幸福の概念の再考
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回でPLアド第4回ということで、今回で最後でしたっけか?
そうですね、はい。これまでもね、いろんなテーマに沿って、結構ね、僕と兄貴は好きに話したというところはあるんですけれども。
今日、今回最後ですね、この本の革新的なテーマというか、何度かお伝えしてきた、その帯に書いてますよっていう、この今ここにあることが幸福であるためにみたいなところを取り上げてみたいんですよね。
はいはい、そっかそっか、もともとそういう話というか。
そうそうそう。前回さ、結構さ、何だろうな、わりと強く生きるというかね、ソクラテスとかさ、そういうちょっと偉人的な人を見たときに、やっぱそのぐらい精を研ぎ澄ますというかさ、ちょっと頑張る系の話をした気がするんですよね。
前回のテーマはあれだもんね、確か師への修練だったもんね。
そうそう、修練だから。
修行みたいなね。
そうそうそうそう、生きてる限り修行だ、みたいな。
それはそれで大事というか、なんだろ、素敵な考え方だよねって思う一方で、やだよ、そんな期待続けなきゃいけないの?みたいな、やっぱりそういうちょっと弱さも、僕自身はあるんですよ。
いや、無理だよね、ソクラテスだったりとかさ、前回出てきたような人たちのように生きろって言われてもさ、困っちゃうよね。
そうそうそう、聞いたときに、やっぱり今あることが幸福だっていう、やっぱりこの今を肯定するっていうことのバランスも大事だって話なんですよ。
実はこれも、現状肯定とかさ、じゃあ努力は一切しなくていいのか?みたいな。これって僕すごい実はずっと聞かれてるテーマなんだけど、何かを頑張るとか努力するっていうのは、尊い一方で大変だよねっていう。
この触れ幅の中で、いや努力は大事だ美しいっていう人もいれば、いやもうそんなの一切放棄したいですっていう、いろんな人がいるなって思うんだよね。
まあそうだね。あとは旗から見たら努力に見えるのに、本人は楽しんでるケースみたいなね。
そういうのもあるよね。そういうのもあるときに、やっぱり努力っていうのに幸福って僕はすごくテーマとして大事だから、これをこの本を頼りにお話ししてみたいんですよと。
今とかっていうと、要は今ここに集中するみたいな、ウェルビーイング的な発想がやっぱりあると思うんですよね。
スウェーデンスラジオのタイトルって、今兄貴がつけてくれてるじゃないですか、頑張って。このピエラのところにもウェルビーイングっていう言葉をつけてくれて、関連させてくれたんだけれども、
やっぱりじゃあ、なるほど、このアドさんが言ってるのはウェルビーイングなのねって、やっぱりちょっと違うってのがあったりするんだよね。
私、ウェルビーイングの定義もよく考えずにつけてるからね。
私、ウェルビーイングの定義もね。あとは人によって多分違うだろうなってのはあるけど。
なので、その意味で言うと、このアドさんが言っている、今ここにあることが幸福であるとどういうことなのっていうところを、実存主義みたいな話も絡めながらですね、サルトルのやつですね、お話ししていきたいなっていうのが今日のお話でございます。
不安と自由の関係
はいはいはい、なるほど。よりなんかあれだね、確かに前回のがこう、ある意味理想論的な?もしくはめちゃくちゃ一部の人だけがナストに入れられそうな話だったかな。
そうね。
ちょっとこう、なんだろう、身近になってきた気がするね。
そうそうそう。で、やっぱりあくまでも我々、一般人というかね、強い人間が生きるにはっていうところで今日も話していきたいなと思っているんですけれども、
まずちょっとね、実存主義の復習っていう感じなんだけど、何か覚えてます?実存主義。
うーん、あれ、サルトルの木を見て具合悪くなるっていう。
オートするやつね、大体やってます。
オートだ、そうそうそう。
そうですそうです。要はね、存在の生々しさに向き合ってて話なんですけれども、何かっていうと、人間は自由だと。以前もフィフィとかシェリングとかでもさ、やっぱり自由っていうものをどう捉えるかみたいなところでやったと思うんですけど、
20世紀からやってくると、人間は自由であるというか、そういうね、いろんなしがらみとかさ、神との契約みたいなところを乗り越えて、ニーチェの神が死んだっていうのはまさにその早朝的な言葉なんだけれども、
人間では自分である種自分の在り方を決められる存在なんだみたいな、そういうふうにやってくるんだよね。
そうすると今度は逆に、自由に選びたいんだけど、じゃあ本当の自由で選んでいるのかとかさ、その自由で選んだということは全ては自分の責任である。
要は、言い方だけでは神様が決めたことだからとかさ、これは運命だかっていうふうに逃れられないわけではね。
てなると、常にそこにある種その実存に対する不安みたいなものが出てきます。っていうところが結構実存主義の根底にあることなんだよね。
