荘子の思想とその背景
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回で荘子第2回ということでやっていきたいと思います。
はい、前回ですね、荘子のちょっとなんで取り上げたのかという話もしながらですね、
無用の用っていうキーワードに、荘子の役立つとか世の中のルールにのっとるのがいいことじゃないかっていう、
それを私は主張していた儒教の人たちをね、それと対立するというか批判するような形で、
いやいやそんなガチガチに考えてていいのかい、というところの荘子の立ち位置っていうのが最初だと思うんですよね。
はいはい、だからまずはみんな気づけようみたいなね。
そうそうそう、ここで終わっちゃうとね、兄貴が言ってくれた通り、
例えば世の中役立ってる人がいて、それは実はダメで役立たない方がいいんだとか、
それちょっとカウンターパートに過ぎるようになっちゃうと思うんだよね。
うん、それもまずそうだもんね。
そうね、全員がそんなね、俺も自堕落で役立たなくていいとかってなっちゃうという、それはもちろん良くないんで、社会として。
やっぱりそうじゃあそこのちゃんと社会を良くしていくとか、この戦乱の世、その人が殺し合いをして、
なんかもう主君も暴君もどんどん現れてみたいな、その時代においてどうすれば良い世の中になるかってちゃんと考えてるんだよね。
思っているとどういう生き方をすれば、それはちゃんと自分のある種の安らぎにもなるし、社会の豊かさになるかっていう、そこをちゃんと考えてますと。
おー、あるんだねー。
あるある。で、なった時に、要は役立たない方がいいですじゃなくて、それを乗り越えた全然違う世の中の捉え方があるよっていう風なことを言ってるんだよね。
これが今回お伝えしていく、生物論、万物、性道っていう風なキーワードなんですけど、これちょっと難しいんですよ、やっぱりこれ。
生物論と万物正道
生物論。前回も言ったけれども、一性ではね、みんな一斉に手を挙げるの。性にものだね。
そうですそうです。
生物と。
生物ですね。これは等しい、ものは等しいってことなんですけど、これがね、ちょっと話してみよう、まずは。
兄貴がどこまでイメージ湧くか。
まあいいえ、結構これまでのソレッドスラジオを聞いてくださった方であれば、なんとなくわかるかもっていうところにはなるんじゃないかと思ってるんですけど。
逆に言うと、この300何回聞いた人じゃないとわかんないみたいな、すごいハードルが出た、実は。
そうね、ほんとそう。たぶんね、ちょっと話していくんですけど、初めて聞いても、は?って感じなんですよね、たぶん。
僕も2年前全然わかってなかったんで、それを話していきますよと。
で、これね、どういうことかっていうと、
例えば、何か議論しましょうね、というときに、
例えば僕と兄貴が、じゃあそのご飯はカレーがいいとかラーメンとかって言ったりするじゃないですか。
っていうときに、議論するとどっちかに決まりますよね。
あるいは、じゃあカレーとラーメンじゃなくて、間にあるカレーうどんにしようみたいなさ、
にしようとかっていうときに、これって何が起きてますかっていうと、
ある人事業的に考えると、兄が大事、兄の方が上で、弟はそれに従うべきだから、
例えばカレーにすれば正しいみたいな、そういう記事になるわけだよね。
まあまあ兄に勝てる弟など、そこのよい存在はしないのだっていうね。
そうそうそう、そんなことやっちゃダメよっていう話ね。
今誰が言った言葉か知ってる?今の。
え、誰誰?
北東県のジャギが言ったこと。
ジャギね。4兄弟の話ね。
ジャギのことはちゃんと覚えてなかったけど、
はい、ケンシロウに対してね。
なので儒教はもうそれがルールなわけですよ。
兄に勝る弟などいないというのがもう停止されてますと。
まあまあ確かに春秋戦国時代っぽいもんね、北東県の世界観が。
そうそう、ある意味それはそれで一個も秩序なんだよね。
でも相次いわせると明らかにやっぱり違いますねと、そんな堅苦しいことはないですよって話なんだけれども、
じゃあどうするのってなるじゃないですか。
じゃあ何が正しいのってなった時に、
いやそもそもねと相次いわせると、そもそもそんな風に議論をしてる時点でもうどっちも負けてるんだよって感じなんだよね。
つまり何か自分の正しい、あるいは自分がやりたいことがあってそれをぶつけるっていうので、
要はもうその時点で自分の正しさって主張して、相手をある種復復させようとするみたいな、そういう構図に入ってるじゃないですか。
あーはいはいはい。
なのでそういう風に違いを際立てて、そのどっちかを取ろうとするっていう、その活動自体がもうなんかちゃんちゃらおかしいわみたいな感じなんだよね。
ふんふんふんふん。
で、じゃあどういうことが成り立つかっていうと、そもそもこの万物正道っていう言葉なんだけれども、
これは物事の取り上げ方の資座を10段階ぐらいぐいって上げましょうって話なのよ。
だいぶ上げそうだね、10段階。
だいぶ上げる。10もちょっと適当に言ったんだけども、1段階じゃないんだよね。
どういうことかっていうと、僕らが生まれている生きている世界ってあるじゃないですか、時々言うじゃないですか、目の前にパソコンがあってとかテレビがあってとか、
っていう世界で見ると、当然パソコンはパソコンでマイクはマイクになるわけですよねと。
なのであなたと私も違っていて、あなたはカレーが食べたくて私はラーメンが食べたくて違いますねっていうのなんだけど、
でもこの10段階上げた資座から見ると、全部一緒ですと。
道の観点からの対話
これをある種のTAO、道って言うんだけど、この道の観点から見ると全ては一緒なので、
僕らはこの道の観点っていうのを大事にしながら現実的に生きていく必要がありますよねっていう風に言うんだよね。
言ってることはわかるけどイメージはわかないと思うんですよ。
わかないし、たぶんすげー難しいよなーって思いますね。
そうねそうね。で、例えばそれってどういうことなのって言うと、いろんな例を挙げてるんだけれども、
有名な例で言うと、例えばすごい美女がいますと。美しい女性ね。
そうすると、女性からしてもだと思うんだけど、すごく魅力的だなとかさ、すごく素敵だなって思うわけじゃない?
