1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #217 サルトルも間違っていた..
2024-05-26 53:10

#217 サルトルも間違っていた?ホワイトヘッドが語る「具体と抽象」

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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サマリー

今回のエピソードでは、有機体の哲学に焦点を当て、具体性を置き違える語尾というキーワードを通じて、ホワイトヘッドの哲学的な感覚を伝えています。この言葉を理解することで、ホワイトヘッドのレンズを通して世界が見えてくるでしょう。具体と抽象についての論争が展開されており、具体性を置き違える語尾によって生じる誤解について議論されています。このエピソードでは、ホワイトヘッドの哲学の視点から、具体性と抽象性についての議論が展開されています。有機体の地蔵区から具体性を置き違える語尾や事実とそれを意味づける関係性までを考察し、言葉の問題に焦点を当てています。抽象的な言葉と具体的なものの表現についても話されています。

有機体の哲学への入り口
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回もホワイトヘッドの通知ということで、前回まで近くとは何かと、そういうホワイトヘッドの世界観みたいなところを見てきたんですけど、今回さらに深いところに、より広いところに行くみたいな感じでしたね。
そうですね、はい。まさに自然哲学という意味で、そのものを理解する、体験する、経験するってどういうことなのっていうところを前回お話ししたからと思うんですけれども、今回からはね、これまでやってきたのが、いわゆる前期中期後期とかっていう時の真ん中みたいな感じだったんですけど、
今回と次回で後期思想、より晩年の思想って言われている有機体の哲学とかって言われているものを扱っていきたいんですよと。
はいはい。
そもそも有機体っていう言葉がもはやちょっとわかりにくいじゃないですか。
わかりやすいように反対のね、無機体っていう言葉もあんまり馴染めないんだけど、あるらしいんですよ。
うんうん。
あるとないの、無ね。
うんうん。
で、無機体っていうのは、いわゆる生き物ではないものっていう感じらしいんですよね。
ほんと、無機体のほうがね。
無機体のほうが。
なんとなく有機物、無機物みたいなのを聞いたことあるけど、そういう感じなのかな、雰囲気としては。
そうね。そっちへ行くと、いわゆる炭素を含むかどうかみたいな、また別の定義とかになっちゃうんで。
ああ、そんなんだってか。
そう。
うん、確か。
なので、要は無機のほうは生き物ではないですよと。
で、有機体っていう言葉自体に、実はその生き物っていう意味もあるんだけれども、
もうちょっと広い意味の言葉として、多くの部分が密接な関係とか関連っていうのをもってなっている、統一された全体みたいな意味があるんですよね。
うんうんうん。
これっていうのは、これまでやってきたように、いろんなものがあって、それがちゃんと全体とつながってますっていうものを示す言葉で、
例えばさ、前回も鳥のさえずりっていう時の鳥とかさ、
あとは太陽とか、太陽を構成している水素とか、いろんな物があって世界が成り立つっていうんじゃないよっていう話をしてきたじゃないですか。
うんうんうん。
で、どっちかっていうと、物があって世界が成り立つっていうのは無機体寄りの考え方なんだよね。
へー、なるほどなるほど。
ホワイトヘッドが批判じゃないけど、逆転発想した前の一般的な話ってことだよね。
そうです。一般的にはって話。
ほぼ独立のものがあって、それがただあれば世界になるっていうのはホワイトヘッド的には間違いね。
それぞれがちゃんとつながっているとか関係しているとかっていうことが大事だよっていう風な話なんだけれども、
正しい理性の欠如
なんでやっぱそんなことをしなきゃいけなかったんですか、そんなことを考えなきゃいけなかったんですかって話したわけなんだよね。
うんうんうん。
で、これは前回自然哲学やった時にもそれまでの科学っていうものがガラッとひっくり返っちゃって、
ニュートンからアインシュタインみたいな時にガラッと変わっちゃって、物事の考え方自体を変えなきゃいけなかったとかっていうのもあるんですけれども、
もうちょっと具体的にというかその有機体の哲学に入っていくときに大事になってくるのが、いわゆる明確な理性による世界の理解。
これちょっと前もデカルト的な理解とかって言った気がするんですけど、そういう風に理性っていうのを研ぎ澄ませれば、
世界っていうものが明らかになるんだみたいな、そういうことへの不信感っていうのが間違いなくあったよねっていう風に言われてるんですよね。
うん、なるほど。
で、普通の僕らが生きてても正しく考えなさいとか、あれは逆にお前理性的じゃないよって言われるとすごい悪口みたいなさ。
まあそうだね。
そういうのってあるじゃないですか。
今はやっぱり感情的じゃなくて理性を使う方がいいみたいな感覚ってあると思うんですけど。
頭悪いって言われちゃいそうだよね、なんかね。
そうそうそうね。ちゃんと頭良いわ的なね、あると思うんですけど。
でもそのホワイトヘッドはそんな風に正しく理性を使うのがいいことだっていう風には考えないんですよね。
もちろん日常的な場面において、もうちょっと考えなさいよとかってあると思うんだけども、
物事を、もっと言うと真理を追求しようみたいなことを考えた時に、
例えば理性みたいなものを研ぎ澄ませればいけるみたいになるっていうのは明らかに違うじゃん、みたいなことから考えます。
