哲学の役割と意義
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学院なじみのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の環野翔介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
今回から新テーマということで、ピエール・アドさんっていう哲学者について。
そうですね。
哲学者なんだよね。
哲学者です、哲学者です。
20世紀のフランスの哲学者なんですけれども、正直全然有名ではないと思います。
もちろんウィキペディアとかにあるんだけど、日本のウィキペディアだとワンスクロールで終わっちゃうぐらいの、そんなにめちゃめちゃ有名ですって言ってたのはもちろんないんですけど、
今回やりたいテーマって哲学、我々哲ラジオは哲学やってるじゃないですか、
っていう時に、哲学って役に立たないんですかね、みたいな話をしたいんですよね。
よく僕らも哲学って、例えば前回までもドイツ関連論とかって言って、
シェリング・ヘイゲルとかやって、ヘイゲルが絶対一でもたどり着きましたみたいな、すごい面白いってやつと思うんだけど、
それをじゃあ僕らの人生にどんな影響あるんでしたっけみたいなさ、そこってやっぱどうしてもあると思うんですよね。
特にこの前のヘイゲルは、「じゃあ自分はどうすれば?」みたいな、そこへの接続はなかったよね。
そうなんだよね。哲学ってどっちかっていうと理性で積み上げていくものとか、
もっと言うと別に体系、いわゆる体系だったものを作るとか、このような真理を復帰で役にすることが大事で、
別にそれをどう使うとか、それから何を引き出すかっていうのは別に哲学さんの仕事ではないみたいな、
そういうふうな感覚が僕らの中に多分あるからだと思うんだよね。
まあ確かにね、はいはいはい。
もっと言うとそんなものもなくて、単純になんか難しそうだよねとか、
なんか哲学者って別に興味あるけど、でもなんかよくわかんない世界のことを言ってるから正直優先の低いんだよねみたいな、
多分そんな感じだと思うんですよ、もっと言うとね。
そうね、だったらね、もっと稼げる方法とか、投資の方法を教えてよみたいなね。
そうそうそうそう、日経平均がとかさ、そうね。
そうなっちゃうと思うんだけれども、でもですよと、これが今回のピエラードにつながっていくんだけれども、
実はいざ古代ギリシャ、それこそスクラテスとかプラトンとかいろいろやったと思うんですけれども、
そこまで目を向け直したときに、実はそもそも哲学ってそんな何か高尚なものじゃなくて、
生き方にすごいひも性賛じゃないみたいな、そういうことを再発見したというか、
改めて捉え直したのが実はこのピエラードさんっていう人なんですよ。
そうなんだ、はいはい。
古代ギリシャの哲学者たち
もちろんそれまでにもいたかもしれないんだけれども、
ちゃんと古代ギリシャの研究者っていうのはこの深藤さんなんですけれども、
今回取り上げたい本がですね、この生き方としての哲学。
これタイトルだけは前もやったと思うんですけれども、この生き方っていうのが入ってるんですよね。
はいはい、面白そうだね。なんか今本屋さんに並んでてもおかしくないタイトルだね。
そうそうそう。で、そうなるとさ、言ったらあれだけどちょっとさ、
何だろうな、自己啓発っぽいというか、何だろうな、
哲学役に立つよみたいな感じをむしろ出してる感覚になっちゃうと思うんだけど、そうじゃなくて、
そうじゃなくて、そもそもさっき言った通りソクラテス、プラトンとか古代ギリシャまで目を向けると、
哲学ってのはそもそも生き方としての哲学だったんだと。
つまり哲学っていうものをねじ曲げて生き方に応用できるじゃなくて、
むしろそういう体系だったものとか真理を追求するっていう方がねじ曲がってるとは言わないけれども、
哲学の一側面でしかなくて。
ほうほうほう。
そう、本当は生き方を学ぶとか、もっと言うと生き方を変えること?
そういうふうに実践することが哲学なんだよっていうことを、このピエラ・アドさんっていう人がいろいろ語ろうとしてくんだよね。
あーなるほど、そっかそっか。だから哲学を使って生きていこうねじゃなくて、
哲学の在り方とはそうだったよねみたいな話をしてるんだよね。
そうそうそう、そうですそうです。
これ結構面白いのが、いろんな言葉が書かれてるんだけれども、
例えばね、哲学の目的について書いてる中で、
これはアドさんの言葉っていうか、過去にこんなことを言った人がいるよって話なんだけど、
哲学の目的っていうのが、情報を与えることじゃなくて育成することだったんだみたいな話があるんですよね。
つまりプラトンとかアリソテレスが学校を作るじゃないですか、アカデメイヤみたいな。
あー作ってた。あれ?ソクラテスも作ったっけ?
うん、ソクラテスは作ってない。
プラトンとアリソテレス。
プラトンとアリソテレスだね、そうそう。
これっていうのは、つまりプラトンが何か自分が作ったすごい哲学を教え込んでやるぜじゃなくて、
お互いに議論しながらとか、学び合いながら、まさに哲学的な生き方っていうものを馴染ませていくというか、
伝えていくみたいな、まさに育成期間だったんだよね。
あーはいはい、なるほどね。
もちろんそこで哲学の教授というか、教え人として仕事をするっていうのもあったんだけれども、
それっていうのは別に職業的なものよりも、そもそも哲学者としての生き方とか、
そういう考え方とか、あるいは世界の見方?