これは掃除の例?
掃除の例、掃除の例。
それは人間そうなんだけれども、その人が、例えば池に近づいていきますと。
そうすると、要は池にいる鯉は驚いてびっくりして逃げちゃいますよねと。
っていう風に、その美しさみたいなものも、人間にとっての美しさはそうなんだけど、
魚にとっては全然、むしろ美しいとかじゃなくて恐るべき存在だよねみたいな。
っていうようなものがあったときに、その価値観ってもちろん揺れ動けますよねと。
なので、さっき言った正しいどっちカレーかラーメンかみたいな話も、
その2人の中では大事な違いかもしれないけれども、
大きな枠からとらえると、別にご飯食べれるならいいじゃんって人もいるかもしれないし、
あるいは麺類史上主義で、ラーメンしか見た麺という人もいるかもしれないし、
それは人間だけど、別に動物からしたら、そもそも飲みからしたらどっちも食べれないから別にどっちも魅力的じゃありませんみたいな。
そういうこともあるよねと。
いう風に、ある種軸を広げれば広げるほど、細かい違いってどうでもよくなっていくじゃないですか。
で、それを究極的にやり切ったところがある種タオルっていう風なレイヤーがあって、
その観点から見ると、あらゆる違いとか議論とか、税学とか美しい見にくいとかっていうものは、
どっちでも良くなるんですよっていう風に言うんだよね。
まあ話としてはわかるかな。
話としてはわかる。
話としてはね。
じゃあ、これを日常の世界でまた持ってきましょうと。
とはいえさ、僕と兄貴は今議論してるわけじゃん。カレーかラーメンかとかっていうときに。
いやーそうだよ。
で、そこで掃除がやられてきてさ、大きい目から見たらどっちも一緒だからって言われてもさ、いや違うじゃんってなるわけじゃない?
なるよ。腹に入ったら一緒なんだからみたいなこと言われても、いやーってなるよ。
ここをどう繋げますかっていうのがめちゃめちゃ大事なんだよね、当然。
いやーそうだね。そこなかったらなんか本当困る。勝手に言ってることになる。
そうそうそう。なので、これがどう繋がってるかっていう話なんだけれども、
要は別に掃除も人間の欲望とか、何かをしたいっていう欲求とかまでを否定しないんですよ。
それはある種自然のものが大事なんだけど、その議論をしてる中でも、
あなたたちどっちでもいいよねっていう話を、どっちでもいいよねっていうスタンスをちゃんと持ってますかって話なんだよね。
つまり、どうしてもラーメンが食べたいっていう人がいたとしても、
その裏側に、ラーメンでもカレーでもぶっちゃけそんな変わんないよねっていう発想を持ってますかって話なんだよね。
あー、なるほど。とりあえず一回さっき言ったその点というか、タオルか。
そっちのフィルターを通った上でラーメンの話とか、通った上でカレーの話してますよね、みたいなね。
そうそうそう、そういうこと。
つまり、こうやって前回からお伝えしてる授業的なというか、今あえて授業を悪者として言ってますけれども、
パタにハマったみたいな話でいくと、カレーからラーメンから入れたのも別にいいと思うんだけど、
例えば兄が偉くて弟に従うべきですってものを常にやりましょうって時に、
もう僕は一生食べたものは食べれないわけよね、兄貴がいる限り。
うん、確かに。
であると、僕からするとすごく不満じゃん。
っていう時にその秩序をずらしたいわけよね、僕からすると。
でもそれをじゃあ、いやいや俺が食べたいものを食べましょうって言うとただのわがままだから、
それで当時兄貴からしても受けられないわけではね。
うん、っていう時にお互いに一回その他を道まで上がるんですよ。
そうすると当然戻ってきた時に、兄とか弟っていう違いも単純な生まれた時間の差だけだよねとか、
ある種人間が作った順序であって別に道とか天が定めたものじゃないよねみたいな。
そういうところに一回行ってまた降りてこれますと。
あー、はいはいはい。
そうすると初めて僕と兄貴っていうのは対話ができるんだよね。
なるほど、対話ね。
うん、そうそう。
で、なのでそのどっちかが正しい、カレーかラーメンかどっちかが正しいじゃなくて、
なるほど、わかったと。じゃあ今日はお前のあれでラーメン食べるけど明日はカレーだよっていうことがやっと言えるよねみたいな。