はいはいはい。
これをね、実際どんな風な言葉で言ってるかっていうと、ちょっと読むんだけど、
頭の固い明石さ、これがさっき言った明瞭とか、純粋に理性を使うみたいな話ね。
明石さへの固執が、事実の複雑な絡み合いを覆ってしまう霧のようであり、
参照的な感じに起因しているということを肝に銘じておく必要があるっていう風に言ってるんだよね。
まあよくわかんないけどね。後半はよくわかんないかな。
後半ね、どういうことだって話なんだけど、前半は明石さへの固執っていうのは正しく理解を使うっていうことがいいよっていうことを、
そうじゃないよって言ってる話だと思うんだけど、
この事実の複雑な絡み合いっていうのが、いわゆるさっきの有機体とか無機体っていう話で、
世界っていうのは有機体的にいろんなものは繋がってるんだよね。
でも理性だけでいくと、その繋がりっていうのを見えなくさせちゃうよっていう風に言ってます。
前回言う近くっていうもの、そこへの感覚をシャットアウトしちゃうよみたいな感じだね、おそらくね。
物があるっていう、取り組むのがあるっていう方に囚われてしまうぞっていう話だね。
囚われちゃうから、知覚とか認知を歪むよって話があるし、
具体性を置き違える語尾
しかもそれは感傷的な感じって言ってるんだけど、これって何かっていうと、
人間はそうしたいとか、そうあれべきそうっていうのは、正しく理性を使うのがいいことだとか、
世界っていうのはそんな綺麗に理解できるはずだっていう、そういう気持ちから出てきてるものなんだぜと。
それが真理を追求する正しいスタンスっていうことなんじゃなくって、
みんなそういう風に欲求に透き動かされているとか、その欲求で目が曇ってるんだぜっていう話をしてるんだよね。
一般的な振る舞いとして、物事を理解したいと思った時に、
その魔法の欲求みたいなのがあった時に、その欲求に普通に従うとこういう頭硬い方に行っちゃうよっていう話をしてる。
もっと言うと、これはどっちかっていうと、プラグマティズムの時にもちょっとやったかもしれないんだけれども、
いわゆる物事を考える時に、気分とかに支配とか、自分の性質とかに支配されちゃってるっていう話をしたことがあると思うんですよね。
なんとなく覚えてるよって方もいらっしゃるかもしれないんですけれども、
つまり、明石な理性を使って世界を正しく理解しようってこと自体が、すごい前提をいくつも置いてるような話なんだよね。
なるほど。それこそが真理みたいに言ってるけれども、それも一定条件下の一つの価値観ですよ、みたいな。
そう、価値観だし、そうしたら世界を正しく理解できるはずであるとか、きっとそれが実現できるであろうっていう希望的観測とか、
理解できてほしいみたいな欲求っていうものに付き合わされてるだけなんだぜっていうふうに言ってるんだよね。
なるほど、個人的どうのかじゃなくて、その価値観自体の持ってる感傷的な側面ってこと?
そうそうそう。
それを感傷的っていうふうに表現してるのか。
そうそうそうそう。だから、純粋に理性を働かせればいけるって言ってる人の言葉自体が、すでに感情的なものというか、すごい気持ちに支配されてるんじゃない?って感じなんだよね。
だからハエトとか、今繋がったけどプラグマティズムっていうのを引き合いに出したのはそういうことか。あくまでも、前回で言ったニュートンの話も、
それこそが真偽だってずっと言ってたんだけど、ある意味プラグマティズム的に言うと、この時点では確かに最高到達点ではあるかもねっていうようなところを忘れちゃうと、
こういう愛したいみたいな人が出てきたときにバグるってことかね。
そうそうそうそう。
感覚がバグるってことかね。
そうそうそう。だからもう、それを適応できないとか、愛したいなんて間違ってるとかって言い出しちゃったりか。
言い出しちゃった。はいはい。
そうそうそう。
はいはい、なんとなくというか、そういう意味ね。
そうそうそう。っていうことをホワイトヘッダーすごい自覚してたんだと思うんだよね。
うんうんうん。
やっぱりこれも言われてみたら、確かにそうだよねっていう。
もちろんこれまでいろんな話をしてきたからっていうのもあると思うんですけれども、
確かに、僕自身もそうなんだけど、世界を正しく理解したいとかって思ってる瞬間に、すごい偏ってるというか、そもそもできんの?みたいなところが抜け落ちちゃってるよねみたいな。
いやー、だし、そうだね。なんか、世界を理解しようとか勉強しようという時にさ、前回の話で言うとさ、
近くの方にアクセスするんじゃなくてさ、その森の方ではね、鳥、世の中にはいろんな鳥がいるんだって、その、
近くの結果、誰かが抑えた結果、ものを集めちゃうよねって思ったんで。
あ、そう、ほんとにそう、ほんとにそう。
だから、そういう風に物事を見るレンズっていうのは全然変わるので、ホワイトヘッドの哲学っていうのは、有罪の哲学みたいな、わざわざ名前がついたりとか、
ホワイトヘッドっていう人自体の哲学っていうのがすごく難しいと、やっぱり感じられてしまう。
他の人と考えてる、世界を見るレンズが全然違うからみたいな、そういう感じなんですよね。
なので、前回までも言ってきたんだけれども、今回と次回で余計に、ホワイトヘッドってどんなレンズ、そうして物を見てたのって、そっちにちょっとお話をしたいなと思っていて、
レンズっていうのがイコール、ホワイトヘッドの有罪の哲学なんだけど、やっぱり有罪の哲学を理解するのはちょっと無理だって思ったね。僕も理解できないし。
あ、そうなの。
さすがに無理だって思ったの。
やっぱりそのレンズを通してどんな風に世界が見えるのとか、どんなことを考えれるのっていうことはすごく面白いし、僕でも多分ちょっとお伝えできるかもなって思ったので、