そういうものをちゃんと学んでいこうぜっていうことだったらしいんだよね。
哲学の実践と育成
なるほど、なるほど。
なので、一論としてはこの一言、「哲学っていうのは情報を与えるんじゃなくて育成することなんだ。」に尽きるんだけど、
それって結局何なの?とか、それってどんなふうに営まれていたの?ということを、今回ピエラードさんの回としてお伝えしていくことで、
前回まで結構ガチガチで、本当にドイツのちょっと方が怒るような話をしたと思うんですけれども、
ちょっと趣旨や感を含めてするのが続いちゃったんで、
今回は気を楽にしてというか、肩の力を抜いて聞いていただく中で、「哲学って確かにもうちょっと緩く付き合えるかもね。」とか、
そういうふうに捉えるともうちょっと短いので、まさにオーストラリア哲学者みたいな、「それも哲学だよね。それで哲学かもね。」みたいなふうに言えるのかなっていう、
結構そういう学びが自分の中にもあったので、
今回はこのピエラードさん、アドさんを取り上げたいと思ってますっていうふうな感じなんだよね。
なるほど。だからそれがこのピエラードの独自のというか、自分で考えた適当なひらめきとかじゃなくて、
ちゃんと調べると、ソクアテス、プラトン、アリストテレス、そういう時代から実はちゃんと哲学、このピエラードが言う哲学っていうものを、
実はそういう相方として、生き方としてやってたんだよっていう説得力を持って調べられた本というか、そういう話なんだね。
そうだね。実はこの本自体は対話録みたいな感じで、インタビュアーがいて、アドさんが答えるというか、伝わっていくみたいな、そういうふうな感じなんだよね。
なんかプラトンへのリスペクトを感じるね。
オフスター中間ね。
確かそうだったよね。プラトンとかもそれで語るというよりは対話形式で書いてたんだよね、いろいろね。
そこも実際この本なんか書かれていて、もっと言うと、いわゆるプラトン、ちょっと脱線するんだけど、プラトン対話編っていうのは、
ある意味でソクラテスの主人公というか、モチーフにしているんだけれども、結局何か哲学的な真理を伝えようとかってことじゃなくて、結局AさんならAさんとか、DさんならDさんに対してより良い問いを返すというか、
より良い導きをしていくという話になっていくから、そもそも哲学っていうのは個人的なものだったっていうふうな話をするんですよ。
なるほど、だから全部結論ありきでというか、全部同じ話に収束していくわけじゃないみたいなね。
そうそうそう、だからこれって全問答みたいな話で、全問答もAさんには、例えば仏の真理はこれこれだ、通行のものだって言うけど、Dさんにはそれは牛の糞だとか言ったりするときに、どっちやねんみたいな。
っていうふうに矛盾してるじゃんとかってなったりするんだけど、むしろそれは矛盾してるんじゃなくて、それぞれに対して適切なものを与えているだけであって、ポンポンは一緒だみたいな。
逆に言うと、例えばプラトンの本とかを読んだときに、矛盾があるとか一貫しないとかっていうのは、実はそれも哲学とは唯一の真理を見出すものだみたいな、そういう色眼鏡で見ちゃってる。
そういう色眼鏡で見ると、古代は矛盾してて、全然哲学としてなってないとかって言うんだけど、そうじゃなくて、それぞれに最適な生き方を伝えようとする哲学だとすると、それってむしろ正しいよねとか、そこに矛盾があるのは当たり前だよねみたいな。
そういうふうにアドさんは捉え直すんだよね。
でもさっきの言うときも面白いね。今、AさんBさんに必ず同じ話に収束するんじゃないのかみたいな話したじゃん。でもそれって確かに表現としては、通行なものなのか、牛の糞なのかみたいなね。
でも実は伝えてることというか、神話一緒みたいなところで言うと、確かに面白いかもしれないね。結構さっきの情報化育成化みたいな観点で言うと、情報の方を同じのを与えちゃいそうじゃん。AさんにもBさんにも。
2人にも、通行なものです、通行なものです。台湾にも、通行なものですっていう結論に持っていくみたいなさ。
そういうふうになんかなっちゃう気がするんだけど、実はそうじゃないっていうね。同じことを伝えるのに違う話をしなきゃいけないみたいな。その感じでリアルで面白そうだね。
そうなんだよね。これもちょっと仏教っぽい話だったんだけども、なんかで読んで、良い師匠って何かみたいな話があったときに、それは結局弟子のレベルをちゃんと見極めて、そこに最適なものを届けられるっていうのが良い師匠だよねみたいな話があるんだよね。
つまり、例えば、悟りとか仏とは通行なものっていう情報だけを届けるんだったら別にそれって、メディアでいいわけ、メディアというか新聞でいいわけですよ。別にその師匠である必要はない。
ただ、仏の真理とは通行であるって書いて呼ばればいいんだけど、それでは何にもならないわけだよね。じゃなくてちゃんと相手を見極めて、この一対一の関係性とかこの瞬間、いつ朝なのか夜なのかっていうことも全部含めて、この瞬間何かを伝えるっていうことが育成であるとか禅門道であるみたいな話があったときに、
そこまで厳密な何にしても、古代の哲学とか対話っていうものもそうだったんだっていうふうな発想があるんだよね。
アドさんはそこまでは言ってなくて、むしろやっぱり学者さんなので、アドさんは30年古代芸者を研究してきましたと。
なのでちょっとここについては語れるよみたいなことを言ってて、東洋との接続とかっていうのはないもんだと思ってたけど、この最近、この本を書いてるのが多分70歳とかぐらいなんだけど、最近ちょっと見えてきましたと。
でも専門家じゃないから語れませんみたいな、そういうふうな参考になるんだよね。
専門家だよね、30年やってたらね。
東洋とか中国とかのことに関しては専門家じゃないのでって話ね。
なるほど、アド自体が東洋について少し見てるというか、そっちの方も見てるみたいな感じなんだ。
そうそう、繋がりはあるかもねって言ってるんだけど、それについては語れませんみたいな。
ちゃんとそこは自分の専門領域外だからっていうふうなことを言ってて。
