古代ギリシアの真理観
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、今回は空海編に行く前の橋休め会みたいな感じということで、
真理について話してくれるというところでした。 そうですね。いきなりね、真理とは何かみたいな話はちょっと私も聞きすぎると思うんですけど。
真理とは何かを教えてくれるの? 真理とは何かではなくてですね、真理という言葉ってすごく難しいというか、それは意識しないと思うんですよ、そもそも。
でも、哲学やると、それこそ何とかとは何かみたいな話で、その物事と本質を持っていくと、そこに真理があるみたいな、いきなりそういう世界観に出会うんですよね。
うん、まあ確かに、確かに、何の気なしに使ってる気がする。 うん、そうそうそうそう。
僕らが普通ね、真理とかって言うと、いわゆるプラトン、いきなりプラトンの話だしちゃうけど、前のイディアみたいな、唯一絶対のものとか、
それだけが正しくて、他のものは全部間違ってるというか、その真理っていうところから他のものが出てくるんだみたいな、
結構そういう感覚ってあるかなと思うんですけど、その辺の感覚ってお兄さんどうですかね。
ああそうね、でもそれにやっぱり近くて、あと何か、例えば時間とか時代とか空間とか、そういったあらゆる前提条件を排除した上で残る本質みたいなイメージかな。
うんうんうんうん、そうだねそうだね、確かに確かに。条件とか変わっても変わらないもの、真なるものみたいな感じね。
この場合こうじゃんとかってならないようなやつ。
確かに確かに確かに。それもね、ドキドキのモンスターみたいな感じなんだけど、でもさ、まさに直近で見てきたプラグマティズムとかって、
でも真理とかも、むしろ役立つものが真理だとかさ、そのドキドキで、むしろ真理も違うとか、ちょっとカビウシュみたいなことも言ってたと思うんだけど、その乗り越えたりとか、それを疑うことができるみたいな、
そういうちょっとね、真理っていう普通の使い方とは何か違うことについて喋ってたなって思うんですよ。
うんうんうん。
で、これも割と何の気なしにというか、割と断りなしに話しちゃったんだけれども、同じこの真理っていう一つの概念、言葉をとっても、やっぱりそういういろんな考え方があるみたいなのがあって、それを真理観とか真理論みたいな言葉が後にするんですよね。
へー、はいはいはい。
で、なんか僕自身もあんまりそこってこう意識しなかったんだけれども、今回改めてプラグマティズムとかウィトゲンシュタインみたいなね、過去の哲学をやっぱり乗り越えるぞとか、
反するぞっていうのを見たときに、そのやっぱり真理観とかその真理の捉え方っていうのが、やっぱりこう古代の哲学とね、この近現代の哲学とか、またやっぱり西洋と東洋の哲学の違いとか、
そういうのにも、結構やっぱり関わってくるよねっていうのを感じてたんですよね。
うーん、なるほどなるほど。逆にそこ捉えないと、その本で語ってることが読み違えたりとか、議論がずれたりとかってこともあり得るぐらいの話って感じなのか。
そうそうそうそう。それこそ世界観とか人間観みたいな話と同じで、やっぱりこの人とかこの時代はその真理ってものをどう捉えているのかとか、
世界ってものをどう捉えているのかによって、やっぱりそういうことを同じような捉え方をしないと、結局なんか読み間違えちゃうとか、全然違う、全然入ってこないみたいな。
そういうのがあるなって思ったので。
そこを別に語ってくれてるわけじゃないんだもんね。私の真理観はこうですとかって。
うん、そうね。ないない。もちろんプラグマティスムぐらいね、真理ってものを正面に据えてるところは語ってると思うんだけど、
でもじゃあ過去ってことはどういう流れがあってとか、みんなは普通真理ってこう考えてるねってことには踏み込まないから、
そういった意味で今回一回分を使って、改めてその真理観というか、真理のどういうふうに歴史的に発展してきたのかみたいなことをまとめてお伝えさせていただくことで、
皆さんの中でも、この主張ってこういう真理観で行われてたからこういうふうなことを言うのねみたいな。
だからそういうことの理解とか、それはこれまでの話もそうだし、今後話していく、それこそ空海とかもそうなんだけど、
理解しやすくなるんじゃないかなっていうのをちょっと思って。
プラトンの真理観
なるほど。ちなみにその真理が発展って表現してたけど、発展でいいのかな?変遷とかじゃなくて。
発展でいいと思う。たぶん過去の人はやっぱり乗り越えて、その真理ってああだこうだみたいな話をやっぱりしてきてるから。
なるほどなるほど。
もちろんね、じゃあそれがより良くなっていくみたいな意味での発展かというとしちゃうから、
確かにニュアンス的には変遷とか、どっちの方がいいかもしれないね。
なるほどなるほど。ただあくまで勝手に好き勝手に真理観をそれぞれの時代で言ってるわけではなくて、
過去の人はこう捉えていただろう、過去の時代はこういう共通認識があったろうみたいなところを前提とした上で、
その新しい真理観がまたリニューアルじゃないけど生まれてきたよみたいなところではあるって感じなんだね。
そういうのに携わっている人は少なくとも。
そうだね。
で、この真理観とかは別に僕が好きかって言ってるとかではなく、
このですね、いばのみ書店って本屋さんってあるじゃないですか、版社。
だから、哲学思想辞典ってめちゃめちゃ分厚い本がね、本というか辞典が出てるんですよ。
今日話す方は辞書から引っ張ってきてるんですけど、
へー、そんなにある?