そんなあたりを今回次回でお伝えしていきますよっていうふうに思ってます。
という感じなんだけれども。
なのでそういう意味では全体像とかっていうよりは、いくつかのキー概念みたいな、限ってある概念みたいなものをお届けするっていうのを今日やってみたいんだけれども、
今日お伝えしたいものがね、ちょっと言葉がまたこれも難しいっていうか厄介なんだけど、
具体性を置き違える語尾っていうキーワードがありますと。
具体性を置き違える語尾。
なんかの間違いなんだろうなみたいな。
そうかね、語尾っていうぐらいだからね。
なんか具体性を置き違えちゃったんだろうなっていうことなんですけど、
この言葉を結構理解するだけでも、ホワイトヘッドが言おうとしている哲学的な感覚をちょっとでも感じていただけるんじゃないかって。
もちろん全体は無理なんだけど、なんとなくホワイトヘッドが言おうとしている哲学的な考え方とか見方っていうものをお伝えできるんじゃないかと思っていて。
またやっぱり人によってはね、少なくともこの言葉っていうのがホワイトヘッドの根幹にあるんだみたいな、そういう説明をしている方もいらっしゃったので。
ここでちょっと深掘りする中で、ホワイトヘッドの深みをちょっと一緒に感じていきたいなというふうに思っておりますよ。
具体性を置き違える語尾
で、ちょっとここから説明になってくるんだけれども、今の具体性を置き違える語尾っていうのがあるんですけど、
これはすごい一言で言うと、本当は抽象的なものなんだけど、それを具体的なものだっていうふうに間違って捉えちゃうよっていうことになります。
具体性を置き違えるというのは、抽象的なものを具体的なものだっていうふうに捉えちゃうよってことですよと。
はいはい。
これをもうちょっとさらに話していくと、ここで言う抽象的なものをさらに別の言葉で言うと、
抜き出しの事実っていう言葉が出てきます。
おー。
ちょっと耳で聞くと大変だよね。
おー、いや、なんかうん、哲学っぽくなってきたね。
はいはいはい。
できたね。
抜き出しの事実が何かっていうと、これは価値とか意味とか目的とか情緒、そういうものが一切混ざってない純粋な事実だっていうふうに言われていて、
何と言うと、いわゆる科学的な態度で見たときに、物が独立してあるって考える態度、これが抜き出しの事実っていうものを捉える態度です。
しかもこれが抽象的なものなんだよね。
抽象的なものです、はい。
これはホワイトヘッドが言うところの抽象的なもの。
そうです、うん。
で、実際ね、ホワイトヘッドが挙げる例があるんだけど、
それもちょっとざっくり言うと、ある外交官、だからまあ、今日本で言うと外務省のお役人さん的な人が、
別のちょっと偉い人に報告をするときに、自分は大臣と会見しましたと。
で、大臣は感情をあらわにして、石に迫った危機に対処しようとする施策を説明したというふうに報告しましたよ。
というふうな例があるのね。
で、これさ、前回まで話を聞いてくださった方はなんとなくわかると思うんですけど、
これっていうのは、すごい冷静な報告には見えるんだけれども、やっぱり客観的な事実ではないんですよね。
ふんふんふんふん。
つまり、その、筋迫った危機とか、感情をあらわにしてみたいなことって、かなりこの役人さんの解釈が入ってるじゃないですか。
うん、そうね。
言葉として。
で、逆にこのさ、ちょっと兄貴に質問なんだけど、これを事実として本当に語ろうとするなら、
あるいは前回の自然哲学っぽく語ろうとするなら、どういうふうになると思う?
あー、大臣と会見しました。
大臣はこちらを、たとえば、普段の大きさよりも2倍の大きさで話をし、
例えばさ、経済的に実は普段こうなんだけどこうなってますっていう話をしていて、
それに対応しようと伝えてました、みたいな。
なんかビジネスの報告でも言われそうな話だよね。
抜き出しの事実
あ、そうだね、そうだね。
要は、いわゆるファクトとね、解釈とか感情を分けるみたいな話だと思うんですけど、
もうちょっとやっぱりホワイトヘッドって言うと多分、より根本的なことになってきて、
要は、もしホワイトヘッド的に事実を語るのであれば、
何かが動いた、そして音が聞こえて、
そっからか。
まあそっからか。
で、それを解釈した意識として、
それが人であり、それがかつ日本国の大臣であるということを私は理解し、みたいな。
もうさ、大臣自分で言ってこいやって話してるでさ。
なるほどね、間に一つ立てちゃダメだって。
立てちゃダメだよ、それ。
あ、でもそうだね、そうか。
音が聞こえか、何かが見えだね。
近くからするとそうだよね。
だって大臣という人も存在しないというか、その存在は後から来るっていうのは前回の通前哲学の話だからね。
いやあ、そこは戻る。でも前回ほら赤ちゃんぐらいには戻んないよって話してたからさ、いいじゃん。
違う違う違う。
大臣と会見した。
違う違う違う。なんか知識は持ってるけど、近くで言うと別に赤ちゃんも大人も同じ。
近い近くをしてるはずだからさ。
近くで言うと、そっか。一旦ここからここがスタートだよって話ね、まずね。
ここがスタート、そうそうそう。毎回ゼロポイントに戻るとしたらね。
一旦ね、うんうんうん。
で、みたいな風になるんだけど、ここからが前回までと違うのよ。
ほうほうほう。
で、ここに実は問題があって、何かっていうと、
例えばさ、今兄貴に事実ってどうだと思うって聞いたんだけれども、
例えばその解釈を剥ぎ取っていってさ、いわゆる自分の感触とかを剥ぎ取っていって、
根っことか本当に根本にある具体的な事実、
例えばさっきで言うと、僕が言ったような何かが動きとか音が聞こえるみたいに語るのがいいんじゃないかって言ったんだけど、
実はこれも具体的なものではないんだよね。
え、違うの?