あー、確かにそうだね。対話、交渉の余地が生まれる確かに。
そうそうそう。で、いわゆる霊に支配された世界とか、はぐれ者の世界ってそれが成り立たないんだよね、もう。
要は君主が言ったからこうだ、親が言ったからこうだ、それには逆らう理由が全くないんだよね。
でも一回その資座を十段階上げて道まで行くと、ややその違いっていうものも所詮相対的なものだから、
そのあらゆるものが等しいというところを通った上で、もう一回今を生きてみましょうっていうふうな、そういうふうな発想になるはずなんだよね。
あー、なるほど、はいはい。そうか、その前提踏まえないと、確かに勘違いしちゃうかもね、この話。
その前提っていうのは、儒教に縛られた堅苦しいところみたいなところを一回アンインストールしてから、
この多王的な感覚入れましょうっていう順番、そこを理解してないと、なんか変なふうに、ただ抽象的な話してるだけじゃん、みたいな。
そうそうそうそう。結局ね、悟りの世界に行けば全てが豊かだとかっていうのと、別に悟りも悪くないんだけどっていう、ちょっと一般的な理解になっちゃうんだけど、そうじゃないんですよと。
もっと言うと、じゃあこれって儒教とかに縛られた人だけの話なんですか?って言うとそうじゃなくて、
僕らが普段やっぱり生きてる時って、何かを主張するっていうことは、自分の側に正しさがあって、それをある種認めてもらおうとか伝えようっていうふうな発想になるじゃないですか。
もちろんね、お願いとかもあるから、全てが全て自分が正しいと思ってるわけではないと思うんだけれども、
ある種、もっと言うと是非の判断、これは良い、これは悪いとかっていうふうな判断をしようと思った瞬間に、
どっちも正しいとかどっちも間違ってるっていうことがあり得るっていうことがスポンと抜けちゃうんだよね。
荘子と道の概念
なので、そうするとある種、相次から言わせると、これはOK、これはダメっていう発想に縛られてるっていうことは、
その道とか天みたいな全体性から切り離されちゃって、実はすごい窮屈な言い方なんですよっていうふうな発想なんだよね。
なるほど。
なので、常にやっぱりそこと繋がってみましょう。
この道っていうものは相次に言わせると、あらゆるものに繋がっているというか、別にどこか抽象的なところにあるんじゃなくて、
あらゆる存在の根底にはこの道っていうものが充満しているから、
そのありとあらゆるものの中にある道というものをちゃんと感じながら生きていけましょうねっていうふうな、そういう発想になるんだよね。
それは何言ってるかよくわかんないけど、
今回の話でいう授業的なところをアンインストールして、新しいタオル的な感覚をインストールし直したときに、
その感覚を忘れないためのおまじないぐらいの感じなのかな? そのタオはどこにでもあるよみたいな。
そうだね。おまじないというよりは、まずはこれは世界観なので、
タオみたいなものをインストールしてOSアップデートすると、OSチェンジすると、世界が相当しか見えなくなりますよっていうふうな感じかな。
じゃあそこを意識しろよっていうか、自然とそういう感覚になりますよねぐらいの感じなのか。
そうそうそうそう。さっき言った通り、あらゆる善悪とか、そういう価値基準というものをある種なくしていきましょうって話じゃないですか。
そうなると当然、美しいとか醜いっていう美女の話もそうだし、カレーとラーメンどっちっていう話もそうだし、それがもっともっと広がっていくと、
じゃあ例えば自分と相手もそうだし、自分と木とか自分と虫とか、そういうものの区別も全部なくなるよねっていうふうな発想になっていくんだよね。
実はこれが有名な子長の夢っていう話で、夢の中で自分が長女になって、起きたらやや自分は掃除人間だとかって話あるじゃないですか。
っていう時にあえて夢の話をしているとかってことじゃなくて、要は今みたいな他を、道の考え方とかそこの視点からすると、長である自分と人間である自分掃除っていうものは、区別がないんだって話なんだよね。
区別がないっていうのは実はこれめちゃめちゃ難しいというか、僕も理解したときになるほどって思ったんだけど、自分が人間として長をやってるわけじゃないんだよね。