めちゃめちゃ細かい辞で2ページ分ぐらいびっしり書いてるんですよね。
へー、はいはいはい。
で、当然辞書はまさに第一線の哲学者の方とかそういう方が書いてることだから、
ある程度の一般的に真理というものはこういう風な時代の変遷があるとか、
大きく捉えたらこういう人たちが変わってきたと言えるっていうのは外してないので。
へー、なるほど。ちゃんとあるんだね、そういうのが。
あるんだよね、そうそうそう。
ちょっと雑談するけど面白くて、辞典ってそれこそ哲学辞典とかもあるんだけど、
それこそヘーゲル辞典とかカント辞典とか、原書学辞典とかっていう風に、
やっぱりその人の言葉とか概念をちゃんと正しく捉えたような辞典とかって出てたりするんだよね。
なるほどね、ある意味カント語みたいなヘーゲル語みたいになっちゃってるわけだよね。
そうそうそうそう。
やっぱ定義しまくってるからね、言葉をね。
定義しまくってるから、そうそうそう、新しく作ってるから。
うん。
とかね、我が家ではないですけど、研究者の方はそういうのも使いながらやっていく。
それこそやっぱ難しいよね。
特に僕らカント読むときにカント辞典変わらないじゃない、やっぱり読もうと思っても。
そうだね、そもそもね。
うん、そうそうそう。
そういう意味でね、改めて今回その真理って言葉を辞書的な意味、
それも国語辞典じゃなくて、哲学辞典的な説明っていうのを皆さんお届けしたいと思う。
みたいな感じですね。
はいはいはいはい。
今回真理の説明というか、歴史的な流れをしていきたいんですけれども、
それぞれ大きな復習にもなるかなと思ってます。
まず最初はこの西洋の古代ギリシアの哲学から始まっていきますと。
当時多分あんまり名前は知らなかったんですけれども、
紀元前450年、だから今から2500年前ぐらいに活躍したとされるフロタゴラスっていう人がいるらしいんですよね。
その人が既に真理っていうタイトルの本を残されてるんだって。
へー、そうなんだ。
真理の相対性と人間の認識
2500年前ぐらいから真理について語ってる人がいたっていう話なんですけど、
こっちは聞いたことあるかも。結構有名な人間は万物の尺度であるって言葉って聞いたことあるかな。
あるある。
これがフロタゴラスっていう人の真理っていう本に含まれてた言葉らしいんだけれども、
これって人間っていうのが世の中のことを決めていくんだよねみたいな話でもあるんだけど、
でもこれ真理の話だから、世の中の正しさとかそういうものって結局個々の人間の認識が決めるんだっていう、
真理の相対主義だっていうふうに言えるんだよね。
へー、そうなんだ。面白いね。意外だね。
真理っていうことを扱ってるくらいには絶対的なものを言ってそうだけど、
そうなんだ。それぞれあるよねみたいな話から始まったんだ。
そう、それぞれあるよねってところから話してて、
例としてね、確かにと思ったんだけど、
風が吹いたときに、ある人がこの風は暖かいって思うのと、
ある人が冷たい風だって思うので、全然怒り得ますよねと。
そうしたときに、今吹いた風は冷たいとか暖かいっていうのは意味をなさないんだ、みたいなことを当時から言ってるらしいんだよね。
へー、すごい。すごいというか、イトニア人と同じような話をしている。
そうなんだよね。命題の詳しさっていうのは保証できないとか、どう保証するかみたいなね。
結構ね、根本的なことを考えてる人がいましたと。
ただ、相対意識が具合悪いっていうのはツアーズラジオの中でも結構言ってきたと思うんだけど、
要は別に言ったもん勝ちじゃんとか、結局真理ってそもそも入れるの?みたいな話になっちゃうときに、
それを乗り越えようとしたのが実はプラトンですと。
はいはいはい、なるほど。
プラトンは逆に、もしプロトガラスの言うように真理とか相対的なんだとすると、
人が何かを合意したりとか、お互いにそれはそうだよねっていうふうに、お互いに立骨理解を持ったりとか、
何かを同じように認識するっていうこともできないじゃないかと。
要は風が温かい冷たいとかって言ったらまだいいけど、
例えば目の前のリンゴを見たときに、これはみかんだって言い張ってる人がいたとして、
それは俺にとっての趣味だっていう人とはどうやってコミュニケーションを取るんだいみたいになっちゃうから、
人間っていうのは何かを主張しようとか説明しようとするときに、
まず一番大切な仮説を立てるんだと思うと、
その仮説を立てて、そこから導かれる物事に矛盾がないときに、
その仮説を真、真理、正しいものと認めるんだ、みたいに言い出すんだよね。
そういう言い方してたんだ。
そうそう。だからあんまりいきなり真のエディアだとか、エディアがあるんだとかっていうことよりは、
そういう何かやっぱりより大きな正しいものっていうのがあって、
それが矛盾しないとか、ある種正しいと言えるんだったら、
それを真理と言おうっていうふうにプラントンは言っていて、
そうすることで我々は真理っていうものを共通認識して捉えられるんだみたいな、
そんなことを主張しましたと。
これは面白いね。