違うの。
そうなの。今日のこの具体性を、違える語尾でさ、
抽象的なものみたいな話をしたときに、ここかと思ってたけど、違うんだ。
でしょ?でしょ?
思った思った。
これが自然哲学と有機体哲学の発展というか違いなのよ。
だからわざわざ分けてるんだね。
そう、だから分けてる。
じゃあ何なのって話なんだけど、まず何で違うのかって話なんだけれども、
例えばさ、何かが動き、音が聞こえってことに至ったとして、
それも現在の自分から過去の自分を振り返って、きっと自分はこんな風に体験したはずであるっていう風に解釈して語ってるんだよね。
なるほど。はい。
一瞬一瞬を作り上げてると、経験してると考えればね。
一瞬一瞬を作り上げてるから考えてるとね。
つまりこれも抽象化ですと。
要は何かが動きとかって言った瞬間に動いたっていうことを自分が理解した人の話だから、
これも厳密に言うと抽象化なのよ。
なるほど。
もっと言うと僕らはそういうふうな何も解釈を挟まずに単なる出来事、
例えば草が風に揺れたとかでもいいんだけど、
あるいは物理的に言ったら何かと文章が結合したとかっていうのもいいんだけど、
そういうふうなことを純粋に語ることができるとか、
そういうことが抜き出しの事実、純粋の事実だというふうに考えたりなんだけれども、
そもそもそんなふうに抜き出しの事実みたいな発想をすること自体が抽象的な概念だって言ってるんだよね。
どこまで潜るんだこの人は。
すごいでしょ。
確かに、確かにだ。
それができるってこと自体が欲求なんだよ。
うんうんうん、その先ほど初めで言ってた話ね。
そう、さっきの初めで言ってた現実っていうのを正しく理解できるとか、
純粋な理性で物事を捉えるってことは正しいんだって欲求と同じで、
そもそも抜き出しの事実っていうことがあると思うこと自体が希望とか欲求なんだよね。
うわ、そっかそっか。
この時点でもまだ頭の固い感傷的なやつなんだね、これは。
うわー、恐ろしい。
すごくない?
すごすぎるでしょ。意味わかんない。
意味わかんないね。なんだこんなことを。
本当の事実と具体性を置き違える
どうでしょうね、聞いてる方もね、うわーって思ってくれてれば嬉しいですし、
ちょっと聞き逃したってことがあれば、ぜひここは一回巻き戻しでも聞いてもらえたら嬉しいとかなんですけど。
そうだね、前回の自然哲学、いや本当そこゴールだと思ってたけど、
これ違うんだ。
違うんです。
つまり、その抜き出しの事実みたいに、いろんなものを剥ぎ取った時にこれだとしか言えないものがあるっていうと、
現実世界にやっぱり存在してないんだよね。
あるのはあくまでもいろんな解釈とか意味とか先入観、
これがまとわりついているものこそが事実とかそういうものしか存在しないんだっていうふうな話をしてます。
うわー、やっぱけご教じゃん。
そう、まとわりついて絡み合ってんだよね。
まあちょっと無理やりだけど、へーすごいね、そこまで行くかって、
ちょっとびっくりしたよね。
びっくりしたでしょ。
なんか、そうなるんだって思った。
そこまで突き抜けられるんだみたいな感覚ってあるじゃない。
でもだいぶ深掘って深掘って、だいぶ生きるとこまで行ってきたつもりなんだけど、
ただね、このままの無に向かって行きそうで怖いけどね。
恐怖心がなくもなくなりそうで怖いけど。
いいですねいいですね。
それがまたすごいのが、無にはいかないんだよね、ホワイトヘッドは絶対に。
それが何でかっていう話がまたちょっとしてくるんですけれども、
なのでここまでの話を整理すると、
いわゆる例えばなんだろうな、
僕らが日常で言うような事実と感想を分けろとかって話があるんだけど、
それは確かに大事なんだけど、
だからその事実そのものがあるとかって思っちゃうと、それは間違いなんだよね。
はい、事実ですらある意味その、
広い意味で言うと、まだまだ感想の範囲だよと。
主観的なところの範囲だよと。
範囲だよというか、それしかないんだよ、それが現実なんだよって感じかな。
現段階ではそうか、何かが動いたとか何かが聞こえたってことすら、
主観だから事実じゃなくて、全部主観だって話を今ここまでしてる。
全部主観だって話。
物が動くっていうことすらやっぱ自分たちの空間把握と時間把握においての関係性ってものから生まれているものを抽象化している、
なんだろうな、術語だから。
そんな単純なもんじゃねえぞって話なんだよね。
ただここで勘違いしないでいただきたいんですけれども、
割と人は決してそういう抜き出しの事実が認識できないとか、
要はそれを考えることができないとか、
それをすることが悪いんだっていうふうには言ってないんだよね。
あくまでもホワイトヘッドが今占めてるのは、
抜き出しの事実っていうものこそが根本だとか、
そういうものを本当の事実として捉えに行こうっていうことが誤りで、
これを具体性を置き違える語尾っていうふうに言ってるんだよね。
はいはい、置き違える内容としか言ってないってことだね。