おー、なるほどなるほど。自由と引き換えにね、いろいろ出てくると。
そう、不安になっちゃった。僕らってなんでここにあるんだって、その神様っていうのでもう説明できないときに、自分がやっている一挙一投足っていうものを何に接続したらいいんだってみたいな。
はいはいはい。なるほど、そっか、前回その自分らしさってなんだろうねみたいな話もなったけれども、なんかそれ以前に、自分らしさ以前になんで存在するんだっけぐらいまで不安になるってことはね、そもそも。
そうそうそう、そういうこと。確かに。
この目の前の木を見たときに、この木ってなんだみたいな、なんかあるけどなんでこんなとこにこんなものがあってみたいなことを考え出しちゃうと、いわゆるパラノイア的な病気っぽくなっちゃうわけではね、そりゃ。
なるほど、それがね、自分に向いたときの恐ろしさみたいなね。
そうそう、まさにまさに。そういうところがあって、やっぱり実存主義っていうのは不安っていうものとかなりセットになっていて、この不安にどう向き合うかとか捉えるか乗り越えるかっていうところも、いろんな思想とか哲学に繋がっていくわけなんですよね。
はいはい、なるほど。
まあね、それってやっぱりすごく大事というか面白いんだけれども、一方で、本当ですかっていうことも当然言えますとね、そんなに存在って不安なんだっけとか、
そんなになんか、確かに神様が接続できなくなってしんどいかもしれないけど、それってそんなにしんどいことなんでしたっけみたいなことも考えられますねと。
あーなるほど、面白いね。確かにゼロベースで考えて、ある意味実存主義的というか、そういう目線から見てもそんなに不安がある必要はありましたっけみたいな話もできるっちゃできるのか。
そうそうそう、できる。で実はそのアドさん、ピエールアドさんっていうのは、そんなに不安なんでしたっけ、いやむしろ生きてることってもうちょっとハッピーなこともありますよねみたいな、そういうところから考えていくんだよね。
あー面白いね、そのスタート地点だったりとか前提が、置き方ってこれは面白い問題かもしれないね、なるほど。
あーそうそうそう。やっぱりその世界をどう捉えるかとかどう向き合うかっていう、もっと言うと何を問題にするかだよねっていう話で、これもちょっと前言ったかもなんですけど、そのアドさんの感覚としては、やっぱり大舟原の中の一つの波と自分が重なるみたいな。
世界と自分っていうのが一体化して、ある種包まれているというか、別に自分の根拠っていうものをそんなに無理に探す必要ってなくって、海があって自分はその中の波であって、別にそこって別れてないから、別に自分は海で海は自分でっていう、それ以上でもそれ以下でもないよねっていうところでも全然いいわけだよね。
なるほど、そうか。荒波翻弄される、浮かんでる何かとかではないって話だね。
そうそうそうそう。そうなっちゃうと、海は壮大で豊かなのに、自分はその一滴で切り離されてしまった。不安だみたいな。どうやって海に帰ったらいいのだみたいな感じになっちゃうけど、そもそもそんな感じじゃなくない?みたいなことも言えますよね。
なるほど。確か今、どっちも同じだもんね。どっちもコントナイトじゃないというか、ある意味ね。
現在の重要性
そうそうそうそう。別にどっちが正しいかって、もちろんそれを突き詰めていくことはできるかもしれないけれども、どっちからスタートするかは選べるわけじゃない?
うん、そう思った思った。
ね、そうそう。なので、やっぱりアドさんは不安っていうところからじゃなくて、いやいや、僕らが今生きているとか、自分が今この瞬間で存在しているってこと自体が、実は豊かなことなんだよみたいな。そういうとこから考えていませんか?っていうような話なんだよね。
じゃあ、フラットっていうよりは、どっちかというと嬉しいよりって感じなんだ。嬉しい。
嬉しいよりだね。
へー、そうなの。
そう、だからニュートラルっていうよりは、やっぱりこの瞬間、瞬間にすごく素敵なものが含まれてるよね、と。で、この瞬間っていうのが何か特別な、何かものすごい嬉しいことが起こったとかさ、何だろうな。
なんか、とても何かを達成して満足だったってことだけじゃなくて、本当にその、なんていうかな、僕らは息を吸って吐いている仕事もそうだし、なんかこうね、パーティー開けて外を見たときになんか光が差し込んでちょっと気持ちがいいとか、そういうことでもう全然十分豊かじゃないかっていうぐらいな感じなんだよね。
はいはいはいはい。
で、じゃあなんでっていう話とか、それだけは別に哲学っていうよりは、日常そうですよねっていうぐらいなわけじゃないですか。
だったりとか、自己啓発というかさ、考え方次第ですぐらいの息を出ない気がするよね。
そうそうそうそう。で、じゃあこれがなんで現在というものがすごい大事なものなんですか、その特権的なものなんですかっていうところがまさに大事な部分なんだけれども。
ちゃんと考えてくれてるのね。そこで終わってない?