人間の素朴な、もしかすると分かんないけどね、どっちがスタートなのか分かんないけど、
真理っていう言葉からイメージするとさ、
まずこのプラトン的なもの、今日も話したけどさ、
プラトンの真理をイメージしちゃうみたいなさ、イデアを想像しちゃうみたいな話をしたんだけれども、
実はその素朴に考えると、もしかするとこの相対主義的な、
それぞれジャーンっていうほうが意外と人間の認識に近いのかもみたいな部分は面白いね。
こっちはスタートで、それに対する反対というか、
それはちょっとさすがに何でもありになっちゃうから、
何か共通のものあるでしょみたいなさ、
そういうものとして生まれてきてるっていうのは面白いね。
そう思うんだよ。やっぱり普通に言ったらさ、やっぱり人との正しいものがあるとかっていうよりはやっぱり自分がやっぱり他人と違うとかさ、
自分というのは世界の中でも特別な存在であるって思っちゃうのはたぶんしょうがない。
でもやっぱりそれだけだと、
じゃあ自分、みんなが自分を大事にするから結局お互いに分かり合えないとか、
共通の福祉みたいなものは生まれないっていう中で、
やっぱりその共通性とか社会性とかっていうところ、
その心理というものはたぶん変わってくるなと思うんだよね。
で、さらにそれを推し進めるのがアリストテレスで、
アリストテレスってやっぱすごいねっていう感じなんだけど、
これはちょっと長い、わかりにくいんだけど、言葉をしゃべると、
あるものをあらぬといい、あらぬものをあるというのがにせ、間違いであると。
要は、まさにそうだよね。ある、りんごがあるっていうのはみんながわかってるのにりんごがないんだっていうのはもちろん間違いだと。
あるものをあるといい、あらぬものをあらぬというのが真、正しいことであるというふうに言ってます。
これはすごく当たり前のように聞こえるかもしれないんだけれども、
何が起きたかっていうと、真理とは何かとか、真理とはこうであるじゃなくて、
真と偽、正しいことと間違っているということの関係を立てて、
正しいとか真理っていうのは判断の中にあって、
判断する根拠っていうのはまさに世の中の出来事とかその存在の方にあるっていうふうな図式をここでアレンジストレーサーが作ってるんだよね。
難しい。
難しくなってきたね。
難しくなってきたんだけど、例はわかりやすくて、
要はさっきの風が冷たいかどうかは君がどう思うかだみたいな話をプロトコースをしたじゃない。
そうじゃなくて、これ再生数の例らしいんだけど、
君が色白、肌の色が例えば白いと僕らが真に思うから君が色白なんじゃなくて、
君がまさに色白であるから僕らが君は色白だっていうことが真実になるんだっていうふうな話をしてるんだよね。
これわかる?伝わるかな?
伝わるけど、さっきの風でいうと難しいよね。
これで相対処理が参りましたと言うとは思えないっていう。
そうそうそう。
だから風とは何かとか温度とは何かみたいな話になってくるね、そうすると。
風って存在というよりは運動じゃない。
要は風っていう空気がどこかどこかに移動するものを僕らは風と呼んでいるけど、
風っていう存在が明らかにあるわけではない。
でも例えば肌の色とか、それこそリンゴがあるとか、
そういうものに関しては僕らはそれがあるからそれをあるということが真理だっていうふうに言える?
おー、なるほど。
そっか、ここで存在するものしないものみたいな線引きもまたしていくって話なのか。
そうそうそう。
だからまさに質量と形質側みたいな話をしているんだけど、
肌が白いという白っていうのはやっぱり物とか存在ではない。
もちろん物に対して属性がくっついているという話なんだけど、
そこをちゃんと分けることで正しいとか正しくないとか、何かが冷たい。
冷たいっていうのも属性なんだけど、
この氷は冷たいとか、風は冷たいという時に、
その風っていうのは今吹いたこの空気の移動っていうものに対して、
そういうふうに判断することができるみたいな、
そういうカテゴリー分けとかもちゃんとしていくんだよね。
はいはいはいはい。
なるほど、そういう土俵を作っているんだね、物事をね。
物事を議論するとか話していく土俵とか関係性っていうのを作っていく。
これはね、心理っていうのもいろんな説がある。
まさにさっきの心理の相対主義みたいなのがあるんだけど、
こういう考え方を心理の対応説っていう風に呼んでいて、
まさに存在とか現実に対して正しい認識をすることが心理だみたいな、
そういう対応関係を大事にするっていう。
おー、はいはいはい。
心理感が出て、かつこれが逆に、
二言論的な心理感になっていくんだよね。
要は世の中があって、認識があって、
それを正しく理解することが心理だっていう、その知識。
はいはいはいはい。
基盤っていうのが、このやっぱり古代の哲学、
古代ギリシア・アリステルスで生まれているんです、みたいな話なんだよね。
ただここまでいっても、
要は心理がただ一つの正しさだみたいな感覚ではないと思うんだよね。
あくまでも世の中がどうあるかということと、
認識が一致するかっていう話なんだけど。