っていうふうな感じの人なんだけれども。
なんで今回、ピエロ・アドさんのことをめちゃめちゃ語るというよりは、アドさんが書いたこの哲学とは何か、書いたというか対話だよね。
この本を通じて、じゃあ結局哲学って何なの、哲学ってどんな役に立つのっていうことを中心に語っていきたいと思ってます。
前回までみたいに、ヘイゲルはこんなことを言っていてとか、精神現象学とは、みたいなことよりは、もうちょっとラフな感じになるかなとは思ってるんですよね。
アドの生い立ちと背景
ただそれは面白いかなと思ってて。
これはそれでツイッターっぽい話になるんだけれども。
今は結構1個のテーマを立てて、それについて自由に話すってやってるんだけれども。
ちょっと今後読書会みたいな感じで、みんなで1個の同じ本とかを読んで、それについて語るみたいな、そういうこともやれたらいいなとか思ってるんですよ。
そういうときに哲学者で、とりあえずデカウトの方法ずつ読んでみましょうとかでもいいんだけど、あんまりガチガチなやつだと大変だから、もうちょっと読みやすいというか。
この哲学とはないかも読みやすいわけではないんだけれども、それでも会話調で言って読めたりはすると思うから、そういうのを取り上げて、みんなで話すと面白いんじゃないかなと思って。
へー、なるほど。
で、それの1個チャレンジみたいな感じで、今回もこの本、生き方としての哲学っていう本を元に置いてありますか。
その本を理解して分析して話すよりは、ここから読み取れるようなことを自由に話してみますよみたいな。
雑談と普段のテーマの間ぐらいの感じで今回お届けしたいと思ってますっていう感じなんだよね。
おー、なるほどなるほど。ガチガチにこの本について理解してくれるっていうだけじゃないってことだね。
そうですそうです。もちろんね、それも踏まえてはいるんだけど。
なので、長さだけ3回分ぐらいかな。これまで朱子学とか同一関連論とか結構長編が続いちゃったんで、ちょっとサクッと楽しめる感じで。それでも3回って結構長いけど。
まあね。
ちょっと麻痺してるようになってますけど。そういう感じで、お付き合いいただけたら嬉しいなと思ってますっていう感じですね。
哲学との出会い
はいはい、わかりました。
はい。
そしたら早速やってくるんだけど、たぶんね、アドさん誰やねんっていうのがあると思うんで、ちょっとそこをお伝えしてくるんですけれども。
そもそもね、この人僕も全然もちろん知らなかったんですよ。
で、何がきっかけかっていうと、ふうこうですね。時々あのふうこうの名前出すと思うんですけど、彼の講義録っていうのがあって、その大学の講義した内容を文字起こししたものが結構出版されてるんですよ。
へー、あ、そうだ。今あとYouTubeで上げられてるようなね、当時の。
そうそうそう、でもほんとそう。大学の講義っていうのが、当時やっぱ本なんですよね。
はいはいはい。
で、それを読んでるときにですね、解説文だったのかな、ちょっと忘れたんだけど、そこに、このふうこうに事故への配慮っていう結構晩年の大事な概念があるんですけど、この発想っていうのがそのPLアドから取り入れてるんだよみたいな、そんな話があったんですよね。
おー、はいはいはい。
で、なんだそれ、ふうこうが参照した学者すげえみたいなことを思って、どんな人だろうと思って、ちょっと関心が湧いたんですよ。
おー、なるほど。
で、PLアドさんで調べたりとか、ちゃんとGPDに聞いてみたりとか、で、まさに参照されたのは今回お伝えする生き方の哲学っていうふうな本で、
で、なんかタイトルからしてめっちゃ面白そうみたいな、哲学と生き方ってどうやってつなげるんだろうみたいなことをちょうど思ってたりしたんで、買ったのが3ヶ月前ぐらいかな、今年の夏ぐらいなんですけど。
おー、割と最近なんだ。
ほんとに最近。で、やっぱり読んではこれ面白いなとか、これソエテツラジオのあり方にすごいなじむみたいな、なんかすごい僭越ですけど。
っていうのがあって、こうやってお届けしたいなと思ってたっていうような感じなんですよね。
へー、あ、そうだね。はいはいはい。
うん。なので、哲学校もね、絶対いつかやりたいと思ってて、まだちょっと無理なんですけど、ちょっとそこからつながったアドさんってのを今日やりますよっていうふうな感じでございます。
あれだね、早くとソエテツラジオのさ、たぶん台本書くたびにいろいろ読んでると思うんだけどさ、こういうのも並行して読んでんの。
読んでる。
読んでます。
図書館で3冊ぐらいバーッと借りて読みつつ、面白そうな本があったら買って読んでる。
なるほどね。そこが出てきた。PLアドね、今回の。
そうです。そんな感じなんですけど。
ちょっとね、僕の話になっちゃったんだけど、アドさんどんな人って話だけ少し軽くするんですけど、
1922年にフランスのカトリックの家庭に生まれておりますと。今から100年前ぐらいに生まれた人だね。
さっきカトリックの家庭って言ったんですけど、お母さんがめちゃめちゃ経験のカトリック教徒だったらしくって、
もっと言うとね、狂信的な、狂ってるって書かれてるんですよ。
狂信的、へー。
そう。自分の母親はね、そういうのって結構だと思うんだけど、でも実際結構いろんなエピソードがあるんだけど、
例えばどんなぐらいだったかっていうと、アドさんに兄が2人いるらしいんですよね。
もちろんお母さんからしたら全員神父になるよねって、神学校に入れられてるんですけど。
一番上のお兄さんが15歳ぐらいの時だったかな。
お兄さんが、「もし僕が神父になるのやめたらお母さんなんて言うの?」みたいなことを聞いたらしいんですよ。
そしたら答えたのが、「それならあなたが死ぬのを見るほうがマシだわ。」って答えたらしいんだよね。
おー、なるほど。
つまり自分のことは神父にならないぐらいだったら、あなたが死ぬのを見たほうがマシみたいな。
まあまあ、なるほどね。
っていうぐらい結構、経験って言っていいのかな、これは。
まあ、信者ですと。
