んでたって話なんだろうね。
でもそう考えるとすごいよね。やっぱり逃げたくなるしさ、死ぬって思ったら怖いしさ、泣き叫んでもいいわけじゃない?別に誰も責めないと思うんだけど。
そうね。別にポリスから夜逃げしてさ、別のとこに行ってまた始めればいいじゃんね、ゼロからね。
そうそうそう。それはやっぱり違うだったんだろうね。
そうだね。どこに自分らしさの答えはないけれども、ここら辺にあるだろうみたいなものっていうのはやっぱ、なんかあるんだろうねとは思うし。
さて自分らしさ難しいよねって言ったのも、最近よく例えて出すけれども、
今ね、宮城谷正児さんのね、暗視っていう本を読んでるんだけど、
なんかその中で、自分の器だったりとか、自分が何者かみたいなものを見つけることについて、
暗視、二人主人公がいて、安宅と安永っていうんだけど、その安宅の子供の安永っていう方が人とは幅であるみたいな。
幅?幅ってあの幅飛びとかの幅?
幅、そうそうそう。織物とかさ、布の幅が大きすぎても使いづらいように、きちんと自分の幅っていうものがあって、
自分が得る利益とか、その報酬みたいなものも、その幅を大きく超えてもいけないし、それに大きく少なくてもいけないと、
っていう話をしてたんだけど、とはいえそれを知るのが難しいんだけどね、てへんみたいな話をしてて。
まあそうだよね。
作者は、その安永こそは1億人に1人しかできないような、自分の幅を一筋もたがわず把握した人の1人であろうみたいな表し方をしてて。
はいはい。
1億人に1人だって。
すごい、その説明はちょっと読んでみたくなるもんな。
自分らしさの探求
それをできた人がどんなことを考えるんだろうかとか、どういう物語になってくるのかとか、ちょっと興味湧くわ、それは。
やばいよ。自分から死にに行ってるようにしか思えない、なんで死なないのかわかんないような人生だったんだけど、
いわゆる春秋戦国時代の、春秋時代のやばい時代に、1個選択間違っただけですぐ死ぬのに、
旗から見たら全部選択間違ってるのに天井全うしたやばい奴みたいな。
へー。
普通の人と基本逆の方向に行ってなぜか生きてるし、なぜか殺されないし。
なるほどね。でも自分ではわかってたわけだよね、それが。
それでわかってるし、自分らしさをちゃんと据えてるの。
いわゆる、同時にいろんな国があるじゃん。
その中で西の国の人だったんだけど、西の君主に仕えるんだけれども、とはいえその上には天使があるよ。
天使って天の子供ね。天使っていう。だからそれが中華には天使っていう一番上のものがあった上で、
衆王朝の衆王っていうのがいた上で、諸公っていう意味での西の王様とかいろんなのがいるんだけど、
あるよね。
だから普通は西の君主に使えますとか、もしくは自分の上司に使えますぐらいでいいよね。
自分は天に使えてるから。
なるほどね。
だからそこの視点、この言葉は好きじゃないけど、そのしざからものを全部言いますみたいな。
はいはいはい。なるほどね。
だから自分の君主がパワハラ機質で、超やばいやつ、一個間違ったら普通に殺されるみたいな人なんだけど、
普通に、いやそれおかしいでしょとかって目の前で言って、
普通に側近に刃向けられてるみたいな。
そうだよね。何言ってんだお前みたいな。すぐ首元に刃があるわけでしょ。
そうそう。だったりとか、他の有力な大臣が国を乗っ取って、最小になった。
幼い君主を操りながらみたいな時に、恐怖政治を始めようとして、大臣ではある程度政治をつかさどる人たちを集めて、
その目の前にめっちゃ穴を掘ってたんだって。
穴って物理的な穴?