終わってない。
人生なんて生き方としての哲学は終わってない?それで。
終わってない終わってない。哲学なんだよね、やっぱそれはね。
これ何かっていうと要は、まずそもそも時間を捉えましょうっていうときに、普通僕らって過去現在未来っていうふうに時間って3つに分かれていて、過去があって現在があって未来はこれからですっていうふうに捉えてるじゃないですかと。
これ時間の回でもやったと思うんだけど、やっぱりこの人間の歴史の中で時間をどう捉えるかとか、そもそも時間とは何かっていろんな問題が含まれてるわけなんですよね。
はいはい、まあ確かに。
で、この中でアドさんが考えるのは、やっぱり僕らにとってはまず現在っていうものがとにかく基準なんだと。
なぜなら過去っていうのはすでに閉じているから、自分たちの手を離れてるよねと。
で、未来っていうのはまだ形をなしてないっていうから、これもまだやっぱり自分たちの手には追えないっていうときに、やっぱり自分たちが触れるというか、変わることができるのってやっぱりただ現在だけなんだよね。
で、やっぱりこの現在っていうのは時間的に1秒1秒とかって考えちゃうと、変わろうとした瞬間には現在は過去になっていてとか、そういうこともあったりするんだけど、そういう時間の捉え方じゃなくて、
現在と世界の関係
ここで言う現在とか今っていうのは、まさに自分と世界が接しているっていうこの間というか、そういう生の現場みたいなものを今っていうふうに捉えるんだよね。
ああ、そうなんだ。じゃあ、うちらが感覚的に持ってるこの今みたいな、その手触り感のあるこの現実みたいな、そういう感覚と大きく離れてはいないみたいな感じなのかな。
離れてないです。離れてないです。
だから仏教とかで言うさ、この瞬間瞬間、世界が作った瞬間からまた崩れてまた作り直してみたいな、そういう話とは違うんだね。
そうですそうです。そこが大事で。なので、いわゆる算数的なというか、そういう人間とは離れたものとしての瞬間とか、人間の伝わり合えないものとしての時間ということじゃなくて、
あくまでも自分が生きていて、そこの世界で関わるっていうこの時間軸というか、その流れっていうものを捉えてるんだよね。
はいはいはいはい。
そうなると、やっぱり今っていうとさ、さっき言ったように過去と未来っていうのを切り離した中、今この時っていう感じなんだけど、
やっぱりその、アドさんみたいに考えると、その今とか現在っていうところに、そことかが流れ込んでくるし、未来っていうものにちゃんと繋がっていくっていう、そういう滑らかさがあるんだよね。
つまり、今は大事だ、今だけを見るんだじゃなくて、当然今っていうのは過去から繋がってるし、未来にも繋がっていくんだけど、その流れの中の今っていうものにちゃんと目を向けましょうね、手触り感を持っていきましょうねっていうのが発想なんだよね。
なので、やっぱりこの時間の捉え方とか、自分と社会の関わり方っていうところが、本体にやっぱりその世界っていうものが豊かであるとか、それに目を向けるっていうことが幸福に繋がるっていうのが発想からやっぱり来てるんだよね。
はいはいはい。
そうじゃないとさ、例えば不安みたいな話でいくと、有名なハイデーガーの死への先駆って言われるんだけど、要は人間はいずれ死にますと。
なので、死ぬっていうところをある種、執着点というか、想起して、そこから逆算するというか。
そういうふうな時間の使い方っていうところで、ハイデーガーは時間というものを捉え直したわけなんだよね。
そうなんだ、ほうほうほう。
なんか覚えてる?ハイデーガーの時にやったんだけど、ちょっと待ってね。
現在未来っていう、別々に分かれた時間じゃなくて、機材みたいな、すでにあったみたいな言葉を言ったの覚えてないかな。
覚えてないね。
あくまでもやっぱり、過ぎ去った過去っていうよりは、ちゃんと現在につながる、むしろ自分がその過去を引き受けてるんだ、みたいな。
そういうふうな発想でもって、存在と時間っていうのを、いろいろ書いてたよみたいな話があったんですよね。
はいはいはい。
今回のアドさんの話は別に、時間とは何かってことではないから、そこまで踏み込んではいないんだけれども、捉え方としてはそこに近くて、
やっぱり人間ってそんな不安、実存主義で言うと、不安っていうものがあって、その不安から逃れる未来とか、それがない未来に行くのだ、みたいな、
そういう跳躍みたいなことじゃなく、飛び込むみたいなことじゃなくて、あくまでもそこってやっぱり実続きだから、
今この瞬間の流れの中で、それがどんどん続いていくっていう、それをちゃんと見ていこうよ、ちゃんとそこを味わっていこうよみたいな、やっぱりそっちに近いんだよね、発想として。
はいはいはい。
っていう、その違いっていうのはイメージしやすいかなと思うんだけれども。
まあそうだね、あと、さっきその自己啓発っぽいねみたいな話したんだけれども、結構、あるじゃん、未来とかよりもこの瞬間が、今やってることが結局未来につながるから、未来思考じゃなくて現在思考みたいなさ、
多分そういう話は聞いたことある気がするんだけど、やっぱりそれの電流みたいなイメージなのかな。
そうだね、やっぱりストア派の時にも言ったと思うんだけれども、やっぱり今に集中しよう、自分がコントロールできることに集中しようって言った時に、