そうね、ちょっと心理の話からずれた感じがするね。
そうだよね、そうそうそう。
ただ一つの正しさみたいなのは、
やっぱりどっちかっていうと、
中世のキリスト教哲学っぽさがあるなって僕は感じてて、
どういうことかっていうと、
いわゆるね、これまで言ってきた心理って哲学的な心理の話なんだけど、
ここに宗教とかが乗っかってくると、
その宗教的な心理みたいな話が出てくるんだよね。
つまり判断するとか認識するとかじゃなくて、
そもそも世界とはこうある、あるべきだみたいな話っていうのが、
やっぱりこのキリスト教的な中世になってくると出てきますと。
中世の時にアウグスティンスっていう人の話を多分したと思うんだけど、
この人って感覚的に外の世界っていうことじゃなくて、
内的なもの、それこそ魂とか、
人間のより根源的なものとかに、
魂と神の真理
その真理を探求するようなことがこの時代に生まれてくるんだよね。
逆に言うと、これまでは別に魂とかってそんなのなくって、
アレストレデスが魂を分析したとかっていうのは、
多分ないんじゃないか分かんない、あんまりあったら申し訳ないし、
アレストレデスはやりかねないんだけれども、
もう何でもかんでも分析とかやってるから。
そういう内省するとか、
自分の人間の魂の方に真理を追い求めてるのが、
やっぱりこの中世的な考え方なんだよね。
そうすると、やっぱり神の存在、
やっぱりキリスト教的な神っていうのは重要だったときに、
神っていうのは外に探しに行って、
どこかにいるとか存在して見つかるというものではなくて、
人間の魂の中に神の要素を発見していきましょうと。
そうすることによって、人間の中に正しさとか、
豊かさとか人間的な美の感覚というものが、
実は神に大元を持つんだみたいな。
それによって人は神の真理というものを理解することができるんだ、
みたいな発想になっていきます。
そうすると、やっぱり神の真理とは何かとか、
自分が創り継いだ神の真理と、
他の人が創り継いだ神の真理はどう同じだと言えるのかっていう、
まさにその唯一絶対の神としての真理みたいな、
そういう発想がここで強くなってくるんだよね。
わー、なるほど。
これもやっぱりここまでの流れありきの話だね。
宗教と真理
さっき言ったものというものがあって、
それを正しく認識することだ、正しく認識することだ、
という世界観を提示したことで、
そのものというものの対象が広がると、
こういう宗教とかと繋がると、
魂というものもあるんだって言っちゃえば、
神というものもあるんだって言っちゃえば、
それを正しく認識できない方が間違ってますよっていう話もできる。
神とはこうである、魂とはこうである。
偉いというか、それを私たちは知っている。
その存在を信じている、知っている。
だからあなたたちに教えてあげましょう。
これを正しく理解できるように教えてあげましょうっていう論理と、
理解できない人はダメであるとか、
理解できる人は偉いみたいな、
そういう構造を作ったりとか、
認識したりさせたりするっていうことが、
このアリストテレスが作った土俵の上だからこそ、
できちゃうし、受け入れられちゃうし、みたいな感じがしたんだね。
すごい、でも本当にそうだと思う。
やっぱり神の真理に近い人は偉くて、
神の真理から遠い人が野蛮だとか異教徒っていうのは、
人間として違う種族だぐらいになっちゃうっていうのは、
たぶんそこなんだよね。
だって世界にあるんだもんっていう話ができてるからね。
それを理解できるかできないかっていうところを話せばよくなるもんね。
だってあるんだもんっていう。
あるからね、みたいな。我々は知っているから、みたいなね。
これは面白いよね。
結構ね、確かにそういう意味で言うと怖いかもね。
その真理を一個立てるっていうのは、まさに他を排除するとか、
真理を知らない奴はダメだっていう発想にやっぱり行き着いちゃうのかもしれないね。
行き着いちゃうし、そういうふうに真理らしきものを使えちゃうっていうことかな。
そうだね。
さっきに名前を出したアーグスティンスっていう人は、
哲学者というよりは神学者ではあるんだけれども、
古代ギリシャとは全然違う、神による真理とか、
神としての真理みたいなものを提示した人だ、みたいな話が辞書の中でもありました。
デカルトの考え
そこに近代に入っていくと、デカレッド・カント・ヘイゲルみたいな。
でも名前がバンバンバンって出てくるんだけど、
彼らも哲学者としてすごい重要だっていう話と、
真理っていうものを発展させたっていうのは、
結構ニアリー・イコールなのって感じがするんだよね。
デカレッドでいうと、まさにアリス・レースがやったように、
真理の何かっていうことよりも、
真理とはこういうふうにして解明できるっていう、
まさにその基準のほうを作っていくんだよね。
それがこのソレデッドラジオでも何度か言って、
ソレデッドラジオでも何度か言っている、
方法的会議っていう話で、要は疑う中で、
疑えないものだけを正しい真理と認めましょうっていう話だよね。
これはある種、それまで世の中にあるものを正しく捉えているっていうことが、