あくまでも長のときは長であった自分でしかなくて、長に変わった、そういう変身したとかってことじゃなくて、長には長のあり方があって、人間には人間のあり方があって、
その根底には道っていうものがあるんだけど、その道との関わり方も長としての関わり方とか、人間としての関わり方とか、そういうふうに変わり方が違うだけであって、道と関わって生きてるっていうその根本的な構造は同じなんだよっていう話なんだよね。
言葉と区別について
そういう表現か、はいはいはい。
中小だけなんだけど、もうちょっと具体で言うと、要は長者とは飛べますよねとか、花の蜜吸っていきますよねっていうのは、ある種人間からすると飛べもしないし、花の蜜おいしくないしみたいな話なんだけど、長にとってはそれがある種ありのまま、前回も言ったと思うんだけど、自然なあり方ですと。
で、人間にとっては、例えば社会の中で生きるとか、何か人と一緒に協力して何かやるとか、別に一人で好きなことやるとかっていうのも自然なあり方ですと。
別にそれはどっちが良い悪いっていうこともないんだよね。
そうね、はいはいはい。
当然、うんうんうん。
だから今のタオの感覚が、一旦タオのフィルター通しましょうみたいな感じのイメージでだと、ありとあらゆるもの、人ともだし、物とも自然ともみたいな、その間の常に土俵を合わせるみたいな感覚なのかなと思った。
あー、なるほどね。
うん。
あ、ねえ、そうか、僕の説明の仕方は順序が悪かったんだけれども、一回タオを通しましょうだと、すごい意識的に後からそうやってる感じじゃないですか。
うんうんうん。
で、僕は今そういう説明をしちゃったんだけれども、
うん。
僕はでもタオっていうのはもうそもそも根本にあるものだから、常にそのタオの上、タオの舞台の上で僕らは生きてるはずなんだよね、本来。
あー、なるほどね。物を見るフィルターとかじゃなくてね。
そうそうそうそう。だから、今の話でいくと、僕らはタオに包まれて生きてますと。
うんうんうん。
でも普段はとか、その自強的なフィルターで生きてるとそれがわからないので、そのフィルター外してOS入れ替えてタオに築きましょうなんだけど、
うん。
そういった後の、いわゆる掃除的な言い方をする人からすると、気づくとかじゃなくて常にあるから。
あー。
もう僕らの前提がそうなので、気づくとか気づかないとかじゃないんですってなっちゃうんだよね。
なるほどね。難しいとこはね、悟った人の後の話を聞くみたいな感じで。
どうしても、その境界?
うんうん。
境界が難しい話というか、そこに至る難しさみたいなものを感じちゃうね。
そうだね。よくあるはしごを外すみたいなさ、これまでよく使ってると思うんですけれども。
僕らは普段タオというものはもちろん意識しないし、区別があると思って生きているから、その世界から掃除の世界を理解しようと思うと、
あ、区別をなくしていくんですねとか、タオっていう世界があって、そこにアクセスしていくといいんですねっていう風になっちゃうんだけど。
方便で教えてほしいよね。じゃないとわからない。
そうそう、わかんないし。だから僕らはそっちに行くんだけど、掃除の立場からすると、そもそもお前もタオの中で生きてるんだからさ、ミチクリが。
うんうんうん。
言われてもわかりませんみたいな、そういう感じになっちゃうんだよね。
そうはね、確かに確かに。今その話になったね、確かに。
そうそうそう。
あやとはタオの世界から話をしてるんだけど。
まあ、そのつもりではあるような感じかな。ちょっと押され多くて。
いや、あやとがそっちを極めたとは言ってないよ。そっちの視点から話をしてる。
うんうん。
されると、そっちの世界にまだちゃんといてない人は、せめてそのフィルターで見ましょうとか、
土俵を合わせるってことですね、みたいな。そういう表現にならざるを得ない。
で、それをある意味身体的に理解するとか、踏み落ちた瞬間を常にその感覚に至るみたいな雰囲気なのかなって思った。
うんうんうん。いやー、本当にそうですね。
いや、兄貴はそこにちょっとあれですね、打ち合わせでもしたんかってぐらいなんですけど、実は実はね、その身体的なアプローチの話をするんですよ。
あははは、あるの?