そうそうそうそう。
だから本当の事実か抜き出しの事実があるっていうのがそれを置き違えちゃってて、
本当に具体的なものっていうのはむしろいろんな解釈とか意味とか、
そういうものに捉われているものこそがむしろ具体的な現実なんだよっていうふうな話をしてます。
だからあくまでもホワイトヘッドは世界をどう捉えるかっていうところから考えてるんだけど、
その世界に対して本当の事実とか、
僕ら人間とか生き物とかあらゆるものと関係ないまさに存在っていうものがあるっていうのが具体性を置き違えていて、
具体と抽象の議論
むしろその存在ってのは他のいろんな存在とかもちろん人間とかいろんな生き物と含めて変わり合っている。
そういうふうにあるんだっていうことがむしろ具体的な現実なんだっていうふうな話をしているんですよと。
わーなるほど。
確かに逆転の発想だな。
そう逆転の発想だし、これ言われると結構わーってなる。僕もやっぱりなったんだよね。
そんな風に考えたことなかったと思って。
だから物自体みたいなものを解釈してやろう、異性で解き明かしてやろうとは全く逆のスタンスってことかも。
逆と言うとちょっと違う話だね。
そうだね。だからホワイトウェットはカントをベースにしているから、やっぱりそういうことはもちろん理解をしているし、
でもやっぱりそういうふうに物自体みたいな、なんだろうな、
人間には認識できないけども、物そのものみたいなものがあるって考えるのが、多分具体性を置き換える語尾なんだと思うんだよね。
それはただ哲学っていうだけじゃなくて、まさに自然科学だよね。
あるいは人間が普通に思うように純粋に理性的に物事を捉えてやろうとか、何の解釈も挟まずに物事を見てやろうとか。
そういうふうな態度の中にこういう誤りっていうのが含まれているんだと指摘してるんだよね。
ここまでもしなんとなくわかったって言えば、あとはもうそれを応用した話なんで大丈夫なんですけど、
当時の学者さんがホワイトウェットとサルトルを比較していろいろ論じてるものがあったんですよ。
そうなんだ。ぜひぜひ。実音主義と比べたくなるよね。
そうそうそう。論文を読んだんだけれども、サルトルの時にも、まさに実音主義の時にも、オートっていう小説の話をしたと思うんですよ。
サクってオートね。
で、その時に主人公がマロニエの木っていうのを公演で見た時に、
突然その木っていうものがグニャっと歪んで、抜き出しの塊が残ったとか、
存在は突然レールを抜いたみたいな話があったよっていうところを何となくおっしゃったと思いますよ。
なんか覚えてる?
うん。覚えてる覚えてる。
結局、いわゆるマロニエの木という存在ではなく、
存在の生の姿とか、そういうものを見ちゃって耐え切れなくなったよっていう話。
これがサルトル的に言うと、本当に存在の本源というか、存在そのものに出会ったみたいな話だったんだけどね。
ある意味近いとも言えるし違うとも言えるというか、
存在そのものに出会ってるっていう意味ではすごく近い気もするんだけど、
出会い方が違うというか、感じがするよね。
サルトルもある意味では、このマロニエの木っていう風に、
それ一般論で理解してるわけじゃなくて、
自分対この目の前にある何かみたいなものと一応対峙はしてるわけで、
そういう意味では変に一般化してないみたいなところはあると思うんだけど、
やっぱりそこの出会い方が違うという話なのかね。
出会い方と出会った後の方向性が違うという感じなんだよね。
出会った後の方向性。面白いね。方向性が。
例えばマロニエの木、杉の木でも別にサフランの木でもいいんだけど、出会いました。
僕らが綺麗だなとか、木だなとかって、特に何も思わんのとかって思ってる中で、
この二人は明らかに全然違う方向に行くわけなんだよね。
さっき言ったサルトルっていうのは要は、マロニエの木っていうものを通じて、
存在そのものとか抜き出しの存在とか、まさにさっき言ったような事実。他に出会いに行きます。
これは実は兄貴は、個別のものに出会ってるねって言ってくれたんだけれども、
木の個別性っていうものは抜けちゃって、存在一般に出会うみたいな感じになっちゃってるね、サルトルは。
ただこれをホワイトヘッドの今の話で解釈すると、
サルトルが言ってるのは、まさに具体性を置き違える語尾でしかなりません。
つまり後付けの解釈なんだよね。
だってマロニエの木じゃん、どう考えても。
なるほど。
うん、視覚したらね。
はいはい、抜き出しの魂ではないでしょ。これマロニエの木じゃんと。
抜き出しの塊です、抜き出しの。
どう考えても、抜き出しの塊がそこにあるという視覚は、後付けで抽象的なはずなんだよね。
なるほど、そのホワイトヘッドの言うところで、目の前にあるこのマロニエの木を視覚した場合は、
まあマロニエの木じゃんと。
そう。
はいはいはいはい。
それも多分いくらかのステップの後なんだけど、
まあいろんなものを視覚した後にマロニエの木だという認識が読まれて、