そうね、判断できないね、ちょっとね。
そうだね。
そういうのもなくてね。
そのエピソードだけではね。
結構やっぱり、アドさんの幼少期でいうと、もちろん学べてよかったってことありながらも、
やっぱり恐ろしい地獄の話とか、罪の話とか聞いたときに、
なんかやっぱりこの世界怖いな、みたいな。
本当にこの世界でいいのか、みたいなキリスト教的な発想に対して、やっぱりちょっと思う部分があったらしいんだよね。
まあ、だろうね、全然ね。
当時からしてもたぶんちょっと行き過ぎな観点から、価値観からお母さんはいろいろ喋るわけでしょ。
確かに、そこそこあれだもんね。
地獄に行くところか、あれだもんね、神父にならない、イコール地獄に行くぐらいの感じで、
だったらもう死ねぐらいの。
そうなんだよね、その魔法、魂みたいな。
だいぶ白黒の境界線がすごいところにありそうな。
そうなんだよね。完全にやっぱり基準がそっちにある人。
で、お父さんはどうだったかっていうと、わりとそこから距離を取ってて、
なんかお母さんは言ってるけど、お母さんにそう伝えてる神父はちょっとやばい奴やで、みたいな。
そんな感じのことを言ったバランスの中にいたらしいんだよね。
だからこそ、安田さんも、もちろん神学校出て神父っていうか、そういう資格も取るんだけれども、
最終的に哲学を教えるとか、そういう教授になっていくんですよ。
ああ、ちゃんと出てるんだ、神学校。
もちろん出てる。
安田さんは、今では哲学の教授になったよって言うけど、それもかなり、
安田さんからすると、心臓バクバクみたいな。
お母さんに神父じゃなくて、教授なんて言ったらなんて言うだろうかみたいな。
もう絶縁だよね、みたいな。
それもやむなしぐらいの感じで、なっていくんだよね。
結構本の中には、この辺のこともすごい豊かに書いてて、
結構キリスト教的な価値観の中で、自分の哲学を見出していくとか、
もっと言うと、自分の生き方ってなんだ、みたいなことに向き合っていくっていうこと。
これはすごく面白いんだけれども、今回は省いて、もう少し哲学的なところをお伝えしておこうと思ってます。
さっき言った通り、1922年の生まれなので、20歳の頃に第二次世界大戦が起きていくわけですよね。
その中でフランスも大変で、国鉄の作業員になったのかな?
鉄道会社に入って、現場で肉体労働をするみたいなこととかもやってたらしいんですけれども、
そこから新学校の教師になって、そこで哲学を教え始めるらしいんだよね。
新学校の中にも哲学っていう授業があって、当然その新学校の中でも哲学ではあるんだけど、
それを先生として教え始めます。
そういうところから、彼の古代芸術者の哲学研究が始まって、
最終というか、さっき哲学の教授になったよって言うんだけども、
フランスにコレイジドフランスっていう、いわゆる日本の東大みたいな、もっとたぶんさらに上みたいな感じなんだけど、
そういう最高の学問の頂点みたいなところがあるんですよ。
そこで働かないかってオファーを受けるんだけど、このオファーを押したのが実は風光なんですよ。
アドさんの論文を風光が見たらしくて、それでこの人すごいってなって、
風光もコレイジドフランスにいたんだけど、研究機関で教えませんかと。
脱進が来たのが1980年なので、ほぼ60歳なんだよね。
だから全然、いわゆる哲学的エリートみたいな感じで二人でやって、第一学校入って云々とかじゃなくて、
新学校で要請したんだけど、いわゆる30年に及ぶ研究というものが風光に留まって引き抜かれたみたいな。
そんな風な感じの哲学的な人生を歩んだ人っていう感じなんだよね。
哲学の役割
すごいね。だからだいぶお母さんの価値観と上手くバランスしたとこにはいたんだね。
いざるを得なかったみたいな。
いざるを得なかったね。
新学校というとこで一応、お母さんのことを尊重しつつも、自分がやってたのは哲学っていうね。
そうだね。
ただやっぱり彼のギリギリの宗教か哲学かって、結構それもすごくテーマでこの後も話してくるんだけど、
やっぱり宗教っていうのも一つの生き方じゃないか当然ね。
やっぱりこういうふうに生きるべしとか、こういうふうに世の中を捉えるべしっていうものがやっぱり宗教としたときに、
そこに馴染まなかったっていうみたいなのが、やっぱり哲学の始まりがアドさんの中にあったらしいんだよね。
まあまあ、そこ極端だったから。
そうそうそうそう。
もっと言うとね、そのキーワードとして大海原にいる感覚っていうことが出てくるんだけど、
これ自体はね、小説家のロマン・ロランっていう人がいて、この人の言葉らしいんですよ。
どういうことかっていうと、大海原で別に海に浮いてるとかじゃなくて、
このレベルでちょっとイメージしてほしいんだけど、限りない水平線しか見えない海原、海がありますというときに、
自分がその中の一つの波であるっていう感覚。
つまり人間としては自分が海に頼っているんじゃなくて、自分は大いなるものの一つだみたいな感覚。
っていうのを、このアドさんもちっちゃい顔にちょっと味わった気がするっていうのがあったんだって、瞬間として。
そうしたときに、やっぱり人間っていう分かれたもの、別々のものじゃなくて、
自分はやっぱり世界の一部だみたいな。
それはどういう表現なんだろうね。いわゆるカトリック信仰に基づく神秘体験なのか、それとも自分の哲学的なイメージなのか、どっちなんだろうね。
あれいくと、後者だね。
あーそうなんだ。
いわゆるキリスト教的な神と普通になったみたいなことではなくて、
自分は世界というものと触れ合っているとか直接使われ合っているという感覚が湧いたらしく。
そういう瞬間があったらしくって。
そうしたときに、キリスト教的な厳格な神と人は違うとか、そういうところとの整合性がどんどん取れなくなっちゃって。
で、自分の感覚を超えて何だろうというところを哲学に求めていくとか、やっぱり惹かれていくみたいな、そういうのがあったらしいんだよね。
おーなるほど。面白いね。
というところから、今回の生き方としての哲学とか、哲学って役立つのかみたいな話なんだけれども、