ある。あるっていうか、そういうことまでちゃんと語ってるのがソウジの良さで。
はいはいはい。
哲学とは言いながらも、言ってると生き方じゃないですか。
うん。
で、やっぱり抽象的に全ては一緒でタオっていうものがあってじゃなくて、それを体得した人ってどんな人なんですか?とか、それを体得するとき何が必要なんですか?みたいな、そういうことを言ってるんだよね。
あー、もう先に言ってよそれ、先に。
いやいやいや、でも多分ね、その抽象が意外とわかんないって思ったけど、これは多分僕の好みの話だな。
まあまあでも、何だろうな、じゃあ逆にさ、それが何かわかんないけどさ、例えばこの、なんだろうな、こう、ソウジ体操をやりますみたいなやつだね。
かねえ。
それ言われたら怪しくて近づけないからね、それはそれで。
確かにね。
で、ソウジ体操を極めれば世界が開けますみたいな言い口だったらちょっと怖いから。
確かにね。
はい、なのでちょっと考え方から言ってるって言ったらそうなんですけれども、なので、えいきんも言ってくれた通りで、やっぱりこのソウジの考え方ってなんだろうな、ちょっとやっぱ普段の僕らの生き方からはあまりにも遠いんですよね。
うーん。
さっき言ったカレーかラーメンかという議論にしてもさ、もっと言うとこの道っていうのは何かっていうと、言葉を超えてますっていう話でやっぱり説明するんですよ。
ほうほうほうほう。
うん。
道とは言葉を超えていて表現できないものだっていう話なんだけれども。
うん。
で、これよくは出てるビットゲーム社員もそうか、やっぱりじゃあ言葉にできないものをどうされますかとか。
うーん。
そもそもそんなものを語れるようなことなんて我々人間できるんですかって話になっちゃうんだよね。
ほう、なるほど。
うん。
っていう意味でいくとやっぱりその身体的なこととか、次回ちょっと先取りすると震災とか座帽っていう話をするんだけど、要は座帽って忘れて座るっていうのを言うんだけど、これはたぶん禅とかにつながっていくんだよね。
ほうほうほうほう。
うん。つまり人間はやっぱり認識能力とか言葉っていうものを使うと世界っていうものを切り刻んでしまいますと。
うんうんうん。
つまりその他を、道っていうものがやっぱりつながれてしまうので、そうじゃない在り方とか、その他を、道と直接つながってる在り方っていうものをやっぱり大事にしましょうっていうような感じになっていくんだよね。
ほうほうほうほう。はいはいはい。
うん。っていうとこはやっぱり難しい。
なるほどなるほど。ある意味言葉にした瞬間、全てに意味が生じてしまうからみたいな。
えっとね、僕は意味をすごく今大事にしてるから、あんまりそう言い切れないんだけど、
はいはいはい。
どちらかと言葉にした瞬間に、その是と非が生まれるからっていうのがたぶん今日の話に近いですと。
へー、なるほど。
時々思うんだけど、じゃあカレーって言った瞬間にラーメンではないってことを意味するしとか、
これが好きって言った瞬間に嫌いなものをやっぱり待ち合わせてしまうしみたいな感じで、切れ目はやっぱり入れちゃうんだよね、世界に。
うんうんうん。
これは認識の時に逆に言うと、カオスな世界って言葉で通常立ててやっていくから、言葉っていうものはもちろん人間に不可欠だというか、絶対必要だっていう話はもちろんあるんだけど、
この相次の捉え方からすると、むしろその言葉によって世界を通常立てている。もっと言うとその儀礼とかさ、ルールとかさ、そういうもので社会を通常立てているから逆に人間はダメになっちゃったんだみたいな。
うんうんうんうん。
タオの感覚の理解
そういうふうな発想で見てるわけだよね。
あー、はいはい、なるほどなるほど、そっか。
うん。
切れ目を入れちゃうというか分けちゃうんだね。
そうそうそう、ね。
これ難しいのが、実は大学の先生と時々勉強してますっていう話をしてると思うんだけど、そこでは似てるようなテーマになって、たぶん僕のテーマがそのあたりに集中してるからなんだけれども、
そもそも言葉で何かを言い表そうとか、何かを伝えようとするスタンス自体がもう一個の構えなんだよね。
ほうほうほうほう。
つまり世界に対して何かを説明できるとか、何かを表現できると思ってるから僕らは言葉にしようとするわけじゃないですか。
あー、はいはいはいはい。
ってなると、世界というものは何らかの形で理解できるっていう大前提を普段僕らは持って生きてるんだよね。
わー、恐ろしい、はいはいはいはい。
ね、うん。でもソウジは、いやそんなことはできない世界があるんだよっていうことを前提として言ってるわけよ。
うんうんうんうんうん。
言葉では理解できない、でも僕らを土台として支えてくれている道という、道としか言えないものがあるんだっていう発想だから。
はいはいはい。
その前提まで突き崩してるんだよね。
ほー、なるほど。ここまで話が至ると、とても面白くも難しい層というか。
はいはいはい。
あれだね、これちゃんと理解してるかわかんないけど、今さ、分けちゃうって言ったじゃん。
うん。
言葉は、世界をこう。それは多分あれだね、今回のタオで言うと、タオを理解してない人が言葉を扱うと分けちゃうっていう話だね。
はいはいはい、そうだね。