そうそう、やっぱりそれってこう、当然過去も支えられないし、未来も別にコントロールできないから、やっぱり現在にっていうところは、そこから来てるっていうのはあるんだよね。
そっかそっか、このPLアドをさらに遡ると、ちょっと経路は違うけどストア派的な感覚は近いかもね、みたいなところなんだ。
近いというよりはね、このアドさん自体が古代哲学の研究者なので、古代哲学を見直した時に、そういうやっぱり今を大事にするとか、自分がコントロールできるものにしっかり向け合うというところがやっぱり色濃くあるよね、みたいな。
そういうふうな捉え方なんだよね。アドさんの哲学よりは古代の哲学、そういうことね、ソクラテスとかプラトンとか、ストア派っていう古代ギリシャ、時代を見返した時に、そういうやっぱり現在っていうものを大事にするとか、
そういったところに、アドさん自身もそういう体験をしてた中に重なったんだよって感じなんだよね。
なるほど、そっかそっか。基本、早藤が言ってくれた、いわゆる自由だったりとかの代償としていろいろ失ったっていう感覚が、
たぶんこのピーラドン時代が結構ならではというか、進行一変等でもおかしいし、じゃあ自由もあるよって言われた時の、自分の置き場、着地点みたいなものがうまく定まってない時代でもあったみたいな感じだろうな。
そうだね。やっぱりまさに20世紀って戦争の世紀って言われたぐらいでいろんなことがありましたけど、歴史的にも。やっぱり自由を行き過ぎると結局は破壊だったりとか、やっぱり他者の不自由。
自分は自由だけど他者は不自由になるみたいなところがあった時に、これおかしいよねってやっぱり発想はあったわけだよね。
そういう時に何をよりどこにするかっていう哲学がいろいろある中で、アドさんっていうのは古代ギリシャの人たちっていうところが、こういうふうに現在っていうものをすごく大事にしていると。
で、そこに向き合うことで、むしろ未来も良くなっていくし、ちゃんと過去と接続して自分っていうものとか、もちろん共同体とかもそうかもしれないけれども、
っていうものが着実に前にというか未来につながっていく。そういうところを大事にしようぜっていうふうな話なんだよね。
古代哲学の教え
あー、なるほど。はいはいはい。
なので、例えばさっきストア派の話もしたけれども、これもね、今回ちょっと時々余らせて、エピクロス派っていう勢力主義みたいな話があった時に、
彼らも要はその、なんていうのかな、根本の発想は一緒なんだよね。別にすごい好きなことだけやればいいってことじゃなくて、やっぱり大きな喜びとか強い感情ってコントロールできないし偶然性が高い。
だとしたら友と語るとかさ、おいしいものをちょっと食べるとかさ、そういう楽しさっていうのは自分たちの手の中に入ってあるものだから、当時のアテというかギリシャでいうと。
はいはいはいはい。
なので、それを最大限味わって喜んで、それで生きていく。そういうふうな人生がいいじゃないかっていうふうな発想なので、根本にあるのは結構近い。
今を大事にするとか、自分たちがコントロールできるものを最大限味わい尽くすみたいな、そういう発想っていうのは実は近いらしいんだよね。
あーなるほどね。それから、なんとなくエピクロスやった時のイメージとして、どっちかというと快楽処理というかさ、ちょっと行き過ぎた感じがしたんだけれども、割とタルを知るぐらいの感じ、雰囲気としては。
実はそういうエピクロス自身というか、はそんぐらいの感覚だったみたいなイメージなのかな。
そうそうそう。いわゆる乱地系騒ぎというか、行き過ぎたものをやっぱり否定してたはずだから、なんでもありではないんだよね。
なので、やっぱりどうしても僕らはと言っていいのかあれだけれども、やっぱり未来をいかに考えるのだとかさ、未来をコントロールしていかに良い未来を引き寄せるのだみたいな、そういうふうな発想があった時に、
もちろんそれも一つの発想法ではあるんだけれども、やっぱりすごくそれが苦しかった時がある。
まあそうだよね。
そう。前回の死への修練っていう話も言ったけど、別に死に向き合って死というものをずっと捉え続けるのだってことじゃなくて、
今までもその死っていうのを自覚しながら、目が向いてるのは現在というか、じゃあ今自分はきちんと生きているのか?
自分が従いたい価値観だったりとか、理念っていうものをちゃんと守っているのかみたいな、目線は現在に向いてるんだよね。
その観点でいうと、この古代哲学者を見た時に、まさに共通する特性というか特徴として、現在っていうものにすごく目を向けている。
自分がコントロールできる範囲のことをきちんとやり遂げるっていうふうな、言ってしまえばすごくシンプルなんだけど、
でも、むしろそれが大事だと。別に、そこまでアドサンメって言ってるわけじゃないけれども、実音主義的な、どうしようもできない不安って、抱えたらもうそれって、抱え込むしかないというか、
別にそれって自分でコントロールできることじゃないじゃないですか。存在が禁止されているとか、神から禁止されてしまったとかって言った時に、
でも、そこから始まったら、あとはもう不安と一緒作りゃしかないみたいなさ。そうじゃなくて、もちろんそれを否定はできないし、そこに人間性の大切な部分があるキルケゴーロンみたいな人もいるからさ。
もちろんそれは否定できないんだと思うんだけど、キルケゴーロン覚えてる?