さらにそこにこのマロニエの木は抜き出しの存在として理解できることができるのであったっていう、
さらにその後のステップなはずなんだよね。
わー。
うん。
すごい。
ただ、これも言ってるんだけど、時々そういうことができる人がいて、
それは何かっていうと、これもホワイトヘッド自身が言ってるのかわからないんだけど、
いわゆる良好的な人とか疲れ切った人、
あるいは科学っていう名前のもとに意図的に解釈とか意味の関係性を剥ぎ取って、
抜き出しの事実を取り出そうとする人がいたときに、そういう視覚が生まれることがあります。
ちょっと悪口に聞こえるけどね。
まあね。悪口だと思う。
だからある種、病的な精神状態の人があらゆるものを見ても、
ドロドロした、ぐちゃぐちゃした存在にしか見えませんってことは確かにあるだろうと。
はいはいはい。
でもやっぱりそれが、現実を見てるじゃなくて、
抽象的な概念の中で物事を見てるからそうなっちゃうっていうだけで、
やっぱり具体性じゃないんだよね。
なるほど。
ある種、自分の理性に閉じ込まれてるというか、
それが、もちろん病気の方であれば別に自分でやりたくてはないんだけれども、
っていうふうなときにそれを、
要はマロニエの木をごつごとした抜き出しの存在の塊でいうふうに捉えることはあるかもしれないんだけど、
やっぱりそれも具体的に世界と関わってるかっていうとそうじゃないだろうっていうふうに、
ホワイトヘッド的には言います。
わー、すごいねこれ。
ある意味だって、目の前のマロニエの木を見て、
これこそが存在であるみたいなのってさ、
すごくそれっぽいじゃん。
それっぽい。
マロニエの木の物語
それっぽいよね。
これこそが物であるみたいなさ、
全て一緒であるなって言われたらさ、
下手したらホワイトヘッドと同じことを言ってるとかも、
感じちゃうよね。
そうそうそう、言われたりするけど、
それは全然違うんだ。
あなたは抽象的な話をしていて、
こっちはあくまでも具体的な、
科学の話、
科学って言うとおかしいけども、
私の話を。
ホワイトヘッドがオリジナル過ぎて、
この有機体の哲学の話をしているので、
やっぱりそうしか言えないのか。
一応それで言うと、
経験に基づく、
哲学の話、啓示学の話をしているんだと。
あくまでも哲学の話ね。
そう、哲学の話。
しかも経験に基づくっていうのは大事で、
頭だけで考えてないんだよね、
ホワイトヘッドは。
やっぱりその、
僕らは普段生きている中で、
マロニエの木を見るっていう体験っていうものは、
やっぱりここにしかない。
今はここにしかないし、
それを切り離して、
マロニエの木そのものを考えるとか、
自分の理性そのものを考えるっていうことは、
やっぱり成り立たないよっていうことが
大前提にあるんだよね。
だからサルトラみたいに、
目の前のマロニエの木と出会いました。
これは今ここの瞬間だから、
そこまでは一緒。
ただ、そのマロニエの木っていうものを通じて、
これが剥き出しの存在だっていう風にあるし、
マロニエの木っていうものを、
頭の中で消し去っちゃう。
消し去るような関係性を築いちゃう。
っていうのは、やっぱり
抽象度が高いというか、
世界そのものと向き合っている態度ではない。
っていう風にホワイトエッドの時には言うんだよね。
はいはいはいはい。
近いようで遠かったりとか、
近くまで行ったからこそ、
全然離れちゃったみたいな。
っていう感じがホワイトエッドの
ユウキさんの実悪と実存主義にはあるんじゃないかろうかと
勝手に思っております。
これごめんなさい、僕は勝手に思っていることです。
さっきの話を踏まえてね。
さっきの話を踏まえて。
どっちの理解の方が自分に合いますか?
とか納得度高いですか?
って話なんだよね。
これ今から話すかもしれないけど、
ホワイトエッドの今回多分抽象的?
っていう話をしてきたんだけれども、
ホワイトエッドの具体的なものっていうのは
何なのかっていうのはこれからの話?
それは日常的な生きている経験こそが
具体性であるっていう風にしか言えないんだよね。
今のサルトルとホワイトエッドのデビューと
例えばサルトルがマロヒエの木と出会って
めっちゃキモいと思ったみたいなところがあったときに
それは具体的っていう話?
サルトルがそこまで思ってるっていうのは具体的?
これも実はちょっと僕もちゃんと理解できないところが正直あって
それを表すまた言葉とかもあるんだよね。
またそっちはそっちでちゃんと語ってはいるのかな?
語ってはいる。
そういうものをいわゆる存在って言っちゃうと
存在があるとか存在が独立してあるっていう風になっちゃうんで
その存在っていう言葉自体をまた発明して
別の言葉で言ったりするのよ。
具体と抽象の解釈
確かにそうか。それがあるとかって言っちゃうと
それも例えばサルトルが木をキモいと思った
もうすでにこっちが抽象的にそれを解釈していると
捉えられるから難しいのか?何を具体?