でも、タオを理解している人、感じている人が、例えば同じラーメンって言ったとしたり、あとはチョーだよって言ったときのチョーラーメンと、
例えば自分とかが、いや今日ラーメン食べたいなとか、ちょっとチョーチョーでも捕まえに行こうかなって言ったときのチョーは、
たぶん違うものをイメージしてる可能性があるっていう。
はいはいはい。
ラーメンとカレーの哲学
その難しさと面白さをなんか今、タイトルの話から感じた。
なるほどね。はいはいはい。いや、確かに今言ってくれて思ったんだけども、本当にそうで、
たぶんそのラーメンって言って、さっきじゃあラーメンって言う言葉、カレーでないことを意味しますって言ってたと思うんだけど、
たぶん道と繋がってる人のラーメンは、カレーも意味できるんだよね。
たぶんカレーも含む、あとチャーハンも含むというか、
そういうイメージからラーメンっていう言葉を用いてるよね。
そうそうそう。
それがまさに全体と繋がったラーメンであるみたいで。
そうだよね。タオルが感じたラーメンであるのから、
そこが難しいのか。だから、儒教をアンインストールする難しさと、
今、ハエとか言った世の中をわかると思っているっていうものをアンインストールする難しさっていうのは似てるのかもしれないね。
似てると思う。やっぱり前回の最初通り、もともとは陰だと占いとか、シャーマリズム的に、
なんか知らんけど聞こえてきた声に基づいて政治をするみたいな感じなわけじゃん。
この、なんか知らんけどが人間からすると怖いんだよね。
そろそろ最後、坊くんが出て、陰が坊くんが出て、中央だったかな。
で、めちゃめちゃ耳が荒れるらしいんだけど、そんなこと起こしてはいけないって普通の人間は思うわけよ。
まあまあそうだよね。
で、管理しましょうとか、そういう風にならないようにルールを作りましょうとか、予測できるように整えましょうっていうのがあるじゃないですか。
むしろそれが理性的な人間なぐらいにあるんだけど、
それっていうのはすごく、今の話からすると世界観として一段狭くなっちゃったって話なんだよね。
なるほど。
よく僕らも、自然とか言って自然の雄大さに触れるとか、人間の及ばないものに神秘さを感じるとかってあると思うんだけれども、
その神秘みたいなものも、あくまでも僕らが何かを理解できると思っているから、神秘というものを捉えようとするんだよね。
はいはいはい。
そうじゃなくて、それが神秘だということも区別だから、じゃなくてあるんだと、それもね。
で、そのある中で生きていたときに、もしかしたら神秘もだし、別に道に落ちているゴミも同じだよねと。
それを心から言えるかどうかっていう話なんだよね。
はいはい。わー、すごい話だけれども、どうなんだろうな。
こういう事例をさ、さよなら掃除だったらどう捉えるかというかさ、今思いついちゃったんだけど。
オッケーいいよ、プロンプトであなたは掃除ですって掃除として答えてくださいってやつね。
そうそうそうそう。今クリスマスシーズンだから、サンタさんの話ちょっと今したいんだけど、
例えばさ、子供がサンタさんにスイッチ2、任天堂スイッチ2をお願いしましたと。
うんうんうん。
で、楽しみにしてて、朝起きたら入ってたのが3DSだったと。
そうね、はいはい。
で、子供が泣きながらお母さんに、これ3DSじゃんって、僕お願いしたのスイッチ2なんだけどって言った時に、
お母さんは、同じですって言っていいのかなーみたいな。
そういう事ね。
ちょっとラーメンとカレーと似てるじゃん。
似てる似てる。
そういうことが起こるのってどうしたらいいんだろう。
そうだよね、全部同じだとね。
何だろうな。起きないか?掃除はそんな意地悪じゃない?
えっとね、あのね、でも多分それは良い間違い方というか、何だろうな、
別がなくなると結局別のものは同じじゃん。要は任天堂スイッチ2の価値と3DSの価値が同じじゃんっていう風になりがちだと思います。
はいはいはいはい。
それは確かになるんだよね、同じなんですと。
でも、いわゆる、これは僕がね、現実に生きていく中で大事にするとしたらなんだけれども、
当然そのものが持つ意味は変わりますと。
その子供が欲しがっているスイッチ2とそれが手に入ることによる喜びと、3DSであることへの、何だ、絶望と悲しみっていうものは、当然変わってきますよねと。
なので、未知の世界から言ったらどっちも同じなんだけど、現実的な人間関係の世界で言うと違うよねっていう風に言ってあげたい。
あとあれか、さっき話した同じラーメンって言葉を使っても、想像しているものは違うよねっていう話したじゃん、さっき。
タウンロードがあったらと、それを理解していない人。
今の話はあれか、ハエトの話聞いて思ったけど、どっちかというとそれを理解していない人の理屈側の話になってくるのか、それは。
そうだね、うん。
なんくせつきやすいじゃん。じゃあお前も、蝶も同じで言ったじゃん、お前は蝶のように踏み打ちされていいのかとかっていうのは、やっぱなんくせで。
そうだよね、あとラーメンカレーになった時にさ、ラーメンもカレーも一緒なんだから、俺とラーメン食べに行こうぜみたいな。
あー、そうです、どっちでもいいんじゃないみたいな話。
どっちでもいいなら俺に合わせるよみたいなさ。
そうそうそう。っていうのは確かにありがちな、たぶん。