真理だって言っていたものを、
自分が疑えるかどうかっていうことを基準にしたっていうふうに、
その基準のほうを変えちゃったってことなんだよね。
分かりやすいね。どこにデカルトが違和感を持ったのかっていうね。
アリスとテレスがついていたものっていうものを、
正しく認識しましょうっていう時の、
そのものって何だっけっていうところに、
違和感を持っちゃったデカルトって話なんだよね。
それはやっぱり相当おかしな人だよね。
普通にね、ケタラはね。
あるんだっけ、神いるんだっけ。
デカルトは神を証明していたと思うけど。
いるっていう前提からだけど。
西洋哲学の広がり
これは要はプロトコロンスの予想対象に戻ったわけじゃないみたいな感じも見えちゃうんだけど、
要は疑う、疑えないっていう人のほうに基準が戻っているわけだから。
だからこそ、やっぱり理性っていうものをすごく大事にして、
正しく理性を働かせて疑いを持てば、
理性を持っている生き物なら、
誰でも同じように認識できるはずだっていう。
何でもオッケーじゃなくて、
理性っていうものを伝えることで、
相対主義っていうのを乗り越えようとしているっていうのが、
発展するっていう感じなんだよね。
なるほど、発展なのか、神の大きかいなのかはまた、
どっちだかけどみたいな話ね。
その後の話を考えると。
歴史を今から振り返るという感じではあるんだけど。
ともかく理性ってものがあるんだと。
という話をした後に。
そう。
神中心の心理観から人間中心の心理観に
変わってきたって話なんだけど、
そこからさらにカントっていうのは、
認識とか純粋な理性とかってものじゃなくて、
経験とか体験って大事だみたいな話とか。
そもそもヘーゲルっていうのは、
心理っていうのは永遠不変なものじゃなくて、
心理自体が発展して変わっていく。
それがまさに矛盾から起こる弁償法なんだみたいな。
その弁償法が起きる全体観自体が、
その心理っていうものを表しているんだみたいな。
やっぱりそれぞれの主張において、
心理っていうものがどう変わっていくかとか、
心理はどうされるかっていうのは、
民説に関わっているんだよね。
面白い。そうなんだ。
ヘーゲルはそういう絶対的な心理っていうものは言ってないんだ。
心理っていうものは運動というか、
法則の方に焦点を当ててるみたいな感じなんだね。
そうそう。まさにその通り。
それだけ一つの心理にたどり着くかもしれないけど、
それまで一つの心理があるっていうよりは、
運動全体が心理を実現しているっていうことも、
結論であるみたいな感じなんだよね。
なるほど、なるほど。
この辺までくると、
真理の捉え方
ちょっとイデア的なものからは少し離れているというか、
感じはするんだね。絶対的なものっていうものを
想定してないというか、
少なくとも自分たちは今そこには到達していないであろう
みたいな認識があるって感じだね。
そうだね。
それを正しく見ましょうって言っても、
そんな風に扱うものじゃないよ、みたいな。
のがデカールとカーンとヘーゲルの中で出てきます。
さらに現代っていうのを、
この辞書の中では
忍一だっていう風に言ってるんだけど、
忍一が神が死んだとか、
それこそ絶対的に言ってきたと思うんですけど、
神理に関しても言ってる言葉があるらしくて、
神理とは、
それなしにはある種の生物が生存できないような
一種の語封であるって書いてるんだって。
この言葉だけだと、
忍一はどんな主張したかわからないんだけど、
少なくとも神理っていうのを、
対応とか認識とか、あるないとか、
そういうことじゃなくて、
生存の条件だっていう風に言っている。
ゴビューって何?
ゴビューっていうのは、謝りとかミスビードみたいな話。
神理って、
東洋における真理
あがめるようなものじゃなくて、
勘違いして思ってるものかもよ、みたいな感じなんだよね。
なるほど。かなり振り切ったね。
あるとかじゃなくて、むしろ間違いだと。
そうそう。
でもそれがないと生きていけないって、
生きるってことと神理を結びつけたのは、
忍一が初めてなんだよね。
そうなると、
これがプラグマティズムっぽさに繋がってきて、
ジェームズの時に神理っていうのは、
役立つ道具だみたいな、
役立てばそれが神理だって話をしたと思うんだけど、
素晴らしいものとかじゃなくて、
生きていく過程で生まれてくるものなんだとか、
時々変わっていくものなんだっていう、
永遠不変の神理じゃなくて、
その時々で、
自分にとって良いものが
神理と呼んでいるんだっていう、
全然違う神理が出てくるんだよね。
そうなると、アリス・ドレスが言ったように、
神理っていうのは、あるものについてあるということなんだとか、
真偽っていうものを対応させて、
正しいものは真で、間違ったものは偽だみたいなシンプルな話、
それが語れなくなってくる。
だから、
そもそも神理って、
どう扱うべきなんだっけっていうところに、
反省が入ってくるのが現代なんだよね。
おー、なるほどね。
そう考えても、
アリス・ドレスのすごさが際立つね。
感じた?