難しい。
難しそうだね。
これも自然哲学のときに言ったんだけど
人間論とか人間分裂の考え方で考えると
全部わかんなくなっちゃうって言ってたじゃないですか。
だからそもそもマロニエの木と自分って言った瞬間に
それも人間分裂の世界になっちゃうんだよね。
そういった瞬間に本当はホワイトヘッドの世界の理解っていうものから
離れちゃうんだってことがあって。
確かにこれあれか。
ちょっと仏教っぽくて
具体的なものとは何かっていうのは
言葉でうまく説明できなくて
具体的じゃないもの、つまり抽象的なものとは何かっていうところは説明して
そうじゃないものを具体的としましょうっていう風な理解しか
基本的にはしえないみたいな雰囲気のものだからこれ。
でもそっちが近いかもね。
普通の言葉では具体性のものを何に理解と
無かな、みたいなことを。
ホワイトヘッドの有機体の地蔵区と具体性の置き違え
もちろんね、ホワイトヘッドはさっき言ってるところに説明をしてるんだけど
説明してます。
パッとこうやって1時間とかで理解しようとすると
それ以外のもの、抽象的なもの以外のものはね、みたいな方が近道というか
そうなっちゃうね。
その方が確かに分かりやすいというか
確かに
近づけた気はするよ。
たぶんね、兄貴が言ってくれた通りで
例えば、これごめん、僕の解釈間違ってる可能性もあるんだけれども
おそらく現実的正規っていう言葉が
ホワイトヘッドで言うところの、今兄貴が言った具体的なものに
はまると思うんだよね。
現実的正規とは何かみたいなことは
僕は今回もう諦めちゃって。
そもそも僕は理解できないし
それを理解することがいいのかって思っちゃって。
ある意味そうだよね、今日ここまで自分が理解したぐらいで
抽象的っていう方を理解すれば
なんとなくホワイトヘッドの世界観
入域体の世界観は楽しめるというか
理解できるんじゃないかみたいなところって話だよね。
そうです。
ここから具体的なところをガチで議論していくと
ちょっと沼というか
あまりに専門性高い方になっちゃうみたいな話なのか
その概念からするとヤバそうだよ。
悟りとは何かみたいな話とか
無とは何かみたいな方にガチで聞い込むみたいな話になりそうだから。
言われてみたらそうだね、確かに。
あとマジで新屋敷を説明するみたいな。
そうだね、そんな感じ。
その周辺情報をお届けして
なんとなくそういうものがあるんだっていう風に確かに理解
それでしか普通の関係では理解できないということなのかもしれない。
僕も兄貴に言われて思ったけど。
ある意味必要十分かもね。
楽しむっていう意味だよね。
もちろん知的好奇心っていう意味では
いろんな鳥の種類がいるんだって集めるみたいなさ。
そういう意味の知的好奇心。
嘘っぽいけど。
そういう話聞きたいなとは思うけれども
この概念を理解してみたら
確かに必要十分なんだと思った。
そうだね、確かに。
ヤバいね。
改めて確かにヤバいね、この人。
前回も例で適切かわからないって言いながら
リフォーム、家の内装を作る話をしたじゃないですか。
あの時にも、いわゆる
人間分裂系の例として
家具がいっぱいあってそれを配置しますっていう話と
目隠しをしたまま中に入って
取られた瞬間に配置を理解するみたいな話をしたと思うんですよね。
あれって企画できるようで企画できてないというか
全然前提条件とか違うと思うんだけど
そのぐらい多分ホワイトヘッドの見てる世界と
僕らが普通に見てる世界ってやっぱ違うんだよね。
なぜかっていうと、マロニエの木と出会うって言った瞬間に
マロニエの木と自分というものが分かれて
それぞれが独立した存在として出会うっていう風に僕らは言っちゃうんだけど
そうじゃなくて、このいわゆる世界、自然というものの中に
我々があって、その我々というものは
マロニエの木と自分というものに分かれるのであっていう
そういう順序を辿っていくんだよね。
後から意解だよね。
後から抽象化か。
後から抽象化して認識するっていう。
だから我々はある。あるのだっていう。
そこからしか始まんないみたいな感覚。
ちょっとこれも言い過ぎかもしれないんだけど
世界を際立たせるとしたらそんな風になっちゃうんだよね。
私がっていう感じじゃないんだもんね。
出会ったんじゃなくて、
出会ったのがマロニエの木と自分だったんだっていう
一瞬前のやり方。
そうそうそう。
っていう風にしかやっぱりならないんだろうと思います。
ごめんなさい、何言ってんだって感じかもしんないですけど
ヤバいな、ちょっとごめんなさい。
ホワイトヘッド、もうちょっとちゃんと伝えていくので
少しでも楽しいと思っていただけるように
頑張っていくんですけど。
ちょっと話をまとめていきましょうと。
まず今回何をしたかったかっていうと
ホワイトヘッドの有機体の地蔵区というのを考え立てて
具体性を置き違える語尾という言葉から
色々物事を理解していきましょうというようなことをしてきました。
事実と関係性の絶対的な関連性
僕らの普通の考え方で言うと
やっぱりこの世界にはいわゆる抜き出しの事実
要は一切解釈とか
あるいはもしかしたら人間がいなくても
独立に存在するような存在があるのが
むしろ当たり前だというふうに思っておりますよね。
でもそうじゃなくて、やっぱりある事実があったときに
それが前後の文脈とか
意味とか他の物と物同士の関係とか
そういうふうなものというのが絶対にまとわりついてくる。
もっと言うと、関係的な場みたいなものというのがもともとあって
その中である事実、それこそ鳥がさえずるとか
丸い木に出会うという事実というものが
まさに意味ある事実として浮かび上がってくるという
そういう順序なんだよね。
だから本法にあるのはある特定の事実じゃなくて
その事実を意味づける関係性とか
それと関連する他の出来事ということで
それがまさに有機体というよりは部分が関連というよりは
言葉の問題と二元分裂
もう一つ統一されているという事なんですよ。
というふうな話をこれまでしてきましたよという感じなんだよね。
確かに。しかもその具体的なものを吐き違えなよって言ってるけれども
そこも前回の自然哲学レベルのところで理解すると
それもまた違うよという話だもんね。
そうそうそう。そうなんです。
そもそもそれがある。要は
肺で言って肺で言って根本に辿り着く
そういうふうに思っていることをしたいから間違いだぜ。
根本なんてないんだぜという話なんだよね。
いわゆる事実みたいなものって
もちろんそれを向き合おうと言えば向き合えるし
理解しようと思えば理解できるんだけれども
やっぱりその本体にある関係性とか
意味の場みたいなものとか文脈というものは
やっぱり事実から切ろうとしてもやっぱり切り離す
切り離そうとも切り離せるんだけど
それはやっぱり抽象的な概念、抽象的な操作だから
それは具体的には事実っていうのは程遠いんですよ。
サルトル的な振る舞いってことなんだよね。
サルトル的にマロニエの木だけを振り上げて
それが剥き出しの存在だっていうのは
他の文脈って一切切り離しちゃってるから
それは事実っていうのはむしろ殺しちゃうんだよっていう話なんだよね。
もうちょっと例えば研究者の方とか言ったら申し訳ないんですけど
よくあるそれは実験室の出来事みたいな感じで
実験室の限られた環境とか理想的な環境ではそうかもしれないけど
芸術世界の複雑性に持っていったら違うぜみたいなことってあったりするじゃないですか。
まさにそういうことをもっと抽象的な
世の中に対する態度っていうようなレベルで言ってるのがこの話ですって感じなんだよね。
いかがでしたでしょうか?