間違いだね、ありがちな間違いか、これは。
だと思う。だから、ちょっともちろんわからないけれども、今のそのソウジっぽい感覚から話すと、何言ってんだよ、3DSとスイッチとは違うだろうってやっぱ思う。単純に。
あー、そのタオの話からしてもね。
タオの話からしても。
はいはいはい。
そう、それは違うものでしょと。
で、そこに答えたいという気持ちがあったのだったら、ちゃんと答えるべきと。
あー、はいはいはい。
別に答えてもいいし、答えなくてもいいし、別にそれはどっちでも良いよねと、親の立場がしたときにね。
子供の立場に立っても別に願ってもいいし願わなくてもいいし、クリスマスにサンタがプレゼントをもらうっていうことも、別にただ今この瞬間、なんかよくわかんないルールのものだから、それに縛られる必要はない。
欲しいんだったらむしろ別に、もっと早くもらってもいいじゃんとか、むしろそういうことも含めて考えたらいいんじゃないって気がする。
なるほどなるほど。
そっかそっか、他の方から考えると、やっぱりそのぐらいまでいくというか、プレゼントをしょぼいものに変更するっていうのはおかしな話だから。
ちゃんと子供の、だったりとかその指揮体でのね、部分からちゃんとアプローチするよねっていう話になるよねっていう感じか、自然と。
わかんない。掃除がそういうかはわからないし、掃除はもっとドラスティックなことを言いそうな気はするのね。
はいはいはい。
面白い、面白いというか、こういう話もあって、奥さんが亡くなった、掃除の奥さん。結婚して子供もいるんだけど、奥さんが亡くなって、掃除の儒教的な感覚でいうと、当然模倣服しますよねと。
慎んで、慎んで暮らしていって、3年くらいかな、模倣服するっていうのがあるらしいんだけど、掃除は死んだ瞬間にドラみたいなのをダカダカダカダカって鳴らして、太鼓かな?鳴らして、すげえ騒げますみたいな、ワイワイみたいにしてますみたいな。
でもさすがに仲良い人も、ちょっとそれさすがにまずくないみたいな、奥さん死んでんだよみたいな話なんだけど、掃除的には、いや別に死ぬのも生きるのも一緒じゃねえかみたいな。
別にそれは、生きてる時は生きてる在り方があって、死んでる時は死んでる在り方があって、でも道なのに繋がっていくことが変わんないから、俺にとってはむしろそういう新しい世界に行ったっていうので、なんかこう、ちょっと新しいことだからむしろいいんだよみたいな、そんな感じのこと言うんだよね。
うーん。
そう、それやられると僕らから受けりにくいじゃん、さすがに。
でもそのエピソードはちょっと強すぎるね、なんか。
そうそうそう。で、やっぱ掃除はそういうことをする人なんだよ。
はいはいはい。
なので本当に掃除だったら多分今の話も、もっと多分破壊的なことを言うと思うんだけど、そもそもプレゼントとかいらんなくね?みたいな話とか、いろんなそもそもが出てくるんだけど。
はいはい。
なんか僕の、いやとはいえ家族も大事やねんとか人間社会で生きるの大事やよねっていうまあ俗人的な発想からすると、さっき言った感じかな。
なるほど。まあそうね、今のエピソードはね、その掃除の人となりを表すものなのか、やっぱり普通の感覚をアンインストールするためのエピソードなのか、みたいなところ。
現実との折り合い
どっちなんだろうな、みたいなのはあるかな。
まあ確かにね、ちょっと演じてる部分もね、なくはなかっただろうからね。
ちなみに、これすごいちなみにだけれども、あの、我が家はもうクリスマスプレゼント渡してますって、あの娘に。
あーそうなんだ、おーちゃんと早めに。
はい。
へー。
これとっての11月の末なんですけど、どうしても欲しいっていうものがあって、なるほどわかったと。
で、待つ意味あるって言ったらない、今すぐ欲しいって言ったのね。
ほうほうほうほう。
じゃあ今渡すわって言って、これ来月のクリスマスプレゼントだよって言って渡した。
サンタさんはどういう扱いになってるの?そっちでは。
サンタさんは、ちゃんとサンタさんとしても一応扱ってる。だからその、ちゃんと夜に来る伝説的な存在がいて、プレゼントくれるよっていう風になってる、一応。
今年はくれないってなったの、じゃあ。
いや今年もあるよ、それは。
え、あるの?
あるある。
じゃあ2回プレゼントがもらえるってこと?
だから親からのプレゼントとサンタさんからのプレゼントは別なのよ、うち。
あーそういうこと?はいはいはい。
そう、そういう発想。だからサンタさんのプレゼントはちゃんとクリスマスの夜に来るけど、親のプレゼントは別に動かせるから。
あーはいはいはいはい。
じゃあ早くもらえるのがいいんだったら早く渡した方がいいんじゃないっていう話をして渡した。
あーなるほどなるほど。だったら納得納得。
Sです。
これもどっちもあると思うのよ、やっぱりクリスマスとかその日を大事にする、誕生日とかさ、なんちゃら記念日を大事にするっていう発想もわかるから、
それをけなしたいわけじゃないんだけど、お互いが合意の上で、結婚記念日とかも1週間くらい平気でずらしたりするんだけどうち。
でもそれはやっぱり一番いいタイミングで楽しんだらいいよねっていう風に思うから、やるよねみたいな、日常に落としたらそんな感じじゃない?