そのアドさんにとっては、哲学ってやっぱりある種キリスト教ではない、宗教ではない生き方みたいな。
宗教と哲学の関係
時間とかっていうものを見出すために、はいって言ったみたいな、そういうところがあったらしいんだよね。
まあね、やっぱ環境って大事というか、だいぶ影響を与えたんだなって。
いいよね。本当にそう。
本来多分、わかんないけど、本来多分そういう信仰って、安らぎとか、それこそ救いだよね、なんかね。
あと自由か、救済的なイメージだけど、ちょっとそこからほど遠かったのかもしれないね、お母さんの雰囲気がね。
ちょっと切実になったのは、悲壮感漂うというかね。焦燥感すごいみたいなね。
全然救われてないじゃん、みたいな。
あ、そうそうそうそう。
やっぱりなんていうのかな、やっぱりその、そうやっぱ救われている。
し、やっぱりその、なんだろうな、宗教って自分を取り戻したらしいんだよね。
なんか書いてるのは、お父さんを産んだ時にお母さんが体調崩しちゃって、やっぱりそういう風ないろんな辛いこととかからも、やっぱり教会とか神父っていうものが救ってくれて、それを信じることで救われたみたいな、やっぱり感覚がお母さんにはあって。
はいはいはいはい。
だから母にとってはすごくいいものなんだけど、やっぱりその周辺の人からすると、どないやねんって思ってしまう。
っていうこの二重構造があったみたいなんだよね。
なるほどね。だからお母さんを主人公にしたら、たぶんそれはそれですごい納得感があるのかもしれないよね。
そうそうそう。救いと安らげの物語になるんだよ、それは。
うんうんうん。
うん。
これ兄貴が言ったような平穏っていうのもお母さんは絶対にあるんだけど。
なるほどなるほど。
でもやっぱりその周辺ね、夫であったりとかからすると、ちょっと程遠いみたいな。
何だろうな、すごい強い言葉になっちゃうけど、毎回見ると依存してるように見えるというかね。
そう言えちゃうよね。
難しいとこだよな。そこそこ主人公を変えればの話だもんね。
本当にそう本当にそう。
アドさんを主人公にすると、そういった中で哲学っていうものがやっぱり大事なテーマとして入ってきますって感じなんだけれども。
ここから生き方と同じような哲学の話に入っていくんですが、さっき冒頭でもお伝えした通り、哲学の目的っていうのは育成することだと。
じゃあなんでその育成が必要かというと、もっと言うと、まさにこの宗教と哲学っていう話になっていくんだけれども、
ソクラテスの哲学的葛藤
やっぱり古代のギリシャとかに目を向けると、やっぱり当時の広まっている基準って宗教なんですよね。
そうなんだ。
以前タレスの時とかにも触れたかもなと思うんですけど、やっぱりオリンポス十二神とかも含めて、やっぱりあらゆるものは神なんですよね。
太陽も神だし、大地も神だしみたいな。
病気とか、いろんな起きることっていうのもやっぱり神の意思によって動きますみたいな、そういうふうな世界観だったんですよね。
古代のギリシャっていう世界観がね。
もちろんアテとかっていうところで、民主的にいろんな議論はされるんだけれども、
スクラテスの時に言ったアポロの神殿でスクラテスが地者であるみたいなお告げがあって、
それをスクラテスが突き動かしたとかってあると思うんですけれども、
当時神に何かを尋ねるとか願うとかって当たり前すぎるというか、むしろそれが前提にある世界なんだよね。
なるほど、あったもんね。スクラテスの時もね。
しかも友達が勝手に教えたキーで。
スクラテスも別にそれを信じたというよりは、「そんなわけねえじゃん!」からスタートしてたよね。
そうそう、そんなわけない。
でも神が間違ってるはずもないけど、でも自分はどうしてもそう思えないっていう。
あーなるほど、その葛藤あったね。
という中で他の地者、自分より賢い人がいるのかいないのかというのを問う中で、問答法とか。
無知の地ってのは生まれてったよみたいな、見出せたよっていう話だと思うんだけど。
そっかそっか、そんなわけねえじゃんじゃなくて、神様言うんだからそうなんだろうけどみたいなね。
そうそうそうそう。
あーそういう感覚か。
そうなんです。だからそういう意味では、神は信じるっていうのは根底にあるんだよね。
うん、でも根底にあるんだけど、でも信じきれない、疑ってしまう自分もいるっていうところがやっぱスクラテスの葛藤なわけだよね。
はいはいはい。
うん、でこれってまあ、ある種すごく無理に引き付けると、今のアドさんのキリスト教的な世界観っていうものはもちろんあるんだけど、
でもやっぱそれを疑ってしまうというか、やっぱすごい馴染めないみたいな。
はいはいはい。
まさにこれ宗教と生き方みたいな感覚に近いんだろうなと思うんですよ。
そうなのね。それは確かにどっちも頭でじゃなくて、片方だよね。スクラテスの言う当時の神様的な話もあるし、
イエルアドの言う里に子が生まれた頃からね、たぶんちゃんと。周りもそうだし、家がたぶん幻覚だってなると、
もう魂レベルでそっちちゃんとインストールしてる中でって話だもんね。
そうそうそうそう。そうなんです。
まさにこれは生き方っていう話で、宗教か哲学かっていうロジックに考えて、よし宗教だとかじゃなくて、
もう宗教的に生きてしまってるんだけど、でも疑わざるを得ないみたいな瞬間になった時に、やっぱ問いが生まれてくるみたいな話なんだよね。
なるほどー。だからもうお餅として、団子として生まれたのに、
俺はパンが良かったんだ、みたいな。パンっていう世界性もあったんじゃないかっていう葛藤してる団子って、団子じゃん、みたいな。
団子。どう考えても団子。
パンにはならないじゃん、みたいな感じだよね。
そうなのかな?ちょっと待って。ちょっと違う気がするけど、団子であることに疑いを持ってしまった瞬間の苦悩とか苦悩はあるよね。
団子なのにね。
なぜ俺は小麦、なぜ小麦ではないのだ、みたいな感じでね。
そういう世界もあるってことを知ってしまったっていう。
出会った時に、団子とは何かって考えちゃうわけですよ。