すごいね。
お前ちょっとサルトルしてない?っていう悪口が言えるわけだね。
高度な抽象化をしている人に対してちょっとそれサルトルじゃない?っていう
ただやっぱりこれはディズニー主義の強みで
それは抽象的ではない。
なぜなら私はそれを本当の意味で実感として知覚認識経験しているからだとも言えるんだよね。
サルトルから言わせれば。
それはあんたが抽象的だと思ってるだけであって
私は具体的に本当にそのように世界を知覚しているとも言えてしまいますと。
だからさっきどっちの方が自分に合いますかってちょっとあえて言ったんだよね。
なるほどなるほど。
そうだね、確かにそこまでなんかがある、でなんか木があった、でうわキモ!みたいな。
で俺は出会ったぞっていう、そこまでの範囲まで見れば落ちてることはあるからって。
そこまで区切ってくれる。
経験してることではあるからね。
なるほど。
だからやっぱりこれはどっちが楽しいとか間違ってるっていうことはなくて、
どっちの世界観がなしみますか。
どっちの世界観が自分にとって生きやすいですかっていうぐらいでいいと思うんだよね。
そっちも無理だぜっていう人も全然いると思うんだけど。
無理でしょ。
もっとノラリくらいで生きていきたいぜっていうね。
なるほど、じゃあ今回ちょっとサルトルとか実は主義が悪者みたいな感じで出てきたけれども、とか時代遅れみたいな感じで出てきたけれども、
決してそうではないんだよという話ではあるんですか。
そうではないです。
あくまでもホワイトヘッド陣営というかホワイトヘッドの世界から見ると、
サルトルというのもそういうふうに批判できますよと。
それは別にあくまでも批判であって、時代遅れとかあいつらは役立たないとかっていうことでは全くないんですよ。
ここまで来て次何やるのよって話なんですけれども、
今回はさっそく有機体の哲学ってものが、目の前の事実とか世界ってものをどう扱うかっていうのを見てきたんですけれども、
やっぱり改めて僕も今日の話を振り返っても、
なんだろうな、これってすごい根本じゃない?何かを経験するとか、何かを事実として捉えるとかって、
当たり前すぎて考えないわけよね、僕ら生きる中で。
そうだね。厳しいよ。ここまでアンラーニングせよって言われてもなかなか難しいよね。
だってさ、戦火を自然哲学、何かが動いてるなとかさ、
音が聞こえる感覚で生きろって言われても十分アンラーニングな感じがするのに、
ここからもう一歩アンラーニングしとこうかみたいな話じゃん、今回って。
そうそうそうそう。
恐ろしいね。
さらにね、死体もありますよって感じでもどんどん近がるって感じするんだけれども、
やっぱりこういう無意識でやっぱり誰も生きてるものをここまでちゃんと扱っているのはホワイトヘッドの魅力だと思うんですけど、
次何やるかっていうと、より深くいきますとかっていうよりは、
でもなんでこんな難しいんだっけとか、なんでこれってこんなに大変なんだっけっていうと、
やっぱり言葉の問題にぶち当たらざるを得ないですよと。
なのでこれをちょっとホワイトヘッドがね、それそのもので言ってるのかわかんないんだけど、
ホワイトヘッドと言葉とか、ホワイトヘッドと言語みたいな形で取り上げた論文があったんで、
それを頼りに、言葉の問題をさっき言ったように、
そもそもマロニエの木と自分が出会うとかって言った瞬間に二元分裂だみたいな、
ちょっとそんな話とも絡めながら、
その言葉っていうものの問題を掘り下げていくことで、
ホワイトヘッド界全体について
ちょっと今回ホワイトヘッド界全体というのを終わりにしたいと思ってます。
というような感じで思っております。
はいはいはい。
はい。
分かりました。ありがとうございます。
確かにな。
はい。
言葉自体がもう抽象的なものを産物な気がするからね、
それで具体的なものをどう表現するか扱うかっていう問題が出てきそうだっていうのは、
ほんとそう思う。
はい。
うん、ね。
次回への予告
うん。
やっぱり言葉って短らしで面白いというところもあるので、
ちょっと次回はそこに触れて、
よりホワイトヘッドの世界観を直すんでいこうと思っておりますという感じですね。
分かりました。
というわけでホワイトヘッド楽しんでいきたいと思いますので、
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
53:10

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