最初に話した、
人間の素朴な認識が、
相対主義的だとすると、
神理は道具だみたいな、
自分たち役立てばいいじゃんみたいな、
スケール感が、
素朴な感覚だとすると、
プラトンとアリス・ドレスが、
そうじゃないんだと。
ものがあって、それを正しく理解すべしみたいな、
世界観を2000年も引きずって、
まだダッハ式入れてないというか、
違うんじゃないみたいな話を、まだしてるって話だもんね。
そうだね。
ニーチャーとかも、
200年くらいの話だから。
そこそこどっちが正しい、相対主義がいいとか悪いって話はないんだけれども、
違う土俵を、
まだ作りきれてないというか、
頑張って作ってるんだなって感じるよね。
アリス・ドレスから。
中世のキースト教的な、
宗教観からの脱却みたいな話もあるかもしれないけど。
どれだけそういうのに影響されてるかとか、
素朴に考えちゃってるかって話だと思うんですけど。
現代に入ってくると、
そういうふうに真理ってそもそもみたいな話が出ちゃうから、
いろんな説というか取り合わせ方が、
パッと膨れ上がってくるんだよね。
そこを定義しないと、
現代は何も語れないんだね。
そう。
見ておきに社員とかもそうだけど、
そして正しいとは何かみたいな話もあるし、
論理学というか数式として、
数学的な正しさって何かみたいな話が出てくるし、
人間の理性とか生活とかじゃなくて、
もっと厳密な心理論としての、
あるものを正しいと言えるのはなぜかみたいな、
そういう話も論理学として出てきます。
この方向には名前だけ出すし、
今後もしかしたら取り入れられたらいいなと思うんだけど、
タルスキーとかクリプキーとかデイビトソンとか、
そういう人たちがいますと。
僕も名前だけしかほとんど知らないみたいな感じなので、
一旦証拠紹介という感じなんだけど、
そういう人たちが出てきた中で、
最後に辞書の最後に出てくるのが、
ハイデッカーなんですよね。
彼がやったのは、繰り返し復習ですけど、
いわゆるギリシャ語でアレテイヤというのが真理なんだけど、
これがレテイヤっていう、
アっていうのは否定の説当語なんだけど、
そういうふうに隠れているものを
大いに剥がすみたいな意味なんだっていうふうに
ハイデッカーは解釈をしてるんだよね。
そういう語源があると。
そこから踏まえて、真理っていうのは隠れなさ。
要は対象とにしか一致するとか、
言葉で表せる真理とかじゃなくて、
改めてその存在そのものが
自らを表現しきるとか、
その存在が自らをあらわにするみたいな、
そういう世界観での真理観とか、
真理の捉え方っていうのを提示するんだよね。
ちょっと忘れてるから、
いいとこないけど。
ハイデッカーは改めてこの存在っていうのを
20世紀に取り付けた、
20世紀に取り付けた哲学者ではあるんだけど、
みんなが存在とか認識方法じゃなくて、
もっと言語とか、
そういう数式とかってのに行こうぜ、
もっと厳密にやろうぜって言ってる中で、
存在っていうのもこんな風に改めて捉えられるんだぜ
っていうふうに言ったっていう、
ある種超王道を歩き切った人みたいな感じなんだよね。
イメージとしては。
イソテレスが立てた存在みたいなものを
改めて捉え直して、
真理っていうのも隠れなさ、一致とかじゃなくて、
存在そのものが存在として表現しきるみたいな、
そういう哲学の根本から
新たな問いを取り出したみたいな感じなんだよね。
はいはいはいはい。
っていう感じで、
さっき言ったデカウトとかカウントとか、
人間中心の心理観っていうのを打ち壊している。
それを乗り越えているっていう意味で、
やっぱりアーサーが世界観を提示した西洋哲学の
ハイデッカーみたいなところが取り上げられています。
プロトゴロースっていう2400年前ぐらいの人から
ハイデッカーまでの流れとして書かれている
辞書の話なんだよね。これ辞書です。
こういう話が書いてるんだ、これは。
書いてある。
細かい文字でビッシリ書いてるんだけど、
思ったより話だったな。
まず西洋の話で、東洋の話はあと10分ぐらい
しようと思ってるんですけど、
東洋に目を向けたらどうですかっていうのがあって、
東洋はめちゃめちゃ広いので、
仏教について主に書かれてるんだけど、
仏教においては実は真理っていうのは常にあるんだよね。
要は真理を疑われることはなくって、
西洋では真理とかそもそもあるのかないのかとか、
真理ってどういうものかっていうのが言われてるんだけど、
東洋は常に真理っていうのはあるんだと。
ただその真理っていうのは2つに分かれていて、
1つが仏の世界の真理。
それは究極的なものですと。
あとはこの世界の構造についての真理っていうのがあって、
世界とは仏教的に言うと空であるとか、
そもそもないものであるとか、
執着であるとかっていうのがあるんだけど、
それを正しく捉えることで仏の世界の真理を理解することができるよっていうのが
すごく大きな仏教の中でも真理感なんだよね。
だからその存在って言っても、
西洋世界のように、
それこそリンゴとか、
この世にあるものだけじゃなくて、
例えば仏の世界の真理っていうのは、
あるものだけじゃなくて、
例えば仏とはとか地獄とはとか、
そういう知識も仏教の中ではちゃんと扱えるし、
真理がある。
それをある種、リンゴと同じように仏の存在についても、
同じようにはもちろん語れないんだけども、
考えることができる。
これはやっぱり宗教であるゆえんというか、
そこはもう信じてください。
時代や場所によって変化し続ける「真理」の定義
信じてください。そうなってますよっていう強みがあるね。
ここにはね。
そういう世界観の中で語ってるっていう話なんだよね。
だからその存在を疑うとか、
そういうことはやっぱりない。
そもそも存在なんてしないとかっていう話も、
できるだけそっちに行くわけだよね。
さっき言った仏の世界と、
この世界みたいな話をすると、
結局ないよねみたいな話になりかねない。
結局は仮初めの世界だからみたいな話に、
やっぱりなりがちである。
これさらっと出したから、
あんまり覚えてないかもですけれども、
アビタネマ仏教っていうのをね、
ラーガール時代の時にたぶんやったと思っていて、
負けたほうだよね。
負けたほう。
ラーガール時代は批判してない人って感じかな。
アビタネマ仏教ではですね、
言ってもブッダから近い仏教だから、
結構原始的な仏教に近い考え方なんだけど、
まさにそういうこの世界の真理とか、
構造とかっていうのを、
世俗的真理って言って、
仏の世界というのを最高真理みたいに分けてるんだよね。
真理っていうのも、
絶対じゃなくて二つあるんだけど、
その世俗的真理が何かっていうと、
あるものが破壊されたら、
あるものではなくなるものだと説明してるんだって。
例えばさ、瓶があった時に、
コカ・コーラでもラムネでもいいんだけど、
瓶が壊れちゃったらもはや瓶じゃないじゃない。
壊れたガラスになっちゃう。
人間も焼かれて死んじゃったら、
人間じゃないみたいになった時に、
瓶っていうのは世俗的真理に属して、
人間も世俗的真理に属します。
でも最高真理であるものは、
不変とか壊れないもの。
まさにそれを壊すことができないもの。
仏っていうのが、生まれ変わりとかあるかもしれないけど、
仏であることは変わらないとか、
いわゆる仏を壊すことができないから、
仏は最高真理に属するんだみたいな。
人間も人間のままだと世俗的真理で、
要は死んでなくなっちゃうとか、
人間は天性で生まれ変わって、
人間とか動物になっちゃうんだけど、
仏の世界に入ると、
永遠のある種苦しみから解放されて、
最高真理の中に生きることができるよ、
存在することができるよ、
そういう真理観とは全然違う?