確かに。当たり前なのにそう言って生まれちゃったんだけど、団子とは何なんだろう。
そうそうそう。つまり、ソクラテスも問うわけですよね。正しいとは何かとかさ。
それは本来問う必要がないんだって。神様がいて、神の定めた正しさがあるわけだから、本来問わなくていいんだよね。
そうだね。
でも質問しちゃいますと、正しいって言ってるけどそれって何とか。
神様はこれを正しいって言ってるけど、こっちの神様はこう言ってるとかどう思うのとか聞いた時に、答えられないんだよね、やっぱり相手はね。
あー、はいはいはい。
だって考えたことがないから。
確かに。
うん。っていう風な形で、いろいろ聞いてるわけですよね。団子の世話をするとは何かとかさ、友人とは何かとか。
第1回だと思うんだけど、友達って何だと思うとかって言った時に、やっぱりお互いに分かんないねってなっちゃうっていうのは、
その分かんない要は、違う秩序とか違う発想ってないんでしたっけっていうことはやっぱりソクラテスはずっと考えてるっていうか、そこに立って物事を考えたい人なんだよね。
なるほど。
だからこれはもっと言うと、やっぱりその裁判があったじゃないですか、ソクラテスの死の裁判で、要はね、家庭の若者をたぶらかしたとかさ、そういう悪い例で動いてるとかって言ったと思うんだけど、
それは本当にそうで、神の秩序っていうのがあるのに、それって本当にあるんでしたっけって言ってるソクラテスはやっぱりやべえ奴なのよ。
やばい奴だね。だってその団子の村にパンを入れよう小麦を導入しようって言ったら、やばい奴だよね。
そうなんだよ。我々団子をもらいたかったのに小麦を植えるんですかとか、パンっていうものがあるという概念があった時に、
俺もパンがいいとかって若者が言い出したらさ、団子の村の村長、パンだーってなるじゃん。
やばいね。
そうそうそう。
確かに確かに。
秩序が壊れちゃうんですよ、やっぱり。
でもそれをやらざるを得なかったというか、宗教的な秩序だけで本当にいいのかっていうことをやっぱりソクラテスはやり尽くしたというか続けた感じなんだよね。
それはそうだよね、確かに危ない。
そうそうそう。さっきも言った死の場面があると思うんですけど、最後毒ニンジンを悪法も放ないって言って飲んで死ぬわけですよね。
毒ニンジン?
毒ニンジンは毒を飲んで死ぬんだけど、毒ニンジンだったらしいんだよ、それ。
飲む?食べたの?
毒肺を仰ぐっていう話があるんだけど、要は死刑で自分で毒を仰って死ぬんだよね。
でしゅとかは逃げてくださいとかって言うんだけど、悪法も放ない。
ニンジンは毒の成分があるニンジン。
たぶん作った毒を飲んで死んでいくわけですよ。
彼はもちろんポリスの法律を守るって法に準ずるって話もあるんだけども、
そうじゃなくて、やっぱり自分で正しさをちゃんと決める。
自分はポリスの一員であり、それに誇りを持ってちゃんと生きて死んだのだっていう、そういうところに基づいているのであって、
神の運命で生きるとか死ぬとか、神が定めた秩序によってってことじゃないんだって話なんだよね。
確かに。
生き方と哲学の再考
だからそういう意味では、法律ってもちろん神に基づくものがあると思うんだけど、やっぱり民衆とか人が決めたものじゃないですか。
自分の運命っていうのは神が決めたんじゃなくて、人が決めたものなのっていうところがここには含まれてると思うんだよね。
それはあれか。人っていうのはソクラテスが自分で決めたじゃなくて、ソクラテスが神じゃなくて、神じゃない周りの人間によってこの運命が決められちゃったよねっていう話になる。
そうそうそういうことそういうこと。
だからソクラテスが自分で選んだんじゃなくて、もうちょっと外部的な話ってことだね。
外部でもあるし、その外部と共に生きることを選んだって話でもあるからね。
まあ確かにそうか。
これはソクラテスのときにやったと思うんだけども、彼自身は別に哲学者として外をふよふよしてたんじゃなくて、
当然戦争にも行ったしとか勇敢に戦ったとかって話をしたと思うんだけど、
当然いろんな友人たちがいて、一緒に散歩したり泣き笑いって、本当に素朴にして生きた人なんだよね。
それをある種生涯貫いたからこそ、ある種彼はソクラテスとして尊敬され続けたんだとか、
ある種その生き方こそが哲学者だったんだっていうふうに、アドはそういうふうに捉え直すんですよ。
ある種、ご神託でソクラテス以上の知者はいないって言われて、やっぱそれを疑ってしまった。
その疑ったっていう生き方が、やっぱり彼を哲学者にしたっていうところが、生き方と哲学っていうところの実は原点にあるんだよっていうことを、
アドさんは捉え直す、見出し直してますよっていうふうな感じなんだよね。
なるほどね。難しいね。
なんとなく、ソクラテスしてに立つと、やっぱそれってすごい崇高なことに見えるんだけれども、
周りの人からすると、やっぱただのやべえ奴だよねっていう部分もあるんだよね。
これは本当に面白くて、ごめんちょっと続きで話していくと、僕らが持ってるソクラテス像っていうのはやっぱりプラトンにすごく追ってますと。
ソクラテスは自分では何も書き残さなかったので、基本プラトンの対話編っていうところからソクラテスってこういう人だったんだっていうふうにやっていくんだよね。
だったときにプラトンはやっぱりソクラテスを介して、例えば哲学っていうのは死への修練、あとは死ぬことへの修練とか、そういう鍛えることはみたいなことを言ってるんですよ。
修練だから、あ、鍛える。なるほど、修行みたいなね。
修行みたいな、そうそうそうって言ってるんですけど、これってちょっと怪しいというか、要はプラトンってやっぱりイデア論じゃないですか、何度も言うとおり。
そうすると真の世界はイデア側で、やっぱり現実世界は違うんだよね。
プラトンとエピクロスの哲学
っていうときに、要は現実世界っていろいろ大変で、作り物の世界だから、やっぱり理想の世界に行こうぜって言って、それが次第のぐらい。