物理的な大きい穴を掘ってあって、その前に国の大偉いさんが集められて、
あれ何するんだろうなーって言ったら、その次の最小になった人が、
君主じゃなくて、俺たちに尽くと誓えみたいな話をするわけ。
はいはいはい。
だからもう、おかしいよね言ってることがね。
そうだね。
君主もいるのにね。
うんうんうんうん。
結構やばい話じゃん。それおかしいじゃん。
君主のために誓うのだって、あんたを食べてないよっていうのは普通なのに。
うんうん。
その一人目が、ちょっと怖くて、言葉詰まっちゃったなって。
うんうんうんうん。
そしたら一人目殺されて、その穴の中に首が落ちるみたいな。
はいはいはい。
で、次の人も、そういう人はもう嘘ついて、嘘というか、生き延びる人にはそれしかないじゃん。
そうだね。
言うしかないじゃん。
うんうんうん。誓いますってね。
で、その次の人はでも正直に言って殺されてみたいな。
うんうん。
それを何人かやってるうちに、もう7人ぐらい死んじゃった中で、
うんうんうん。
その安永の順番になったんだけど、
はいはい。
で、もう周りは見てるわけ。もうみんな知ってんだよね。こいつやべえやつだって。
はいはい。
絶対こいつ普通の怪盗死ねえぞみたいな。
そうだよね。
あ、ついにあの安永もここで終わりかみたいな。
うん。
そしたら安永は、
うん。
普通に逆のこと言うよね。国に使えますと。あんたには使えませんみたいな。宝かと宣言するみたいな。
はいはいはい。
で、普通に、あ、じゃあ死ぬのねって言って、殺されって命じられるんだけど、
うん。
他の人が何とか止め、何とか止めて、
うーん。
ここで安永殺したらやばいってみたいな。さすがにやばいっすみたいな。
はいはいはいはい。
この人殺しちゃだめっすみたいな。そういう人生。
うん。
うーん。
うん。おかしいよね。
え、ちょっと読んでみたいなそれは。なるほどね。
やばい。だからもうレベルが。だからそこ、普通死ぬじゃん。そこで。あの、ソクラテス死んでるじゃん。例えば。
ソクラテスは死んでる。うん。
ねえ。
そこで死なないで天地を全うしたヤバさ。
あー。
うん。
いやまあちょっとやっぱ想像がつかないけど。
うん。
なんかね、その、今の話聞いてもそうだしちょっと前に思ったんだけれども、まさにその、幅だよね。幅が見えるっていうのはまあ一億円一人でやろうというときに、
死への修練
まあまあその作者曰くね。
作者曰くね。そう、作者曰く。実際そうだと思うんだよね。で、僕らはその幅が見えないから、例えば、いや自分はこれである、例えばさ自分は既に逆を行くのであるとかさ、
うん。
自分は既に誰かに従うのであるとか、決めたものを自分らしさと思い込んじゃったりするじゃない。
まあまあそっちも楽だから。
そう楽だから。でも、そうなったときに、やっぱその、今回やっぱりお伝えしてる死への修練って、やっぱそれをせせないことなんだなってやっぱ思ったんだよね。
うーん、まあね、そうね。
うん。言い訳させないというかさ、やっぱりある人が途中で言ってたメメントモリって、要はそこに向き合わなくていいんだよ。別に自分がどうあれ、死んだら仏様になるとかさ、神の世界に行けるのであれば、
別に生きてる間に自分がどうあるかって、ぶっちゃけどうでもよかったりするんだよね。
まあ、あとはそのルールも決めてもらってるよね、たぶんね。
そうそう、ある程度ね。
うんうん。
ね、例えばそれこそね、阿弥陀仏ってちゃんと備えておけばいけるよとかさ、あと仏のところでその、みそぎというかそういったものをやっていけばいけるよとかってあったりすると思うんだけど。
まあ、突然の仏教だけどね、メメントモリなのに。
ちょっとやっぱり死後の世界がわかりやすいかなと思って、仏教の方が。
うん。
でも神の修練ってそれがないじゃない、要はこうすればいいってのなくて、ただよく生きろとかさ、ただ自分として後悔がないようにその瞬間瞬間を生き抜けみたいな話って、思ってるよりもシビアだなって、今の話として思ったんだよね。