もう覚えてない。
覚えてない。神と直接向き合おうとして、いろいろ活性化した人ですね、キルケゴーロンさん。
現在とすごい向き合った人だったか。
そうだね、現在だったかな。その現在を自分も引き受けることで神と繋がるのだ、みたいな話をした気がする。
死に至る病みたいな、そういうことを言ってた。
それがなくなっちゃったから苦労してる時代の話だよね、このピエラードは。どうなんだろう。
神との繋がりがなくなって、どうしようって思ってる人がいる時代だね。
もともとお伝えした通り、ピエラードさん自体は元々すごく厳格なお母さんのキリスト教カトリックで、そういった価値観も自分の中にありはするんだよね。
そうだよね。
その中で神との繋がりっていうことだけじゃなくて、自然との繋がりとか、地球との繋がりとか、そういうことも含めて感じたっていうところもあったんだと思う。
あとは、これ言い方なんだろうな。表現難しいけれども、神との距離感の最低義みたいなものもあったのかもしれないよね、もしかすると。
あー、なるほどね。
最低っていうか、自分の中の定義か。ピエラード自身のね。
そうそうそう。公にはもちろんそれって決まってるというか、一定の基準があるはずだから、その基準の中で自分がどう結び直したのかみたいな、そういうこともあるかもね。
そこから完全に離れるっていうのはね、多分違う。それもまた違うというかね。極端な気もするからね。
そうそうそう。まさにそういう結び直しみたいな話があった時に、アドさんっていうものはこの現在、あるいはその、何度もお伝えして申し訳ないんだけれども、
時間的な一瞬ってことじゃなくて、ちゃんと過去と未来っていうものがある中で、それとは分けないというか、
幸福と現在
そういった自分と世界の関わりがあるその豊かな時間の中での今この瞬間に向けましょうっていうことを大事にしたい。
で、それこそがやっぱりその幸福である。要は目を向けると幸福になるというよりは、
きちんとそういうふうな時間を捉えて生きていくこと自体が、やっぱりその豊かさとか幸福とか、そういうものを感じさせてくれるんだよっていうふうな。
そんな発想を持ってるっていうような感じなんだよね。
はいはいはい。
どうかなこの辺って。なんかなんとなくはわかるけどっていうような感じもあるのかなと思うんだよね。
そうだね。でもたまにはハヤトの感想を先に聞きたいかな。
ありがとうありがとう。
そうだね、なんか僕は結構実は腹落ちしてるみたいな感じがあって。
何がかっていうと、逆に言うと僕らがコントロールできるってそこしかない。
要はすごくわかりやすい例で言うと、僕もともと心理学とかカウンセラーとかなりたかったからそういう勉強もしてたんですけど、
やっぱり不安って何だろうな。いろんなことで起こるわけだよね。
例えば明日テストがあって不安だとかもあるしさ。プレゼンがあって不安だとか。
過去こんなことやって失敗したらやめとけよかったみたいなことって普通に日常にあるじゃないですか。
もちろんそれを感じることしたいはいいんだけど、やっぱりそれが行き過ぎると病気になってしまうとか、
社会で生きるのが苦しくなってしまうっていう時に、やっぱりそんなに気にすることじゃないんだよ、みたいな感想って僕結構大事だと思ってるんだよ。
っていう時に、やっぱり現在に身を向けるっていうのはまさにそれで、やってしまったことはやってしまったことだし、
明日テストとかプレゼンがあるっていうのは明日のことだとした時に、でも今この自分がやっぱりできることって何だろうとか、
今この自分が本当に豊かであるために本当に意識に乗せるべきことって何だろうみたいな、
そういうことを考えるほうが、日々生きていてやっぱり不安も減るし、豊かさも増すしっていうふうに、
やっぱり自分自身そういうふうにしてきた部分もあるんだよね。
結構スター派の考えにも共感するんだけれども、やっぱりコントロールできることとか、
自分にとって大事なものにちゃんと焦点を合わせ続けるっていうところを、でもやっぱりそういったまさに修練が必要と思ってて、
やっぱり人ってどうしても気になるところにふわふわって意識って飛んじるから、
飛ばさずにちゃんと自分が今大事にしたいもの、守るべきものに目を向けていくっていう、そういうスキルというか、
もの自体は全然なんか、いやむしろみんな見え透けて損はないんじゃないっていうふうに思ったりするかな。
ていう感じです。
不安の本質
でもそうだね、確かに自分も似たような感じではあるんだけれども、
例えば今回の話、この回だけ聞くと、ほら今回自己揮発っぽいねって話したじゃん。
例えば未来とか過去じゃなくて、今が大事ですと。
この一歩一歩の積み重ねが結局は未来を作っていくのですと。
だから未来を想像するだけじゃなくて、今に集中しましょうみたいなのは確かにあるし、
聞いたことあるし、ただ一方で確かにそこだけ聞くと自己揮発だなって確かに思ってしまうと思うんだけど、
やっぱり前回の支援の修練、その感覚とセットじゃないと、
もっとこのピエラードの言う生き方としての哲学という意味では不十分なのかもしれないなっていうのも今回聞いてすごく強く思って、
今回エピクロスの例も出してくれたんだけれども、
やっぱりエピクロスへの批判として、切な的な快楽とか自分たちだけを楽しみに目を向けて、
社会とか政治というか共同体について考えてないように見えるみたいな批判があったとして。
それは多分エピクロスとかその間にいた人は、このピエラードの第4回しか聞いてなかった人たちだと思うんだよね。
その切り取ってね。
そうそう、切り抜きしか聞かなかった人なんだ。
で、本来さっきハヤトが不安、今回不安とか、大した不安じゃないよってハヤトが、
そういうふうに考えた方がいいみたいな話をしたんだけれども、
それをどうすれば大した不安じゃないと考えられるかとか、