ちょっとそこまでシンプルじゃないんだけれども、そういうふうな発想につながるっていうときに、死を重視するみたいなことをやっていくんだよね。
それで言うと、やっぱり発想としてはいい感じもするけど、でも本当って受け入れにくい部分もあるじゃないですか。
実はこれって当時の技術者でもそうだったらしいんだよね。
そう、兄貴も言ってくれたとおりで、例えばプラトンが、哲学は師への修練だ、修行だとかって言ったりするじゃん。
そうすると、いやいやとか、死ぬとか言ってるけど、肉体を離れて魂がそういう世界に行くのとかって言ってるけど、そんなことよりも魂が若干あったとして、
それが今ここにある、この現世は僕ら生きているじゃないかと。むしろこっちの方が大事じゃね、当たり前にっていうのが普通の感覚なんだよね。
やっぱり同時代の人は、これもプラトンが書いてるんだけど、プラトン派に対して品種の人、いわゆる死と隣り合わせの人で、あいつらちゃんと生きてねえぞみたいな、そういう批判もしてるらしいんだよね。
だからちょっと感覚違うかもしれないけど、虚無主義的に移るんだよね、たぶんね。
そうだね。生きることを大事にする人からすると、あいつらは生を大事にしたいって、そういう虚無主義的というか、そっちに置いてるって思う。
なんでそこを比べるのというかね、どっちも欲しいじゃん、別に普通の感覚でさ。生きてる時も楽しくしたいし、死んでからも楽しくしたいでいいじゃん、みたいな。
まあそうね、両方ね。
でもそう、そこがやっぱり二元論の大きな問題で、やっぱり向こうに真理がある、清らかな、善なる世界があるって言うと、やっぱりこっちはどうしても悪に満ちた、真理ではない世界だと、そういうふうな構造になっちゃうんだよね。
これ兄が言った通り、別にそれはそれで楽しんで生きて、死んでからも死んでる世界で豊かに生きたらいいじゃないってさ、そう思えたらもちろんハッピーなんだけど。
プラトンとかに言わせるとね、お前バカかって言われるかもしれないけど、ちゃんと考える。
偽物の世界でみたいなやつね。でも生き方としては別にそれでいいというか、幸せになることがベストであればそれでいいわけなんだよね。
幸福の定義とウェルビーイング
実際、エピクロスっていう人がいたと思うんだけど、エピクロス、何だっけ。
庭?作った人?
その、園かな?園を作った人。
庭じゃないか。
快楽主義とかって言われたりするんだけど、
これとかはちゃんと哲学的なことを踏まえつつも、結局人間で食べるとか飲むとか寝るとかさ、そういうふうに快楽ってのは最低限あって、
別にその上にもちろんね、すごい地位を得るとか、大金を得るとかってこともあるかもしれないけど、
やっぱそれは得ようと思ったら大変だし苦しいこともあるから、
本当にその初歩というか、基礎にある生存の豊かさとか、
思うと語らう楽しさとか、そういうことに別に大事にしていきたいんじゃねとかっていうぐらい人もいたわけなんだよね。
はいはい、だからウェルビーンをどう定義するか問題だよね。
もう現代って本当にそう。
そういう意味で、もちろん哲学者全員が、
もっと言うと、エピクロースはプラトン派ではない、プラトン的なことを批判しているから、
そういう意味でどう生きるのかとか、まさにどこに幸せを置くかみたいな話を考えてるんだよね。
これちょっと脱線しちゃうんだけど、ピエロ・アドさんの言い方も、そうした哲学の本の帯にすごい面白い言葉があって、
本の帯っていろんな紹介とか書いてるじゃないですか。
そこに一番大きな字で書いてるのが、今ここにあることが幸福であるためにって書いてるんだよね。
つまり、今ここにある、生きているっていうことが、やっぱり幸福であるとは何かっていうことを、
これ第3回ぐらいでまた伝えるんだけど、アドさんはそれを考えてるんですよ。
おー、そうなんだ。
だから逆に、古代ギリシャのことをもちろん見直してるんだけれども、
このプラトンが言っている、死への修練だよねとか、死の方が重要だよねって話に、ただ同意してるわけじゃない。
とはいえ、問題構造として、ある種死を重視するっていうのは、結局、肉体的なものよりも理性みたいな考えることを重視するとか、
個人の性よりも、ある種ちょっと普遍的な世界、死っていうより抽象的なことを大事にするっていう発想じゃないですか。
っていうような発想がプラトンにはあるし、逆に、さっき兄貴が言ったようなウェルビーイングで言うと、
いやいや、今この瞬間、生きているこのかけがえのない肉体とか、この私というものを重視するのかっていうことの、この2つの問題が出ちゃったんです。
はいはいはい。
で、実はこれがドイツか何よりずっとやってきた、経験を大事にしますかとか、合理とか理性だよねっていうところにずっとつながってる問題なんだよね。
わー、なるほどー。
はい。
ここちょっと挟む形になるかもしんないけれども、ウェルビーイングで表現したけれども、
はい。
これは面白いね。さっきみたいにさ、死をむしろ崇高なものとかゴールとか到達点として考えると、
そこに向かうっていうことが、今自分にとってウェルビーイング高い可能性もあるよね。
えーと、もうちょっと教えてほしいのはどういう感覚だろう。
えーと、だから天国に行くために、今つらいけどすげー頑張ることがめちゃくちゃ気持ちいいっていう話。
あーなるほどね。
うんうんうん。
っていうようなマインドセットも作れるかなと思って。
ウェル、目標とか基準をそっちに置いたらそうだよね。
だよね、うん。で、これも今っぽくて面白いなと思ったんだけど、
じゃあ、そのゴールないよと。今をちゃんと楽しめというか、今を充実させろって言われるのって、
それ結構苦情かもむしろみたいな。逆に。
そう。僕もその感覚はある。
そうか。あるな。
結構あるある。そこはやっぱ悩んだ時もあるし。
だからハヤト言ってたもんね。幸せとはないかを定義が欲しいって。それも近いよね。ゴールが欲しいみたいな。
基準が欲しいっていう感覚があって、やっぱりその基準は結局何を正しいとしてもいいのかわからないとか、正しいってないよって言われることの苦しさもあるじゃない?