いやー、だってね、その幅を読み違えるとさ、大きく読み違えたら怪我するし。
そうだね。
小さく読み違えたら損するし、みたいなさ。
うんうんうん。
だからそれを繰り返していくしかないんだよね。
で、しかもその幅ってその、目の前にある課題というか判断しなきゃいけない対象によっても違うから。
そうだね。
相対的な話だよね、自分と相手の。
うんうんうん。
だから必ず自分はいつも10センチですってなわけにはいかないっていうね。
あーそうだね、確かに確かに。
だからもう常に試行錯誤しなきゃいけないっていう部分が出てくるんだよね、とは思ってるかな。
あーそうだなー。さあ今ちょっとこれの話をして、またちょっとこれもラスさんっぽくて申し訳ないんだけれども、
あのー、時々僕占いの話するじゃないですか。
あーうん、怪しい話をしてるね。
怪しい話をするんだけど、その僕が好きなインド先生術は、まさにその幅を見せてあげる技術なんだなっていうのが今繋がったのよ。
あーそうなんだ、へー。
つまり生まれた時間とか場所とかさ、そういうもので出てくるんだけど、
それを読み解くとあなたの人生はこういうものだっていうのがわかる?っていうふうに彼らは言うのね。
いや決めんなよ、勝手に人の人生。
って思うじゃん。って思うんだけど、それがあなたの幅ですよっていうのを提案するとすると、気にならない?
いや全く幅は自分で決めます、自分で探しますっていう。勝手に決めないでください。
そうなんだ。ちょっと待ってごめん、そこで今面白いなと思った。
ちょっと今の言い方的には悪いと思うんだけど、ありきはその幅って自分で決めるものだって関係あるの?
えーとね、違う、決めるじゃない。自分で捉えに行くって感覚。
捉えるって何?捉えるってどういうこと?
うーんとね、だからこれもさっきの自分らしさと結局そこをバッティングするから面白いと思うんだけど、わからないんだよね前提として。
あーそうだよねそうだよね。
そうだよ、だから今回は例えば今回の課題に対しては自分は10センチと踏んで行動しました。結果怪我しました。
なるほどね。
で次全く別の課題にやった時に、まあ前あの課題で10センチでこんぐらい怪我したってことは、まあじゃあ5センチしとくかーっつって結構損しちゃいました。
うん。
あーってことはみたいな、もうそれでしかないんだよ。
はいはい、だからその結果を踏まえた時に今回は何センチだったか、あとから分かる、分かるのも分かった気になるみたいな、そういう話ってことかな?
分かんないことを思い知り続ける。
あーなるほどね。
だからそういう意味でさっき勝手に幅を決めるなよって言ったのは、どうせ分かんないんだから適当に決めんなよみたいな。
いいよそんなのもうどうでもいいわその基準すらみたいな、どうせ分かんないんだからみたいな。
もうこっちは怪我しながら損しながら、ちょうどいいとこなんとかこうまあ死ぬくらいには少しずつ精度上がっていくでしょうみたいな。
なるほどね。
ほっとけ!みたいな。
あーそういう感覚は面白いな。
で、さっきちょっとただだよ。ただその印度先生術が、どういうものか知らないんだけれども、人に、この今回でいう死の修練的な感覚だよね。
あなたには幅が、幅は分かんないでしょうけど、幅ってものはあるんですよっていうそのゼロのスタート地点を伝えるものとして機能するなら面白いなとは思う。
幅を感じ取る
はいはいはい、そうね。これはね、本を読んでいる限り、印度先生術はあなたの幅はこれですを提示してる。
なるほどね。
うん。で、それはおそらく予言の自己定着とかがあって、これですって言われてその通り生きればまさにそうなるじゃない。
あなたの幅は10センチですって言われて、自分は10センチだなと思って生き続けたとしたら、その人の幅は10センチになるんだよね。
まあまあまあまあ、なるよ。
そうそう。で、もちろんそれはいいかどうかを置いといたとしたときなんだけど、僕が今面白いと思ったのは、僕は割とどこかに自分の幅というものが定められているって思ってるんだよね。
定められてはいるんじゃない?