そうはね、それも答えがない話だしね。
あーそうそうそう。
それはなんかわかる気がする。子供にとって1ヶ月って地獄の長さだから。
いや、そうなんだよね。
1ヶ月早くそれをゲットして遊ぶ1ヶ月間の尊さみたいなね。
あーそうそうそうそう。
感じるもんね、それはそれで。自分の場合はそういう風に感じる。
もちろんね、まずことが大事とかさ、それによってやっぱり忍耐力身につけとかっていうものもあるから、
別にそれも全部大事というかね、別にどれも正解だよねっていうような発想なんだけど。
そうはね、それぞれをどこで織り混ぜるかだもんね。別にクリスマスプレゼントで織り混ぜなくてもいいしみたいなね。
そうなんだよね。なのでちょっとまとめに入ってくるんだけど、その掃除の道の話はすごく大きい壮大な話ですと。
うん。
なのでそれをそのまま使おうと思うとやっぱりかなり難しいというか、やっぱり人生観全部変えなきゃいけない?
いやー、だってね、同じ言葉使ってもイメージしてるものが違うみたいなさ。
それ判断できないもんね、自分がどの立場にいるか。
そうだね。だからその悟りと一緒で、悟った人は仏がわかるけど、門人からはわからないって、まさにその感覚なんだよね、この掃除の話も。
でも途中ちょっと開きかけた、世界を理解しようとか世界を表現しようというスタンスすら実は一個の前提であって、より広い前提があるっていうところの違いが伝わっただけでも、今日めちゃめちゃ話良かったなと思ってるんだよね。
次回はそれを踏まえてその世界に築くとか、その世界にあり続けるためのちょっと身体的なアプローチの話をするんだけれども、言っても現実的に考えればそういういろんな正解があるよね。
ルールに縛られることも大事だけど、縛られないという選択肢を持つことも大事だし。
本当に言うと縛られてようが縛られてなかろうが、自分として悠々自的に豊かに生きていれば別にそれでいいんじゃないかっていうふうな、そこまで行き着く話でもあるんだよね。
荘子の観点からの考察
いやーそうだよね。じゃないと前回も話したけれども、俺はルールから逸脱してるのがいいのだみたいな、なるとそれはそれでおかしいしというかね。
そうではないっていうのが結構大事な部分だね。
それもどっちも一緒だっていうその視点ね。
どんな感覚なんだろうね。
いやー難しいよね。
この辺りは次回後半坂でも深めていければいいのかなって思ってるんですけれども。
前回と今回で無用の用と万物制度をやりましたけれども、ちょっとそういう掃除の穴あきだけど別に極端ではないというか、極端なんだけどバランスは取ろうとしてるみたいな。
ちょっと不思議な感じを味わってもらえたんじゃないかと思うんですよね。
まあそうだね。フラットな地点スタートじゃないからどうしてもそうなるんだろうね。
まあそうだね。受け取る側ってことだよね。
そうそうそう。一回上司を崩すとスタートだからそう見える部分も大いにあるんだろうなとは思うね。
そうそうそう。やっぱり最初やっぱり儒教とか儀礼的なもの、目の安定でっていうものはどうしてもあるから。
というところがね、やっぱり面白みだなと僕も今日改めて思ったので、次回以降ですね、また掃除の話を含めながら、
この掃除の世界、ある種道、多応っていうものがあって、すべてが繋がってるとか等しいとか区別がないとか言語を越えているとか、
ともすると何言ってるんだって話なんだけれども、そういう世界のことを少しずつお伝えしながら馴染ませていきたいなと思ってます。
はいはいはい。面白そうだね。だから掃除が言葉だけじゃ難しいみたいなものを、
ちゃんと周りに話したりとか自分が考える中で、それをわかったからこそ、これを折り返すのが難しい。
多分すごい実感したからこそ、じゃあどうするっていう次の話が出てきたんだろうなっていうところがリアリティがあっていいなと思うね。
そうだね。以前もお伝えしたけど、やっぱりこの当時の思想とかって台湾の中で残ってきたりするものだから、
やっぱり掃除が自分の考えをまとめて形にしましたではなく、あの人にはこう言ってる、この人の議論ではこんなふうに証明、
こういうふうに説明してるとか例え話を出してるとかっていうふうなものがあったりするので、そういう意味で面白さもあるかなと思いますね。
はいはい。わかりました。では次回ですね、このタオルの道に入るにはどうすればいいかというところの修了法を見ていくというところで楽しみにしていて。
修了法?修了法ではないんだよな。あり方かな。
あり方なんだ、そっか。わかりました。はい、じゃあそのあたり見ていくというところで楽しみにしていきたいと思います。では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。