そうだね。
アビタネマ仏教と世俗的真理
そういうようなことを考えだしますと。
こういう話を聞くと、
結構仏教の哲学的側面というよりは、
結構宗教的側面に目が向く感じがするね、
この話を聞くとね。
そうだよね、比較するとね。
よくも悪くも、
そこの限界というか、
そこの縛りはあるよね、
仏の世界というものがある前提で物事を考えるから。
その中の論議構造がちょっとやばいぐらいに
すごいことになってるって話なんだもんね、
仏教の哲学って。
そこから始めることができるから、
疑わなくていいから、
仏の世界とは何かとか、
そもそも認識できるのかっていうのを、
それこそ2500年くらい積み上げてるわけだよね。
この世界はないと言えるのかってことも、
ちゃんと説明されちゃってるみたいな話。
そうそう、説明できちゃうみたいな。
これもね、
まさに過去を取り上げましたけども、
有意識とか中間派みたいなもの。
心理というのは、
分けるっていう考え方は基本的には同じなんだよね。
まさに今みたいな話で、
最高心理、
空性みたいなもので、
言葉で表現できるの、できないのとか、
そもそも認識するってどうやらみたいな話、
議論されますと。
空性っていうのは、
言語で表現できるんだっていう人もいれば、
表現できるものを超えているんだっていう人たちもいて、
どっちもそれぞれの立場を守って、
教えてるのが続いてるわけなんだよね。
なるほど。
これはそもそも心理があるかとか、
心理って存在認識のどっちがあるかっていうのは、
西洋の流れで全然違うものなんですけど、
空海やりますって言ってるじゃないですか。
空海が面白いなって思うのは、
空海は言語なんですよ。
真言宗って真言の言葉って書くんだけど、
真言の言葉って何かっていうと、
これは仏。
大日如来っていう仏さんの中で、
中心的に位置していると、
密教で言われている仏さんがいるんだけど、
大日如来の言葉っていうのが、
まさにここの最高心理を表現していて、
それを密教では扱うんだ、
みたいな世界観なんだよね。
そうなんだ。
僕らは日本語とか英語とかでは、
空性とか最高心理は表現できないんだけど、
いやいや、もう大日如来が伝った言葉があるじゃないか。
それを我々は修行を通じて、
空海の言葉と存在の真理
体読していくし、教えていくみたいな。
つまり大日如来の心理としての
真言とか、
正しさというものが空海にはあるし、
空海は自分はそれを理解して、
皆さんにお伝えするのだ、
というふうに言っている。
なるほどね。
有意識とか、
ラジオを何回やっても伝えきれないぐらい、
めちゃくちゃ膨大な説明が必要じゃん。
いろんな段階があって、
こういう世界観があってみたいな話をしているけれども、
有意識という言葉を、
この言葉に込められた意味を、
そんな説明なしで、
有意識という時に感覚と直でリンクする、
あ、有意識ね、みたいな、
そういう感覚だよね。
有意識という言葉を返して理解するとかじゃなくて、
有意識という概念をそのまま理解するのだ、
みたいな、
そういうレベルの話をしているのかな、
第2次世代が使った言葉一個一個。
もっと深いんですよ。
ちょっとだけ先立ちすると、
僕もまだ台本を作っているはずなんだけど、
例えば、あ、という音があるじゃない。
あ、という音の中に、
世界とか第2次世代とかが全部含まれている、
みたいな世界。
ちょっともう意味不明だわ。
面白そうだね。
想像を超えている。
想像を超えている。
言葉って僕らはすごく捉われている。
リンゴという言葉がリンゴというものを指すと思っていたんだけど、
有意識という言葉が有意識を指すと思っていたし、
ハヤトはさっきあって言ったもんね。
あっていう音というか言葉というか、
それにも世界が含まれているんだっていう。
なるほど。
それこそあっていうのを言葉と表現するか、
音と表現するか、
そういうレベルの話になってくるんだね。
そうそう。
すごいよね。
やっぱり世界観の深まりがすごいのよ。
そういう意味で言うとね。
さっきも言ったけど、宗教観というと、
土台がありにぶれないで持っているというところの強みだよね。
それは良いか悪いか、正しいか、
それこそ間違っているか、
みたいな話をするのは別としてね。
僕は次は空海すげえって皆さんにお伝えするんだけど、
やっぱり空海だけが正しいっていうのは全然違うし、
そういうのは間違いない。
そういうのは間違いないし、めちゃめちゃ面白いんだけど、
別に空海ラジオになることは多分ないし、
やっぱりその真理っていうのは今見た通り、
そもそも真理という概念じゃなくて、
時代とか場所とかによっても変わり得る。
特に現代は唯一真理っていうのは、
むしろ怖い働きになることも多いじゃない。
そういうことを、
戦争とかもそうだし、
宗教とかも最近もあるけれども、
そういうのはむしろお互いにオープンにしていって、
分かり合おうっていうのは時代の流れかなとは思うから、
だからこそいろんな人がいます、
話がいますっていうのをこうやってお伝えしたい。
でもやっぱり一個一個見るとめっちゃ深いし、
めっちゃ面白いんですみたいな。
そういうのが今日のこういった真理を巡る話からも
お伝えできていると嬉しいなっていう感じですね。
いやー面白いし、
前半の西洋でいうと、
やっぱりアリストテレスすごいなって話をして、
そこから少しずついろんな相対主義じゃない、
別の真理の形みたいなものを多分模索し続けているんだろうなと思うんだけれども、
やっぱり、
じゃあっていうので、
やっぱりいつも思うのはアリストテレス的な、
やっぱり正しいものがあってそれを正しく認識する?