定められてはいるんだ。
定められてはいるよ。
はいはいはい。で、定められていてそこにアクセスできる可能性があると思ってるね、僕は。
あー。
うん。兄貴みたいに絶対に分かんないからっていうことじゃなくて、どこかでやっぱ変臨はつかめるんじゃないかとか、どこかでその自分の幅というものが見えるんじゃないか、さっきのアン…何さんだっけ?
えんとね、あんえい、あんえいさん?
あんえいさんが仮にさきちゃんが、一億分の一だとしたら、え、なんか一万分の一ぐらいで見えないかしれないじゃないか。
はいはいはいはい。
そう言ってた感覚が多分あるね、僕には。
自分の幅を見つける
なるほどね。なるほど、それね、たぶん、これこそローソー・ヒト的な感じになっちゃうのかもしれないけど。はいはい。
これわかんない、今ちょっと話しながら思いついたことを適当にハヤトにぶつけるんだけど、うんうん。えっとね、幅がないってことを悟るからこそ、自分の幅に気づくというか。はいはい。
その逆説的なとこがある気がするんだよ。だからさっきそれが、ということはイコール、さっきハヤトが言ったあなたの幅は1センチですっていうインド先生術も、それも同じかもしれないっていうことはあり得るかなと思う。
なるほどね。はいはい。だから、もうちょっとちゃんと言います。たぶんね、今聞いてからポッってされてると思うので。
今僕が受け取ったことを言うと、それこそローソー・ヒトとか、そういう東洋的には無ですと、要は道ってイコール無だって言われたりするんだけども、
根拠が無いというよりも、無いということが根拠であるっていう発想なんだよね。
何か言ってくれた、幅が無いとか、幅というものが分からないということに気づいて初めて、幅というものに触れられるみたいな、そういう発想ではないのか言ったら思って。
まあ、おそらく、おそらくそうな感じだと思う。
そう、だとした時に、今言ってくれたような、まさに無いことを知るとか諦めるとか、さっき言ったような常に未完成である。
さっき、知恵の修練でも絶対に完成ってことはなくって、常に未完成だからこそやっぱり努力し続けるとか、常に修練し続けるっていうことが大事だっていう発想は、かなり近いと思うんだよね。
ああ、なるほど。すごい分かりやすいわ。だから自分が無の境地にいるとは全く思わないんだけれども、たぶんそれってすごい難しいから、それの代替案というか、しょうがねえなっていう意味で、
あなたは10センチですって、さっきの引導線施術は、ありっちゃありの気もするけど、何もしないよりは有効に、効果があるというかさ、意味がある気がする、何もないような。
僕の考えで言うと、引導線施術のことを幅で例えると、あなたの幅は10センチ未満でもないし、1メートル以上でもありませんっていうことを教えてくれる感覚、それでも何もないよりはマシだよね、みたいなさ。
そうだね、そこの感覚。そもそもそこを考えてないよりはマシだよね、みたいな。
信仰と哲学の関係
そうそうそうそう。っていうふうなものとしての、今は占いっていうものを言ったけれども、何がしかその自分の、やっぱりその、何て言うんだこれ。確かに幅ってすごい言い方だね、何て言うのかな。
さっき言った、自分らしさって言うと固定的なものがあるって思っちゃうし、自分の根底とかでまさに根源ゲームでどこまでも遡っちゃうって、いろんな言葉に罠があるなって今思いながら喋ってて、幅ってさ、広がったり縮んだりするとイメージしやすいし、っていう意味で確かにすごくいいなって今思いながら喋ってるんだよね。
はいはい。まあでも難しいなあ。今回の話で言うと、インド先生が10センチから1メートルぐらいですよ、みたいなことを言ってもらったとすると、今度それをメメントモリ側に言っちゃうんだよね。
あー、どゆこと?