今を生きていく中で、じゃあ、例えば未来に向かってというか、
幸せであるために、じゃあ何をするかっていう判断軸みたいなものはやっぱないといけなくて、
その判断軸を作るのがその知恵の修練っていう感覚なのかなと。
なので、例えば明日のテストが不安だっていう時に、
その不安どこから来てるの?ってなると、
二頭にあって漠然と不安を抱えちゃってる人っていうのは、
多分ほんとなんとなくなんだよね。
これ明日なんか、このテストを受かんないと何かタイムもらえないかなーとか、
卒業ちょっとどうかなー、また次のセメスターでまた授業を増やさないとなーみたいな漠然とした不安があるわけ。
それを、いやいいんだよ不安なんか気にしなくてっていうのは、すごく無責任だと思ってて。
そうねそうね。
じゃあ、やっぱり今回そのピエラードで面白いなと思ったのが、
その知恵の修練的な感じで、その不安に思ってる人が、
ああそこについてうーんって、じゃあ自分はうーんって考えた時に、
いや自分はこんな感じで生きていこう、こんな感じになりたい、こんな感じの人生を歩むんだっていうのを、
まあその人なりのその地点なりにね、決めると。
た場合、その明日のテストについてどのぐらい不安があればいいかっていうのがそれで決まるんだよね。
はいはい、そうだね。
だから、例えばそういう人が本当に学者になりたくて、もう教授とかになりたくて、
で、その専門の授業だったとすると、
確かにここで落としてるようじゃその夢叶わんぞと、
ちゃんと勉強しなきゃなと、なんだかおかしいわけで、
で、それが一般教養で落とすとなんとかなるみたいなやつだったら、
正直不安がなくていいし、
そんな不安があるんだったら逆にやっぱり勉強しとけよみたいな。
だし、不安じゃないやったら途中で切ってもいいじゃんみたいな。
その不安方面で言うとね。
はいはい。
そうなるから、その判断軸っていうのが、
やっぱりこの第4回だけの現在目を向けましょうだけだと抜けちゃってて、
あとはその前回の死への修練だけだと、
今日話した休憩ゴールじゃないけれども、
現在みたいな、あとそのハイデガーの死への先駆だけか。
はいはい。
ある未来、自分の死の地点だけを見すぎると、
ある意味今がふわふわしちゃいすぎて、
それも不安だったりとか、
逆に根拠のない自信みたいなものを変にふわふわしちゃうので、
その両輪をうまく持っておきましょうみたいな、
もしくは考え続きましょうみたいなところのバランスがすごいいいなと思って。
おー。
調和の重要性
いやーすごい、なんかすごいね、
いい受け止め方してもらっているし。
うん。
あとやっぱなんか兄貴はなんだかんだ真面目だよね、根が。
根が真面目だなって思った。
ほんと。
なんでなんでね。真面目だよ、根が。根がは余計じゃないですか。
いやだって別に、
みなさん大学の時そんな単位とかちゃんと取ってなかったし。
まあ留年してるしね。
そう留年してるしさ。
事実からしてちょっとね、
いや適当なんだなって思ったんだけど、
あのやっぱ真面目だなって思ったのが、
ほんとおっしゃる通りでやっぱりその、
ある種基準がないとやっぱふわふわしちゃう。
じゃあテストってさっきよく軽く言ったけど、
テストの中にも重要なものと重要じゃないものがあってみたいな、
それが2まで考えた話だと思うんだけど、
最近ね僕がすごく、これちょっと自分の話で雑談っぽくなったあれなんだけど、
大事にしてる基準があって、
調和してるかどうかっていうのを最近基準にしてるんですよ。
調和。
ハーモニーみたいなことなんだけど、
例えばさっきのテストの話で言った時に、
テストがしたある不安だった時に、
その不安を、
その不安だから勉強するっていうことがより調和しているのか、
不安だけどもうやりたくないからもう寝るっていうほうが調和しているのか、
どっちが調和してるんだろうっていうふうに最近考えるんだよね。
まさに調和っていうのは要はさっき言った通り、
本当はめちゃめちゃ試験とか大事で、
それ通過しないと自分の夢が例えるんだったら、
それは勉強するでしょ、そのほうが調和的でしょみたいな話だし、
別にちょっとした小テストだから別にそんな不安があることないよだったら、
最大ここで別に30点取っても死なうわみたいな感じで、
眠いから寝る、遊ぶっていうのも別に自分の中で調和してればOKみたいな。
っていうのはあります。
今自分の中ではって言ったんだけど、
それでもあくまで社会的なとか世の中のこととはリンクしてるんだよね。
そうだね、調和って表現するとその辺がフワッと入ってくるね。
そうそうそう。
例えば自分が何かものすごく不安欲しい、盗んじゃえってなった時に、
調和しないじゃん、どう頑張っても。
そうだね。
めちゃめちゃさ、この前あったルーブルで盗まれたとかあったと思うんですけど、
安全犯罪で絶対自分の人生が既存されない中で何億手に入る方法だって思う人がいたら、
やめた方がいいよとは僕は言うけど、その発想も否定しないとは思うんだよね。
そういう人にとっての調和みたいなのがあり得るね。
あり得るけど、すると調和という、要は自分だけじゃない何人と響き合う、
調和っていうのはそういう主張があるってことだから、
そういう観点で考えるときに割といろんなことが判断しやすかったんだよね。
なるほど。
結構さっき言った自分はアドさんに結構共感するよとか、
自分のコントロールできるものを大事にしたいっていうのは、
その時々の現在において、これってより調和してるのかなとか、
なんかこれ調和してない方に行きそうとか、そういうことを考えてるっていうことに近いかも、今自分の在り方で言うとね。
なるほど。それが調和してるかしてないかの判断軸はどうなってるの?
なんかね、結構感情的な部分も正直ある。
感情?あ、直感?