そうだよね。今この瞬間を幸福に起動。幸福って何?っていうことを決めてもらった方が楽だよね、みたいな感覚もあるかもしれないからね。
そういう意味では、やっぱりある種プラトンが、イデアンは世界が真実で、世界はある種偽物だから、真実に近づくべしっていうのは、やっぱり一個のある種宗教ではない基準なんだよね、これが。
そうだね。カントの定言令法とかさ、忍者の超人的な。到達不可能だけど、一応ゴールとすることで何かベクトルが定まるみたいなね。
あ、そうそうそうそう。
定めてもらえるか。
そこに意味を見出しやすくなる。やっぱりそれに近づいている自分がちゃんと前に進んでいるんだとか、それに則っている自分、外れた自分っていうのが、こういうふうな良いんだ悪いんだとかっていうふうにちゃんと判断してあげられる。
っていうのは、良くも悪くも安心できるんだよね。
今日の流れで言うと、ペラトン側のイデアの死の方ってダメな感じしたけど、意外と、さっきウェルビーとか幸福とかって考え始めると、分からなくなったけどね、どっちが良い悪い。
いや、本当にそう。なので、やっぱりそこってすごく難しい話だよね。まさにそこを今回掘り下げていきたいんだけども。
一個、安野さんの話でいくと、当時の哲学っていう中にもいろいろあって、さっき言ったヘイゲル的な体系を作るとか、万物の何かゲームみたいな感じで、それを探求していきましょうっていうものは当然あって、むしろそれがある種主流になっていたと、近代哲学以降ね。
でも、その古代まで遡っていくと、いわゆる体系を作るとかじゃなくて、やっぱり生き方に向き合うための哲学とか、そういったものを作るための哲学っていうものがむしろ主流だったんだと。
哲学っていうものも実は別の流れがあるんだよっていうことは、まず安野さんはちゃんと考えるというか、見出すんですよ。
その中で、この哲学によって生き方を作っていくとか、見出していく。もっと言うと変えていく。そういうふうな営みって結局どんなものだったんだろうねっていうことをある種描いてるのが、この生き方推しの哲学っていう本ですよね。
おー面白そう。なるほどね。哲学を見直す本だね。
そうそうそう、本当に。その点には自分の経験もそうだし、実際古代芸者が向き合った宗教とか神っていうことの基準じゃなくて、そうではない基準っていうものをどう作るか。その営みこそが哲学なんだよっていうふうな発想があるんだよね。
わー、はいはい。ちょっとしっくりきた。
そうそうそうそう、っていうふうなところがあるんですよ。なので冒頭ね、ちょっと哲学ってさ、よくわからないこと言ってるねーとかさ、役立たないでしょ、僕らが生きる中にはっていうところは一面あるんだけど、それはあくまでも、万物は何かゲームの哲学の話に当てはまるものであって。
今日やろうとしている、今回やろうとしている生き方としての哲学っていうほうが、実はもうバチバチに、まさに生き方に役立つんだぜというか、伝わってるんだぜみたいな。そういうふうなことを今日はお伝えしていこうと思ってますって感じなんだよね。
生き方としての哲学
おー、わー面白いね。で、そのピエラードはそっちをちゃんと語ったって話なんだよね。
そうそうそうそう。そっちに一本軸線を引いてっていう感じだね。
わー面白そうね。はいはいはい。
はい。っていう感じでね、結構いい感じの導入になったんじゃないかと思っておるんですけど。
まあ結構長い導入だったけどね。
長かった。思ったより話しちゃったな。もうちょっとスクッといけると思ったんだけど。
まあでもあれだよね、いつもの、そこそその人の知識、その人の万物は何か、ゲームを知るっていうのとはまた違うもんね。
どうしてもこう、生き方とかって言われちゃうと、やっぱりすごい短いなってくるから。
そうだね。
またちょっと熱が入る感じもするというかね。
そういう意味ではね、たぶん自分に引きつけて考えやすくもあると思うし、やっぱ哲学ってものバラエティーだよね。
なんか僕もさ、哲学って真理を見出すものとかさ。
それこそ過去にもさ、これは哲学か宗教か思想かとかっていっぱいあったと思うんだけど。
っていうふうなこともやっぱりあるんだけど、やっぱり哲学とはこれくらいであるってやっぱりすごく難しいんだよねっていうのがたぶん大前提にあって。
ただやっぱり僕は別に哲学学者とか研究者ではないから、やっぱり自分が生きていくにあたって哲学ってものとよりうまく関わりたいと思うときにすごくいいサインになるというか、
何だろうな、指針になるなと思ったんで、そういうところを一緒に学んでいくというか、見ていけるような範囲にできたらうれしいなと思ってますっていうような感じですね。
はいはい、わかりました。ちょっと早く聞きたいから次行きましょう、次。
次回はこの本の中でも、さっき言った生き方っていうのもいろいろあるよねっていうときに、まずやっぱり物を見るっていうところが結構大事であるっていう話があるんですよ。
やっぱり人間って視覚で結構物事を判断する生き物だから、ある種この世界をどう見るかとか、どういうふうに捉えるかっていうところにちょっとフォーカスした感じの話っていうのを次回お伝えすることで、
このピエラードさんの生き方としての哲学っていうところをもう一歩深く見ていこうと思ってますというふうな感じですね。
はいはい、わかりました。では次回ですね、このピエラードのより具体的なところを見ていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。