だからそこを信じる強さが生まれるんだけど、今回の話とは違うから、その人が何も、そこを考えてないときよりは必ず良くなる。良くなる可能性はめちゃくちゃ高いんだけれども、
今回の話で言う、例えば無からとか、無であることが分かることで、自生力的にね、ちょっとずつ実践を繰り返していくとか、ちょっとずつむしろ幅を作っていくというか、幅と生きていくのだぐらいのさ、
そうだね、研ぎ澄ませていくのっていう感じだね。 反対側は、次元というか考え方が全然違うから、そのインド先生術的なあなたは10センチですっていうことを信仰することの延長線上に今回の詩の絵の修練があればいいんだけど、そこも気をつけて使わないとルートが分岐するなって思ったね。
なるほどね、はいはい、わかった。だから、何かに盲信してそれに頼って生きていくのか、ちゃんと自分でその瞬間瞬間、自分でも研ぎ澄ませて生きていくのかっていうことは全然違うよって話だね。
そう、どっちもいいんだ、いいというかね、その良さというか、それが多分歴史が証明してるだろうけどさ、今回のように。
そうだね、たぶん、あえて二元論で言うと、例えば仮に哲学が詩の修練で、宗教がメメントモリだとすると、また宗教の方が苦心とか、もう言っただけだけど盲信とかっていう、ある種、自分を預けるっていう発想だよね、より大きなものに。
神であれ仏であれ、その世界であれ、そこに預けて生きていくっていうのもあるし、でもそれだけじゃないよって時に、やっぱり哲学の自分の性を研ぎ澄ますとか、まさにこの未完成の性を歩み続けるみたいな発想っていうものがあるんだろうなと思うし、どっちを選んでも大変なんだろうなと思うし、
なんだろうな、この辺はいくらでも話してはね、やっぱり前回もそうだったけど。
そうだね、理想なのは、でも理想っていうのは難しいけども、やっぱりこの詩の修練の感覚を持ったままメメントモリな感覚を持つっていう、ヘイゲルじゃないけれども、たぶんね、あると思うんだよね。
そこはね、矛盾というか、本当に対立はしない気がする、ちゃんと同調できる気がする、その信仰心みたいなものと。そこはね、全然対立してないかなっていう感覚。
いやー、僕はそうは思わないな。
本当?
うん。なぜならやっぱり宗教とか信仰ってやっぱり預けることだっていう発想が、それこそさ、阿弥陀仏なんてまさにそうじゃない?絶対たりきりでさ、お神様にすべては自分というものを信じずに、阿弥陀様に全部預けるっていうことがやっぱり真の道道真宗的な信仰だから。
でもさ、南無阿弥陀仏を作った人がいるでしょ?
信蘭のこと?
信蘭かな?
うん。浄土真宗は信蘭だね。
そういう人はさ、ちゃんと仏教を勉強して、南無阿弥陀仏で伴えることできちんと悟りというかさ、浄土に行けるだけ、なんだっけ?