そう直感。例えばさ、じゃあ明日仕事で何かやらなきゃいけないミーティングあるけど、
資料作るのやらーとかって夜になったときに、
寝るって言って、それでスッキリするときはもう寝ちゃうんだよね。
例えば寝る準備しても、なんか気になるなーとか、なんかやらなきゃなーとかって言うときは、
なんか無理してんなって思って、それでやっぱりやろうっていう風になったりするとか。
そういう結構、体の声を聞くとかってあったりするじゃないですか。
最近は結構そういうのを大事にしてるかも。
自分の感覚の重要性
あーなるほどなるほど。それもなんか面白いね、確かに確かに。
一気に哲学っぽくなくなっちゃって恐縮なんですけど、
ある種、自分に目を向けたときに出てくるサインというか、
頭で考えたらさ、やるかやらないかしかなかったりするじゃない?
か、なんかそんな社会人たるもの、資料作るのは当然であるみたいな、
なんかそういう常識的なものは語りかけてきて、それでやるとかっていうのもあると思うんだけど、
やっぱりそれで無理し続けるとさ、自分が壊れちゃうわけじゃない?
だから自分が今本当にこれどう思ってんだろうとか、
これをやることで自分の体にどんな変化が起きるんだろうみたいな、
そういうことを結構最近は気にせよりしてるかもね。
はいはいはい。面白いね。だから本当人によるんだろうね。
今その面白いって言ったのは、
多分ハヤトは頭が先に、考えるが先にみたいなタイプだろうから、
そうだね。
ある意味師への修練的なところは多分嫌でも、
ハヤトなりに考えていきたいみたいなのがあったとして、
まあ確かにね。むしろそっちしかなかったからね。結構元々。
それでもなんか不安みたいな。
たぶん、ことも確かにあり得るなと思って。
っていうのは、確かにそのフィードバックとしても自分ではね、
だからフィエル・アロンの言うこの第3回の部分はなんとなくやってきたけど、
この第4回の部分ちょっとやってこなかったかなみたいな。
あーそうだねそうだね。
現在に目を向けようみたいなのが近いのかも、ハヤトのその直感を。
信じるというか、感じてみるかも。
あるかもしれない。確かに。
でもそれが出来じゃなくて、今出来になったから、
結構そこに今僕が注目してるというか、
これ大事じゃんって思ってるのが強いのであって、
それによってはいやいやそんな当たり前じゃないですかと、
身体の声聞いてね、感覚判断するなんてずっとやってますよっていう人がいたとしたら、
当たり前だって思うかもしれないし。
そうだね、そういう人は例えばね、
この直感どこから来てるんだろうって考えてみるのが意外と面白いかもしれないしね。
そうそうそう。さっき本当に言ってくれた、
両方大事とか両方のパンティーを持つと、
いわゆる短期的目線に陥りすぎて、
今が楽しけばいいんだってなることもなく、
死っていう未来に目を向けすぎて、
どうせ死ぬから俺は何をしてもいいんだみたいなこともなく。
逆にそれに縛られてめちゃくちゃなんか修行僧みたいな生活をし始めるみたいな。
そうだねそうだね。
そういう風になることもなく、逆に選ぶとしてもちゃんと自分で選べるというか、
自分が本当にこれが自分の生き方として正しいんだと思って選べるみたいな、
そういうところになるかもしれないね。
そうそう。あとはちょっとプラグマティズム的かもしれないけど、
一回そこで自分の仮でもいいから答えを作っておくことで、
これやってみたけど自分こんな修行僧みたいな生活やっぱ無理だったわみたいな。
そういう意味でもベクトルの習性が測れるんだよね、それで初めて。
あー確かにね。
そういう意味では迷子になりづらいというか。
はいはいはい。
それは面白いかなと思う。
大事。やっぱコンパスとかやっぱいるもんね。
自分がどっちに歩いてるのかわかんないとさ、戻りに戻れないというかさ。
そうそうそう。
今のやり方やった基準とかっていうのはコンパス的な役割というか、
少なくともこっちに進んでるってことを教えてくれるものなのかなって思ったね。
そうだね。それを自分で作んなきゃいけない難しさみたいなのがあるっていうところだとは思うんだけど。
哲学の意義
でもね、それをやるのが哲学だと思うんですよね。
いいわね、いいこと言ったなって思ってるんだけど。
あれ違うのかな。
ちょっとまとめっぽくなってくるんですけれども、
やっぱり今ここにあることが幸福になるためにっていう言葉っていうのは、
フォレスタイルを否定する人ってそんなに多くないかなって思うんですよ。
もちろん今の幸福なんて投げ捨てて、未来のために生きろっていう発想もなくはないけれども、
それも別に、未来というものを立てたときに、
未来、いつか来る今が幸福であるっていう話だと思うんだよね。
そうしたときに、これっていろんな人の共感というか、話であるテーマだなと思います。
そこに対して安藤さんっていうのは、一個の軸というか、考え方というのを提示してくださってるなと思っていて。
もちろんね、今日ちょっと悪者っぽく言ったけれども、
いわゆる絶論主義の不安があるんじゃないかとか、
やっぱりそういったものに取り憑かれているっていうところは、時代感覚としては絶対にあるはずだから、
多かれ少なかれね。そこに目を向けて考えていくっていうのはすごく意義があると思うんだよね。
あとは、実論主義の見方で不安があるのは、サルトルだけじゃない説もあるよね。
違う違う違う。
サルトルの個性説ない?
違う違う違う。
違うの?