正しく勉強するみたいな。
ハヤトも言ってたじゃない、
幸せっていうものの真理があって、
それを正しく認識することで自分も幸せになれるだろうみたいな。
結構やっぱり感覚的には全然そのままだよね。
こんだけ著名なテツアンクちゃんが
いろいろやってくれてて、
やっぱりそのままだよねって。
全然そんなの知らなかったもん、
このラジオを聞くまでに。
僕らはまだ全然、
そういう世界観というか、
やっぱり感覚型の中で生きているんだけど、
やっぱり時代は変わっている。
先ほど言った通り、
唯一やったのは真理がいいものでもないっていうのは、
200年前くらいから言われている。
感覚としてやっぱりやっと最近そういうのが言われ、
多様性とかSDGsっていうのがどういう文脈で、
何のために誰が得するか、
ために使われているのか知らないけれども、
そういうのが出てくるっていうのも
少しずつ感覚が、
アリストテレスとかプラトン的な、
そこから少しずつ離れてきて、
こういうテツアンク社は残してくれた感覚が
少しずつ現実世界に染み込んできたのかな、
っていう解釈もできるかなって感じなのかな。
そうだね。
でもやっぱりそういうのは本当にあると思う。
プラガマチズム、シャプターサルトルしかり。
確かに100年に100年だとそうかもしれないよね。
そういう人たちがちゃんと勉強をして、
そういう勉強した人から教わった人たちが、
政治とか、
ビジネスとか、
いろんな場所、宗教でも何でもあるけど、
そこで意思決定をしていく立場になるってなると、
結構かかるかもしれないね。
2世代、3世代。
それがいいってわけでもないけどね。
いいのか悪いのか分からないけどっていう話だけど。
分からないけど。
やっぱり時代の流れとしてはそういう風になっているであろう。
そういう風に捉えることができるっていう話だよね。
こういうのいいね。
誰か一人の人を見るとか、
空海の真理
プラグマチズムみたいな思想を見るのも面白いけれども、
こうやって全体観を見るとまた、
視点がちょっと大きくなるし。
確かに確かにね。
例えば哲学もそうだけど、
西洋の中世の
宗教的なところと、
あと今回聞いた東洋。
東洋って丸々仏教だから宗教じゃん。
なんでその仏教が意外と宗教色ないのかな。
宗教ってどう定義するかにもよるんだけれども、
結構やっぱり
これ前も言ったかもしれないかな。
東洋、仏教ってさ、
なんか共同体って感じじゃない?
共同体って感じじゃないもんね。
政治とかさ、人々が集まって、
一つのベクトルに追いやって、
集約して、
みんなで行くぞって感じがしないもんね。
めちゃくちゃ個人的なさ、
営みな感じがするもんね。
そうだね。宗教としてはそう。
やっぱりね、鎮魔国みたいな感じ。
宗教とも密接に関わってくるとかも
あったりするから。
大元はやっぱり
仏陀っていう領の人から始まっている
っていうところも大きいだろうね。
確かに確かに。
鎮魔仏陀でいうとまさに空海とかそのど真ん中の人たちなのかな。
そうそうそう。やっぱりね、
当時の朝廷というか政治とも
関わっているし。
やっぱりその仏教をもとに国を良くしていく
みたいなところともすごくつながりがあるから。
そういう意味ではね、昔の日本の歴史
中みたいなのも含めて
空海はどんな人でとかどういうことをやってとか
っていうところもお伝えしながら
ぜひ楽しんでいただければなと思っている感じですね。
やっぱり西洋はそれで疲れたかなっていう方もいらっしゃると思うので、
空海はもちろん時代に逆行してね。
空海の真理、大日暮らしの真理というものをね、
むしろ独特と皆さんにお伝えしていきたいなと思っております。
わかりました。
次回は空海
ちょっとね、そのすさまじさ
っていうのを見ていきたいと思うので、
次回は空海ですね。楽しみにしていきたいと思いますので、
引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。