極楽浄土に出てもらうって話だね。
そこを作った人がいるしっていうことは、そこと同じ境地に行きさえすれば、その信仰と、今回シェイの修練の合流地点だと思うんだよ、そこが。
あー、はいはいはい。わかってきたわかってきた。
信蘭はどう?もちろん信仰もしてるんだけど、盲信だと思う?それを作った信蘭は。
いや確かに、信蘭からは確かに両立してるねって思うわ。
でしょ?その感覚。
自分の人生というか、本当に生涯も来世とかも含めて全部を阿弥陀仏に預けるということを決めているのは信蘭だから。
それは自分の、まさに修練の結果としてそれを選んだって話になるよね、確かにね。
で、それがさ、いわゆる仏教哲学的にもロンリー的にも、ある程度信仰的にも、こうやって、当時の人もだし、うちらが聞いたとしても、ある程度のロンリー性を持って納得できるよねってところまで作り込んでいる。
だからこそ信仰、それをさっき言ったさ、仏教哲学的な感じで、パッと出されたものを信仰しても大きくずれることはないっていう状況になってるからここまでちゃんと続いてるわけで。
確かにね。信蘭すげえな。
どうすか?なんかわかんない?思いついたまま喋ってるから。
なんだね、今日あそこの構図が見えてるね。すごいね。いやー面白いなー。
いやいや、ありがとうございます。
ごめんごめん、なんかただただ、何のを書いたっけ?
今を生きる重要性
今日あの、支援の修練の話なんですけれども。
あ、そうだそうだそうだ。
はい。あのー、え、なんか多分ね、本当に多分、本当にやっぱ大事なことって多分最後に言っていた、
要はその、正解っていうか、その、なんだろう、到達点にやっぱりたどり着けないんだという話だよね、今回で言うと。
もちろんたどり着いてそれが信仰とか宗教とかになる可能性もあるし、それをね、乗り越える可能性もあると思うんだけども、
少なくとも今回言った支援の修練っていうものは、やっぱり果てしなくやっぱり死に向かって続いていくことだし、
完成したいんだけど、それを自覚していることによって得られる幅があったりとか、
築ける幅があるということにも築くし、自分の幅がこのぐらいだろうということにも築ける可能性がある。
ただそれが、築定はしないという感覚だと思うんだよね。
はいはい、そうだね。
うん、うん。
っていうような話を、今日は聞きましたと、いう感じだね。
私もさ、ごめんね、まとめに入っているところであれだけども、さらに面白いのが、ここまで踏まえた上でこの死っていうものが、
またいつ来るか分からないけど、すごい深いよなと思った。
いやー、ほんとそれね。
それがさ、80年後とか50年後って分かっていれば面白いけど、面白いというかさ、また違うのかもしれないけど、それが今かもしれないし80年後かもしれない。
この振れ幅がまた、この生き方みたいなものをさ、よりこう深みを与えるなと思ったね。
はい。いや、本当にね、やっぱりそこがすごく大事だし、次回のね、実は今回のアドさん編、次回最後なんだけれども。
あー、そっか、今回で終わっちゃないのか。
次回まで一応やるんですけど、何かっていうと、その帯にありますってお伝えした、今ここにあることが幸福であるためにって書いてるんだよね。
あー、ほうほうほう。
つまり今なんだよ、やっぱり、この橋塔っていうのは。
はいはいはい。
やっぱりその、死っていうのはもちろん未来なんだけれども、この死を考えるのは今じゃないっていう話でいくと、やっぱりこの今っていうものをどう捉えるかってことはすごく大事になってくるんだよね。
なるほどなるほど。
うん。そうすると、今日の話って結構、そのね、死への修練大変じゃんとかハードじゃんって感じなんだけど、
そのハードさよりも、むしろ今自分が存在しているっていうことの幸せとか幸福とか、その輝かしさに目を向けましょうっていうふうな発想もあったりするらしいんだよね。
えー、面白そう。はいはいはい。
なので、ちょっと今日の話にもつながるので、次回ですね、このアドさんのこの言い方の哲学最後っていうことで、
今あることが幸福だって何なの?とか、それってそんなふうに言い切れることなの?っていうところをちょっと扱って、その話を深めたいというか広げたいなっていうふうに思ってますっていう感じですね。
はいはい、いやーわかりました。ちょっと今回もね、あの子は熱くなっちゃったけれども、次回もね、ちょっとその辺の話聞きながらですね、このヒエラードの生き方としての哲学ですね、そこを楽しんでいきたいと思います。
では、次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
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