やっぱりあるんですよ、その時代のね。
実論主義っていう名前がついてるわけであるんですよ。
だけど、やっぱり今回安藤さんが言ったみたいに、不安っていうものじゃなくて、
やっぱり生きることの豊かさとか、自分が存在していることへの驚きとか、
そういうところから入ってた時に見えてくる、もっと言っても古代の哲学者がもしろ実践していた、
そういうのがあって、それって全然今の自分たちでもすごく大事にできることだよね、みたいな。
そういうふうな話がね、今日できたかなって思うんですよね。
いやー面白いね。
それこそこのピエロアドを切り抜いちゃうと、よくある自己啓発だねってなりそうなところが一定というかね、
ちゃんと古代哲学を通してたりとか、このピエロアドの個人的な体験を通じながら、
一つの体系としてきちんと過去の哲学を研究した上で、その一つの体系として、
この生き方としての哲学としてまとまってるよっていう面白みってことはね、これね。
そうですね。
この本って読みやすいの?
めっちゃ読みやすいよ。
これはね、ぜんぜんおすすめで、ちょっと対談形式なんですよ、これ。
インタビュアーがイテストに答えるみたいな感じの、講演録みたいな感じなのかな。
でもね、結構ね、さらっと。もちろんね、いろんな記載書とか出てくるんで、そういう意味での難しさはあるんですけど、
でも全然入門編というか読みやすいと思うし、
なんなったらこの本で読書会とかしても全然いいよねって思ったりするぐらい。
ああ、そうなんだね。
いい本です。
今回で第4回、もともと3回ぐらいだったのをちょっと伸ばさせていただいたこともあるんですけど、
ちょっとね、感想とか次回また雑談のときにやるとして、
もともと哲学って役に立たないのかみたいなね、難しくて抽象的で、
なんか分かれようで別にこれ分かって何になるんだみたいなさ、そういうのって。
確かに。で、どう使うのっていうね。
そうそうそう。っていうのがあるんだけれども、やっぱりそれだけが哲学じゃないよっていうのは結構今回、
まあ逆に僕自身の発見だったんだよね。
それを皆さんにも共有したいと思って、今回ピエラードさんっていう、ある種で言うと無名の人?
あんまり知られてない人でもあるんだけれども、やっぱりこういう、いかに幸福に生きるかとか、
その幸福っていうのはただ快楽だけじゃなくて、やっぱり自分の生き方とか、
何かしらの寄って立ちたい信念みたいなものってやっぱり大事っていう中で、
やっぱりどういうふうに自分の生きるっていうものを基礎として作っていくか。
で、これもね、ちょっと何回もおっしゃった通り、やっぱりその問題では哲学っていうのはやっぱり情報を与えるんじゃなくって、
育成する、育てることだったっていうのがやっぱり根本にあるから。
そういうことをやっていくことで、より良い人生になっていくとか、生きるっていうことのスキルが上がっていく。
次回のテーマ
っていうふうなところがすごく面白い発想じゃないかなって思ったんだよね。
なるほど。確かにこの本自体もそういう形式になってるんだろうね。
生き方っていうものをきちんと情報としてじゃなくて、
ちゃんと手段というか技として伝えてくれてるみたいな感じなんだね。
ベースです。
でもね、今回はその本を通じて兄貴と対話するみたいな話でやってみたんだけれども、
途中でも兄貴も言ってくれたけれども、なんかね、自分で感じたことがあるとか、
自分もこんなことを考えてるとかってのがあれば、ぜひこれは聞きたい回だなーなんて思ったので、
もしよろしければお便りとかですね、コメントとかいただけると、
そちらもプレイしながら話していきたいなと思ってるので、
よければぜひ皆さんの声も届けていただけると嬉しいなと思っておりますという感じですね。
概要欄からお便り本もありますので、そちらからぜひ送っていただければと思います。
というような感じでね、今回は終わりで。
次回ね、どうしようかなって迷ったんだけど、
もう一回東洋行こうっていうのを決めてたわね。
はいはいはい。
で、もう一回ちょっとわがままなんですけど、
そうじいるじゃないですか。老僧思想のそうじ。
うん。あの故郷の夢ね。
そうそう。彼をちょっともう一回、何か彼にとってほしいなよ。
へー、そうなの?
そう。で、ちょっとそこはまたロソーシー会で言うんだけど、
やっぱりね、もっと深いことがあるなとか、あとね、
今回の行き方みたいなのがあったときに、やっぱりそうじのそうじの故郷の夢とかもそうなんだけど、
あれってさ、自分が蝶で蝶が自分で何かわからなくなったみたいな話だと思うんだけど、
あれって結構、究極の一つの理由な生き方というか、
まさにその、現在ってもう大事にして、生き切るみたいなことの究極形だなって最近思ったんだよね。
おー、そうなんだ。はいはいはい。
そう。なのでちょっとその観点から見たときに、結構その、
加藤さんとっていうか今回の話のつながりって面白いんじゃないかなと思ってて。
うんうんうん。
はい。なのでちょっとそうじに一回行って、
で、そのそうじの演者みたいな感じの中国地層の深まりっていうのがあるから、
そこまで行けるとちょっと面白いんじゃないかなって思ってますっていう感じなんですよね。
おー、なるほど。面白そうだね。はいはいはい。
はい。なので次回また東洋に行きましょうというふうに思っておりますというところですね。
分かりました。ではですね、PLRは今回までということで、雑談挟みつつ次回そうじやっていきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。